本を書く
という事について。
(これは、読まれないことが分かっていて書いている。
出すつもりの無い手紙の中で謝罪をして、勝手にその気になっている。とか
聞かせるつもりのない言葉を思って、勝手にテレパシーで伝わる気になる。とか
自己満足で、ようするにどうしようもない本音だ)
本でも音でも詩でも絵でも
『書きたいものしか書かない。書けない』
という人は沢山居るだろう。
いわゆるひとつのゲイジュツで、いわゆるひとつのタマシイノサケビだから、
それで当たり前。それがカッコいい。と、思っている人も沢山いるのだろう。
それを否定するつもりはない。
いや、肯定する。
が、同時に相反するものも尊敬する。
必要なものを書く。要望に応えて書く。
よくよく尊敬する。
僕は、本でも音でも詩でも絵でも
『なんとなく』では書き出せないと思っている。
少なくとも、ある程度人をひきつけるものは
『なんとなく』では書き出せないと思う。
やはり、そこには作り手の何らかのエネルギーが入っていて、
初めて魅力的になりえると思う。
その我儘なエネルギーだけで作られたものだけが
ゲイジュツでサクヒンで価値あるものだ
と、僕は思わない。
はじめの一歩、自分のエネルギーから生まれた叩き台
の上に、他者の思惑を乗せて形作り、かつ魅力を損なわないものを作り上げる。
これはよくよく尊敬に値する技術であり、職人芸だ。
なんて思う。
そういうことが出来るのは、ある意味プロ的仕事だし
様々な意見、要望、制約を取り込んでなお、失われないカラーがあるというのは
やっぱり才能だと思う。
なにかを作れる人達のことを心から羨ましく思うし
それが自己満足のための物でないなら
心から尊敬する。
これから上手く伝えていきたい。
媚びてるだとか、おべんちゃらだとか思われないように
ウザくならないように
上手に素直に正しく
言葉にしていきたいと思う
が、
ま、
無理だろうな。
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最近は言葉の切れ味が悪く、我ながら気色悪い文章が続いている。
上手下手ではなく、自分の中で昇華しないまま文字にしてしまっている。
いけないと思う。
衝動も目的も自己満足もない文章なんて最悪だ。