みう と 青

みうと青の共同ブログ。
知ってる人には言えないけど、知らない誰かの通り過ぎる場所で呟きたい独り言があるのです。

目の見えない白鳥さんとアートを見にいくを読んだ

2022年11月22日 23時55分00秒 | みう・映画とか本とか音楽とか

『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』


美術鑑賞は主観的でよい、色々な解釈があってよい、と言いつつ、「(読者も含めての)私たち」という主語を使ってきたり、作品の解釈を断定的に書かれている部分もあり、なんか違和感。

「私にはこう見えた」「私はこう感じた」というのは分かるけれど、「この絵はこういうものだった」などと書かれると、なんだかなぁって感じ。

作品解説本ではないはずなのに、主語が「自分」ではなく「作品」や「人々」となっていたり、しかも自分以外を主語としながら感覚的なことを述べているような部分には押し付けがましさを感じてしまい、読んでいてちょっと辛かった。

本の内容とも矛盾していると思う。


また、美術鑑賞からは離れた部分では、見える人・見えない人などの安易なカテゴライズに対する違和感について書いていたはずなのに、ステレオタイプやバイアスも甚だしい「さすが関西人」「技術者の"男の"人たち」というような表現が頻出するのも不快。


あと、私にとっては文体がややエモすぎる。描いてる方は気持ちよさそうだけど、個人的には読んでてちょっと気持ち悪かった。


作中に出てくる色々な人たちの語る言葉はとても興味深くて面白いのに、それを読んで自分が何かを感じかけても、作者の言葉が怒涛の勢いで塗りつぶしてしまう。

個人的には、そこに出てくる色々な人たちの言葉をもっと"生のまま"で受け止めたかった。

それは作者自身の言葉にも言えることで、ステキだなと思える気づきや着眼点なども、コテコテのエモさでデコレーションされてしまって受け取りにくくなってしまっていた。

なんというか、美味しい生野菜にマヨネーズをぶっかけたようなもったいなさだと思う。


主観と客観の曖昧な使い分けや、エモめの言葉遣いなどの影響か、友人との長電話のような雰囲気で、それが読みやすさとなり、多くの人の支持に繋がり、本屋大賞ノンフィクション大賞を取るに至ったのかもしれないけど、どうしても独善的に感じてしまう。


色んなことのライトな入り口としてはいいのかもしれない。人と人との関わりとか、アートとの向き合い方に新しい視点や気づきを得る読者もたくさんいると思う。

ただ、個人的に目新しい内容はなく(だからこそ登場する個性的な方々の言葉は私にとってはすごく大切だった)、読み物としても私の趣味にも合わなかった。


もしかしたら「エッセイ」や「ブログ」と思って読んでいたら、少しは感じ方も違ったのかもしれない。

(後から著者の紹介を読むと、旅行記やエッセイを書かれている方とのことで、ある意味で納得)

(なお、個人的にエッセイ全般が苦手とか、旅行記・探検記が嫌いということはないです)



余談だけど

ノンフィクション部門ってこれまで気にしてこなかったけど、小説部門に関して言えば、そもそも本屋大賞ってピンとこないことが結構あった。(すごく好きなのもあったけど

本は好きなつもりなのに全国の書店員さんたちとフィーリングが合わないって、なんか寂しいorz



そして更に余談だけど、

美術館の中で喋っているのを注意された時の作者の「美術館はあなたの占有物じゃないんですよ」という内心の反応は、個人的にはどうかしてると思った。

行き過ぎたマナーや同調圧力などに対する息苦しさは自分にも覚えがあるし、もう少し社会が寛容になればという願いも、文字面では共感する。

ただ、彼女が求める「自由」や「寛容さ」は、時々随分と身勝手にも感じられた。


自分は「食べたいものを食べられない」のと「食べたくないものを食べさせられる」のとでは我慢や苦痛の質が違うと思っている。

食べたいものは別の機会に食べたり、別の好きなものを食べたりできるかもしれないけれど、食べたくないものは口に押し込まれた瞬間に終わる。


美術館では一言も喋るなとは言わないが、静かに過ごしたい人のことを無視してはいけないと思うし、(もしかしたら散々我慢した挙句に)静かにしてほしいと言ってきた人の事を「不寛容」の権化のように見なすのは違うと思う。

喋りながら鑑賞したい人もいれば、自力で鑑賞したい人もいるだろうし、目の見えない人がいるように、耳の敏感な人もいるんじゃないかな。


なんか愚痴っぽくなっちゃった。




「表現の不自由展・その後」の、その後はどうなる?

