岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

2 新宿フォルテッシモ

2019年07月19日 11時22分00秒 | 新宿フォルテッシモ

 

 

1 新宿フォルテッシモ - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

新宿クレッシェンド第4弾新宿フォルテッシモ普通にサラリーマンをやっていたら、喧嘩が強いだとかそんな事とはまったく無縁だろう。もちろん俺のいる歌舞伎町だってそうだ...

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 店が忙しかった日は従業員全員を集め、よく食事へ連れて行った。もちろん自分のポケットマネーである。
「山羽、今日ステーキ食うか?」
「え、本当っすか?」
「ああ、他の奴らにも聞いてきな。行くかどうか」
「了解しました」
 こんな時ばかり山羽は元気がいい。現金な奴だ。後ろ姿を見ながらつい微笑んでしまう。そばに従業員の長野がいたので聞いてみる。
「おい、今日仕事終わったら食事しに行くか?」
「奢りすか?」
 間髪入れず聞いてくる長野。卑しい性格だと思ったが、「当たり前だろ」と、笑顔で答えておく。行き先は行きつけステーキハウス。「この肉がうまいよ」と、従業員に勧めていると長野が言った。
「こっちの肉のほうが高いじゃないすか?」
 遠慮という言葉を知らない長野はメニューで五千円のステーキの写真を指差している。こんな朝っぱらから五千円の肉など全員に奢っていられない。
「うるせーんだよ、この馬鹿」
 失礼な発言が何度も続くので、俺は長野の頭を引っぱたいた。
 この馬鹿はいつもそうだった。仕事帰りに食事へ誘うと、必ず出る言葉が「奢りすか?」というもので、どこへいっても高いものがうまいと思い込んでいる伏しがある。
 その癖自分の金で飯を食う時は、出来る限り金を遣おうとしない男でもあった。
 給料とは別途に食事代千円が毎日出ていたが、大抵の従業員はその千円で食事へ行ったり出前をとったりする。しかし長野だけは違った。コンビニに行き、おにぎり一つしか買ってこないのだ。ビニール袋にも入れず、素手で持ってくるので、「盗んできたんじゃねえだろうな?」と注意した事もあった。長野は「あまり腹減ってないし、おにぎり一個だけなんで、袋勿体ないしそのままいいって言ってるんです」と照れ臭そうに言った。
「そんなんで足りるのかよ? せっかく飯代出してんだから、もっとうまいもん食えばいいじゃん」
 そう言うと長野は「自分はその小銭すら貯めたいんですよ」と恥ずかしげもなく言った。
 以前七千円ほど入った財布を渡し、長野に買い物を任せた事がある。仕事が忙し過ぎて、ロクに食事休憩も回せなかったのだ。この時の従業員の数は六名。食事代とは別に自腹で俺がみんなの分を出してやろうと思ったのだ。弁当を一人ずつ、プラスでジュースを買ったとしても充分足りる金額なので、デザートもつけていいと伝えた。しばらくしてコンビニへついた長野から電話があった。
「あの~、お金が足らないんですけど……」
「何でだよ? 七千円は入っていただろうが」
「ええ、でも人数分足りなくて……」
「とりあえず買えるだけ買って帰って来い」
 長野が戻って買ったものを確認する。ビックリしたのが長野一人だけで四千円以上掛かっていたのだ。一番高い弁当に加え、デザートを自分の分だけ二つ。そして三千円のユンケル栄養剤まで買っていたのである。この時ばかりはかなり強めに頭を引っぱたいた。
 働いて一年間で二百万の金を貯金したというのが、唯一長野の自慢だった。


