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【センター試験・①~⑩】

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大学入試センター試験 - Wikipedia大学入試センター試験(だいがくにゅうしセンターしけん、National Center Test for University Admissions)とは、独立行政法人大学入試センターによって例年1月中旬の土曜日・日曜日の2日間にわたって行われる日本の大学の共通入学試験である。 ...
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[大学受験・世界史]③クシャーナ朝・カニシカ王

2008-08-22 09:50:00 | 世界史
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[大学受験・世界史の論述のトレーニング]
参考文献: 問合せ:::nakamurayoshio@gmail.com
①Z会出版 段階式 世界史論述のトレーニング 
     ②歴史図書総目録 2007年度版 400円
     ③河合出版 世界史論述 例題69+練習問題+有料添削 
     ④岩波書店 「鹿野政直思想史論集 全7巻 四六判・平均440頁
     ⑤浜島書店 新詳日本史www.hamajima.co.jp 環境に易しい再生紙使用
     ⑥帝国書院 最新世界史図説タペストリー [※タペストリーとは?] 
     ⑦秋田書店 臨時増刊歴史と旅 昭和61年4月5日発行 
     ⑧学研 駿台予備校斉藤の直前講習 世界史B 文化史&人物
     ⑨毎日新聞社 1億人の昭和史11 昭和への道程ー大正 1976.3
⑩NHK第2放送 心をよむ 聖書・コーラン1985.10~86.3
       聖書   赤司道雄 立教大学教授・同仁キリスト教会牧師
       コーラン 牧野信也 東京外国語大学教授
  日本放送出版協会 〒150 東京都渋谷区宇多川町41-1 定価700円

出典:①Z会出版 段階式 世界史論述のトレーニング P23 の解答例

「クシャーナ朝は西北インドから中央アジアを支配し、中国とローマを結ぶ交通路の要衝を押さえ、東西交易によって経済的に栄えた。  (ぴったり 60字)

 

   


出典:⑥帝国書院 最新世界史図説タペストリー 72頁 

カニシカ王

「クシャーナ朝の最大版図を形成し、全盛期を築く。佛教に篤く帰依し、第四回仏典結集を行った。」(44字)

「クシャーナ朝の最大版図を形成し、全盛期を築く。佛教に篤く帰依し、第四回仏典結集を行った。首都プルシャプラを中心に、多くの寺院、仏像を造営し、ガンダーラ美術を盛んにした。」(84字)



[編集] 参考文献
『世界の歴史3 古代インドの文明と社会』(山崎元一 ①■■公論社 1997年)
『②■■元選集[決定版] 第7巻 インド史III』(②■■元 春秋社 1998年)
『アイハヌム 2002』 (③■■九祚 東海大学出版会 2002年)
『アイハヌム 2003』 (③■■九祚 東海大学出版会 2003年)
『④■■■スペシャル 文明の道 2 ⑤ヘレ■■■と仏教』 (前田耕作他 NHK出版 2003年)
『世界歴史叢書 ⑥■■■ニスタンの歴史と文化』(フィレム・フォーヘルサング著 前田耕作 山内和也監訳 明石書店 2005年)








クシャーナ朝


クシャーナ朝(-ちょう 英:Kushan 漢:貴霜)は、古代インドから中央アジアにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えた王朝である。日本語表記は一定せず、クシャナ朝、クシャーン朝、クシャン朝、クシャン帝国とも呼ばれる。








クシャーナ朝(-ちょう 英:Kushan 漢:貴霜)は、古代インドから中央アジアにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えた王朝である。日本語表記は一定せず、クシャナ朝、クシャーン朝、クシャン朝、クシャン帝国とも呼ばれる。



クシャーナ朝の版図目次 [非表示]
1 歴史
1.1 大月氏
1.2 クシャーナ朝の成立
1.3 カニシカ王と後継者
2 文化
2.1 王号
2.2 美術
2.3 言語
3 経済
4 クシャーナ史の論点
4.1 王朝交代説
4.2 大月氏とクシャーナ朝
5 歴代王
6 関連項目
7 注
8 参考文献
9 外部リンク



[編集] 歴史

[編集] 大月氏
紀元前2世紀に匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民、月氏はバクトリアに定着した。これを通例、大月氏と呼ぶ。漢書西域伝によれば大月氏は休密翕侯、貴霜翕侯、雙靡翕侯、肸頓翕侯、高附翕侯[1]の五翕侯[2]と呼ばれる部族が分かれて統治していたという。

このうち最も強大だったのは貴霜翕侯(クシャーナ)であった。大月氏の諸侯はそれぞれコインを発行していたが、貴霜翕侯が発行したコインは他の諸侯の発行したコインに比べ数も多く、大型のコインは貴霜翕侯の物しか鋳造されなかった。


[編集] クシャーナ朝の成立
貴霜翕侯の存在を示す最も古い証拠はヘラウス(またはセナブ)と言う名の支配者が発行したコインである。これには「クシャーナ」の名と共に彼の名前が刻まれている。しかし年代の確定や解釈などについては諸説紛糾している状態であり、このクシャーナ「最初」の支配者についての具体像は全くわかっていない。1世紀初頭から半ばにかけて、貴霜翕侯は族長クジュラ・カドフィセス(丘就卻)の下で他の四翕侯を全て征服して王を号したと後漢書西域伝には記されており、一般にこれをもってクシャーナ朝の成立と見なされる。クシャーナ族自体は大月氏の一派であるイラン系の集団であるとも、土着のイラン系有力者を母体にするともいわれる。

クジュラ・カドフィセスはカブール(高附)を支配していたギリシア人の王ヘルマエウス(又はヘルマイオス)と同盟を結び共同統治者となったが、やがてヘルマエウスを倒してカブールの支配権を単独で握った。[3]さらに濮達とケイ賓(罽賓 ガンダーラ?)を征服しパルティア領(インド・パルティア王国)の一部をも征服した。当時この地域で勢力を持っていたのはインド・パルティア王国の王ゴンドファルネスであったが、クジュラ・カドフィセスは彼と争ったか、もしくは彼の死(西暦50年頃?)による同王国の弱体化に乗じてその領土の征服を行ったと言われている。いずれにせよ、クジュラ・カドフィセスのコインにはゴンドファルネスなどインド・パルティア王が発行したコインに重ねて打刻したものが見られることから、クジュラ・カドフィセスとゴンドファルネスや、彼の後継者アブダガセス1世などがほぼ同時代を生きていたのは確実である。

クジュラ・カドフィセスの子ヴィマ・タクトと、ヴィマ・タクトの子ヴィマ・カドフィセスは、北西インドの征服に成功した(北西インド征服時にはまだクジュラ・カドフィセスが生きていたという説もある)。最近の研究では、ヴィマ・タクトの時代に、北西インドと中央インドの一部、そしてバクトリア北部がクシャーナ朝の支配下に入ったといわれている。ヴィマ・タクトとヴィマ・カドフィセスは北側からバクトリアに通じる交通の要衝に関門と要塞を多数構築し、大国としてのクシャーナ朝の基盤を構築した。そしてバクトリア地方の防御のためにカラルラングと呼ばれる特殊な地位を持った総督が配置された。また後漢書によれば北西インドの統治のために将軍が置かれたとあるが、この将軍とは後に西クシャトラパをはじめとした独立勢力を構築することになるクシャトラパであると考えられる。

ヴィマ・タクトはその支配領域に統一したコインを発行した。彼のコインにはギリシア語で「ソテル・メガス(偉大なる救済者)」と言う称号が刻まれている。クジュラ・カドフィセスのコインが各地の古い支配者が発行したコインをまねたものであったのに対し、ヴィマ・タクトによる新式のコイン導入は一体性を持った帝国としてのクシャーナ朝が確立していったことを暗示する。


[編集] カニシカ王と後継者
ヴィマ・カドフィセスの息子(異説あり、王朝交代説を参照)カニシカ1世の時(2世紀半ば)、クシャーナ朝は全盛期を迎えた。都がプルシャプラ(現:ペシャワール)におかれ、独自の暦(カニシカ紀元)が制定された。

カニシカはインドの更に東へと進み、パータリプトラやネパールのカトマンズの近辺にまで勢力を拡大した。また、カニシカの発行したコインはベンガル地方からも発見されているが、これを征服の痕跡と見なせるかどうかは定かではない。ともかくも、こうしたインド方面での勢力拡大にあわせ、ガンジス川上流の都市マトゥラーが副都と言える政治的位置づけを得た。

カニシカはその治世の間に仏教に帰依するようになり、これを厚く保護した。このためクシャーナ朝の支配した領域、特にガンダーラ等を中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。この時代に史上初めて仏像も登場している。

軍事的にも文化的にも隆盛を誇ったカニシカ王の跡を継いだのは、恐らくカニシカの息子であろうと言われているヴァーシシカ王である。しかし、ヴァーシシカ王以後、クシャーナ朝に関する記録は極めて乏しい。ヴァーシシカは最低でも4年間は王位にあったことが碑文の記録からわかるが、その治世がいつ頃まで続いたのか全くわかっていない。

ヴァーシシカに続いて、やはりカニシカ王の息子であると考えられているフヴィシカが王位についた。フヴィシカ王は40年前後にわたって王位にあったことが知られている。フヴィシカに関する碑文などがかなり広範囲から見つかっており、カニシカ王の死後は記録が乏しいとはいえ、クシャーナ朝自体は強勢を維持していたと考えられる。

3世紀頃、フヴィシカの跡を継いでヴァースデーヴァ1世が王位についた。彼の治世に、三国時代の魏に使者を派遣した記録が残されている。ヴァースデーヴァというインド風の王名は、この時期のクシャーナ朝が極めて強くインド化していたことを示す。貨幣などの図案にも、インド土着の様式が強く現れるようになっている。

ヴァースデーヴァ1世はサーサーン朝の王シャープール1世と戦って完全な敗北を喫した。以後クシャーナ朝はインドにおける支配権を失い、残された領土はサーサーン朝に次々と制圧された。クシャーナ朝はなおもカブール王として存続していたが、バハラーム2世(276年 - 293年)の時代にはサーサーン朝の支配下に置かれるようになった。

クシャーナ朝の旧領土はサーサーン朝の支配下においてはクシャーン・シャー(クシャーナ王)と称するサーサーン朝の王族によって統治された。これは通例クシャーノ・サーサーン朝(クシャノササン朝)と呼ばれる。クシャーノ・サーサーン朝が発行したコインなどはサーサーン朝様式よりもクシャーナ朝の様式に近く、恐らくは多くの面においてクシャーナ朝の要素を継承したと考えられる。このようにクシャーナ朝の権威は滅亡した後も長く現地に残ったのであった。


[編集] 文化

[編集] 王号
クシャーナ朝はユーラシア大陸の中央部の広い領域を支配したため、各地の文化の大きな影響を受けた。その文化は包容的、融合的性格を持ったといわれており、特にその特徴は王の称号に現れている。

例えばカニシカ王の残した碑文の中には「シャーヒ、ムローダ、マハーラージャ、ラージャティラージャ、デーヴァプトラ、カイサラなるカニシカ」と記す物がある。これはカニシカが使用した称号を羅列したものであるが、シャーヒ(Shahi)は月氏で昔から用いられた王の称号であり、ムローダ(Muroda)はサカ人達の首長を表す語である。マハーラージャ(Maharaja)は言うまでも無くインドで広く使われた称号であり大王を意味する。ラージャティラージャ(Rajatiraja)は「諸王の王」と言うイラン地方の伝統的な帝王の称号をサンスクリット語に訳したものであり、デーヴァプトラ(Devaputra)はデーヴァ(神、漢訳では天と訳される)とプトラ(子)の合成語であって中華皇帝が用いた称号「天子」をサンスクリット語に訳したものである。カイサラ(Kaisara)はラテン語のカエサル(Caesar)から来たものでローマ皇帝の称号の一つである。カニシカ王に限らず、クシャーナ朝の王達は世界各地の王の称号を合わせて名乗る事を好んだ。


[編集] 美術
カニシカ王のとき、あつく仏教を保護したため、仏教芸術が発達した。(ただし、王家の間ではゾロアスター教などイランの宗教も崇拝されていた。)プルシャプラを中心とするガンダーラで興ったため、ガンダーラ美術と呼ばれる。かつてガンダーラ付近をギリシア系のグレコ・バクトリア王国が支配していたため、発想・様式・手法にギリシア的要素が濃いのが特徴で、その様式は日本にも影響を与えた。

この隆盛を極めたガンダーラ美術の成果の中でも最も重要なものは仏像の登場である。従来の仏教美術において仏陀の姿を表現することは意識的に回避されてきた。仏教説話を表現する際、仏陀は法輪や仏塔、仏足跡などで象徴的に表されるだけであったが、クシャーナ朝支配下のガンダーラとマトゥラーにおいてついに、仏陀を人間の姿で表す仏像が誕生したのである。マトゥラーではガンダーラの仏像とはやや赴きを異にする仏像が多数制作されている。こちらの仏像はギリシア的要素が少なくインドの伝統美術の影響が強いといわれている。

仏像の誕生には神を人間の姿で表現するギリシア人の影響が強いといわれているが、ガンダーラやマトゥラーなど、当時クシャーナ朝が支配した領域で広く仏像が制作され始めたことは、仏像の誕生にクシャーナ人自体も深く関わっていたことを示唆する。なお、ガンダーラとマトゥラーのどちらで先に仏像の制作が始まったのかはわかっていない。


[編集] 言語
クシャーナ人の使用した言語は、中期イラン語で東イラン語に属すと考えられるバクトリア語である。アラム系文字で筆記される場合が多いイラン語としては唯一ギリシア文字系で筆記された。既存のギリシア文字24個に加え、アイスランド語の「Þ」に形状の似た[š]の音価を持つ文字を加えた25字が用いられた。現在残されている最古の資料はクジュラ・カドフィセスの子と目されるヴィマ・タクト王の銘になる碑文である。つい最近までバクトリア語の研究は貨幣研究と若干の碑文以外に資料が無く、殆ど謎の言語であったが、近年アフガニスタンで碑刻資料と皮革書簡文書が大量に発見された事によって飛躍的に解明が進んだ。


[編集] 経済
クシャーナ朝の領土は、同時代に中央インドで繁栄を迎えてきたサータヴァーハナ朝などと同じくローマ帝国との貿易によって著しい繁栄を迎えていた。かつてクシャーナ朝が北西インドを征服する以前、この地域の貨幣経済は衰退期を迎えていた。原因は知られていないが、北西インドでは銀が不足し、インド・パルティア人やサカ人の諸王朝が発行する銀貨は極度に品質の悪いものとなっていた。

しかし、クシャーナ朝が北西インドを支配した時代、即ちヴィマ・タクトとヴィマ・カドフィセスの治世以降、彼らは盛んに金貨と銅貨を発行し、特に北西インドで作られた金貨は質・流通量ともにインド古代史上最高のものとなった。この金貨発行の背景にあったのが西方のローマ帝国の経済的繁栄であり、それに向けて輸出される華奢品であった。ローマやインドの商人によってローマ帝国領へ向けて絹、香料、宝石、染料などが輸出された。これらの商品はローマでは原価の百倍もの価格で売れ、代金として膨大な量の金がクシャーナ朝に齎された。プリニウスは当時インド人がローマの金を年間5千万セステルティウス持ち去っていると記しているが、これにはクシャーナ朝に齎された分も含まれているであろう。

クシャーナ朝にとってローマとの貿易がいかに重要なものであったかは、彼らが発行した金貨の単位からもわかる。クシャーナ朝は金貨の単位をローマの金貨単位にリンクさせており、その金貨は正確にローマの2アウレウス分の重量を持っていた。さらにローマのデナリウスはディーナーラとして、その通貨単位がクシャーナ朝に取り入れられた。

※参考:オクタヴィアヌス時代のローマの通貨交換レート

1アウレウス(金貨) = 25デナリウス(銀貨)
1デナリウス(銀貨) = 4セステルティウス(黄銅貨)
1セステルティウス(黄銅貨) = 4アス(青銅貨)

[編集] クシャーナ史の論点

[編集] 王朝交代説
クシャーナ朝の王統は長く貨幣銘文などによる断片的な記録に基づいて復元されており、不明点が多い。クシャーナ朝の王統復元について長く支持されてきた説がクジュラ・カドフィセスとヴィマカドフィセスの属する王朝と、カニシカ以後の王朝は別の王朝であるとする説、即ちカニシカ王による王朝交代説である。

これはカニシカ以後、カドフィセスからイシカ系列に王名が切り替わっていることや、カニシカが独自の暦を定めていること、両カドフィセス王時代のコインではギリシア語の称号をギリシア文字で、プラークリット語の称号をカローシュティー文字で、併記する様式であったのに対し、カニシカ王以後はバクトリア語の称号をギリシア文字で記したものに変化していることなどを根拠としている。

これとあわせて、チベットの伝説にホータンの王子ヴィジャヤキールティがカニカ(Kanika)王とグザン(Guzan 恐らくはクシャン、クシャーナ)王とともにインド遠征を行ったという物があること。漢訳仏典の中にカニシカがホータン出身であると解せるものがある。このことからカニシカが小月氏の出身であるとする説もある

ところが近年新たにカニシカ王の碑文が解読され、クシャーナ朝の歴史について多くの新事実が明らかとなった。この碑文は1993年にアフガニスタンのラバータクで偶然発見されたもので、バクトリア語で記された1200字あまりの文書であり、クシャーナ朝時代の物としては最も長文の記録の1つである(ラバータク碑文)。内容はこの地方のカラルラッゴ(総督)であったシャファロに対して、カニシカ王の祖先の彫像を納める神殿を建設することを命じたことが記録されたものであった。この結果、カニシカ王とそれ以前の王との間に血縁があったことが判明した。

この碑文の解読によって、曽祖父クジュラ・カドフィセス、祖父ヴィマ・タクト、父ヴィマ・カドフィセス、そして碑文を作らせたカニシカの4名4世代の王統が判明した。特にヴィマ・タクト[4]は従来全く知られていない王であったが、彼の存在が明らかになったことによって初期クシャーナ朝の歴史に本質的な修正がもたらされた。これまでクシャーナ朝時代に発行されたコインの中で、ソテル・メガスという称号のみが記されたタイプの物がクジュラ・カドフィセスによるものか、ヴィマ・カドフィセスによるものかが論じられてきたが、その多くはヴィマ・タクトのものであると考えられるようになり、クシャーナ朝の大幅な勢力拡大が彼の時代に行われた可能性も考えられている。


[編集] 大月氏とクシャーナ朝
貴霜翕侯(クシャーナ族)が元々大月氏に属し、大月氏の他の翕侯を従えた後、クシャーナを国号として王と名乗ったという後漢書の記録や、伝統的な月氏の王の称号を用いたことからもわかるように、大月氏とクシャーナ朝は多分に連続性の強い政権であったと考えられる。

中国ではクシャーナ朝が権力を握った後も、その王を大月氏王と呼び続けた。後漢書には以下のようにある。

月氏自此之後,最爲富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。

(クジュラ・カドフィセスのインド征服)以後、月氏は最も富み盛んとなった。諸国は彼をクシャーナ王と呼んでいる。漢では古い称号を用いて大月氏と呼んでいる。

また、中国の三国時代にヴァースデーヴァ1世(波調)が魏に使節を派遣した際、魏はヴァースデーヴァに対し、親魏大月氏王の金印を贈っている。これは倭国の王卑弥呼に対するものと並んで、魏の時代に外国に送られた金印の例であることから比較的良く知られているが、3世紀に入っても中国ではクシャーナ朝が大月氏と呼ばれていたことを示すものである。

しかし、大月氏とクシャーナ朝を同一の物と見なしていいかどうかには様々な立場がある。ソグディアナやホラズム地方の大月氏系諸侯は、クシャーナ朝とは別に独立王国を形成していたことが知られており、これらの大月氏系諸国をクシャーナ朝が征服した痕跡は現在まで一切発見されていない。


[編集] 歴代王
クジュラ・カドフィセス(カドフィセス1世 - 80年頃、後漢書によれば80歳以上まで生きた)
ヴィマ・タクト(1世紀後半)
ヴィマ・カドフィセス(カドフィセス2世 2世紀前半)
カニシカ1世(2世紀半ば)
ヴァーシシカ(2世紀半ば)
フヴィシカ(2世紀後半)
ヴァースデーヴァ1世(3世紀前半)
カニシカ2世(3世紀前半 一時ヴァースデーヴァ1世と共同統治?)
サーサーン朝の征服

[編集] 関連項目
月氏
グレコ・バクトリア王国
ローマ帝国
パルティア
サーサーン朝
クシャーノ・サーサーン朝
西クシャトラパ
仏教
大乗仏教

[編集] 注
^ 後漢書西域伝では高附翕侯の代わりに都密翕侯が上げられている
^ 翕侯はヤブグ(Yabgu)、ヤヴガ(Yavuga)と呼ばれた称号の音訳であると言われている。
^ クジュラ・カドフィセスによるカブール支配の確立は、彼が翕侯の地位についた後の出来事である。それはクジュラ・カドフィセスがヘルマエウスと共同で発行したコインの中にヤヴガ(Yavuga)という称号が刻まれている物があることから知られる。
^ ヴィマ・タクト(Vima takto)の名前は碑文の摩滅によって正確にはわからず、名前の最後を「to」と読む説は確定的ではない。






[編集] 参考文献
『世界の歴史3 古代インドの文明と社会』(山崎元一 中央公論社 1997年)
『中村元選集[決定版] 第7巻 インド史III』(中村元 春秋社 1998年)
『アイハヌム 2002』 (加藤九祚 東海大学出版会 2002年)
『アイハヌム 2003』 (加藤九祚 東海大学出版会 2003年)
『NHKスペシャル 文明の道 2 ヘレニズムと仏教』 (前田耕作他 NHK出版 2003年)
『世界歴史叢書 アフガニスタンの歴史と文化』(フィレム・フォーヘルサング著 前田耕作 山内和也監訳 明石書店 2005年)