2019年08月05日 23時14分29秒 | みう・映画とか本とか音楽とか


2019年8月の3連休に、あいちトリエンナーレに行く予定だったのだが、その中で開催されていた「表現の不自由展・その後」という展示が、開催3日で中止になった。

もっとも話題になっていたのは「平和の少女像(慰安婦像と誤解している人多数)」の展示だけど、他にも昭和天皇、福島原発、憲法9条、米軍基地などをモチーフにしていたり、何かを「連想させる」という理由で、どこかで展示を拒否されたり、作品を掲載した図録を焼却されたりしたものを集めた展覧会だった。(らしい)

今回の展示は、その作品の主張に賛同(または批判)しているとか、そういうことでは全くないということは、「表現の不自由展・その後」という展覧会名からも明らかだと思う。

作品そのものの是非を問うのではなく、「なぜ展示できなくなったのか」「その対応はどうなのか」「自分はどう考えるか」「誰かはどう考えているのか」「これから表現ってどうなっていったらいいのか」、そんなことを考えるきっかけの場の提供だったんじゃないかと思う。

も う 見 ら れ な い か ら
な ん と も 言 え な い け ど 。

見られなかったことも、考えるきっかけを奪われたこと、残念でならない。

そして、そういう文脈みたいなものを考えもしないで、展示に足を運ぶ前から「NO」を突きつけてる人が多数いるわけで、それってある意味で今回のあいちトリエンナーレのテーマ「情の時代」に通じる部分もある気がする。


表現の自由は憲法でも保障されてるわけで、私みたいに「展示を見たい」っていうのも、誰かみたいに「展示しないでくれ」って抗議するのも、それ自体は自由だと思う。
けど、「自分の希望通りにしなかったら実力行使に出ます」なんてのは表現じゃなくて脅迫だし、脅迫の自由なんてないと思う。
また、ただ「展示はいかがなものか」って言葉にするのも、それが権力者だったら弾圧?検閲?みたいなニュアンスが出てくると思う。
どちらの場合も「力」をチラつかせしまってるってことには、もっと敏感になるべきだと思う。


あと、追いきれてないから不明な部分もあるけど、タチのわるい脅迫もあったってこと、警察とかには届け出ないのかしら?
それとも届出をした上で放置されてるのかしら?

日本では
芸術祭が脅迫されて、
言論の自由が脅かされても、
それでも警察は何もせず、
展示が中止に追い込まれる。

こんなことがまかり通ってるなんて、たぶん諸外国からみたらメチャクチャ恥ずかしいことだと思うし、なんだったら「体制に都合の悪いものに危機が迫っても放置する政権が牛耳ってる」くらいに穿った見方をされても仕方ないと思う。
(今回の件に限らず)

クールジャパンとか五輪とか万博とかも結構だけど、その前にもっと大事にすべきプライドとか矜持ってもんがないのだろうか。

「表現の不自由展・その後」の、その後の日本がどうなるのか・・・。
このクソ展開のあとに、せめて成長があることを切に願います。


ダイアローグ・イン・サイレンス

2018年08月11日 13時25分15秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
ダイアログ・イン・サイレンス
行ってきた。



グループでワイワイ行ったら楽しそう。

でも、自分は正直ビミョーだった。

自分的には
新しい発見や気づき、
ここでしか得られない何か
を期待してだけど、
そういうものは得られなかった。

そして、あまり「楽しい」「面白い」という気持ちにもなれなかった。
なぜだろう?


参加者12人に、聾者のナビゲーター1人という組み合わせ。
雰囲気を良くしようとしてなのか、もともとの個性なのか、聾者ならではの表情・表現なのか、子供ショー的な笑顔とハイテンションにやや気圧される。

無音なので話してる人に注目するのが基本。
説明を聞きつつ周りの様子を伺うとか、あまりできないのだけど、他の参加者の顔をしっかり見るヒマもないまま、他の参加者さんたちとテンションを共有することもないまま、
「では、いきましょー!」
と、そのままスタート。


喋ってはいけない。
ということで、物理的にも心理的にも呼吸が浅い。


1つ目の部屋はアイスブレイクを兼ねてるのかな?な感じの内容。
でも、あんまりリラックスできなかった。
開始早々に動きにダメ出し喰らってる人がいて、ちょっと萎縮してもうた。
なにかを「ダメだよ」「違うよ」と伝える時、健聴者だと最初は笑顔で伝える人が多い気がするけど、ナビゲーターの方は言葉と表情の一致率が高めで、受け手が慣れてなかったりスルー力低めだと、少し落ち込んでしまうかも?


