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大河ドラマ

2012-12-15 14:28:14 | 用語集
大河ドラマ

この記事の正確性に疑問が呈されています。問題箇所に信頼できる情報源を示して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2007年6月)

ドラマ
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大河ドラマ(たいがドラマ)は、1963年からNHKが毎年違うテーマで制作・放映しているテレビドラマシリーズ。NHK大河ドラマとも呼ばれる。2012年現在で制作・放送されている最新作は字幕放送(NHKの日本国内向けの放送のみ)と、連動データ放送(デジタル総合・BSプレミアムのみ)付きである。
1984年から1986年にかけて放送されたNHK新大型時代劇についてもこの項で述べる。
目次 [非表示]
1 概要
2 名称の由来と変遷
3 歴代大河ドラマ
4 放送時間
4.1 ダイジェスト版
4.2 放送時間の推移
5 今後の大河ドラマ
6 NHK新大型時代劇
6.1 作品
7 備考
7.1 製作費について
7.2 観光への影響
7.3 作品の現存状況
8 関連項目
9 脚注
10 外部リンク
概要 [編集]

主に日本史上の人物や事件などをテーマに、基本的に毎年1月から12月の1年間を通して放映される。なお、実在しない人物が登場することも多く、作品によっては主人公も架空の人物の場合もある。また、昔の人物や事件が多く、時代劇と取られがちだが、厳密には時代劇ではないことにも注意する必要がある。年末には総集編(ダイジェスト版。全部で3、4時間程度)も製作される。作品によっては翌年に放送されたケースもある。以前は総集編が放送された後で全話を再放送することは殆どなかったが、スカパー!の専門チャンネルにおいて全話が放送されたり、NHK BSプレミアムで再放送されたりするケースも多くなってきている。2006年1月には大河ドラマとしては初めて続編が製作、放送された。これは2004年制作の第43作『新選組!』のその後を描いた作品で、大河ドラマでは局長・近藤勇が主役だったが、続編『新選組!! 土方歳三 最期の一日』では副長・土方歳三にバトンタッチし、彼の最期の一日を描いた。
出演者は、通常のドラマでは主役級の男優・女優が共演することが多く、これに名脇役と呼ばれる俳優や舞台俳優・歌手・アイドル・お笑い芸人など多彩なキャストも加わるため、普段は見られない顔合わせがよく見られる。番組初期は五社協定により映画会社所属の俳優はテレビ出演が制限されていたため、新劇の俳優や歌舞伎俳優が多く起用された。第3作『太閤記』では緒形拳、高橋幸治、石坂浩二ら無名の新人俳優が抜擢され、一躍人気スターとなった。五社協定消滅後も、第21作『徳川家康』で織田信長役を演じた役所広司や、第25作『独眼竜政宗』で主演した渡辺謙は番組がきっかけで一躍有名になり、2000年代に入ってからは『北条時宗』に出演した北村一輝や宮迫博之、『新選組!』に出演した山本耕史や堺雅人などが、大河ドラマに出演したことをきっかけとして活躍の場を広げることになった。
第6作『竜馬がゆく』までがモノクロ作品、翌年の第7作『天と地と』からカラー作品となる。第29作『太平記』からステレオ製作。第39作『葵徳川三代』からハイビジョン作品、第49作『龍馬伝』からプログレッシブカメラを使ったフィルム風エフェクトによる収録方式となっている。
通常は年間1作だが、1993年から1994年にかけては第31作『琉球の風』が6ヶ月、第32作『炎立つ』と第33作『花の乱』がともに9ヶ月と短縮型作品が続き、この2年間は年2作品となった。
また、第30作『信長 KING OF ZIPANGU』から第33作『花の乱』までの3年間4作品はNHKの子会社であるNHKエンタープライズに制作が委託されていたが、第34作『八代将軍吉宗』でNHK本社の制作、1年通しての放送に戻された。当初は連続テレビ小説のやり方にほぼ準じて、1年を年度上半期と下半期の半年完結で展開する方針が計画されており、その準備段階として『琉球の風』を1993年1-6月の半年間、『炎立つ』は1993年7月-1994年3月という変則体制にし、それ以後は4月・10月にそれぞれスタートする半年間のシリーズとする計画で『花の乱』もこれに則って1994年4月開始としたが、この計画が不評だったためか、『花の乱』も1994年12月までの放送という形にし、『八代将軍吉宗』以後は元の1月開始・12月終了の1年1シリーズに戻されている。
2009年から2011年にかけて、当初「21世紀スペシャル大河」として企画されていたスペシャルドラマ『坂の上の雲』が1話90分・全13話で放送された。そのため、第48作『天地人』から第50作『江~姫たちの戦国~』までの3作品は11月で放映が終了している。
NHK出版からの「大河ドラマ・ストーリー」や関連書籍も出版され、ビデオ・DVDなどで映像ソフト化もされている。ただし1970年代中期までの作品は全話を見ることがほとんど不可能で、映像が現存しても総集編かクライマックスの回、あるいは最終回程度しか現存していない場合が多い。当時はVTRの録画が2インチ規格でテープの単価が高く操作・編集も煩雑だったことに加え、著作権に関わる問題も多く、番組の資料保管やソフトの販売は安易に行えなかった。全話ソフト化された作品のうち最も古いものは1976年制作の『風と雲と虹と』である。
全般的に前半はロケシーンが多く、中盤にクライマックスがあり、後半は登場人物も徐々に減少し(序盤から登場していた人物が死ぬため)、スタジオ撮影のシーンが多くなるのが特徴である。合戦シーンなどではコンピュータグラフィックス(CG)を用いることも多いが、出演者のスケジュールの都合により使用せざるを得ない場合もある。また「大坂城」や「屋敷門の炎上」、「関ヶ原の戦い」など、過去の作品で使用した場面が何度も使われるケースもよくある。題材となる人物やテーマに所縁のある地方とタイアップする事も多い。
初期作品から井伊直弼、原田甲斐、平清盛、平将門、柳沢吉保、北条政子、足利尊氏、徳川家康、日野富子等々、一般的には歴史上ネガティブなイメージを持たれた人物を主人公に据え、新解釈によってその人物の人間的側面を掘り下げて魅力的に描く手法(そういった原作を採用する事)が度々採られてきた。一方、主人公をヒーロー/ヒロインまたは現代的感覚を持った人物として描こうとするため、その人物の暗い側面に関しての描写が曖昧であったり、歴史学上の定説と離れた演出がなされることも多い。このことに関し、NHK側は「大河ドラマはドキュメンタリーではなくあくまでドラマであり、演出も必要である」と述べている。
名称の由来と変遷 [編集]