[編集] 外部リンク
古代アフガニスタンのバクトリア語文書 古代オリエント博物館で行われたバクトリア語に関する講演の記録。ラバータク出土の新史料にも触れられている。東京大学文学部言語学研究室サイト内
ウィキメディア・コモンズには、クシャーナ朝 に関連するマルチメディアがあります。
カテゴリ: クシャーナ朝 | インドの王朝 | 中国史に現れる周辺民族

最終更新 2008年5月4日 (日) 01:26。 Wikipedia®






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中島敦  『文字禍』(昭和十七年二月)  8122文字

2008-08-22 09:47:11 | 図書館
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文字禍
中島敦



 文字の霊(れい)などというものが、一体、あるものか、どうか。
 アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。夜、闇(やみ)の中を跳梁(ちょうりょう)するリル、その雌(めす)のリリツ、疫病(えきびょう)をふり撒(ま)くナムタル、死者の霊エティンム、誘拐者(ゆうかいしゃ)ラバス等(など)、数知れぬ悪霊(あくりょう)共がアッシリヤの空に充(み)ち満ちている。しかし、文字の精霊については、まだ誰(だれ)も聞いたことがない。
 その頃(ころ)――というのは、アシュル・バニ・アパル大王の治世第二十年目の頃だが――ニネヴェの宮廷(きゅうてい)に妙(みょう)な噂(うわさ)があった。毎夜、図書館の闇の中で、ひそひそと怪(あや)しい話し声がするという。王兄シャマシュ・シュム・ウキンの謀叛(むほん)がバビロンの落城でようやく鎮(しず)まったばかりのこととて、何かまた、不逞(ふてい)の徒の陰謀(いんぼう)ではないかと探ってみたが、それらしい様子もない。どうしても何かの精霊どもの話し声に違(ちが)いない。最近に王の前で処刑(しょけい)されたバビロンからの俘囚(ふしゅう)共の死霊の声だろうという者もあったが、それが本当でないことは誰にも判(わか)る。千に余るバビロンの俘囚はことごとく舌を抜(ぬ)いて殺され、その舌を集めたところ、小さな築山(つきやま)が出来たのは、誰知らぬ者のない事実である。舌の無い死霊に、しゃべれる訳がない。星占(ほしうらない)や羊肝卜(ようかんぼく)で空(むな)しく探索(たんさく)した後、これはどうしても書物共あるいは文字共の話し声と考えるより外はなくなった。ただ、文字の霊(というものが在るとして)とはいかなる性質をもつものか、それが皆目(かいもく)判らない。アシュル・バニ・アパル大王は巨眼縮髪(きょがんしゅくはつ)の老博士ナブ・アヘ・エリバを召(め)して、この未知の精霊についての研究を命じたもうた。
 その日以来、ナブ・アヘ・エリバ博士は、日ごと問題の図書館(それは、その後二百年にして地下に埋没(まいぼつ)し、更(さら)に二千三百年にして偶然(ぐうぜん)発掘(はっくつ)される運命をもつものであるが)に通って万巻の書に目をさらしつつ研鑽(けんさん)に耽(ふけ)った。両河地方(メソポタミヤ)では埃及(エジプト)と違って紙草(パピルス)を産しない。人々は、粘土(ねんど)の板に硬筆(こうひつ)をもって複雑な楔形(くさびがた)の符号(ふごう)を彫(ほ)りつけておった。書物は瓦(かわら)であり、図書館は瀬戸物屋(せとものや)の倉庫に似ていた。老博士の卓子(テーブル)(その脚(あし)には、本物の獅子(しし)の足が、爪(つめ)さえそのままに使われている)の上には、毎日、累々(るいるい)たる瓦の山がうずたかく積まれた。それら重量ある古知識の中から、彼(かれ)は、文字の霊についての説を見出(みいだ)そうとしたが、無駄(むだ)であった。文字はボルシッパなるナブウの神の司(つかさど)りたもう所とより外(ほか)には何事も記されていないのである。文字に霊ありや無しやを、彼は自力で解決せねばならぬ。博士は書物を離(はな)れ、ただ一つの文字を前に、終日それと睨(にら)めっこをして過した。卜者(ぼくしゃ)は羊の肝臓(かんぞう)を凝視(ぎょうし)することによってすべての事象を直観する。彼もこれに倣(なら)って凝視と静観とによって真実を見出そうとしたのである。その中(うち)に、おかしな事が起った。一つの文字を長く見詰(みつ)めている中に、いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯(こうさく)としか見えなくなって来る。単なる線の集りが、なぜ、そういう音とそういう意味とを有(も)つことが出来るのか、どうしても解(わか)らなくなって来る。老儒(ろうじゅ)ナブ・アヘ・エリバは、生れて初めてこの不思議な事実を発見して、驚(おどろ)いた。今まで七十年の間当然と思って看過していたことが、決して当然でも必然でもない。彼は眼(め)から鱗(こけら)の落ちた思がした。単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるものは、何か? ここまで思い到(いた)った時、老博士は躊躇(ちゅうちょ)なく、文字の霊の存在を認めた。魂(たましい)によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。
 この発見を手始めに、今まで知られなかった文字の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。文字の精霊の数は、地上の事物の数ほど多い、文字の精は野鼠(のねずみ)のように仔(こ)を産んで殖(ふ)える。
 ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き廻(まわ)って、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々尋(たず)ねた。文字を知る以前に比べて、何か変ったようなところはないかと。これによって文字の霊の人間に対する作用(はたらき)を明らかにしようというのである。さて、こうして、おかしな統計が出来上った。それによれば、文字を覚えてから急に蝨(しらみ)を捕(と)るのが下手(へた)になった者、眼に埃(ほこり)が余計はいるようになった者、今まで良く見えた空の鷲(わし)の姿が見えなくなった者、空の色が以前ほど碧(あお)くなくなったという者などが、圧倒的(あっとうてき)に多い。「文字ノ精ガ人間ノ眼ヲ喰(く)イアラスコト、猶(なお)、蛆虫(うじむし)ガ胡桃(くるみ)ノ固キ殻(から)ヲ穿(うが)チテ、中ノ実ヲ巧(たくみ)ニ喰イツクスガ如(ごと)シ」と、ナブ・アヘ・エリバは、新しい粘土の備忘録に誌(しる)した。文字を覚えて以来、咳(せき)が出始めたという者、くしゃみが出るようになって困るという者、しゃっくりが度々出るようになった者、下痢(げり)するようになった者なども、かなりの数に上る。「文字ノ精ハ人間ノ鼻・咽喉(のど)・腹等ヲモ犯スモノノ如シ」と、老博士はまた誌した。文字を覚えてから、にわかに頭髪の薄(うす)くなった者もいる。脚の弱くなった者、手足の顫(ふる)えるようになった者、顎(あご)がはずれ易(やす)くなった者もいる。しかし、ナブ・アヘ・エリバは最後にこう書かねばならなかった。「文字ノ害タル、人間ノ頭脳ヲ犯シ、精神ヲ痲痺(まひ)セシムルニ至ッテ、スナワチ極マル。」文字を覚える以前に比べて、職人は腕(うで)が鈍(にぶ)り、戦士は臆病(おくびょう)になり、猟師(りょうし)は獅子を射損うことが多くなった。これは統計の明らかに示す所である。文字に親しむようになってから、女を抱(だ)いても一向楽しゅうなくなったという訴(うった)えもあった。もっとも、こう言出したのは、七十歳(さい)を越(こ)した老人であるから、これは文字のせいではないかも知れぬ。ナブ・アヘ・エリバはこう考えた。埃及人は、ある物の影(かげ)を、その物の魂の一部と見做(みな)しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。
 獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙(ねら)い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。文字の無かった昔(むかし)、ピル・ナピシュチムの洪水(こうずい)以前には、歓(よろこ)びも智慧(ちえ)もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶(ものおぼ)えが悪くなった。これも文字の精の悪戯(いたずら)である。人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶えることが出来ない。着物を着るようになって、人間の皮膚(ひふ)が弱く醜(みにく)くなった。乗物が発明されて、人間の脚が弱く醜くなった。文字が普及(ふきゅう)して、人々の頭は、もはや、働かなくなったのである。
 ナブ・アヘ・エリバは、ある書物狂(きょう)の老人を知っている。その老人は、博学なナブ・アヘ・エリバよりも更に博学である。彼は、スメリヤ語やアラメヤ語ばかりでなく、紙草(パピルス)や羊皮紙に誌された埃及文字まですらすらと読む。およそ文字になった古代のことで、彼の知らぬことはない。彼はツクルチ・ニニブ一世王の治世第何年目の何月何日の天候まで知っている。しかし、今日(きょう)の天気は晴か曇(くもり)か気が付かない。彼は、少女サビツがギルガメシュを慰(なぐさ)めた言葉をも諳(そら)んじている。しかし、息子(むすこ)をなくした隣人(りんじん)を何と言って慰めてよいか、知らない。彼は、アダッド・ニラリ王の后(きさき)、サンムラマットがどんな衣装(いしょう)を好んだかも知っている。しかし、彼自身が今どんな衣服を着ているか、まるで気が付いていない。何と彼は文字と書物とを愛したであろう! 読み、諳んじ、愛撫(あいぶ)するだけではあきたらず、それを愛するの余りに、彼は、ギルガメシュ伝説の最古版の粘土板を噛砕(かみくだ)き、水に溶(と)かして飲んでしまったことがある。文字の精は彼の眼を容赦(ようしゃ)なく喰い荒(あら)し、彼は、ひどい近眼である。余り眼を近づけて書物ばかり読んでいるので、彼の鷲形の鼻の先は、粘土板と擦(す)れ合って固い胼胝(たこ)が出来ている。文字の精は、また、彼の脊骨(せぼね)をも蝕(むしば)み、彼は、臍(へそ)に顎のくっつきそうな傴僂(せむし)である。しかし、彼は、恐(おそ)らく自分が傴僂であることを知らないであろう。傴僂という字なら、彼は、五つの異った国の字で書くことが出来るのだが。ナブ・アヘ・エリバ博士は、この男を、文字の精霊の犠牲者(ぎせいしゃ)の第一に数えた。ただ、こうした外観の惨(みじ)めさにもかかわらず、この老人は、実に――全く羨(うらや)ましいほど――いつも幸福そうに見える。これが不審(ふしん)といえば、不審だったが、ナブ・アヘ・エリバは、それも文字の霊の媚薬(びやく)のごとき奸猾(かんかつ)な魔力(まりょく)のせいと見做した。
 たまたまアシュル・バニ・アパル大王が病に罹(かか)られた。侍医(じい)のアラッド・ナナは、この病軽からずと見て、大王のご衣裳を借り、自らこれをまとうて、アッシリヤ王に扮(ふん)した。これによって、死神エレシュキガルの眼を欺(あざむ)き、病を大王から己(おのれ)の身に転じようというのである。この古来の医家の常法に対して、青年の一部には、不信の眼を向ける者がある。これは明らかに不合理だ、エレシュキガル神ともあろうものが、あんな子供瞞(だま)しの計に欺かれるはずがあるか、と、彼等(ら)は言う。碩学(せきがく)ナブ・アヘ・エリバはこれを聞いて厭(いや)な顔をした。青年等のごとく、何事にも辻褄(つじつま)を合せたがることの中には、何かしらおかしな所がある。全身垢(あか)まみれの男が、一ヶ所だけ、例えば足の爪先だけ、無闇に美しく飾(かざ)っているような、そういうおかしな所が。彼等は、神秘の雲の中における人間の地位をわきまえぬのじゃ。老博士は浅薄(せんぱく)な合理主義を一種の病と考えた。そして、その病をはやらせたものは、疑もなく、文字の精霊である。
 ある日若い歴史家(あるいは宮廷の記録係)のイシュデイ・ナブが訪ねて来て老博士に言った。歴史とは何ぞや? と。老博士が呆(あき)れた顔をしているのを見て、若い歴史家は説明を加えた。先頃のバビロン王シャマシュ・シュム・ウキンの最期(さいご)について色々な説がある。自ら火に投じたことだけは確かだが、最後の一月(ひとつき)ほどの間、絶望の余り、言語に絶した淫蕩(いんとう)の生活を送ったというものもあれば、毎日ひたすら潔斎(けっさい)してシャマシュ神に祈(いの)り続けたというものもある。第一の妃(ひ)ただ一人と共に火に入ったという説もあれば、数百の婢妾(ひしょう)を薪(まき)の火に投じてから自分も火に入ったという説もある。何しろ文字通り煙(けむり)になったこととて、どれが正しいのか一向見当がつかない。近々、大王はそれらの中の一つを選んで、自分にそれを記録するよう命じたもうであろう。これはほんの一例だが、歴史とはこれでいいのであろうか。
 賢明(けんめい)な老博士が賢明な沈黙(ちんもく)を守っているのを見て、若い歴史家は、次のような形に問を変えた。歴史とは、昔、在った事柄(ことがら)をいうのであろうか? それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?
 獅子狩(がり)と、獅子狩の浮彫(うきぼり)とを混同しているような所がこの問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次のように答えた。歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌(しる)されたものである。この二つは同じことではないか。
 書洩(かきも)らしは? と歴史家が聞く。
 書洩らし? 冗談(じょうだん)ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子(たね)は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
 若い歴史家は情なさそうな顔をして、指し示された瓦を見た。それはこの国最大の歴史家ナブ・シャリム・シュヌ誌す所のサルゴン王ハルディア征討行(せいとうこう)の一枚である。話しながら博士の吐(は)き棄(す)てた柘榴(ざくろ)の種子がその表面に汚(きたな)らしくくっついている。
 ボルシッパなる明智の神ナブウの召使(めしつか)いたもう文字の精霊共の恐(おそろ)しい力を、イシュディ・ナブよ、君はまだ知らぬとみえるな。文字の精共が、一度ある事柄を捉(とら)えて、これを己の姿で現すとなると、その事柄はもはや、不滅(ふめつ)の生命を得るのじゃ。反対に、文字の精の力ある手に触(ふ)れなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。太古以来のアヌ・エンリルの書に書上げられていない星は、なにゆえに存在せぬか? それは、彼等がアヌ・エンリルの書に文字として載(の)せられなかったからじゃ。大マルズック星(木星)が天界の牧羊者(オリオン)の境を犯せば神々の怒(いかり)が降(くだ)るのも、月輪の上部に蝕(しょく)が現れればフモオル人が禍を蒙(こうむ)るのも、皆(みな)、古書に文字として誌されてあればこそじゃ。古代スメリヤ人が馬という獣(けもの)を知らなんだのも、彼等の間に馬という字が無かったからじゃ。この文字の精霊の力ほど恐ろしいものは無い。君やわしらが、文字を使って書きものをしとるなどと思ったら大間違い。わしらこそ彼等文字の精霊にこき使われる下僕(しもべ)じゃ。しかし、また、彼等精霊の齎(もたら)す害も随分(ずいぶん)ひどい。わしは今それについて研究中だが、君が今、歴史を誌した文字に疑を感じるようになったのも、つまりは、君が文字に親しみ過ぎて、その霊の毒気(どっき)に中(あた)ったためであろう。
 若い歴史家は妙な顔をして帰って行った。老博士はなおしばらく、文字の霊の害毒があの有為(ゆうい)な青年をも害(そこな)おうとしていることを悲しんだ。文字に親しみ過ぎてかえって文字に疑を抱くことは、決して矛盾(むじゅん)ではない。先日博士は生来の健啖(けんたん)に任せて羊の炙肉(あぶりにく)をほとんど一頭分も平らげたが、その後当分、生きた羊の顔を見るのも厭になったことがある。
 青年歴史家が帰ってからしばらくして、ふと、ナブ・アヘ・エリバは、薄くなった縮(ちぢ)れっ毛の頭を抑(おさ)えて考え込(こ)んだ。今日は、どうやら、わしは、あの青年に向って、文字の霊の威力(いりょく)を讃美(さんび)しはせなんだか? いまいましいことだ、と彼は舌打をした。わしまでが文字の霊にたぶらかされておるわ。
 実際、もう大分前から、文字の霊がある恐しい病を老博士の上に齎していたのである。それは彼が文字の霊の存在を確かめるために、一つの字を幾日もじっと睨み暮(くら)した時以来のことである。その時、今まで一定の意味と音とを有(も)っていたはずの字が、忽然(こつぜん)と分解して、単なる直線どもの集りになってしまったことは前に言った通りだが、それ以来、それと同じような現象が、文字以外のあらゆるものについても起るようになった。彼が一軒(けん)の家をじっと見ている中に、その家は、彼の眼と頭の中で、木材と石と煉瓦(れんが)と漆喰(しっくい)との意味もない集合に化けてしまう。これがどうして人間の住む所でなければならぬか、判らなくなる。人間の身体(からだ)を見ても、その通り。みんな意味の無い奇怪(きかい)な形をした部分部分に分析(ぶんせき)されてしまう。どうして、こんな恰好(かっこう)をしたものが、人間として通っているのか、まるで理解できなくなる。眼に見えるものばかりではない。人間の日常の営み、すべての習慣が、同じ奇体な分析病のために、全然今までの意味を失ってしまった。もはや、人間生活のすべての根柢(こんてい)が疑わしいものに見える。ナブ・アヘ・エリバ博士は気が違いそうになって来た。文字の霊の研究をこれ以上続けては、しまいにその霊のために生命をとられてしまうぞと思った。彼は怖(こわ)くなって、早々に研究報告を纏(まと)め上げ、これをアシュル・バニ・アパル大王に献(けん)じた。但(ただ)し、中に、若干の政治的意見を加えたことはもちろんである。武の国アッシリヤは、今や、見えざる文字の精霊のために、全く蝕まれてしまった。しかも、これに気付いている者はほとんど無い。今にして文字への盲目的崇拝(もうもくてきすうはい)を改めずんば、後に臍(ほぞ)を噬(か)むとも及(およ)ばぬであろう云々(うんぬん)。
 文字の霊が、この讒謗者(ざんぼうしゃ)をただで置く訳が無い。ナブ・アヘ・エリバの報告は、いたく大王のご機嫌(きげん)を損じた。ナブウ神の熱烈(ねつれつ)な讃仰者(さんぎょうしゃ)で当時第一流の文化人たる大王にしてみれば、これは当然のことである。老博士は即日(そくじつ)謹慎(きんしん)を命ぜられた。大王の幼時からの師傅(しふ)たるナブ・アヘ・エリバでなかったら、恐らく、生きながらの皮剥(かわはぎ)に処せられたであろう。思わぬご不興に愕然(がくぜん)とした博士は、直ちに、これが奸譎(かんけつ)な文字の霊の復讐(ふくしゅう)であることを悟(さと)った。
 しかし、まだこれだけではなかった。数日後ニネヴェ・アルベラの地方を襲(おそ)った大地震(だいじしん)の時、博士は、たまたま自家の書庫の中にいた。彼の家は古かったので、壁(かべ)が崩(くず)れ書架(しょか)が倒(たお)れた。夥しい書籍が――数百枚の重い粘土板が、文字共の凄(すさ)まじい呪(のろい)の声と共にこの讒謗者の上に落ちかかり、彼は無慙(むざん)にも圧死した。

(昭和十七年二月)





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底本:「ちくま日本文学全集 中島敦」」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年7月20日第1刷発行
底本の親本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房
   1987(昭和62)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:野口英司
校正:野口英司、富田倫生
1997年11月17日公開
2004年2月2日修正
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中井正一 「良書普及運動」に寄せて 初出:「図書館雑誌」1700字

2008-08-22 09:46:12 | 図書館
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「良書普及運動」に寄せて
中井正一



 アメリカのテネシー谿谷の水を合理的処理をすることで、かつて、洪水で人々の苦労の種であった落差が、今や、電力となり、木材の運搬の水路となり、光と、動力の根源とさえなったことは有名な事件である。
 テネシー・ヴァレーの事業として有名である。
 人間の技術は、今や、集団的構造でもって、巨大なプランを企てている。ちょうど、英雄が大いなる馬を制禦したように、ドン河を、鴨緑江を、テネシー谿谷を、数学と科学の金具でしめつけることでその荒れ狂う力を止め、それを乗りこなしたのである。
 かつて、英雄が、それをしたように、今は、人々が協力し、お互いに組織化することで、それに成功したのである。
 今出版界においても、一つの大いなる落差をもっている。それは都会における良書の出版毎にストック化することである。そして、それを求めている田舎の良書の飢渇である。それを放置して置くと、それは、一つの洪水現象となって、一部のゾッキ本の混濁の中に、良書も涵されることとなるのである。これを防ぐ良心ある店は、二重の苦悩の中に落ちることとなるのである。
 これは、只読者の怠慢ではなくして、一つには金融界の逼迫が、地方小売店をして、返本を急がしむることが原因であり、一つには、配給機構の転換期の大混乱が、一つのパニック現象を一時起したその傷口がまだ癒っていないことに原因している。
 このことは、良心ある書店の企画精神を委縮せしめ、また著者をも、絶望的不勉強に導く可能性が充分にあるのである。
 かつて、学生時代、美しい良書にめぐり逢ったとき、秋夜、燈火の下、幸わいのこころもちは、かかるものかと、しみじみ味ったあの読書精神がもし万一、日本民族の青年、少年のこころから去っていったとしたならば、それはまことに容易ならざることである。
『群書類従』が、紙の値段と一つに売られて、硫酸で焼かれていると聞いたとき、まことに、私達の責任においての、焚書時代の出現であると、慄然たる思いであった。民族の読書力は「死の十字架」に面したのである。
 責任は私達にある。民族の読書力を復興せしめることが、今正に、私達の任務である。
 ここに私は、一つの実験を試みつつあるのである。協会の責任において、一般教養書を選定し、また各専門分野を組織することによって、専門書を選定し、それを配給機構を通して、その棚を設定し普及せしめんとするのである。
 各図書館は、このわが図書館協会の良書速報と地方配給機構の棚の本との一致をたしかめると共に、その内容の価値の批判をも、更に協力されたいのである。この配給の対象は、公共図書館、学校図書館、農業組合、各種工場の教養部門、さらに公民館の図書部、更に各官庁の機構の中にその組織網をもたなくてはならない。
 新刊本については、国立国会図書館の印刷カードをこれに付することによって、整理の人手をはぶき、国家的統一の第一歩をここに実験しようとしているのである。
 事の便利、合理はさることながら、一九五〇年大いなる機械時代の出現にあたって、私達が、いたらずに機械の幻影におびえることによって、機械に敗れたる鉄屑となってしまわないことが、今段階の急務である。
 この機械時代を、わが民族の精神の下に組伏せること、これは、手力男が、かの岩壁に向って、たち向った渾身の力を要求するのである。
 図書館界は、今、この力を要求されている。





