岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

小説、各記事にしても、生涯懸けても読み切れないくらいの量があるように作っていきます

3 新宿フォルテッシモ

2019年07月19日 11時23分00秒 | 新宿フォルテッシモ

 

 

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 現役時代、スープレックスには自信があった。
 相手の体に両腕を巻きつけ、ガッチリと両手を握り合わせ、クラッチを組む。その状態にさえなれば、体重百二十キロの人間さえも、綺麗に投げる事ができた。
 コツはまず相手を真上に持ち上げ、宙に浮かせるという事。
 あとは相手の体重をうまく利用し、遠心力を味方につける。これは教わるとかでなく、自己のセンスというか、感覚でできるかできないかだと俺は感じる。
 柔道をやってみて気づいた事。
 どんな完璧な状態で投げを打てても、柔道には胴着というものがある。相手は俺の胴着の背中辺りをつかめば、容易に俺の投げなど防ぐ事ができるという点であった。
 胴着をうまく使いこなすのも、一つの立派な戦法なのである。
 柔道を舐めてはいけない。理屈では分かっていたが、実際にやってみてさらにそれを実感するようになった。
 待ちに待った柔道の大会がやってくる。
 絶対に今日は勝たないといけない。たー坊が迎えに来てくれ、地元の武道館まで送ってくれる。
「コンディション大丈夫ですか、龍さん」
「ああ、問題ないよ。あっ…、そうそう。一つ質問があったんだ」
「何ですか?」
「立ち関節は駄目でも、飛びつき腕ひしぎ逆十字とかはいいんでしょ?」
「うーん…、あんまり聞いた事ないですけど、多分いいんじゃないですか」
「OKって事ね……」
「あと、プロレスでいうバックドロップは、柔道だと裏投げになりますからいいですけど、持ち上げても、頭から落とさないで下さいよ。危険ですから」
「じゃあ、その体勢でどうしろって言うんだよ?」

「持ち上げて、そのまま空中で静止した時点で龍さんの勝ちになりますから」
「ふーん、よく分かんないけどそうするよ」
 武道館に着き、中に入る。
 柔道着を来た奴らがいっぱいいた。
 辺りを見回すと、浅田道場主の馬鹿オヤジが、何人かと話をしている姿が目に入る。馬鹿オヤジを取り囲んでいる連中の顔をじっくり見て、脳みそにインプットしておく。
 プロの格闘技を舐めた連中どもめ……。
 絶対に思い知らせてやる。
 試合形式はトーナメントで、以前出場したグラップルトーナメントみたいな不公平な事はなく、ちゃんとくじを俺にも引かせてくれた。
 表を見ると、運がいい事に、最初の相手は、あの浅田道場の中の一人だった。
「龍さんと当たる佐藤って奴、結構、寝技得意なんで気をつけて下さい」
 たー坊がボソッとアドバイスをしてくる。俺はその佐藤とかいう奴を遠くから睨みつけてやった。
 テメーのところの可愛い生徒をぶっつぶしてやるよ……。
「たー坊、帯締めてくれないか?」
「もう、まだ覚えてないんですか。これをこうやって……」
 柔道着に着替え終わり、軽く体をアップする事にする。
 軽いストレッチから始め、マタ割りでペッタリと両脚を広げ地面につけると、俺のほうを注目する人間が多かった。柔道は確かに素人で何も分からねえが、今までの意地ってもんを見せてやる。
「呼んでますよ、龍さん。そろそろ出番です」
「おしっ」
 浅田道場の奴と別の道場の奴の試合が始まる。これが終われば、次は俺の試合だ。
 できればこの試合は浅田道場の奴に勝ってほしい。そうすれば、俺と次に当たるから二人連続で思い知らせてやれる事ができる。
 結局、俺の願いが通じたのか浅田道場の奴が、終了間際に小内刈りを決め、技有りをとり、勝ち進む事になった。
 ようやく俺の出番だ。
 対戦相手を睨みつけながら前に出る。相手の佐藤は、何でこんな自分を睨んでくるんだろうという感じで不思議そうにしていた。
「君、ちゃんと礼をしなさい」
 審判が注意してくるので、ひと睨みしてから軽く礼をする。
 試合が始まる。
 俺は右腕を気持ち前に出しながら近付いていく。
 佐藤は様子を見ながら左手で、注意深く俺の右腕の道着をつかんでくる。馬鹿め、引っ掛かりやがった……。
 俺は右手で相手の左腕をしっかりつかみ、後頭部に左手を回すと、大きくジャンプした。
 両脚で絡みつくように佐藤の体に巻付き、体重を下に傾ける。遠心力を利用し、そのまま後ろに転がり、佐藤の得意な寝技に引きずり込んでやる。
 相手の首の後ろにある右足首を左足首に絡ませ、変形腕ひしぎ逆十字を決める。本来なら靭帯を伸ばす技だが、俺の右腿の上に相手の肘を置き、下に捻じ曲げてやった。あとちょっと力を入れれば、骨が折れるぐらいまで力を入れる。
「おい、折りたくねえから、タップしろ」
 佐藤は必死に畳をバンバンと大袈裟に叩く。審判が慌てて試合を止めた。
 奇襲戦法だったが、運良く決まった……。
 技を解いて立ち上がると、試合を見ていた見物人たちが大騒ぎして俺を見ている。手を振って歓声に答えていると、審判に「ちゃんと礼をしなさい」と怒られた。
「すごいじゃないですか、龍さん。やりましたね」
 たー坊が笑顔で駆け寄ってくる。最高に気持ち良かった。
 たくさんの視線を感じる。とりあえず相手の土俵で勝てて本当にひと安心だ。
 周りを見回すと、浅田道場のオヤジがビックリした表情で俺を見ていた。何故、あいつがこの大会にいるんだと、思っているのだろう。
 ザマーミロと、右手で首を掻っ切るポーズをしてやった。
「でも龍さん、次からもう奇襲で、飛びつき腕ひしぎとか通用しないですよ」
「ああ、そのぐらい分かってる。浅田道場の奴だから博打してでも、絶対に勝ちたかっただけだ。でも俺が柔道で負けるのは別に恥じゃないし、次からはまともに行くよ」

