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高大連携情報誌 調べもの新聞
【ブログ=穴埋め・論述問題】
【胡蝶の夢】
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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胡蝶の夢(こちょうのゆめ)
中国戦国時代の思想家、荘子の著述の中の一編。本稿で詳述。
司馬遼太郎の歴史小説。1979年に刊行された。幕末の蘭法医、松本良順、関寛斎と通訳の司馬凌海が主人公である。
大黒摩季の楽曲。
胡蝶の夢(こちょうのゆめ)は、中国の戦国時代の宋国(現在の河南省)に産まれた思想家で、道教の始祖の一人とされる人物である荘子による作品である。荘子の考えが顕著に表れている説話として、荘子の代表作として一般的にもよく知られている。
意図 [編集]
【訳文】
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
【原文】
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
【書き下し文】
昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。
この説話は、無為自然、一切斉同の荘子の考え方がよく現れているものとして有名である。
荘周が真実の姿か、胡蝶が真実の姿か、 それは問題ではなく、 胡蝶であるときは栩栩然として胡蝶になりきり、荘周であるときは荘周となっている。 いずれも真実であり、己であることに変わりはない。
荘子は他の説話においても、是と非、生と死などの対立を提出してきたが、ここにも夢と現実との対立が提出されている。 そのいずれかが真の世界であるかを論ずるよりも、 いずれをも肯定して受け容れ、それぞれの場で満足して生きればよいのである。
これが万物斉同の世界で遊ぶことであり、荘子が胡蝶の夢を通して訴えていることであると言える。
物の変化とは表面に現れた現象面での変化に過ぎない。胡蝶と荘周が形の上において大きな違いを持ちながら、共に己であることに変わりはない。 万物は絶えざる変化を遂げるが、その実、本質においては何ら変わりのないことを述べているのである。
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%9D%B6%E3%81%AE%E5%A4%A2」より作成
カテゴリ: 中国文学 | 故事成語
最終更新 2010年1月26日 (火) 14:13
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胡蝶の夢(こちょうのゆめ)
中国戦国時代の思想家、荘子の著述の中の一編。本稿で詳述。
司馬遼太郎の歴史小説。1979年に刊行された。幕末の蘭法医、松本良順、関寛斎と通訳の司馬凌海が主人公である。
大黒摩季の楽曲。
胡蝶の夢(こちょうのゆめ)は、中国の戦国時代の宋国(現在の河南省)に産まれた思想家で、道教の始祖の一人とされる人物である荘子による作品である。荘子の考えが顕著に表れている説話として、荘子の代表作として一般的にもよく知られている。
意図 [編集]
【訳文】
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
【原文】
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
【書き下し文】
昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。
この説話は、無為自然、一切斉同の荘子の考え方がよく現れているものとして有名である。
荘周が真実の姿か、胡蝶が真実の姿か、 それは問題ではなく、 胡蝶であるときは栩栩然として胡蝶になりきり、荘周であるときは荘周となっている。 いずれも真実であり、己であることに変わりはない。
荘子は他の説話においても、是と非、生と死などの対立を提出してきたが、ここにも夢と現実との対立が提出されている。 そのいずれかが真の世界であるかを論ずるよりも、 いずれをも肯定して受け容れ、それぞれの場で満足して生きればよいのである。
これが万物斉同の世界で遊ぶことであり、荘子が胡蝶の夢を通して訴えていることであると言える。
物の変化とは表面に現れた現象面での変化に過ぎない。胡蝶と荘周が形の上において大きな違いを持ちながら、共に己であることに変わりはない。 万物は絶えざる変化を遂げるが、その実、本質においては何ら変わりのないことを述べているのである。
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最終更新 2010年1月26日 (火) 14:13