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【大航海時代】
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この項目では、15世紀中ごろから17世紀中ごろのヨーロッパ人による植民地主義的な海外進出について説明しています。
コーエーから発売されているコンピューターゲームのシリーズについては「大航海時代シリーズ」をご覧ください。
同シリーズの第1作については「大航海時代 (ゲーム)」をご覧ください。
日本を訪れた南蛮船(16-17世紀、狩野内膳画「南蛮屏風」)大航海時代(だいこうかいじだい)とは、15世紀中ごろから17世紀中ごろまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。
目次 [非表示]
1 文化・文明の伝播
2 古代の国際交流
3 ヨーロッパの停滞と復興
4 十字軍
5 国際交流の発展
6 海外進出
7 アフリカ・アジア大陸進出
8 アメリカ大陸進出
9 世界周航
10 ポルトガル・スペイン間の条約締結
11 ヨーロッパ北部諸国による探検
12 原典
13 脚注
14 関連項目
文化・文明の伝播 [編集]
愛馬・ブケパロスに騎乗したマケドニア王アレクサンドロス人類が出現して以来隣り合う文化文明は互いに交流し影響を及ぼしあってきた。文化交流は人類に限られたことではなく、道具の使用をも文化と認めるなら、チンパンジーや一部の鳥獣についても、個体間や隣り合う地域を通して文化交流が行われている[1]。人類は言葉や文字を使用することで、より円滑に文化文明を伝播することが可能であるが、極東と西ヨーロッパのように遠隔地に住む人々が直接交流するためには、試行錯誤を経た知識の蓄積や科学技術の進歩が必要であった。
古代の国際交流 [編集]
広大な領土を有する強力な国家が成立した場合、当然、遠隔地の交流は加速する。そのことは四大文明の発祥地をはじめインカ帝国やアステカ帝国の例を見るまでもなく明らかだ。
古代ギリシャ人は世界として、地中海周辺とエジプトさらにアケメネス朝ペルシャが支配するオリエントの一部を認識していた。アレキサンダー大王の東方遠征によって、ギリシャ人の世界観は一気にインド・中国までに広がった。アレキサンダーがペルシャの皇女を娶ったことに象徴されるように、アレキサンダーの帝国ではコスモポリタニズムが標榜され、遠隔地に住む人々同士の交流が盛んに行われ、その伝統はディアドコイ達が建国した国々やギリシャ文化の影響を強く受けた古代ローマにも受け継がれた。
パックス・ロマーナの下、整備された航路や道路を使って盛んに遠隔地交易が行われ、地中海地域や中東地域をはじめ遠く極東からも珍しい商品がローマにもたらされた[2]。多様な人種・民族が奴隷となり或いは傭兵となり、またある人々はローマの富を求めて流入し、国際間の交流は益々増加して行った[3]。
中東・インド・中国でも強力な世界帝国[4]が出現し、その影響下にある国々の間では盛んに交易が行われ、多数の交易路や航路が開拓整備された。アフリカ地域でも栄光の古代エジプトのほか、大陸奥部にも王国が成立し、塩や金が大陸を行き交った。このように各地域で発展した交易圏は、時代とともに互いに接触を深め、旧世界においては世界的交易ネットワークが徐々に構築されていった。
ヨーロッパの停滞と復興 [編集]
紀元5世紀になるとローマ帝国の衰退によって、未開人であったゲルマン人やノルマン人が相次いでヨーロッパに侵入し混乱を極めたうえ[5]、8世紀にはイベリア半島にイスラムが侵入した。さらにペストの流行や気候の寒冷化もあってヨーロッパの人口は激減し衰退の時代を迎えた。後世、この時代を暗黒時代と呼ぶようになる。[6]。
ゲルマン人やノルマン人が建国した国家は数世紀を経て淘汰洗練され、カトリックを精神的支柱とするフランク王国が、西ローマ帝国の支配地であったイタリア・フランス・ドイツに出現し、イスラムの北進を阻んだ。再び安定がもたらされた西ヨーロッパでは経済が活発化し富も蓄積されていった。フランク王国はゲルマンの伝統を色濃く残していたが、ローマの遺産も尊重し継承した。
十字軍 [編集]
11世紀後半セルジューク朝トルコによるパレスチナ征服を契機に、ビザンツ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスは聖地奪回のため、ローマ教皇・ウルバヌス2世に援軍を求めた。聖地回復を大義名分に十字軍の結成が呼びかけられ、ヨーロッパ各地から多くの王侯貴族や民衆がこの呼びかけに応じた。
多くの者は殉教精神から十字軍に参加したが、為政者は社会問題解決のためにこの聖戦を利用した。教皇は東方教会への影響力拡大を望み、王侯貴族は隆盛を極めるイスラムの領土や富の収奪を望んでいた[7]。
狂信者や野心家、無頼漢をも含む十字軍は、1096年、内部の勢力争いや権力闘争によって一枚岩でなかったイスラム勢力を駆逐しながら、パレスチナやその周辺を占領し複数のキリスト教国家を建設した。その後、富の分配をめぐる指導者同士の争い、ビザンツ帝国との利害対立、ローマ法王との思惑違いなどの問題が発生し、サラーフッディーンの活躍などによるイスラム勢力の反撃[8]にあって、成立したキリスト教国家の版図は縮小の一途をたどった。長引く戦争による十字軍内の士気低下や退廃、戦費調達に苦しむヨーロッパ各国民衆の苦悩、熱狂的な殉教精神の沈静化。十字軍勢力は後退を重ね聖地から駆逐されてしまう。
国際交流の発展 [編集]
