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高大連携情報誌 調べもの新聞
【ブログ=穴埋め・論述問題】
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□ 早稲田大学演劇博物館メールニュース VOL.67 □ 2009.6.24配信
http://www.waseda.jp/enpaku/
梅雨の季節ですね。雨の中では景色も心も、なんとなくモノトーンに沈みがち
ですが、そんな時には演劇博物館で、目にも鮮やかな京劇衣装などをご覧になり
ませんか?
6月30日まで、まもなく閉幕を迎える日中文化交流『上海演劇の精華』展。
京劇・昆劇・越劇・滬劇・淮劇・滑稽戯・話劇・評弾・皮影戯・木偶戯など、
バラエティーに富んだ上海の演劇を体系的に知ることができる企画展です。これ
まで日本で紹介されることがあまりなかった上海市文化芸術档案館の秘蔵資料の
数々が日本初上陸しているこの機会、お見逃しなく!
★企画展にいらっしゃる前に、こちらのコラムもどうぞ★
本企画展担当者 演劇博物館 鈴木直子助手執筆
読売新聞×早稲田大学 ウェブサイト
「YOMIURI ONLINE『文化』コーナー」コラム
↓ ↓ ↓
「上海演劇の精華」
http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/culture/090610.htm
==<トピックス>===========================
◆【イベント】6月25日(木)★明日開催!★『第72回 逍遙祭』
★∴..∴..★..∴..★..∴..★..∴..★..∴..★..∴..★..∴..★..∴..★
【明日開催!イベント】
坪内逍遙生誕150年記念 第72回『逍遙祭』
~坪内逍遙の生誕日(5月22日)を記念して行われます~
演劇博物館の創設者 坪内逍遙の生誕を記念し、毎年開催されている『逍遙祭』
についてご案内いたします。
逍遙は、文化芸術の垣根を越えて、小説・歌舞伎・児童劇・和歌・俳句・ペー
ジェントなど様々なジャンルに意欲的に取り込んできました。その一つに日本初
のシェイクスピア全作品の翻訳があります。
今回の逍遙祭では、明治44年に帝国劇場で上演された逍遙翻訳「ハムレット」を
全く新しい形で上演いたします。
邦楽囃子笛方の福原徹氏が能楽師の小早川修氏と共に笛と謡で逍遙のハムレッ
トを創り上げます。また、逍遙の俳句をイメージとして捉え生まれた曲を、笛で
演奏します。どうぞお楽しみに。
┏……………………………………………………………………………………┓
<開催情報>
記念講演:「逍遙と役者絵」松山薫(早稲田大学図書館)
逍遙の膨大な役者絵コレクションについてお話いただきます!
記念行事:「逍遙の俳句に寄せる三つの小品」
「To be, or not to be」
逍遙訳「ハムレット」より(二作品とも委嘱初演)
作曲・出演 福原 徹(邦楽囃子笛方)
出演 小早川修(能楽師シテ方観世琉)
聞き手 濱口久仁子(逍遥協会)
○開催日時: 2009年6月25日(木) 16:00~18:00 (開場15:30)
○場 所:早稲田大学 小野記念講堂(小野梓記念館地下2階)
○入場無料・事前予約不要
○【定員200名】
※会場定員に達した場合、ご入場いただけない場合がございます。
あらかじめご了承ください。
●主催 (財)逍遙協会・早稲田大学演劇博物館
次号のメールニュースは、7月6日より開催の企画展「現代演劇シリーズ第33弾
やぶれ船で流浪する水夫たち―水族館劇場20年の航跡―【PART2】」及び関連の
演劇講座「水族館バーレスク+シンポジウム」を特集して、7月第1週にお届けい
たします。
========================================================================
企画展・演劇講座等のイベントは、すべて入場無料・予約不要です。企画展示
等の情報は、詳細が決まり次第随時ホームページにてご紹介いたします。
【演劇博物館ホームページ】
↓↓↓
http://www.waseda.jp/enpaku/index.html
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館
〒169-8050 東京都新宿区西早稲田1-6-1
http://www.waseda.jp/enpaku/
【お問合せ】tel 03-5286-1829 / news-en@list.waseda.jp
google【坪内逍遥】 約 6万9100 件 2009-6-24 21:25 NHK 坂本竜馬
1
坪内逍遥 - Wikipedia坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、正字体:逍遙、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は明治時代に活躍した日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳。 ...
ja.wikipedia.org/wiki/坪内逍遥 - キャッシュ - 類似ページ
2
作家別作品リスト:坪内 逍遥作家名:, 坪内 逍遥. 作家名読み:, つぼうち しょうよう. ローマ字表記:, Tsubouchi, Shoyo. 生年:, 1859-06-22. 没年:, 1935-02-28. 人物について:, 岐阜県加茂郡太田宿生まれ。父は代官所手代だったが、母は芸術好きの商人の子で、小さい頃から ...
www.aozora.gr.jp/index_pages/person141.html - キャッシュ - 類似ページ
3
坪内逍遥 | 近代日本人の肖像坪内逍遥の肖像 その2. 写真2:国史肖像大成; 白黒 ; 9.6×6.8cm. 岐阜生まれ。文学者。東京大学卒業後、東京専門学校(現早稲田大学)の講師、のち教授となる。日本最初の近代的文学論『小説真髄』(1885~1886)とその実践となる小説『当世書生 ...