2つ目の部屋では、参加者がお題に沿って表情を作っていく。
男性は比較的のびのびして見えたが、女性はいきなり大勢の前で変顔的なことをするのに抵抗を感じてる人もいるようだった。
また、虫が平気な人や、レモンが好きな人だっているだろうけど、ナビゲーターの想定と大きく違うリアクションをしていると、「うそだぁ」「もう一回」といわれてるのを見て、個人的には作るべき表情に正解がある感じがして少し窮屈さを感じた。

自分も、自分を説明できないから、ホントの自分ならしないであろう(ナビゲーターの期待に沿った)リアクションでやり過ごした部分もあった。


3つ目の体を動かすシーンでは、スペースが窮屈でほとんど動けなかったり、ゲームのルールが伝わり切っておらず、よく分からないまま終わっちゃった感じの人もいたり。ちょっとずつ惜しい・・・。


全員が一番キチンと参加できてる感じがしたのは4つ目の積み木のコーナー。
積み木の完成図を見てる2人が、完成図を知らない2人にそれ伝えて、知らない2人はその情報を元に組み立てるというもの。
全員が状況を把握してて、一番能動的になれてたと思う。


5つ目の部屋でちょっぴり手話をやってサイレンスは終了。


おしゃべり解禁エリアで全員で振り返り。


その後、文庫本サイズの白い本に、各々で好きな色の紙を選んで、ブックカバーをつけたり、本に今日の感想など書き込んで終了。(その本は後日送られ来る予定)


個人的に新鮮味が無かったのは、まぁ仕方ないと思う。
それは本当に人それぞれだから。

けど、イベントとしての改善点はあると思ったので、頼まれもしないのに妄想。


12人は多すぎるかな。
物理的にスペースが窮屈な時があったし、ナビゲーターの目が届いてない人や瞬間もしばしば。
8人くらいが良いかも?

参加者同士(特に知り合い同士で来てる人と、それ以外)を、早めに馴染ませた方がいいかな?とも思った。
簡単な自己紹介(好きな食べ物をサラッとイラストにして見せっことか)とか、知らない人同士の組み合わせでミラーリングとかにらめっことか、なんでもいいけど。
最後の手話コーナーで、近くの人に挨拶したりもあったので、先にそういう感じのことを先にやっても良いかも。

チーム分けするシーンが2回あったが、そこでも「よろしくタイム」がないまま進行してしまい、「同じチーム感」がなかったのは残念。
個人で無音をディープに体感する!とかが狙いならまだいいけど、もしコミュニケーションをテーマにしているとかだったら余計にね。

また、ナビゲーターは聾者で「無音世界のスペシャリスト」「表現力抜群」的に紹介されていたけれど、手話を日常的に使う人とそうでない人とでは、伝わりやすいボディランゲージや表情にも違いがあるように感じた。

更に、全員にきちんと伝わってるかの確認や目配りが足りてない時がちょいちょいあったので、伝え方&伝わってるかの確認は、もっと工夫できそうな気がした。

振り返りも、自分はナビゲーターやスタッフが喜びそうな事しか言わなかった。
率直な言葉はサイレンス。

自分以外の人も立派な事しか言ってなかった。
言われた側も「嬉しい」「感動しちゃう」という感じ。

少しひねくれすぎなのは自覚してるけど、みんなでいい事言って、みんなで意識高い自分たちを認め合って、みんなでいい人ごっこしてるような、お尻ムズムズな感じがして居心地が悪かった。

・・・・・・・・・・

と、まぁ、ここまで書いて思ったのは、これらのジレンマやもどかしさこそ、聾者や外国人など(日本でいうなら日本語でのコミュニケーションに不自由がある人)が感じてるものなのかも?

ちゃんと伝えてよ。
伝わってるか確認してよ。
ちゃんと聞こうとしてよ。
めんどくさがらないでほしいよ。
腫れ物じゃないよ。
優しすぎて気持ち悪いよ。

いや、分からんけどね。
個人差もあるだろうし。

主催者側も、こういう形の反応・発見(?)は狙ってないと思うし。

でも、まぁ、まとまった考えを書くのではなく、考えをまとめるために書くタイプなので、書いて、考えて、よかったかな。
(マヂで危うく残念感ばっかで終わりそうだったので)


ラジオ・コバニ

2018年06月03日 11時25分17秒 | みう・映画とか本とか音楽とか


こんばんにゃ

未曾有の悲劇に見舞われた街で、自分も当事者でありながら、時に寄り添うように、時に鼓舞するように、その街の人たちに向けて何かを発信するっていう行為は、聴いたことのない「女川さいがいFM」を思い出した。
なにもないところから、エイヤ!と始めた放送が、街の人に栄養を与えてる感じ、よかった。

画面はグレーばっかりだったけど、少しずつ色が、カラフルには程遠くても、色が増えてく感じがキュンとする。

前半は、ドキュメンタリーっていうよりもリポートって感じ。生々しさや現在進行形感がすごくて、時間的割合は高くないはずだけど、見てる間も、終わってからも、ずっしりと居座り続ける。

「怒り」「悲しみ」より「やるせなさ」を強く感じた。

解放されたコバニの街に戻ってきた人たちの様子が、泣いたり抱き合ったりして帰還を喜ぶわけじゃなく、テンション低め、本当に大丈夫なのかまだ不安そうで、そんな様子が彼らが置かれてる立場や経験してきたことを、すごく物語ってるように感じた。