マルコ・ポーロ十字軍の遠征は軍事的には失敗したが、戦争によって相互理解が深まり東西交流がより発展した。[9]ヨーロッパから鉱物資源や毛織物等が輸出され、イスラムからは香辛料や絹などの交易品が今まで以上にヨーロッパに輸入されるようになった。[10]。特にヨーロッパとオリエントの間に位置するビザンツ帝国やイタリア諸都市国家の経済成長が顕著になる。
ことにイタリアでは、ビザンツ帝国や、当時、世界最高水準にあったイスラムの文化や科学技術が紹介され、しかも十字軍の失敗によってローマ教皇の権威が失墜し宗教的戒律から開放された人々によって、ルネッサンス運動が花開き近代への扉が開けられた。
イスラム勢力がモンゴル帝国に圧迫されるようになると、ローマ教皇をはじめ西ヨーロッパ諸国家は国情視察も兼ね同盟や交易を求めてモンゴル帝国に使節を派遣した。1245年プラノ・カルピニはグユクハーンと謁見を果たした。宗教や異民族に比較的寛容なモンゴル人はヨーロッパ人を受け入れ、パックスモンゴリカの下でイタリア商人やイスラム商人が頻繁に東アジアに訪れるようになり、カラコルムや大都などの主要都市にまで長期滞在する者さえ現れた。中でもマルコ・ポーロは約20年にわたって行われた旅行体験を口述し東方見聞録として著した。イスラム諸国、インド、中国、ジパング、プレスター・ジョンについての記述が、ヨーロッパ人の好奇心を掻き立ていっそう世界に目を向けさせる一因になった。
海外進出 [編集]
キャラック船サンタ・マリア号の復元15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもったオスマン朝トルコが1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の制海権を獲得した。東西の中間に楔を打つオスマン朝は、地中海交易を支配し高い関税をかけた。旧来型の経済秩序が激変し、新たな交易ルートの開拓がヨーロッパに渇望されるようになる。
一方、15世紀半ばオスマン朝が隆盛を極めつつあったころ、ポルトガルとスペイン両国では国王を中核として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しようとしていた(レコンキスタ)。長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペインでは民族主義が沸騰し、強力な国王を中心とした中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
また、このころ頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤がイスラムを介して伝わったことから外洋航海が可能になった。ポルトガルとスペインは後退するイスラム勢力を追うように北アフリカ沿岸に進出した。
新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして航海技術の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行った。
初期の航海では遭難や難破、敵からの襲撃、壊血病や疫病感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、海外進出による利益が莫大であることが立証された。健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。こうした"早い者勝ち" の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。
さらにローマ教皇も海外進出を強力に後援した。15世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されていたカトリック教会は相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への布教活動を計画した。
アフリカ・アジア大陸進出 [編集]
エンリケ航海王子
ヴァスコ・ダ・ガマいち早くレコンキスタを達成したポルトガルは北アフリカへの進出を確固とし1415年、ジョアン1世のとき命を受けた3人の王子が北西アフリカのセウタを攻略した。エンリケ王子は西アフリカに留まって伝説の『金の山』を見つけようと沿岸の探検と開拓を続けた。ポルトガルは1460年ごろまでにカナリア諸島・マデイラ諸島を探検しシエラレオネ付近まで進出し、さらに象牙海岸・黄金海岸を経て1482年、ガーナの地に城塞を築いて金や奴隷の交易を行った。1485年、ディオゴ・カンがジョアン2世に命じられてナミビアのクロス岬に到達した。
1488年、バルトロメウ・ディアスは船団を率いて困難の末にアフリカ南端にたどり着いた。ディアスはさらにインドを目指したが強風に行く手を阻まれた挙句に乗組員の反乱も起こったため帰路に発見した岬を『嵐の岬』と名づけて帰還した。この成果にインド航路開拓の確証を得たジョアン2世は『嵐の岬』を喜望峰と改名させた。
1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマはマヌエル1世に命じられ、船団を率いてリスボンを旅立ってインドを目指した。目的はイスラム商人を排したインドとの直接交易。先人達の知識をもとに4ヶ月で一気に喜望峰に到達したガマは、アフリカ南端を回ってモザンビーク海峡に至りイスラム商人と出会うとインドへの航路に関する情報を収集した。