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底本:「論理とその実践――組織論から図書館像へ――」てんびん社
   1972(昭和47)年11月20日第1刷発行
   1976(昭和51)年3月20日第2刷発行
初出:「図書館雑誌」
   1950(昭和25)年9月
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2007年11月22日作成
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」  早稲田大学文学部史学科国史専修
調べもの新聞通信員 (横浜)中村惇夫(前橋)宮正孝(大阪)西村新八郎


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宮澤賢治  『龍と詩人』2666文字 底本:「宮澤賢治全集第六卷」筑摩書房

2008-08-22 09:45:03 | 図書館
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龍と詩人
宮澤賢治



 龍のチャーナタは洞のなかへさして來る上げ潮からからだをうねり出した。
 洞の隙間から朝日がきらきら射して來て水底の岩の凹凸をはっきり陰影で浮き出させ、またその岩につくたくさんの赤や白の動物を寫し出した。
 チャーナタはうっとりその青くすこし朧ろな水を見た。それから洞のすきまを通して火のやうにきらきら光る海の水を淺黄いろの天末にかかる火球日天子の座を見た。
(おれはその幾千由旬の海を自由に漕ぎ、その清いそらを絶え絶え息して黒雲を卷きながら翔けれるのだ。それだのにおれはここを出て行けない。この洞の外の海に通ずる隙間は辛くも外をのぞくことができるに過ぎぬ。)
(聖龍王、聖龍王。わたしの罪を許しわたくしの呪をお解きください。)
 チャーナタはかなしくまた洞のなかをふりかへり見た。そのとき日光の柱は水のなかの尾鰭に射して青くまた白くぎらぎら反射した。そのとき龍は洞の外で人の若々しい聲が呼ぶのを聽いた。龍は外をのぞいた。
(敬ふべき老いた龍チャーナタよ。朝日の力をかりてわたしはおまへに許しを乞ひに來た。)
 瓔珞をかざり黄金の太刀をはいた一人の立派な青年が外の疊石の青い苔にすわってゐた。
(何を許せといふのか。)
(龍よ。昨日の詩賦の競ひの會に、わたしも出て歌った。そしてみんなは大へんわたしをほめた。いちばん偉い詩人のアルタは座を下りて來て、わたしを禮してじぶんの高い座にのぼせ(三字不明)の草蔓をわたしに被せて、わたしを賞める四句の偈をうたひ、じぶんは遠く東の方の雪ある山の麓に去った。わたしは車にのせられて、わたしのうたった歌のうつくしさに酒のやうに醉ひ、みんなのほめることばや、わたしを埋める花の雨にわれを忘れて胸を鳴らしてゐたが、夜更けてわたしは長者のルダスの家を辭して、きらきらした草の露を踏みながら、わたしの貧しい母親のもとに戻ってゐたら、俄かに月天子の座に瑪瑙の雲がかかりくらくなったので、わたくしがそれをふり仰いでゐたら、誰かがミルダの森で斯うひそひそ語ってゐるのを聞いた。

(わかもののスールダッタは、洞に封ぜられてゐるチャーナタ老龍の歌をぬすみ聞いて、それを今日歌の競べにうたひ、古い詩人のアルタを東の國に去らせた。)

 わたしはどういふわけか足がふるへて思ふやうに歩けなかった。そして昨夜一ばんそこらの草はらに座って悶えた。考へて見るとわたしは、ここにおまへの居るのを知らないで、この洞穴のま上の岬に毎日座り考へ歌ひつかれては眠った。そしてあのうたは、ある雲くらい風の日のひるまのまどろみのなかで聞いたやうな氣がする。そこで老いたる龍のチャーナタよ。わたくしはあしたから灰をかぶって街の廣場に座り、おまへとみんなにわびようと思ふ。あのうつくしい歌を歌った尊ぶべきわが師の龍よ。おまへはわたしを許すだらうか。)
(東へ去った詩人のアルタは、どういふ偈でおまへをほめたらう。)
(わたしはあまりのことに心が亂れて、あの氣高い韻を覺えなかった。けれども多分は、

風がうたひ
雲が應じ
波が鳴らすそのうたを
ただちにうたふスールダッタ
星がさうならうと思ひ
陸地がさういふ形をとらうと覺悟する
あしたの世界に叶ふべき
まことと美との模型をつくり
やがては世界をこれにかなはしむる豫言者、
設計者スールダッタ

とかういふことであったと思ふ。)
(尊敬すべき詩人アルタに幸あれ、
 スールダッタよ、あのうたこそはわたしのうたでひとしくおまへのうたである。いったいわたしはこの洞に居てうたったのであるか考へたのであるか。おまへはこの洞の上にゐてそれを聞いたのであるか考へたのであるか。おおスールダッタ。
 そのときわたしは雲であり風であった。そしておまへも雲であり風であった。
 詩人アルタがもしそのときに冥想すれば恐らく同じいうたをうたったであらう。けれどもスールダッタよ。
 アルタの語とおまへの語はひとしくなく、おまへの語とわたしの語はひとしくない、韻も恐らくさうである。この故にこそあの歌こそはおまへのうたでまたわれわれの雲と風とを御する分のその精神のうたである。)
(おお龍よ。そんならわたしは許されたのか。)
(誰が許して誰が許されるのであらう。われらがひとしく風でまた雲で水であるといふのに。スールダッタよ。もしわたくしが外に出ることができ、おまへが恐れぬならばわたしはおまへを抱きまた撫したいのであるが、いまはそれができないので、わたしはわたしの小さな贈物をだけしよう。ここに手をのばせ。)龍は一つの小さな赤い珠を吐いた。そのなかで幾億の火を燃した。
(その珠は埋もれた諸經をたづねに海にはいるとき捧げるのである。)
 スールダッタはひざまづいてそれを受けて龍に云った。
(おお龍よ、それをどんなにわたしは久しくねがってゐたか、わたしは何と謝していいかを知らぬ。力ある龍よ。なに故窟を出でぬのであるか。)
(スールダッタよ。わたしは千年の昔はじめて風と雲とを得たとき己の力を試みるために人々の不幸を來したために龍王の(數字分空白)から十萬年この窟に封ぜられて陸と水との境を見張らせられたのだ。わたしは日々ここに居て罪を悔い王に謝する。)
(おお龍よ。わたしはわたしの母に侍し、母が首尾よく天に生れたならば、すぐ海に入って大經を探らうと思ふ。おまへはその日までこの窟に待つであらうか。)
(おお、人の千年は龍にはわづかに十日に過ぎぬ。)
(さらばその日まで龍よ珠を藏せ。わたしは來れる日ごとにここに來てそらを見、水を見、雲をながめ、新らしい世界の造營の方針をおまへと語り合はうと思ふ。)
(おお、老いたる龍の何たる悦びであらう。)
(さらばよ。)
(さらば。)
 スールダッタは心あかるく岩をふんで去った。
 龍のチャーナタは洞の奧の深い水にからだを潛めてしづかに懺悔の偈をとなへはじめた。





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底本:「宮澤賢治全集第六卷」筑摩書房
   1956(昭和31)年12月20日発行
入力:tucca
校正:高柳典子
2004年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:




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横光利一  『睡蓮(すいれん)』 1万字

2008-08-22 09:43:45 | 図書館
睡蓮(すいれん)
横光利一



 もう十四年も前のことである。家を建てるとき大工が土地をどこにしようかと相談に来た。特別どこが好きとも思いあたらなかったから、恰好(かっこう)なところを二三探して見てほしいと私は答えた。二三日してから大工がまた来て、下北沢(しもきたざわ)という所に一つあったからこれからそこを見に行こうという。北沢といえば前にたしか一度友人から、自分が家を建てるなら北沢へんにしたいと洩(も)らしたのを思い出し、急にそこを見たくなって私は大工と一緒にすぐ出かけた。
 秋の日の夕暮近いころで、電車を幾つも乗り換え北沢へ着いたときは、野道の茶の花が薄闇(うすやみ)の中に際(きわ)立って白く見えていた。
「ここですよ。どうですかね」
 大工は別に良いところでもないがといった顔つきで、ある高台の平坦な畑の中で立ち停った。見たところ芋の植(うわ)っている平凡な畑だったが、周囲に欅(けやき)や杉の森があり近くに人家のないのが、怒るとき大きな声を出す私には好都合だと思った。腹立たしいときに周囲に気がねして声も出さずにすましていては家に自由のなくなる危険がある。それに一帯の土地の平凡なのが見たときすでに倦(あ)きている落ちつきを心に持たせ、住むにはそれが一番だとひとり定めた。
「どうしますか。お気に入ったら帰りに地主の家へいって交渉してみますが」
「じゃ、ここにしよう」
 こういう話でその土地は地主ともすぐ定められた。そして、その年の暮に家も先(ま)ず建って私たちの一家は移って来た。周囲の景色が平凡なため、あたりの特殊性を観察する私の眼も自然に細かく働くようになった。森に包まれている道も人はあまり通らず、ときどき魚屋が通るほどの寂しさだったが、春さきの芽の噴き始めたころから若い夫婦が二人づれで通るのをよく見かけるようになった。この二人は散歩らしく良人(おっと)の方は両腕を後の帯にさし挟み、樹木を仰ぎ仰ぎゆっくりと楽しそうに歩き、妻君の方はその傍(そば)により添うようにして笑顔をいつも湛(たた)えていた。私は見ていてこの夫婦には一種特別な光がさしていると思った。二人とも富裕な生活の人とは見えなかったが、劣らず堂々とした立派な風貌(ふうぼう)で脊(せい)も高く、互に強く信じ合い愛し合っている満足した様子が一瞥(べつ)して感じられた。晴れた日など若葉の間を真直ぐに前方を見ながら来る二人の満ち足りたような姿は、遠くから見ていても稀(まれ)に見る幸福そうな良い感じだった。今までからも私は楽しげな夫婦を幾つも見て来ているが、この二人ほど、他所見(よそみ)をせず、壊(こわ)れぬ幸福をしっかり互に守っているらしい夫婦はあまり見なかったのでそれ以来、特に私は注意するようになった。話す機会は一度もなかったが、間もなく良人の方は陸軍刑務所の看守で朝毎に自転車で役所へ通うということや、細君の方は附近の娘たちに縫物(ぬいもの)を教えているということなど、だんだん分って来ると、またその特殊な二人の生活が一層私の興味を動かした。
 主人の方の名を加藤高次郎といい、私の家から二町ほど離れたある伯爵の庭の中の小さな家にいる人だということも、出入りの八百屋の小僧の口から私は知ることが出来た。またその小僧の口から、八百屋の老いた主婦が加藤高次郎氏の立派な姿に、朝ごとにぼんやり見惚(みと)れているとまで附け加えて語ったことがある。とにかく、もう老年の八百屋の主婦が、朝毎にペダルを踏んで通る高次郎氏の姿に見惚れるというようなことは、私もともに無理なく頷(うなず)くことが出来るのである。高次郎氏の容貌(ようぼう)には好男子ということ以外に、人格の美しさが疑いもなく現れていたからだった。老年の婦人というものはただの馬鹿な美男子に見惚れるものではない。
 私はこんなに思うことがある。――人間は生活をしているとき特に観察などをしようとせず、ぼんやりとしながらも、自然に映じて来た周囲の人の姿をそのまま信じて誰も死んでしまうものだということを。そして、その方が特に眼をそばだてて観察したり分析したりしたことなどよりも、ときには正確ではなかろうかということをしばしば感じる。高次郎氏のことにしても、私は眼をそば立てて注意していたわけではなく、以下自然に私の眼に映じて来たことのみで彼のことを書きたいと思う。

 高次郎氏は軍人の間ではかなり高名な剣客だということも、私の耳にいつか努力することなく聞えて来た。見たところ高次郎氏は無口で声も低く、性格も平凡なようだった。私のいるこのあたり一帯の風景が極(きわ)めて平凡に見えたがために、私は即座にこの地を選んで移り棲(す)む決心をしたのであったから、ちょうどその風景に適合したように現れて来た高次郎氏の姿も、自然な感興を喚(よ)び起したにちがいないが、いずれにせよその方が私にはこの地を選んだ甲斐(かい)もあったと喜ぶべきである。私はときどき仕事に疲れ夜中ひとり火鉢(ひばち)に手を焙(あぶ)りながら、霙(みぞれ)の降る音などを聞いているとき、ふと高次郎氏は今ごろはどうしているだろうと思ったりすることもあって、人には云わず、泡のように心中を去来する人影の一人になっていたころである。ある日、私の家の二階から見降せる所に、二十間ほど離れた茶畑の一隅が取り払われ、そこへ石つきが集って十坪にも足らぬ土台石を突き堅めている声が聞えて来た。
「家が建つんだなア。近所へ建つ最初の家だ。あれは」
 こんなことを私は家内と話していると、また八百屋の小僧が来て、そこへは高次郎氏の家が建つのだと告げていった。自分の家の傍へ知らぬ人の家の建つときには、来るものはどんな人物かと気がかりなものだが、それが高次郎氏の家だと分ると急に私は心に明るさを感じた。しかし、また小さな私の家よりはるかに狭い彼の家の敷地を見降して、堂々たる風貌におよそ似もつかぬその小ささに、絶えずこれから見降さねばならぬ私の二階家が肩の聳(そび)えた感じに映り、これは困ったことになったと私は苦笑した。故(ゆえ)もなく自分の好きな人物に永久に怒りを感じさせるということはこの土地を選んだ最初の私の目的に反するのである。
 ともかく高次郎氏は最初の私の家の隣人となって、暮のおし迫ったころ樹木の多い伯爵家の庭の中から明るい茶畑の中の自分の家へ移って来た。高次郎氏が足を延ばせば壁板から足の突き出そうな、薄い小さな平家(ひらや)だった。私は傍を通るたびに、中を注意したがる自分の視線を叱(しか)り反(かえ)して歩くように気をつけたが、間もなく周囲に建ち並んで来るにちがいない大きな家に押しつめられ氏の家の平和も破れる日が来るのではないかと心配になることもあった。
 朝家を出るとき敷島を口に咥(くわ)え、ひらりと自転車に乗るときのゆったりした高次郎氏の姿を私の見たのは一度や二度ではなかった。また細君のみと子夫人が、背中の上の方に閂(かんぬき)のかかった薄鼠色の看守服の良人を門口まで送って出て、
「行ってらっしゃい。行ってらっしゃい」
 と高くつづけさまに云って手を振り、主人の見えなくなるまで電柱の傍に立ちつくしている姿も、これも雨が降っても雪が降っても毎朝変らなかった。私の家内もこの新しい隣家の主婦の愛情の細やかさが暫(しばら)くは乗りうつったこともあったが、とうてい敵ではないとあきらめたらしくすぐ前に戻った。
「どうも、お前を叱るとき大きな声を出したって、ここなら大丈夫と思って来たのに、これじゃ駄目だ」
 と私は家内と顔見合せて笑ったこともある。二階建から平屋の向うを圧迫する気がねがこちらにあったのに、実は絶えず下から揺り動かされている結果となって来た滑稽(こっけい)さは、年中欠かさず繰りつづけられるのであった。私の家の女中も加藤家と私の家とをいつも比較していると見えて、
「あたくし結婚するときには、あんな旦那(だんな)様と結婚したいと思いますわ」
 とふと家内に洩(もら)したことがあった。八百屋の老主婦ばかりではなく、私の家の女中も朝ペタルを踏んで出て行く高次郎氏には、丁寧にお辞儀をするのを忘れない風だった。そのためもあろうか女中は塀(へい)の外の草ひきだけは毎朝早く忘れずにする癖も出来た。この女中は二年ほどして変ったが次に来た女中も、加藤夫妻の睦(むつま)じさには驚いたと見え、塀の外の草ひきだけはまめまめしく働いた。顔自慢で村の若者たちから騒がれたこともあるとかで、幾らか横着な性質だったから、ある日も家内に、
「あのう加藤さんところの奥さんは、やきもちやきですわね。さっきあそこの旦那さんのお出かけのとき、一寸(ちょっと)旦那さんに物を云いましたら、奥さんがじろっとあたしを睨(にら)むんですのよ」
 とこの女中はさも面白そうな声で告げ口した。しかし、この女中も間もなく嫁入りをした。そのころになると、私の家の附近いったいの森はすべて截(き)り払われ、空地には私の家より大きな家が次ぎ次ぎに建ち出した。そのため予想のように加藤家はあるか無きかのごとき観を呈して窪(くぼ)んでいったが、夫妻の愛情の細やかさは、前と少しも変りはなかった。銭湯へ行くときでも二人は家の戸を閉め一緒に金盥(かなだらい)を持って出かけ、また並んで帰って来た。高次郎氏の役所からの帰りには必ず遠くまで夫人は出迎えにいっていた。小さな躑躅(つつじ)や金盞花(きんせんか)などの鉢植(はちうえ)が少しずつ増えた狭い庭で、花を見降している高次郎氏の傍には、いつも囁(ささや)くようなみと子夫人の姿が添って見られた。この二人は結婚してから幾年になるか分らなかったが、私の隣人となって三年目ごろのあるときから、何となくみと子夫人の身体は人目をひくほど大きくなった。
「今ごろになってお子さんが出来るのかしら。加藤さんの旦那さん喜んでらっしゃるわ。きっと」

