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調べもの文庫 句合の月 正岡子規

2011-08-04 04:58:49 | 青空文庫
調べもの文庫 句合の月 正岡子規

句合の月 正岡子規
 句合《くあわせ》の題がまわって来た。先ず一番に月という題がある。凡そ四季の題で月というほど広い漠然とした題はない。花や雪の比でない。今夜は少し熱があるかして苦しいようだから、横に寝て句合の句を作ろうと思うて蒲団《ふとん》を被《かぶ》って験温器を脇に挟《はさ》みながら月の句を考えはじめた。何にしろ相手があるのだから責任が重いように思われて張合があった。判者が外の人であったら、初から、かぐや姫とつれだって月宮に昇るとか、あるいは人も家もなき深山の絶頂に突っ立って、乱れ髪を風に吹かせながら月を眺《なが》めて居たというような、凄《すご》い趣向を考えたかもしれぬが、判者が碧梧桐《へきごとう》というのだから先ず空想を斥《しりぞ》けて、なるべく写実にやろうと考えた。これは特に当てこもうと思う訳ではないが自然と当てこむようになるのだ。
 先ず最初に胸に浮んだ趣向は、月明の夜に森に沿うた小道の、一方は野が開いて居るという処を歩行《ある》いて居る処であった。写実写実と思うて居るのでこんな平凡な場所を描き出したのであろう。けれども景色が余り広いと写実に遠ざかるから今少し狭く細かく写そうと思うて、月が木葉《このは》がくれにちらちらして居る所、即ち作者は森の影を踏んでちらちらする葉隠れの月を右に見ながら、いくら往ても往ても月は葉隠れになったままであって自分の顔をかっと照す事はない、という、こういう趣を考えたが、時間が長過ぎて句にならぬ、そこで急に我家へ帰った。自分の内の庭には椎《しい》の樹《き》があって、それへ月が隠れて葉ごしにちらちらする景色はいつも見て居るから、これにしようと思うて、「葉隠れの月の光や粉砕す」とやって見た、二度|吟《ぎん》じて見るととんでもない句だから、それを見捨てて、再び前の森ぞい小道に立ち戻った。今度は葉隠れをやめて、森の木の影の微風に揺《ゆす》らるる上を踏んで行くという趣向を考えたが、遂《つい》に句にならぬので、とうとう森の中の小道へ這入り込んだ。そうすると杉の枝が天を蔽《おお》うて居るので、月の光は点のように外に漏《も》れぬから、暗い道ではあるが、忽ち杉の木の隙間《すきま》があって畳一枚ほど明るく照って居る。こんな考から「ところどころ月漏る杉の小道かな」とやったが、余り平凡なのに自ら驚いて、三たび森沿い小道に出て来た。此度は田舎祭の帰りのような心持がした。もぶり鮓《ずし》の竹皮包みを手拭《てぬぐい》にてしばりたるがまさに抜け落ちんとするを平気にて提げ、大分酔がまわったという見えで千鳥足おぼつかなく、例の通り木の影を踏んで走行《ある》いて居る。左側を見渡すと限りもなく広い田の稲は黄色に実りて月が明るく照して居るから、静かな中に稲穂が少しばかり揺《ゆ》れて居るのも見えるようだ。いい感じがした。しかし考が広くなって、つかまえ処がないから、句になろうともせぬ。そこで自分に返りて考えて見た。考えて見ると今まで木の影を離れる事が出来ぬので同じ小道を往たり来たりして居る、まるで狐に化《ばか》されたようであったという事が分った。今は思いきって森を離れて水辺に行く事にした。
 海のような広い川の川口に近き処を描き出した。見た事はないが揚子江であろうと思うような処であった。その広い川に小舟が一艘《いっそう》浮いて居る。勿論月夜の景で、波は月に映じてきらきらとして居る。昼のように明るい。それで遠くに居る小舟まで見えるので、さてその小舟が段々遠ざかって終に見えなくなったという事を句にしようと思うたが出来ぬ。しかしまだ小舟はなくならんので、ふわふわと浮いて居る様が見える。天上の舟の如しという趣がある。けれども天上の舟というような理想的の形容は写実には禁物だから外の事を考えたがとかくその感じが離れぬ。やがて「酒載せてただよふ舟の月見かな」と出来た。これが(後で見るとひどい句であるけれど)その時はいくらか句になって居るように思われて、満足はしないが、これに定《き》みょうかとも思うた。実は考えくたびれたのだ。が、思うて見ると、先日の会に月という題があって、考えもしないで「鎌倉や畠の上の月一つ」という句が出来た。素人臭い句ではあるが「酒載せて」の句よりは善いようだ。これほど考えて見ながら運坐《うんざ》の句よりも悪いとは余り残念だからまた考えはじめた。この時験温器を挟んで居る事を思い出したから、出して見たが卅八度しかなかった。