1498年5月20日、ついにヨーロッパ人として初めてインドのカリカットに到着したガマは、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰った。その後ガマは国王の命で遠征艦隊を率いてイスラム勢力と衝突をくり返し、インドとの直接交易を獲得するに至った。ポルトガルは順調にマレー半島・セイロン島にも進出、1557年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点とした。その間、1543年にジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えている。
このようなポルトガルの快挙は特筆されるべきものであり、その後のヨーロッパの驚異的な発展に寄与したのである。しかしイスラム商人は古くからインドや中国さらにモルッカ諸島などと盛んに交易していたし、アフリカ大陸においても赤道周辺地域まで交易圏を広げていた。西アフリカに成立していたマリ王国はイスラムに金・塩・奴隷を輸出していた。また中国の鄭和艦隊の一部がアフリカ大陸に到達したと言われ、南アフリカのジンバブエの遺跡からはインドやペルシャのほか中国製の綿製品・絨毯・陶器などが出土している。このように14世紀から15世紀までに旧世界における世界航路や交易路は、様々な国家・地域に存在した民族によって、開発されほぼ完成していたことも忘れてはならない。世界規模で言えば、ガマは世界航路のひとつにアフリカ周りの欧印航路を加えたに過ぎない。
アメリカ大陸進出 [編集]
コロンブス
アメリゴ・ヴェスプッチ同じころ、ジェノヴァ商人のクリストファー・コロンブスは西周りインド航路を開拓しようと1484年、ポルトガルに航海の援助をもちかけた。既にアフリカ航路を開拓しインドまで今一歩に迫っていたポルトガルはこれを拒否する。
ポルトガルに遅れをとっていたスペインは1486年、カスティーリャ女王・イサベルとその夫・フェルナンド5世(アラゴン王としてはフェルナンド2世)がコロンブスの計画を採用し1492年、旗艦サンタ・マリア号に率いられた船団がバルセロナ港から西に出港した。1492年10月12日、西インド諸島に属するバハマ諸島に到着したコロンブスは翌年スペインに帰還して西回りインド航路を発見したと宣言した。
しかしコロンブスの航海はガマがポルトガルにもたらしたような成果をスペインにもたらすことはなかった。当時のアメリカ大陸は未開の地であり金銀のほか交易に値するものはほとんどなかったうえ、コロンブスが発見したのはアメリカ大陸から遠く離れた群島にすぎなかったからである。頑固で自信家のコロンブスの能力に疑念を抱いたスペイン王は、植民地における反乱や原住民への虐待を理由にコロンブスの権限を剥奪し牢獄に繋いだことさえあった。1501年、アメリゴ・ヴェスプッチがバハマ諸島が北米大陸の東に位置する島々であることを明らかとするに至って、コロンブスは詐欺師呼ばわりされ、失意のどん底で死去することになる。
今日のアメリカ合衆国の隆盛から、コロンブスの功績はガマのそれをはるかに凌駕すると看做されている。だが、当時、莫大な実益が見込めるインド航路開拓の価値の方がより高く評価された。
進んだ文明国もなく交易品も限られていたアメリカ大陸において、約1世紀の間、スペイン人はインカやアステカを征服し原住民を牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くし金銀を強奪した。アメリカ航路開拓に遅れをとったポルトガルも、1500年、カブラルがブラジルに到達しその地をポルトガル領に加えスペイン同様に原住民から富を収奪した[11]。
世界周航 [編集]
マゼラン(マガリャンイス)スペインの命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出たマゼラン(マガリャンイス)はスペイン王・カルロス1世の援助を得て1519年8月、セビリャから5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発した。1520年10月、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、グァム島に立ち寄り、1521年にフィリピン諸島に到着した。マゼランはフィリピンのマクタン島で住民の争いに加担し、同年4月27日に酋長ラプ・ラプによって殺された。その後、部下エルカーノ率いるビクトリア号1隻が航海をつづけ、1522年にセビリャに帰港し世界周航を果たし、地球が球体であることを実証した。帰ってきたのは18名であった。
スペインはこの後もメキシコ(ノビスパン)から太平洋を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、フィリピンは1571年メキシコを出発したミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されスペイン領となった。なお、フィリピンの名は1542年、当時スペイン王子であったフェリペ(のちのフェリペ2世)にちなみ、フィリピナス諸島と呼んだことに由来する。
ポルトガル・スペイン間の条約締結 [編集]
ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約を締結した。両国はこれらの条約により各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。
ヨーロッパ北部諸国による探検 [編集]
1502年の世界地図カンティーノ図(Cantino planisphere)。トルデシリャス条約による分割線が図中左側に描かれているポルトガルやスペインに遅れて絶対王権を安定させようやく航海や探検の後押しをする用意が整ったイギリスやフランス、スペインからの独立を果たしたオランダといった後発諸国も盛んに海外進出し次第に先行していたポルトガルとスペインを凌駕していった。これらの諸国はトルデシリャス条約によって新領土獲得から排除されることを拒み、独自に航海の経験も積んでいたため、新しい技術や地図を使い北の大海に乗り出していった。