 こういうことを家内と云っているとき、奇妙なことにまた私の家にも出生の予感があり、それが日ごとに事実となって来た。それまでは、私は年賀の挨拶(あいさつ)に一年に一度加藤家へ行くきりで向うもそれに応じて来るだけだったが、通りで出会う私の家内とみと子夫人のひそかな劬(いたわ)りの視線も、私は謙遜(けんそん)な気持ちで想像することが出来た。
「いったい、どっちが早いんかね。家のか」
 と私はみと子夫人の良人を送り出す声を聞いた朝など家内に訊(たず)ねたこともあったが、加藤家の方が少し私の家より早かった。次ぎに私の家の次男が生れた。すると、二年たらずにまた加藤家の次女が生れた。
 いつの間にか私の家の周囲には八方に家が建ち連り、庭の中へ見知らぬ子供たちの遊びに来る数が年毎に増えて来た。それらの中に額に静脈の浮き出た加藤家の二人の女の子もいつも混っていた。どこから現れて来るものか数々の子らの出て来る間にも、私の家の敷地を貸してくれた地主が死んだ。また隣家の主婦も、またその隣家の主婦も日ならずして亡(な)くなった。すると、その亡くなった斜め向いの主婦も間もなく死んでしまった。裏のこのあたり一帯の大地主に三夫婦揃った長寿の家もあったが、その真ん中の主人も斃(たお)れた。
 こんな日のうちに加藤家ではまた第三番目の子供が生れた。それは初の男の子だった。朝ペタルを踏み出す父の後から、子供たちの高次郎氏を送り出す賑(にぎ)やかな声が、夫人の声と一緒にいつものごとく変らずに聞えていた。実際、私はもう十幾年間、
「行ってらっしゃい。行ってらっしゃい」
 とこう呼ぶ加藤家の元気の良い声をどれほど聞かされたことかしれぬ。その度(たび)に私は、この愛情豊かな家を出て行く高次郎氏の満足そうな顔が、多くの囚人たちにも何か必ず伝わり流れていそうに思われた。この家の不幸なことと云えば、見たところ、恐らく私の家の腕白な次男のために、女の子の泣かされつづけることだけではなかろうかと私は思った。どこからか女の子の泣き声を聞きつけると、私は二階から、「またやったな」と乗り出すほどこの次男のいたずらには梃擦(てこず)った。このようなことは子供のこととはいえ、どことなく加藤家と私の家との不和の底流をなしているのを私は感じたが、それも永い年月下からこの二階家を絶えず揺りつづけた加藤家に対して、自然に子供が復讐(ふくしゅう)していてくれたのかもしれぬ。
「こらッ、あの子を泣かしちゃいかんよ」
 私はこんなに自分の次男によく云ったが、次男は、
「あの子、泣きみそなんだよ」と云ってさも面白そうにまた泣かした。高次郎氏の所へ一年に一度年賀の挨拶に私の方から出かけて行くのも「今年もまた何をし出かすか分りませんから、どうぞ宜敷(よろし)く」と、こういう私の謝罪の意味も多分に含んでいた。この家は門の戸を開けると一歩も踏み込まないのに、すぐまた玄関の戸を開けねばならぬという風な、奇妙な面倒さを私は感じ敷居も年毎に高くなったが、出て来るみと子夫人の笑顔だけは最初のときと少しも変らなかった。
 高次郎氏とも私は顔を合すというような機会はなかった。月の良い夜など明笛(みんてき)の音が聞えて来ると、あれ加藤の小父さんだよと子供の云うのを聞き、私も一緒に明治時代の歌を一吹き吹きたくなったものである。
 高次郎氏が看守長となった年の秋、漢口(かんこう)が陥(お)ちた。その日夕暮食事をしていると長男が突然外から帰って来て、
「加藤さんところの小父さん、担架に乗せられて帰って来たよ。顔にハンカチがかけてあった」と話した。
 私と家内は咄嗟(とっさ)に高次郎氏の不慮の死を直覚した。
「どうなすったのかしら。お前訊(き)かなかった」
 家内の質問に子供は何の興味もなさそうな顔で「知らん」と答えた。外から見てどこと云って面白味のない高次郎氏だったが、篤実な人のことだから陥落の喜びのあまりどこかで酒宴を催し、ふらふらと良い気持ちの帰途自動車に跳(は)ねられたのではなかろうかと私は想像した。それならこれはたしかに一種の名誉の戦死だと思い、すぐ私は二階へ上って加藤家の方を見降した。しかし、家中は葉を落した高い梧桐(あおぎり)の下でひっそりと物音を沈めているばかりだった。そのひと晩は夜の闇が附近いちめんに密集して垂れ下って来ているような静けさで、私は火鉢につぐ炭もひとり通夜の支度をする寂しさを感じた。すると、次の朝になって次男が、
「加藤さんの小父さん、お酒飲んで帰って来たら、電車に突き飛ばされて死んじゃったんだって」とまた云った。
「違うよ。まだ生きてるんだよ」
 と長男が今度はどういうものか強く否定した。
「死んだんだよ。死んだと云ってたよ」
 とまた次男は声を強め倦(あ)くまで長男に云い張った。どちらがどうだかよく分らなかったが、とにかく不慮の出来事のこととてこちらから訊ねに行くわけにもいかずそのままでいると、その翌日になって高次郎氏の家から葬(とむらい)が出た。
 私は家内を加藤家へお焼香にやった後、小路いっぱいに電柱の傍に群れよって沈んでいる、看守の服装をした沢山な人たちの姿を眺めていた。そのときふと私はその四五日前に見た、加藤家の半白の猫が私の家の兎(うさぎ)の首を咥(くわ)えたと見る間に、垣根(かきね)を潜(くぐり)り脱けて逃げた脱兎(だっと)のような身の速さを何となく思い出した。
 高次郎氏の不慮の死はやはり子供たちの云い張ったようだった。酔後終電車に跳ねられてすぐ入院したが、そのときはもう内出血が多すぎて二日目に亡くなったということである。みと子夫人は裁縫の名手だから高次郎氏の死後の生活の心配は先ず無くとも、見ていても出来事は少しこの家には早すぎて無慙(むざん)だった。加藤家はその後すぐ人手にわたった。そして一家は高次郎氏やみと子夫人の郷里の城ヶ島へ水の引き上げてゆくような音無(おとな)しさで移っていった。
 三カ月は不慮の死の匂いがあたりに潜んでいる寂しさで私は二階に立った。ある日みと子夫人から、香奠返(こうでんがえし)に一冊の貧しい歌集が届いた。納められた中の和歌は数こそ尠(すくな)かったがどれもみな高次郎氏の遺作ばかりだった。私は氏を剣客だとばかり思っていたのにそれが歌人だったと知ると、俄(にわか)に身近かなものの死に面したような緊張を感じ、粗末な集を先ず開いたところから読んでみた。
「宵月は今しづみゆき山の端(は)におのづ冴(さ)えたる夕なごり見ゆ」
「夕暗(ゆふやみ)に白さ目につく山百合(やまゆり)の匂ひ深きは朝咲きならむ」
 月夜に明笛を吹いた剣客であるから相当に高次郎氏は優雅な人だと私は思っていたが、しかし、これらの二首の歌を見ると、私は今まで不吉な色で淀(よど)んで見えた加藤家の一角が、突然爽(さわ)やかな光を上げて清風に満ちて来るのを覚え襟(えり)を正す気持ちだった。
「冷え立ちし夜床にさめて手さぐりに吾子の寝具かけなほしけり」
「井の端にもの洗ひ居(を)る我が妻は啖(たん)吐く音に駆けてきたれる」
 この歌など高次郎氏の啖吐く音にも傍まで駆けよって来るみと子夫人の日常の様子が眼に泛(うか)んで来るほどだが、これらの歌とは限らず、どの歌も人格の円満さが格調を強め高めているばかりではない、生活に対して謙虚清澄な趣きや、本分を尽して自他ともどもの幸福を祈ってやまぬ偽りのない心境など、外から隣人として見ていた高次郎氏の温厚質実な態度以上に、はるかに和歌には精神の高邁(こうまい)なところが鳴りひびいていた。
 暫くの間、私はこのあたりに無言でせっせっと鍬(くわ)を入れて来た自分の相棒の内生活を窺(のぞ)く興味に溢(あふ)れ、なお高次郎氏の歌集を読んでいった。妻を詠(うた)い子を詠う歌は勿論(もちろん)、四季おりおりの気遣(きづか)いや職務とか人事、または囚人の身の上を偲(しの)ぶ愛情の美しさなど、百三十二ほどのそれらの歌は、読みすすんでゆくに随(したが)い私には一句もおろそかに読み捨てることが出来ないものばかりだった。私ら二人は新年の挨拶以外に言葉を交(まじ)えたことはなかったとはいえ、どちらも十幾年の月日を忍耐して来た一番の古参である。この歌集の序文にも加藤高次郎君は剣道よりも後から和歌に入りまだ十幾年とはたたぬのに、かくも精神の高さにいたったことは驚歎に価すると歌の師匠が書いているが、私には、高次郎氏の歌はどの一首も思いあたることばかりだったのみならず、すべてそれは氏の亡くなってから私に生き生きと話しかけて来る声だった。私は身を乗り出し耳を傾ける構えだった。
「一剣に心こもりておのづから身のあはだつをかそかに知れり」
「正眼に構えて敵に対(むか)ひつつしばし相手の呼吸をはかる」
 これは戸山学校の剣道大会に優勝したときの緊張した剣客の歌である。次にこういうのがあった。
「ことたれる日日の生活(たつき)に慣れにつつ苦業求むる心うすらぐ」
 この歌は恐らくみと子夫人の情愛に、いつとなく慣れ落ちてしまった高次郎氏の悔恨に相違あるまい。このような歌を作った歌人はあまり私の知らないところだが、また私にも同様の悔恨が常に忍びよって来て私を苦しめることがある。
「現身(うつしみ)のもろき生命(いのち)の思ひつつ常のつつしみかりそめならず」
 これは囚人を絶えず見守っている人の家に帰った述懐であろうが、この述懐がつもり積って次のような歌となり、人人の心を襲って来るのが一首あった。
「生きの身をくだきて矯(た)めよ囚人(めしうど)の心おのづとさめて来たらむ」
 看守長のなさけはまだこの他にも幾つとなくつづいていた。折にふれてと題して、
「口重き吾(われ)にもあらず今日はまたあらぬ世辞言ひ心曇りぬ」
 この人は心の騒ぐ日、いつも歎き悲しむ歌を詠むのが習慣となっているが、その一つに、
「己が身の調(ととの)はざるか人の非にかくも心のうちさわぎつつ」
 というのがある。私は自分にもこんな日がしばしば来たばかりか、他人の非に出あわぬ朝とて幾十年の間ほとんどないのを思いよくも永年(ながねん)この忍耐をしつづけて来たものだと、我が身をふり返って今さら感慨にふけるのだった。
「上官のあつきなさけに己が身を粉とくだきて吾はこたへむ」
 この歌も高次郎氏を思うと嘘ではなかった。私はこのような心の人物の一人でも亡くなる損失をこのごろつくづくと思うのだが、上官に反抗する技術が個性の尊重という美名を育て始めた近代人には、古代人のこの心はどんなに響くものか、私は今の青年の心中に暗さを与えている得も云われぬ合理主義に、むしろ不合理を感じることしばしばあるのを思い、私の子供にこれではお前の時代は駄目になるぞと叱る思いで、次の歌を読みつづけた。
「移されしさまにも見えずわが池の白き睡蓮(すいれん)けさ咲きにけり」
 加藤高次郎氏のこの歌集は題して「水蓮」という。これは高次郎氏の歌の師匠のつけた題であるが、この師は高次郎氏の「睡蓮」について睡を水としたまま次のように書いている。
「加藤君がかつて水蓮によって、人生をいたく教えられたことがあると言って、しみじみと洩(も)らされたことがあった。先年役所(刑務所)の庭に造った池に、所長さんの処から一株の水蓮を根分けしていただいたことがある。この水蓮は刑務所の池へ移されて来ても、少しもかわるところがない。やはり水蓮としての性を十分発揮してその可憐(かれん)なやさしい美しい花を開いているではないか。この水蓮の可憐な花の姿に加藤君は魂をうたれた。人間であればいかなる偉い人でも、刑務所へ移されると態度が変ってしまう。それなのに水蓮は移されたことも知らぬ顔に咲き誇っている。なんたる自然の偉大さであろう。出来得べくんば自分もこの水蓮の花のように、如何(いか)なる事件に逢おうとも心を動かすことなくありたい。これが加藤君の水蓮によって悟入した心境であった」
 師匠というものは弟子の心をよく知っているものだが、高次郎氏もまた、水蓮のような人として師の眼に映じていたにちがいない。この遺歌集の最後の二首は、また氏の最後のものらしく円熟した透明な名残(なご)りをとどめている。
「しののめはあけそめにけり小夜烏(さよがらす)天空高く西に飛びゆく」
「大いなるものに打たれて目ざめたる身に梧桐(あをぎり)の枯葉わびしき」 
 高次郎氏の師匠はさらにこの歌集の巻末に、加藤君はある夜役所の帰りに突然私の所へ来て、雑誌に出た自身の歌を全部清書したいからと云い、端座したまま夜更(よふけ)までかかって清書をし終えた。その後で酒を二人で飲んで帰途についたが、翌日加藤君の危篤の報に接し、次の日に亡くなった。人生朝露のごとしといえあまりのことに自分は自失しそうだと書いてあった。
 してみると、高次郎氏が電車に飛ばされたのは、自分の歌集を清書し終えたその夜の帰途にちがいないと私は思った。私には高次郎氏の死はもう他人の事ではなく、身に火を放たれたような新しい衝撃を感じた。一度は誰にも来る終末の世界に臨んだ一つの態度として、端座して筆を握り自作を清書している高次郎氏の姿は、も早や文人の最も本懐とするものに似て見え、はッと一剣を浴びた思いで私はこの剣客の去りゆく姿を今は眺めるばかりだった。
 高次郎氏が亡くなってからやがて一周忌が来る。先日家内は私の家の兎を食い殺した加藤家の猫が、老窶(おいやつ)れた汚(きたな)い手でうろうろ食をあさり歩いている姿を見たと話した。私は折あらば一度その猫も見たいと思っている。


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底本:「機械・春は馬車に乗って」新潮文庫、新潮社
   1969(昭和44)年8月20日初版発行
   1995(平成7)年4月10日34刷
入力:MAMI
校正:松永正敏
ファイル作成:野口英司
2000年10月7日公開
青空文庫作成ファイル:

寺田寅彦   『数学と語学』 3938文字

2008-08-22 09:43:23 | 図書館
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数学と語学
寺田寅彦



 ある入学試験の成績表について数学の点数と語学の点数の相関(コーレレーション)を調べてみたことがあった。各受験者のこの二学科の点数をXYとして図面にプロットしてみると、もちろん、点はかなり不規則に散布する。しかしだいたいからいえば、やはり X = Y で表わされる直線の近くに点の密度が多いように見えた。もっとも中にはXYのいずれか一方が百点に近くて他の一方の数値が小さいような例もあるにはあったが、大勢から見れば両者の間には統計的相関があるといってもたいして不都合はなかったように記憶している。
 これはきわめて当たりまえのようにも思われる。結局頭のよいものは両方の点がいいという事が、最も多くプロバブルである、といってしまえばそれだけである。しかしもしやこの二つの学科がこれを修得するに要する頭脳の働き方の上で本質的に互いに共通な因子を持っているようなことはないか。これは一つの問題になる。
 ちょっと考えると数学は純粋な論理の系統であり、語学は偶然なものの偶然な寄り集まりのように見える。前者には機械的な記憶などは全然不要であり、後者には方則も何もなく、ただ無条件にのみ込みさえすればよいように思われるかもしれないが、事実はいうまでもなくそう簡単ではない。
 数学も実はやはり一種の語学のようなものである、いろいろなベグリッフがいろいろな記号符号で表わされ、それが一種の文法に従って配列されると、それが数理の国の人々の話す文句となり、つづる文章となる。もちろん、その言語の内容は、われわれ日常の言語のそれとはだいぶ毛色のちがったものである。しかし幾十百億年後の人間の言語が全部数学式の連続に似たものになりはしないかという空想をほんの少しばかりデヴェロープして考えてみると、この譬喩(ひゆ)が必ずしも不当でない事がわかるかと思う。
 言語はわれわれの話をするための道具であるが、またむしろ考えるための道具である。言語なしに「考える」ことはできそうもない。動物心理学者はなんと教えるかしらないが、私には牛馬や鳶(とんび)烏(からす)が物を「考える」とは想像できない。考えの式を組み立てるための記号をもたないと思われるからである。聾唖者(ろうあしゃ)には音響の言語はないが、これに代わるべき動作の言語がちゃんと備わっているのである。
 数学では最初に若干の公理前提を置いて、あとは論理に従って前提の中に含まれているものを分析し、分析したものを組み立ててゆくのであるが、われわれの言語によって考えを運んでゆく過程もかなりこれと似たところがある。もちろん、数学の公理や論理はきわめて簡単明瞭であり、使用される概念も明確に制定されているに反して、言語による思考の場合では、これらのすべてのものが複雑に多義的であるから、一見同様な前提から多種多様な結論が生まれ出るように見える。しかし実際の場合に前提の数が非常に多いから全く同一な前提群から出発するという事は実はあり得ないのである。
 それでも、二人の人間が長く共同的に生活している場合には二人の考え方が似てくる。親しい友だちどうしで道を歩いていると、二人が同時に同じ事を考える事がある。縁側で日向(ひなた)ぼっこをしている二匹のねこがどうかすると全く同じ挙動をすると同じかもしれない。してみると人間の考え方にも一定の公式のようなものがあるかもしれない。その公式からひどく離れるとばかか気違いか天才になるのかもしれない。
 こんな空想はどうでもよい事にして、平凡な実際問題として見た時にも、数学の学習と語学の学習とは方法の上でかなり似通(にかよ)った要訣(ようけつ)があるようである。
 語学を修得するにまず単語を覚え文法を覚えなければならない。しかしただそれを一通り理解し暗記しただけでは自分で話す事もできなければ文章も書けない。長い修練によってそれをすっかり体得した上で、始めて自分自身の考えを運ぶ道具にする事ができる。
 数学でも、ただ教科書や講義のノートにある事がらを全部理解しただけではなかなか自分の用には立たない。やはりいろいろな符号の意味をすっかり徹底的にのみ込む事はもちろん、またいろいろな公式をかなりの程度まで暗記して、一度わがものにしてしまわなければ実際の計算は困難である。
 それで語学も数学もその修得は一気呵成(いっきかせい)にはできない。平たくいえば、飽きずに急がずに長く時間をかける事が、少なくとも「必要条件」の一つである。
 ただしこれだけでは「充分なる条件」ではない。いくら単語をたくさん覚え、文法をそらんじてもよい文章は書けないと同様に、いくら数学に習熟してもそれで立派なオリジナルな論文が書けるとは限らない。これはいうまでもない事である。
 数学が一種の国語であるとしても、それはきわめて特別な国語であることには間違いない。少なくとも高等数学となると一般世人にはあまり用のないこと、あたかもサンスクリットやヘブライのようなものである。用がないから習わない、習わないからたいそうむつかしく恐ろしく近づき難いもののように思われ、従ってそれに熟達した人がたいそうえらいものに見え、それでつづられた文章がたいそうありがたいもののように見えてくる。読んでみると実はたわいのないようなくだらないものであっても尊いお経のように思われるかもしれない。そういう傾向はたしかにある。文典の巻末にある作文や翻訳の例題と同格な応用数学的論文もなくはない。
 近ごろ Heinrich Hackmann : Der Zusammenhang zwischen Schrift und Kultur in China (1928) を読んでみた。シナ人があまり漢字をだいじに育てあげたためにシナの文化が伸展しなかったというような事がおもしろく論じてある。
 現代の物理的科学は確かに数学の応用のおかげで異常の進歩を遂げた。この事には疑いもないが、その結果として数学にかからない自然現象は見て見ぬふりをしたり、無理に数学にかけうるように自然をねじ曲げるような傾向を生じてくる。この弊がこうじるとかえって科学の本然の進展を阻害しはしないか。
 あらゆる自然科学は結局記載の学問である。数学的解析は実にその数学的記載に使われるもっとも便利な国語である。しかしこの言語では記載されなくても他の言語で記載さるべき興味ある有益なる現象は数限りもなくある。
 あまり道具を尊重し過ぎて本然の目的を忘れるのは有りがちな事であるから、これもよく考えてみなければならない。
 ついでながら、先日ある日本語の上手な漢字も自由に書けるドイツ人から聞いた話によると、漢字を学ぶ唯一の方法は、ただ暇さえあればそれらの文字とにらめくらをする事だといっていた。なるほどあの根気のいいドイツ人に、日本語のうまい、そして文字までも書く事のできる人の多いわけだと思った。もしかすると、ドイツ人がいったいに数理的科学に長じているように見えるのは、やはり同じ根気のよさ執拗さに起因しているのではないかという疑いが起こった。そう考えてみるとドイツ人の論文の中に、少なくもまれには、愚にもつかない空虚な考えをいかめしい数式で武装したようなのもある、そのわけが読めるような気がした。
 しかしなんといっても、あらゆる言語のうちで、数学の言語のように、一度つかまえた糸口をどこまでもどこまでも離さないで思考の筋道を続けうる言語はない。普通の言語はある所までは続いていても、犬に追われたうさぎの足跡のように、時々連絡が怪しくなる。思うにこれは普通の言語の発達がいまだ幼稚なせいかもしれない。ギリシア哲学盛期の言語に比べて二十世紀の思想界の言語はこういう意味では、ほんの少ししか進歩していないかもしれない。しかし現在よりもっと進歩し得ないという理由は考えられない。人間の思考の運びを数学の計算の運びのように間違いなくしうるようにできるものかどうかはわかりかねる。しかし、少なくともそれに近づくようにわれわれの言語、というかあるいはむしろ思考の方式を発育させる事はできるかもしれない。もっともそうなるほうがいいか、ならないほうがいいか、これはまたもちろん別問題である。
 私が「数学と語学」という題でこの原稿を書き始めた時は、こういうむつかしい問題にかかり合う考えはなかった。ただ語学が好きで数学のきらいな学生諸君と、数学が好きで語学がきらいな学生諸君とに、その好きなものときらいなものとに存外共通な要素のある事を思いださせ、その好きなものに対する方法を利用してそのきらいなものを征服する道程を暗示したいと考えたまでであった。それがやはりうさぎの足跡的に意外な方面を飛び歩いて結局こんなものが書き上がってしまった。これはやはり人間、というよりむしろ私の言語の不完全のせいだとして読者の寛容を祈る事とする。





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底本:「日本の名随筆89 数」安野光雅編、作品社
   1990(平成2)年3月25日第1刷発行
※底本の誤記等を確認するにあたり、「寺田寅彦全集」(岩波書店)を参照しました。
入力:富田倫生
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2003年10月30日修正
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高山樗牛  『一葉女史の「たけくらべ」を讀みて』(明治二十九年五月)2191文字

2008-08-22 09:41:30 | 図書館
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一葉女史の「たけくらべ」を讀みて
高山樗牛