映画は希望を感じる終わり方だったけど、自分には不安もすごく大きく残った。

見終わって、渋谷駅に向かって歩いてたらちょいとウルウルしそう。
気合入ってる若者、交差点で写真撮りまくる観光客、少しガラの悪そうな人や、手ぶらの外国人、なんやかんや、みんな好きでここに集まってきてる感じ。みんな気張ってる感じ。
ギャップにやられたっていうか、今の自分と街の密度が合わなくて、水と油の境目で光が曲がるみたいに、うすい膜が張ってる感じのまま電車にたどり着いたよ。

楽しい映画じゃないけど、見てよかった。


RAW 〜少女の目覚め〜

2018年02月16日 18時13分32秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
こんばんにゃ。
噂のRAW、見てきました。

ベジタリアンのジュスティーヌちゃんはとっても優秀。
「神童」なんて言われながら、両親や姉と同じ大学の獣医学部に入学して、寮生活をはじめますが・・・

以下ネタバレます。
絶対ネタバレします。
ネタバレなしには語れないと思います。

あんな古くさい新歓をフランスでは、まだ普通にやっているの?それともあの大学が特殊なの?
という素朴な疑問から、あれよあれよという間に兎の腎臓イニシエーション。
お姉ちゃんは助けてくれないし、蕁麻疹出ちゃうし、やたらお腹空くし、てか「肉、ウマー!」が止まらない。
ハンバーグ(食べてない)、串焼き、生のササミときて、Vワックスからの急展開!


あそこはゾワゾワしました。
モグモグ前は「やめとけ〜!踏みとどまれ〜!」って念じつつ、見てられない(>_<)って感じだったのですが、
いざモグモグし始めたら、半笑いで目が爛々としている自分がいました。
直前までの恐怖が、一線を超えたらテンションが裏返ってしまい、グロいけど目を逸らせなくなりました。
ヤバイですかね?

その後も、お姉ちゃんの当たり屋ハンティングシーンから最後のパパの種明かしまで、キチンとピースが嵌っていって、2度目も答え合わせ的に楽しめる映画かなと思いました。

最後のパパの種明かしは、賛否両論ありそうです。
個人的には好みではなく、
「どーだ!ビックリしただろ!」
と見せつけるようなオチに、少し残念さも感じました。
(そんなに恐れてたなら、あんな学校に入れちゃダメでしょ!ってツッコミも頭から離れないし)

でも、菜食主義として育てるなど、それありきのピースや、だからこそ生きてくる辻褄合わせもあると思うので、蛇足とは言えないかなと。
あの種明かしを見て、パパの愛に痺れた!って人もいると思いますし。

そもそもパパが引いちゃってたら娘たちは生まれてないわけで、この物語も存在しないし、言い換えれば、両親が愛を貫いたせいで一連の悲劇があったわけで、そう思うと業の深い家族だなと。
てか、赤ちゃん時に娘2人とも、よく食べられずに済んだなぁ。


映画を見ながら思い出していたのは、昔なにかで読んだ質問
「もしも自分が食べるなら?」

自分は、
好きな豚より、嫌いな豚。
名前をつけた豚より、つけてない豚。
知ってる人より、知らない人。
嫌いな人より、好きな人。
です。

これは多分、ほとんどの人がお揃いの答えになるんじゃないかなと思っています。
んで、そこには「食べること」「殺すこと」「愛すること」が、本能的なレベルで絡み合ってると思うわけですが(で、それってもうほぼほぼ「生きること」になるんだと思いますが)、この映画もテーマはそこなんじゃないかなと。
カニバリズムはモチーフに過ぎないというか・・・。

なんか、もう映画から離れてるかもですが、人間が持ってる圧倒的な孤独の一因に「食物連鎖からの爪弾き」ってのがあると思ってるんですよね。
どこにもかえれない淋しさみたいな何かがあるなと。

だからってこの映画に対して、愛だの恋だの淋しさだのが真の動機なのであります。Q.E.D.
などとは思ってませんが。


ただ、「食べちゃいたいくらい可愛い」とか「ひとつになりたい」とか口走った事がある人なら、
この映画をどれほどおぞましいと思っていても、その人の中にも1%くらいは、あの姉妹と同じ血が流れているかも?
と、思わないこともないんだにゃあ。

デトロイト

2018年02月09日 23時33分22秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
こんばんにゃ。

「デトロイト」見てきました。
全体的に、予想通りの仕上がりでした。

ネタバレに
なってる
かもしれません。

自分は偉い!的な勘違いバカの恐ろしさを描くのが相変わらず上手でした。

役者さんも本当にクソ野郎で、出てきた瞬間、やらかす前から「よくこんなタチ悪そうな人を見つけてきたな」と思わされる存在感で、序盤から中盤までひたすらクソ野郎なのですが、終盤に裁判所で歌手のリードくんと目があった時のニヤリとした笑いには、改めて背筋が凍りました。
本当にクソ野郎でした(褒めてます)