 今度は川の岸の高楼に上った。遥《はるか》に川面《かわも》を見渡すと前岸は模糊として煙のようだ。あるともないとも分らぬ。燈火が一点見える。あれが前岸の家かも知れぬ。汐《しお》は今満ちきりて溢《あふ》るるばかりだ。趣が支那の詩のようになって俳句にならぬ。忽ち一艘の小舟(また小舟が出た)が前岸の蘆花の間より現れて来た。すると宋江《そうこう》が潯陽江《じんようこう》を渡る一段を思い出した。これは去年病中に『水滸伝《すいこでん》』を読んだ時に、望見前面、満目蘆花、一派大江、滔々滾々、正来潯陽江辺、只聴得背後喊叫、火把乱明、吹風胡哨※[#「走にょう+旱」、第4水準2-89-23]将来、という景色が面白いと感じて、こんな景色が俳句になったら面白かろうと思うた事があるので、川の景色の聯想から、只見蘆葦叢中、悄々地、忽然揺出一隻船来、を描き出したのだ。しかしこの趣は去年も句にならなんだのであるから強いては考えなんだ。聯想は段々広がって、舟は中流へ出る、船頭が船歌を歌う。老爺生長在江辺、不愛交遊只愛銭、と歌い出した。昨夜華光来趁我、臨行奪下一金磚、と歌いきって櫓《ろ》を放した。それから船頭が、板刀麺《ばんとうめん》が喰いたいか、※[#「飮のへん+昆」、第4水準2-92-59]飩《こんとん》が喰いたいか、などと分らぬことをいうて宋江を嚇《おど》す処へ行きかけたが、それはいよいよ写実に遠ざかるから全く考を転じて、使の役目でここを渡ることにしようかと思うた。「急ぎの使ひで月夜に江を渡りけり」という事を十七字につづめて見ようと思うて「使ひして使ひして」と頻《しきり》にうなって見たが、何だか出来そうにもないので、復《また》もとの水楼へもどった。
 水楼へはもどったが、まだ『水滸伝』が離れぬ。水楼では宋江が酒を飲んで居る。戴宗《たいそう》も居る。李逵《りき》も居る。こんな処を上品に言おうと思うたが何も出来ぬ。それから宋江が壁に詩を題する処を聯想した。それも句にならぬので、題詩から離別の宴を聯想した。離筵《りえん》となると最早唐人ではなくて、日本人の書生が友達を送る処に変った。剣舞を出しても見たが句にならぬ。とかくする内に「海楼に別れを惜む月夜かな」と出来た。これにしようと、きめても見た。しかし落ちつかぬ。平凡といえば平凡だ。海楼が利かぬと思えば利かぬ。家の内だから月夜に利かぬ者とすれば家の外へ持って行けば善い。「桟橋に別れを惜む月夜かな」と直した。この時は神戸の景色であった。どうも落ちつかぬ。横浜のイギリス埠頭場《ふとうば》へ持って来て、洋行を送る処にして見た。やはり落ちつかぬ。月夜の沖遠く外国船がかかって居る景色をちょっと考えたが、また桟橋にもどった。桟橋の句が落ちつかぬのは余り淡泊過ぎるのだから、今少し彩色を入れたら善かろうと思うて、男と女と桟橋で別《わかれ》を惜む処を考えた。女は男にくっついて立って居る。黙って一語を発せぬ胸の内には言うに言われぬ苦《くるし》みがあるらしい。男も悄然《しょうぜん》として居る。人知れず力を入れて手を握った。直に艀舟《はしけ》に乗った。女は身動きもせず立って居た。こんな聯想が起ったので、「桟橋に別れを惜む夫婦かな」とやったが、月がなかった。今度は故郷の三津を想像して、波打ち際で、別を惜むことにしようと思うたがそれもいえず。遂に「見送るや酔のさめたる舟の月」という句が出来たのである。誠に振わぬ句であるけれど、その代り大疵《たいし》もないように思うて、これに極めた。
 今まで一句を作るにこんなに長く考えた事はなかった。余り考えては善い句は出来まいが、しかしこれがよほど修行になるような心持がする。此後も間《ひま》があったらこういうように考えて見たいと思う。[#地から2字上げ]〔『ホトトギス』第二巻第二号 明治31[#「31」は縦中横]・11[#「11」は縦中横]・10[#「10」は縦中横]〕