現在第一作とされている『花の生涯』放映開始時には、「大型時代劇」という名称で呼ばれていたが、同枠のドラマが本数を重ね、さらに次第に歴史ドラマとして注目されるようになると「大型歴史ドラマ」の名称が用いられるようになった[1]。シリーズ15周年を記念して発売された2枚組LPレコード『NHK大型歴史ドラマの15年 花の生涯から花神まで』(ポリドール)のタイトルにもそれが現れている。一方、第二作の『赤穂浪士』放映時には読売新聞が『花の生涯』と『赤穂浪士』を「大河小説」になぞらえて「大河ドラマ」と表現し、その後一般でも「大河ドラマ」の名称で呼称されるようになった。1977年(昭和52年)3月、NHKでシリーズ15周年記念番組『大河ドラマの15年』を放送。これがNHKが公式に「大河ドラマ」の名称を用いた最初である。その後、1978年の『黄金の日日』の頃には「大河ドラマ」の名称が定着し、レコードや書籍にも「大河ドラマ」の名が使われるようになり、やがて本放送時にも「大河ドラマ」とシリーズ名が明示されるようになった。なお 「大河ドラマ」という表記自体が大河ドラマでテロップもしくはそれに準ずる形で初めて登場したのは『北条時宗』の副音声解説である。テロップでは『利家とまつ~加賀百万石物語~』の冒頭、オープニングタイトルでは『龍馬伝』からである。
歴代大河ドラマ [編集]

詳細は「歴代大河ドラマの一覧」を参照
放送期間: ※=9か月間、☆=1-6月、★=1-11月(他は1-12月)。
主人公: 太字=女性。*=架空の人物。
タイトル 年 原作 脚本 時代 主人公 主演
1 花の生涯 1963※ 舟橋聖一 北条誠 幕末 井伊直弼 尾上松緑
2 赤穂浪士 1964 大佛次郎 村上元三 江戸元禄 大石内蔵助 長谷川一夫
3 太閤記 1965 吉川英治 茂木草介 戦国 豊臣秀吉 緒形拳
4 源義経 1966 村上元三 村上元三 平安 源義経 尾上菊之助
5 三姉妹 1967 大佛次郎 鈴木尚之 幕末 永井家 三姉妹
(むら るい 雪)* 岡田茉莉子
藤村志保
栗原小巻
6 竜馬がゆく 1968 司馬遼太郎 水木洋子 幕末 坂本龍馬 北大路欣也
7 天と地と 1969 海音寺
潮五郎 中井多喜夫
須藤出穂
杉山義法 戦国 上杉謙信 石坂浩二
8 樅ノ木は残った 1970 山本周五郎 茂木草介 江戸前期 原田甲斐 平幹二朗
9 春の坂道 1971 山岡荘八 杉山義法 江戸初期 柳生宗矩 中村錦之助
10 新・平家物語 1972 吉川英治 平岩弓枝 平安 平清盛 仲代達矢
11 国盗り物語 1973 司馬遼太郎 大野靖子 戦国 斎藤道三
織田信長 平幹二朗
高橋英樹
12 勝海舟 1974 子母澤寛 倉本聡
中沢昭二 幕末 勝海舟 渡哲也
→松方弘樹
13 元禄太平記 1975 南條範夫 小野田勇
小幡欣治
土橋成男 江戸元禄 柳沢吉保 石坂浩二
14 風と雲と虹と 1976 海音寺
潮五郎 福田善之 平安 平将門 加藤剛
15 花神 1977 司馬遼太郎 大野靖子 幕末 大村益次郎 中村梅之助
16 黄金の日日 1978 城山三郎 市川森一
長坂秀佳 戦国 呂宋助左衛門 市川染五郎
17 草燃える 1979 永井路子 中島丈博 平安 - 鎌倉 源頼朝
北条政子 石坂浩二
岩下志麻
18 獅子の時代 1980 なし 山田太一 幕末 - 明治 平沼銑次*
苅谷嘉顕* 菅原文太
加藤剛
19 おんな太閤記 1981 なし 橋田壽賀子 戦国 - 江戸 ねね 佐久間良子
20 峠の群像 1982 堺屋太一 冨川元文 江戸元禄 大石内蔵助 緒形拳
21 徳川家康 1983 山岡荘八 小山内美江子 戦国 - 江戸 徳川家康 滝田栄
22 山河燃ゆ 1984 山崎豊子 市川森一 昭和 天羽賢治*
天羽忠* 松本幸四郎
西田敏行
23 春の波涛 1985 杉本苑子 中島丈博 明治 - 大正 川上貞奴 松坂慶子
24 いのち 1986 なし 橋田壽賀子 昭和 岩田(高原)未希* 三田佳子
25 独眼竜政宗 1987 山岡荘八 ジェームス三木 戦国 - 江戸 伊達政宗 渡辺謙
26 武田信玄 1988 新田次郎 田向正健 戦国 武田信玄 中井貴一
27 春日局 1989 橋田壽賀子 橋田壽賀子 戦国 - 江戸 春日局(おふく) 大原麗子
28 翔ぶが如く 1990 司馬遼太郎 小山内美江子 幕末 - 明治 西郷隆盛
大久保利通 西田敏行
鹿賀丈史
29 太平記 1991 吉川英治 池端俊策
仲倉重郎 鎌倉 - 室町 足利尊氏 真田広之
30 信長
KING OF ZIPANGU 1992 田向正健 田向正健 戦国 織田信長 緒形直人
31 琉球の風 1993☆ 陳舜臣 山田信夫 戦国 - 江戸 楊啓泰* 東山紀之
32 炎立つ 1993-
1994※ 高橋克彦 中島丈博 平安 藤原経清
藤原清衡
藤原泰衡 渡辺謙
村上弘明
33 花の乱 1994※ なし 市川森一 室町 - 戦国 日野富子 三田佳子
34 八代将軍吉宗 1995 なし ジェームス三木 江戸享保 徳川吉宗 西田敏行
35 秀吉 1996 堺屋太一 竹山洋 戦国 豊臣秀吉 竹中直人
36 毛利元就 1997 永井路子 内舘牧子 戦国 毛利元就 中村橋之助
37 徳川慶喜 1998 司馬遼太郎 田向正健 幕末 徳川慶喜 本木雅弘
38 元禄繚乱 1999 舟橋聖一 中島丈博 江戸元禄 大石内蔵助 中村勘九郎
39 葵徳川三代 2000 なし ジェームス三木 江戸初期 徳川家康
徳川秀忠
徳川家光 津川雅彦
西田敏行
尾上辰之助
40 北条時宗 2001 高橋克彦 井上由美子 鎌倉 北条時宗 和泉元彌
41 利家とまつ
~加賀百万石物語~‎ 2002 竹山洋 竹山洋 戦国 前田利家
まつ 唐沢寿明
松嶋菜々子
42 武蔵 MUSASHI 2003 吉川英治 鎌田敏夫 戦国 - 江戸 宮本武蔵 市川新之助
43 新選組! 2004 なし 三谷幸喜 幕末 近藤勇 香取慎吾
44 義経 2005 宮尾登美子 金子成人 平安 源義経 滝沢秀明
45 功名が辻 2006 司馬遼太郎 大石静 戦国 千代
山内一豊 仲間由紀恵
上川隆也
46 風林火山 2007 井上靖 大森寿美男 戦国 山本勘助 内野聖陽
47 篤姫 2008 宮尾登美子 田渕久美子 幕末 天璋院(篤姫) 宮あおい
48 天地人 2009★ 火坂雅志 小松江里子 戦国 直江兼続 妻夫木聡
49 龍馬伝 2010★ なし 福田靖 幕末 坂本龍馬 福山雅治
50 江 ~姫たちの戦国~ 2011★ 田渕久美子 田渕久美子 戦国 - 江戸 江 上野樹里
51 平清盛 2012
放送中 なし 藤本有紀 平安 平清盛 松山ケンイチ
52 八重の桜 2013
予定 なし 山本むつみ 幕末 - 新島八重 綾瀬はるか
53 軍師官兵衛 2014
予定 なし 前川洋一 戦国 - 黒田官兵衛 岡田准一
放送時間 [編集]