暴力描写も相変わらず的確で、監督の人間性を疑いたくなります。
見てるだけで消耗します。
アクションに昇華されてない分、カタルシスがなくて、とにかく堪えます。

また、暴力による物理的な痛みだけでなく、やられた人の心や、暴力の近くにいただけの人の心がズタボロにされていく様も、こちらの心を抉ります。

暴力的なシーンがクローズアップされがちな作品、監督だと思われますが、それとは別で、アーティストとしての黒人が興味深かったです。

音楽も消費されてなんぼだとは思われますが、消費者の種類によってはアーティストの誇りまで消費されていきそうな感覚は、やるせないものがありました。
被害妄想的な部分もあるとは思いますが、公民権法が施行されてなお、搾取する側される側的な当時の構図が透けて見えるようでした。

長々と書いてしまいましたが、
もう全ッ然面白くないです。
見てて楽しいことなんて、ほぼ無いです。
(リードくんの歌声くらいです)
でも、たくさんの人に見て、考えて欲しくなる映画でした。

この監督に似合うテーマは、現代にもたくさんあると思います。
でも、あえて1967年の事件を、今、取り上げたって事の意味を考えねば。
ってか、もうみんな分かってるんだから、ちゃんとせねば!
そんな風に思いました。


戦場のメリークリスマス

2017年12月10日 23時16分05秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
こんばんにゃ。

戦場のメリークリスマス、見てきました。
映画はなるべく映画館派の自分としては、午前10時の映画祭は、ホントにありがたい企画です。

大島渚作品は「御法度」しか見た事がなかったのですが、公開当時お子ちゃまの自分は、訳が分からないまま映画館をあとにしました。

今回の戦メリ、やはり自分には少し難解だったと思います。
でも、凄まじい映画だったとも思います。

個人的には、役者が巧いというより、大島渚監督が、その役者がすでに持ってる抽斗を開けるのがすごく上手い人なんじゃないかなと感じました。

セリフや立ち振る舞いなど、どこかこなれていないにも関わらず、コアの部分で迫ってくるものを私は感じられました。

カメラワークもすごく不思議で、
話しかけてる相手が、話が終わるまで一度も映らなかったり、
死を宣告されるときの俯瞰するカメラワークだったり、
アップ長回しだったり、
実際にはよくある手法かもしれませんが、戦メリでは殊更に意味深く見えました。

あのキス、あの笑顔、あの花を食べるシーン、そして2度の「Merry Christmas Mr.Lawrece」、などなど、解釈は無限にあって、落とし所は観客の数だけあると思いますが、その、丸投げ且つ押し付けがましくない感じも、個人的にはとても好きです。

まだ消化中の部分もありますが、ホントにいい映画だったと思います。

プラトーン

2017年10月22日 15時22分29秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
こんばんにゃ。
プラトーン、見ました。

感想というか、見ながら思っていたことは
「バカみたい」
の一言に尽きると思います。

私の不勉強さゆえかもですが、アメリカがベトナムに介入する必然性が分からない自分としては、彼らのしている(させられている)ことの必要性も分からず、とにかく無益に思えて、殺して、殺されて、生きていても人間らしさを失って、「バカみたい。やめればいいのに」と。

この感じは、エリアスさんの「この戦争は負ける。俺たちの国は傲慢に成り過ぎた」というセリフに集約されてる気がしました。

最前線のプラトーンの泥沼の戦いと、政治家や軍のトップの汗をかかないやりとりとの対比で、戦争のやるせなさを浮かび上がらせる戦争映画は割とあると思うのです。
でも、説明的なセリフもほとんどなく、前線を(ある意味淡々と)描写するだけで、こういうメッセージ(と私は受け取りました)を描くのはスゴイなと。
理屈じゃないからこそ、すっと入ってきました。
作品賞受賞も、個人的には大いに納得であります。

それにしても、メインビジュアルが主役のチャーリー・シーンではなかったというのは驚きました。

あと、ミーハーな見方をすると、今でも活躍されてる役者さんがたくさん出ててビックリ!
「あっ!あの人が?あの人も?」と、遠い親戚をテレビで見かけたような気持ちになりました(笑)
個人的に一番ビックリしたのはジョニー・デップです😵
信じがたく、後から確認してしまいました。

あと、めっちゃ余談ですが、実はずっと「プラトーン」ってエイリアンものだと思ってたけど、それはプレデターらしいんだにゃあ(^_^;)

ムーンライト

2017年04月10日 00時26分02秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
こんばんにゃ。
ムーンライト、見てきました。
(2017のアカデミー賞作品賞受賞)



前情報では、黒人で片親でゲイというマイノリティの盛り合わせみたいな主人公が、いじめられてて〜という、ゴリゴリの社会派みたいに聞いていたのですが、実際に見てみたら、すごく普通の映画でした。いい意味で!!

