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キリシタン受容の構図-『茶会記』に見る茶湯政道

2021-02-25 00:14:43 | 茶の湯

十六世紀 茶の湯に見るキリシタン受容の構図

前田秀一 プロフィール

<本論要旨>は こちらから

1.『天王寺屋會記』に見る茶湯政道

 天文17年12月より、堺の豪商、天王寺屋・津田宗達( ~1591年)は、茶会の日付、場所、亭主、参会者、茶事の様式など茶会に客を招いた場合を『客来茶湯留』(「自会記」)として、また客として招かれた場合を『他所茶湯留』(「他会記」)として日記をつけ始めた。この茶会日記は、宗達〔天文17年(1548)~永禄9年(1566))の後、宗及〔永禄8年(1565)~天正13年(1585)〕および宗凡〔天正18年(1590)~元和2年(1616)〕と津田家三代にわたって引き継がれていった5〕(p443)。奇しくも、『天王寺屋會記』の始まりは、フランシスコ・ザビエルによる異文化(キリスト教)の到来と時を同じくした。
 津田家は、三好一族と茶の湯をとおして親交があり、織田信長(1534~1582)および豊臣秀吉(1537~1598)ら時の為政者の茶頭を務めるなど懇意だったこともあり、これら政権の茶の湯(特に道具類)に関する記録に詳しく、また関係した諸事件についても明確に記し自会記・他会記がそろっているなど史料的価値が高い1,5,6)。特に、武将に焦点を当てた場合、茶会に記された人名は世相を反映し三好政権時代(1549~1569年)と織田・豊臣政権時代(1573~1587年)に大別される。

1)三好政権下、『天王寺屋會記』に見る武将の記録(表‐1)7~9)