 本来なら俺の休みである日曜日。
 気分の乗らないまま、歌舞伎町へ通勤する。
 店内の客入りは八割程度。この流れを持続できれば、今日もいい売り上げになるだろう。
 入り口に見覚えのある顔が見えた。先日聞き込みで来た刑事だとすぐに分かる。相変わらずしつこい連中だ。これ以上うちに来ても、何一つ情報など得られやしないのに……。
「ちょっとすみません……」
 迷惑そうな表情をしながら俺は入り口付近に立つ刑事の元へ近づく。若い刑事の顔は、この間の調子良さそうな感じとは打って変わり、真面目な表情をしていた。
「どけっ!」
 店に来た警察は三名。その中でどう見ても一番若いはずの男が、いきなり俺を突き飛ばした。
「おい、何しやがんだ、オラッ!」
 さすがに俺もカチンとくる。若い刑事に向かうと、他の二名の刑事がガードでもするように、目の前へ立ち塞がった。
 若い刑事は濃紺のスーツの胸ポケットから、警察手帳を出し、店内にいる客全員に見せるように、ゆっくりと移動しながら言った。
「警察だ! おまえら動くなよ」
 シーンと静まり返る店内。先日聞き込みと称してうちへ来たこいつらの陰謀。あの時の笑顔を見ると、非常に不愉快でイライラしてくる。うまい具合に芝居を打ち、俺たちを出し抜いたぐらいに思っているのだろう。汚ねえ真似しやがって……。
 どう見ても若い刑事は、まだ三十台半ば。他の二人は四十台後半と五十台。大声を張り上げながら、店内を徘徊する若い刑事。テーブルの上にあるグラスを傍若無人に床へ払い、叩き落とす。
 音を立てながら割れるグラスを見る度、怒りの炎が大きくなってきた。
 客も従業員もみんな、下を向いて黙ったままである。
「おまえがこの店の責任者だな?」
 若僧の刑事が一丁前に凄んでくる。懸命に粋がっているつもりだろうが、苦労知らずのエリート警官にしか見えない。非常に滑稽な粋がり方である。こいつがどんな修羅場を潜ってきたというのであろうか。ただ単に国家権力をバックに粋がっているだけに過ぎないのだ。非常に薄っぺらい野郎である。
 思わずこんな状況下の中、ニヤけてしまう。
「おい、何がおかしいんだ、コラ!」
 若い刑事は俺たちの休憩室まで歩き、クローズに掛かっていたる服を地面に投げつけだした。
「おい、刑事さんよ」
「何だ、貴様!」
「服、そのまんまじゃ汚れちまうよ。拾っていいかい?」
 怒りを押し殺し、ドスの利いた声で静かに言った。
「あ、ああ……」
 俺とその刑事以外、口を開く人間は誰一人いなかった。俺が服を拾うと、刑事は俺の前に来て怒鳴り始めた。
「おまえが責任者だろ?」
「いや、違うよ」
「何だと、おいっ! どう見たって、おまえが責任者だろーが!」
「違うって、俺はここで三ヶ月ぐらい働いて、この中じゃ一番長いってだけっすよ」
 実際は俺が責任者である。しかしこういうケースになるのも想定してあるので、名義人というものを用意してあった。
「ふざけんじゃねーぞ!」
「ふざけてないっすよ。それにここの社長はちゃんといますから」
「この間はいなかったじゃねーか!」
「ああ、この間はたまたま買い物に行ってただけです」
「じゃあ、今日は?」
「今日は休み。何なら今から社長に電話しましょうか?」
「貴様……」
 俺自身、警察とこのような応対になるのはこれが初めてであった。しかしその辺の法的な事だけは欠かさずに調べ、頭の中で常にシュミレーションしていた。現時点、無許可だったとして警察が来ても、署へ持っていかれるのは責任者のみ。多少、横柄な口を利いても一応捜査には協力しているので、公務執行妨害もつかない。あとはシュミレーション通り、現実でも対応できるかどうかだけなのだ。
 名義人とは裏稼業必須の人間で、簡単に言えばパクられ要員である。
 十万から二十万の金を毎月もらい、店が捕まる状況になると初めて本当の役目が始まる。自分が社長ですと警察へ出頭し、全責任を負う。名義人以外の俺たちは、全員アルバイトとして雇っている。給料は日払いで一万ずつ渡している。そんな感じですべて事前に打ち合わせをしてあるのだ。
 俺はわざと深刻そうな顔をして、名義人へ電話を掛けた。
「はい……」
「あ、社長ですか? 神威です。実はですね……」
「ええ……」
「今、店に警察の方が来てまして……」
「……!」
 名義人にしてみれば、とうとうこの時が来たという落胆の気持ちだろう。可哀相とは思うが、仕方のない事である。今までただ名義人を名乗るだけで毎月金をもらってきたのだから……。
 俺は若い刑事に向かって聞いた。
「刑事さん、どこ署なんでしたっけ?」
「もういい、受話器を貸せ!」
「あ、社長! 警察がちょっと変わりたいって言うんで代わりますよ」
 若僧刑事が名義人と電話をしている間、他の刑事は従業員と客を分け、壁に沿って一列ずつに整列させていた。もちろん警察もこんな見え見えの嘘は分かっている。俺が口を割らない以上、他の人間を脅してでも何とかしようとするのだ。
「刑事さ~ん、お客さんなんかはうちが無許可だなんて知らないから、もう解放してあげてよ。何の罪もないでしょ?」
「くっ…、おまえは少し黙ってろ!」
 とりあえず客は、氏名、連絡先だけを聞かれ、次々と解放されていく。客がいなくなると、刑事の質問は従業員へと向かう。
「あ、刑事さん! そいつらに何を聞いても分からないですよ。まだそこにいるの、ここに入って全員一週間以内だし、給料も一律日払いで、一万ずつしかもらってませんからね。質問したって意味ないですよ」
 わざと従業員たちに聞こえるよう大声で言った。警察にビビった従業員の一人でも余計な供述をしたら、あとでやっかいである。言っている事がこいつと違うじゃないかと突っ込んでくるのが警察の常套手段だった。
 他の警官二名は顔を真っ赤にして俺を睨みつけていた。捜査の邪魔を完全にされたようなものだから、当たり前か……。
 警察署へ出頭するのも名義人。全責任もすべて名義人が負う。面倒な刑事責任の類はすべて名義人なのだ。
 俺たちはというと氏名や連絡先を聞かれ、それだけで無事その場で解放された。
 実際に経験すると分かる。この国では灰色でも尻尾を捕まれなければ、白と同じなのだ。

