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心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

神々からのメッセージ

2010年06月06日 | 雑感
5月30日、靖國神社で執り行われた英霊顕彰祭と青山繁晴氏の講演会へ参加するために、東京へ向かった。曇り空ながら、雨も降らず、参拝の際にはいつもなんとか持ちこたえてくれる。

この日、わたしは特別な思いでいた。靖國神社へは今回で3度目の参拝。初めて訪れた際、奇妙な霊的体験を行ったが、2度目の参拝ではこの霊的体験の答えの確認が目的であり、3度目である今回こそ、正式な参拝だったように思える。

靖國神社の根幹に触れたのは、2度目の参拝の時だった。ここで感じられた事はあくまでも個人的見解であるが、そうだったのかと驚愕した内容も過分にあった。

靖國神社には、合祀された御霊は、ここにはいない。つまり、神様として祀っている御霊はこの場所には留まっていない。留まっているのは、合祀されていない人々を祀っている鎮霊社にいる人々だ。彼らの訴えが最も強く、神殿できちんと祀られている英霊は、靖國神社を約束の場所として通過し、この場所を御霊は窓と捉えている。この窓が御鏡であり、この御鏡を通り、約束の場所での再会を御霊が互いに確認している。

合祀された御霊に対し、生きている者は神として存在していると信じ手を合わせるが、実はそうではなく、合祀されたからこそ、この場所に留まっていないと言う事のようだ。つまり、再会を果たせた英霊の想いは、成就されたため、留まる理由がないからだ。

私たちは、靖國神社に合祀されている御霊がいると信じ、拍手をうっている。しかし、いないとなれば、どうすればいいのか?参拝する意味がないではないか?という愚問を抱いてしまいそうになるが、決してそうではなく、この御鏡こそが、彼らとの窓であり、現世の人々と英霊の方々との交信の場である役割を、靖國神社が果たしている事を忘れてはならないだろう。

こうした背景から、私たちは二礼二拍手一礼をし参拝を行うが、ここでの意識は御鏡に向けることが正しいだろう。我々現世の想いを英霊が合祀される際通過したこの御鏡に、想いを通過させ届ける事が出来る。供養という観点、感謝という想い、二礼二拍手一礼に込めたものは、すべてこの御鏡へと反響させる事が英霊により深く通じるのだと思う。この行いこそ交信である。

では、留まっている鎮霊社にいる人々の強い訴えとは何か。最初のメッセージは、光が欲しいと言う事だった。物理的な光は、確かに求めるだろう。なぜならこの社の周りには大きな樹木が茂っており、日中でも暗い。彼らは暗さを嫌い、光を求めている。社に光を当てることによって、その想いが報われるように思える。そして物理的でない光の意味は、ここを必ず参拝して欲しいということなのかもしれない。本殿よりも隠れた場所にあるこの鎮霊社は、あまり多くの方が手を合わせる事もないのだろう。そうした訴えが、わたしの足を非常に重くさせた。

わたしが2度目に訪れた時、すでにこの事を感じていた。今回の3度目の正式参拝では、まず本殿に手を合わせ、その後すぐにこちらの鎮霊社で強く祈った。

英霊顕彰祭では、風に吹かれながら拝殿から見える樹木を見ていた。鎮霊社のある樹木が祝詞を上げ始めた時から、ゆらゆらと揺れ始めた。やはり、昨年参拝した時と御霊の思いというものは、大きく異なってはおらず、早急にあの樹木のうちの神木は枝のみを伐採し、神木以外はお払いをして幹から伐採をするべきだろう。樹木は気の流れを生み出しつつも、気を阻むこともある。あの場所における樹木の役割は、御霊にとっては癒しではなく弊害な物質でしかないのかもしれない。

靖國神社へ足を運ばれることがあるならば、この鎮霊社こそ最も祈りを捧げなければならない。神殿の大きさではない。想いの強さが重要だからである。真髄である供養という観点からも、発信した方が良いと3度目の参拝で強く感じたため、今日このように書き記した。過分に重たい気持ちでもある。重要なのは、我々ではなく、英霊である。目を向けなければならないのは彼らの抱いている想いだろう。

靖國神社から受けた神々のメッセージは、私個人としてはとても衝撃的であったが、御鏡を窓として通過していたことは何よりも嬉しかった。英霊同士が再会を御鏡で確認している事は、来世への始まりでもあるからだ。

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