 本郷臺を指(サス)ヶ谷(ヤ)かけて下りける時、丸山新町と云へるを通りたることありしが、一葉女史がかゝる町の中に住まむとは、告ぐる人三たりありて吾等辛(やうや)く首肯(うなづ)きぬ。やがて「濁り江」を讀み、「十三夜」を讀み、「わかれみち」を讀みもてゆく中に、先の「丸山新町」を思ひ出して、一葉女史をたゞ人ならず驚きぬ。是の時「めざまし草」の鴎外と、なにがし等との間に、詩人と閲歴の爭ありしが、吾等は耳をば傾けざりき。
 一葉女史の非凡なることを、われ等「たけくらべ」を讀みてますます確めぬ。丸山新町に住むことに於て非凡なることも、又小説家として其の手腕の非凡なることも。
 まことや「たけくらべ」の一篇は、たしかに女史が傑作中の一なるべき也。
 吾等の是の篇を推す所以の一は、其の女主人公の性格の洵に美はしく描かれたるにあり。姉なる人は、憂き川竹の賤しき勤め、身賣りの當時、めきゝに來りし樓の主が誘ひにまかせ、養女にては素より、親戚にては猶更なき身の、あはれ無垢(むく)なる少女の生活を穢土(ゑど)にくらし過ごすことの何とも心往かず、田舍より出でし初め、藤色絞りの半襟を袷にかけ着て歩るきしを、田舍もの田舍ものと笑はれしを口惜しがりて、三日三夜泣きつゞけし美登利(みどり)。男の弱き肩持ちて、十四五人の喧嘩相手を、此處は私が遊び處、お前がたに指でもさゝしはせぬ、と物の見事にはねつけし美登利。額にむさきもの投げつけられしくやしさに、親でさへ額に手はあげぬものを長吉づれが草履の泥を額に塗られては踏まれたも同じこと、と好きな學校まで不機嫌に休みし美登利。我は女、とても敵ひがたき弱味をば付け目にして、と祭の夜の卑怯の處置(しうち)を憤り、姉の全盛を笠に着て、表一町の意地敵に楯つき、大黒屋の美登利、紙一枚のお世話にも預らぬものを、あのやうに乞食呼ばはりして貰ふ恩は無し、と我儘の本性、侮られしが口惜しさに、石筆を折り、墨を捨て、書物も十露盤も要(い)らぬものに、中よき友と埓も無く遊びし美登利。お侠(きやん)の本性は瀧つ瀬の流に似て、心の底に停るもの無しと見えしはあだなれや。扨も是の道だけは思の外の美登利。浮名を唄はるゝまでにも無き人の、さりとては無情(つれな)き仕打、會へば背き、言へば答へぬ意地惡るは、友達と思はずば口を利(き)くも要らぬ事と、少し癪にさはりて、摺れ違うても物言はぬ中はホンの表面(うはべ)のいさゝ川、底の流は人知れず湧き立つまでの胸の思を、忘るゝとには無きふた月、三月(みつき)。秋の夜雨の檐下にしほらしき人の後影見るとはなしに、何時までも何時までも見送りし心の中は、やがて胸倉捉へてほざき散らさむずお侠の本性もあはれや。今は紅入の友禪に赤き心を見する可憐の少女、是より後は中よき友とも遊ばず、衣ひきかづきて一と間に籠る古風の振舞、生れ變りたらむ樣の美登利は、有りし意地を其まゝ封じこめて、こゝしばらくの怪しの態を誰が何時言告ぐるでも無く、格子門の外にかゝる水仙の作り花は、龍華寺の信如が、なにがしの學校に袖の色變へぬべき當日のしるしなり、とはあはれ/\。たけくらべ、あへなく過ぎし昔の夢を思ひやるだに、いと床しや。
 一葉女史いかなる妙手あれば、是の間の情理をかくまでに穿たれしや。是の平淡の資材を驅りて、此の幽妙の人心を曲(つ)くせるは、たしかに女史が「十三夜」以上の作と云ふべし。正太も、三五郎も、信如も、各自の性格に於て洵によく其一致を保てども、かへす/″\も面白きは美登利なり。吾等つら/\是の作を讀みしとき、人情の自からなる美はしき、人生の本末の果敢なさ、くさ/″\の思ひに堪へざりき。見よや女子の勢力、と言はぬばかりの春秋知らぬ五丁町の賑ひに、美登利の眼に女郎といふもの、さのみ賤しき勤めとも思はねば、姉の全盛を父母への孝養と羨ましく、お職を通す姉が身の憂いのつらひの數も知らねば、廓のことよろづ面白く聞きなさるゝ年はやうやう數への十四、習は性を移す世に、是の末如何の運命に到るべき。玉の如く清き少女の初戀は、あはれや露の如く脆く消えて、恐ろしき淺ましき前途の、蛇の口を開いて待ち居るとも知らで、あへなき夢を忍ぶらむ美登利の身の哀れさよ。生れにはなど變りなき人の種。十三四の友どちは、げに無邪氣なる天人の群れとも見るべくも、年經ち、心長けては、濁り江の底なき水に交りて、本の雫の珠の影だにあらず。たけくらべ、あはれ床しく忍ばるゝ吾れ人の昔かな。一葉女史が是の篇は、やがて吾等が懺悔録として見べきに非ざるか。
 是れ吾等が「たけくらべ」を讀みて感ずる所なり。敢て批評とは謂はじ。

(明治二十九年五月)





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底本:「日本現代文學全集8」講談社
   1967(昭和42)年11月19日発行

入力:三州生桑
校正:染川隆俊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
2005年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:









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正岡子規  『高尾紀行』 1678文字 初出:「日本」(明治25)

2008-08-22 09:40:34 | 図書館
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高尾紀行
正岡子規



 旅は二日道連は二人旅行道具は足二本ときめて十二月七日朝例の翁を本郷に訪ふて小春のうかれありきを促せば風邪の鼻すゝりながら俳道修行に出でん事本望なりとて共に新宿さしてぞ急ぎける。

きぬ/″\に馬叱りたる寒さかな
鳴雪
 暫くは汽車に膝栗毛を休め小春日のさしこむ窓に顏さしつけて富士の姿を眺めつゝ

荻窪や野は枯れはてゝ牛の聲
鳴雪
堀割の土崩れけり枯薄

雪の脚寶永山へかゝりけり
汽車道の一筋長し冬木立
麥蒔やたばねあげたる桑の枝

 八王子に下りて二足三足歩めば大道に群衆を集めて聲朗かに呼び立つる獨樂まはしは昔の仙人の面影ゆかしく負ふた子を枯草の上におろして無慈悲に叱りたるわんぱくものは未來の豐太閤にもやあるらん。田舍といへば物事何となくさびて風流の材料も多かるに

店先に熊つるしたる寒さかな
鳴雪
干蕪にならんでつりし草鞋かな

冬川や蛇籠の上の枯尾花

木枯や夜著きて町を通る人
兀げそめて稍寒げなり冬紅葉
冬川の涸れて蛇籠の寒さかな

 茶店に憩ふ。婆樣の顏古茶碗の澁茶店前の枯尾花共に老いたり。榾焚きそへてさし出す火桶も亦恐らくは百年以上のものならん。

穗薄に撫でへらされし火桶かな

 高尾山を攀ぢ行けば都人に珍らしき山路の物凄き景色身にしみて面白く下闇にきらつく紅葉萎みて散りかゝりたるが中にまだ半ば青きもたのもし。
 木の間より見下す八王子の人家甍を竝べて鱗の如し。

目の下の小春日和や八王子
鳴雪
 飯繩權現に詣づ。

ぬかづいて飯繩の宮の寒きかな
鳴雪
屋の棟に鳩ならび居る小春かな
御格子に切髮かくる寒さかな
木の葉やく寺の後ろや普請小屋

 山の頂に上ればうしろは甲州の峻嶺峨々として聳え前は八百里の平原眼の力の屆かぬ迄廣がりたり。

凩をぬけ出て山の小春かな

 山を下りて夜道八王子に著く。
 八日朝霜にさえゆく馬の鈴に眼を覺まし花やかなる馬士唄の拍子面白く送られながら八王子の巷を立ち出で日野驛より横に百草の松蓮寺を指して行くに、

朝霜や藁家ばかりの村一つ
冬枯やいづこ茂草の松蓮寺
鳴雪
 路に高幡の不動を過ぐ。

松杉や枯野の中の不動堂

 小山をりて寺の門に至る。石壇を上れば堂宇あり。後の岡には處々に亭を設く。玉川は眼の下に流れ武藏野は雲の際に廣がる。

玉川の一筋ひかる冬野かな
鳴雪
 寺を下りて玉川のほとりに出で一の宮の渡を渡る。

鮎死で瀬のほそりけり冬の川

 府中まで行く道すがらの句に

古塚や冬田の中の一つ松
鳴雪
杉の間の隨神寒し古やしろ

鳥居にも大根干すなり村稻荷

小春日や又この背戸も爺と婆

 府中にてひなびたる料理やにすき腹をこやし六所の宮に詣づ。饅頭に路を急ぎ國分寺に汽車を待ちて新宿に著く頃は定めなき空淋しく時雨れて田舍さして歸る馬の足音忙しく聞ゆ。

新宿に荷馬ならぶや夕時雨

 家に歸れば人來りて旅路の絶風光を問ふ。答へていふ風流は山にあらず水にあらず道ばたの馬糞累々たるに在り。試みに我句を聞かせんとて

馬糞もともにやかるゝ枯野かな
馬糞の側から出たりみそさゞい
馬糞のぬくもりにさく冬牡丹
鳥居より内の馬糞や神無月
馬糞のからびぬはなしむら時雨

と息をもつがず高らかに吟ずれば客駭いて去る。





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底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
初出:「日本」
   1892(明治25)年12月号
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2003年5月27日作成
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横光利一  『洋灯』 4562文字

2008-08-22 09:39:31 | 図書館
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洋灯
横光利一


 このごろ停電する夜の暗さをかこっている私に知人がランプを持って来てくれた。高さ一尺あまりの小さな置きランプである。私はそれを手にとって眺めていると、冷え凍っている私の胸の底から、ほとほとと音立てて燃えてくるものがあった。久しくそれは聞いたこともなかったものだというよりも、もう二度とそんな気持を覚えそうもない、夕ごころに似た優しい情感で、温まっては滴り落ちる雫(しず)くのような音である。初めて私がランプを見たのは、六つの時、雪の降る夜、紫色の縮緬(ちりめん)のお高祖頭巾(こそずきん)を冠(かぶ)った母につれられて、東京から伊賀の山中の柘植(つげ)という田舎町へ帰ったときであった。そこは伯母の家で、竹筒を立てた先端に、ニッケル製の油壺(あぶらつぼ)を置いたランプが数台部屋の隅に並べてあった。その下で、紫や紅の縮緬の袱紗(ふくさ)を帯から三角形に垂らした娘たちが、敷居や畳の条目(すじめ)を見詰めながら、濃茶(こいちゃ)の泡の耀(かがや)いている大きな鉢を私の前に運んで来てくれた。これらの娘たちは、伯母の所へ茶や縫物や生花を習いに来ている町の娘たちで二三十人もいた。二階の大きな部屋に並んだ針箱が、どれも朱色の塗で、鳥のように擡(もた)げたそれらの頭に針がぶつぶつ刺さっているのが気味悪かった。
 生花の日は花や実をつけた灌木(かんぼく)の枝で家の中が繁(しげ)った。縫台の上の竹筒に挿した枝に対(むか)い、それを断(き)り落す木鋏(きばさみ)の鳴る音が一日していた。
 ある日、こういう所へ東京から私の父が帰って来た。父は夜になると火薬をケースに詰めて弾倉を作った。そして、翌朝早くそれを腹に巻きつけ、猟銃を肩に出ていった。帰りは雉子(きじ)が二三羽いつも父の腰から垂れていた。
 少いときでも、ぐったり首垂れた鳩や山鳥が瞼(まぶた)を白く瞑(つむ)っていた。父が猟に出かける日の前夜は、定(きま)って母は父に小言をいった。
「もう殺生だけはやめて下さいよ。この子が生れたら、おやめになると、あれほど固く仰言(おっしゃ)ったのに、それにまた――」
 母が父と争うのは父が猟に出かけるときだけで、その間に坐(すわ)っていた私はあるとき、
「喧嘩(けんか)もうやめて。」
 と云うと、急に父と母が笑い出したことがある。しかし、父の猟癖は止まらなかった。一度、私は猟銃姿の父の後からついていったことがあった。川を渡ったり、杉の密集している急な崖(がけ)をよじ登ったりして、父の発砲する音を聞いていたが、氷の張りつめた小川を跳び越すとき、私は足を踏み辷(すべ)らして、氷の中へ落ち込み、父から襟首を持って引き上げられた。それから二度と父はもう私をつれて行ってはくれなかった。
 父がまた旅に立ってしばらくしたある日、私は母につれられ隣村へ行った。沢山な人が私のいったその家に集っていて、大皿や鉢に、牛蒡(ごぼう)や人参(にんじん)や、鱈や、里芋などの煮つめたものが盛ってある間を、大きな肩の老人が担がれたまま、箱の中へ傾けて入れられるところだった。それが母の父の死の姿だった。また、人の死の姿を私の見たのはそれが初めだった。日が明るかった。そしてその村からの帰りに道路の水溜(みずたま)りのいびつに歪(ゆが)んでいる上を、ぽいッと跳び越した瞬間の、その村の明るい春泥の色を、私は祖父の大きな肩の傾きと一緒に今も覚えている。祖父の死んだこの家は、私の母や伯母の生れた家で、母の妹が養子をとっていたものであった。
 伯母の家に半年もいてから、私と母と姉とは汽車に乗り琵琶湖(びわこ)の見える街へ着いた。そこに父は新しく私たちの棲(す)む家を作って待っていてくれた。そこが大津であった。私は初めてここの小学校へ入学した。湖を渡る蒸気船が学校のすぐ横の桟橋から朝夕出ていったり、這入(はい)って来たりするたびに、汽笛が鳴った。ここの学校に私は一ヶ月もいると、すぐ同じ街の西の端にある学校へ変った。家がまた新しく変ったからであるが、この第二の学校のすぐ横には疏水(そすい)が流れていて、京都から登って来たり下ったりする舟が集ると、朱色の関門の扉が水を止めたり吐いたりした。このころ、この街にある聯隊(れんたい)の入口をめがけて旗や提灯(ちょうちん)の列が日夜激しくつめよせた。日露戦争がしだいに高潮して来ていたのである。疏水の両側の角刈にされた枳殻(からたち)の厚い垣には、黄色な実が成ってその実をもぎ取る手に棘(とげ)が刺さった。枳殻のまばらな裾(すそ)から帆をあげた舟の出入する運河の河口が見えたりした。そしてその方向から朝日が昇って来ては帆を染めると、喇叭(らっぱ)のひびきが聞えて来た。私はこの街が好きであった。しかし私はこの大津の街にもしばらくよりいられなかった。再び私は母と姉と三人で母の里の柘植(つげ)へ移らねばならなかった。父が遠方の異国の京城(けいじょう)へ行くことになったからである。小学の一年で三度も学校を変えさせられた私は、今度はもとの伯母の家からではなく、祖父の大きな肩の見えた家から学校へ通った。
 私はこの家で農家の生活というものを初めて知ったのだった。それは私の家の生活とは何ごとも違っていた。どちらを向いても、高い山山ばかりに囲まれた盆地の山ひだの間から、蛙の声の立ちまよっている村里で、石油の釣りランプがどこの家の中にも一つずつ下っていた。牛がまた人と一つの家の中に棲んでいた。
 私がランプの下の生活をしたのは、このときから三年の間である。私はこの間に、まだ見たこともない大きな石臼(いしうす)の廻(まわ)るあいだから、豆が黄色な粉になって噴きこぼれて来るのや、透明な虫が、真白な瓢形(ひさごがた)の繭(まゆ)をいっぱい藁(わら)の枝に産み作ることや、夜になると牛に穿(は)かす草履(ぞうり)をせっせと人人が編むことなどを知った。また、藪(やぶ)の中の黄楊(つげ)の木の胯(また)に頬白(ほおじろ)の巣があって、幾つそこに縞(しま)の入った卵があるとか、合歓(ねむ)の花の咲く川端の窪(くぼ)んだ穴に、何寸ほどの鯰(なまず)と鰻がいるとか、どこの桑の実には蟻がたかってどこの実よりも甘味(あま)いとか、どこの藪の幾本目の竹の節と、またそこから幾本目の竹の節とが寸法が揃(そろ)っているとか、いつの間にか、そんなことにまで私は睨(にら)みをきかすようになったりした。
 しかしこうしている間にも、私らは祖父の家から独立した別の家に棲んでいて、村村に散っている親戚(しんせき)たちの顔を私はみな覚えた。母は五人姉妹の下から二番目で、四人もあるその伯母たちの子供らが、これがまたそれぞれ沢山いた。一番上の大伯母は、この村から三里も離れた城のある上野という町にいたが、どういうものだが、この美しい伯母にだけは、親戚たちの誰もが頭が上らなかった。色が白くふっくらとした落ちつきをもっていて、才智が大きな眼もとに溢(あふ)れていた。またこの大伯母はいつも黙って人の話を聞いているだけで、何か一言いうと、それで忽(たちま)ち親戚間のごたごたが解決した。ときどき実家のあるこの村へ来ても、どこの家へも行かずに私の家へ来て泊っていったが、ある日伯母は東京へ行って来たといって私に絵本を一冊土産にくれた。それは東京の名所を描いた絵本だった。そのころは、私はもう私のいた筈(はず)の東京を忘れていて、私の一番行きたいところは、湖の見える大津と大伯母のいる上野の町とであった。この伯母には子供が五人もいた。遊女街の中央でただ一軒伯母の家だけ製糸をしていたので、私は周囲にひしめき並んだ色街の子供たちとも、いつのまにか遊ぶようになったりした。
 二番目の伯母は、私たちのいた同じ村の西方にあって、魚屋をしていた。この伯母一家だけはどの親戚たちからも嫌われていた。大伯母などは一度もここへは寄りつかなかったが私の母だけこことも仲良く交際していた。むかしはここは貧乏で、猫撫(ねこな)で声のこの伯母は実家の祖父の家から、許可なく魚屋へ逃げるように嫁いだのだということだったが、このころは祖父の家より物持ちになっていた。この伯母の主人はいつもにこにこした眼尻(めじり)で私を愛してくれた。私は祖父の家の後を継いでいる養子よりも、この魚屋の主人の方が好きだった。
「おう、利よ、来たかや。」
 こんな優しい声で小父がいうと、けちんぼだといわれている伯母が拾銭丸(じっせんだま)をひねった紙包を私の手に握らせた。ここには大きな二人の姉弟があったが、この二人も私を誰よりも愛してくれた。
 三番目の伯母は、私たちが東京から来たとき厄介になった伯母である。この伯母は気象が男のようにさっぱりしていた。この伯母の主人は近江(おうみ)の国に寺を持っている住職で、一人息子もまた別に寺を持っていた。伯母は家の中の拭(ふ)き掃除(そうじ)をするとき、お茶や生花の師匠のくせに一糸も纏(まと)わぬ裸体でよく掃除をした。ある時弟子の家の者が歳暮の餅(もち)を持ってがらりと玄関の戸を開けて這入って来た時、伯母は、ちょうどそこの縁側を裸体で拭いていた。私ははらはらしてどうするかと見ていると、
「これはまア、とんだ失礼をいたしまして、」
 と、伯母は、ただ一寸(ちょっと)雑巾(ぞうきん)で前を隠したまま、鄭重(ていちょう)なお辞儀をしたきり、少しも悪びれた様子を示さなかった。またこの伯母は、主人がたまに帰って来てもがみがみ叱(しか)りつけてばかりいた。主人の僧侶(そうりょ)は、どんな手ひどいことを伯母から云われても、表情を怒らしたことがなかった。
「お光(みつ)、お前はそんなこと云うけれども、まアまア、」
 といつも云うだけで、どういう心の習練か恐るべき寛容さを持ちつづけて崩さなかった。
 四番目の叔母は私の母とは一つ違いの妹だった。でっぷりよく肥えた顔にいちめん雀斑(そばかす)が出来ていて鼻の孔(あな)が大きく拡(ひろ)がり、揃ったことのない前褄(まえづま)からいつも膝頭(ひざがしら)が露出していた。声がまた大きなバスで、人を見ると鼻の横を痒(か)き痒(か)き、細い眼でいつも又この人は笑ってばかりいたが、この叔母ほど村で好かれていた女の人もあるまいと思われた。自分の持ち物も、くれと人から云われると、何一つ惜しまなかった。子供たちを叱るにも響きわたるような大声だったが、それでも笑って叱っていた。





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底本:「昭和文学全集 第5巻」小学館
   1986(昭和61)年12月1日初版第1刷発行
底本の親本:「定本横光利一全集」河出書房新社
   1981(昭和56)年6月~
入力:阿部良子
校正:松永正敏
2002年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:






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坂口安吾  [デカダン文学論] 1万字 底本の親本:「新潮 第四三巻第一〇号」