これら諸国の最初の探検は、イタリア人ジョン・カボット(ジョヴァンニ・カボート)を雇ったイギリスによる北米探検(1497年)であり、イギリス・フランス・オランダによる一連の北米探検のはじまりとなった。スペインは、より多くの天然資源の見つかる中央アメリカおよび南アメリカの探検に人的資源を集中させていたため、北アメリカの探検に注いだ努力は限られていた。1525年には、フランスによって派遣されたイタリア人ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが現在のアメリカ合衆国東海岸を探検しており、記録に残る最初に北米東海岸を探検したヨーロッパ人となった。フランス人ジャック・カルティエは1534年にカナダへの最初の航海を行った。
カボット、ヴェラッツァーノ、カルティエらの航海は、北アメリカを迂回して豊かな中国やインドに至る航路(北西航路)を探すことが目的だった。この航路は19世紀まで見つかることはなかったが、北西航路探索の過程で北アメリカ大陸の海岸部が明らかとなってゆき、北アメリカ自体に可能性を見出したヨーロッパ人たちは17世紀に東海岸に植民地を築き始めた。イギリスやオランダは、スカンジナビアやロシア、シベリアの北を迂回して中国に至る北東航路の探検も行い、ロシアと交易を行いクジラ漁の拠点となる北極海の島を多く発見したが、やはり氷の海に阻まれアジアへの航路を見つけることはできなかった。
イギリスやオランダやフランスはアフリカやインド洋にも航海して独自の交易地や植民地を確立し、この方面に独占的に勢力を築いていたポルトガルの地位を脅かした。ポルトガルの最も利益の大きい拠点であるゴアやマカオを新興諸国の拠点(香港やバタヴィアなど)が包囲し、オランダがインドネシアを勢力圏として香料諸島からポルトガル勢力を駆逐すると、次第にポルトガルやスペインがアジア貿易市場に占めていたシェアは小さくなっていった。また新興諸国が残る未知の地域(北アメリカ西海岸や太平洋の島々など、トルデシリャス条約でスペインに与えられた地域)を先に探検した。1606年にはウィレム・ヤンツ(Willem Jansz)が、1642年にはアベル・タスマン(Abel Tasman)などオランダの探検家がオーストラリアを探検している。
こうして17世紀中ごろまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達して大航海時代は終焉を迎える。世界中の富が集中するようになった英国をはじめヨーロッパ各国は、いち早く近代化を達成し世界に覇を唱えた。
原典 [編集]
詳細は大航海時代叢書・アンソロジー新世界の挑戦を参照。
岩波書店 『大航海時代叢書』 会田由、増田義郎、生田滋等の訳注で刊行。下記が岩波文庫で再刊。
『大航海時代叢書.第1期』 全11巻別巻1、1965-70年
ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』 岡田章雄訳
『コロンブス航海誌』 林屋永吉訳
『大航海時代叢書. 第2期』 全25巻、1979-92年
ラス・カサス 『インディアス史』全7巻 長南実訳、石原保徳編
シエサ・デ・レオン 『インカ帝国史』、『インカ帝国地誌』 増田義郎訳
大航海時代叢書<エクストラ・シリーズ>全5巻 1985-87年
インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ 『インカ皇統記』全4巻 牛島信明訳
『アンソロジー新世界の挑戦』全13巻 1992-95年 染田秀藤、青木康征等による訳注。
脚注 [編集]
^ チンパンジーのシロアリつりやくるみ割り、オマキザルの木の実割り、エジプトハゲワシの卵割りetc。
^ 絹、紙etc。
^ 後漢書に太秦国皇帝安敦(ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス?)から派遣された使節に関する記述もある。
^ パルチア、漢、グプタ朝etc。
^ ゲルマン人やノルマン人も先人達が開拓した交易路や航路を利用した。
^ 近年、キリスト教的歴史観に基づく"暗黒時代"という名称は、この時代をあらわす名称として相応しくないと論議されている。
^ 当時のゲルマン人やノルマン人が分割相続をしていたことから、領土や富は代を重ねて細分化され、遺産相続を望めない子弟が増加していた。
^ 十字軍は異教徒であるイスラム人やユダヤ人に対する、虐殺行為や圧政のために、占領地において民衆の支持を受けられなかった。
^ イスラム勢力の聖地周辺の征服以後も、キリスト教徒の聖地巡礼は許されていたので、十字軍の遠征以前にヨーロッパ人とイスラム人の交渉がなかったわけではない。
^ キリスト教やイスラム教の戒律では利息収入が厳しく禁止されていたため、正業につくことが制限されていたヨーロッパやイスラムに在住するユダヤ人が商業に従事することが多かった。
^ ヨーロッパから喜望峰に至る航海は風向きの関係から大西洋をブラジル沿岸近海まで大きく西に迂回するのが効率的である。このことからポルトガルは1490年代までにブラジルを発見していた可能性が高いとする説がある。アメリカ大陸の発見を公表しなかった理由は、スペインに先んじてインド航路開拓を達成したポルトガルがスペインをはじめとするライバル国に交易の実益を奪われないように、この迂回航路の存在を国家機密にしていたという。
関連項目 [編集]
植民地
ポルトガル海上帝国
ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化