以下は放送時間が45分の場合、すなわち第1回、最終回など放送時間が拡大される場合は除く。
総合テレビ・デジタル総合テレビ - 本放送 日・20:00-20:45(衆院選・参院選・統一地方選前半投開票日などの際には19時台に繰り上げとなる(ただし過去には時間帯の繰り上げをせずに休止した例もある)。他にも重大事件・災害・特番などのために放送時間が繰り下げになった例が過去に数度ある。
再放送 土・13:05-13:50
BSプレミアム - 日・18:00-18:45(先行放送)
NHKワールド・プレミアム - 日・20:00-20:45(オリンピック開催期間中はニュース番組の時差放送による特別編成の関係上、19:15-20:00に放送時間を繰り上げる。よって、オリンピック開催期間中は総合テレビより早く放送されることとなる。選挙開票速報がある場合も同様。2010年6月20日は20:00からNHKニュース7の時差放送を行う関係で20:15-21:00に変更[2])
再放送 月・3:10-3:55(メンテナンスによる放送・配信休止の場合は5:10-5:55に変更。2010年3月22日は放送・配信休止に加え、5時台に大相撲中継の1時間ダイジェスト版が組まれる関係上、6:15-7:00に変更)、土・13:05-13:50
テレビジャパン(アメリカ・カナダ・プエルトリコ。衛星放送またはケーブルテレビ)
本放送 東海岸:日・20:05-20:53 西海岸:日・17:05-17:53 ハワイ:日・15:05-15:53(米本土の夏時間期間は14:05-) 番組前後にCM有
再放送 東海岸:月・1:15-2:00 西海岸:日・22:15-23:00 ハワイ:日・20:15-21:00(米本土の夏時間期間は19:15-)
再々放送(英語字幕付。約3ヶ月遅れ) 
標準時期間 東海岸:土・18:18-20:03 西海岸:土・15:18-16:03 ハワイ:土・13:18-14:03
夏時間期間 東海岸:土・17:15-18:00 西海岸:土・14:15-15:00 ハワイ:土・11:15-12:00
KIKU-TV(ハワイ。地上波で英語字幕付。なおCMが有る。長年約3ヶ月遅れ放送だったが、『篤姫』からは約50日(およそ7週間と少し)、『天地人』からは37日遅れ(2009年2月10日初回放送)に短縮)
本放送 火・20:00-21:00
再放送 日(本放送5日後)・19:00-20:00
なお、2004年と2005年の大河ドラマ『新選組!』および『義経』はデジタル総合テレビにて13:00-13:45(2005年4月からは13:05-13:50)に限定先行放送を始めたが、2006年(『功名が辻』)から再びその放送はなくなった。
ダイジェスト版 [編集]
2009年度よりNHK教育テレビジョンの「ワンセグ2」で月曜日に5分間の「(作品名)ダイジェスト」を放送したが、これを2011年4月(江~姫たちの戦国の途中)から、日曜深夜<月曜未明>24:05-24:10に、NHK総合テレビジョンでも放送される(解説放送はなし)。近畿地方では水曜16:50-16:55にも放送されている。NHKワールド・プレミアムでは金曜20:55-21:00に放送されている。
放送時間の推移 [編集]
総合テレビ
-1964年3月 日曜・20:45-21:30
1964年4月-12月 日曜・21:30-22:15(『歌のグランド・ショー』放送開始のため繰り下げ)
1965年1月-1968年12月 日曜・20:15-21:00
1969年1月- 日曜・20:00-20:45(『歌の祭典』放送短縮のため繰り上げ)
日曜20時台が大河ドラマ枠となったのは1964年の『若い季節』終了後の1965年開始の『太閤記』からである。
今後の大河ドラマ [編集]


この節には放送開始前の番組に関する記述があるため、創作物を基にした逐次的な編集をしないようにしてください。(2012年10月)
八重の桜 - 2013年の作品。同志社大学を創設した新島襄の妻で、福島県出身の新島八重が主人公。主演は綾瀬はるか[3]。
軍師官兵衛 - 2014年の作品。豊臣秀吉に軍師として仕え、筑前福岡藩52万石を治める家の礎となった黒田官兵衛が主人公。制作発表では、V6の岡田准一が官兵衛役を務めることも併せて明らかにされている。[4]
NHK新大型時代劇 [編集]

1984年から1986年にかけてのいわゆる「近現代三部作」(『山河燃ゆ』、『春の波涛』、『いのち』)が放送されていた時期に、従来の時代劇路線の大河ドラマのファンのためにそれまで軽い内容で娯楽系の『水曜時代劇』(現在娯楽系時代劇はBSプレミアムのBS時代劇に移行)が放送されていた水曜日の20時台に新たに設けられた。放送曜日と予算は大河ドラマと異なるが出演者に大河ドラマ出演者が多く、1年間の放送であったことから大河ドラマに準じる連続大型時代劇として扱われることも多い。
1986年の『武蔵坊弁慶』は翌1987年1月から大河ドラマが『独眼竜政宗』で時代劇路線に戻ることもあり、約9ヶ月間の放送で終了した。
作品 [編集]
宮本武蔵(1984年4月4日 - 1985年3月13日、全45話)
原作 / 吉川英治、脚本 / 杉山義法、音楽 / 三枝成章
出演 / 役所広司(宮本武蔵)、古手川祐子(お通)、中康次(佐々木小次郎)、丹波哲郎(平田無二斎)
吉川英治原作の小説『宮本武蔵』の完全ドラマ化を目指した作品。宮本武蔵が剣の道に生き、剣豪として巌流島で佐々木小次郎と対戦するまでを描いた。
真田太平記(1985年4月3日 - 1986年3月19日、全45話)
原作 / 池波正太郎、脚本 / 金子成人、音楽 / 林光
出演 / 渡瀬恒彦(真田信之)、草刈正雄(真田幸村)、丹波哲郎(真田昌幸)
武蔵坊弁慶(1986年4月9日 - 1986年12月3日、全34話)
原作 / 富田常雄、脚本 / 杉山義法ほか、音楽 / 芥川也寸志(オープニングテーマ)、毛利蔵人(本編)
出演 / 中村吉右衛門(武蔵坊弁慶)、川野太郎(源義経)、荻野目慶子(玉虫)、菅原文太(源頼朝)、萬屋錦之介(藤原秀衡)
備考 [編集]