2008-08-22 09:38:27 | 図書館
デカダン文学論
坂口安吾



 極意だの免許皆伝などといふのは茶とか活花とか忍術とか剣術の話かと思つてゐたら、関孝和の算術などでも斎戒沐浴して血判を捺(お)し自分の子供と二人の弟子以外には伝へないなどとやつてゐる。尤も西洋でも昔は最高の数理を秘伝視して門外不出の例はあるさうだが、日本は特別で、なんでも極意書ときて次に斎戒沐浴、曰く言ひ難しとくる。私はタバコが配給になつて生れて始めてキザミを吸つたが、昔の人間だつて三服四服はつゞけさまに吸つた筈で、さすればガン首の大きいパイプを発明するのが当然の筈であるのに、さういふ便利な実質的な進歩発明といふ算段は浮かばずに、タバコは一服吸つてポンと叩くところがよいなどといふフザけた通が生れ育ち、現実に停止して進化が失はれ、その停止を弄んでフザけた通や極意や奥義書が生れて、実質的な進歩、ガン首を大きくしろといふやうな当然な欲求は下品なもの、通ならざる俗なものと考へられてしまふのである。キセルの羅宇(ラオ)は仏印ラオス産の竹、羅宇竹から来た名であるが、キセルは羅宇竹に限るなどと称して通は益々実質を離れて枝葉に走る。フォークをひつくりかへして無理にむつかしく御飯をのせて変てこな手つきで口へ運んで、それが礼儀上品なるものと考へられて疑られもしない奇妙奇天烈な日本であつた。実質的な便利な欲求を下品と見る考へは随所に様々な形でひそんでゐるのである。
 この歪められた妖怪的な日本的思考法の結び目に当る伏魔殿が家庭感情といふ奴で、日本式建築や生活様式に規定された種々雑多な歪みはとにかくとして、平野謙などといふ良く考へる批評家まで、特攻隊は女房があつては出来ないね、などとフザけたことを鵜呑みにして疑ることすらないのである。女房と女と、どこが違ふのだらう。女房と愛する人と、どこに違ひがあるといふのか。誰か愛する人なき者ありや。鐘の音がボーンと鳴つてその余韻の中に千万無量の思ひがこもつてゐたり、その音に耳をすまして二十秒ばかりで浮世の垢を流したり、海苔の裏だか表だかのどつちか側から一方的にあぶらないと味がどうだとか、フザけたことにかゝづらつて何百何千語の註釈をつけたり、果ては奥義書や秘伝を書くのが日本的思考の在り方で、近頃は女房の眉を落させたりオハグロをぬらせることは無くなつたが、刺青と大して異ならないかゝる野蛮な風習でもそれが今日残存して現実の風習であるなら、それを疑るよりも、奥義書を書いて無理矢理に美を見出し、疑る者を俗なる者、野卑にして素朴なる者ときめつけるのが日本であつた。女房のオハグロは無くなつたが、オハグロ的マジナヒは女房の全身、全心、魂の奥底にまで絡みついて生きてをり、それが先づ日本の幽霊の親分で、平野謙のやうに私などよりも考へる時間が余程多いらしい人ですら、人間の姿を諸々の幽霊から本当に絶縁しようといふ大事な根本的な態度を忘れ、多くは枝葉に就て考へる時間が多いのではないかと思ふ。彼は人の小説を厭になるほどたくさん読むが、僕が三行読んで投げ出すものを彼は三千万語の終りまで無理に読み、無理に幽霊をでつちあげ、そして自分の本当の心と真に争ふ、自分の幽霊と命を賭しても争ふといふ大事なたつた一つのことが忘れられてゐるのだ。
 日本的家庭感情の奇怪な歪みは浮世に於ては人情義理といふ怪物となり、離俗の世界に於てはサビだの幽玄だのモノノアハレなどといふ神秘の扉の奥に隠れて曰く言ひ難きものとなる。ポンと両手を打ち鳴らして、右が鳴つたか左が鳴つたかなどと云つて、人生の大真理がそんな所に転がつてゐると思ひ、大将軍大政治家大富豪ともならん者はさういふ悟りをひらかなければならないなどと、かういふフザけたことが日本文化の第一線に堂々通用してゐるのである。西洋流の学問をして実証精神の型が分るとかういふ一見フザけたことはすぐ気がつくが、つけ焼刃で、根柢的に日本の幽霊を退治したわけではなく、むしろ年と共に反動的な大幽霊と自ら化して、サビだの幽玄だの益々執念を深めてしまふ。学問の型を形の如くに勉強するが、自分自身といふものに就て真実突きとめて生きなければならないといふ唯一のものが欠けてゐるのだ。
 毎々平野謙を引合ひにして恐縮だが、先頃彼の労作二百余枚の「島崎藤村の『新生』に就て」を読んだからで、他の批評家先生は駄文ばかりで、いかさま私が馬鹿げたヒマ人でも駄文を相手にするわけには行かない。
「新生」の中で主人公が自分の手をためつすかしつ眺めて、この手だな、とか思ひ入れよろしくわが身の罪の深さを思ふところが人生の深処にふれてゐるとか、鬼気せまるものがあるとか、平野君、フザけたまふな。人生の深処がそんなアンドンの灯の翳みたいなボヤけたところにころがつてゐて、たまるものか。そんなところは藤村の人を甘く見たゴマ化し技法で、一番よくないところだ。むしろ最も軽蔑すべきところである。こんな風に書けば人が感心してくれると思つて書いたに相違ないところで、第一、平野君、自分の手をつく/″\眺めてわが身の罪の深さを考へる、具体的事実として、それが一体、何物です。
 自分の罪を考へる、それが文学の中で本当の意味を持つのは、具体的な行為として倫理的に発展して表はれるところにあるので、手をひつくり返して眺めて鬼気迫るなどとは、ボーンといふ千万無量の鐘の思ひと同じこと、海苔をひつくり返して焼いて、味がどうだといふやうな日本の幽霊の一匹にすぎないのである。
 島崎藤村は誠実な作家だといふけれども、実際は大いに不誠実な作家で、それは藤村自身と彼の文章(小説)との距離といふものを見れば分る。藤村と小説とは距(へだた)りがあつて、彼の分りにくい文章といふものはこの距離をごまかすための小手先の悪戦苦闘で魂の悪戦苦闘といふものではない。
 これと全く同じ意味の空虚な悪戦苦闘をしてゐる人に横光利一があり、彼の文学的懊悩だの知性だのといふものは、距離をごまかす苦悩であり、もしくは距離の空虚が描きだす幻影的自我の苦悩であつて、彼には小説と重なり合つた自我がなく、従つて真実の自我の血肉のこもつた苦悩がない。
 このやうに、作家と作品に距離があるといふことは、その作家が処世的に如何ほど糞マジメで謹厳誠実であつても、根柢的に魂の不誠実を意味してゐる。作家と作品との間に内容的には空白な夾雑物があつて、その空白な夾雑物が思考し、作品をあやつり、あまつさへ作家自体、人間すらもあやつつてゐるのだ。平野謙にはこの距離が分らぬばかりでなく、この距離自体が思考する最も軽薄なヤリクリ算段が外形的に深刻真摯であるのを、文学の深さだとか、人間の複雑さだとか、藤村文学の貴族性だとか、又は悲痛なる弱さだとか、たとへばそのやうに考へてゐるのである。
 藤村は世間的処世に於ては糞マジメな人であつたが、文学的には不誠実な人であつた。したがつて彼の誠実謹厳な生活自体が不健全、不道徳、贋物であつたと私は思ふ。
 彼は世間を怖れてゐたが、文学を甘くみくびつてゐた。そして彼は処世的なマジメさによつて、真実の文学的懊悩、人間的懊悩を文章的に処理しようとし、処理し得るものとタカをくゝつてゐた。したがつて彼は真実の人間的懊悩を真に悩み又は突きとめようとはせずに、たゞ処世の便法によつて処理し、終生自らの肉体的な論理によつて真実を探求する真の自己破壊といふものを凡そ影すらも行ひはしなかつた。
 距離とは、人間と作品の間につまるこの空白をさすのであり、肉体的な論理によつて血肉の真実が突きとめられ語られてゐないことを意味してゐる。かう書けば、かう読み、かう感心するだらうぐらゐに、批評家先生などは最も舐められてゐたのである。批評家をだますぐらゐわけのないことはない。批評家は作家と作品の間の距離などは分らず、当人自身の書くものが距離だらけで、距離をごまかすためのヤリクリが文学のむつかしい所だぐらゐに考へてをり、藤村ほどの不器用な人でも批評家とはケタの違ふ年期のはいつた筆力があるから、批評家をごまかすぐらゐはわけがない。問題は如何に生くべきか、であり、然して如何に真実に生きてゐるか、文章に隠すべからざる距離によつて作家は秘密の真相を常に暴露してゐるのである。

          ★

 藤村も横光利一も糞マジメで凡そ誠実に生き、かりそめにも遊んでゐないやうな生活態度に見受けられる。世間的、又、態度的には遊んでゐないが、文学的には全く遊んでゐるのである。
 文学的に遊んでゐる、とは、彼等にとつて倫理は自ら行ふことではなく、論理的に弄ばれてゐるにすぎないといふことで、要するに彼等はある型によつて思考してをり、肉体的な論理によつて思考してはゐないことを意味してゐる。彼等の論理の主点はそれ自らの合理性といふことで、理論自体が自己破壊を行ふことも、盲目的な自己展開を行ふことも有り得ないのである。
 かゝる論理の定型性といふものは、一般世間の道徳とか正しい生活などと称せられるものゝ基本をなす贋物の生命力であつて、すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などといふものは例外なしに贋物と信じて差支へはない。本当の倫理は健全ではないものだ。そこには必ず倫理自体の自己破壊が行はれてをり、現実に対する反逆が精神の基調をなしてゐるからである。
 藤村の「新生」の問題、叔父と姪との関係は問題自体は不健全だが、小説自体は馬鹿々々しく健全だ。この健全とは合理的だといふことで、自己破壊がなく、肉体的な論理の思考がない代りに、型の論理が巧みに健康に思考しているといふ意味なのである。
 藤村が真実怖れ悩んでゐることは小説には表はれてゐない。それに又、彼が真実怖れ悩んでゐることは決して文学自体の自己探求による悩みではなく、単に世間といふことであり、対世間、対名誉、それだけの「健康」なものだつた。彼はちやうど、例へば全軍の先頭に死なざるを得なかつた将軍の場合と同じやうに(この将軍が本当は死を怖れてゐることは敗戦後我々は多すぎる実例を見せられてきた)藤村も勇をふるつて己れと姪との関係を新聞に発表した。けれども将軍の遺書が尽忠報国の架空の美文でうめられてゐると同様に、彼の小説は型の論理で距離の空白をうめてゐるにすぎない。
 何故彼は「新生」を書いたか。新らしい生の発見探求のためであるには余りにも距離がひどすぎる。彼はそれを意識してゐなかつたかも知れぬ。そして彼は自分では真実「新生」の発見探求を賭けてゐるつもりであつたかも知れないのだが、如何せん、彼の態度は彼自身をすらあざむいてをり、彼が最も多く争つたのは文学のための欲求ではなく、彼は名誉と争ひ、彼自らをも世間と同時にあざむくために文学を利用したのだと私は思ふ。私がこれを語つてゐるのではなく、「新生」の文章の距離自体がこれを語つてゐるのである。彼は告白することによつて苦悩が軽減し得ると信じ、苦悩を軽減し得る自己救済の文章を工夫した。作中の自己を苦しめる場合でも、自分を助ける手段でしかなかつた。彼は真に我が生き方の何物なりやを求めてゐたのではなく、たゞ世間の道徳の型の中で、世間を相手に、ツジツマの合つた空論を弄して大小説らしき外見の物を書いてみせたゞけである。これも彼の文章の距離自体が語つてゐるのである。
 彼がどうして姪といふ肉親の小娘と情慾を結ぶに至るかといふと、彼みたいに心にもない取澄し方をしてゐると、知らない女の人を口説く手掛りがつかめなくなる。彼が取澄せば女の方はよけい取澄して応じるものであるから、彼は自分のポーズを突きぬけて失敗するかも知れぬ口説にのりだすだけの勇気がないのだ。肉親の女にはその障壁がないので、藤村はポーズを崩す怖れなしにかなり自由に又自然にポーズから情慾へ移行することが出来易かつたのだと思ふ。
 彼は姪と関係してその処理に苦しむことよりも、ポーズを破つて知らない女を口説く方がもつと出来にくかつたのだ。それほども彼はポーズに憑かれてをり、彼は外形的に如何にも新らしい道徳を探しもとめてゐるやうでゐながら、芸者を芸者とよばないで何だか妙な言ひ方で呼んでゐるといふだけの、全く外形的な、内実ではより多くの例の「健全なる」道徳に咒縛せられて、自我の本性をポーズの奥に突きとめようとする欲求の片鱗すらも感じてはゐない。真実愛する女をなぜ口説くことが出来ないのか。姪と関係を結んで心ならずも身にふりかゝつた処世的な苦悩に対して死物ぐるひで処理始末のできる執拗な男でゐながら、身にふりかゝつた苦悩には執拗に堪へ抵抗し得ても、自らの本当に欲する本心を見定めて苦悩にとびこみ、自己破壊を行ふといふ健全なる魂、執拗なる自己探求といふものはなかつたのである。
 彼は現世に縛られ、通用の倫理に縛られ、現世的に堕落ができなかつた。文学の本来の道である自己破壊、通用の倫理に対する反逆は、彼にとつては堕落であつた。私は然し彼が真実欲する女を口説き得ず姪と関係を結ぶに至つたことを非難してゐるのではない。人各々の個性による如何なる生き方も在りうるので、真実愛する人を口説き得ぬのも仕方がないが、なぜ藤村が自らの小さな真実の秘密を自覚せず、その悲劇を書き得ずに、空虚な大小説を書いたかを咎めてゐるだけのことである。芥川が彼を評して老獪(ろうかい)と言つたのは当然で、彼の道徳性、謹厳誠実な生き方は、文学の世界に於ては欺瞞であるにすぎない。
 藤村は人生と四ツに組んでゐるとか、最も大きな問題に取組んでゐるとか、欺瞞にみちた魂が何者と四ツに組んでも、それはたゞ常に贋物であるにすぎない。バルザックが大文学でモオパッサンが小文学だといふ作品の大小論はフザけた話である。藤村は文学を甘く見てゐたから、かういふ空虚軽薄な形だけの大長篇をオカユをすゝつて書いてゐられたので、贋物には楽天性といふものはない。常にホンモノよりも深刻でマジメな顔をしてゐるものなのである。いつか銀座裏の酒場に坂口安吾のニセモノが女を口説いて成功して、他日無能なるホンモノが現れたところ、女共は疑はしげに私を眺めて、あなたがホンモノなのかしら。ニセモノはもつとマジメな深刻な人だつたわよ、と言つた。

          ★

 私は世のいはゆる健全なる美徳、清貧だの倹約の精神だの、困苦欠乏に耐へる美徳だの、謙譲の美徳などといふものはみんな嫌ひで、美徳ではなく、悪徳だと思つてゐる。
 困苦欠乏に耐へる日本の兵隊が困苦欠乏に耐へ得ぬアメリカの兵隊に負けたのは当然で、耐乏の美徳といふ日本精神自体が敗北したのである。人間は足があるからエレベーターでたつた五階六階まで登るなどとは不健全であり堕落だといふ。機械にたよつて肉体労働の美徳を忘れるのは堕落だといふ。かういふフザけた退化精神が日本の今日の見事な敗北をまねいたのである。かういふ馬鹿げた精神が美徳だなどと疑られもしなかつた日本は、どうしても敗け破れ破滅する必要があつたのである。
 然り、働くことは常に美徳だ。できるだけ楽に便利に能率的に働くことが必要なだけだ。ガン首の大きなパイプを発明するだけの実質的な便利な進化を考へ得ず、一服吸つてポンと叩く心境のサビだの美だのと下らぬことに奥義書を書いてゐた日本の精神はどうしても破滅する必要があつたのだ。
 美しいもの、楽しいことを愛すのは人間の自然であり、ゼイタクや豪奢を愛し、成金は俗悪な大邸宅をつくつて大いに成金趣味を発揮するが、それが万人の本性であつて、毫も軽蔑すべきところはない。そして人間は、美しいもの、楽しいこと、ゼイタクを愛するやうに、正しいことをも愛するのである。人間が正しいもの、正義を愛す、といふことは、同時にそれが美しいもの楽しいものゼイタクを愛し、男が美女を愛し、女が美男を愛することなどと並立して存する故に意味があるので、悪いことをも欲する心と並び存する故に意味があるので、人間の倫理の根元はこゝにあるのだ、と私は思ふ。
 人間が好むものを欲しもとめ、男が好きな女を口説くことは自然であり、当然ではないか。それに対してイエスとノーのハッキリした自覚があればそれで良い。この自覚が確立せられず、自分の好悪、イエスとノーもハッキリ言へないやうな子供の育て方の不健全さといふものは言語道断だ。
 処女の純潔などといふけれども、一向に実用的なものではないので、失敗は成功の母と言ひ、失敗は進歩の階段であるから、処女を失ふぐらゐ必ずしも咎むべきではなからう。純潔を失ふなどゝ云つて、ひどい堕落のやうに思ひこませるから罪悪感によつて本格的に堕落の路を辿るやうになるので、これを進歩の段階と見、より良きものを求める為の尊い捨石であるやうな考へ方生き方を与へる方が本当だ。より良きものへの希求が人間に高さと品位を与へるのだ。単なる処女の如き何物でもないではないか。尤も無理にすて去る必要はない。要は、魂の純潔が必要なだけである。
 失敗せざる魂、苦悩せざる魂、そしてより良きものを求めざる魂に真実の魅力はすくない。日本の家庭といふものは、魂を昏酔させる不健康な寝床で、純潔と不変といふ意外千万な大看板をかゝげて、男と女が下落し得る最低位まで下落してそれが他人でない証拠なのだと思つてゐる。家庭が娼婦の世界によつて簡単に破壊せられるのは当然で、娼婦の世界の健康さと、家庭の不健康さに就て、人間性に根ざした究明が又文学の変らざる問題の一つが常にこのことに向つて行はれる必要があつた筈だと私は思ふ。娼婦の世界に単純明快な真理がある。男と女の真実の生活があるのである。だましあひ、より美しくより愛らしく見せようとし、実質的に自分の魅力のなかで相手を生活させようとする。
 別な女に、別な男に、いつ愛情がうつるかも知れぬといふ事の中には人間自体の発育があり、その関係は元来健康な筈なのである。然しなるべく永遠であらうとすることも同じやうに健康だ。そして男女の価値の上に、肉体から精神へ、又、精神から肉体へ価値の変化や進化が起る。価値の発見も行はれる。そして生活自体が発見されてゐるのである。
 問題は単に「家庭」ではなしに、人間の自覚で、日本の家庭はその本質に於て人間が欠けてをり、生殖生活と巣を営む本能が基礎になつてゐるだけだ。そして日本の生活感情の主要な多くは、この家庭生活の陰鬱さを正義化するために無数のタブーをつくつてをり、それが又思惟や思想の根元となつて、サビだの幽玄だの人間よりも風景を愛し、庭や草花を愛させる。けれども、さういふ思想が贋物にすぎないことは彼等自身が常に風景を裏切つてをり、日本三景などといふが、私は天の橋立といふところへ行つたが、遊覧客の主要な目的はミヤジマの遊びであつたし、伊勢大神宮参拝の講中が狙つてゐるのも遊び場で、伊勢の遊び場は日本に於て最も淫靡な遊び場である。尤も日本の家庭が下等愚劣なものであると同様に、これらの遊び場にもたゞ女の下等な肉体がころがつてゐるにすぎないのである。
 夏目漱石といふ人は、彼のあらゆる知と理を傾けて、かういふ家庭の陰鬱さを合理化しようと不思議な努力をした人で、そして彼はたゞ一つ、その本来の不合理を疑ることを忘れてゐた。つまり彼は人間を忘れてゐたのである。かゆい所に手がとゞくとは漱石の知と理のことで、よくもまアこんなことまで一々気がつくものだと思ふばかり、家庭の封建的習性といふものゝあらゆる枝葉末節のつながりへ万べんなく思惟がのびて行く。だが習性の中にも在る筈の肉体などは一顧も与へられてをらず、何よりも、本来の人間の自由な本姿が不問に附されてゐるのである。人間本来の欲求などは始めから彼の文学の問題ではなかつた。彼の作中人物は学生時代のつまらぬことに自責して、二三十年後になつて自殺する。奇想天外なことをやる。そのくせ彼の大概の小説の人物は家庭的習性といふものにギリ/\のところまで追ひつめられてゐるけれども、離婚しようといふ実質的な生活の生長について考へを起した者すらないのである。彼の知と理は奇妙な習性の中で合理化といふ遊戯にふけつてゐるだけで、真実の人間、自我の探求といふものは行はれてゐない。自殺などといふものは悔恨の手段としてはナンセンスで、三文の値打もないものだ。より良く生きぬくために現実の習性的道徳からふみ外れる方が遥かに誠実なものであるのに、彼は自殺といふ不誠実なものを誠意あるものと思ひ、離婚といふ誠意ある行為を不誠実と思ひ、このナンセンスな錯覚を全然疑ることがなかつた。そして悩んで禅の門を叩く。別に悟りらしいものもないので、そんなら仕方がないと諦める。物それ自体の実質に就てギリ/\のところまで突きとめはせず、宗教の方へでかけて、そつちに悟りがないといふので、物それ自体の方も諦めるのである。かういふ馬鹿げたことが悩む人間の誠実な態度だと考へて疑ることがないのである。日本一般の生活態度が元来かういふフザけたもので、漱石はたゞその中で衒学(げんがく)的な形ばかりの知と理を働かせてかゆいところを掻いてみたゞけで、自我の誠実な追求はなかつた。
 元より人間は思ひ通りに生活できるものではない。愛する人には愛されず、欲する物は我が手に入らず、手の中の玉は逃げだし、希望の多くは仇夢(あだゆめ)で、人間の現実は概ねかくの如き卑小きはまるものである。けれども、ともかく、希求の実現に努力するところに人間の生活があるのであり、夢は常にくづれるけれども、諦めや慟哭は、くづれ行く夢自体の事実の上に在り得るので、思惟として独立に存するものではない。人間は先づ何よりも生活しなければならないもので、生活自体が考へるとき、始めて思想に肉体が宿る。生活自体が考へて、常に新たな発見と、それ自体の展開をもたらしてくれる。この誠実な苦悩と展開が常識的に悪であり堕落であつても、それを意とするには及ばない。
 私はデカダンス自体を文学の目的とするものではない。私はたゞ人間、そして人間性といふものゝ必然の生き方をもとめ、自我自らを欺くことなく生きたい、といふだけである。私が憎むのは「健全なる」現実の贋道徳で、そこから誠実なる堕落を怖れないことが必要であり、人間自体の偽らざる欲求に復帰することが必要だといふだけである。人間は諸々の欲望と共に正義への欲望がある。私はそれを信じ得るだけで、その欲望の必然的な展開に就ては全く予測することができない。
 日本文学は風景の美にあこがれる。然し、人間にとつて、人間ほど美しいものがある筈はなく、人間にとつては人間が全部のものだ。そして、人間の美は肉体の美で、キモノだの装飾品の美ではない。人間の肉体には精神が宿り、本能が宿り、この肉体と精神が織りだす独得の絢(あや)は、一般的な解説によつて理解し得るものではなく、常に各人各様の発見が行はれる永遠に独自なる世界である。これを個性と云ひ、そして生活は個性によるものであり、元来独自なものである。一般的な生活はあり得ない。めいめいが各自の独自なそして誠実な生活をもとめることが人生の目的でなくて、他の何物が人生の目的だらうか。
 私はたゞ、私自身として、生きたいだけだ。
 私は風景の中で安息したいとは思はない。又、安息し得ない人間である。私はたゞ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないやうに、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつゞけ、そして、私は書きつゞけるであらう。神よ。わが青春を愛する心の死に至るまで衰へざらんことを。