スペイン帝国
スペインによるアメリカ大陸の植民地化
オランダ海上帝国
探検家
コンキスタドール
海外
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カテゴリ: 大航海時代 | ヨーロッパ史 | ポルトガルの歴史 | スペインの歴史 | アメリカ合衆国の歴史 (-1776) | 探検 | 海洋国家
最終更新 2010年4月12日 (月) 12:00
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コーエーから発売されているコンピューターゲームのシリーズについては「大航海時代シリーズ」をご覧ください。
同シリーズの第1作については「大航海時代 (ゲーム)」をご覧ください。
日本を訪れた南蛮船(16-17世紀、狩野内膳画「南蛮屏風」)大航海時代(だいこうかいじだい)とは、15世紀中ごろから17世紀中ごろまで続いたヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。
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1 文化・文明の伝播
2 古代の国際交流
3 ヨーロッパの停滞と復興
4 十字軍
5 国際交流の発展
6 海外進出
7 アフリカ・アジア大陸進出
8 アメリカ大陸進出
9 世界周航
10 ポルトガル・スペイン間の条約締結
11 ヨーロッパ北部諸国による探検
12 原典
13 脚注
14 関連項目
文化・文明の伝播 [編集]
愛馬・ブケパロスに騎乗したマケドニア王アレクサンドロス人類が出現して以来隣り合う文化文明は互いに交流し影響を及ぼしあってきた。文化交流は人類に限られたことではなく、道具の使用をも文化と認めるなら、チンパンジーや一部の鳥獣についても、個体間や隣り合う地域を通して文化交流が行われている[1]。人類は言葉や文字を使用することで、より円滑に文化文明を伝播することが可能であるが、極東と西ヨーロッパのように遠隔地に住む人々が直接交流するためには、試行錯誤を経た知識の蓄積や科学技術の進歩が必要であった。
古代の国際交流 [編集]
広大な領土を有する強力な国家が成立した場合、当然、遠隔地の交流は加速する。そのことは四大文明の発祥地をはじめインカ帝国やアステカ帝国の例を見るまでもなく明らかだ。
古代ギリシャ人は世界として、地中海周辺とエジプトさらにアケメネス朝ペルシャが支配するオリエントの一部を認識していた。アレキサンダー大王の東方遠征によって、ギリシャ人の世界観は一気にインド・中国までに広がった。アレキサンダーがペルシャの皇女を娶ったことに象徴されるように、アレキサンダーの帝国ではコスモポリタニズムが標榜され、遠隔地に住む人々同士の交流が盛んに行われ、その伝統はディアドコイ達が建国した国々やギリシャ文化の影響を強く受けた古代ローマにも受け継がれた。
パックス・ロマーナの下、整備された航路や道路を使って盛んに遠隔地交易が行われ、地中海地域や中東地域をはじめ遠く極東からも珍しい商品がローマにもたらされた[2]。多様な人種・民族が奴隷となり或いは傭兵となり、またある人々はローマの富を求めて流入し、国際間の交流は益々増加して行った[3]。
中東・インド・中国でも強力な世界帝国[4]が出現し、その影響下にある国々の間では盛んに交易が行われ、多数の交易路や航路が開拓整備された。アフリカ地域でも栄光の古代エジプトのほか、大陸奥部にも王国が成立し、塩や金が大陸を行き交った。このように各地域で発展した交易圏は、時代とともに互いに接触を深め、旧世界においては世界的交易ネットワークが徐々に構築されていった。
ヨーロッパの停滞と復興 [編集]
紀元5世紀になるとローマ帝国の衰退によって、未開人であったゲルマン人やノルマン人が相次いでヨーロッパに侵入し混乱を極めたうえ[5]、8世紀にはイベリア半島にイスラムが侵入した。さらにペストの流行や気候の寒冷化もあってヨーロッパの人口は激減し衰退の時代を迎えた。後世、この時代を暗黒時代と呼ぶようになる。[6]。
ゲルマン人やノルマン人が建国した国家は数世紀を経て淘汰洗練され、カトリックを精神的支柱とするフランク王国が、西ローマ帝国の支配地であったイタリア・フランス・ドイツに出現し、イスラムの北進を阻んだ。再び安定がもたらされた西ヨーロッパでは経済が活発化し富も蓄積されていった。フランク王国はゲルマンの伝統を色濃く残していたが、ローマの遺産も尊重し継承した。
十字軍 [編集]
11世紀後半セルジューク朝トルコによるパレスチナ征服を契機に、ビザンツ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスは聖地奪回のため、ローマ教皇・ウルバヌス2世に援軍を求めた。聖地回復を大義名分に十字軍の結成が呼びかけられ、ヨーロッパ各地から多くの王侯貴族や民衆がこの呼びかけに応じた。
多くの者は殉教精神から十字軍に参加したが、為政者は社会問題解決のためにこの聖戦を利用した。教皇は東方教会への影響力拡大を望み、王侯貴族は隆盛を極めるイスラムの領土や富の収奪を望んでいた[7]。
狂信者や野心家、無頼漢をも含む十字軍は、1096年、内部の勢力争いや権力闘争によって一枚岩でなかったイスラム勢力を駆逐しながら、パレスチナやその周辺を占領し複数のキリスト教国家を建設した。その後、富の分配をめぐる指導者同士の争い、ビザンツ帝国との利害対立、ローマ法王との思惑違いなどの問題が発生し、サラーフッディーンの活躍などによるイスラム勢力の反撃[8]にあって、成立したキリスト教国家の版図は縮小の一途をたどった。長引く戦争による十字軍内の士気低下や退廃、戦費調達に苦しむヨーロッパ各国民衆の苦悩、熱狂的な殉教精神の沈静化。十字軍勢力は後退を重ね聖地から駆逐されてしまう。