 警察の手入れがあった日から約一ヶ月間。とりあえず警戒して、店を休む事にした。名義人は警察でこってり絞られたらしい。あの時の若い刑事の悔しそうな顔を思い出すと、吹き出しそうになる。
 どっちにしても、あの場に俺がいて良かった。もし、木村と休みを変わっていなかったら……。
 そういえば、木村は警察が入って、店をしばらく休む事を知らないはずだ。連絡ぐらいしておこうと、彼の携帯に電話をしてみた。
 数回鳴って留守電に切り替わる木村の携帯。忙しいのだろう。あとでまた連絡すればいいか。
 久しぶりの暇な時間をゆっくり満喫する。
 今までずっと時間に追われていたような気がした。ゆっくり寝転がりながら本を読み、夜になれば、酒を飲みに行く。そんな生活をしてみるのも悪くない。
 歌舞伎町という街は、常に警察とヤクザがいる。
 日本一の繁華街と言われるだけあって、非常にゴチャゴチャした街だ。ヤクザの仕切るシマ。すなわち縄張りも、かなりゴチャゴチャしている。
 例えば一軒の風俗やゲーム屋などが入った雑居ビルがあったとする。
 そのビルは、どこどこ組の縄張りという訳でなく、何階のこのお店は、どこどこ組。反対のヘルスは、どこどこ組というように細部にまで渡り、入り乱れていた。
 昨日の警察の一件。思い出すとイライラは増す。
 まだ出頭した名義人が、どうなるかも分からないのに、店を開けても警察の標的になるだけである。
 いつも入ってくる収入が入らなくなるのは苦しい。ただ、その収入を生み出す従業員の事を何も考えなくなったら終わりだ。俺はオーナーと数時間に渡って今後を話し合う。
 警察の目が光っているので、店は一ヶ月間休む。それと休みになる以上、ある程度の給料面を考慮し、保証金を出させないといけない。
 状況が状況なので、みんなには一人当たりの一日保証額六千円とまで取り決め、話し合いは終わった。
 先ほど通じなかった新人の木村へ再度、電話を掛けてみる。
「お客さまの番号からは、現在通話ができなくなっています」
 無情に流れる女性の機械音声。携帯を持つ手がワナワナ震えた。あの時点で新人の木村は、店を飛ぶつもりだったのだ。しかも俺の携帯電話番号を着信拒否にしている。
 あの馬鹿は元々運がいい。何かの危険でも察知して警察が来た日、急に休みを変えたのだろうか?
 いや、そこまでいくとオカルトだ……。
 歌舞伎町で働く人間は、このように無断で急に辞める人間が非常に多い。通常なら考えられない事であるが、裏社会では珍しくない事なのだ。
 あのクソガキ。街でバッタリ会ったら覚えておけ……。
 新人の木村は、俺の顔に泥を塗ったも同然である。
 俺は歌舞伎町の各知り合いに、連絡を入れた。
「久しぶり、神威だ…。うちの新人の木村というクソガキが飛んだ。履歴書を回すから、見つけたら教えてほしい……」
 こういうクソガキは、二度とこの街を歩かせない。それが俺を裏切った者へのルールである。