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底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
   1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四三巻第一〇号」
   1946(昭和21)年10月1日発行
初出:「新潮 第四三巻第一〇号」
   1946(昭和21)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:

吉野作造 蘇峰先生の『大正の青年と帝国の前途』を読む

2008-08-22 09:37:59 | 図書館
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高大連携情報誌「大学受験ニュース」  早稲田大学文学部史学科国史専修
調べもの新聞通信員 (横浜)中村惇夫(前橋)宮正孝(大阪)西村新八郎


蘇峰先生の『大正の青年と帝国の前途』を読む
吉野作造



 所謂文壇に復活したる蘇峰先生は『時務一家言』に引続いて『世界の変局』及び『大正政局史論』を出し、更に去年の夏より筆硯を新たにして『大正の青年と帝国の前途』なる一篇を公にした。始め新聞に掲載されて居つた節には、どれ丈け世間の耳目を惹いたか知らないが、十一月の初め一部の纏まつた著書として公にさるゝや、非常の評判を以て全国の読書界に迎へられ、瞬く間に数十万部を売り尽したと『国民新聞』は云つて居る。蘇峰先生の盛名と『国民新聞』の広告とを以て、驚くべき多数の読者を得たといふ事は固より怪しむに足らぬけれども、而かも旬日ならずして売行万を数ふるといふのは、兎にも角にも近来稀なるレコードである。是れ丈け沢山の人に読まれたといふ事、其事自身が既に吾人をして之を問題たらしめる値打がある。況んや蘇峰先生の名は反動思想の些(いささ)か頭を擡(もた)げんとしつゝある今日に於て又少からず社会の注目を惹くべきに於てをや。
 斯くの如くして予も亦直ちに一本を求めて、閑を偸(ぬす)んで之を熟読せんとした。恰もよし『中央公論』社に於ても亦本事件を以て最近の思想界に於ける重大問題となし、本書を詳評せんとするの挙あるを聞き、乃ち敢て自ら其任に当るべきを求めたのであつた。然し此約束をした時にはまだ緒言を読んだ位で内容の調査にはかゝつてゐなかつた。而して緒言に於て述ぶる所の堂々たる宣言は、著者自ら本書を以て一生の大傑作否な大正年間に於ける不朽の名著と自認するの抱負ありありと見ゆるが故に、予も亦就いて学ぶべきもの頗る多かるべきを期待してをつた。而していよ/\閑を得て内容を読み進むに従つて、予は自ら予期の如き共鳴を感ぜず、予期の如き興味をすら感ぜざるに驚いた。固より必ずしも学ぶ所少しといふのではない。著者一流の名文には何時もながら敬服する許りである。内容にそれ程に興味を感ぜざる我輩をして、兎も角も一気読了、半ばにして巻を措かしめなかつたのは、第一には著者の文章の力である。議論の筋にも大体に於て同感である。殊に其今日の青年の遠大の志望なく、意気の振はざるを慨するの誠意に向つては、全然同感の意を表せざるを得ない。けれども全体を読んでどれ丈けの共鳴を感じたかを省る時に、予は不幸にして『国民新聞』の広告が期待して居るが如き感動を与へられない事を自白せざるを得ない。本書を読んで得たる予の感情を卒直に云ふ事を許すならば、面白いには面白いが、反対する程の事もなし、賛成する程の事もなし、殆ど我々の現在の思想には関係のない、丸で違つた社会の産物に接するが如き感がある。よかれあしかれ、折角批評しようとしても興が湧かないので、自ら読者に背いて当初の約束を撤回するの外はない。
 尤も此書を明治の初年より大正の初めに至る青年の思想の変遷史として見れば非常に面白い。第二章以下第八章に至る約四百頁、即ち本書の三分の二は、此史的記述に捧げられたものであつて、中に固より著者の考も多く説かれてあるけれども、大体に於て事実の記述である。第九章の英・独・米・露の説明も亦有益なる記述である。第一章と第十章とは相照応するもので、大正時代の記述であるが、著者の大正の青年に関する観察も大正時代に関する観察も大体に於て我々に教ゆる所少くない。斯う云つて見れば全部悉く我々の読んで益を得るもの多い訳であるが、然し著者の期するが如き、今日の青年を啓導して新日本の真個忠良なる臣民たらしむるの経典たるを得るや否やは大に疑なきを得ない。何故かの説明は予輩にも十分に分らない。唯何となく斯く感ずる。何故かく感ずるかを実はいろいろ自分で考へて見た。十分なる答案はまだ得てゐないが、事によつたら老年の人に多く見る、所謂現代の社会並びに現代の青年に関する適当なる理解の欠如といふ事が其主なる原因をなして居るのではあるまいか。
 蘇峰先生に限つた事ではない、明治以前の教育に育つた多くの尊敬すべき我々の先輩は、動(やや)もすれば今日の青年に忠君愛国の念が薄らぎつゝあると云ふ。又国家について遠大なる志望が欠けて居ると云ふ。又は国家の強盛に直接の関係ある問題――例へば軍備問題の如き――に興味を感ずる事極めて薄いと云ふ。之は如何にも其通りで、此等の批難は今日の多数の青年に当嵌る。故に我々は今日の青年に忠君愛国の念を鼓吹し、其志望を遠大ならしむべきを勧め、殊に軍備上の義務の如きは之を光栄ある義務として尊重し、且つ進んで之に当らしめんとする先輩の苦衷を諒とする。此等の点を盛んに鼓吹し主張し論明するのは、今日の青年を啓導する一つの手段には相違ない。然しながら問題は然う云ふ事を説いて果して啓導の目的が達せらるゝか否かといふにある。少くとも弥次馬が運動会でチヤンピオンを後援するが如く、無責任にヤレ/\と騒ぐといふ事が適当な方法かどうか。少くとも最良の方法かどうかと云ふ事は問題である。今日の時代は明治初年の時代ではない。況んや明治以前の時代では断じてない。遠大の志望を持ての、国家的理想を体認して志を立てろのと抽象的の議論を吹かけてそれで青年が振ひ起つた時代もあれば、そんな事を聞いて之を鼻であしらう時代もある。斯う云ふ重大な問題を鼻であしらふのが即ち今日の青年の堕落であるといへばそれ迄であるけれども、兎に角時代の相違は之を認めなければならない。此時代の相違を認識することなくして、昔流の嗾(け)しかけ方針では今日の青年は恐らく断じて動くまい。
 今日の警察の規則では道路に放尿すべからずと戒めて居る。而して此広い東京の市中に便所らしい辻便所は殆んどないといつてもよい。而かも日進月歩の教育は、吾人に教ゆるに極端に我慢をすると膀胱が破裂する危険があることを以てする。而して先輩は偶々此警察禁令を犯すものあるを見て、今日の青年には忍耐力がない、我々の若い時は三日も四日も小便を堪へたやうな事を云ふ。彼等の青年時代には路傍の放尿は法の禁ずる所ではなかつた。今日衛生上の考から之を以て法禁とする以上、彼等先輩は先づ沢山の辻便所を作る事に骨を折らねばならない。時代の変遷に応ずる各般の施設を怠つて昔通りの激励鞭撻を加ふるのみでは、更に最新の教育によつて自我の意識の段々に発達して居る今日の青年は承知しない。先輩諸君の常に敬服して居る独逸などでは二三丁置きに、中で弁当を開いて喰べてもよい程の立派の辻便所を拵(こしら)へ、而かも尚特に夜間に限り、車道に向つて放尿するものは之を大目に見るといふ習慣がある。之れ丈けの念の入つた手続を尽した上で、初めて放尿の禁を説くべきである。斯くても其禁を犯すものあれば、其自制力の乏しきを罵るべきである。我国に果して之れ丈けの設備があるか。設備なくして法の励行の苛察に亘るの甚だしきは、夜場末の暗がりで止むを得ず放尿しても厳しく法に問はるゝもの少からざるを見ても分る。
 遠大の志望を抱けとか、国家的奉公の念を熾(さか)んにせよとかいふ議論の一面は、兎も角も国民に向つて多大の犠牲を要求するの声である。今日の教育は殊に実用的科学を重んじて、先輩初め宗教道徳を蔑視する。今日の教育は、当さに其子弟をして個人的ならしめざるを得ざるが故に、先輩の要求と彼等青年に与ふる教育とは確かに其効果に於て一致しない。教育の結果東の方に奔(はし)らしめて置きながら、西の方に行かないのが悪いと力瘤を入れて説いても、それがどれ丈けの薬になるか、且又社会の制度の立て方によつては、人々をして甘んじて犠牲を払はしめ得る場合と、容易に犠牲を払はしめ得ざる場合とある。此二つの場合の分るゝ最も主要なるものは国民銘々の生活の保障の有無であらう。例へば明治以前の封建時代に於ては、家に定れる封禄あり、自分一身を犠牲に供する事は概して妻子眷族の生活の道を絶つ所以にあらざるのみならず、場合によつては家門の誉、子孫繁栄の基となることもある。固より此考を意識して国家の為めに命を捨てるといふのではない。時代の背景が自ら当時の役者をして、一死を鴻毛の軽きに比せしめ得たのである。斯う云ふ時代には遠大の志望を持ての、国家の為めに奉公しろのと云へば、国民が直ぐ其声に感応して何等之を妨ぐる個人的社会的の煩累を感じない。我国の忠君愛国の念の強かつたのは単に之のみによるのではないけれども、確かに数〔百〕年来封建的太平の時代を経過したといふ事が時勢の一変した今日まで其余徳を流して、我々に犠牲奉公の念を伝へて居るのである。然しながら今日は時代が全く一変して居る。見よ我々に何の生活上の保障があるか。今日の時代は貧富の懸隔を甚しからしめて、中等階級の立脚地を段々に撹乱して居る。大多数の人は一定の家産をすら持つて居ない。妻子眷族の生活は繋つて家長一人の生命にある。それも昔のやうに数十百年来住み馴れた故郷に定住して居るのなら親族故旧の厄介になるといふ見込もあるけれども、北海道のものが九州のものを娶(めと)つて満洲で奉職をして居るといふやうな今日の時代では、親族といふも名ばかりで何等精神的の親みがないから、亭主が死んだからとて、妻君が其子供を引連れて亭主の親族故旧に頼りやうがない。斯う云ふ時代には如何に犠牲奉公の徳を高唱しても、顧みて妻子眷族の窮を思ふ時に、果して其決心が鈍る所なきを得やうか。否な今日の世の中は妻子眷族は扨て置き、自分一人の生活にすら追はれて居るものが多い。斯くて今日の青年が生命も惜しい、金も欲しいと云ふのを、無理と見る事が出来やうか。勿論時勢が時勢だから放任して可いと云ふのではない。一方に於て犠牲奉公の精神の我々の国家的生活の発展に欠くべからざる所以を力説すると共に、他方時代の変に応ずる独特の施設を講ずるの必要があらう。之れ西洋の先進国に社会政策的施設の最も盛んなる所以である。而して我国の先輩は或は国家的設備の形式的整頓完成に誇るものはあらう。然しながら社会政策的施設によつて国民の生活を幸福にならしめた点に誇り得るものは果して幾人あるか。滔々たる政治家皆之れ便所を造らずして西洋の真似をして放尿すべからずと云ふ衛生警察の規則を拵へたもの許りではないか。さればと言つて予輩は憂国の先輩が、今日の青年の志気の頽廃を慨嘆するのを不快に思ふといふのではない。只今日の青年は之れでは動かない。中には或点まで事実の真相を徹底的に見て居る者もあるから、もつと立入つた説明でなければ満足しないものもある。故に従来の先輩の慷慨論は同じ時代の教育を受けた老人達や、又は新らしい教育の風に触るゝことの少き地方農家の若い衆には、多少の同感を得るかも知れないけれども、国家の最も有力なる多少の見識を有する青年には何等の反応を見ないのである。地方の青年でも此頃は段々に開けて居つて、よし彼等に独立の批評眼がないにしても彼等の境遇――時代の圧迫に苦んで居る――は自ら彼等をして物を正視するの傾向を持たしめねば已まない。一応先輩の説に感憤しても後から誰かが行つて事物の真に徹する説明をすれば、彼等の頭は直ぐ変化するに極つて居る。之れ我々が時々地方に遊説して著しく感ずるところの現象である。
 先輩の所説が只現代青年の警告鞭韃に止つて居る間はまだいゝ。然しながら彼等は原因を究めずして青年の思想を変転するに焦るの余り、彼等の思想の宣伝に不便なる総てのものを排斥せんとするに至つては、却つて青年の反抗を挑発して意外の結果を生ずるに至るやうである。例へば今日の青年の志気の振はざるは、西洋思想若くは西洋文学の結果なりとして、はては西洋の文物に眼を蔽はんことを要求するが如き態度に出づる。西洋の文学の中には余りに個人的な、余りに非国家的な分子もあらう。然し適当に之れを理解して居るものから見れば、此等は恐らく大して青年を誤る種にはならぬだらう。若し斯くの如き文学の流行するが故に青年の志気頽廃するといふならば、火元の西洋では夙(と)うの昔に亡国となつて居なければならぬ筈だ。青年の志気頽廃の原因は必ずや外にある。其本当の源を正さゞるが故に、此等の文学が特に青年を累するのであらう。若し源をさへ正せば思想の上に多少危険なものでも尚又文学として之を鑑賞するに何んの妨を見ないのである。然るに肝腎の源を抛擲して罪を文学に帰するが故に、文学の士などは却つて余計に反抗して益々非国家的態度に出づるの現象を呈する。又も一つ押し詰めて云へば、今日の青年は成程先輩の眼から見れば犠牲的奉公の念が薄らいで居るかも知れない。少くとも彼等と同じやうな意味、同じやうな形式に於て忠君愛国を唱へないかも知れない。然しながら真に国家社会の文通の進歩の為めに尽して居る努力其物の総量は、果して先輩諸公の青年たりし時に比して遜色あるか何うか。先輩諸公の青年たりし時が独り志気旺盛にして、今日の青年が全然言ふに足らざる頽廃の淵に沈んで居るものであるなら、日本が今の如き地位を維持して居らるゝ筈がない。我々は固より現状に満足するものではない。西洋諸国の進歩発展の莫大なるに比較し、我国の前途は尚容易に楽観すべからざるものあるを思ふけれども、又明治年間の発達の跡を見て、少くとも抽象的に現代の青年に失望悲観しない。時代の変に応じて各種の改良施設を社会背景に加へ、其上に現代の青年を活動せしむるならば、必ずや先輩諸公の憂ふるところは大いに減ずるだらうと思ふ。現代の青年を鞭韃警告するは固より必要である。けれどもそれよりも必要なるは現代青年の活動を妨ぐる総ての社会的原因を除くことである。而して之れ実に先輩諸公の責任である。而して先輩は常に青年を責むるに酷にして、自家の保守的思想の満足の為めに社会的改革の断行を欲しない。少くとも之れを第二次に置くが故に、折角の親切な先輩の忠告にも、青年は動もすれば反感を感ずる。例へば学制問題に見よ。猫も杓子も帝国大学の門に集つて高等遊民が出て困ると言ふ。然しながら社会の制度並びに慣行は帝大出身者に多大の特権を与へ、私学を圧迫して殆んど之れに帝大と同等の機会を与へず、帝大出身者にあらざれば青年の志を満足する地位にありつけないやうにして居るではないか。更に之を軍制に見よ。兵隊の義務は国民として苟も光栄ある義務なりと称へながら、上流社会は公然兵役を免れ(上流社会が兵役を免れ得るやうに制度が出来て居る)偶々止むを得ずして兵役につけらるれば為めに著しく学業が妨げられ、甚しければ職ある者も之を失ふといふことになつて居る。此等は先輩が二三決心をすれば一挙にして除去し得る事柄である。之を除去し各般の社会的制度慣行が、青年の活動を少くとも之に伴ふやうにすれば、初めて以て青年に犠牲奉公を説くことが出来るのである。今日の青年は今や正に時代の変と社会の欠陥を意識し、之を先輩に訴へ、或は自ら之が為めに努力し以て青年全体の活動を滑かならしめんと志しつゝある。斯くせざれば国家の前途亦甚だ危いと憂ひて居る。徒らに青年の志気の頽廃を説くの説に対しては、時代を解せざる老翁の繰言の如く、其誠意を諒として密かに其老を笑ふといふやうな風になつて居る。現代の青年は蘇峰先生の警告に接し或は此風の説明に多少の不足を感ずるのではあるまいか。


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底本:「日本の名随筆 別巻96・大正」作品社
   1999(平成11)年2月25日発行
底本の親本:「吉野作造選集3」岩波書店
   1995(平成7)年7月
入力:加藤恭子
校正:染川隆俊
ファイル作成:野口英司
2001年2月28日公開
青空文庫作成ファイル:









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寺田寅彦 大正十年七月『科学知識』 『アインシュタインの教育観

2008-08-22 09:35:02 | 図書館
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アインシュタインの教育観
寺田寅彦