www.ndl.go.jp/portrait/datas/293.html - キャッシュ - 類似ページ
4
坪内逍遥小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是れなり。夫れ人間は情慾の動物なれば、いかなる賢人、善者なりとて、未だ情慾を有ぬは稀れなり。賢不肖の辨別なく、必ず情慾を ...
www.asahi-net.or.jp/~pb5h.../T/tuboutisyouyou.html - キャッシュ - 類似ページ
坪内逍遥とは - はてなキーワード坪内逍遥 - つぼうちしょうよう 1859年(安政6年)~1935年(昭和10年) 美濃国生まれ 評論家 翻訳家 劇作家 作家 明治18年(1885年)に『小説神髄』を発表し、勧善懲悪が基本だった...
d.hatena.ne.jp/.../%C4%DA%C6%E2%ED%F6%CD%DA - キャッシュ - 類似ページ
坪内逍遥 【つぼうち・しょうよう】
小説家・劇作家・評論家・翻訳家。本名、坪内勇蔵(雄蔵)。安政6年6月22日(旧暦5月22日)~昭和10年2月28日。岐阜県加茂郡太田宿に生まれる。明治16年に東京大学文学部を卒業後、東京専門学校(現早稲田大学)の講師となる。明治18年、評論「小説神髄」を発表。心理主義的写実主義の原理と作法を体系的に説くもので、同時代、後代の文壇へ多大なる影響を与えた。さらに理論の実践として小説「当世書生気質」(明治18,19)を発表し、江戸戯作から近代小説への架橋の役割を果たした。明治24年、「早稲田文学」を創刊。同年から翌年にわたって森鴎外と没理想論争を繰り広げた。また、「桐一葉」(明治27,28)などの戯曲やシェイクスピアの紹介など、演劇の近代化に果たした役割も大きい。昭和10月2月28日、気管支カタルにより死去。享年75歳。代表作は「小説神髄」、「当世書生気質」、「桐一葉」、「新曲 浦島」、「義時の最期」など。
〔リンク〕
坪内逍遥@フリー百科事典『ウィキペディア』
坪内逍遥@文学者掃苔録図書館
著作目録
*準備中*
◆坪内逍遥@青空文庫
◆坪内逍遥@近現代日本文学史年表
回想録
坪内君は又教鞭をとつてゐる傍ら、新劇運動に手を着けて、遂に文芸協会を創立するに至つたことは、之又何人も知るところである。而して坪内君の新劇運動は、早稲田学園関係者の一部から睨まれて、多少の圧迫を蒙つたことがあるのみならず、私までも相当迷惑したのであつた。例へば評議員の一人たる犬養毅君の如き、苟くも学校の教師たる者が、芝居のことに関係し、剰さへ学生に白粉をつけさせて、役者の真似をさせるといふやうなことはもつての外のことであると、私に向つて議論したことが一再ならずあつた。然るにさういふ考を抱く人も、坪内君の真面目な態度に打たれて、段々了解するやうになり、遂に早稲田に演劇博物館まで出来るやうになつたことを考へると、私としては殆んど隔世の感がある。
高田早苗「早稲田学園と坪内逍遥」
昭和10年4月
もし、戯曲の技術からいへば、後の岡本綺堂氏の方が軽妙であるだらう。先生の大阪落城物にしても、鎌倉の悲劇系統の物にしても、可なり灰汁があつて、野暮つたいものだ。しかし、明治三十年以前に、日本在来の歌舞伎劇と沙翁劇とを参酌して、あれだけの試みをした者は博士の他にない。(中略)
私は嘗て先生から親しく「名残の星月夜」が上演された時、大向から――否な大向からばかりではない――見物席から、非道い半畳が飛んで、「馬鹿博士!」とまで口汚く罵られた残念さを洩されたことがあつた。
事実、あの大船の中での尼将軍と実朝との長ぜりふには、一般の見物はまゐつてしまふであらう。だが、尼御台と実朝の実情をいへば、あんなものであつたらう。それで私は思つた。芸術の創作は困難なものだ。あの複雑錯綜した鎌倉三代の悲劇の表裏を遺憾なく見物に納得さするには、あそこまで物語らせないと、殊に坪内先生の如き念には念を入れる性質の人には気が済まない。私は、「名残の星月夜」を、何とかもう一と工夫して、先生の生前に上演する日があるのを、ひそかに待つてゐたのだが、終にその時は来らずして、先生は死んで逝かれたのだ。
近松秋江「坪内逍遥先生片鱗」
昭和10年4月
坪内先生は、私の原稿を細かく読んで下さり、例へばこういふ意味の重大な注意を与へて下すつた。一旦作品の中に登場した人物がどこかでスーと消えてはいけない。必ず結着ある退場をするやうに描がかれなければならないし、又スーと立ち消えるやうな重要性のない人物がドタ/\作品の中に出て来ることはよくない、と。
これは、あらゆる時代に小説を書く上での意味ある注意として役立つものであらう。
先生は、その時に、小説に師匠はいらぬ。お前はお前のやりたいやうにやつて行け、といふ意味のことをも云はれたと思ふ。何しろ十八や九の小娘が小説を事き出し中央公論に発表されたと云つても、謂はゞ芸術家としてそれはまだ海のものとも山のものともつかず、前途は茫漠としてゐる。先生は、人生の練達者であられたから、恐らく様々な複雑困難な、日本の社会では特に女にとつて面倒な将来の永い路を見とほされて、大乗的激励を与へて下さつたのであつたらうと思ふ。