日本国内のNHKでの放送では、デジタルで放送されるデジタルBSプレミアムとデジタル総合テレビでは副音声で視覚障害者向けの解説放送がある。また、デジタル総合テレビとデジタルBSプレミアムは連動データ放送がある。この解説放送はステレオ2音声放送で、アナログ総合テレビとアナログBSプレミアムならびに海外向けテレビ番組配信のNHKワールド・プレミアムでは行われていない(通常のステレオ放送のみ)。これらはBSデジタルの放送開始翌年の『北条時宗』より行われた。
海外向けでは、日本人が多く住む地域でNHKワールド以外の放送局で放送されている(字幕付き)。近年ではCS専門チャンネル(ファミリー劇場、時代劇専門チャンネル、衛星劇場等)で放送されている。ただし、『太平記』以降定番となった大河ドラマ本編の放送終了後に放送されるドラマの舞台となった場所や登場人物ゆかりの地を紹介する「紀行」番組はCS放送で見ることはできない。
2001年から2005年まではアナログ放送とデジタル放送では番組内容は同じでもそれぞれ編集映像比率内容が異なっていた。アナログ放送用(NHKワールド・プレミアムも含む)では本編は4:3で放送されるが番組最後の紀行の部分のみレターボックスで放送されていた。2006年からアナログ・デジタル同時送出のため、アナログ放送(NHKワールド・プレミアムも含む)ではレターボックス14:9(上下黒帯幅がやや小さく、4:3画面でも違和感がないもの)で放送されるようになった(他の番組では16:9レターボックス放送は行われるようになった中、本番組では2010年7月11日以降も最終回・総集編まで14:9サイズでの放送が続いていた)。これにあわせて同年の『功名が辻』と翌年の『風林火山』の中ではスタッフ・キャストのテロップを横書き表示に変更した。2008年以降作品については同年の『篤姫』、2011年の『江~姫たちの戦国~』、2012年の『平清盛』は縦書き、2009年の『天地人』、2010年の『龍馬伝』では横書きでクレジットされた(もっとも、画面サイズとは関わり無く、『山河燃ゆ』『春の波涛・総集編』等、過去の作品でも横書きクレジットタイトル表示だった作品は少数ながら存在する)。2011年に入ってからレターボックス16:9に移行した。
スタジオでの全収録が終了するクランクアップの時には出演者・スタッフの労をねぎらってスタジオにくす玉が吊るされ、主演者がそれを割ったり出演者のスピーチも行われ、来年の大河の主役の俳優からその年の主役の俳優に花束を渡し引継ぎを行う等、その模様はスポーツ新聞やNHK広報番組、NHKオンラインのこれ見て!ムービーで取り上げられることが多い。
視聴率アップを狙い、『その時歴史が動いた』、『歴史秘話ヒストリア』においてその年と来年の大河ドラマの時代、主役を取りあげ、興味を引こうとしていた。
ちなみに、その年の大河ドラマの出演者は大相撲力士と共に毎年2月3日の節分に成田山新勝寺で豆まきの来賓ゲストとして出席するのが恒例である。また、主要出演者(主演者に限らず)が中央競馬のNHKマイルカップのゲスト出演や表彰プレゼンテーターをする場合がある。
製作費について [編集]
2005年以降、NHKの不祥事がクローズアップされたため透明性を明かすために『功名が辻』以降、毎年の決算概要に1話分の平均製作費について公表している。なお、『功名が辻』が6,110万円、『風林火山』が6,080万円、『篤姫』が5,910万円である。ほとんどの支出がセットなどの美術費であるとのことである[5]。『義経』は6,440円。
観光への影響 [編集]


京阪電気鉄道8000系。義経放送時のラッピング電車(写真は義経。この他に弁慶や静もあった)。
毎年秋に各地で開催される「大菊人形展」はこの大河ドラマをテーマにするケースが多い。また、その年に放送されている主人公にゆかりのある地方自治体がNHKとのタイアップで展示会やフェスティバルを開いている。長年京阪電気鉄道がひらかたパークにて開催されるひらかた大菊人形は特に有名であったが、技術者の高齢化や後継者の不足などを理由に2005年の『義経』をもって終了している。しかし、市民からの復活の要望、またひらかたパークの所有者・京阪電鉄が創業100年を迎えたのを記念して2010年の1年限定で龍馬伝を題材とした菊人形展を開催することが決まった。
“大河ドラマのまち”と銘打って自治体や地元経済団体等が地域活性化を図るケースは多く、例えば2002年の『利家とまつ』が高視聴率を博したことで石川県の観光振興に大きく貢献している。また滋賀・京都・大阪がドラマの舞台になると京阪電気鉄道が8000系(0番台)や9000系などを使用してラッピング電車などを走らせるなどして積極的にPRしている。
青森県八戸市で8月に行なわれている八戸三社大祭には、2005年から大河ドラマの出演者が中日の合同運行に参加している。
作品の現存状況 [編集]
1980年頃までマスターテープとして使用されていた放送局用ビデオテープ(2インチVTR、テープ幅5センチ)は非常に高価で大型であり、収録された映像は放送終了後に消去されて他の番組に使い回されていたため、『元禄太平記』(1975年)以前の作品及び『花神』(1977年)は運良く残った一部の放送回と総集編を除きほとんど現存しない。同様の理由ですでに存在していないと思われていた『風と雲と虹と』(1976年)については全映像の現存が確認され、のちに完全版DVDが発売された。当時はNHKに限らず民放でも保存のコストと著作権の問題からテレビ番組の保存があまり行われていなかった。なお、民放で放送されたフィルム撮影のアニメ、特撮や一部のドラマは割合現存している。これは、テレビ局自身が制作した物ではなく、外部の制作会社に発注された作品であるためである。一定の期間が過ぎると制作を発注したテレビ局との放送権が切れ、放送権料さえ支払ってもらえばどこのテレビ局でも作品の放送することができるようになり、再放送帯などに積極的に利用されている。権料が制作会社の収入になるからである。
現代の感覚では多額の制作費をかけた映像作品を消去することは重大な資産の損失であると考えられるが、当時の感覚は逆で非常に高価で保管にも費用のかかるビデオテープを再利用しない方が損失であると考えられていた。当時のNHKでは本放送終了後にテレビドラマの再放送がほとんど行われず、特に50話近い長編の大河ドラマの再放送は想定されておらずビデオの販売などは思慮の外だったので、16作品は欠品状態となっている。それでも重要な放送回や総集編は映像資料用として保存していたようだが、『春の坂道』(1971年)は総集編を含めてNHKに全く映像が残されておらず「幻の大河ドラマ」と呼ばれていた(後に最終回のみモノクロの家庭用VTRで録画された映像が発見されてNHKアーカイブスに収蔵されている)。現存している作品の幾つかはDVDで販売され、またNHKアーカイブスで視聴することも可能である。『国盗り物語』(1973年)は本篇の映像は残されていない。同様に総集編のみ映像が残っているとされていた『樅ノ木は残った』(1970年)は近年、通常放送回の大半の回を録画したビデオテープ(白黒映像)が見つかっている。また、『元禄太平記』(1975年)についても江守徹が、「うちには全話録画してある」とコメントしている。
当初は高価だった放送局用ビデオテープのコストも家庭用ビデオデッキが登場したため、当初より遙かに下がったために1980年代以後は番組の保存をするように方針が変わり、『黄金の日日』は全話現存している。NHKでは保存していなかった作品を制作関係者や一般視聴者がビデオ(当時は大変に高価だった)で録画保存していたものが発見されて寄贈されることもあり、通常放送回のマスターテープが全て失われていた『草燃える』は寄贈されたビデオテープによって全放送回の映像が揃えられた。ただし一部の回の映像に欠損している箇所があるので、今のところ完全な形では揃っていない。詳細については草燃える#映像の保存状況などを参照。
『獅子の時代』(1980年)以降の歴代作品は、通常放送回・総集編ともすべての映像をNHKが保存している。
現在、現存している初期作品のデジタルリマスター化がアメリカで行われている。