 近頃パリに居る知人から、アレキサンダー・モスコフスキー著『アインシュタイン』という書物を送ってくれた。「停車場などで売っている俗書だが、退屈しのぎに……」と断ってよこしてくれたのである。
 欧米における昨今のアインシュタインの盛名は非常なもので、彼の名や「相対原理」という言葉などが色々な第二次的な意味の流行語になっているらしい。ロンドンからの便りでは、新聞や通俗雑誌くらいしか売っていない店先にも、ちゃんとアインシュタインの著書(英訳)だけは並べてあるそうである。新聞の漫画を見ていると、野良のむすこが親爺(おやじ)の金を誤魔化(ごまか)しておいて、これがレラチヴィティだなどと済ましているのがある。こうなってはさすがのアインシュタインも苦い顔をしている事であろう。
 我邦(わがくに)ではまだそれほどでもないが、それでも彼の名前は理学者以外の方面にも近頃だいぶ拡まって来たようである。そして彼の仕事の内容は分らないまでも、それが非常に重要なものであって、それを仕遂げた彼が非常な優れた頭脳の所有者である事を認め信じている人はかなりに多数である。そうして彼の仕事のみならず、彼の「人」について特別な興味を抱いていて、その面影を知りたがっている人もかなりに多い。そういう人々にとってこのモスコフスキーの著書は甚だ興味のあるものであろう。
 モスコフスキーとはどういう人か私は知らない。ある人の話ではジャーナリストらしい。自身の序文にもそうらしく見える事が書いてある。いずれにしても著述家として多少認められ、相当な学識もあり、科学に対してもかなりな理解を有(も)っている人である事は、この書の内容からも了解する事が出来る。
 この人のアインシュタインに対する関係は、一見ボスウェルのジョンソン、ないしエッカーマンのゲーテに対するようなものかもしれない。彼自身も後者の類例をある程度まで承認している。「琥珀(こはく)の中の蝿(はえ)」などと自分で云っているが、単なるボスウェリズムでない事は明らかに認められる。
 時々アインシュタインに会って雑談をする機会があるので、その時々の談片を題目とし、それの注釈や祖述、あるいはそれに関する評論を書いたものが纏(まと)まった書物になったという体裁である。無論記事の全責任は記者すなわち著者にあることが特に断ってある。
 一体人の談話を聞いて正当にこれを伝えるという事は、それが精密な科学上の定理や方則でない限り、厳密に云えばほとんど不可能なほど困難な事である。たとえ言葉だけは精密に書き留めても、その時の顔の表情や声のニュアンスは全然失われてしまう。それだからある人の云った事を、その外形だけ正しく伝えることによって、話した本人を他人の前に陥れることも揚げることも勝手に出来る。これは無責任ないし悪意あるゴシップによって日常行われている現象である。
 それでこの書物の内容も結局はモスコフスキーのアインシュタイン観であって、それを私が伝えるのだから、更に一層アインシュタインから遠くなってしまう、甚だ心細い訳である。しかし結局「人」の真相も相対性のものかもしれないから、もしそうだとすると、この一篇の記事もやはり一つの「真」の相かもしれない。そうでない場合でも、何かしら考える事の種子くらいにはならない事はあるまい。
 余談はさておき、この書物の一章にアインシュタインの教育に関する意見を紹介論評したものがある。これは多くの人に色々な意味で色々な向きの興味があると思われるから、その中から若干の要点だけをここに紹介したいと思う。アインシュタイン自身の言葉として出ている部分はなるべく忠実に訳するつもりである。これに対する著者の論議はわざと大部分を省略するが、しかし彼の面目を伝える種類の記事は保存することにする。
 アインシュタインはヘルムホルツなどと反対で講義のうまい型の学者である。のみならず講義講演によって人に教えるという事に興味と熱心をもっているそうである。それで学生や学者に対してのみならず、一般人の知識慾を満足させる事を煩わしく思わない。例えば労働者の集団に対しても、分りやすい講演をやって聞かせるとある。そんな風であるから、ともかくも彼が教育という事に無関心な仙人肌でない事は想像される。
 アインシュタインの考えでは、若い人の自然現象に関する洞察の眼を開けるという事が最も大切な事であるから、従って実科教育を十分に与えるために、古典的な語学のみならず「遠慮なく云えば」語学の教育などは幾分犠牲にしても惜しくないという考えらしい。これについて持出された So viele Sprachen einer versteht, so viele Male ist er Mensch. というカール五世の言葉に対して彼は、「語学競技者(シュプラハ・アトレーテン)」は必ずしも「人間」の先頭に立つものではない、強い性格者であり認識の促進者たるべき人の多面性は語学知識の広い事ではなくて、むしろそんなものの記憶のために偏頗(へんぱ)に頭脳を使わないで、頭の中を開放しておく事にある、と云っている。
「人間は『鋭敏に反応する』(subtil zu reagieren)ように教育されなければならない。云わば『精神的の筋肉』(geistige Muskeln)を得てこれを養成しなければならない。それがためには語学の訓練(ドリル)はあまり適しない。それよりは自分で物を考えるような修練に重きを置いた一般的教育が有効である。」
「尤(もっと)も生徒の個性的傾向は無論考えなければならない。通例そのような傾向は、かなりに早くから現われるものである。それだから自分の案では、中等学校(ギムナジウム)の三年頃からそれぞれの方面に分派させるがいいと思う。その前に教える事は極めて基礎的なところだけを、偏しない骨の折れない程度に止(とど)めた方がいい。それでもし生徒が文学的の傾向があるなら、それにはラテン、グリーキも十分にやらせて、その代り性に合わない学科でいじめるのは止(よ)した方がいい……」
 これは明らかに数学などを指したものである。数学嫌いの生徒は日本に限らないと見えて、モスコフスキーの云うところに拠ると、かなりはしっこい頭でありながら、数学にかけてはまるで低能で、学校生活中に襲われた数学の悪夢に生涯取り付かれてうなされる人が多いらしい。このいわゆる数学的低能者についてアインシュタインは次のような事を云っている。
「数学嫌いの原因が果して生徒の無能にのみよるかどうだか私にはよく分らない。むしろ私は多くの場合にその責任が教師の無能にあるような気がする。大概の教師はいろんな下らない問題を生徒にしかけて時間を空費している。生徒が知らない事を無理に聞いている。本当の疑問のしかけ方は、相手が知っているか、あるいは知り得る事を聞き出す事でなければならない。それで、こういう罪過の行われるところでは大概教師の方が主な咎(とが)を蒙(こうむ)らなければならない。学級の出来栄えは教師の能力の尺度になる。一体学級の出来栄えには自ずから一定の平均値があってその上下に若干の出入りがある。その平均が得られれば、それでかなり結構な訳である。しかしもしある学級の進歩が平均以下であるという場合には、悪い学年だというより、むしろ先生が悪いと云った方がいい。大抵の場合に教師は必要な事項はよく理解もし、また教材として自由にこなすだけの力はある。しかしそれを面白くする力がない。これがほとんどいつでも禍(わざわい)の源になるのである。先生が退屈の呼吸(いき)を吹きかけた日には生徒は窒息してしまう。教える能力というのは面白く教える事である。どんな抽象的な教材でも、それが生徒の心の琴線に共鳴を起させるようにし、好奇心をいつも活かしておかねばならない。」
 これは多数の人にとって耳の痛い話である。
 この理想が実現せられるとして、教案を立てる際に材料と分布をどうするかという問に対しては、具体的の話は後日に譲ると云って、話頭を試験制度の問題に転じている。
「要は時間の経済にある。それには無駄な生徒いじめの訓練的な事は一切廃するがいい。今日でも一切の練習の最後の目的は卒業試験にあるような事になっている。この試験を廃しなければいけない。」「それは修学期の最後における恐ろしい比武競技のように、遥かの手前までもその暗影を投げる。生徒も先生も不断にこの強制的に定められた晴れの日の準備にあくせくしていなければならない。またその試験というのが人工的に無闇(むやみ)に程度を高く捻(ね)じり上げたもので、それに手の届くように鞭撻(べんたつ)された受験者はやっと数時間だけは持ちこたえていても、後ではすっかり忘れて再び取りかえす事はない。それを忘れてしまえば厄介な記憶の訓練の効果は消えてしまう。試験さえすめば数カ月後には大丈夫綺麗に忘れてしまうような、また忘れて然るべきような事を、何年もかかって詰め込む必要はない。吾々は自然に帰るがいい。そして最小の仕事を費やして最大の効果を得るという原則に従った方がいい。卒業試験は正にこの原則に反するものである。」
 それでは大学入学の資格はどうしてきめるかとの問に対して、
「偶然に支配されるような火の試練(フォイアプローベ)でなく、一体の成績によればいい。これは教師にはよく分るもので、もし分らなければ罪はやはり教師にある。教案が生徒を圧迫する度が少なければ少ないほど、生徒は卒業の資格を得やすいだろう。一日六時間、そのうち四時間は学校、二時間は宅で練習すれば沢山で、それすら最大限である。もしこれで少な過ぎると思うなら、まあ考えてみるがいい。若いものは暇な時間でも強い興奮努力を経験している。何故と云えば、彼等は全世界を知覚し認識し呑み込まなければならないから。」
「時間を減らして、その代りあまり必須でない科目を削るがいい。『世界歴史』と称するものなどがそれである。これは通例乾燥無味な表に詰め込んだだらしのないものである。これなどは思い切って切り詰め、年代いじりなどは抜きにして綱領だけに止めたい。特に古い時代の歴史などはずいぶん抜かしてしまっても吾人の生活に大した影響はない。私は学生がアレキサンダー大王その外何ダースかの征服者の事を少しも知らなくても、大した不幸だとは思わない。こういう人物が残した古文書的の遺産は、無駄なバラストとして記憶の重荷になるばかりである。どうしても古代に溯(さかのぼ)りたいなら、せめてサイラスやアルタセルキセスなどは節約して、文化に貢献したアルキメーデス、プトレモイス、ヘロン、アポロニウスの事でも少し話してもらいたい。全課程を冒険者や流血者の行列にしないために発明家や発見家も入れてもらいたい。」
 歴史の時間の一部を割いて、実際の国家組織に関する事項、社会学や法律なども授けてはどうかという問に対してはむしろ不賛成だと答えている。彼自身個人としては公生活の組織に関してかなりな興味をもっているが、学校で政治的素養を作る事は面白くないと云っている。その理由は第一こういう教育は官辺の影響のために本質的(ザハリヒ)に出来にくいし、また頭の成熟しないものが政治上の事にたずさわるのは一体早過ぎるというのである。その代り生徒に何かしら実用になる手工を必修させ、指物(さしもの)なり製本なり錠前なりとにかく物になるだけに仕込んでやりたいという考えである。これに対してモスコフスキーが、一体それは腕を仕込むのが主意か、それとも民衆一般との社会的連帯の感じを持たせるためかと聞くと、
「両方とも私には重要に思われる。その上に私のこの希望を正当と思わせるもう一つの見地がある。手工は勿論高等教育を受けるための下地にはならないでも、人間(sittliche Persnlichkeit)として立つべき地盤を拡げ堅めるために役に立つ。普通学校で第一に仕立てるべきものは未来の官吏、学者、教員、著述家でなくて「人」である。ただの「脳」ではない。プロメトイスが最初に人間に教えたのは天文学ではなくて火であり、工作であった……」
 これに和してモスコフスキーは、同時に立派な鍛冶(かじ)でブリキ職でそして靴屋であった昔の名歌手(マイステルジンガー)を引合いに出して、畢竟(ひっきょう)は科学も自由芸術の一つであると云っている。しかしアインシュタインが、科学それ自身は実用とは無関係なものだと言明しながら、手工の必修を主張して実用を尊重するのが妙だと云うのに答えて次のような事を云っている。
「私が実用に無関係と云ったのは、純粋な研究の窮極目的についてである。その目的はただ極めて少数の人にのみ認め得られるものである。それでせいぜい科学の準備くらいのところまでこの考えを持って行くのは見当違いである。むしろ反対に私は学校で教える理科は今日やっているよりずっと実用的に出来ると思う。今のはあまりに非実際的(ドクトリネーア)過ぎる。例えば数学の教え方でも、もっと実用的興味のあるように、もっとじかに握(つか)まれるように、もっと眼に見えるようにやるべきのを、そうしないから失敗しがちである。子供の頭に考え浮べ得られる事を授けないでその代りに六(むつ)かしい「定義」などをあてがう。具体的から抽象的に移る道を明けてやらないで、いきなり純粋な抽象的観念の理解を強いるのは無理である。それよりもこうすればうまく行ける。先ず一番の基礎的な事柄は教場でやらないで戸外で授ける方がいい。例えばある牧場の面積を測る事、他所(よそ)のと比較する事などを示す。寺塔を指してその高さ、その影の長さ、太陽の高度に注意を促す。こうすれば、言葉と白墨(はくぼく)の線とによって、大きさや角度や三角函数などの概念を注ぎ込むよりも遥かに早く確実に、おまけに面白くこれらの数学的関係を呑み込ませる事が出来る。一体こういう学問の実際の起原はそういう実用問題であったではないか。例えばタレースは始めて金字塔の高さを測るために、塔の影の終点の辺へ小さな棒を一本立てた。それで子供にステッキを持たせて遊戯のような実験をやらせれば、よくよく子供の頭が釘付け(フェルナーゲルト)でない限り、問題はひとりでに解けて行く。塔に攀(よ)じ上らないでその高さを測り得たという事は子供心に嬉しかろう。その喜びの中には相似三角形に関する測量的認識の歓喜が籠っている。」
「物理学の初歩としては、実験的なもの、眼に見えて面白い事の外は授けてはいけない。一回の見事な実験はそれだけでもう頭の蒸餾瓶(レトルト)の中で出来た公式の二十くらいよりはもっと有益な場合が多い。やっと現象の世界に眼のあきかけた若いものの頭に公式などは一切容赦してやらねばいけない。公式は、丁度世界歴史の年代の数字と同様に、彼等の物理学の中に潜む気味の悪い怖ろしい幽霊である。よく訳のわかった巧者な実験家の教師が得られるならば中頃の学級からやり始めていい。そうしてもラテン文法の練習などではめったに出逢わないような印象と理解を期待する事が出来るだろう。」
「ついでながら近頃やっと試験的に学校で行われ出した教授の手段で、もっと拡張を奨励したいのがある。それは教育用の活動フィルムである。活動写真の勝利の進軍は教育の縄張りにも踏み込んでくる。そしてそこで始めて、多数の公開観覧所が卑猥(ひわい)なものやあくどい際物(きわもの)で堕落し切っているのに対して、道徳的なものをもって対抗させる機会を得るだろう。教授用フィルムに簡単な幻燈でも併用すれば、従来はただ言葉の記載で長たらしくやっている地理学などの教授は、世界漫遊の生きた体験にも似た活気をもって充たされるだろう。そして地図上のただの線でも、そこの実景を眼(ま)の当りに経験すれば、それまでとはまるで違ったものに見えて来る。また特にフィルムの繰り出し方を早めあるいは緩めて見せる事によって色々の知識を授ける事が出来る。例えば植物の生長の模様、動物の心臓の鼓動、昆虫の羽の運動の仕方などがそうである。それよりも一層重要だと思うのは、万人の知っているべきはずの主要な工業経営の状況をフィルムで紹介する事である。動力工場の成り立ち、機関車、新聞紙、書籍、色刷挿画はどうして作られるか、発電所、ガラス工場、ガス製造所にはどんなものがあるか。こんな事はわずかの時間で印象深く観せる事が出来る。更に自然科学の方面で、普通の学校などでは到底やって見せられないような困難な実験でも、フィルムならば容易に、しかも実際と同じくらい明瞭に示すことが出来る。要するに教育事業を救うの道はただ一語で「もっと眼に浮ぶようにする」(die erhhte Anschaulichkeit)という事である。出来る限りは知識(Erlernen)が体験が(Erleben)にならねばならない。この根本方針は未来の学校改革に徹底させるべきものである。」
 大学あたりの高等教育についてはあまり立入った話はしなかったそうである。しかしアインシュタインは就学の自由を極端まで主張する方で、聴講資格のせせこましい制定を撤廃したいという意見らしい。演習なり実習なりである講義を理解する下地の出来たものは自由に入れてやって、普通学の素養などは強要しない。ことに彼の経験では有為な徹底的な人間は往々一方に偏する傾向があるというのである。従って中等学校では生徒がある特殊な専門に入るだけの素養が出来次第その学科に対するだけの免状をやる事にすればいい。前に中学卒業試験全廃を唱えたのは、つまりこうして高等教育の関門を打破する意味と思われる。尤(もっと)も彼も全然あらゆる能力験定をやめるというのではない。医科学生になるための予備試験などは止めた方がいいが、しかし将来教師になろうという人で、見込のないようなのは早く験出してやめさせる方がいいと云っている。これは生徒に寛で教師に厳な彼としてさもあるべきことだと著者が評している。
 ここで著者はしばらくアインシュタインをはなれて、これらの問題に対するこの理学者の権威の如何について論じている。理論物理のような常識に遠い六かしい事を講義して、そして聴衆を酔わせ得るのは、彼自身の内部に燃える熱烈なものが流れ出るためだと云っている。彼の講義には他の抽象学者に稀に見られる二つの要素、情調と愛嬌が籠っている、とこの著者は云っている。講義のあとで質問者が押しかけてきても、厭な顔をしないで楽しそうに教えているそうである。彼の聴講者は千二百人というレコード破りの多数に達した。彼の講義室は聞くまでもなくすぐ分る。みんなの行く方へついて行けばいい、と云われるくらいだそうである。この人気に対して一種の不安の色が彼の眉目の間に読まれる。のみならず「はやりものだな」という言葉が彼の口から洩れた。しかしこれは悪く取ってはいけない、無理のないところもあると著者が弁護している。
 それから古典教育に関する著者の長い議論があるが、日本人たる吾々には興味が薄いから略する事にして、次に女子教育問題に移る。
 婦人の修学はかなりまで自由にやらせる事に異議はないようだが、しかしあまり主唱し奨励する方でもないらしい。
「他の学科と同様に科学の方も、なるべく道をあけてやらねばなるまい。しかしその効果については多少の疑いを抱いている。私の考えでは婦人というものに天賦のある障害があって、男子と同じ期待の尺度を当てる訳にはいかないと思う。」
 キュリー夫人などが居るではないかという抗議に対しては、
「そういう立派な除外例はまだ外にもあろうが、それかといって性的に自ずから定まっている標準は動かされない。」
 モスコフスキーは四十年前の婦人と今の婦人との著しい相違を考えると、知識の普及に従って追々は婦人の天才も輩出するようになりはしないか、と云うと、
「貴方(あなた)は予言が御好きのようだが、しかしその期待は少し根拠が薄弱だと思う。単に素養が増し智能が増すという『量的』の前提から、天才が増すというような『質的』の向上を結論するのは少し無理ではないか。」こう云った時にアインシュタインの顔が稲妻のようにちょっとひきつったので、何か皮肉が出るなと思っていると、果して「自然が脳味噌のない『性』を創造したという事も存外無いとは限らない」と云った。これは無論笑談(じょうだん)であるが彼の真意は男女の特長の差異を認めるにあるらしい。モスコフスキーはこれを敷衍(ふえん)して「婦人は微分学を創成する事は出来なかったが、ライプニッツを創造した。純粋理性批判は産めないが、カントを産む事が出来る」と云っている。
 話頭は転じて、いわゆる「天才教育」の問題にはいる。特別の天賦あるものを選んで特別に教育するという事は、原理としては多数の承認するところで問題は程度如何にある。これは元来ダーウィンの自然淘汰説に縁をひいていて、自然の選択を人工的に助長するにある。尤もこの考えはオリンピアの昔から、あらゆる試験制度に通じて現われているので、それ自身別に新しいことではないが、問題は制度の力で積極的にどこまで進めるかにある、と著者は云っている。これに対するアインシュタインの考えは試験嫌いの彼に相当したものである。「競技(スポルト)かなんぞのようにやる天才養成」(quasisportmssig gehandhabte Begabetenzchtung)はいけないと云っている。結果はいかものか失敗かである。しかしこの選択も適度にやれば好結果を得られない事はあるまい。これまでの経験ではまだ具体的な案は得られないが、適当にやれば、従来なら日影でいじけてしまうような天才を日向(ひなた)へ出して発達させる事も出来ようというのである。
 著者はこれにつづいて、天才を見付ける事の困難を論じ、また補助奨励と天才出現とは必ずしも並行しない事などを実例について論じている。そして一体天才の出現を無制限に望むのがいいか悪いかという根本問題に触れたところで、アインシュタインの独特な社会観をほのめかしている。しかしこれらの点の紹介は他の機会に譲ることにしたい。

(大正十年七月『科学知識』)





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底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
   1997(平成9)年5月6日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2004年12月13日作成
2005年10月26日修正
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寺田寅彦  物理学者、随筆家、俳人

2008-08-17 15:29:07 | 物理
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寺田寅彦

寺田 寅彦(てらだ とらひこ、1878年(明治11年)11月28日 - 1935年(昭和10年)12月31日)は、日本の物理学者、随筆家、俳人であり吉村冬彦の筆名もある。高知県出身(出生地は東京都)。

目次 [非表示]
1 略歴
2 業績
3 関連人物
4 主な著作
4.1 文系と理系の融合を試みた随筆
4.2 その他の著作
5 関連項目
6 外部リンク
7 脚注



[編集] 略歴
1878年(明治11年)11月28日、東京市麹町区(現在の千代田区)に高知県士族(旧足軽)寺田利正・亀夫妻の長男として誕生。寅年寅の日であったことから、寅彦と命名される。
1881年(明治14年)、祖母、母、姉と共に郷里の高知に転居。
1893年(明治26年)、高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)に入学。
1896年(明治29年)、熊本の第五高等学校に入学。英語教師夏目漱石、物理学教師田丸卓郎と出会い、両者から大きな影響を受け、科学と文学を志す。
1899年(明治32年)、東京帝国大学理科大学に入学、田中館愛橘、長岡半太郎の教えを受ける。
1903年(明治36年)、東京帝国大理科大学実験物理学科卒業、大学院進学。
1904年(明治37年)、東京帝国大理科大学講師。
1908年(明治41年)、理学博士号取得。
1909年(明治42年)、東京帝国大理科大学助教授。
1916年(大正5年)、東京帝国大理科大学教授に就任(物理学)。
1917年(大正6年)、帝国学士院恩賜賞受賞。
1924年(大正13年)、理化学研究所研究員兼務。
1928年(昭和3年)、帝国学士院会員。
1935年(昭和10年)12月31日、転移性骨腫瘍により57歳にて病没。遺骨は高知市寺田家墓地に埋葬。

[編集] 業績
研究上の業績としては、地球物理学関連のもの(潮汐の副振動の観測など)がある一方で、1913年には「X線の結晶透過」についての発表(結晶解析分野としては非常に初期の研究の一つ)を行い、その業績により1917年に帝国学士院恩賜賞を受賞している。また、”金平糖の角の研究”や”ひび割れの研究”など、統計力学的な「形の物理学」分野での先駆的な研究も行っていて、これら身辺の物理現象の研究は「寺田物理学」の名を得ている。

寅彦はいわゆる「理系」でありながら文学など文系の事象に造詣が深く、科学と文学を調和させた随筆を多く残している。その中には大陸移動説を先取りするような作品もある。「天災は忘れた頃にやってくる」は寅彦の言葉といわれるが、著書中にその文言はない[1]。 今日では、寅彦は自らの随筆を通じて文系と理系の融合を試みているという観点からの再評価も高まっている。

漱石の元に集う弟子たちの中でも最古参に位置し、科学や西洋音楽など寅彦が得意とする分野では漱石が教えを請うこともあって、弟子ではなく対等の友人として扱われていたと思われるフシもあり、それは門弟との面会日だった木曜日以外にも夏目邸を訪問していたことなどから推察できる。そうしたこともあって、内田百間らの随筆で敬意を持って扱われている。

また『吾輩は猫である』の水島寒月や『三四郎』の野々宮宗八のモデルとも言われる。このことは漱石が寒月の扱いについて伺いをたてる手紙を書いていることや、帝大理学部の描写やそこで行われている実験が寅彦の案内で見学した体験に基づいていることからも裏付けられる。


[編集] 関連人物
後に友人の大河内正敏に請われて入所した理化学研究所や他の研究所などでは、寅彦を慕って「門下生」となった人物が多く、その中には中谷宇吉郎(物理学者、随筆家)や坪井忠二(地球物理学者、随筆家)などがいる。

なお作家安岡章太郎、別役実とは親戚で[2]、寺田、別役、安岡は土佐藩士の家柄である。


[編集] 主な著作

[編集] 文系と理系の融合を試みた随筆
ウィキクォートに寺田寅彦に関する引用句集があります。『漫画と科学』
『科学と文学』
『西鶴と科学』
『珈琲哲学序説』
『神話と地球物理学』

[編集] その他の著作
『物理學序説』(岩波書店 1947年)
『科学歳時記』(角川書店 1950年)
『物理学者の心』(學生社 科学随想全集 1961年)
『地球物理学』(共著 岩波書店 岩波全書 1933年)

[編集] 関連項目
高知県立文学館 - 館内に寺田寅彦記念館がある

[編集] 外部リンク
寺田寅彦経歴
寺田 寅彦:作家別作品リスト(青空文庫)
寺田寅彦記念館
高知県立文学館 寺田寅彦記念室
私設 寺田寅彦ホームページ

[編集] 脚注
^ 小品『天災と国防』(初出は1934年11月、『経済往来』)にあるのは、次の言葉である。 文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顚覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。

^ 安岡は寅彦の姉駒の義弟の孫。別役は駒の曾孫にあたる。山田一郎『寺田寅彦覚書』p.33(岩波書店、1981年)を参照。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%AF%85%E5%BD%A6" より作成
カテゴリ: 日本の物理学者 | 日本の地球科学者 | 日本の随筆家 | 高知県出身の人物 | 地球物理学者 | 1878年生 | 1935年没








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