底本:「飯待つ間」岩波文庫、岩波書店   1985(昭和60)年3月18日第1刷発行
   2001(平成13)年11月7日第10刷発行
底本の親本:「子規全集 第十二巻」講談社   1975(昭和50)年10月刊
初出:「ホトトギス 第二巻第二号」   1898(明治31)年11月10日
※底本では、表題の下に「子規」と記載されています。
※「此後も間《ひま》があったら」の「間」のみは、底本では「門<月」となっています。

入力:ゆうき校正:noriko saito2010年4月22日作成
2011年5月11日修正青空文庫作成ファイル:





【gakuseigai 正岡子規】 =2011-8-4
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2011年6月1日 – 学生街 gakuseigai. 鎌倉一見の記. 正岡子規. 面白き朧月のゆふべ柴の戸を立ち出でゝそゞろにありけばまぼろしかと見ゆる往來のさまもなつかしながら都の街をはなれたるけしきのみ思ひやられて(①京都②新橋③仙台)までいそぎぬ。
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2010年8月12日 – gakuseigai(学生街). 正岡子規 「歌よみに与ふる書」. 仰 ( おおせ ) の 如 ( ごと ) く近来和歌は一向に振ひ 不申 ( もうさず ) 候。正直に申し候へば万葉以来 実朝 ( さねとも ) 以来一向に振ひ不申候。 ...
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正岡子規 俳句 ・赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり|gakuseigai 学生街 ...
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2010年8月12日 – gakuseigai 学生街のgakuseigai 学生街のブログの記事、正岡子規 俳句 ・赤とんぼ 筑波に雲も なかりけりです。

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正岡 子規(まさおか しき、1867年10月14日(慶応3年9月17日) - 1902年(明治35年)9 月19日)は、日本の俳人、歌人、国語学研究家である。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。 ...
正岡子規 / 「坂の上の雲」人物列伝www.sakanouenokumo.jp/shiki/ - キャッシュ

司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」の主人公となった俳人・正岡子規の人物紹介.
俳句の歴史・正岡子規

遺教 西郷隆盛

2011-04-28 10:08:13 | 青空文庫
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遺教
西郷隆盛



     死生の説

孟子曰[#(ク)]。殀《エウ》壽不[#レ]|貳《ウタガハ》。修[#(メテ)][#レ]身[#(ヲ)]以俟[#(ツ)][#レ]之[#(ヲ)]。所[#二]以立[#(ツル)][#一レ]命[#(ヲ)]也。(盡心上)
[#ここから1字下げ]
殀壽は命の短きと、命の長きと云ふことなり。是が學者|工夫《くふう》上の肝《かん》要なる處。生死の間|落着《おちつき》出來ずしては、天性と云ふこと相分らず。生きてあるもの、一度は是非死なでは叶《かな》はず、とりわけ合點《がてん》の出來さうなものなれども、凡そ人、生を惜み死を惡む、是皆思慮分別を離れぬからのことなり。故に慾心と云ふもの仰山《ぎようさん》起り來て、天理と云ふことを覺《さと》ることなし。天理と云ふことが慥《たしか》に譯《わか》つたらば、壽殀何ぞ念《ねん》とすることあらんや。只今生れたりと云ふことを知て來たものでないから、いつ死ぬと云ふことを知らう樣がない、それぢやに因つて生と死と云ふ譯《わけ》がないぞ。さすれば生きてあるものでないから、思慮分別に渉ることがない。そこで生死の二つあるものでないと合點《がてん》の心が疑はぬと云ふものなり。この合點が出來れば、これが天理の在り處にて、爲すことも言ふことも一つとして天理にはづることはなし。一身が直ぐに天理になりきるなれば、是が身修ると云ふものなり。そこで死ぬと云ふことがない故、天命の儘《まゝ》にして、天より授かりしまゝで復《かへ》すのぢや、少しもかはることがない。ちやうど、天と人と一體と云ふものにて、天命を全《まつた》うし終《を》へたと云ふ譯なればなり。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
(按)右は文久二年冬、沖永良部島牢居中、孟子の一節を講じて島人操坦勁に與へたるものにて、今尚ほ同家に藏す。
[#ここで字下げ終わり]

     一家親睦の箴《いましめ》

[#ここから1字下げ]
翁、遠島中、常に村童を集め、讀書を教へ、或は問を設けて訓育する所あり。一日問をかけて曰ふ、「汝等一家|睦《むつ》まじく暮らす方法は如何にせば宜しと思ふか」と。群童|對《こた》へに苦しむ。其中尤も年|長《た》けたる者に操《みさを》坦勁と云ふものあり。年十六なりき。進んで答ふらく、「其の方法は五倫五常の道を守るに在ります」と。翁は頭を振《ふ》つて曰ふ、否々《いな/\》、そは金看板《きんかんばん》なり、表面《うはべ》の飾《かざ》りに過ぎずと。因つて、左の訓言を綴《つゞ》りて與へられたりと。
[#ここで字下げ終わり]
此の説き樣は、只|當《あた》り前の看板のみにて、今日の用に益なく、怠惰《たいだ》に落ち易し。早速《さつそく》手を下すには、慾《よく》を離るゝ處第一なり。一つの美味あれば、一家擧げて共にし、衣服を製《つく》るにも、必ず善きものは年長者に讓《ゆづ》り、自分勝手《じぶんがつて》を構《かま》へず、互に誠を盡すべし。只|慾《よく》の一字より、親戚の親《したしみ》も離るゝものなれば、根據《こんきよ》する處を絶《た》つが專《せん》要なり。さすれば慈愛自然に離れぬなり。