 少し休憩してまた俺の試合の番が来る。また次の相手も浅田道場の奴だ。さっきの試合を見た限り、足払いには注意した方がいいだろう。
「龍さんの次の相手は笠間って奴です。足癖が悪い奴なんで気をつけて下さい」
「ああ、さっき試合見て感じたよ。じゃ、行って来るぜ」
 笠間に、馬鹿オヤジが耳元でアドバイスを送っている。こっちを見てニヤニヤしている笠間の面が気に食わない。
 審判に注意されないよう、今度はちゃんと礼をして試合に望む。
「龍さん、足払いっすよ」
 開始と共に笠間はガッチリ道着をつかんで、うるさい足払いを多種多様に仕掛けてくる。防戦一方なので攻撃を仕掛けようしたところ、うまい具合に足をすくわれ倒された。
「有効―っ!」
 危なかった……。
 もう少し慎重にならないと……。
 ゆっくり深呼吸しながら立ち上がる。まともにやり合っても分が悪い。組み合っている内にバランスを崩され、足払いを掛けられた。
 自分から飛んで受身をとらなきゃ……。
 つい大和時代の癖で、反射的に背中から落ちて受身をとろうとしてしまう。
 そのあとですぐにこのままだと一本負けになると気づき、空中で強引に体を反転させた。
「グッ……」
 鈍い音がして痛みが全身を駆け巡る。
 強引によじって腹這いに落ちた時に、自分の肘が下敷きになり、右のアバラをやってしまったようだ。
 しばらくうつ伏せのまま、立てなかった。呼吸が出来ないで苦しい……。
 多分、アバラが折れただろう。改めて自分の右肘の固さを思い知った。
 高校時代を思い出す。スタンドの社長のところでアルバイトをしている時の事だった。
 弟の龍也も、スタンドでバイトしたいと言ってきたので、紹介し、兄弟揃って仕事をしていた時期もあった。
 高三の夏、龍也は高一の時、髪型をリーゼントに変えて粋がりだした。元々喧嘩もよくしているようだったので、問題はなかった。だが、兄である俺にまで粋がるようになってきたのである。
「龍也! 何だ、その口の利き方は?」
「うっせぇんだよ」
 俺の注意を小馬鹿にした表情で受ける龍也の態度に切れた。
 全力でダッシュし、龍也に膝蹴りをぶち込んだ。吹っ飛ぶようにして龍也は倒れ、そのまま髪の毛を持ちながら引きずり起こし、右の拳をどてっ腹に打ち込んだ。
 しばらく腹を押さえたまま、起き上がれない龍也。
「たった一撃でうずくまりやがって…。弱いのに粋がってんじゃねえよ、ボケ」
 騒ぎを見た他の従業員は慌てて駆けつけ、龍也を病院へ連れて行った。
 俺の一撃で、龍也のアバラ骨は二本、骨折していたようである。

