岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

1 新宿フォルテッシモ

2019年07月19日 11時16分00秒 | 新宿フォルテッシモ


新宿クレッシェンド第4弾 新宿フォルテッシモ



 普通にサラリーマンをやっていたら、喧嘩が強いだとかそんな事とはまったく無縁だろう。もちろん俺のいる歌舞伎町だってそうだ。ただ一つ違うのが、歌舞伎町の住人たちは強さというものに敏感だという事だろう。
 世間一般的によく誤解される街ではあるが、ここで数年働いている俺にとってそこまで怖い街ではない。金をぼったくられたと言う人間もいるけれど、助平根性丸出しで来るからポン引きに足元をすくわれる訳で、普通にいればどうって事のない街である。
 左肘を壊しプロレスを断念した俺は、何とか居場所を作ろうとバーテンダーになり、その後歌舞伎町という繁華街へ流れた。数年経ち、裏稼業のゲーム屋を任されるようになり、そこそこ金も稼げるようになる。一番街通りにある店で毎日働きながら、そこそこいい暮らしをしているほうだ。
 一時自殺まで考えていたのに、俺はうまくこの街に馴染み、人並みに再生できたという事だろう。
 この街に来て喧嘩一つした事がないのに、ほとんどの人間は俺を強さの象徴のように見てくれるようになっていた。
 一体、いつから俺は強くなっていたのだろうか。
 本当の強さとは何だろう?
 うまく言えないが、ただ強くなるだけでは本当の強さではない。極限まで体を苛め抜き、できあがった体。人間を壊すという目的のみで鍛えた親指。打撃面のみ、強くなっても、強いとは言えないのだ。
 では、防御か……。
 いや、そういう問題ではない。よく心技体といわれるが、俺の場合、まずは体を鍛える事から始まった。次第に技術もついてくる。今現在、心は…。実際のところ、俺自身、よく分からない。確かに人間の体を素手で、簡単に壊せる事ができるようになった。しかし、それだけが、本当の強さだとは思えない。

 二十九歳の時に出場した総合の試合……。
 始めの相手のタックルを潰した時点で、俺の勝ちは九分九厘決まっていた。上から力を込めて打撃を打てば、それで試合は決まったのだ。
 しかし、俺にはそれができなかった。あれほど望んだ試合。戦いへの飢えは、他の格闘家を遥かに凌駕するだろう。それなのに憎しみのない相手に対し、思い切り打撃を振るう事ができなかったのだ。
 格闘家としてあるまじき行為。完全に失格である。
 人間の体を壊すのは、簡単だ。しかしその技術も、実戦で使えなければ何の意味もなさない。
 これをやれば、この箇所が壊れる。分かってはいても、相手によってできるできないでは話にならないのである。
 自分自身をひたすら鍛え、苛め抜いてできあがった究極の打撃技である『打突』。
 接近戦、いや、密着戦で相手の死角から放つ卑劣な技である。密着さえすれば、俺の間合いになるが、それさえも人間相手に放てやしない。決して臆病風に吹かれた訳ではない。
 親指と人差し指の間にある骨間筋の異様な発達。変形した醜い右拳。何度も親指の爪を割り、血だらけになった。何度も悲鳴を上げ、泣きそうになった。それでもひたすら右の親指を鍛えてきた。
 そして、完全なる人間凶器ができあがった。
 もし、この親指が人間の体にめり込んだらどうなるのか……。
 安易に想像がつき、使える場面になる度、俺はいつも躊躇ってしまう。
 あの頃は、自分で編み出したこの『打突』こそが、強さの拠り所であった。これさえあれば、どんな窮地でも何とかなる。そんな自信が持てた。
 しかし、どんな必殺技でも使えないのでは無意味である。相手に対し、加減を考える。そうなったら格闘家としておしまいだ。ましてや何の為にずっとこの親指を鍛えてきたのだろうか? 枯れる事のない泉のように湧き出てくる葛藤。そして人間として生きたいと感じる良心。それらが俺の邪魔をする。
 こうして俺は徐々に年をとり、徐々に体が衰えていくのだろう。
 それでも歌舞伎町のほとんどの人間が俺に気を使い、ある人間らは怒らせないように取り繕いできた。
 幼い頃虐待に遭い、ただ泣いていたこの俺が、気づけば強さを目指すようになった。しかし、今現在でも強さとは何かという明確な答えが出せずにいる。
 喧嘩が強いイコール、強さか……。
 いや、それは違う。じゃあ何だ? 分からない……。
 焦るな。人生はまだまだこれから。焦らずゆっくり考えればいい。
 そんな事を考えながら、俺は歌舞伎町へ向かう。