     書物の蠧《むし》と活學問《くわつがくもん》

[#ここから1字下げ]
明治二年、翁は青年五人を選び、京都の陽明學者|春日潜庵《かすがせんあん》の門に遊學せしむ。五人とは伊瀬知《いせぢ》好成([#ここから割り注]後の陸軍中將[#ここで割り注終わり])、吉田清一([#ここから割り注]同上[#ここで割り注終わり])、西郷小兵衞([#ここから割り注]翁の弟[#ここで割り注終わり])、和田正苗、安藤直五郎なり。其時翁は吉田に告げて曰ふ。
[#ここで字下げ終わり]
貴樣《きさま》等は書物の蠧《むし》に成つてはならぬぞ。春日《かすが》は至つて直《ちよく》な人で、從つて平生も嚴《げん》な人である。貴樣等修業に丁度《ちやうど》宜しい。
[#ここから1字下げ]
と、又伊瀬知に告げて曰ふ。
[#ここで字下げ終わり]
此からは、武術|許《ばか》りでは行けぬ、學問が必要だ。學問は活《い》きた學問でなくてはならぬ。其れには京都に春日と云ふ陽明學者がある、其處に行つて活きた實用の學問をせよと。

     私學校|綱領《かうりやう》

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一 道を同《おなじう》し義相|協《かな》ふを以て暗《あん》に集合せり、故に此理を益|研究《けんきう》して、道義に於ては一身を不[#レ]顧[#(ミ)]、必ず踏《ふみ》行ふべき事。
一 王を尊び民を憐《あはれ》むは學問の本旨。然らば此天理を極め、人民の義務にのぞみては一向《ひたすら》難《なん》に當り、一同の義を可[#(キ)][#レ]立[#(ツ)]事。
[#ここから3字下げ、折り返して4字下げ]
(按)翁の鹿兒島に歸るや、自分の賞典祿を費用に當てゝ學校を城山の麓《ふもと》なる舊|廐《うまや》跡に建て、分校を各所に設け專ら士氣振興を謀れり、右綱領は此時學校に與へたるものなり。
[#ここで字下げ終わり]



底本:「西郷南洲遺訓」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月2日第1刷発行
   1985(昭和60)年2月20日第26刷発行
底本の親本:「絶島の南洲」内外出版協會
   1909(明治42)年10月20日発行
   「南洲翁謫所逸話」川上孝吉
   1909(明治42)年2月27日発行
※底本の末尾に添えられた「書後の辭」で、編者の山田済斎は、「遺教」を「孤島の南洲」と「南洲翁謫所逸話」をもとにしてまとめたとしています。この内、「孤島の南洲」は正しくは、「絶島の南洲」です。
※「絶島の南洲」は、近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)で参照できます。
入力:田中哲郎
校正:川山隆
2008年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:

津浪と人間  寺田寅彦

2011-03-19 10:33:24 | 青空文庫
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津浪と人間
寺田寅彦



 昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙《な》ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。
 同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。
 こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
 学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
 しかしまた、罹災者《りさいしゃ》の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
 すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。
 災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
 さて、それから更に三十七年経ったとする。その時には、今度の津浪を調べた役人、学者、新聞記者は大抵もう故人となっているか、さもなくとも世間からは隠退している。そうして、今回の津浪の時に働き盛り分別盛りであった当該地方の人々も同様である。そうして災害当時まだ物心のつくか付かぬであった人達が、その今から三十七年後の地方の中堅人士となっているのである。三十七年と云えば大して長くも聞こえないが、日数にすれば一万三千五百五日である。その間に朝日夕日は一万三千五百五回ずつ平和な浜辺の平均水準線に近い波打際を照らすのである。津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。鉄砲の音に驚いて立った海猫が、いつの間にかまた寄って来るのと本質的の区別はないのである。
 これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲って来るのであったら、津浪はもう天変でも地異でもなくなるであろう。
 風雪というものを知らない国があったとする、年中気温が摂氏二十五度を下がる事がなかったとする。それがおおよそ百年に一遍くらいちょっとした吹雪《ふぶき》があったとすると、それはその国には非常な天災であって、この災害はおそらく我邦の津浪に劣らぬものとなるであろう。何故かと云えば、風のない国の家屋は大抵少しの風にも吹き飛ばされるように出来ているであろうし、冬の用意のない国の人は、雪が降れば凍《こご》えるに相違ないからである。それほど極端な場合を考えなくてもよい。いわゆる颱風《たいふう》なるものが三十年五十年、すなわち日本家屋の保存期限と同じ程度の年数をへだてて襲来するのだったら結果は同様であろう。
 夜というものが二十四時間ごとに繰返されるからよいが、約五十年に一度、しかも不定期に突然に夜が廻り合せてくるのであったら、その時に如何なる事柄が起るであろうか。おそらく名状の出来ない混乱が生じるであろう。そうしてやはり人命財産の著しい損失が起らないとは限らない。
 さて、個人が頼りにならないとすれば、政府の法令によって永久的の対策を設けることは出来ないものかと考えてみる。ところが、国は永続しても政府の役人は百年の後には必ず入れ代わっている。役人が代わる間には法令も時々は代わる恐れがある。その法令が、無事な一万何千日間の生活に甚だ不便なものである場合は猶更《なおさら》そうである。政党内閣などというものの世の中だと猶更そうである。
 災害記念碑を立てて永久的警告を残してはどうかという説もあるであろう。しかし、はじめは人目に付きやすい処に立ててあるのが、道路改修、市区改正等の行われる度にあちらこちらと移されて、おしまいにはどこの山蔭の竹藪の中に埋もれないとも限らない。そういう時に若干の老人が昔の例を引いてやかましく云っても、例えば「市会議員」などというようなものは、そんなことは相手にしないであろう。そうしてその碑石が八重葎《やえむぐら》に埋もれた頃に、時分はよしと次の津浪がそろそろ準備されるであろう。
 昔の日本人は子孫のことを多少でも考えない人は少なかったようである。それは実際いくらか考えばえがする世の中であったからかもしれない。それでこそ例えば津浪を戒める碑を建てておいても相当な利き目があったのであるが、これから先の日本ではそれがどうであるか甚だ心細いような気がする。二千年来伝わった日本人の魂でさえも、打砕いて夷狄《いてき》の犬に喰わせようという人も少なくない世の中である。一代前の云い置きなどを歯牙《しが》にかける人はありそうもない。
 しかし困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟《ひっきょう》「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
 それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼払われたのである。
 こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。そうすれば災害はもはや災害でなく五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう。
 科学が今日のように発達したのは過去の伝統の基礎の上に時代時代の経験を丹念に克明に築き上げた結果である。それだからこそ、颱風が吹いても地震が揺《ゆす》ってもびくとも動かぬ殿堂が出来たのである。二千年の歴史によって代表された経験的基礎を無視して他所《よそ》から借り集めた風土に合わぬ材料で建てた仮小屋のような新しい哲学などはよくよく吟味しないと甚だ危ないものである。それにもかかわらず、うかうかとそういうものに頼って脚下の安全なものを棄てようとする、それと同じ心理が、正しく地震や津浪の災害を招致する、というよりはむしろ、地震や津浪から災害を製造する原動力になるのである。
 津浪の恐れのあるのは三陸沿岸だけとは限らない、寛永安政の場合のように、太平洋沿岸の各地を襲うような大がかりなものが、いつかはまた繰返されるであろう。その時にはまた日本の多くの大都市が大規模な地震の活動によって将棋倒しに倒される「非常時」が到来するはずである。それはいつだかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。
 それだから、今度の三陸の津浪は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。
 しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然方則であるように見える。自然の方則は人間の力では枉《ま》げられない。この点では人間も昆虫も全く同じ境界《きょうがい》にある。それで吾々も昆虫と同様明日の事など心配せずに、その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄《す》て鉢《ばち》の哲学も可能である。
 しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。この点はたしかに人間と昆虫とでちがうようである。それで日本国民のこれら災害に関する科学知識の水準をずっと高めることが出来れば、その時にはじめて天災の予防が可能になるであろうと思われる。この水準を高めるには何よりも先ず、普通教育で、もっと立入った地震津浪の知識を授ける必要がある。英独仏などの科学国の普通教育の教材にはそんなものはないと云う人があるかもしれないが、それは彼地には大地震大津浪が稀なためである。熱帯の住民が裸体《はだか》で暮しているからと云って寒い国の人がその真似をする謂《い》われはないのである。それで日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくも毎年一回ずつ一時間や二時間くらい地震津浪に関する特別講演があっても決して不思議はないであろうと思われる。地震津浪の災害を予防するのはやはり学校で教える「愛国」の精神の具体的な発現方法の中でも最も手近で最も有効なものの一つであろうと思われるのである。
[#ここから1字下げ]
(追記) 三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍で通行人の最もよく眼につく処に建てておいたが、その後新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋《さび》れてしまっているそうである。それからもう一つ意外な話は、地震があってから津浪の到着するまでに通例数十分かかるという平凡な科学的事実を知っている人が彼地方に非常に稀だということである。前の津浪に遭った人でも大抵そんなことは知らないそうである。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ](昭和八年五月『鉄塔』)



底本:「寺田寅彦全集 第七巻」岩波書店
   1997(平成9)年6月5日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
   1985(昭和60)年
初出:「鉄塔」
   1933(昭和8)年5月1日
※初出時の署名は「尾野倶郎」。
※単行本「蒸発皿」に収録。
※「正確な時日に」の「に」には編集部によって〔は〕の注記がついています。
入力:砂場清隆
校正:多羅尾伴内
2003年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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金太郎 楠山正雄

2011-02-12 10:08:42 | 青空文庫
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高校生新聞(大学受験ニュース)

