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平清盛 #23叔父を斬る

2012-06-10 | ヒストリ:平清盛

まあ特に書く事無いです。

●藤原成親
信西に袖を振り払われた後になんとかしてと清盛が泣きつきに行っていた人。
藤原家成の息子になりますが、この娘、つまり成親の妹が藤原信頼の妻になっており、それなりに近しい関係であったようです。
また、もうひとりの妹が平重盛の妻になっている。
3年後に起こる平治の乱の際、信頼は敗死しますが、成親はこの妹の存在の為に大した処分もされずに終わった。
とはいえ後に俊寛らと打倒平氏を企図した鹿ヶ谷の陰謀が発覚し、遠島になっています。
重盛は嫡男ではありますが、母親やその実家の後ろ盾がない結構難しい立場でした。
その上義兄が平氏打倒の企みに加わっていたので、更に難しい立場に…

●源為義
義朝に船岡山で処刑されたと言う事で。
確か京都の梅小路蒸気機関車館のもう少し西北だったかと思いますが、為義の墓があります。
七条通り沿いにあって、私も京都にいた頃の住所が七条だったのですけど、自転車で移動するにもちょっと距離があってだなー…
義家関係なら迷わず行ったけどな!(^^;
そんなこんなで私はこのお墓には行った事はないんですが、京都の下京には幾らか源氏に所縁のある土地があります。
その辺り、幾つかは今日出て来た左女牛井(さめがい)と一緒にサイトでは既に紹介済。
ぼんやり見ていたのでどういう脈絡で左女牛井が紹介されたのか分からないのですが、この井戸と堀川通りを挟んだ向かい側に源氏累代の屋敷があったんですよ。
六条堀川の館。
そこにこの井戸の水が引き込まれていたと伝わっています。
まあ、名水であったことは確かなようで、茶の湯の村田珠光、織田有楽斎がここの水を使っていたそうです。


 
源氏の六条堀川の方には現在若宮八幡宮という小さな御宮が立っていて、そこの石碑には源義家がここで生まれたと刻まれている。
うーん。八幡太郎は大阪の羽曳野生まれだと思うんだけど……
京都における源氏の拠点だったことには間違いなく、後年源義経の屋敷もここでした。
なので義朝のお屋敷も多分ここだと思う。
 
…申し訳無いもう眠たい!これ書きながら船漕いでる状態なので(まだ10時前…)
今日はここまで!^^;


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