活動のモチベーション。
20代初めの活動期は、「恋愛」だったと思う。
職場の女の先輩に悩まされていた頃、誘われた会合で発心をした。
自分が変われば周囲も良く変わっていくという指導を聞いてハッとさせられた。
その時は本当にまいっていて、先輩が居なくなればいいのにと、そればかり考えていた。
苦手な人がいるなら、相手が良くなって欲しいと祈ってあげればいいという指導。
半信半疑で祈りはじめたところ、2週間後に先輩が突然入院した。
開腹手術で数ヶ月休み、私はそのあいだ先輩の業務も請け負うことに。
嫌いな先輩と顔を合わせずに済むのはありがたかったが、これってどうなんだろうと戸惑い。
私はそれまで、先輩が殆どの業務をこなしてしまうため、
本当に簡単な事しかさせてもらえなかった(それも不満だった)。
本社から応援をもらい、これまで教わった事のなかった業務をたくさん覚える事が出来た。
長期不在で結果的に先輩のそれまでしてきたことが露見。
職場復帰の翌月、人事異動で先輩は他の営業所へ行くことになり、私の悩みは見事に解決。
仕事を沢山覚え、任されるようになりたい・出来れば先輩は居なくなって欲しい。この2つが
思いもよらない形で叶った事で「これぞご仏智」と思った。
この件を当時の組織担当者に話したところ、是非体験発表して欲しいと頼まれた。
その場で多数の「部のメンバー」に囲まれ初めましてのあいさつをし、
その後なし崩し的に毎週組織の会合に誘われ、出かけるようになり、気づいたらリーダーになっていた。
これが活動デビューのきっかけ。
同時期に幼馴染の彼との再会が地域組織内であった。
彼が頑張ってるんだから私も、と思ったし、活動に出ていれば彼に会える。
これがかなり大きなモチベーションになっていた。
勿論そればかりでは無く、職場から嫌いな先輩は去ったが、新たにやってきた男の先輩に
また悩まされることになり・家族の事でも悩んでいたし、常に悩みは大小あったのでそれを解決
するべく、活動に励んでいた。
組織の馬鹿男幹部のせいで心が折れたが、いま思えばそんなことで折れるくらいだったのだから
私の腹がすわっていなかっただけだと思う。
芯が通ってなかったというか非常に、ふわふわしていた。
25歳以下の頃で学生気分も抜けきっていなかった。
20代後半からのモチベーションは「自身の幸福」
失業がきっかけの再発心で、祈る中で決めた再就職先は数字が常に付きまとう・売り上げが
すべての職場だった。
常に成果を求められる、一日一日が闘い。社員同士は皆ライバル。
長く続けられる仕事ではないと私は考え、5年で寿退職すると入社時に決めた。
当時、つきあっている相手もいなかったのに。
何故そう決めたかと言えば、社内規定で入社5年目からの寿(円満退社)は退職金が良かったから。
結婚のあてなどなかったが、目標を明確に持ち祈る中で活動して行けばこれは必ず成し遂げられる
と、根拠のない自信を持っていた。
結果、5年以上勤務したが、とちゅう抜擢で総務へ異動することになり
数字に追われる仕事は約2年で終わった。
これも私にとっては「ご仏智」以外の何物でもない出来事。
まずそのような異動が行われる事が殆どない会社だったから周囲も驚いていた。
組織はあくまでも「同志の為・先生の為(私は、後者は考えなかったが)」が大前提だったから
「自身の幸福」を中央に据えているなんて事は誰にも言わなかった。
誰でもなく自分の為だと思えば私は何にも惑わされること無く活動に打ち込めた。
友人への対話も、活動も、全部自分の為。
楽しくないことのほうが多かったし、板挟みになって悩む事も多かったが
そこで嫌になる事はなかった。
理由は単純で「全部自分の為」だったから。
相手の幸せも当然願っていたが、すべては自分に還ることだと思えば楽しかった。