学生街 gakuseigai


金太郎
楠山正雄



     一

 むかし、金太郎《きんたろう》という強《つよ》い子供《こども》がありました。相模国《さがみのくに》足柄山《あしがらやま》の山奥《やまおく》に生《う》まれて、おかあさんの山うばといっしょにくらしていました。
 金太郎《きんたろう》は生《う》まれた時《とき》からそれはそれは力《ちから》が強《つよ》くって、もう七つ八つのころには、石臼《いしうす》やもみぬかの俵《たわら》ぐらい、へいきで持《も》ち上《あ》げました。大抵《たいてい》の大人《おとな》を相手《あいて》にすもうを取《と》っても負《ま》けませんでした。近所《きんじょ》にもう相手《あいて》がなくなると、つまらなくなって金太郎《きんたろう》は、一|日《にち》森《もり》の中をかけまわりました。そしておかあさんにもらった大きなまさかりをかついで歩《ある》いて、やたらに大きな杉《すぎ》の木や松《まつ》の木をきり倒《たお》しては、きこりのまねをしておもしろがっていました。
 ある日|森《もり》の奥《おく》のずっと奥《おく》に入《はい》って、いつものように大きな木を切《き》っていますと、のっそり大きな熊《くま》が出て来《き》ました。熊《くま》は目を光《ひか》らせながら、
「だれだ、おれの森《もり》をあらすのは。」
 と言《い》って、とびかかって来《き》ました。すると金太郎《きんたろう》は、
「何《なん》だ、熊《くま》のくせに。金太郎《きんたろう》を知《し》らないか。」
 と言《い》いながら、まさかりをほうり出《だ》して、いきなり熊《くま》に組《く》みつきました。そして足《あし》がらをかけて、どしんと地《じ》びたに投《な》げつけました。熊《くま》はへいこうして、両手《りょうて》をついてあやまって、金太郎《きんたろう》の家来《けらい》になりました。森《もり》の中で大将《たいしょう》ぶんの熊《くま》がへいこうして金太郎《きんたろう》の家来《けらい》になったのを見《み》て、そのあとからうさぎだの、猿《さる》だの、鹿《しか》だのがぞろぞろついて来《き》て、
「金太郎《きんたろう》さん、どうぞわたくしも御家来《ごけらい》にして下《くだ》さい。」
 と言《い》いました。金太郎《きんたろう》は、「よし、よし。」とうなずいて、みんな家来《けらい》にしてやりました。
 それからは金太郎《きんたろう》は、毎朝《まいあさ》おかあさんにたくさんおむすびをこしらえて頂《いただ》いて、森《もり》の中へ出《で》かけて行きました。金太郎《きんたろう》が口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いて、
「さあ、みんな来《こ》い。みんな来《こ》い。」
 と呼《よ》びますと、熊《くま》を頭《かしら》に、鹿《しか》や猿《さる》やうさぎがのそのそ出て来《き》ました。金太郎《きんたろう》はこの家来《けらい》たちをお供《とも》に連《つ》れて、一|日《にち》山の中を歩《ある》きまわりました。ある日|方々《ほうぼう》歩《ある》いて、やがてやわらかな草《くさ》の生《は》えている所《ところ》へ来《き》ますと、みんなは足《あし》を出《だ》してそこへごろごろ寝《ね》ころびました。日がいい心持《こころも》ちそうに当《あ》たっていました。金太郎《きんたろう》が、
「さあ、みんなすもうを取《と》れ。ごほうびにはこのおむすびをやるぞ。」
 と言《い》いますと、熊《くま》がむくむくした手《て》で地《ち》を掘《ほ》って、土俵《どひょう》をこしらえました。
 はじめに猿《さる》とうさぎが取《と》り組《く》んで、鹿《しか》が行司《ぎょうじ》になりました。うさぎが猿《さる》のしっぽをつかまえて、土俵《どひょう》の外《そと》へ持《も》ち出《だ》そうとしますと、猿《さる》がくやしがって、むちゃくちゃにうさぎの長《なが》い耳《みみ》をつかんでひっぱりましたから、うさぎはいたがって手《て》をはなしました。それで勝負《しょうぶ》がつかなくなって、どちらもごほうびがもらえませんでした。
 こんどはうさぎが行司《ぎょうじ》になって、鹿《しか》と熊《くま》が取《と》り組《く》みましたが、鹿《しか》はすぐ角《つの》ごと熊《くま》にひっくり返《かえ》されてしまいました。金太郎《きんたろう》は、
「おもしろい、おもしろい。」
 と言《い》って手《て》をたたきました。とうとういちばんおしまいに金太郎《きんたろう》が土俵《どひょう》のまん中につっ立《た》って、
「さあ、みんなかかって来《こ》い。」
 と言《い》いながら、大手《おおで》をひろげました。そこでうさぎと、猿《さる》と、鹿《しか》と、いちばんおしまいに熊《くま》がかかっていきましたが、片《かた》っぱしからころころ、ころがされてしまいました。
「何《なん》だ。弱虫《よわむし》だなあ。みんないっぺんにかかって来《こ》い。」
 と金太郎《きんたろう》が言《い》いますと、くやしがってうさぎが足《あし》を持《も》つやら猿《さる》が首《くび》に手《て》をかけるやら、大《おお》さわぎになりました。そして鹿《しか》が腰《こし》を押《お》して熊《くま》が胸《むね》に組《く》みついて、みんな総《そう》がかりでうんうんいって、金太郎《きんたろう》を倒《たお》そうとしましたが、どうしても倒《たお》すことができませんでした。金太郎《きんたろう》はおしまいにじれったくなって、からだを一振《ひとふ》りうんと振《ふ》りますと、うさぎも猿《さる》も鹿《しか》も熊《くま》もみんないっぺんにごろごろ、ごろごろ土俵《どひょう》の外《そと》にころげ出《だ》してしまいました。
「ああ、いたい。ああ、いたい。」
 とみんな口々《くちぐち》に言《い》って、腰《こし》をさすったり、肩《かた》をもんだりしていました。金太郎《きんたろう》は、
「さあ、おれにまけてかわいそうだから、みんなに分《わ》けてやろう。」
 と言《い》って、うさぎと猿《さる》と鹿《しか》と熊《くま》をまわりにぐるりに並《なら》ばせて、自分《じぶん》がまん中に座《すわ》って、おむすびを分《わ》けてみんなで食《た》べました。しばらくすると金太郎《きんたろう》は、
「ああ、うまかった。さあ、もう帰《かえ》ろう。」
 と言《い》って、またみんなを連《つ》れて帰《かえ》っていきました。