彼の置かれている状況は確かにどちらかと言えばレアだけど、彼が感じているであろうことは、すごく普通で、平々凡々な私でも容易に共感できました。

少数派とか多数派とか性別とか国籍とか貧富とか関係なく、一個人として「分かるよ」って思いました。

そういう意味で「普通の映画」だなと。


でも、金歯がオシャレって感覚はわからなーい(>_<)

あと、黒人の肌の表現がすごくキレイでビックリしました。
メイクなのか照明なのか、薄く油を塗ったような つややかな質感にウットリだにゃあ

牯嶺街少年殺人事件

2017年03月29日 19時01分49秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
こんばんにゃ



牯嶺街少年殺人事件
と書いて
クーリンチェ少年殺人事件
と読むです。

14歳の少年が、同い年の少女を殺した。
という新聞記事を見かけて、
そこから勝手に物語を作ったとの事。
知らんけど。

きっと、分かることを書いたんじゃなくて、
分からないから、知りたいから、書いたんじゃないかなと思う。


25年前の35mmのデジタルリマスター版とのこと。
2200円と、妙に高いが行ってきた。
しかも二回(笑)

行って良かった!
大正解!

画の感じ、すごく好き。
ちょっとした瞬間も美しくて意味ありげで、キュッとなる。
主役のシャオスー、どストライクのビジュアル。大人にならないで〜。
ヒロインのシャオミンはじめ、少年少女が、上手下手はともかく、みんな魅力的でキラキラしてる。

緻密・精密な感じと、
フレッシュ・生ものな感じが、
ギリギリで同居してる感じで、
サラッサラの砂で作ったお城、
プルップルの氷でできた彫刻、
みたいな、
緊張感?あやうさ?
がヒタヒタしてて、
とても良かった。

てか、全然説明できない。
日本語の下手さ、語彙の少なさに絶望orz


最後は「せつない」とか「やるせない」とか「かなしい」に似てるけど違う、名前のつかない感情がヒタヒタしてきて、これまた名前のない涙がツツーーーッと流れるのであります。

ちなみに4時間の長編でした。


ここまで褒めといてアレですが、実は1回目は寝ました。

眠くなるところなんて1秒も無かったのに寝てしまったのは、体調不良&集中しすぎが原因かなと。

よく調べもせず
「2時間ちょいかな?」と思い込み、
「体調イマイチだけど、今日で終わっちゃうし(@川崎)」と強行軍。
始まってすぐ、心掴まれつつも、
当時の台湾情勢がチラつけば「池上さんが解説してた!」とか、
役名のフリガナを見るたびに「四と書いてスー。麻雀読みで良いのね」とか、
「あれ?この人って、さっきの人?」とか、
「今の絵面最高!」とか、
右脳と左脳がフル回転。
そして唐突に寝る。

イメージとしては、ディズニーでテンションぶち上がって遊びまわり、プロジェクションマッピングの直前に寝ちゃう子供orz

二回見て分かったけど、本当に最後の20分くらいだけ寝てたorz

すでにこの映画に人生の中で8時間を割いてるけど、もう一回見に行きたい!
人にオススメはしないけど、いい映画だった。
嗚呼、幸せ

海は燃えている

2017年03月09日 00時29分20秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
船が浮いて見える!って事で有名な、イタリアのランペドゥーザ島。

イタリア領最南端の島で、要するにアフリカにめっちゃ近いヨーロッパ。
年間に島民の10倍の難民が流れ着く島。

その島を舞台にしたドキュメンタリー映画「海は燃えている」
見てきた!

カメラは、島民の静かな日常と、難民の厳しい非日常を交互に映し出すけど、この2つの世界が最後まで交わらないのがすごい。

印象的だったのは、
島のお医者さんの
「悲惨さに慣れることはない」
「世界みんなで救うべき人たちだ」
って言葉。

それから難民が歌ってるシーンでの
「アフリカ人だから助けてもらえない」
って言葉には、トリコロールにばかり染められていった時のやるせなさを思い出してしまった。

島民(漁師)も難民も「生きるために海に出る」わけだけど、言葉にすると同じなのに、その意味合いのギャップが重い。

象徴的だなと思ったのは、島民の少年の弱視。

右目はちゃんと見えていて、大好きなパチンコ遊びでもよく使ってる。
ところが左目はすごい弱視。
けど、使わないから見えなくなっていることにも気づいてない。

その左目は、意識して使うことで、脳に刺激が与えられて視力が回復するとの事で、映画の中の少年は、左目でも物を見る練習を始め、ジワジワと視力が回復してくる。

こんな象徴的な出来事が起こるもんだろうかと思うと、ドキュメンタリーと言いつつ、実は台本でもあるのではないか?とついつい勘ぐってみたり。
(ノンフィクションってのとも違うのかな?)