関連項目 [編集]

奈良岡朋子 - 出演回数も多く、第1作と第50作にも出演するという節目に登場する出演者となった。
脚注 [編集]

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^ “NHK雑学”. 2012年10月16日閲覧。
^ 2012年のロンドンオリンピック期間中は7月28日は総合テレビと同じ通常時刻で(ただし総合テレビは21:00(その後柔道の中継延長で22:02に変更)開始のため国際放送単独放送)、8月5日は20:20-21:05に放送される。8月12日は国内向け・国際放送向けとも大河ドラマの番組自体が休止。
^ NHK公式サイト
^ “2014年の大河ドラマは「軍師官兵衛」。岡田准一が官兵衛に!”. NHKドラマトピックスブログ. NHK (2012年10月10日). 2012年10月10日閲覧。
^ NHKが制作費公表 「功名が辻」6,110万・「きょうの料理」170万… 読売新聞
外部リンク [編集]

NHK - 大河ドラマホームページ
大河ドラマ50作目を記念した大河ドラマ50キャンペーンのサイト。
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壇ノ浦の戦い

2012-12-15 14:26:15 | 用語集
壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の戦い

『安徳天皇縁起絵図』赤間神宮所蔵
戦争:治承・寿永の乱
年月日:元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日
場所:長門国 赤間関壇ノ浦 (現下関市)
結果:源氏軍の勝利、平家滅亡
交戦勢力
源氏 平氏
指揮官
源範頼(陸)
源義経(海) 平宗盛
平知盛
戦力
船数:830艘 (3000艘とも言われている) 船数:500艘 (1000艘とも言われている)
損害
不明 壊滅
治承・寿永の乱
以仁王の挙兵 - 石橋山 - 波志田山 - 衣笠城 - 鎮西反乱 - 熊野動乱 - 市原 - 結城浜 - 鉢田 - 富士川 - 金砂城 - 美濃源氏挙兵 - 近江攻防 - 伊予蜂起 - 南都焼討 - 墨俣川 - 横田河原 - 北陸出兵 - 野木宮 - 火打城 - 般若野 - 倶利伽羅峠 - 志保山 - 篠原 - 水島 - 福隆寺縄手 - 室山 - 法住寺 - 宇治川 - 粟津 - 下津井 - 沼田城 - 三草山 - 一ノ谷 - 三日平氏 - 藤戸 - 葦屋浦 - 屋島 - 志度 - 壇ノ浦
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壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、平安時代の末期の元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)で行われた戦闘。栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである。
目次 [非表示]
1 背景
2 合戦の経過
2.1 開戦
2.2 平氏優勢
2.3 源氏の反攻と平氏滅亡
3 戦後
4 両軍の構成
5 潮流説
6 天叢雲剣水没説
7 近年の研究
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
11 壇ノ浦の戦いを扱った作品
背景 [編集]

寿永2年(1183年)7月、源義仲に攻められた平氏は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ちるが、その後の鎌倉政権の源頼朝と義仲との対立に乗じて摂津国福原まで復帰した。しかし、寿永3年/治承8年(1184年)2月の一ノ谷の戦いで大敗を喫して、海に逃れ讃岐国屋島と長門国彦島(山口県下関市)に拠点を置いた。
鎌倉政権は頼朝の弟範頼に3万騎を率いさせて山陽道を進軍して九州に渡り平氏軍の背後を遮断する作戦を実行する。だが、範頼軍は兵糧の不足と優勢な水軍を有する平氏軍の抵抗によって進軍が進まなくなった。この状況を見た義経は後白河法皇に平氏追討を願い許可を得ると都の公家達の反対を押し切って屋島へ出撃した[1]。元暦2年/寿永4年 (1185年)2月、義経は奇襲によって屋島を攻略(屋島の戦い)。平氏総大将の平宗盛は安徳天皇を奉じて海上へ逃れて志度に立て籠もったが、そこも義経軍に追われ、瀬戸内海を転々としたのち彦島に拠った。
一方、範頼軍は兵糧と兵船の調達に成功して九州に渡り、同地の平氏方を葦屋浦の戦いで破り、平氏軍の背後の遮断に成功。平氏軍は彦島に孤立してしまった。
合戦の経過 [編集]



壇ノ浦古戦場址の碑
鎌倉幕府編纂の歴史書である『吾妻鏡』には壇ノ浦の戦いについては元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった。」とのみ簡潔に書かれており、合戦の具体的な経過は分からない。そのため信憑性には難があるものの『平家物語』『源平盛衰記』などの軍記物語を基に巷間で信じられている合戦の経過を述べることになる。
また、以下の経過は大正時代に黒板勝美東京帝国大学教授が提唱して以来、広く信じられている潮流説に基づいている。
開戦 [編集]
彦島の平氏水軍を撃滅すべく、義経は摂津国の渡辺水軍、伊予国の河野水軍、紀伊国の熊野水軍などを味方につけて840艘(『吾妻鏡』)の水軍を編成する。
『平家物語』によれば、合戦前の軍議で軍監の梶原景時は合戦の先陣になることを望むが、義経は自らが先陣に立つとはねつけた。景時は「大将が先陣なぞ聞いた事がない。将の器ではない」と義経を愚弄して斬りあい寸前の対立となり、これが後の景時の頼朝への讒言となり、義経の没落につながるとされる。
平氏軍は500艘(『吾妻鏡』)で、松浦党100余艘、山鹿秀遠300余艘、平氏一門100余艘(『平家物語』)の編成であった。宗盛の弟の知盛が大将として指揮を取ることになった。『平家物語』によれば知盛は通常は安徳天皇や平氏本営が置かれる大型の唐船に兵を潜ませて鎌倉方の兵船を引き寄せたところを包囲する作戦を立てていた。