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 天文18(1549)年2月11日朝、三好本宗家の縁につながる三好政長(宗三、1508~1549)が「宗三御会」に武野紹鴎(1502~1555)、江州源六、津田宗達を招待したのが『天王寺屋會記』(他会記)おける武将の初見で、その後、亭主が津田宗達、武野紹鴎と変わり三日連続して三好政長が参加した茶会が持たれた。しかし、これを最後に、以後三好政長の名前を見ることができない。
 その後は、1年9ヶ月後の天文20年(1551)11月17日の朝会に津田宗達の招きで河内の大名・畠山氏一族畠山式部将とともに三好豊前守(實休:1527~1562))とその家臣が登場している。引き続き、武将としては三好實休および弟・安宅冬康(1528~1564年)の名前が散見されるが、回を重ねて登場するのは、弘治4年(永禄元年:1558)10月3日、津田宗達が、堺とともに拠点港と位置付けられていた尼崎に滞在する三好長慶(1522~1564)、三好實休および安宅冬康(1528~1564))の兄弟三人を訪ねてからの事であった。
 三好長政が津田宗達らと茶会をもってから間もなくの天文18年(1549)6月24日、江口の戦い(現大阪市東淀川区)で三好長慶(1522~1564)は主筋の管領・細川晴元(1514~1563)に逆らってまで、父・三好元長(1501~1532)を一向一揆で追い込んで堺の顕本寺で自刃に至らせた仇敵・三好政長を討伐した。三好長慶の攻勢を恐れた細川晴元(1514~1563)は第14代将軍・足利義輝(在位:1546~1565)一家を伴って京から近江(坂本⇒堅田⇒朽木)へ退去し細川政権は崩壊した。
 三好長慶は、京都を中心とした求心的な支配構造にこだわることなく、政権の拠点を摂津・芥川山城(1553~1560年)において京都と兵庫津を繋ぐ西国街道、京都と堺を繋ぐ三島路および熊野街道など交通大動脈の支配に重点をおき、細川氏綱(1514~1564年)を傀儡とし管領・細川氏を前提としない実質的な三好政権を打ち建てた。
 弘治2年(1556)6月15日、三好長慶兄弟は父・三好元長が自刃した堺の法華宗・顕本寺で父・三好元長の二十五回忌法要を営み千部教読経を挙げた。その後、弘治3年(1557年)、大林宗套(1480~1568)に帰依していた三好長慶は、父・三好元長の菩提弔いを発願し堺南庄舳松(現堺区協和町)にあった小さな坊院・南宗庵を中之町へ移転し、東西八丁南北三十丁にわたり壮大に造営し大林宗套を開基として南宗寺を建立した。当時の堺の茶人たちは、大林宗套や笑嶺宗訢(1490~1568年)など歴代の住特に帰依して参禅、得度した。
 三好長慶が、自ら拠点とする芥川(芥川山城)ではなく、また出自とする阿波・勝瑞でもなく堺に父・三好元長の菩提寺を選定したのは、茶の湯を活かして堺衆(堺商人)を西国大名に対する外交政策の担い手と位置づけ、さらに堺を三好一族や重臣の宗教的、精神的中核となる宗廟の地とする狙いからであった10)(p264)。
 弘治3年(1557)9月15日昼、宗久(今井)會の記録に松永久秀(1510~1577年)の名前があり、この時点で松永久秀が堺代官を務めた。永禄3年(1560)2月25日朝には、津田宗達を多聞城(築城:1560年)に招いて茶会でもてなしており、松永久秀はその間、堺の代官を務めていたと考えられる。
 三好長慶は歌道に親しみ、連歌もよくしたが、茶の湯を通して堺衆と親しくすることはまれで、茶事は弟の三好實休と安宅冬康に任せていた9)(p1321)。
 三好實休は、永禄5年(1562)3月5日紀伊・河内の守護大名・畠山高政との久米田の戦いで戦死するが、永禄7年(1564)3月5日朝、津田宗達が三回忌に合わせて宗閑、了雲、道巴とともに實休を偲ぶ茶会を開き堺の茶人との親密さがうかがえる。
 一方、弘治3年(1557)9月18日昼、織田信長(1534~1582年)方の使者が津田宗達の茶会席に現れ、清州城主となって堺の繁栄を視野に入れはじめた織田信長の台頭が予見された。
 永禄7年(1564)7月4日、三好長慶が飯盛山城で病死すると、三好政権は三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永弾正久秀に引き継がれたが内紛によった安定せず衰退の一途をたどり茶会記からも名前が消えていった。
 永禄11年(1568)9月、将軍家嫡流の足利義昭(在位:1568~1573年)が織田信長に奉載されて上洛し、10月に第15代征夷大将軍に補せられた。織田信長の功を賞して摂津、和泉、近江など諸国の中で領地を授けようと勧めたが、信長はこれらを辞退し、時の軍政・三好三人衆が治めていた堺および近江草津に代官を置くことを望み許された。
 信長の狙いは、海外貿易拠点としての堺および東海道と中山道が交わり湖上交通の要である近江草津などの交易拠点を手中にすることにあった。織田信長は、軍資として堺に二万貫、石山本願寺に5千貫の矢銭を課した。本願寺・顕如(1543~1592)はその命に応じたが、堺の会合衆は三好三人衆の軍政を頼りこれを拒んだ11)(p211~212)。
 永禄12年(1569)1月6日、織田信長が岐阜に帰った留守中、三好三人衆が京都・本國寺に将軍・足利義昭を襲ったが、義昭方の三好義継(1549~1573)らが三好三人衆を七条桂河邊で破った。本拠地・阿波国から三好三人衆援軍が堺に集まり出陣したことにより騒ぎが大きくなり、信長に攻撃されるという風説が流れ、堺の会合衆は将来とも堺に牢人衆を入れて反抗しないことを誓い、且つ二万貫の矢銭を納めて信長に陳謝して許された11)(p214)。

2)織田・豊臣政権下、『天王寺屋會記』に見る武将の記(表‐2)7~9,12~15)