難民の過酷さや、上陸させる側の手続きなども見られて勉強になった。

この映画を見にきた人たちの中には、そういう部分を主に期待してきた人もたくさんいると思う。
「島民パート、長くない?(いらなくない?)」的な。

でも、もし、この映画が難民パートばかりだったとしたら、
「今世界で起きていることを知りたい」という問題意識の陰にある「悲惨なものを見てみたい」というような(悪趣味だけど多くの人が少しは持っている)好奇心を満たして、泣いたりして、そんな優しい自分に酔って、それでおしまいだったかも。

それだけで終わらずに、こちら側に「当事者意識」を自覚させるのは、島民パートがあるからこそかなと。

寝てる人もいたし、数年前の自分ならウトウトしてたかもだけど、この対比が、この映画を特別なドキュメンタリーにしているんだと思う。

興味のある人には、フラットなテンションで見に行って欲しいなと思う映画でした。

http://www.bitters.co.jp/umi/

沈黙 〜サイレンス〜

2017年02月06日 17時46分18秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
こんばんにゃ。
沈黙 〜サイレンス〜
見てきた。

小説を読んだのが、約20年前だったので、理解力が全然足りてなかったらしく、当時はとにかく「キリシタンを弾圧する日本のお上は酷い!」ってことばっか感じてた。
けど、今回の映画を見て、色々な事への印象が変わった。

やり口は本当に最悪だけど、日本の言い分もそれなりには理解はできる。
「キリスト教そのものが悪だとは思わないんだけど、国をまとめていく上ではちょっと邪魔なのよね〜。
だって、キリスト教の布教を足がかりにして、ヨーロッパの国々が日本の覇権争いとか始めちゃうんでしょ?
そういうのは困るんだわ。
本気で信仰を捨てろとか言わないから、形だけでもいいから棄教、お願いできないかな?」
全部が本心とも限らないけど、そっちの立場じゃそういう考えにもなるかもね。と、ある程度の理解は示せる感じ。

それに対して、パードレがすごく図々しく見えることがある。
「キリスト教は真理だ!真理はいついかなる時も絶対正しい!」
って、おいおい(^_^;)

キリスト教は布教に熱心な宗教ってイメージがある。
「積極的に布教すべし」って教えが(後付けかもだけど)あるようなので、まあ仕方ないのかも?
でも、
「素敵な教えをありがとう」
となるか
「押し売りやめてー!」
となるかは紙一重。
で、やめて派の人達を勝手に憐れんだりしてくるし。
これって、ちょっとウザい。


パードレはさておき、密かに静かに信仰を続けている村のキリシタン達の美しさは妙に染みた。
清潔感皆無で、文化的な雰囲気からは程遠いんだけど、それだけに朴訥で、純で、一途で、静かで、悲しいような美しさがある。
綺麗な着物を着て、巧みに英語を操るお上より、ずっと上品に見えた。

映画を見ていて
「信仰は勝ち負けじゃないし、見せつけるものでもない」
と強く思ったし
「信仰は心の問題」
「人の心に干渉してはならない」
というセリフはしみじみ染みた。

映画の前半は「ひっどいことするなぁ」という感じで、この時代のこの場所でキリスト教を信仰・布教することが、いかに危険で恐ろしいことかを、ビジュアルで見せつけてくる。
が、後半は割とロジカルな展開。
(拷問は相変わらずネチネチと最悪だけど)
ゆえに左脳活動活発で、エモーショナルな展開ではない。はず?

なのに、音楽は一切なく、虫の声、波の音、風の音だけっていうエンドロール見てたら、てか聞いてたら、ぶわーーって目から目水、鼻から鼻水が溢れてきた。
その時ですら左脳活動活発で、頭は色々考えてる。
なのに、体は勝手に反応してる感じ。
なかなかの映画体験。


それにしてもキチジローのキリスト感がハンパない。
窪塚くんって聞いた時から予想してたけど、ほんとビジュアルからハマってる。

開始早々の「あいつはいつもいない」っていう言われようにも「神かよ」と突っ込みたくなる始末。


こういう映画は見る人の背負ってる物によって感想はけっこう変わるのかな?
個人的には何気に普遍的なテーマな気もしたけど。
色んな環境の人たちの感想、聞いてみたいんだにゃあ。

篠山紀信展 写真力

2017年01月23日 00時38分01秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
こんばんにゃ。