壇ノ浦の戦い戦況推移図拡大
3月24日、攻め寄せる義経軍水軍に対して、知盛率いる平氏軍が彦島を出撃して、午の刻(12時ごろ)(『玉葉』による、『吾妻鏡』では午前)に関門海峡壇ノ浦で両軍は衝突して合戦が始まった。
範頼軍は3万余騎(『源平盛衰記』)をもって陸地に布陣して平氏の退路を塞ぎ、岸から遠矢を射かけて義経軍を支援した。『平家物語』によれば和田義盛は馬に乗り渚から沖に向けて遠矢を二町三町も射かけたという。
平氏優勢 [編集]
関門海峡は潮の流れの変化が激しく、水軍の運用に長けた平氏軍はこれを熟知しており、早い潮の流れに乗ってさんざんに矢を射かけて、海戦に慣れない坂東武者の義経軍を押した。義経軍は満珠島・干珠島のあたりにまで追いやられ、勢いに乗った平氏軍は義経を討ち取ろうと攻めかかる。
ここで不利を悟った義経が敵船の水手・梶取(漕ぎ手)を射るよう命じ、この時代の海戦では非戦闘員の水手・梶取を射ることは戦の作法に反する行為だったが、義経はあえてその掟破りを行って戦況が変化したとする話がドラマや小説等によく見られる。しかし『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、もはや大勢が決した「先帝身投」の段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、水手や船頭を射殺し、斬り殺したと描かれている[2]。
また『平家物語』では阿波重能の水軍300艘が寝返って平氏軍の唐船の計略を義経に告げ、知盛の作戦は失敗し平氏の敗北は決定的になったとする。『吾妻鏡』によれば、阿波重能は合戦後の捕虜に含まれており、実情は不明である。
源氏の反攻と平氏滅亡 [編集]
やがて、潮の流れが変わって反転すると、義経軍はこれに乗じて平氏軍を押しまくる。平氏軍は壊滅状態になり、勝敗は決した。敗北を悟った平氏一門は次々と海上へ身を投じた。
『平家物語』には平氏一門の最後の様子が描かれている。知盛は建礼門院や二位尼らの乗る女船に乗り移ると「見苦しいものを取り清め給え、これから珍しい東男を御目にかけましょう」と笑った。これを聞いた二位尼は死を決意して、幼い安徳天皇を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位尼は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。『吾妻鏡』によると二位尼が宝剣と神璽を持って入水、按察の局が安徳天皇を抱いて入水したとある。続いて建礼門院ら平氏一門の女たちも次々と海に身を投げる。
武将たちも覚悟を定め、教盛は入水、経盛は一旦陸地に上がって出家してから還り海に没した。資盛、有盛、行盛も入水している。
平家の総帥宗盛も嫡男の清宗と入水するが、命を惜しんで浮かび上がり水練が達者なために泳ぎ回っていたところを義経軍に捕らえられてしまった。


火の山公園から見た関門海峡
剛の者である教経は、鬼神の如く戦い坂東武者を討ち取りまくるが、知盛が既に勝敗は決したから罪作りなことはするなと伝えた。教経は、ならば敵の大将の義経を道連れにせんと欲し、義経の船を見つけてこれに乗り移った。教経は小長刀を持って組みかからんと挑むが、義経はゆらりと飛び上がると船から船へと飛び移り八艘彼方へ飛び去ってしまった。義経の「八艘飛び」である。義経を取り逃がした教経に大力で知られる安芸太郎が討ち取って手柄にしようと同じく大力の者二人と組みかかった。教経は一人を海に蹴り落とすと、二人を組み抱えたまま海に飛び込んだ。『平家物語』に描かれた平氏随一の猛将として知られ屋島の戦い、壇ノ浦の戦いで義経を苦しめた教経の最後だが、『吾妻鏡』によれば教経はこれ以前の一ノ谷の戦いで討ち死にしているという記述がある。しかし、『醍醐雑事記』には壇ノ浦で没した人物の一人として教経の名が挙げられている。
知盛は「見るべき程の事は見つ」とつぶやくと、鎧二領を着て乳兄弟の平家長と共に入水した。
申の刻(16時ごろ)(『玉葉』による。『吾妻鏡』では午の刻(12時ごろ))平氏一門の多くが死ぬか捕らえられ、戦いは源氏の勝利に終わった。
戦後 [編集]



壇ノ浦


壇ノ浦で沈んだ平氏の亡霊を描いた、歌川国芳による浮世絵。左には亡霊にまとわりつかれているヘイケガニが、右には薙刀を持った平知盛が描かれている。
入水した建礼門院は助け上げられ、内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は回収されたが、二位尼とともに入水した安徳天皇は崩御し、宝剣(天叢雲剣)も海に没した(別説あり)。
安徳天皇の異母弟の守貞親王(安徳天皇の皇太子に擬されていた)は救出された。平氏一門のうち宗盛、清宗、それに平家と行動をともにしていた平時忠(二位尼の弟)、平時実、平信基、藤原尹明といった廷臣、能円、全真、良弘、忠快、行命といった僧侶、平盛国、平盛澄、源季貞らの武将、大納言典侍、帥典侍、治部卿局、按察使局らの女房が捕虜となっている。
義経は建礼門院と守貞親王それに捕虜を連れて京へ戻り、範頼は九州に残って戦後の仕置きを行うことになった。義経は京に凱旋し、後白河法皇はこれを賞して義経とその配下の御家人たちを任官させた。これを知った頼朝は激怒して、任官した者たちの東国への帰還を禁じる。さらに、九州に残っていた梶原景時から頼朝へ、平氏追討の戦いの最中の義経の驕慢と専横を訴える書状が届き、義経が平時忠の娘を娶ったことも知らされ、頼朝を怒らせた。
元暦2年(1185年)5月、命令に反して義経は宗盛・清宗父子を護送する名目で鎌倉へ向かうが、腰越で止められてしまう。宗盛父子のみが鎌倉へ送られ頼朝と対面する。義経は腰越状を書いて頼朝へ許しを乞うが、同年6月に宗盛父子とともに京へ追い返されてしまう[3]。宗盛・清宗父子は京への帰還途上の近江国で斬首された。
その後、義経と頼朝との対立が強まり、同年10月に後白河法皇に奏上して頼朝追討の宣旨を出させて挙兵するが失敗。逆に追討の宣旨を出されて没落して奥州藤原氏の元へ逃れるが、文治5年(1189年)閏4月に平泉で殺された。
合戦後ほどなく建礼門院は出家し大原に隠棲した。守貞親王はすでに皇位への道は断たれており、後に出家している。平時忠は能登国へ流罪となり、当地で死去した。
この戦いにより、平氏(伊勢平氏の平清盛一族)は25年にわたる平氏政権の幕を閉じた。勝利を収めた清和源氏の頭領・源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立させる。
両軍の構成 [編集]