相手がどうであれ、重要なのは自分。
綺麗事は不要で現実的に・目に見える「功徳」が重要。
エゴかもしれないが、そう信じていた。
20代後半ー30代の独身時代「こうする」と決めていた自身の目標は殆ど叶えた。
結婚後、それほどモチベーションになるようなテーマもなくなったのと
組織の人達への不信感から活動がどうでもよくなっていった。
けど「信心」は無くしていないと自覚している。
いまは日々の安穏を祈念することがメインだけれども
「自身の幸福」というよりは「家族の無事」に変わった。
20-30代の熱心な活動期も解決しなった・いまだに続く問題が1つある。
それは家族の事。
私の両親は、父親は入会はしていたが未活だった。
父の入会のきっかけは、当時勤務していた先の上司夫妻に懇意にしてもらっていたが
(一人暮らしの父を頻繁に食事に誘ってくれ奢ってもらっていたそう)
いきなりお寺に連れて行かれ、ご授戒をうけたというものだった。
折伏大行進時代の出来事で、父はそれが何なのか分からないまま「巻物」を持って
自分のアパートに帰りそれを開く事も無かったらしい。
(上司夫妻はその後の「信心の指導」はしなかった様子)
後年、母と知り合い、母が父に折伏をしたとき「お寺にいって巻物を貰った事がある」
と話したことで、それが学会に入会したものと知って父はショックを受けたと言っていた。
母は父に信心を教えてあげたいと思い結婚したとの事だが、父としては得体のしれない巻物の
管理(?)を母がしてくれるのならありがたい、という気持ちだったようだ。
そんな父だが、登山会は好きだったらしく年1回行っていた。他の会合には一切出ないのに。
おそらく「霊験あらたか」な、今でいうパワースポットが好きだったのだと思う。
母は専業主婦だったが、夜の活動に一切出ないよう父から言い渡されていた。
理由は母の身内女性で、幹部をやっていて、朝も夜も関係無しに活動に出ていた。
そのせいかどうかはわからないが、子供たちはみな非行に走っていた。
(今現在はおちついた壮年になり幹部となっている人もいる)
父は、自分の子供にそうなって欲しくない・さびしい思いをさせてはいけないと思っていたらしい。
両親の喧嘩の理由はいつも組織だった。
父は、地域壮年の家庭訪問の応対にほとんど出なかった。
(登山会に行くメンバーは趣味の仲間で、その人は別支部の方だった)
母は、ちょっとくらい話を聞いたら?と促すが俺に命令するなという状態。
また、冠婚葬祭でも常にもめていた。
父は会社・地域関係の葬儀に出る事も多かったが、そのたびにいつも房の長いお数珠を持参した。
父方は浄土真宗で祖父母に持たされたお数珠。
母はそれをよく思っておらず、自宗のお数珠を持って行って欲しいといって喧嘩。
父が神社への参詣もしていたこと・祖父母から時折送られてくるお守りや神札を
自室に飾る事も母は大反対だった。
また、父は選挙応援についても解せない、常軌を逸していると批判。
選挙政党がらみの話になると、父は自分なりのしっかりした考えを持っていたので
母の言い分を厳しく切り捨てていた。
だけどいま思えば、父は母の信仰を「容認」しており、昼間の活動にはノータッチ・新聞や書籍が
あっても怒る事も無い、信教の自由を父は認めていたと思う。ただ自分に強要される事を
ひどく嫌っただけで。
母は、解って欲しいと思う気持ちが強かったのだろうが、まったく譲ることが無かった。
それは謗法を強く恐れていたからなのだが、呵責のつもりだったんだろう。
私は小さい頃から母の影響を強く受けていたので、この頃から(この件に関しては)
「わからずやの父が悪い」と思い込んでいた。
でも、私以外のきょうだいは「母が悪い」と思っていた。
そのことがハッキリ露見するのは、私たちがずいぶん大人になってからだった。