 最近コーヒーに懲りだしている自分がいた。お気に入りのキリマンジャロとブルーマウンテンの豆がなくなってきたので、気分転換も兼ね、買い物へ向かう。
 一番街通りを歩いていると、人が集まっているのが見えた。
 また、喧嘩か何かの野次馬の群れだろう……。
 この程度ぐらいにしか思えず、特に気にしないでいた。
 一瞬だけ野次馬の視線の方向を見ると、雑居ビルから煙が出ているようだ。単なるボヤ騒ぎか……。
 すぐそばのゲーム屋で働いていた俺は、そんな大惨事だとは露にも思わず、普通に買い物をしていた。
 JR新宿駅東口から歌舞伎町へ真っ直ぐ向かうとぶつかるセントラル通り。それと交差するように靖国通りがあった。相変わらず交通量は半端ではない。その角のドンキホーテから出ると、セントラル通りの入り口は、いつの間にか大勢の警官の手により、封鎖されていた。
 一体、何があったんだ?
 外部からは誰一人、歌舞伎町内へ入れそうもない。俺は並行する一番街通りへ向かう。しかし一番街通りもセントラル同様、バリケードで封鎖されていた。
 警察の数が半端じゃない。バリケードの向こうにいるのは消防士か? 携帯電話を店に置いてきたのを後悔した。店は大丈夫なのか? 俺は群がる数十名の野次馬たちを押しのけ、バリケード近くにいる警官へ声を掛ける。
「ねえ、お巡りさん……」
「今、忙しいからあとにしろ!」
 ぶっきら棒な警官の対応。
「おい、ふざけんな! 俺の店がこの通りにあるんだよ。まだ、客だって残っているんだ。とりあえず中に入れてくれ」
 白のワイシャツに蝶ネクタイ。その格好でいたのが良かったのか、警官は渋々バリケードを少しだけ開く。
「すんませんね」
 軽く礼を言い、ガランとした歌舞伎町へ入る。もうこの街には七年いるが、これほど人の歩いていない街は初めて見た。
 この中で一般人は俺ただ一人である。あとは警察官や消防士。そしてマスコミ連中…。その手の人間しかこの街にいなかった。
「おい、ワシも入れろや、コラッ!」
「はい、駄目駄目!」
 俺に続こうと、ガラの悪いヤクザ者がバリケードの隙間を縫って入ろうとしているところを警官に止められていた。
「何や、ワレ? いてもうたるぞ、おっ? ワシを誰やと思うてんのや!」
「駄目駄目…。どんなに粋がったって、こっちは警察なんだから」
 漫才みたいなやり取りが聞こえ、思わず吹き出しそうになった。だが、どちらも真剣な会話であるところが、まさに歌舞伎町といったところである。
 とりあえず店が心配なので道を急ぐ。するとマスコミ関係の奴らがマイクを片手に持ちながら駆け寄ってきた。
「すいません、少しよろしいでしょうか?」
「インタビューお願いします」
 かなりの大事だな…。俺は店の様子がますます心配になった。中にいる従業員や客はどうしているのだろうか?
「すいません、何かひと言話して下さい」
「どけよっ!」
 群がるマスコミをどかし、俺は地下にある自分の店へと駆け降りていった。