 警察の手入れ騒動から、急に降って湧いた長期の休み。
 いつもなら時間がほしいと願っていたものの、いざこうして時間ができると持て余してしまう自分がいた。
 たまにしか寄れなかった行きつけのジャズバーへ、顔を出してみる。
 ノンヴォーカルのジャズが静かに流れる店内。薄暗い中、鈍いオレンジ色の証明がムードを一層醸し出している。
「おや、こんな早い時間に珍しいですね」
 ずんぐりむっくりした短髪のマスターは、グラスを拭きながら声を掛けてくる。
「店、一ヶ月ほど休みになったんですよ」
「へえ、そうなんですか。何かあったんです?」
「俺のとこ、無許可じゃないですか。警察が来ちゃったので」
「なるほど……」
 今日の俺は特別機嫌が良かった。何故ならば、プロレス時代お世話になった先輩の掛川さんが団体のチャンピオンだったが、昨日他団体へ乗り込み、東京ドームのメインを張り、敵陣で見事防衛を納めたからである。
 スポーツ新聞各紙はすべて一面で、掛川さんの記事を取り上げていた。
 嬉しかった俺はすべての新聞を買い、ジャズバーへ来たのだった。
「神威さん、グレンリベットでいいんですか?」
「ええ、もちろん」
 好きな酒を飲みながら、掛川さんの記事を眺める。今では全然違う道になってしまったが、世話になった先輩が活躍し紙面を飾るというのは、見ていて嬉しいものだ。
「以前、神威さんがいた団体の人ですか?」
「ええ、当時はスパーリングで全然話になりませんでしたね」
「そんなすごいんですか?」
 目を丸くするマスター。
「それだけすごいから、こうして各新聞が一面にでかでか載せるんじゃないですか」
「そりゃそうですね」
「掛川さんがやったのはある意味、プロレス界において偉業ですからね」
「まあ、私は見ないのでよく分かりませんが……」
 掛川さんの偉業も一部のプロレス好きにしか分からない出来事になっている世の中。力道山時代だったらどんなにすごいのだろう。
「分かる人だけでいいんですよ。ジャズだってそうじゃないですか」
「まあ、そうですね」
 会話をとめ、グレンリベットを口に入れる。ピート香が鼻をつき、スッとなる。飲み慣れた喉越しいい液体が胃の中へ染み渡り、軽く体が熱くなる。ウイスキーの味を堪能してから、チェイサーをゆっくり流し込む。喉にへばりついたウイスキーが、水によって滑らかに流れ落ちていくこの感じが溜まらなく好きだった。
「君は何でさっきから『掛川さん』って、さん付けで言っているのかね?」
 カウンター席横に座る中年男性客が、いきなり俺に話し掛けてきた。
「はい、何ですか?」
「普通なら掛川って呼び捨てにするのに、何でわざわざさん付けで言うんだい?」
「ああ、昔お世話になった先輩だからですよ。確かに今は何も関係ないですよ。ただ、世話になったというのと尊敬している部分あるので、俺が勝手にさん付けで呼んでいるだけです。もし本人の前だけでさん付けならあれですけど、俺はどこでも変わらずさん付けで言います」
「ふ~ん、まあ、それはそうだな」
「ええ、自分の中の良識の問題なんですけどね」
「何か昔、やってたのかい?」
「最近だと、一年前ぐらいに総合の試合に出たぐらいですかね」
「総合? ああ、馬乗りになってやるやつかい」
「まあ、一概にはそれだけじゃないですけどね……」
 口うるさそうなオヤジだ…。内心、こういう輩を相手にするのは嫌だった。
「まあ、私は柔道の道場をやっているんだがね」
「ええ」
「うちの門下生が、よくああいった試合の事を笑いながら言ってるよ」
「何てです?」
「あの手の試合は楽でいいなと」
 一瞬、血液が頭に上昇し掛けた。
「あの~…、楽ってどういう事でしょうか?」
「よくグランドで膠着状態になるだろ?」
「ええ、密着してないと危険な場合ありますからね」