中条百合子「坪内先生について」
昭和10年4月
併し、血縁の者として、私がやめてくれたらなァ、と思ふ事も事も相当ある。それは、他人はみんな感心もし、褒めもするけれど、教室で講義の時の身振りや表情、それから芝居の稽古をする時に立つて行つてして見せる事、この二つはやめてほしいと云ひたかつた事が何遍もある。成程シエークスピヤの講義を身振り表情入りでするのは天下一品でもあり、決して悪い事ではないが、私から見ると、それがあんまりうまくない。朗読だけは自負してゐた通り上手だ。九代目団十郎に負けぬ声量と変化とをもつてゐた。併し、身振りと表情はうまくない。が、私こそハラ/\して見てゐるものの、それがそれ例の熱心さ。見る者聞く者は、その手つきの不器用さや表情の滑稽さを感知する前に、まづ其の熱に圧伏させられてしまふ。あれよ/\と驚嘆し魅了させられる。第一あの講義から、あの表情から、意気込みを抜いたら見てゐられなかつたかも知れない。下手な寄席芸人の芸以下に厭味なものになつたかも知れない。と同様に、芝居の監督をする時に、よく舞台へ上つて行つて自身にやつて見せた。(中略)淀君狂乱の笑ひでも、傍の見る目、芸の巧拙などは全く意中におかずに、それこそ当人が気違ひになつたのではないかと疑はれるまでの夢中さで、大きな口を開いて、不器用に手を振り回して「アハヽヽ」、「オホヽヽ」と笑つて見せる。こつちこそ笑ひたいのだが、それがそれ例の熱心さ。(中略)あの意気込みには全くかなはない。
坪内士行「叔父逍遥の思ひ出」
昭和10年4月
先生が当時腑に落ちぬことがあつて、卒然早稲田大学の教授を辞され、熱海の地に韜晦された時の如き、何人も是を惜んで留任を請うたが、頑として動かれなかつた。またある時期以来宴席等社交の会へ一切顔を出されなかつたことも、往々潔癖過ぎると云はれる程徹底したものであつた。西園寺公が時の文壇人を招いて雨声会を催した時の如き、平日はかなり是等の門閥貴族を白眼視して居た文豪詩傑さへ、理屈なしに喜んで走せ乗じた。此間に在つてピツタリ断つて一度も顔を出さなかつたのは先生であつた。それなら先生は友と会して盃を交すことを欲しない人であつたかと云ふと、必しもさうではなかつたらしい。門下生が集つて先生を中心とした小羊会の如き場合は、趣向をこらして宴を設け、恐縮する程斡旋の労をとられて如何にも愉快さうに見える時もあつた。而し一端かうと定めたことは、誰が何と云つても槓杆でも動かうとされない。頑固な老爺と云ふ陰口のあつた所以であらう。殊に晩年は益々この性行が鮮かであつて、人によつてはまるで腫物にさはる様にヒタ恐れに惧れて居た人もあつたらしい。
宮田修「モーラリストとしての坪内先生」
昭和10年3月
先生が、明治十四年以来手をつけてゐた『小説神髄』は明治十六年に一先づ脱稿したが、それを更に練つた上、十八年三月いよいよ発表されることになつた。そこで先生の流儀としてたゞ理論をのみ投げ出すことはせず、その理論を実行したものとして、新作『当世書生気質』をも併せて発表することにした。ところが、出版書肆の都合で『神髄』の方は三月に発表されず、九月に及んで漸く出版されたので、理論が先で作品が後といふ順序が狂つて、作品が先で理論が後といふことになつた。
『書生気質』は当時小説改良の機運が動いてゐた為めと、時代の注目する書生階級の生活を描破した点と、作者が文学士だといふ点が、口をきいて、大にうれた。その人気のあるところに『神髄』を出したのは、却て策の得たものであつたかも知れない。
『神髄』の排勧懲主義、写実中心の新しい文学観が大きなしつかりした勢力となるには多少の時日を要した。然しそれは、公にされた当時かうして読む人々の心に革命的ショックを与へたことは事実だ。(今煩を厭ふて一々引証しない)。前にもいつたやうに当時文学改良の意識は動き、この試みもぽつぽつ出かけてゐた。然しその改良といふのは、当時の文学と遊離しかけに来た勧懲主義目的主義を更に徹底させるための改良であつた。そこへもつて来て、同じ文学改良の機運に乗じて出た『神髄』が、勧懲主義を否定して根本的に文学観を新なものにしやうと企てたのだから、読む人が大に驚いたのも無理はない。
柳田泉「逍遥先生神髄」
昭和10年4月
大正十二年のあの大震災の当日から五六日たつてであると思ふ。私は当時住んでゐた日暮里から、上野へ出て、銅像前から下谷浅草一円の荒廃の彼方に、隅田川が太古の姿のやうに悠々と流れてゐるのを眺めやつて、茫然として、当時の雑多な人々の往き交ふ街路を万世橋の方へ歩いて行くと、向ふから洋服姿の坪内先生が颯々と歩を運んで来られるのを見掛けた。何処へいらつしやるのですかとお尋ねすると、今日は丸の内の方から丸善へ廻つて、どうなつてゐるか見て来たが、いやどうも言語に絶したものだ、この自然の大破壊を機会に総ての立て直しをやらなければ駄目だ。先日君に約束したものは書いて置いたから、いつでも取りにおいでなさいと言はれて、江戸川縁に沿うて、聖堂の方へ曲つて行かれたのを、私は暫く見送つてゐた。総ての立て直しをやると言はれた事が、強く胸に響いてゐた。