     二

 帰《かえ》って行《い》く道々《みちみち》も、森《もり》の中でかけっくらをしたり、岩《いわ》の上で鬼《おに》ごっこをしたりして遊《あそ》び遊《あそ》び行《い》くうちに、大きな谷川《たにがわ》のふちへ出ました。水はごうごうと音《おと》を立《た》てて、えらい勢《いきお》いで流《なが》れて行《い》きますが、あいにく橋《はし》がかかっていませんでした。みんなは、
「どうしましょう。あとへ引《ひ》き返《かえ》しましょうか。」
 と言《い》いました。金太郎《きんたろう》はひとりへいきな顔《かお》をして、
「なあにいいよ。」
 と言《い》いながら、そこらを見《み》まわしますと、ちょうど川《かわ》の岸《きし》に二《ふた》かかえもあるような大きな杉《すぎ》の木が立《た》っていました。金太郎《きんたろう》はまさかりをほうり出《だ》して、いきなり杉《すぎ》の木に両手《りょうて》をかけました。そして二、三|度《ど》ぐんぐん押《お》したと思《おも》うと、めりめりとひどい音《おと》がして、木は川《かわ》の上にどっさりと倒《たお》れかかって、りっぱな橋《はし》ができました。金太郎《きんたろう》はまたまさかりを肩《かた》にかついで、先《さき》に立《た》って渡《わた》っていきました。みんなは顔《かお》を見合《みあ》わせて、てんでんに、
「えらい力《ちから》だなあ。」
 とささやき合《あ》いながら、ついて行きました。
 その時《とき》向《む》こうの岩《いわ》の上にきこりが一人《ひとり》かくれていて、この様子《ようす》を見《み》ていました。金太郎《きんたろう》がむぞうさに、大きな木をおし倒《たお》したのを見《み》て、目をまるくしながら、
「どうもふしぎな子供《こども》だな。どこの子供《こども》だろう。」
 と独《ひと》り言《ごと》を言《い》いました。そして立《た》ち上《あ》がって、そっと金太郎《きんたろう》のあとについて行きました。うさぎや熊《くま》に別《わか》れると、金太郎《きんたろう》は一人《ひとり》で、また身軽《みがる》にひょいひょいと谷《たに》を渡《わた》ったり、崖《がけ》を伝《つた》わったりして、深《ふか》い深《ふか》い山奥《やまおく》の一|軒家《けんや》に入《はい》っていきました。そこいらには白《しろ》い雲《くも》がわき出《だ》していました。
 きこりはそのあとからやっと木の根《ね》をよじたり、岩角《いわかど》につかまったりして、ついて行きました。やっとうちの前《まえ》まで来《き》て、きこりが中をのぞきますと、金太郎《きんたろう》はいろりの前《まえ》に座《すわ》って、おかあさんの山うばに、熊《くま》や鹿《しか》とすもうを取《と》った話《はなし》をせっせとしていました。おかあさんもおもしろそうに、にこにこ笑《わら》って聞《き》いていました。その時《とき》きこりは出《だ》しぬけに窓《まど》から首《くび》をぬっと出《だ》して、
「これこれ、坊《ぼう》や。こんどはおじさんとすもうを取《と》ろう。」
 と言《い》いながら、のこのこ入《はい》って行《い》きました。そしていきなり金太郎《きんたろう》の前《まえ》に毛《け》むくじゃらな手を出《だ》しました。山うばは「おや。」といってふしぎそうな顔《かお》つきをしましたけれど、金太郎《きんたろう》はおもしろがって、
「ああ、取《と》ろう。」
 と、すぐむくむく肥《ふと》ったかわいらしい手《て》を出《だ》しました。そこで二人《ふたり》はしばらく真《ま》っ赤《か》な顔《かお》をして押《お》し合《あ》いました。そのうちきこりはふいと、
「もう止《よ》そう。勝負《しょうぶ》がつかない。」
 と言《い》って、手《て》を引《ひ》っ込《こ》めてしまいました。それから改《あらた》めて座《すわ》りなおして、山うばに向《む》かって、ていねいにおじぎをして、
「どうも、だしぬけに失礼《しつれい》しました。じつはさっきぼっちゃんが、谷川《たにがわ》のそばで大きな杉《すぎ》の木を押《お》し倒《たお》したところを見《み》て、おどろいてここまでついて来《き》たのです。今《いま》また腕《うで》ずもうを取《と》って、いよいよ大力《だいりき》なのにおどろきました。どうしてこの子は今《いま》にえらい勇士《ゆうし》になりますよ。」
 こう言《い》って、こんどは金太郎《きんたろう》に向《む》かって、
「どうだね、坊《ぼう》やは都《みやこ》へ出てお侍《さむらい》にならないかい。」
 と言《い》いました。金太郎《きんたろう》は目をくりくりさせて、
「ああ、お侍《さむらい》になれるといいなあ。」