国際交流の発展 [編集]
マルコ・ポーロ十字軍の遠征は軍事的には失敗したが、戦争によって相互理解が深まり東西交流がより発展した。[9]ヨーロッパから鉱物資源や毛織物等が輸出され、イスラムからは香辛料や絹などの交易品が今まで以上にヨーロッパに輸入されるようになった。[10]。特にヨーロッパとオリエントの間に位置するビザンツ帝国やイタリア諸都市国家の経済成長が顕著になる。
ことにイタリアでは、ビザンツ帝国や、当時、世界最高水準にあったイスラムの文化や科学技術が紹介され、しかも十字軍の失敗によってローマ教皇の権威が失墜し宗教的戒律から開放された人々によって、ルネッサンス運動が花開き近代への扉が開けられた。
イスラム勢力がモンゴル帝国に圧迫されるようになると、ローマ教皇をはじめ西ヨーロッパ諸国家は国情視察も兼ね同盟や交易を求めてモンゴル帝国に使節を派遣した。1245年プラノ・カルピニはグユクハーンと謁見を果たした。宗教や異民族に比較的寛容なモンゴル人はヨーロッパ人を受け入れ、パックスモンゴリカの下でイタリア商人やイスラム商人が頻繁に東アジアに訪れるようになり、カラコルムや大都などの主要都市にまで長期滞在する者さえ現れた。中でもマルコ・ポーロは約20年にわたって行われた旅行体験を口述し東方見聞録として著した。イスラム諸国、インド、中国、ジパング、プレスター・ジョンについての記述が、ヨーロッパ人の好奇心を掻き立ていっそう世界に目を向けさせる一因になった。
海外進出 [編集]
キャラック船サンタ・マリア号の復元15世紀、モンゴル帝国が衰退すると、強力な官僚機構と軍事機構をもったオスマン朝トルコが1453年ビザンツ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利して地中海の制海権を獲得した。東西の中間に楔を打つオスマン朝は、地中海交易を支配し高い関税をかけた。旧来型の経済秩序が激変し、新たな交易ルートの開拓がヨーロッパに渇望されるようになる。
一方、15世紀半ばオスマン朝が隆盛を極めつつあったころ、ポルトガルとスペイン両国では国王を中核として、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐しようとしていた(レコンキスタ)。長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペインでは民族主義が沸騰し、強力な国王を中心とした中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
また、このころ頑丈なキャラック船やキャラベル船が建造されるようになり、羅針盤がイスラムを介して伝わったことから外洋航海が可能になった。ポルトガルとスペインは後退するイスラム勢力を追うように北アフリカ沿岸に進出した。
新たな交易ルートの確保、イスラム勢力の駆逐、強力な権力を持つ王の出現、そして航海技術の発展、海外進出の機会が醸成されたことで、ポルトガル・スペイン両国は競い合って海に乗り出して行った。
初期の航海では遭難や難破、敵からの襲撃、壊血病や疫病感染などによって、乗組員の生還率は20%にも満たないほど危険極まりなかった。しかし遠征が成功して新航路が開拓され新しい領土を獲得するごとに、海外進出による利益が莫大であることが立証された。健康と不屈の精神そして才覚と幸運に恵まれれば、貧者や下層民であっても一夜にして王侯貴族に匹敵するほどの富と名声が転がり込んだ。こうした"早い者勝ち" の機運が貴賎を問わず人々の競争心を煽り立て、ポルトガル・スペイン両国を中心にヨーロッパに航海ブームが吹き荒れるようになった。
さらにローマ教皇も海外進出を強力に後援した。15世紀初頭から宗教改革の嵐に晒されていたカトリック教会は相次いで成立したプロテスタント諸派に対抗するため、海外での新たな信者獲得を計画し、強固なカトリック教国であるポルトガル・スペイン両国の航海に使命感溢れる宣教師を連れ添わせ、両国が獲得した領土の住民への布教活動を計画した。
アフリカ・アジア大陸進出 [編集]
エンリケ航海王子
ヴァスコ・ダ・ガマいち早くレコンキスタを達成したポルトガルは北アフリカへの進出を確固とし1415年、ジョアン1世のとき命を受けた3人の王子が北西アフリカのセウタを攻略した。エンリケ王子は西アフリカに留まって伝説の『金の山』を見つけようと沿岸の探検と開拓を続けた。ポルトガルは1460年ごろまでにカナリア諸島・マデイラ諸島を探検しシエラレオネ付近まで進出し、さらに象牙海岸・黄金海岸を経て1482年、ガーナの地に城塞を築いて金や奴隷の交易を行った。1485年、ディオゴ・カンがジョアン2世に命じられてナミビアのクロス岬に到達した。
1488年、バルトロメウ・ディアスは船団を率いて困難の末にアフリカ南端にたどり着いた。ディアスはさらにインドを目指したが強風に行く手を阻まれた挙句に乗組員の反乱も起こったため帰路に発見した岬を『嵐の岬』と名づけて帰還した。この成果にインド航路開拓の確証を得たジョアン2世は『嵐の岬』を喜望峰と改名させた。
1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマはマヌエル1世に命じられ、船団を率いてリスボンを旅立ってインドを目指した。目的はイスラム商人を排したインドとの直接交易。先人達の知識をもとに4ヶ月で一気に喜望峰に到達したガマは、アフリカ南端を回ってモザンビーク海峡に至りイスラム商人と出会うとインドへの航路に関する情報を収集した。