先生が蔵書一切を挙げて、学校の図書館へ寄附されたのも、それが機会であつた。それまでは外出にも大方和服であらせられたのが、旧に帰られて洋服に改められたのもそれからである。歌舞伎劇の発達史を改めて講義を初められたのも、シエクスピアの翻訳完成に一意専念せられたのもそれからであつたと思ふ。決意と決行との風発迅速の姿は、いつもの事だが周囲の者を驚かすばかりに進展して行つた。
吉江喬松「坪内先生追憶」
昭和10年4月
学生時代にわたくしたちの心に映つた坪内先生はあまり大き過ぎた。島村先生や片上先生ならば、直ぐ近づいて行つて、こちらの愚問でも、一身のつまらぬ話でも平気で持つて行くことができたが、坪内先生に対しては所詮そんなことができようとは思はなかつた。文科の教室は天井の低い、暗い、古ぼけたあばら家のやうな部屋であつたが、そこに先生が、いつも和服で、テキストと出席薄を抱へておいでになる。講壇の上にお立ちになつてゐる姿をつゝしんで拝んでゐるといふのがわたくしたちの心境であつた。実際そのころのわたくしたちの文学上の知識だの常識だのといふものは、今日の青年たちと比較したら、お話にならない程の幼稚なものであつたから、坪内先生と学生たちの間には随分遠い間隔があつたやうに思ふ。ちよつと接近しても見たいが、余り貧弱な自分をかへり見ては近づいてゆくのが恐ろしい。先生の前ではうつかり口もきけぬ。といふやうな考がわたくしたちの頭を支配してゐた。
吉田絃二郎「逍遥先生を思ふ」
昭和10年4月
明治18年 明治40年 大正13年
【有名人の出身大学ランキング】
【小説家・文筆家出身大学ランキング】
1位 早稲田大学 159人
2位 東京大学 137人
3位 慶應義塾大学 59人
4位 明治大学 43人
5位 京都大学 38人
6位 立教大学 31人
7位 日本大学 26人
8位 青山学院大学 ・ 同志社大学 ・ 中央大学 17人
11位 法政大学 15人
12位 大阪大学 ・ 東京外国語大学 13人
14位 学習院大学 ・ 九州大学 ・ 上智大学 ・ 立命館大学 12人
18位 東北大学 ・ 一橋大学 11人
20位 北海道大学 ・ 國學院大學 ・ 金沢大学 ・ 東京女子大学 10人
24位 熊本大学 9人
25位 筑波大学 ・ 武蔵野美術大学 ・ 成城大学 ・ 大阪芸術大学 8人
29位 名古屋大学 ・ 東京藝術大学 7人
31位 信州大学 ・ 大阪府立大学 ・ 関西学院大学 ・ 専修大学 ・ 成蹊大学 6人
36位 日本女子大学 ・ 埼玉大学 ・ 東洋大学 ・ お茶の水女子大学 ・ 明治学院大学 5人
41位 山形大学 ・ 千葉大学 ・ 広島大学 4人
44位 横浜市立大学 ・ 東京経済大学 ・ 静岡大学 ・ 津田塾大学 ・ 関西大学 ・ 首都大学東京 ・ 新潟大学 ・ 聖心女子大学 ・ 横浜国立大学 ・ 大阪市立大学 ・ 小樽商科大学 ・ 長崎大学 ・ 国際基督教大学 3人
57位 武蔵大学 ・ 島根大学 ・ 高知大学 ・ 獨協大学 ・ 鹿児島大学 ・ 藤女子大学 ・ 白百合女子大学 ・ 拓殖大学 ・ 北海学園大学 ・ 東京国際大学 ・ 駒澤大学 ・ 京都女子大学 ・ 芝浦工業大学 ・ 京都府立大学 ・ 東京電機大学 ・ 琉球大学 ・ 山口大学 ・ 玉川大学 ・ 名古屋工業大学 ・ 大谷大学 ・ 北海道教育大学 ・ 東京農工大学 ・ 茨城大学 ・ 神奈川大学 ・ 追手門学院大学 ・ 神戸大学 2人
83位 大阪電気通信大学 ・ 南山大学 ・ 愛知教育大学 ・ 甲南大学 ・ 弘前大学 ・ 近畿大学 ・ 二松學舍大学 ・ 福岡大学 ・ 愛知大学 ・ 函館大谷短期大学 ・ 大阪大谷大学 ・ 亜細亜大学 ・ 三重大学 ・ 同志社女子大学 ・ 大阪工業大学 ・ 愛知県立大学 ・ 相愛大学 ・ 岩手県立大学 ・ 和光大学 ・ 豊橋技術科学大学 ・ 都留文科大学 ・ 共立女子大学 ・ 名古屋芸術大学 ・ 東海大学 ・ 千葉商科大学 ・ 工学院大学 ・ 大妻女子大学 ・ 尚美学園大学 ・ 名古屋造形大学 ・ 東北薬科大学 ・ 神奈川歯科大学 ・ 京都市立芸術大学 ・ 跡見学園女子大学 ・ 目白大学 ・ 東京女学館大学 ・ 岡山大学 ・ 明星大学 ・ 神戸女学院大学 ・ 東京医科大学 ・ 京都外国語大学 ・ 大東文化大学 ・ 多摩美術大学 ・ 愛媛大学 ・ 東京学芸大学 ・ 大阪教育大学 ・ 佛教大学 ・ 明治薬科大学 ・ 大阪樟蔭女子大学 ・ 文教大学 ・ 京都教育大学 ・ 関西外国語大学 ・ 昭和大学 ・ 東京工芸大学 ・ 奈良女子大学 ・ 実践女子大学 ・ 女子美術大学 ・ 岩手大学 ・ 二松学舎大学 ・ 大正大学 ・ 札幌医科大学 ・ 帝塚山学院短期大学 ・ 福岡教育大学 ・ 名古屋市立大学 ・ 東京工業大学 ・ 愛知淑徳大学 ・ 平成国際大学 ・ 金沢学院大学 ・ 武蔵野大学 ・ 電気通信大学 ・ 九州産業大学 ・ 立正大学 ・ ノートルダム清心女子大学 ・ 西南学院大学 ・ 武蔵工業大学 ・ 福島大学 ・ 学習院女子大学 ・ 秋田大学 1人
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ですが、そんな時には演劇博物館で、目にも鮮やかな京劇衣装などをご覧になり
ませんか?