 と言《い》いました。
 このきこりと見《み》せたのはじつは碓井貞光《うすいのさだみつ》といって、その時分《じぶん》日本一《にほんいち》のえらい大将《たいしょう》で名高《なだか》い源頼光《みなもとのらいこう》の家来《けらい》でした。そして御主人《ごしゅじん》から強《つよ》い侍《さむらい》をさがして来《こ》いという仰《おお》せを受《う》けて、こんな風《ふう》をして日本《にほん》の国中《くにじゅう》をあちこちと歩《ある》きまわっているのでした。
 山うばもそう聞《き》くと、たいそう喜《よろこ》んで、
「じつはこの子の亡《な》くなりました父《ちち》も、坂田《さかた》というりっぱな氏《うじ》を持《も》った侍《さむらい》でございました。わけがございましてこのとおり山の中に埋《う》もれておりますものの、よいつてさえあれば、いつか都《みやこ》へ出《だ》して侍《さむらい》にして、家《いえ》の名《な》をつがせてやりたいと思《おも》っておりました。そういうことでしたら、このとおりの腕白者《わんぱくもの》でございますが、どうぞよろしくお願《ねが》い申《もう》します。」
 とさもうれしそうに言《い》いました。
 金太郎《きんたろう》はそばで二人《ふたり》の話《はなし》を聞《き》いて、
「うれしいな、うれしいな。おれはお侍《さむらい》になるのだ。」
 と言《い》って、小踊《こおど》りをしていました。
 金太郎《きんたろう》がいよいよ碓井貞光《うすいのさだみつ》に連《つ》れられて都《みやこ》へ上《のぼ》るということを聞《き》いて、熊《くま》も鹿《しか》も猿《さる》もうさぎもみんな連《つ》れ立《だ》ってお別《わか》れを言《い》いに来《き》ました。金太郎《きんたろう》はみんなの頭《あたま》を代《か》わりばんこになでてやって、
「みんな仲《なか》よく遊《あそ》んでおくれ。」
 と言《い》いました。みんなは、
「金太郎《きんたろう》さんがいなくなってさびしいなあ。早《はや》くえらい大将《たいしょう》になって、また顔《かお》を見《み》せて下《くだ》さい。」
 と言《い》って、名残《なごり》惜《お》しそうに帰《かえ》っていきました。金太郎《きんたろう》はおかあさんの前《まえ》に手《て》をついて、
「おかあさん、では行ってまいります。」
 と言《い》いました。そして、貞光《さだみつ》のあとについて、とくいらしく出ていきました。
 それから幾日《いくにち》も幾日《いくにち》もかかって、貞光《さだみつ》は金太郎《きんたろう》を連《つ》れて都《みやこ》へ帰《かえ》りました。そして頼光《らいこう》のおやしきへ行って、
「足柄山《あしがらやま》の奥《おく》で、こんな子供《こども》を見《み》つけてまいりました。」
 と、金太郎《きんたろう》を頼光《らいこう》のお目にかけました。
「ほう、これはめずらしい、強《つよ》そうな子供《こども》だ。」
 と頼光《らいこう》は言《い》いながら、金太郎《きんたろう》の頭《あたま》をさすりました。
「だが金太郎《きんたろう》という名《な》は侍《さむらい》にはおかしい。父親《ちちおや》が坂田《さかた》というのなら、今《いま》から坂田金時《さかたのきんとき》と名乗《なの》るがいい。」
 そこで金太郎《きんたろう》は坂田金時《さかたのきんとき》と名乗《なの》って、頼光《らいこう》の家来《けらい》になりました。そして大きくなると、えらいお侍《さむらい》になって、渡辺綱《わたなべのつな》、卜部季武《うらべのすえたけ》、碓井貞光《うすいのさだみつ》といっしょに、頼光《らいこう》の四|天王《てんのう》と呼《よ》ばれるようになりました。



底本:「日本の神話と十大昔話」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
   1992(平成4)年4月20日第14刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
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■■■ 『▲▲▲▲選集』後記『▲▲▲▲選集』後記. ■■■. 第一巻 ことしの夏、私はすこしからだ

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=2011-1-30 約 1910 件 gakuseigai 太宰治 井伏鱒二


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