「おい、大丈夫かね?」
 倒れたままの俺に、審判が声を掛けてきた。
 その声で、現実に引き戻される。
 いつまでもこうしてはいられない。
 起きる際、帯をバラして立ち上がった。帯を結ぶふりして、息を整えようとする。
 初めてアバラを折ったが、こんなに苦しいもんだとは思いもしなかった。あの時、龍也はこれほどの苦しみを味わっていたのか。
「おい、君っ」
「う、うるせーな…。ぜ、全然、問題ねえよ……」
 懸命に痩せ我慢して突っ張った。
 過去、龍也のアバラをへし折った。だから俺は、この程度で引いてはいけない……。
 相手の目に怯えが見えた。俺は痛みを堪え、動きだす。
 ずっと追いつきたかった師匠の顔を思い浮かべる。本当に偉大な人だった。大学生になってからアマレスを始め、いきなりオリンピックへ…。その後、メジャープロレス団体からスカウト。ずっと化け物揃いの中、エースとして君臨してきた。完全無欠のエース。怪物君とも呼ばれ、いつだって正々堂々と世の中を渡り歩いてきた。
 俺は二十一歳の頃師匠と出会い、散々揉まれた。根っから人の良さそうな笑顔で、厳しい事をどんどんさせた師匠。俺は指示についていくだけで精一杯だった。
 師匠と出会った瞬間、自分自身の器が分かった。非常に惨めだった。だから、この人にいつか追いついてみたかった。プロレスで言えば師匠は完全なるベビーフェイス。同じ事をやっていたら、絶対に追いつけないのは分かっていた。じゃあ、どうすればいいか…。師匠の真似をしてはいけないという事である。俺は悪党で…、ヒールでいい。その時から、俺のヒールを気取った人生が始まった。
 虐待でピーピー泣いていたガキが、いっぱしのヒールを気取って十年以上の時が経つ。今ではヒールが少しは様になっていた。歌舞伎町の連中でさえも、たじろぐようなオーラを醸し出し、昔より少しだけいっぱしになった。
 口の中を思い切り噛む。途端に血の香りが鼻をつき、独特の血液の味が口内に広がる。常人では考えられない事を常にしたかった。
 口の右端から、噛み切った血液が滴り落ちる。口元を軽く吊り上げ、ニヤリと笑い掛けた。その後、ゆっくり舌を出し、流れる血を舐めながら拭き取る。
「くくくく…。楽しいよなぁ~。なあ、兄ちゃんよ~?」
 フラフラしながらも笠間に近付く。すると笠間の顔に怯えが見えるのが分かった。こいつ、俺の気迫にビビッていやがる。
 俺は組み付いた瞬間、右手で相手の頭を上から押さえつけ、左手を内側から差し込む。プロレスでいうダブルアームスープレックスの体勢に入ろうとした。
 これなら投げても、道着をつかまれて邪魔される事はない。
 笠間は嫌がって片膝を地面につく。
 俺は右手を差し込み、強引に力技で左手とクラッチを組もうとした。
 力を入れる度に激痛が走る……。
 しかし、そんな事でやめる訳にはいかない。これを逃したら、俺に勝ち目などないのは理解していた。
 あと三センチ…、あと二センチ……。
 アバラの激痛で目の前が真っ白になってくる。
 ジャズバーで馬鹿にされた時の事が、ハッキリと頭の中で浮かんできた。
「クソが……!」
 一瞬だけ息を吸い込み、クラッチを組む。
 投げられまいと、しゃがみ込んでいる笠間をダブルアームの体勢で強引にぶっこ抜いた。相手を投げ抜いた感覚はあったが、一気に力が抜け、意識が朦朧としてくる。
「一本ーっ!」
 審判の声で、初めて自分が勝ったのが分かる。
 アバラを押さえながらうずくまっていると、次第に大歓声が聞こえてきた。
 あまりのうるささで、徐々にではあるが意識がハッキリしてくる。気力を振り絞り、ようやく起き上がると、会場中の観客が、たくさんの拍手を送ってくれた。
 フラフラ歩きながら会場の角に行き、壁にもたれ掛かる。もうそろそろ限界だが、アバラが折れただなんて、格好悪い事は、口が裂けても言えない。
「龍さんー。変な落ち方しましたけど、大丈夫なんですか?」
 慌てて、たー坊が駆け寄ってくる。
 後輩にみっともない姿を見せる訳には絶対にいかなかった。
 痩せ我慢しながら、笑顔を見せる。多分誰もいなかったら、あまりの痛さに泣いていただろう。
 できれば早いとこ家に帰りたい……。
「全然、問題ない。どうだ見たか、たー坊……」
「凄かったです。みんな、びっくりしてましたよ」
「へっ、浅田道場の奴相手に、プロレス技で勝ってやったぜ……」
「でも龍さん…。実はさっきやったダブルアームスープレックスの体勢って柔道や相撲だと、五輪砕きという反則なんですよ。だから本来なら反則負けなんですけど、審判もびっくりして、つい一本って言ったんだと思いますよ」
「反則負けでも何でもいいよ…。プロレス技のダブルアームスープレックスで、ブン投げられたんだから、それだけで満足してるよ……」
 喋るのも辛くなってくるが、弱音だけは吐けない。
 さっきの審判が俺の顔を見ながら近付いてきた。
 たー坊が言ったように、試合の裁定を覆しにきたのだろうか……。
 別に反則負けになっても何でもどうでもよかった。
 体中の痛みとは反対に、精神的にはスッキリして非常に気持ち良かった。審判が話し掛けてくる。
「私、長い間、柔道に携わってきましたが、決まり手がダブルアームスープレックスなんて、生まれて初めて見ました…。いいもん見せてもらいました」
 餅は餅屋とは、よく言ったものである。柔道もろくに知らず、粋がって出るからこのような目に遭う。手痛い代償ではあるが、心は清々しかった。