6月30日まで、まもなく閉幕を迎える日中文化交流『上海演劇の精華』展。
京劇・昆劇・越劇・滬劇・淮劇・滑稽戯・話劇・評弾・皮影戯・木偶戯など、
バラエティーに富んだ上海の演劇を体系的に知ることができる企画展です。これ
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坪内逍遙生誕150年記念 第72回『逍遙祭』
~坪内逍遙の生誕日(5月22日)を記念して行われます~
演劇博物館の創設者 坪内逍遙の生誕を記念し、毎年開催されている『逍遙祭』
についてご案内いたします。
逍遙は、文化芸術の垣根を越えて、小説・歌舞伎・児童劇・和歌・俳句・ペー
ジェントなど様々なジャンルに意欲的に取り込んできました。その一つに日本初
のシェイクスピア全作品の翻訳があります。
今回の逍遙祭では、明治44年に帝国劇場で上演された逍遙翻訳「ハムレット」を
全く新しい形で上演いたします。
邦楽囃子笛方の福原徹氏が能楽師の小早川修氏と共に笛と謡で逍遙のハムレッ
トを創り上げます。また、逍遙の俳句をイメージとして捉え生まれた曲を、笛で
演奏します。どうぞお楽しみに。
┏……………………………………………………………………………………┓
<開催情報>
記念講演:「逍遙と役者絵」松山薫(早稲田大学図書館)
逍遙の膨大な役者絵コレクションについてお話いただきます!
記念行事:「逍遙の俳句に寄せる三つの小品」
「To be, or not to be」
逍遙訳「ハムレット」より(二作品とも委嘱初演)
作曲・出演 福原 徹(邦楽囃子笛方)
出演 小早川修(能楽師シテ方観世琉)
聞き手 濱口久仁子(逍遥協会)
○開催日時: 2009年6月25日(木) 16:00~18:00 (開場15:30)
○場 所:早稲田大学 小野記念講堂(小野梓記念館地下2階)
○入場無料・事前予約不要
○【定員200名】
※会場定員に達した場合、ご入場いただけない場合がございます。
あらかじめご了承ください。
●主催 (財)逍遙協会・早稲田大学演劇博物館
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やぶれ船で流浪する水夫たち―水族館劇場20年の航跡―【PART2】」及び関連の
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等の情報は、詳細が決まり次第随時ホームページにてご紹介いたします。
【演劇博物館ホームページ】
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早稲田大学坪内博士記念演劇博物館
〒169-8050 東京都新宿区西早稲田1-6-1
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google【坪内逍遥】 約 6万9100 件 2009-6-24 21:25 NHK 坂本竜馬
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坪内逍遥 - Wikipedia坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、正字体:逍遙、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は明治時代に活躍した日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』およびシェイクスピア全集の翻訳。 ...
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作家別作品リスト:坪内 逍遥作家名:, 坪内 逍遥. 作家名読み:, つぼうち しょうよう. ローマ字表記:, Tsubouchi, Shoyo. 生年:, 1859-06-22. 没年:, 1935-02-28. 人物について:, 岐阜県加茂郡太田宿生まれ。父は代官所手代だったが、母は芸術好きの商人の子で、小さい頃から ...
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坪内逍遥 | 近代日本人の肖像坪内逍遥の肖像 その2. 写真2:国史肖像大成; 白黒 ; 9.6×6.8cm. 岐阜生まれ。文学者。東京大学卒業後、東京専門学校(現早稲田大学)の講師、のち教授となる。日本最初の近代的文学論『小説真髄』(1885~1886)とその実践となる小説『当世書生 ...
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坪内逍遥小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。人情とはいかなるものをいふや。曰く、人情とは人間の情慾にて、所謂百八煩悩是れなり。夫れ人間は情慾の動物なれば、いかなる賢人、善者なりとて、未だ情慾を有ぬは稀れなり。賢不肖の辨別なく、必ず情慾を ...
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坪内逍遥とは - はてなキーワード坪内逍遥 - つぼうちしょうよう 1859年(安政6年)~1935年(昭和10年) 美濃国生まれ 評論家 翻訳家 劇作家 作家 明治18年(1885年)に『小説神髄』を発表し、勧善懲悪が基本だった...