 以前出場した総合の試合。確かに自分自身不完全燃焼であったが、出場前にキチンと誓約書なるものを書くようなのだ。この大会で命を落とそうと、腕が折れようと、一切の責任を主催者側に追及しないという内容の誓約書。ある意味命のやり取りをするとは、こういうものが必要なのである。
「危険かもしれないけど、膠着状態になって抱き合ったままでも、レフリーはそのままだろ?」
「抱き合ってる…? あの…、一体、何を言いたいんですか?」
 かなり挑発してくる野郎だ。しかも初対面でこっちが礼儀を踏まえ、会話をしているのに何一つ謙虚なところがない。
 上下関係というものを俺は常に重んじてはいる。しかしその上下関係は、あくまでも双方が本来気を使わねばならないものだと思う。どう見ても相手が初対面でも年上だという場合、俺が相手に対し敬語を使うのは当たり前の事だ。でも、それは俺からの好意なのである。年下が年上に敬いの心を見せたら、年上は自らの威厳を示すだけでなく行動で示すものではないのだろうか。
「うちは柔道だろ。近年の柔道はね、投げ技で華やかに決めようという傾向が強い。なのであんな寝技で膠着状態になったら、すぐに審判が来て双方立たされるんだ。あんないつまでも寝っ転がっていられないよ」
 俺が好きなのはプロレス…。今は関係なくなったけれど、守りたいのもプロレス…。でも格闘技という同じジャンルで見ると、すべてひっくるめて俺は好きなのだ。柔道も経験はないが、俺はすごいものだと思っている。何故なら俺はやった事もないし、競技人口も多い。やった者じゃないと分からない何かがあるはずなのだから……。
 ただ、野球とサッカーは同じ球技とはいえ、まったく別物のスポーツである。格闘技もそれと同じなのだ。野球とサッカーを比較しようとしても難しい。
 プロレスとボクシング、または空手…。よくどちらが強いのかなどと言う人間は多い。違うルールの人間が遣り合うと、どうしたって平等な試合にはならない。
 料理でいえば、日本料理と中華料理。どっちがうまいのと言っても、それは人の好みによって分かれるし、一概にどちらかがなどとは言えない。勝負をするといっても、日本食に近いルールなら、日本食が勝つだろうし、中華に近いルールなら中華。それにそれでどちらかが勝ったからといって、中華料理の勝ち、日本料理の勝ちという風には絶対にならないだろう。たまたまその勝負をした人間同士の優劣が、その場だけ限定で決まるだけである。
 簡単にいえば、違うジャンルのもの同士を競わせようという事自体、非常にナンセンスな事なのである。少なくても、俺はそう思う。
「お言葉ですが…、一ついいでしょうか?」
「何だね?」
「それを言っている門下生というのは、そちらの道場へ通っている生徒ですよね?」
「そうだが。それが何だね?」
「はっきり言ってやるよ! いいか? 月に月謝を払って、習い事レベルのアマチュアが、プロ相手に偉そうな屁理屈抜かしてんじゃねーよ、ボケッ!」
「……」
 自分が一生懸命やってきた道。周囲から見れば、俺など大成もしてないから、中途半端に見えるかもしれない。しかし、あの眩い光り輝く世界に紛れもなく俺は存在したのだ。
「楽でいい? ふざけんなっ! 連れてこいよ、その馬鹿なあんたの弟子を…。何故、こう着状態になって、必死にお互い密着するか分かるか? 少しでも気を抜くと、命を落としかねないようなダース単位のパンチが顔面目掛けて飛んでくるんだ! だからみんな、必死に命懸けで戦ってるんだよ!」
「……」
 道場主のオヤジは何も言えず、黙っていた。一度火のついた俺は、もうとまらなかった。
「連れてこいよ、それを言った奴ら…。よほど腕に自信があるんだろ? 俺が今、この場で相手になってやるよ! ただし、柔道ルールなんぞでやらねーぞ? 一方的に何人いても、ぶちのめしてやるよ!」
 格闘技に対し、どこか冷めていた俺…。今、体の中を何かがマグマのように沸騰している。
 オヤジは終始、黙ったままだった。
 俺はマスターの店で怒鳴ってしまった事を素直に詫びて、店をあとにした。