20代初めの活動期は、「恋愛」だったと思う。
職場の女の先輩に悩まされていた頃、誘われた会合で発心をした。
自分が変われば周囲も良く変わっていくという指導を聞いてハッとさせられた。
その時は本当にまいっていて、先輩が居なくなればいいのにと、そればかり考えていた。
苦手な人がいるなら、相手が良くなって欲しいと祈ってあげればいいという指導。
半信半疑で祈りはじめたところ、2週間後に先輩が突然入院した。
開腹手術で数ヶ月休み、私はそのあいだ先輩の業務も請け負うことに。
嫌いな先輩と顔を合わせずに済むのはありがたかったが、これってどうなんだろうと戸惑い。
私はそれまで、先輩が殆どの業務をこなしてしまうため、
本当に簡単な事しかさせてもらえなかった(それも不満だった)。
本社から応援をもらい、これまで教わった事のなかった業務をたくさん覚える事が出来た。
長期不在で結果的に先輩のそれまでしてきたことが露見。
職場復帰の翌月、人事異動で先輩は他の営業所へ行くことになり、私の悩みは見事に解決。
仕事を沢山覚え、任されるようになりたい・出来れば先輩は居なくなって欲しい。この2つが
思いもよらない形で叶った事で「これぞご仏智」と思った。
この件を当時の組織担当者に話したところ、是非体験発表して欲しいと頼まれた。
その場で多数の「部のメンバー」に囲まれ初めましてのあいさつをし、
その後なし崩し的に毎週組織の会合に誘われ、出かけるようになり、気づいたらリーダーになっていた。
これが活動デビューのきっかけ。
同時期に幼馴染の彼との再会が地域組織内であった。
彼が頑張ってるんだから私も、と思ったし、活動に出ていれば彼に会える。
これがかなり大きなモチベーションになっていた。
勿論そればかりでは無く、職場から嫌いな先輩は去ったが、新たにやってきた男の先輩に
また悩まされることになり・家族の事でも悩んでいたし、常に悩みは大小あったのでそれを解決
するべく、活動に励んでいた。
組織の馬鹿男幹部のせいで心が折れたが、いま思えばそんなことで折れるくらいだったのだから
私の腹がすわっていなかっただけだと思う。
芯が通ってなかったというか非常に、ふわふわしていた。
25歳以下の頃で学生気分も抜けきっていなかった。
20代後半からのモチベーションは「自身の幸福」
失業がきっかけの再発心で、祈る中で決めた再就職先は数字が常に付きまとう・売り上げが
すべての職場だった。
常に成果を求められる、一日一日が闘い。社員同士は皆ライバル。
長く続けられる仕事ではないと私は考え、5年で寿退職すると入社時に決めた。
当時、つきあっている相手もいなかったのに。
何故そう決めたかと言えば、社内規定で入社5年目からの寿(円満退社)は退職金が良かったから。
結婚のあてなどなかったが、目標を明確に持ち祈る中で活動して行けばこれは必ず成し遂げられる
と、根拠のない自信を持っていた。
結果、5年以上勤務したが、とちゅう抜擢で総務へ異動することになり
数字に追われる仕事は約2年で終わった。
これも私にとっては「ご仏智」以外の何物でもない出来事。
まずそのような異動が行われる事が殆どない会社だったから周囲も驚いていた。
組織はあくまでも「同志の為・先生の為(私は、後者は考えなかったが)」が大前提だったから
「自身の幸福」を中央に据えているなんて事は誰にも言わなかった。
誰でもなく自分の為だと思えば私は何にも惑わされること無く活動に打ち込めた。
友人への対話も、活動も、全部自分の為。
楽しくないことのほうが多かったし、板挟みになって悩む事も多かったが
そこで嫌になる事はなかった。
理由は単純で「全部自分の為」だったから。
相手の幸せも当然願っていたが、すべては自分に還ることだと思えば楽しかった。