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坪内逍遥 【つぼうち・しょうよう】
小説家・劇作家・評論家・翻訳家。本名、坪内勇蔵(雄蔵)。安政6年6月22日(旧暦5月22日)~昭和10年2月28日。岐阜県加茂郡太田宿に生まれる。明治16年に東京大学文学部を卒業後、東京専門学校(現早稲田大学)の講師となる。明治18年、評論「小説神髄」を発表。心理主義的写実主義の原理と作法を体系的に説くもので、同時代、後代の文壇へ多大なる影響を与えた。さらに理論の実践として小説「当世書生気質」(明治18,19)を発表し、江戸戯作から近代小説への架橋の役割を果たした。明治24年、「早稲田文学」を創刊。同年から翌年にわたって森鴎外と没理想論争を繰り広げた。また、「桐一葉」(明治27,28)などの戯曲やシェイクスピアの紹介など、演劇の近代化に果たした役割も大きい。昭和10月2月28日、気管支カタルにより死去。享年75歳。代表作は「小説神髄」、「当世書生気質」、「桐一葉」、「新曲 浦島」、「義時の最期」など。
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著作目録
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回想録
坪内君は又教鞭をとつてゐる傍ら、新劇運動に手を着けて、遂に文芸協会を創立するに至つたことは、之又何人も知るところである。而して坪内君の新劇運動は、早稲田学園関係者の一部から睨まれて、多少の圧迫を蒙つたことがあるのみならず、私までも相当迷惑したのであつた。例へば評議員の一人たる犬養毅君の如き、苟くも学校の教師たる者が、芝居のことに関係し、剰さへ学生に白粉をつけさせて、役者の真似をさせるといふやうなことはもつての外のことであると、私に向つて議論したことが一再ならずあつた。然るにさういふ考を抱く人も、坪内君の真面目な態度に打たれて、段々了解するやうになり、遂に早稲田に演劇博物館まで出来るやうになつたことを考へると、私としては殆んど隔世の感がある。
高田早苗「早稲田学園と坪内逍遥」
昭和10年4月
もし、戯曲の技術からいへば、後の岡本綺堂氏の方が軽妙であるだらう。先生の大阪落城物にしても、鎌倉の悲劇系統の物にしても、可なり灰汁があつて、野暮つたいものだ。しかし、明治三十年以前に、日本在来の歌舞伎劇と沙翁劇とを参酌して、あれだけの試みをした者は博士の他にない。(中略)
私は嘗て先生から親しく「名残の星月夜」が上演された時、大向から――否な大向からばかりではない――見物席から、非道い半畳が飛んで、「馬鹿博士!」とまで口汚く罵られた残念さを洩されたことがあつた。
事実、あの大船の中での尼将軍と実朝との長ぜりふには、一般の見物はまゐつてしまふであらう。だが、尼御台と実朝の実情をいへば、あんなものであつたらう。それで私は思つた。芸術の創作は困難なものだ。あの複雑錯綜した鎌倉三代の悲劇の表裏を遺憾なく見物に納得さするには、あそこまで物語らせないと、殊に坪内先生の如き念には念を入れる性質の人には気が済まない。私は、「名残の星月夜」を、何とかもう一と工夫して、先生の生前に上演する日があるのを、ひそかに待つてゐたのだが、終にその時は来らずして、先生は死んで逝かれたのだ。
近松秋江「坪内逍遥先生片鱗」
昭和10年4月
坪内先生は、私の原稿を細かく読んで下さり、例へばこういふ意味の重大な注意を与へて下すつた。一旦作品の中に登場した人物がどこかでスーと消えてはいけない。必ず結着ある退場をするやうに描がかれなければならないし、又スーと立ち消えるやうな重要性のない人物がドタ/\作品の中に出て来ることはよくない、と。
これは、あらゆる時代に小説を書く上での意味ある注意として役立つものであらう。
先生は、その時に、小説に師匠はいらぬ。お前はお前のやりたいやうにやつて行け、といふ意味のことをも云はれたと思ふ。何しろ十八や九の小娘が小説を事き出し中央公論に発表されたと云つても、謂はゞ芸術家としてそれはまだ海のものとも山のものともつかず、前途は茫漠としてゐる。先生は、人生の練達者であられたから、恐らく様々な複雑困難な、日本の社会では特に女にとつて面倒な将来の永い路を見とほされて、大乗的激励を与へて下さつたのであつたらうと思ふ。
中条百合子「坪内先生について」
昭和10年4月