 ついこの間までは総合格闘技を敵視していたが、今では格闘技界全体の味方の目線でいる。人間というのは面白い生き物だと、我ながら思う。
 近所にたー坊という後輩がいた。柔道の世界ではかなり強く有名らしい。俺は連絡をとってみた。
 あの道場主のオヤジをギャフンと言わせないと、気が済まない。
 例のオヤジの事を聞いてみる事にした。まずは、ジャズバーでの経緯を話してみる。
「龍さん、話、聞いてて思ったんですけどそれって多分…、浅田道場のだと思いますよ。評判はあまりよくないです」
「その浅田道場ってのは何なんだ? そんなに強い連中ばっかいんのか?」
「そこそこのレベルですよ」
 その程度であんな偉そうにほざきやがったのか……。
 思い出すと、余計イライラしてくる。
「たー坊、お願いがある。今度、柔道の大会近い内に何かないか?」
「ありますよ、一週間後に市の武道館借りて。あんまり大きくない大会ですけど」
「それに浅田道場の奴らって出るのか?」
「出ますよ。自分は出場しないですけど」
「たー坊、俺をその大会に出させてくれないか?」
「む、無理ですよ。だって龍さん、どこの道場にも所属してないじゃないですか」
「無理を承知で言ってんのは分かってる。だからこうして頼んでるんだろ」
 嫌がるたー坊を説得するのは大変だった。
 何度もお願いして、とりあえずたー坊のいる道場所属という形にして話してみると言ってくれた。持つべきものは、先輩思いのいい後輩である。
 次の日にたー坊から連絡があり、大会への出場が決定したと報告がきた。
 あのムカつく浅田道場のオヤジの教え子をこれで苛められると思うとワクワクしてくる。
「龍さん、くれぐれも打撃は禁止ですよ」
「そのくらい分かってるよ。柔道なんだから」
「背負いにいくふりして、相手のみぞおちに肘を入れるとかもですよ」
「えー、それって駄目なの? 見えないようにすればいいんじゃない?」
「絶対に駄目です。約束して下さい。じゃないと、龍さんを紹介した自分にまで……」
「冗談だよ。分かってるよ。そんなたー坊の顔をつぶすような事はしないよ」
「あとですね、立った状態での関節技は駄目です。それと寝技に入っても足関節は駄目ですよ。閉め技はありますけど、あくまでも道着を使ってです。直にそのままスリーパーとかは駄目ですよ。あとはですね……」
「もういいよ、あとは今度にしよう。大丈夫だよ、変な事はしないから」
 聞いていて頭が痛くなってくる。
 制約が多過ぎだ。立ち関節と足も駄目で、スリーパーホールドも駄目……。
 柔道の投げ技すらよく分からない俺は、一体、どうすりゃいいんだ?
 もし最悪負けそうになったら『打突』で軽く審判に見えないよう突っついてやるか……。
 それなら俺の気持ちも、もっとスッキリするだろう。
 想像するだけでおかしくなってくる。
「龍さん、何、嫌な笑い方してんですか?」
 自分でも気付かない内に、笑い声を発していたみたいだ。
「いや、何でもない」
「自分、色々な道場を龍さんに紹介します。なので、柔道のルールを少しは覚えてもらい、柔道を体で知ってからじゃないと」
「了解。ちょうど店も一ヶ月休みで、暇を持て余していたんだよ。よろしく頼むぜ」
 電話を切ると、全身に前のような気合いが満ち溢れていた。
 総合の試合から約一年の月日が流れている。俺はその間何一つ、トレーニングをせず、体も随分衰えた。
「また、やってみるか」
 静かに呟いてみる。
 耳を澄ます……。
 今は細胞の嬉しそうな悲鳴が聞こえてこない……。
 俺は一年ぶりに、トレーニングウェアーに腕を通した。
「師匠…。俺、間違ってませんよね?」
 目を閉じて、天国に行った師匠へ語り掛ける。人の良さそうな笑顔の師匠の顔がすぐに浮かび上がった。目を細め、優しそうに俺を見ている。
「神威龍一…。またちょっと、頑張らせてもらいます。見てて下さい……」
 自然と俺は両手を合わせ、拝む格好になって頭を下げていた。