源家側
総大将:陸:源範頼、海:源義経
船数:800艘(吾妻鏡説)・3000艘(平家物語説)
参加武将:梶原景時、熊野別当湛増、河野通信
平家側
総大将:平宗盛
船数:500艘(吾妻鏡説)・1000艘(平家物語説)
参加武将:平知盛・平経盛・平教盛・平教経・平資盛・平有盛・平行盛・平時忠・平清宗・藤原景清
潮流説 [編集]

関門海峡の潮の流れの変化が壇ノ浦の戦いの勝敗を決したと信じられている。しかし、潮流に関しては、合戦について簡潔にしか記していない『吾妻鏡』にはもちろん触れられていない。軍記物語の『平家物語』では「門司関、壇ノ浦はたぎり落ちる汐なれば、平家の船は汐に逢って出て来たる。源氏の船は汐に向かって押され」と記されており、平氏が追い潮、源氏が向かい潮で戦ったことは述べられているが、潮流が反転して戦況を転換させたとまでの筋立てにはなっていない。
現在知られる合戦への潮流の影響は大正3年(1914年)に黒板勝美東京帝国大学教授が著書『義経伝』で提唱した説である。
合戦が行われた時間については『吾妻鏡』は午の刻(12時ごろ)に終わったと記しており、一方、関白九条兼実の日記である『玉葉』には午の刻(12時ごろ)に始まり、申の刻(16時ごろ)に終わったと記されている。
黒板勝美は海軍水路部の元暦2年3月24日(ユリウス暦で5月2日)の関門海峡の潮流の調査を元に、午前8時30分に西への潮流が東へ反転して、午前11時頃に8ノットに達し、午後3時頃に潮流は再び西へ反転することを明らかにし、合戦が行われた時間帯は『玉葉』の午の刻(12時ごろ)から申の刻(16時ごろ)が正しく合戦は午後に行われたとして、潮流が東向きだった時間帯は平氏が優勢で、反転して西向きになって形勢が逆転して源氏が優勢になったとした。
黒板勝美の説は壇ノ浦の戦いについて初めて科学的な検証を行ったものであり、最も権威のあるものとして定説化して広く信じられるようになった。小説、観光パンフレット類やテレビドラマはもちろん、源平合戦を扱った歴史関係書籍でもこの黒板説を元に壇ノ浦の戦いが記述されている。
この黒板説については、近年になって反論が出され、海事史の金指正三博士は潮流のコンピュータ解析を行い、合戦の行われた日は小潮流の時期で、8ノットという早い潮流は無く、また大正時代に潮流を調査した場所は最も狭い早鞆瀬戸であり(ここで千艘以上の兵船で戦うことは不可能)、広い満珠島・干珠島辺りの海域では潮流は1ノット以下であり合戦に影響を与えるものではないとした[4]。
海上保安庁の潮流の調査に基づいても、合戦の行われた早鞆瀬戸より東側の海域では1ノット以下という結果が出ている。
船舶史の石井謙治は同じ潮流に乗っている船の相対速度は変わらないので、潮流は合戦には影響しないと述べている[5]。飯島幸人東京商船大学名誉教授も船同士の相対運動に潮流は関係ないとして潮流説に否定的な見解を述べている。
そもそも、鎌倉幕府による記録である『吾妻鏡』の記述を否定すべきではなく、『吾妻鏡』のとおり、合戦は午前に行われ午の刻(12時ごろ)に終わったとする説も根強い。
天叢雲剣水没説 [編集]

『吾妻鏡』の壇ノ浦の戦いの元暦二年三月二十四日の条で「二位尼は宝剣を持って、按察の局は先帝(安徳天皇)を抱き奉って、共に海底に没する。」とあり、平家物語にも同様の記述がある。また戦いの後の元暦二年四月十一日の条に戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所(八咫鏡)と神璽(八尺瓊勾玉)は御座すが。宝剣(天叢雲剣)は紛失。愚虜をもってして捜し奉る。」と記されており、一般的には三種の神器のうち天叢雲剣は壇ノ浦の戦いで一度失われていると考えられている。小説やテレビドラマなどでもこのように描かれており、2005年大河ドラマ『義経』の第35回「決戦・壇ノ浦」では松坂慶子扮する時子(二位尼)が安徳天皇と天叢雲剣を抱いて海に没して、剣が海底に失われる描写がされている。
もっともこの時失われた天叢雲剣は、宮中の儀式に使われる模造品(形代)であり、本物は熱田神宮に保管されており失われていないという説もある。日本テレビの1991年の年末時代劇スペシャルの『源義経』においては、この説が採用されている。
近年の研究 [編集]

菱沼一憲(国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書『源義経の合戦と戦略 その伝説と実像』(角川選書、2005年)で、この合戦について以下の説を述べている。
文治元年(1185年)2月、屋島の戦いに勝利した義経は、1箇月かけて軍備を整えつつ河野通信や船所正利など水軍勢力を味方に引き入れ、瀬戸内海の制海権を握っていった。一方、平家の残る拠点は彦島のみであり、兵糧・兵器の補充もままならない状況であった。また、豊後へ渡った源範頼軍によって九州への退路も塞がれていた。
正午頃、戦いが始まった。両軍とも、できるだけ潮流に左右されずに操船できる時間帯を選んだのであろう。平家方は序盤は鎌倉方が静まり返るほど矢を射かけて互角以上に戦っていたが、射尽すと逆に水上からは義経軍に、陸上からは範頼軍に射かけられるままとなり、防御装備の貧弱な水手・梶取たちから犠牲となっていった。この結果、平家方の船は身動きが取れなくなり、平家方不利と見た諸将は鎌倉方に雪崩を打って寝返った。
敗戦を覚悟した平家一門は次々と海へ身を投げていった。これは、範頼軍の九州制圧、義経軍の四国制圧、鎌倉方による瀬戸内海制海権の奪取という包囲・孤立化の完成に伴う必然的結末であった。
脚注 [編集]