 格好よく会場をあとにしたまではよかったが、誰もいなくなると俺は、真っ先に病院へ駆け込んだ。
「痛い、痛いっ。早く何とかして下さいよー」
「とりあえずレントゲン撮らないと、二階のレントゲン室に行って下さい」
 クソ…、痛みを堪えてようやく病院に来たというのに医者の先生は意地悪だった。
 レントゲンなんか撮らなくても、絶対にアバラは折れていると確信があった。自分の体だから、自分が一番よく分かっているのに……。
 渋々レントゲン室に向かい、写真を撮る準備をする。
 始めは立った状態だからまだ良かった。ベッドの上に寝て撮ると言われた時は、ピンと背筋を真っ直ぐ伸ばす事ができないので、めちゃくちゃゴネた。
「あんた、プロのレントゲン師だろ? 立った状態で何とか撮ってくれよ」
「しかしですね……」
「能書きはいいんだよ。早く終わりにしろよっ!」
「はぁ…、じゃあ、そのままいきますよー」
 ようやくレントゲンも撮り終わり、診察が始まる。
 今日は日曜日なので先生以外、若い看護婦がいない。婦長さんだけなのが、まだ俺にとってまだ救いだった。女には、情けない姿を見られたくないものだ。
 先生はのんびりとレントゲンの写真を眺めている。素人の俺が見たって、アバラの骨が折れているのが分かるのに、何、呑気にしてやがんだ、ちくしょう……。
「うーん、綺麗に一本折れてますねー」
「だからー、それは分かってんですよ。早いとこ、この痛み、とって下さいよ」
「じゃ、坐薬ですな」
「坐薬って…。ケツから入れるあの……」
 先生はニヤニヤしながら頷く。血液が一気に上昇してくる。
「冗談じゃないですよ。それ以外にも痛み止めの注射とか色々あんでしょう!」
「いやいや、坐薬が一番」
 先生は笑ったまま首を左右に振っている。俺はとことん嫌がった。
「ほーら、でかい図体して駄々こねないの。早くお尻出しなさい」
 婦長さんが俺のパンツを強引にめくり、尻を叩いてくる。
 あまりの恥ずかしさに俺は、目をつぶった。ケツから何かがヌルッと入ってくる感がして、酷く嫌な気分になってくる。坐薬を入れ終わり、婦長さんはまた尻を叩いてくる。
「はい、一丁上がりー」
「とりあえず坐薬を五粒ほど出しときましょう」
「いりませんよ、そんなもん。一人でどうやって入れんですか?」
「サラダ油か何かをちょこっとぬってやれば、自然にスルッと入りますから」
「サラダ油?」
「普段口の中に入れている物が、何でケツから入れちゃ駄目なの?」
 確かに正論かもしれないが……。
「あと、コルセット出しときますから。ま、約全治一ヶ月ですな」
「一ヶ月ですか……」
「もちろん、出来る限り安静にですよ」
 コルセットをアバラのところに巻くと、結構楽になった。
 しかし家に帰っても、それ以上痛みが引く様子もなく先生を恨めしくも思った。
 イライラしながら横になっていると、三十分もしない内に、さっきまでの痛みが嘘のように治まってしまった。
 この時、ちょっとだけ坐薬の素晴らしさが理解できて、あの先生に感謝した。
 非常にやっかいなアバラの骨折。真っ直ぐ体を伸ばして寝ると、痛くてすぐに九の字に曲げてしまう。クシャミ一つするだけで、骨に響くのだ。
 ギブスも何も当てる事ができない部分なので、安静にしているしかない。
 でも二週間ほど経つと、骨も無事くっついたようで痛みはなくなってきつつあった。