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 織田信長は敢えてすぐに兵を動かそうとはしなかったのは、能登屋や臙脂屋(べにや)など反目する硬派の会合衆の一方において、これに応じようとした軟派の頭目・今井宗久(1520~1593年)が密かに名物・松島の壺(葉茶壺)と舅・紹鴎所持の茄子茶入れを献じており、その動きを洞察していたのではとの考え方がある。今井宗久が信長の知遇を得たことは、宗久をとおして津田宗及および千利休が紹介され信長に茶の湯を政治的に利用させる契機ともなった11)(p488)。
 「元亀」(元亀4年7月)から「天正」(天正元年7月)へ改元(1573年)し体制のめどが立つと、織田信長は上洛時の宿・妙覚寺(法華宗)と相国寺(臨済宗)などに堺の茶人を招いた。
 天正元年11月23日、妙覚寺の会には、塩屋宗悦、松江隆仙、津田宗及が招かれ、三の膳まで用意され、織田信長は正装で義父・斎藤道三(1494~1556)と縁のある京の町人・不住庵梅雪(村田珠光流:1541~1582))を茶頭にたて手厚くもてなした。
 翌日、天正元年11月24日、相国寺の会には堺の代官・松井友閑(生没不詳)、今井宗久(1520~1593)、千宗易、山上宗二が招かれ、千宗易が濃い茶を点て織田信長に呈茶し、その後、今井宗久が薄茶を点て信長に献上し、信長も一段とご機嫌だったと記されている。
 年明けて天正2年3月24日には、堺衆(堺の商人)10名を相国寺に招いた。『天王寺屋會記』紙背文書によれば、客人として紅屋宗陽、塩屋宗悦、今井宗久、茜屋宗左、山上宗二、松江隆仙、高三隆世、千宗易、油屋常琢、津田宗及の10名の名があり15)、今井宗久、山上宗二、千宗易および津田宗及など当時名声を高めていた茶人4名が含まれていた。お茶の後、今井宗久、千宗易および津田宗及には書院にて名物の千鳥の香炉、ひしの盆、香合が披露された。津田宗及が到着する前に、千宗易と茜屋宗左にはお茶がふるまわれ特別に扱われた。
 天正2年3月26日には、織田信長は臣下の武士とともに堺衆を伴って松永久秀が築いた多聞山城(奈良)に行き、正倉院から運び込ませていた御物の蘭奢待を切り取った。天正2年4月3日、俄かに、相国寺に堺衆を招き、梅雪の手前でもてなし、茶会が終わってから、3月26日に切り取った蘭奢待を扇子にのせてその銘香を楽しみ、宗易と宗及にも分け与えた。
 織田信長は、茶の湯を初めに不住庵梅雪に学んだが、その後、今井宗久、津田宗及および千宗易らを茶頭に取りたて盛大に茶会を開催した9)(p229)。
 先に今井宗久から献上された天下の名器・松島の壺(葉茶壺)や紹鴎所持の茄子茶入れ、さらには、松永久秀から献上された名茶器・九十九髪茄子など茶道具に開眼した信長は、実弟・丹羽長秀(1536~1585)や腹心の家臣・松井有閑に命じて銘品狩りといわれる本格的な茶道具の収集を始めた12)(p97、p103)。これらの名器は一個一城の知行同等と価値づけられ、武功のあった家臣にこれを下賜、また、茶湯の催しを許すなど政治の方便としても用いた。織田信長は、堺の茶匠の指導のもと茶趣味に没頭し、茶湯は単なる遊芸や慰みとは異なり政道(「茶湯政道」)として武将の間に茶湯が盛行する要因となった9)(p229)。
 表-2から、茶湯の会席を許された武将は、荒木村重(1535~1586)が一番早く〔天正5年(1577)4月13日〕、次いで、ロドリゲスにこの道で日本における第一人者と称されたキリシタン大名・高山右近〔天正5年(1577)12月6日〕が許されている。その後は、天正6年(1578)1月11日に明智光秀(1528~1582)、天正6年(1578)10月15日に羽柴筑前守秀吉、天正8年(1580)1月14日に牧村長兵衛(1546~1593)の名前が見える。
 天正5年(1577)12月6日朝、荒木村重は千宗易と津田宗及を客人として茶会を開いていた。千宗易はあつきくさりを持参して荒木村重に贈り、床の「遠浦帰帆の繪」の掛け方を教えた。津田宗及が薄茶を点てるなど荒木村重は千宗易と津田宗及から教えを受けた。