 一週間が経った。
 当時の体のコンディションまでには程遠い…。しかし、今は体の細胞の喜ぶ悲鳴が聞こえてくる。嬉しいと俺の細胞がギャーギャー騒いでいるのだ。
 鍛え出すと、毎日鏡の前に立つ。自分の体を丹念に眺める。
 筋肉が、かなり削げ落ちた体……。
 前なら両肩の部分に、もっと筋肉があったのに…。まだまだ鍛錬が足りない。もっと苛めろと、細胞たちが体の中で騒いでいた。
 人間は何かを追求すると行き着く先は、孤独である。
 応援してくれる人はたくさんいる。しかし根っ子の部分で孤独なのだ。
 目標を定め、そこへ辿り着くまでの過程。プロセスの状態なら、いくらでも応援はできる。いざ到達点へ辿り着くと、そこからは自分個人のみの戦いなのだ。
 相手を壊せる技術を体に身につけ、実際にできる状況下になると、俺は人間を壊せない。どこかで臆病なのかもしれない。真に頭にくる嫌いな相手なら、躊躇いもなく壊せる。
 しかし、人体を破壊するという行為。破壊した瞬間に鳴る嫌な靭帯や骨の音…。何度、聞いても慣れる音ではない。
 強さを目指す者の行き着く先とは、何なのだろう……。
 戦いと殺し合いの狭間で、格闘技は動いている。
 競い合いが格闘技。アクシデントで壊れる事は仕方がない。それはみんな、覚悟はしているだろう。
 それを元々壊すつもりで試合をしたら…。それはスポーツでも競い合いでも格闘技でも何でもない。ただの壊し合いから、殺し合いへと発展していくだけだろう。
 お互いのテンションが違えば、恐ろしい事態へと発展するかもしれない。
 今俺は、昔のような全身凶器を目指している。
 自分から相手の土俵へ入り、喧嘩を売るのだ。いくらハンデがあるとはいえ、絶対に負けてはいけない試合へ望むのだ。
 何をしても勝つ……。
 詳しく柔道は知らない。しかし審判に見つからなければ、反則は反則でない。負けるぐらいなら、俺は躊躇いもなく相手を壊す戦いをする。
 師匠から怒られ、封印した技の数々……。
 自己の右親指に宿った必殺の打撃技である『打突』…。そして握力九十三キロの指先から繰り出す『千切り』……。
 人間の体に穴を開けたり、皮膚を千切ったり…。そんな技はできれば使いたくはないものである。