^ 従来はこの出陣は『吾妻鏡』元暦2年(1185年)4月21日条、5月5日条の記載に基づき頼朝の命令によって行なわれたとみなされていた。しかし下記のことからこれに疑義を示す見解が強まっている。『吾妻鏡』元暦2年正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』正月10日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある(宮田敬三「元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-」『立命館文学』554、1998年)
^ 上杉和彦『日本の戦争史 6 源平の争乱』P224参照。なお安田元久は、「このとき義経は、当時としては破天荒の戦術をとった。すなわち彼は部下に命じて、敵の戦闘員には目もくれず、兵船をあやつる水手・梶取のみを目標に矢を射かけさせたのである」(『日本の武将7 源義経』人物往来社、1966年)という独自の見解を示している。根拠が不明であり仮説・推測の域を出ていないが、非戦闘員を射殺する義経の卑怯な戦法という解釈はここから生まれたと思われる。
^ 『吾妻鏡』によると義経は腰越から鎌倉に入れて萌えないとされている。一方延慶本『平家物語』では義経は一旦鎌倉蔵に入り頼朝と対面するが、鎌倉のはずれに止め置かれた後義経は都に戻ったとある。
^ 実証 壇の浦の合戦「NHK歴史への招待 6巻 義経騎馬軍団 壇ノ浦合戦」(日本放送出版協会)
^ 石井謙治『和船 II』(法政大学出版局、1995年) ISBN 4-588-20762-8 V 海と船のこぼれ話 2 壇の浦合戦と潮流 p233~p237
参考文献 [編集]

森本 繁『源平 海の合戦 史実と伝承を紀行する』(新人物往来社、2005年) ISBN 4-404-03233-1
菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 その伝説と実像』(角川選書、2005年) ISBN 4-04-703374-X
関連項目 [編集]

ウィキメディア・コモンズには、壇ノ浦の戦いに関連するカテゴリがあります。


下関市前田町の「平家の一杯水」。壇ノ浦の戦いで深傷を負った平家の武将が水溜まりを見つけ、飲んでみると真水だった。もう一口飲もうとしたら塩水になっていたという伝説が残る。
日本史の出来事一覧
日本の合戦一覧
平氏政権
赤間神宮
平家の落人
全国平家会
壇ノ浦夜合戦記
ヘイケガニ
大歳神社 (下関市)
耳なし芳一
壇ノ浦の戦いを扱った作品 [編集]

歌謡曲
壇の浦決戦 (三波春夫)
漫画
火の鳥 乱世編(手塚治虫)
カテゴリ: 治承・寿永の乱の戦闘北九州市の歴史下関市の歴史海戦水軍チョークポイント
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平時子

2012-12-15 14:19:03 | 人物一覧
平時子
平 時子(たいら の ときこ、大治元年(1126年) - 文治元年3月24日(1185年4月25日)は、平安時代末期の女性。平清盛の正室(継室)。位階は従二位。二位尼(にいのあま)と称される。中級貴族の平時信の娘で、母は二条大宮(令子内親王)の半物(氏素性は未詳)。権大納言・平時忠の同母姉、平滋子(建春門院)の異母姉。清盛との間に宗盛、知盛、徳子(建礼門院)、重衡らを生む。
目次 [非表示]
1 生涯
2 墓所・伝承
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
生涯 [編集]

第一子の宗盛の誕生年より、久安元年(1145年)頃、清盛の後妻として迎えられたと推測されている。平治の乱後、二条天皇の乳母となり、永暦元年(1160年)12月24日、八十島典侍の賞により[1]従三位に叙された(『山槐記』同日条)。時子が二条帝の乳母となり、清盛が乳父となったことは、信西の地位の継承の狙い[2]とともに、後白河院と二条帝の対立の中で、二条帝への従属と政治的奉仕の姿勢を示すもの[3]と考えられている。二条帝の崩御後、後白河院の寵妃となった異母妹・滋子とともに清盛と後白河院の政治的提携強化の媒介となり、仁安元年(1166年)10月10日、滋子の生んだ憲仁親王(後の高倉天皇)が立太子すると、同年10月21日に従二位に叙せられた(『兵範記』同日条)[4]。
仁安3年(1168年)清盛とともに出家。清盛が福原へ遷ると西八条第を継承し、八条櫛笥亭(八条二品亭)と名称を改めている。承安元年(1171年)、徳子が高倉天皇に入内すると、中宮の母として徳子の出産に関わったほか、高倉帝の諸皇子女の出生や成長儀式にも深くかかわり、清盛一門と皇室との関係を結ぶ役割も果たした。
清盛による治承三年の政変の後、治承4年(1180年)4月に徳子の生んだ外孫・安徳天皇が即位すると、清盛とともに准三宮の宣旨を受けた(『百錬抄』治承4年6月10日条)。清盛はその晩年、宗盛を後継者とする意志を強く見せたため、亡き重盛流の小松家は嫡流からはずれ、時子の出自が新たに嫡流となった。
清盛亡き後は、宗盛や建礼門院徳子の母である時子が平家の家長たる存在となり、一門の精神的支柱として重きをなした。壇ノ浦の戦いで一門が源氏軍に最終的な敗北を喫すと、安徳帝に「浪の下にも都の候ぞ」(『平家物語』)と言い聞かせ、幼帝を抱いて海中に身を投じ自害した。
なお『吾妻鏡』には、時子は、三種の神器の一つ天叢雲剣を持ち、安徳帝は按察使局が抱いて入水したとあり、按察使局は引き上げられて助かっている。また『愚管抄』には、時子が安徳帝を抱き、さらに天叢雲剣と三種の神器のもう一つである神璽を具して入水したとある。
墓所・伝承 [編集]

墓所は赤間神宮にあり、毎年5月2日に平家の落人の子孫らで組織される全国平家会の参列のもと一門追悼祭が齋行されている。また山口県長門市日置には、亡骸が打ち上げられたという伝承から、「二位の浜」と呼ばれる浜辺があり、海水浴場としても人気がある。
脚注 [編集]

^ 『山槐記』同年12月15日条に清盛女が八十島典侍として下向した記事があるが、八十島典侍は天皇の乳母が勤めるものであり、清盛女は清盛室の誤りであるとされている(五味文彦)。
^ 五味文彦『平清盛』吉川弘文館<人物叢書>、1999年
^ 元木泰雄『平清盛の闘いー幻の中世国家』角川叢書、2001年
^ 同日滋子も従三位に叙せられている。清盛は東宮大夫だった。
参考文献 [編集]

金 永「平時子論」『文学』第3巻第4号、岩波書店、2002年
関連項目 [編集]

平家物語
女人平家 (テレビドラマ) - 有馬稲子が平時子役として出演。 
新・平家物語 (NHK大河ドラマ) - 中村玉緒が平時子役として出演。
義経 (NHK大河ドラマ) - 松坂慶子が平時子役として出演。
平清盛 (NHK大河ドラマ) - 深田恭子が平時子役として出演。
カテゴリ: 平安時代の人物堂上平氏平家乳母1126年生1185年没日本の神 (人物神 平氏)日本の神 (人物神 御霊信仰)
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記桜蔭中学校・高等学校 【学校説明会】 1

2012-12-12 16:31:22 | 用語集
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桜蔭中学校・高等学校
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【文化的行事】文化祭=9月29日・30日 公開
【体育関係行事】体育大会=5月19日 非公開
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【その他】防衛医科大学校他13

ategory:芥川賞受賞者 芥川龍之介賞を受賞した小説家に関するカテゴリ

2012-12-09 16:41:04 | 用語集
ategory:芥川賞受賞者
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