併し、血縁の者として、私がやめてくれたらなァ、と思ふ事も事も相当ある。それは、他人はみんな感心もし、褒めもするけれど、教室で講義の時の身振りや表情、それから芝居の稽古をする時に立つて行つてして見せる事、この二つはやめてほしいと云ひたかつた事が何遍もある。成程シエークスピヤの講義を身振り表情入りでするのは天下一品でもあり、決して悪い事ではないが、私から見ると、それがあんまりうまくない。朗読だけは自負してゐた通り上手だ。九代目団十郎に負けぬ声量と変化とをもつてゐた。併し、身振りと表情はうまくない。が、私こそハラ/\して見てゐるものの、それがそれ例の熱心さ。見る者聞く者は、その手つきの不器用さや表情の滑稽さを感知する前に、まづ其の熱に圧伏させられてしまふ。あれよ/\と驚嘆し魅了させられる。第一あの講義から、あの表情から、意気込みを抜いたら見てゐられなかつたかも知れない。下手な寄席芸人の芸以下に厭味なものになつたかも知れない。と同様に、芝居の監督をする時に、よく舞台へ上つて行つて自身にやつて見せた。(中略)淀君狂乱の笑ひでも、傍の見る目、芸の巧拙などは全く意中におかずに、それこそ当人が気違ひになつたのではないかと疑はれるまでの夢中さで、大きな口を開いて、不器用に手を振り回して「アハヽヽ」、「オホヽヽ」と笑つて見せる。こつちこそ笑ひたいのだが、それがそれ例の熱心さ。(中略)あの意気込みには全くかなはない。
坪内士行「叔父逍遥の思ひ出」
昭和10年4月
先生が当時腑に落ちぬことがあつて、卒然早稲田大学の教授を辞され、熱海の地に韜晦された時の如き、何人も是を惜んで留任を請うたが、頑として動かれなかつた。またある時期以来宴席等社交の会へ一切顔を出されなかつたことも、往々潔癖過ぎると云はれる程徹底したものであつた。西園寺公が時の文壇人を招いて雨声会を催した時の如き、平日はかなり是等の門閥貴族を白眼視して居た文豪詩傑さへ、理屈なしに喜んで走せ乗じた。此間に在つてピツタリ断つて一度も顔を出さなかつたのは先生であつた。それなら先生は友と会して盃を交すことを欲しない人であつたかと云ふと、必しもさうではなかつたらしい。門下生が集つて先生を中心とした小羊会の如き場合は、趣向をこらして宴を設け、恐縮する程斡旋の労をとられて如何にも愉快さうに見える時もあつた。而し一端かうと定めたことは、誰が何と云つても槓杆でも動かうとされない。頑固な老爺と云ふ陰口のあつた所以であらう。殊に晩年は益々この性行が鮮かであつて、人によつてはまるで腫物にさはる様にヒタ恐れに惧れて居た人もあつたらしい。
宮田修「モーラリストとしての坪内先生」
昭和10年3月
先生が、明治十四年以来手をつけてゐた『小説神髄』は明治十六年に一先づ脱稿したが、それを更に練つた上、十八年三月いよいよ発表されることになつた。そこで先生の流儀としてたゞ理論をのみ投げ出すことはせず、その理論を実行したものとして、新作『当世書生気質』をも併せて発表することにした。ところが、出版書肆の都合で『神髄』の方は三月に発表されず、九月に及んで漸く出版されたので、理論が先で作品が後といふ順序が狂つて、作品が先で理論が後といふことになつた。
『書生気質』は当時小説改良の機運が動いてゐた為めと、時代の注目する書生階級の生活を描破した点と、作者が文学士だといふ点が、口をきいて、大にうれた。その人気のあるところに『神髄』を出したのは、却て策の得たものであつたかも知れない。
『神髄』の排勧懲主義、写実中心の新しい文学観が大きなしつかりした勢力となるには多少の時日を要した。然しそれは、公にされた当時かうして読む人々の心に革命的ショックを与へたことは事実だ。(今煩を厭ふて一々引証しない)。前にもいつたやうに当時文学改良の意識は動き、この試みもぽつぽつ出かけてゐた。然しその改良といふのは、当時の文学と遊離しかけに来た勧懲主義目的主義を更に徹底させるための改良であつた。そこへもつて来て、同じ文学改良の機運に乗じて出た『神髄』が、勧懲主義を否定して根本的に文学観を新なものにしやうと企てたのだから、読む人が大に驚いたのも無理はない。
柳田泉「逍遥先生神髄」
昭和10年4月
大正十二年のあの大震災の当日から五六日たつてであると思ふ。私は当時住んでゐた日暮里から、上野へ出て、銅像前から下谷浅草一円の荒廃の彼方に、隅田川が太古の姿のやうに悠々と流れてゐるのを眺めやつて、茫然として、当時の雑多な人々の往き交ふ街路を万世橋の方へ歩いて行くと、向ふから洋服姿の坪内先生が颯々と歩を運んで来られるのを見掛けた。何処へいらつしやるのですかとお尋ねすると、今日は丸の内の方から丸善へ廻つて、どうなつてゐるか見て来たが、いやどうも言語に絶したものだ、この自然の大破壊を機会に総ての立て直しをやらなければ駄目だ。先日君に約束したものは書いて置いたから、いつでも取りにおいでなさいと言はれて、江戸川縁に沿うて、聖堂の方へ曲つて行かれたのを、私は暫く見送つてゐた。総ての立て直しをやると言はれた事が、強く胸に響いてゐた。
先生が蔵書一切を挙げて、学校の図書館へ寄附されたのも、それが機会であつた。それまでは外出にも大方和服であらせられたのが、旧に帰られて洋服に改められたのもそれからである。歌舞伎劇の発達史を改めて講義を初められたのも、シエクスピアの翻訳完成に一意専念せられたのもそれからであつたと思ふ。決意と決行との風発迅速の姿は、いつもの事だが周囲の者を驚かすばかりに進展して行つた。