 同じ日の晩(天正5年12月6日晩)、高山右近が宗易と宗及を客人として茶会を開いた。帰りがけに荒木村重から贈られた鴈一つ、たぬき一つおよび炭十荷を千宗易と津田宗及に手土産とした。高山右近は、荒木村重に茶の湯の指南を受け、千宗易と津田宗及を紹介された。
 その後、荒木村重は天正6年(1578)10月12日朝、津田宗及と叔父の津田道叱を招き兵庫の壺の口切でもてなした。翌13日朝には宗及一人を客人として定家之色紙でもてなした。これは、荒木村重が将軍・足利義昭を支援する毛利軍と石山本願寺との戦いで織田軍の形勢が不利となり、摂津国の周囲を敵に囲まれたことから織田政権の命運を見限り、謀反を起こすことを決めた天正6年10月21日12)(p240)の直前、秘蔵の名物の後事を津田宗及とその叔父・津田道叱に託すための特別の茶会であったとの見方がある16)。
 荒木村重の家臣であった高山右近は、自身の妹や息子を人質として差し出してまで荒木村重の謀反を翻意させようと努力したが失敗した。当時キリスト教の布教に理解を示していた織田信長と主君・荒木村重の間で板挟みにあって悩み、尊敬するイエズス会会員オルガンチノ神父に助言を求めた。神父は、織田信長の元に降りるのが正義であると助言を与え、高山右近は、高槻城主の地位を辞し、家族を捨てて織田信長の元に行き、畿内の宣教師とキリシタンの身分を救う道を選んだ20)(p38)。
 戦略拠点・摂津の統一支配者として信じていた荒木村重の謀反にあわてていた織田信長は、政治的に重要拠点である高槻城主・高山右近の決断は、荒木村重の敗北を促す効果があったと高く評価して高山右近に再び高槻城を安堵し、摂津国の半領を与え、キリシタン宗門を保護すると約束した20)(p44)。
 後に(天正12年)、高山右近の熱心な勧めでキリシタンとなる牧村長兵衛は、天正7年(1579)12月8日晩、吉田久二郎の会で津田宗及、本能寺の僧・園乗坊、佐久甚九郎および山上宗二を招いて釜開きを行った。翌天正8年(1580)1月14日朝、津田宗及は織田信長へお礼に参上し、お茶のおもてなしを受けた同じ日の夜、安土にて佐久甚九郎と共に牧村長兵衛の会に招かれ、後に流行することになった「ユカミ(ゆがみ)茶碗」を用いてもてなされた。
 天正10年6月2日、本能寺の変で織田信長が明智光秀の謀反で倒れると、高山右近は羽柴秀吉の配下に入り山崎の明智光秀討伐の戦いでは先鋒を務め、戦勝後の清州会議でその功を認められた。
 天正10年(1582)10月11日、豊臣秀吉は、大徳寺で織田信長の大葬儀を主宰して天下統一の後継者としての地位を固めると、千宗易を茶頭として取りたてて茶の湯へ傾倒し、織田信長の「茶湯政道」を継承した。自らも大坂城、聚楽第および戦陣に茶席を設けるなど茶の湯を生涯の嗜みとして没頭した。
 高山右近は、豊臣秀吉から引き続き茶湯会席を許され、自らも、かつて鳥居引拙が所持していた名物「侘助かたつき」を所持し侘び茶に傾倒した1)(p72)。
 天正12年(1584)10月15日、豊臣秀吉が膠着状態にあった小牧・長久手の戦いへの協力要請を目的として大坂城内座敷で催した茶会には、堺の代官・松井有閑を筆頭に千宗易、今
井宗及、津田宗及、千紹安、山上宗二、万代屋宗安、住吉屋宗無、重宗甫、今井宗薫、山上道七など堺の茶人で商人と共に、細川幽齋、藤田平右衛門、佐久間忠兵衛、高山右近、芝山源内(監物)、古田左介(織部)、中川瀬兵衛子(清秀)、松井新介(康之)、牧村長兵衛(兵部)など武将も含む29名が招かれた。
 天正13年10月、豊臣秀吉が関白となったのを記念して禁中茶会が催され、正親町天皇に茶を献上した関白秀吉の後見役を務めた際に、千宗易は永禄年間(1558~1570年)に南宗寺の大林宗套から与えられていた「利休」居士号を正親町天皇からの刺賜として使用を始め、名実ともに天下一の宗匠となった。

 

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