 一ヶ月が過ぎ、再び『ワールド』の営業を再開させるべく準備期間に取り掛かる事にした。俺のアバラは未だ完治していない状況だった。
 入口のチャイムが鳴る。客が階段を降りてくる途中にセンサーがあるので、そこを通ると音が鳴るようになっていた。最近の歌舞伎町は色々な意味で物騒なので、センサーをつける事にしたのである。
「お疲れさまで~す。『ラーメン阿呆一代』と言います。海老通りで本日オープンしましたので、サービス券をお持ちしました。よろしければお使い下さい」
 いきなり大きな声で入ってきた男は、封筒を渡してきた。
「はい、お疲れさま」
「よろしくお願いします。二十四時間営業でやっていますので」
 いつも来る営業といったらゲーム屋の初回サービス券を持ってくるのが多かったので、普通の商売が来ると新鮮に感じる。
 中身を見ると、ラーメン一杯タダ券が十枚も入っていた。
 大丈夫なのか、この店……。
 素直に感じた第一印象だった。
 ようやくゲーム屋『ワールド』の再オープンが済む。まともに日払いをもらえるので従業員たちは待っていましたとばかり張り切っている。当然の如くこの日は忙しく従業員らも所狭しと動き回っていた。
 一人ずつ食事休憩に回す時、『ラーメン阿呆一代』のタダ券を手渡し、「いいか。この券だけじゃなくて、ちゃんと他のものも注文してやれよ」と言った。毎日食事代として、従業員には千円をあげていたので、最低限のマナーぐらいは守らせたい。
 食事休憩四十分も経たず、最初の従業員が帰ってきた。
「あそこのラーメンうまかったか?」
 新しい店なので、多少は気になる。
「すげー、まずいっすよ」
「そうなんだ…。ちゃんと他のものを頼んだろうな?」
「あんなところ、タダのラーメンだけで充分っすよ」
「そういう事を言ってんじゃなくてな…。まあ、いいや。次、山羽。おまえ、食事に行ってきなよ。この券使ってくれば」
 待ってましたとばかり、山羽はホールからすっ飛んでくる。
「すごい気になってたんですよ。あの営業が券を持ってきてから」
「仕事中だけど、ビールとか頼んでいいから他のものも注文してこいよ」
「分かりました。じゃあ、食事行って来ますね」
 よほど腹が減っていたのだろう。山羽は券を手にすると、店を駆け足で出て行った。
 四十分が経過し、山羽が戻ってくる。ラーメンの感想が楽しみだった。
「どうだった?」
「まず過ぎですよ。あんな酷いラーメン、初めて食べました。あんなのタダ券だけで充分ですよ。もう二度と行かないです」
「おまえ、タダで食っといて、酷い言いようだな。まったく……」
 そのあと『ラーメン阿呆一代』に行った他の従業員の評価も酷いものだった。そんなにまずいラーメンがあるのか。ある意味俺は楽しみになってきた。
 みんなの食事を回し、俺自身券を持って『ラーメン阿呆一代』へ向かう。
 一番街通りをコマ劇場へ向かい、途中で左折すると海老通りだ。何故このような名前になったかというと、この通りの路肩で海老を焼いている店が数軒ある事からそう呼ばれるようになったらしい。大手のパチンコ屋の換金所の横に『ラーメン阿呆一代』はあった。
 ガラス越しに見える店内は、オープン初日のせいか満席に近い。ドアを開けると、「へい、らっしゃい!」と威勢のいい掛け声が聞こえる。
 俺はタダ券を提示しながら「ラーメンと餃子とライスをもらえますか」と注文した。
 他の客たちはみんな、ラーメンだけを食べている。これじゃあこの店もオープンしたばかりとはいえ、赤字覚悟だなと少し同情してしまう。
 メニューを拝見すると、ラーメンとチャーシューメンしか麺類はなかった。ビックリしたのが値段設定である。普通のラーメンが九百八十円。チャーシューメンは千百八十円。餃子が四百五十円である。ライス二百円。
 高めの設定だなと思っていると、食べ終わった客がカウンターにタダ券だけを置いて、ご馳走さまも言わず帰っていく。失礼な奴だなと白い目で見ていると、ラーメンが目の前に置かれた。
「いただきます」と割り箸を割り、最初に麺を啜ってみる。
「……」
 何ともいえない濁った味……。
 全部食べ切れるのか正直不安になってきた。うちの従業員たちが口を揃えて言っていたまずさ。ここまでまずいラーメンはなかなかお目に掛かれないだろう。
 見た目も酷く、ラーメンのスープの上に油の膜みたいなものができている。乗っている材料はシナチク、チャーシュー二枚、海苔、ナルト。匂いも何ともいえない嫌な感じである。餃子もラーメンほど酷くはないが、とても四百五十円とれる代物ではない。
 我慢して麺だけを食べきり、餃子とご飯を胃袋にかき込んで店をあとにした。
 それ以来いつも店に通勤する際、海老通りを歩くようにした。『ラーメン阿呆一代』が、どうなっていくのか気になっていたからである。
 オープン二日目は、初日の半分の客入り。三日目も同じぐらい。見たところみんな、ラーメンだけしか食べていない様子だった。
 一体この店は、どれだけの量のタダ券を配ったのだろう?
 一つの店に十枚も券を入れるようなラーメン屋である。
 一週間が過ぎ、『ラーメン阿呆一代』は、俺が通り過ぎる時ほとんど客がいなく、閑古鳥が鳴いていた。他人事ではあるが、先行きが心配になった。