吉江喬松「坪内先生追憶」
昭和10年4月
学生時代にわたくしたちの心に映つた坪内先生はあまり大き過ぎた。島村先生や片上先生ならば、直ぐ近づいて行つて、こちらの愚問でも、一身のつまらぬ話でも平気で持つて行くことができたが、坪内先生に対しては所詮そんなことができようとは思はなかつた。文科の教室は天井の低い、暗い、古ぼけたあばら家のやうな部屋であつたが、そこに先生が、いつも和服で、テキストと出席薄を抱へておいでになる。講壇の上にお立ちになつてゐる姿をつゝしんで拝んでゐるといふのがわたくしたちの心境であつた。実際そのころのわたくしたちの文学上の知識だの常識だのといふものは、今日の青年たちと比較したら、お話にならない程の幼稚なものであつたから、坪内先生と学生たちの間には随分遠い間隔があつたやうに思ふ。ちよつと接近しても見たいが、余り貧弱な自分をかへり見ては近づいてゆくのが恐ろしい。先生の前ではうつかり口もきけぬ。といふやうな考がわたくしたちの頭を支配してゐた。
吉田絃二郎「逍遥先生を思ふ」
昭和10年4月
明治18年 明治40年 大正13年
【有名人の出身大学ランキング】
【小説家・文筆家出身大学ランキング】
1位 早稲田大学 159人
2位 東京大学 137人
3位 慶應義塾大学 59人
4位 明治大学 43人
5位 京都大学 38人
6位 立教大学 31人
7位 日本大学 26人
8位 青山学院大学 ・ 同志社大学 ・ 中央大学 17人
11位 法政大学 15人
12位 大阪大学 ・ 東京外国語大学 13人
14位 学習院大学 ・ 九州大学 ・ 上智大学 ・ 立命館大学 12人
18位 東北大学 ・ 一橋大学 11人
20位 北海道大学 ・ 國學院大學 ・ 金沢大学 ・ 東京女子大学 10人
24位 熊本大学 9人
25位 筑波大学 ・ 武蔵野美術大学 ・ 成城大学 ・ 大阪芸術大学 8人
29位 名古屋大学 ・ 東京藝術大学 7人
31位 信州大学 ・ 大阪府立大学 ・ 関西学院大学 ・ 専修大学 ・ 成蹊大学 6人
36位 日本女子大学 ・ 埼玉大学 ・ 東洋大学 ・ お茶の水女子大学 ・ 明治学院大学 5人
41位 山形大学 ・ 千葉大学 ・ 広島大学 4人
44位 横浜市立大学 ・ 東京経済大学 ・ 静岡大学 ・ 津田塾大学 ・ 関西大学 ・ 首都大学東京 ・ 新潟大学 ・ 聖心女子大学 ・ 横浜国立大学 ・ 大阪市立大学 ・ 小樽商科大学 ・ 長崎大学 ・ 国際基督教大学 3人
57位 武蔵大学 ・ 島根大学 ・ 高知大学 ・ 獨協大学 ・ 鹿児島大学 ・ 藤女子大学 ・ 白百合女子大学 ・ 拓殖大学 ・ 北海学園大学 ・ 東京国際大学 ・ 駒澤大学 ・ 京都女子大学 ・ 芝浦工業大学 ・ 京都府立大学 ・ 東京電機大学 ・ 琉球大学 ・ 山口大学 ・ 玉川大学 ・ 名古屋工業大学 ・ 大谷大学 ・ 北海道教育大学 ・ 東京農工大学 ・ 茨城大学 ・ 神奈川大学 ・ 追手門学院大学 ・ 神戸大学 2人
83位 大阪電気通信大学 ・ 南山大学 ・ 愛知教育大学 ・ 甲南大学 ・ 弘前大学 ・ 近畿大学 ・ 二松學舍大学 ・ 福岡大学 ・ 愛知大学 ・ 函館大谷短期大学 ・ 大阪大谷大学 ・ 亜細亜大学 ・ 三重大学 ・ 同志社女子大学 ・ 大阪工業大学 ・ 愛知県立大学 ・ 相愛大学 ・ 岩手県立大学 ・ 和光大学 ・ 豊橋技術科学大学 ・ 都留文科大学 ・ 共立女子大学 ・ 名古屋芸術大学 ・ 東海大学 ・ 千葉商科大学 ・ 工学院大学 ・ 大妻女子大学 ・ 尚美学園大学 ・ 名古屋造形大学 ・ 東北薬科大学 ・ 神奈川歯科大学 ・ 京都市立芸術大学 ・ 跡見学園女子大学 ・ 目白大学 ・ 東京女学館大学 ・ 岡山大学 ・ 明星大学 ・ 神戸女学院大学 ・ 東京医科大学 ・ 京都外国語大学 ・ 大東文化大学 ・ 多摩美術大学 ・ 愛媛大学 ・ 東京学芸大学 ・ 大阪教育大学 ・ 佛教大学 ・ 明治薬科大学 ・ 大阪樟蔭女子大学 ・ 文教大学 ・ 京都教育大学 ・ 関西外国語大学 ・ 昭和大学 ・ 東京工芸大学 ・ 奈良女子大学 ・ 実践女子大学 ・ 女子美術大学 ・ 岩手大学 ・ 二松学舎大学 ・ 大正大学 ・ 札幌医科大学 ・ 帝塚山学院短期大学 ・ 福岡教育大学 ・ 名古屋市立大学 ・ 東京工業大学 ・ 愛知淑徳大学 ・ 平成国際大学 ・ 金沢学院大学 ・ 武蔵野大学 ・ 電気通信大学 ・ 九州産業大学 ・ 立正大学 ・ ノートルダム清心女子大学 ・ 西南学院大学 ・ 武蔵工業大学 ・ 福島大学 ・ 学習院女子大学 ・ 秋田大学 1人