みう と 青

みうと青の共同ブログ。
知ってる人には言えないけど、知らない誰かの通り過ぎる場所で呟きたい独り言があるのです。

この「マナー」からの卒業

2016年12月01日 19時48分55秒 | みう・ばいく&国内旅行
こんばんにゃ

先日、生まれて初めて「写真撮影のための旅」に行ってきました。
to京都&滋賀

景色もキレイで、自分史上最高の紅葉写真が撮れたと思うし、すごく楽しかった。



けど、楽しい話は後回し。
モヤモヤすることがありました。

今回の旅では、非常に多くのカメラマンさん達を見ました。
みなさん「素敵な写真を撮るぞ!」と一生懸命でした。

目的というのは、達成されれば嬉しいし、旅や人生を豊かにしてくれることも多々あると思います。

だけど、目的意識が強すぎると、それに対するハードルが増える。
端的に言えば、邪魔(と感じるもの)が増える。

写真を撮る人は、基本的には無人の状態&良いアングル(場所取り)を好むように思います。

早朝に訪問したお寺は、写真を撮る人たちだけが集まっていました。
そこには暗黙の了解、不文律とも言えるルールがあって、みんながそれを理解しているし受け入れているので、わりと上手く回っていました。

だけど、そういう場所ばかりじゃない。
写真を撮るためにきた人と、観光のためにきた人たちが混ざってる場所も沢山あります。
写真を撮る人同士でも、気合いや国籍などによって認識が異なります。
さっきまで通用してたルールはもう効かないのです。

「カメラを構えている人がいたら邪魔しない」などの理屈は、カメラマン側の主張するマナーでしかありません。

ゆっくり観光したい人からしたら、狭い道いっぱい広がってカメラを構えたまま動かないカメラマンこそマナー違反に感じるかもしれません。

それなのに、自分の目的を(結果的に)阻む人を「マナー違反」と決めつけて、割と本気で邪魔者扱いしてるカメラマンが多数いました。

人にどいてもらう時にも
「すみませんが・・・」
「恐れ入りますが・・・」
などの一言を添えられない人もいました。

カメラマンと観光客の双方に、少数ながら怒鳴る人、他人の傘にわざとぶつかったり、叩いたりする人もいました。(されてる人も悪かっんだけどね)

あの人たちの、あの傲慢さはなんだろう?と考えると、なんとなく
「自分はマナーを守っていますよ」という、妙な自信があるように思えます。

そして、そういう人たちは「マナー」の両脇を「普通」とか「常識」で固めているように見えます。

それは、自分とは違う価値観、違う目的の人たちがいることを想像できなくしてると思います。
あるいは、想像しても「自分の価値観や目的が、より有意義である」と信じて疑わなくさせてしまうのかもしれません。
なんせ「普通」で「常識」ですから。
ゆえに、とても傲慢になる。

そういうのを見てて、すごく嫌な気持ちになりました。

まぁ、自分の目的や価値観を脅かす存在を、あっさり「邪魔」と分類できてしまうマインドは、今の世界の流行にガッツリ乗ってると言えるのかもしれないけれど。


今回、一部の人たちにとっては、マナーってものが、いつの間にか「自分の権利を守るための武器」みたいに変わってしまったように感じました。

それはマナーで、
それは常識で、
こちらはマナーを守ってて、
だから相手も守るべきで、
そうじゃないと不平等で、
そうじゃないと損をさせられる。
ふざけるな。
マナーを守れ!

そんな思考回路?

マナーって言葉がなんだかとても浅ましく感じたのです。


もう「マナー」から卒業して、
そろそろ「思いやり」に移行したいのです。
てか、それってむしろ原点回帰?


マナーの全てが悪いって思ってるわけではなくて、
マナーって言葉を振りかざす前に、少しだけ
「自分だけの正義を拠り所にしてないか」
「自分に都合のいいマナーを押し付けてないか」
省みることが必要だなと思いました。


そのためには、思いやりと一緒に、ちょっとした気持ちの余裕が必要かなと思いました。

今回の旅の中で言うなら、
北野天満宮のもみじ苑で「紅葉とレトロな欄干」という画を狙っていたときのこと。
「無人チャンス到来!」
とシャッターを切った瞬間に、子供が画角に走りこんできたときは、思わず
「ア、アアーーーッッッ!」と声が出て、
ヘナヘナァ(*´Д`*)っと腰砕けになり、
最終的に友達と
「声出ちゃったよ〜」「あははは」
と笑っちゃうような、そんな余裕。

思い通りに撮れない時、おかしなハプニングに見舞われた時、それを笑っちゃえる余裕。

そういう心の余裕のあるお友達と回れて、とっても楽しい写真旅行になったんだにゃあ( ^ω^ )


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