 歌舞伎町で起きた四十四人の命を奪った爆破事件。世間一般では爆破ではなく、火事と報道されていた。
 あの凄惨な事件。爆破とあえて謳わないのは、必要以上のショックを国民へ与えないようにする心配りのつもりだろうか?
 だとすれば、それは大きな間違いである。今の世の中、虐待で親が自分の子供を殺したという馬鹿げたニュースを普通にただ報道している。一体マスコミやテレビはどういったつもりなのだろう。
 親が我が子を殺したというありえない現実。それを淡々と伝えているだけなのだ。報道するという事は、同時に責任もついて回るような気がした。あまりにも今のマスコミ連中は視聴率や売上だけを意識してしまい、モラルの低下が否めない。
 悪戯に虐待事件をテレビで流すという行為。ただそういう事がありましたと言っているだけで、その後のフォローも何もない。言い替えれば、虐待をまたしましたよという前例を報告しているだけに過ぎないのだ。
 育児ノイローゼになる母親の心理状況など、俺は男だし結婚もした事がないから分からない。だけど虐待というものだけに関してだけは分かる。
 幼い頃、実際に酷い目に遭ったから……。
 未だに消える事のない傷。今でこそ疼く事がなくなりはしたが、心の傷は残っている。思い出すと、真夜中の寒空の中へ放り込まれたような感覚になった。
 神経が参っている人間に対し、今のテレビの報道の仕方は、悪い方向へ向かってしまう傾向にあるのではないだろうか。
 いつも幼児虐待し、殺してしまったとだけしか伝えないテレビ。そのあとその親は刑務所でこうなり、こんな毎日を送っています。そこまで報道して絶対にやっちゃいけない事なんだぞと伝えないと意味がないような気がする。
 四十四人の死者を出した歌舞伎町雑貨ビルの件もそうだ。
 あれで消防のほうからビルのオーナーに対し審査が厳しくなったというが、あくまでも消防は上にキチンとやっていますよと、いい顔を見せるパフォーマンスをしているなのだ。
 四階にいたお触りパブの人間は、とんだトバッチリである。新聞でも亡くなった遺族たちが、「裏切られた」「恥ずかしい」を連発しているが、本来男のほとんどがそういう生き物なのである。だからキャバクラやお触りパブ、風俗などはなくならない。
 妻子ある真面目な男でも、どこか腹の底では他の女を抱きたい生き物なのだ。別の言い方をすれば、ただ単に運が悪かったというしかないのである。
 まああの件で誰が一番可哀相かといえば、雀ピューター屋の『三休』でゲームをしている時に爆破で命を失った客のような気がする。あとは隣の焼肉屋だろう。
 隣のビルで四十四人も焼け死んだのだ。誰がその横で焼肉を食べるだろうか?
 哀れに思った俺は出来る限りその焼肉屋を利用するようにした。 
 火事の一件から度重なる警察官の職質などで、歌舞伎町は全体的に元気がない。店を前と変わらぬよう営業させるのは至難の業かもしれない。
 こんな状況下の中で『ワールド』は再オープンをした。常連たちは待ちかねたように来てくれたが、以前のように満席で待ちまできるような客入りではなかった。遅番だけで三百万以上あったINは、二百から二百五十万ぐらいに落ちている。
 大方の原因は警察のしつような職質だろう。多くの金を落とすうちの客。彼らがプライベートでどのような生活をし、どのように稼いでいるのかなんて何も知らない。世間一般のサラリーマンでない事は確かだがスネに傷を持つ身として、今の歌舞伎町は遊びに来づらいのだろう。
 新規サービス目当てのケンチャンや、大ハマリした客のあとをすかさず狙うハイエナ。以前なら長い時間、多くの金を遣う太い客のやる気を削ぐような客は即刻注意し、それでも繰り返すような輩は出入禁止にしていた。しかしそういった客すらも大事にしていかなければならなくなるような気がする。
 今現在歌舞伎町内でどれほどのポーカーゲーム屋があるのか把握は珍しいが、うちの『ワールド』を始め、他の系列店は多くの客で賑わう事で有名だった。新しく店を出せば成功する。そんな方程式すらあったように思えたが、これからは何かが歌舞伎町の中で変わるかもしれない。