相手がどうであれ、重要なのは自分。
綺麗事は不要で現実的に・目に見える「功徳」が重要。
エゴかもしれないが、そう信じていた。
20代後半ー30代の独身時代「こうする」と決めていた自身の目標は殆ど叶えた。
結婚後、それほどモチベーションになるようなテーマもなくなったのと
組織の人達への不信感から活動がどうでもよくなっていった。
けど「信心」は無くしていないと自覚している。
いまは日々の安穏を祈念することがメインだけれども
「自身の幸福」というよりは「家族の無事」に変わった。
20-30代の熱心な活動期も解決しなった・いまだに続く問題が1つある。
それは家族の事。
私の両親は、父親は入会はしていたが未活だった。
父の入会のきっかけは、当時勤務していた先の上司夫妻に懇意にしてもらっていたが
(一人暮らしの父を頻繁に食事に誘ってくれ奢ってもらっていたそう)
いきなりお寺に連れて行かれ、ご授戒をうけたというものだった。
折伏大行進時代の出来事で、父はそれが何なのか分からないまま「巻物」を持って
自分のアパートに帰りそれを開く事も無かったらしい。
(上司夫妻はその後の「信心の指導」はしなかった様子)
後年、母と知り合い、母が父に折伏をしたとき「お寺にいって巻物を貰った事がある」
と話したことで、それが学会に入会したものと知って父はショックを受けたと言っていた。
母は父に信心を教えてあげたいと思い結婚したとの事だが、父としては得体のしれない巻物の
管理(?)を母がしてくれるのならありがたい、という気持ちだったようだ。
そんな父だが、登山会は好きだったらしく年1回行っていた。他の会合には一切出ないのに。
おそらく「霊験あらたか」な、今でいうパワースポットが好きだったのだと思う。
母は専業主婦だったが、夜の活動に一切出ないよう父から言い渡されていた。
理由は母の身内女性で、幹部をやっていて、朝も夜も関係無しに活動に出ていた。
そのせいかどうかはわからないが、子供たちはみな非行に走っていた。
(今現在はおちついた壮年になり幹部となっている人もいる)
父は、自分の子供にそうなって欲しくない・さびしい思いをさせてはいけないと思っていたらしい。
両親の喧嘩の理由はいつも組織だった。
父は、地域壮年の家庭訪問の応対にほとんど出なかった。
(登山会に行くメンバーは趣味の仲間で、その人は別支部の方だった)
母は、ちょっとくらい話を聞いたら?と促すが俺に命令するなという状態。
また、冠婚葬祭でも常にもめていた。
父は会社・地域関係の葬儀に出る事も多かったが、そのたびにいつも房の長いお数珠を持参した。
父方は浄土真宗で祖父母に持たされたお数珠。
母はそれをよく思っておらず、自宗のお数珠を持って行って欲しいといって喧嘩。
父が神社への参詣もしていたこと・祖父母から時折送られてくるお守りや神札を
自室に飾る事も母は大反対だった。
また、父は選挙応援についても解せない、常軌を逸していると批判。
選挙政党がらみの話になると、父は自分なりのしっかりした考えを持っていたので
母の言い分を厳しく切り捨てていた。
だけどいま思えば、父は母の信仰を「容認」しており、昼間の活動にはノータッチ・新聞や書籍が
あっても怒る事も無い、信教の自由を父は認めていたと思う。ただ自分に強要される事を
ひどく嫌っただけで。
母は、解って欲しいと思う気持ちが強かったのだろうが、まったく譲ることが無かった。
それは謗法を強く恐れていたからなのだが、呵責のつもりだったんだろう。
私は小さい頃から母の影響を強く受けていたので、この頃から(この件に関しては)
「わからずやの父が悪い」と思い込んでいた。
でも、私以外のきょうだいは「母が悪い」と思っていた。
そのことがハッキリ露見するのは、私たちがずいぶん大人になってからだった。