1498年5月20日、ついにヨーロッパ人として初めてインドのカリカットに到着したガマは、翌年、香辛料をポルトガルに持ち帰った。その後ガマは国王の命で遠征艦隊を率いてイスラム勢力と衝突をくり返し、インドとの直接交易を獲得するに至った。ポルトガルは順調にマレー半島・セイロン島にも進出、1557年にはマカオに要塞を築いて極東の拠点とした。その間、1543年にジャンク船に乗ったポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えている。
このようなポルトガルの快挙は特筆されるべきものであり、その後のヨーロッパの驚異的な発展に寄与したのである。しかしイスラム商人は古くからインドや中国さらにモルッカ諸島などと盛んに交易していたし、アフリカ大陸においても赤道周辺地域まで交易圏を広げていた。西アフリカに成立していたマリ王国はイスラムに金・塩・奴隷を輸出していた。また中国の鄭和艦隊の一部がアフリカ大陸に到達したと言われ、南アフリカのジンバブエの遺跡からはインドやペルシャのほか中国製の綿製品・絨毯・陶器などが出土している。このように14世紀から15世紀までに旧世界における世界航路や交易路は、様々な国家・地域に存在した民族によって、開発されほぼ完成していたことも忘れてはならない。世界規模で言えば、ガマは世界航路のひとつにアフリカ周りの欧印航路を加えたに過ぎない。
アメリカ大陸進出 [編集]
コロンブス
アメリゴ・ヴェスプッチ同じころ、ジェノヴァ商人のクリストファー・コロンブスは西周りインド航路を開拓しようと1484年、ポルトガルに航海の援助をもちかけた。既にアフリカ航路を開拓しインドまで今一歩に迫っていたポルトガルはこれを拒否する。
ポルトガルに遅れをとっていたスペインは1486年、カスティーリャ女王・イサベルとその夫・フェルナンド5世(アラゴン王としてはフェルナンド2世)がコロンブスの計画を採用し1492年、旗艦サンタ・マリア号に率いられた船団がバルセロナ港から西に出港した。1492年10月12日、西インド諸島に属するバハマ諸島に到着したコロンブスは翌年スペインに帰還して西回りインド航路を発見したと宣言した。
しかしコロンブスの航海はガマがポルトガルにもたらしたような成果をスペインにもたらすことはなかった。当時のアメリカ大陸は未開の地であり金銀のほか交易に値するものはほとんどなかったうえ、コロンブスが発見したのはアメリカ大陸から遠く離れた群島にすぎなかったからである。頑固で自信家のコロンブスの能力に疑念を抱いたスペイン王は、植民地における反乱や原住民への虐待を理由にコロンブスの権限を剥奪し牢獄に繋いだことさえあった。1501年、アメリゴ・ヴェスプッチがバハマ諸島が北米大陸の東に位置する島々であることを明らかとするに至って、コロンブスは詐欺師呼ばわりされ、失意のどん底で死去することになる。
今日のアメリカ合衆国の隆盛から、コロンブスの功績はガマのそれをはるかに凌駕すると看做されている。だが、当時、莫大な実益が見込めるインド航路開拓の価値の方がより高く評価された。
進んだ文明国もなく交易品も限られていたアメリカ大陸において、約1世紀の間、スペイン人はインカやアステカを征服し原住民を牛馬のように酷使して略奪の限りを尽くし金銀を強奪した。アメリカ航路開拓に遅れをとったポルトガルも、1500年、カブラルがブラジルに到達しその地をポルトガル領に加えスペイン同様に原住民から富を収奪した[11]。
世界周航 [編集]
マゼラン(マガリャンイス)スペインの命を受けモルッカ諸島への西回り航路開拓に出たマゼラン(マガリャンイス)はスペイン王・カルロス1世の援助を得て1519年8月、セビリャから5隻の船に265名の乗組員を乗せて出発した。1520年10月、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、グァム島に立ち寄り、1521年にフィリピン諸島に到着した。マゼランはフィリピンのマクタン島で住民の争いに加担し、同年4月27日に酋長ラプ・ラプによって殺された。その後、部下エルカーノ率いるビクトリア号1隻が航海をつづけ、1522年にセビリャに帰港し世界周航を果たし、地球が球体であることを実証した。帰ってきたのは18名であった。
スペインはこの後もメキシコ(ノビスパン)から太平洋を横断しモルッカ諸島への航路を開こうと躍起になり、ポルトガルと摩擦を起こす。そのさなか、フィリピンは1571年メキシコを出発したミゲル・ロペス・デ・レガスピによって征服されスペイン領となった。なお、フィリピンの名は1542年、当時スペイン王子であったフェリペ(のちのフェリペ2世)にちなみ、フィリピナス諸島と呼んだことに由来する。
ポルトガル・スペイン間の条約締結 [編集]
ポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約を締結した。両国はこれらの条約により各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。
ヨーロッパ北部諸国による探検 [編集]
1502年の世界地図カンティーノ図(Cantino planisphere)。トルデシリャス条約による分割線が図中左側に描かれているポルトガルやスペインに遅れて絶対王権を安定させようやく航海や探検の後押しをする用意が整ったイギリスやフランス、スペインからの独立を果たしたオランダといった後発諸国も盛んに海外進出し次第に先行していたポルトガルとスペインを凌駕していった。これらの諸国はトルデシリャス条約によって新領土獲得から排除されることを拒み、独自に航海の経験も積んでいたため、新しい技術や地図を使い北の大海に乗り出していった。