 後輩のたー坊に連れられ、柔道場へ足を運ぶ。
 現在身長百八十センチ、体重八十八キロの俺は道場に通う生徒と比較すると、比べ物にならないほど体格の差があった。
 プロレスの世界は特殊なのだ。体格だけを他の格闘技と比べるとよく分かる。
 柔道着に着替えをする際、道場生たちの視線が俺の体に突き刺さる。俺のような体つきが珍しいのだろう。
 本来プロレスとは、上半身裸で行うものである。俺からすればブヨブヨの体をシャツ来て誤魔化す連中。そんな者はレスラーでないと感じる。
 師匠は常に言った。
「プロレスラーは何をやられても、絶対に壊れちゃいけないんだよ」
 かなり落ちたが、この体は師匠が手塩にかけて、鍛えてくれた俺の財産なのである。
 柔道の受身から始まり、投げの練習などを黙々とこなす。
 乱取りの稽古になると、道場生らが次々と、「お願いします」と、相手を名乗り出てくる。プロレスの世界にいた俺が、柔道だとどのようなものなのか気になって仕方がないといったところだろう。
 十七人目と休まず乱取りを繰り広げると、さすがにスタミナが切れてくる。実際に柔道というものをやって分かったのが、柔道家の立ち位置。そして間合い。手捌きなど、本当に勉強になるものが多い事だった。
 足払い一つとっても、背中から倒れれば負けになるのだ。非常にスリリングでシビアな世界である。
 黒帯をつけた高校生が、俺に頭を下げ乱取りの相手を申し出てくる。
 軽量級の彼は非常にすばしこく、ちょこちょこと動き回る。隙を見つけると、足払いを掛けられ、俺はバランスをとるので精一杯だった。
 必死に食い下がりつつ、俺は右手に力を込め、相手の胴着をつかむ。
 自分の投げ間合いに持っていかねば…。つい、思い切り…、相手を強引に引き寄せてしまった。
「ぎゃっ……」
 悲鳴を上げながらうずくまる高校生。俺がムキになり、右腕でつかんだ際、皮膚をつねるような形になり、そのまま皮膚を千切ってしまったようである。彼の左肘付近の胴着は、真っ赤な血で染まっていた。
 俺の封印した技である『千切り』…。ワザとではないが、それをついやってしまったのだ。
 ひたすら頭を下げ、謝るしかなかった。こんな風にするつもりなど毛頭なかった。
 高校生は必死に痛みを堪えつつ、無理に笑って、「気にしないで下さい」と言ってくれた。たー坊の勧めてくれた柔道の練習。俺にとって非常に勉強になった時間であったが、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

 

3 新宿フォルテッシモ - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

現役時代、スープレックスには自信があった。相手の体に両腕を巻きつけ、ガッチリと両手を握り合わせ、クラッチを組む。その状態にさえなれば、体重百二十キロの人間さえも...

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