 すごいラーメン屋『ラーメン阿呆一代』がオープンして二ヵ月後に潰れてしまった。最後のほうは、店の前を通る度、オヤジさんがカウンターに座って頭を抱えている姿が見えたので、大変だなと思っていたが……。
 店でその事を話題にしていると、山羽が「あんな店、そうなって当然ですよ」と言った。もし自分の店が潰れたらというのを考えると、俺には笑えなかった。明日は我が身になるかもしれないのである。
 久しぶりに客であるシャブ中の阿部が店へ来た。雑居ビルの大惨事以来だ。
 始めの内は大人しくゲームをしていたが、急にソワソワしだし席を立つ。案の定、行き先はトイレである。
 繁華街という土地柄、多少の事には目をつぶっていたが、阿部は中で何をしているのか二時間も出てこなかった。
「阿部さん。阿部さん、どうしたんですか?」
 何度もドアをノックしてみるが、返事は一切ない。トイレを待つ客もいたので、強引に鍵を開ける事にした。
「……!」
 一瞬、便器に腰掛けたまま死んでいるんじゃないかと思ったぐらい、阿部はグッタリして座っていた。床には二センチぐらいのビニールのパケが落ちている。パケとは、シャブをビニールの袋に入れたものを指す。
「阿部さん、大丈夫ですか?」
 うちの店で何かあっても困ってしまう。息をしているかどうかを確認してみる。
「スー……」
 寝息が聞こえたのでホッとした。しかしこんな感じで来られたのでは迷惑以外何者でもない。肩を強く揺さぶり阿部を起こした。
「う、う~ん……」
「阿部さん! いい加減にして下さいよ」
 従業員を呼び、阿部の手足を持って席まで運ぶ。ビニールのパケは灰皿の上で火をつけて燃やした。一刻も早く、うちの店から出て行ってほしかった。
 ようやく起きた阿部は、グラスを持とうとしたので取り上げた。
「阿部さん…。悪いけど帰ってもらえませんか?」
「何だよ~。久しぶりに来たのに冷たいじゃん」
「他のお客さまもいますので、申し訳ないですが」
 これ以上何を言っても彼には通じないだろう。再び従業員同士で阿部を押さえつけ、外へ出そうとする。
「な、何をしやがる! 離せ!」
 嫌がる阿部を半ば強引に店の外へ連れ出した。すると、阿部は薄気味悪い笑みを浮かべ、大人しくなる。
「もう俺、出禁って事かな? まあ、お店に迷惑掛けちゃったんだから、しょうがないよね~」
「ええ、すみませんが……」
 これ以上、シャブ中の相手はごめんである。俺は深々と頭を下げた。
「うん、しょうがないよ。うん、そうだよ……」
 ニヤリと笑いながら阿部は大人しく引き下がる。その様子に不自然さを感じつつも、これでもう『ワールド』に来なくなるならいいかと、さほど気にしなかった。