これら諸国の最初の探検は、イタリア人ジョン・カボット(ジョヴァンニ・カボート)を雇ったイギリスによる北米探検(1497年)であり、イギリス・フランス・オランダによる一連の北米探検のはじまりとなった。スペインは、より多くの天然資源の見つかる中央アメリカおよび南アメリカの探検に人的資源を集中させていたため、北アメリカの探検に注いだ努力は限られていた。1525年には、フランスによって派遣されたイタリア人ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノが現在のアメリカ合衆国東海岸を探検しており、記録に残る最初に北米東海岸を探検したヨーロッパ人となった。フランス人ジャック・カルティエは1534年にカナダへの最初の航海を行った。
カボット、ヴェラッツァーノ、カルティエらの航海は、北アメリカを迂回して豊かな中国やインドに至る航路(北西航路)を探すことが目的だった。この航路は19世紀まで見つかることはなかったが、北西航路探索の過程で北アメリカ大陸の海岸部が明らかとなってゆき、北アメリカ自体に可能性を見出したヨーロッパ人たちは17世紀に東海岸に植民地を築き始めた。イギリスやオランダは、スカンジナビアやロシア、シベリアの北を迂回して中国に至る北東航路の探検も行い、ロシアと交易を行いクジラ漁の拠点となる北極海の島を多く発見したが、やはり氷の海に阻まれアジアへの航路を見つけることはできなかった。
イギリスやオランダやフランスはアフリカやインド洋にも航海して独自の交易地や植民地を確立し、この方面に独占的に勢力を築いていたポルトガルの地位を脅かした。ポルトガルの最も利益の大きい拠点であるゴアやマカオを新興諸国の拠点(香港やバタヴィアなど)が包囲し、オランダがインドネシアを勢力圏として香料諸島からポルトガル勢力を駆逐すると、次第にポルトガルやスペインがアジア貿易市場に占めていたシェアは小さくなっていった。また新興諸国が残る未知の地域(北アメリカ西海岸や太平洋の島々など、トルデシリャス条約でスペインに与えられた地域)を先に探検した。1606年にはウィレム・ヤンツ(Willem Jansz)が、1642年にはアベル・タスマン(Abel Tasman)などオランダの探検家がオーストラリアを探検している。
こうして17世紀中ごろまでに一部の不毛地帯を除いた全ての地域にヨーロッパ人が到達して大航海時代は終焉を迎える。世界中の富が集中するようになった英国をはじめヨーロッパ各国は、いち早く近代化を達成し世界に覇を唱えた。
原典 [編集]
詳細は大航海時代叢書・アンソロジー新世界の挑戦を参照。
岩波書店 『大航海時代叢書』 会田由、増田義郎、生田滋等の訳注で刊行。下記が岩波文庫で再刊。
『大航海時代叢書.第1期』 全11巻別巻1、1965-70年
ルイス・フロイス『ヨーロッパ文化と日本文化』 岡田章雄訳
『コロンブス航海誌』 林屋永吉訳
『大航海時代叢書. 第2期』 全25巻、1979-92年
ラス・カサス 『インディアス史』全7巻 長南実訳、石原保徳編
シエサ・デ・レオン 『インカ帝国史』、『インカ帝国地誌』 増田義郎訳
大航海時代叢書<エクストラ・シリーズ>全5巻 1985-87年
インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガ 『インカ皇統記』全4巻 牛島信明訳
『アンソロジー新世界の挑戦』全13巻 1992-95年 染田秀藤、青木康征等による訳注。
脚注 [編集]
^ チンパンジーのシロアリつりやくるみ割り、オマキザルの木の実割り、エジプトハゲワシの卵割りetc。
^ 絹、紙etc。
^ 後漢書に太秦国皇帝安敦(ローマ帝国皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス?)から派遣された使節に関する記述もある。
^ パルチア、漢、グプタ朝etc。
^ ゲルマン人やノルマン人も先人達が開拓した交易路や航路を利用した。
^ 近年、キリスト教的歴史観に基づく"暗黒時代"という名称は、この時代をあらわす名称として相応しくないと論議されている。
^ 当時のゲルマン人やノルマン人が分割相続をしていたことから、領土や富は代を重ねて細分化され、遺産相続を望めない子弟が増加していた。
^ 十字軍は異教徒であるイスラム人やユダヤ人に対する、虐殺行為や圧政のために、占領地において民衆の支持を受けられなかった。
^ イスラム勢力の聖地周辺の征服以後も、キリスト教徒の聖地巡礼は許されていたので、十字軍の遠征以前にヨーロッパ人とイスラム人の交渉がなかったわけではない。
^ キリスト教やイスラム教の戒律では利息収入が厳しく禁止されていたため、正業につくことが制限されていたヨーロッパやイスラムに在住するユダヤ人が商業に従事することが多かった。
^ ヨーロッパから喜望峰に至る航海は風向きの関係から大西洋をブラジル沿岸近海まで大きく西に迂回するのが効率的である。このことからポルトガルは1490年代までにブラジルを発見していた可能性が高いとする説がある。アメリカ大陸の発見を公表しなかった理由は、スペインに先んじてインド航路開拓を達成したポルトガルがスペインをはじめとするライバル国に交易の実益を奪われないように、この迂回航路の存在を国家機密にしていたという。
関連項目 [編集]
植民地
ポルトガル海上帝国
ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化
スペイン帝国
スペインによるアメリカ大陸の植民地化
オランダ海上帝国
探検家
コンキスタドール
海外
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最終更新 2010年4月12日 (月) 12:00