「篠山紀信展 写真力」
に行ってきました。




自分は写真を撮るのは好きで、撮ってもらうのも割と好きです。

でも、

カメラは凶器に、写真は暴力に
なることもある。

ってことも忘れちゃいかんと思ってます。

けど、今回の写真展は、
嫌な気持ちになるものは
一枚もありませんでした。


今回の写真は、どれも被写体に対する尊敬の念みたいなものに溢れてるなと感じました。
それは、相手がヌードでも、子供でも、有名人でも、一般人でも変わらない。

そのせいか、写ってる人たちが
みんな自分自身を肯定的に捉えてるように感じて、
そこがすごくグッときた。
不覚にもウルリ。
別に悲しい写真とかじゃないのに。

歳をとって、感性の瑞々しさみたいなものは薄れてきたと感じるけど、経験値と想像力は増してきているみたいで、たまに自分でもビックリするような反応を、自分自身がするのが面白い。

展示枚数は多くないけど、そこも含めて良かったなと。
こっちも全力で観れますね。



それにしても、美術館っていつもお腹すく。
ゆえに、その後のパフェは至福だにゃあ


ファンタスティック・ビースト

2016年12月09日 22時38分00秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
こんばんにゃ

ファンタスティック・ビーストを見てきた。

実はハリポタ、一個もちゃんと見たことない。
いや、一個ぐらいはテレビで通しで見てるかもしれない。
けど、全然ハマらなかった。

映画館では基本的に、吹替版をやってるものは字幕版でも見ない。
自分の中で「吹替版をやってる=お子様向けの作品」と思ってるから。

なのに、なんで今回、ファンタスティック〜を見に行ったんだろ。さっぱり分からない。

が、損した〜(´Д` )とかは全然感じてない。
むしろ、ガツーン!とやられている。
しかし、ガツーン!の正体が分からない。
大事な何かを取りこぼしてるような気がする。
ちゃんと自分で考えなきゃいけない何かを、こっそりポケットに入れられた感じ。
今、自分のポッケから自分の知らないような知ってるような何かが出てきて、「あれ?これって・・・あれ?あれれ?」ってなってる感じ。

ファンタジーだったけど、形而下的現実世界や形而上的自己(って日本語大丈夫?)にすっごくフィードバックしてくるっていうか、鏡写しっていうか、裏表っていうか・・。

考えなきゃいけない何かがあるのに、手がかりに触れられないような、このもどかしさはなんなの?

嗚呼、誰かと話したい。
同じように「あれ?むむ?」ってひっかかってる誰かと、ともに思考試行錯誤で答え探しの旅に出たい。

しかし、あと15分短いと嬉しいにゃあ(^◇^;)


サウルの息子@HTC有楽町

2016年01月27日 23時31分20秒 | みう・映画とか本とか音楽とか
こんばんにゃ

「サウルの息子」見てきた。
ゾンダーコマンドという存在を初めて知った。

アウシュビッツのホロコーストって、ドイツ人がやっていると思ってたけど、実際には自分達の手を汚したくないナチが一部のユダヤ人に、その他大勢のユダヤ人をガス室に入れさせて、死体は燃やさせて、灰を川に流させていたんだと。
(ちなみに、ユダヤ教では死体は生きてた時の姿のまま葬らないと復活できないそうで、燃やすなんてありえないことなのだそう)

そして、ホロコーストの証拠を残したくないナチは、生き証人を残さないために、ゾンダーコマンド達も数ヶ月働かせたら殺してたそう。

そのゾンダーコマンド達が必死で残した記録(写真やメモを瓶に詰めて埋めたり)をもとに作られてる映画。

ちなみにハンガリー映画です。
ハンガリーは当時、ナチに協力していた国だそう。
んで、監督はハンガリー生まれパリ育ちのユダヤ人で、母方の祖父母はアウシュビッツで亡くなったのだそう。

テーマも背景もこれ以上ないほど重い。

同胞を殺し、同胞の死体を最も尊厳のない方法で処理し、最後は自分もそうなる事が決まっているゾンダーコマンドのサウルを主人公に、「逃走中」みたいなカメラワーク、長回しメイン、見たくないものを見る時みたいな背景ぼかし、音は逆にやたら鮮明…という演出で、ドキュメンタリーとも違う異様な臨場感。

物語はある意味、切り取って貼り付けただけとも言えるような作りで、キーとなる謎にもハッキリとした説明はされないし、因果応報とか伏線回収的な「流れ」とか「まとまり」とは無縁。
ゆえに、いわゆる戦争映画らしいカタルシスは全く無い。
「これ見せられてどーしろと?」ってくらい。
だけどグイグイ引き込まれる。

エンドロールが始まって最初に思ったのは「泣くもんか。泣いてスッキリなんかするもんか」ってこと。
そもそも感動的な映画ではないけど「感動してる場合じゃない」って思った。

見た後は友達と小洒落たカフェで語り合ったりなんぞせず、衝撃にやられて、ずっと一人で抱えっぱなしにするのがお似合いな映画かなと思うんだにゃあ