 ゲーム屋は二十四時間営業で、正月も夏休みもない。本当の意味で年中無休である。
 俺の出勤する遅番の出勤時間帯は、夜の十時から朝の十時まで。逆に早番は朝の十時から夜の十時までである。
 店長を務める俺の立場は、店の揉め事から従業員の教育、台の設定まですべてを管理するようだが、下の従業員が育つと非常に楽なポジションだ。
 みんな、金がないから稼ぎに歌舞伎町へやってくる。この定義は間違っていないだろう。誰でも始めに働き出す頃は苦しい時期なのだ。だからこそ俺は従業員の面倒を出来る限り見るよう心掛けた。そのおかげで現在いい従業員たちに恵まれている。
 ある土曜日の夜中だった。
 店は多くの客で賑わい、かつての勢いを取り戻したかのような感じだった。これがまた連日続けば『ワールド』もまだまだ生き延びていけるはず……。
 十四卓ある台はすべて客が座り、たまに客が来るが空かない様子を見て諦めた顔で店を出て行く。いい雰囲気だ。せっかく来店したのに遊べない客は他のゲーム屋で「『ワールド』ってすげー入ってるぜ」とこぼすだろう。いつも忙しいと言われる店は出しているからだと客は勝手に連想するものだ。こうした噂が噂を呼び、また大勢の客が興味を持ち押し寄せるのである。
 賭博法で捕まる恐れのあるゲーム屋は派手に宣伝する事が難しい分、こうした噂話は心強い。
 我が店『ワールド』のゲーム台数は全部で十四台。台の設定は俺がすべてしている。客からのINしか売り上げ方法がないので、当然台の設定でどのぐらい出すかが重要になってくる。うちの場合、全体的なOUT率は八十パーセンチぐらいにしていた。分かり易く言うと、IN百万に対し、OUTは八十万出るという設定である。もちろんすべての台が同じ設定という訳ではない。パーセンテージの設定は『イシ』と呼ばれる機械屋の作るチップで決める。
 例えば一卓の台は『イシ』が八十パーセントだとする。そこへロイヤルストレートフラッシュが出る回転数は何回にするか。うちの場合ほとんど五千回転で一度出る設定にしていた。『ワールド』に置いてある台は『ダイナミック』という叩き専門の台で、ロイヤルさえもダブルアップできるという刺激の強い台である。
 設定を決める『イシ』以外では、一回チェンジのポーカーでどれだけ出目率を良くするかを四段階で決める事ができた。出目率とはカードの役が揃い易くなるかどうかの事である。設定方法はとても簡単でディップスイッチと呼ばれるものがあり、スイッチを『0』か『1』が二つ並んでいる。『00』にしたら最高の出目率設定で、『10』が次に良く、『01』の順で最低が『11』。この事は絶対客に、知られてはならない部分である。
 次に出目率の横にある叩きの当たり設定。これも同じように『00』から『11』で設定を決める。叩きとは役が揃った際、ダブルアップでビック、スモールを当てていく事を指す。例えばマックスの百ベットでプレイし、ツーペアが揃うと二倍の二百点になる。これをダブルアップで叩いて当てれば倍の四百。次は八百、千六百、三千二百、六千四百といき、一万二千八百になり一万点を振り切った時点で『一気』となる。つまり純粋にビック、スモールが当たる訳ではなく、あくまでも叩きの設定や『イシ』次第で絶対に外れてしまう事もあるという事だ。パチンコのように当たれば確定というだけでなく、ポーカーはダブルアップ途中の点数で好きな時にテイクして、クレジットに点数を足す事ができるのである。
 ゲーム屋にとって重要な客の定義は、多くのINを回してくれる客だ。つまりテイクをせず、ダブルアップをし続ける客が最も好ましい。そんな訳で、千点、二千点でテイクをする客を『テケテケ』と言い、従業員の対応も必然と変わってくる。INをする、金をどんどん入れるくれる客でないとあまり意味がないのだ。
『一気』を狙う客には魅力的に映る『一気ビンゴ』というものがある。店によって『ビンゴ』の種類は違うが、一例を挙げるとゲームをする客全員が見える位置にボード板で各札をぶら下げておく。『一気』した時の決まり手の札がハートのエースだったとすると、ボード板に吊るされているエースの札がめくられていくという感じだ。次々に『一気』の決まり手により札はめくられ、ラスト一枚がキングだとする。この時点で初めてリーチになり、決まり手がキングだと『一気』した点数とは別にプレミアの金がもらえる。我が『ワールド』の場合、最後の決まり手がハートだったら五万円。スペードだったら三万円。クラブまたはダイヤだと一万円という風に決めていた。
 他に『フォーカードビンゴ』というフォーカードが出た際、めくられていくビンゴや、『個人ビンゴ』というものまで用意してある。
 一ゲーム百円で始まるポーカーゲーム。各種『ビンゴ』のプレミアが加わると、一度の『一気』を取るだけで十五万以上の金を手にする事もある。
 ゲームを打つのが好きな客たちは、日々歌舞伎町へ集まり四六時中ポーカーへ熱中した。

 

 

4 新宿フォルテッシモ - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

ゲーム屋の求人募集は大抵、夕刊のみ発行される如何わしい新聞などに三行広告を打つ。たった三行の文字だけのシンプルな広告でも、一週間掲載で七万円ほどの金を取られる。...

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