みう と 青

みうと青の共同ブログ。
知ってる人には言えないけど、知らない誰かの通り過ぎる場所で呟きたい独り言があるのです。

優しさは難しい

2014年11月19日 12時20分39秒 | みう・つれづれ
こんばんにゃ

いつから行間を読みすぎるようになったのかな?
と思います。

子供の頃は、言うのも聞くのもストレートでした。
たぶん、周りの子たちよりも、そのストレート期間は長かったと思います。
なかなか成長しないというか、いつまでと空気読まないというか・・・。

でも、だんだん空気とか読めないまでも感じられるようにはなってきます。
が、「どうしてそんなに?」というほど天邪鬼な自分は、読んでも無視とかしてました。

空気を読むより水を差したい。

この病というか性癖は二十歳過ぎまで続きます。
(今でも時々やってしまいますが、昔と違ってウッカリです)

で、なんでそんなに空気を読みたくない、というか、読んでも無視したくなっていたのかというと、幾つか理由があります。

一つは、場の空気が凝り固まっていると、居心地の悪さに我慢できず、水を差したくなる。
これは悪いことばかりじゃないと思ってるけど、上手くできないと逆効果なことが多い気がする。
そして上手くなかったorz

もう一つは「察してチャン」「察してクン」が苦手・・・というか、嫌いだったから。

自分にとって、自分の意見を言うということは、時として勇気がいることだったりします。
そんな自分から見ると、ハッキリ言葉に出さずに自分の意見を通してしまえる「察してチャン」や、うまく察してもらえなかった時も、相手を「察しの悪い奴がいると困るよな~」と言わんばかりの、保身に長けた「察してクン」を見るたびに、かなりズルいというか、ちょっと卑怯というか、すごく羨ましいと思ってました。

だって、自分は上手に「察してチャン」が出来なかったから。
たぶん上手に出来たら、やってたと思います。メッチャやってたと思います。

だけど、大人になる過程で、そういう気持ちはかなり減ってきました。
なぜなら、今でも「読みたくないなぁ」と思わせる人にも出会うけど、そういう人が減ってきたから。
自分の周りにはたくさんの優しい気遣い屋さんがいます。

そーすっと、どういうわけだから「なるべく察して差し上げたい」と思うようになります。
やはり根っからの天邪鬼なのです。

そして、結果として「なんでもいいよ」が苦手になるのです。

「なんでもいいよ」は「なんでもいいわけじゃない」のは有名なお話で、自分は「なんでもいいよ」と言われると、その人の正解を探りたくなる。「かなりいいね」を、見つけたくなる。
たぶん言ってる人も、多くの場合は自分自身の正解が分かってないんだと思います。
「じゃ、ハンバーガーは?」と聞かれて、初めて「それは違う」ってことに気づく。みたいな?

「どっちでもいいよ」も危険です。
こちらは本当にどっちでもいい人も相当数いると思われますが、やはり正解を持っている場合もあります。
しかも、この場合の正解は本人も自覚してるはず(だって二択だし)なので、余計にハードル高いです。

何度となく、この「なんでもいいよ」「どっちでもいいよ」に撃沈する人々を見てきたり、自ら撃沈してきた身としては、これらはかなり怖い言葉です。

もちろん例外もあります。

「自分はどちらのお店も行ったことがあるから、君が選んでいいよ」
「君の方が詳しい分野だと思うから、お任せしてもいいかな?」
などなど、理由のわかる「決めてちょ」は大丈夫。

あと、普段ある程度自分の意見というものを伝えてくれてる人の使う「なんでもいいよ」「どっちでもいいよ」は、大丈夫。重くない。

でも、そういうのばかりじゃないんですよね。
通常の「なんでもいいよ」「どっちでもいいよ」、あるいはそれに似た何かにぶつかった時、自分はいつもプチパニックです。

だって、その人の希望を叶えたい。気持ちを汲み取りたい。そう思うから。
そして、上手に読み取れなかった時、とても落ち込むから。
さらに、上手に読み取れているかの確認がとても難しいから。

「ゆずる」的な優しさは、簡単で楽チンで安全だけど、優しさのようでも時として相手を追い込んだり、息苦しくさせたりすることもあると思う。

だから、自分の意見を伝えてくれる人には本当に感謝してる。
しかも、伝えるけど押し付けたり決めつけたりしない人を尊敬してる。

ありがとうございますますだにゃあ。