 レトロな懐メロとポーカーゲームをプレイする音が鳴り響く店内。
 店内は外の騒がしい様子など誰一人知らないかのように賑わっていた。すべての客がモニターをジッと見つめながら、ひたすらポーカーゲームに興じている。
「おい……」
 従業員である山羽を呼び止めた。
「あ、神威さん、お帰りなさい」
「外の騒ぎ、みんな知らないのか?」
「何かあったんですか?」
 山羽はポカーンとしている。本当に何も気づいていないようだ。
 俺は、外の一連の騒ぎの様子を説明した。
「え、そんなすごい騒ぎなんですか?」
「ああ、俺も何があったかまでは分からないけど、歌舞伎町が封鎖されたなんて、今までありえないだろ」
「そうですね」
「まあ、とりあえず今日は、客全員帰ってもらおう」
「え、でも四卓の客なんて、まだ来て三十分も経ってないですよ?」
「馬鹿野郎! 今、上では警察がウヨウヨしてるんだぞ? ここに事情聴取として来る可能性だって高いんだ。それなら今、集団で外に逃がしたほうがマシだろ。ポーカーなんて現行犯じゃなきゃ賭博罪にならないんだから」
「あ、はい……」
 山羽は、他の従業員に伝え、客に帰るよう促し始めた。
 うちは太い客が多い。業界用語で金持ちをたくさん遣う客の事を指す。信じられないぐらいの金を持っている客。僅か数万の銭を持ってギリギリの生活を送る客だっている。中には何か悪い事をして稼いでいる奴だっているだろう。いや、ほとんどの客がそうだ。得体が知れない。しかしうちにしてみれば、どんな金だって変わりはない。馬鹿野郎、今はそんな事よりも客を逃がさなきゃ……。
「店長」
 常連客が声を掛けてくる。
「はい、何でしょう?」
「急にどうしたの? 近くの店でもやられたの?」
「いえ、違います。今、外が本当すごい状況になってるんですよ。だから早く出たほうがいいです」
「何があったんだい?」
「正確な事は分かりません。ただ、歌舞伎町の入り口という入り口すべて、バリケードで封鎖されています。多分大きな事件でもあったんでしょう。きっとここにも警察とか事情聴取で来ると思いますので……」
「そっか」
「ええ」
「分かったよ。でもまだ点数残ってんだけどな……」
「そんな事言ってる場合ですか。ここに警察来たら、みんな賭博法でとっ捕まりますよ」
「そりゃ勘弁だ」
 慌しく客が帰る中、一人だけホール内に客が残っているのが見える。俺は山羽に尋ねた。
「おい、何であの客だけ帰ってないんだ?」
「ああ、阿部さんですか。あの人、外に警察がいっぱいいるんじゃ、今出るの嫌だって…。何度も出て下さいと言ったんですけど……」
「分かったよ。俺が言ってくる」
 阿部という客。おそらくシャブでも持ち歩いているのだろう。他の客と違い、目つきが尋常ではない。うちへ来るとよくトイレに籠もる事があるが、飲み過ぎでというよりもシャブをきめているだけなのであろう。
「阿部さん、申し訳ないのですが、当店本日は終わりにしますので……」
「嫌だ!」
 物凄い形相で俺を睨む阿部。何て自分勝手な奴なんだ。俺は苛立ちを隠すよう努める。
「あのですね、阿部さん…。今、外が本当にすごい状況になっているんですよ。他の客は全員帰ったじゃないですか? こちらも困るのでお願いしますよ」
 出来る限り優しく諭す。
「嫌だ! 外、警察がいっぱいいるんでしょ?」
「それはいますけど、どっちみちここにいても警察が事情聴取で必ず来ますよ」
「それでも嫌だ! 出たくない」
 以前出勤する前に西武新宿駅前の道で、捕まったシャブの売人の姿を思い出していた。
 おそらく警察も大体のめぼしをつけていたと思うのだが、普通に駅前通りを歩く売人の背後から職質を始める。ブツを持っている売人は真っ青な顔をして全力で逃げ出す。しかし前方には他の警官らが待ち構え、新宿プリンスホテルの駐車場入口のところで捕まった。両腕の関節をガッチリ極められ地面に顔をくっつける形の惨めな売人の姿。「テメーら離しやがれ!」とどんなに喚いても警官たちの押さえる手は緩む事はない。すぐに大きなサイレンを鳴らしながら二台のパトカーがやってきて、売人は有無を言わさず中へ連れ込まれた。
 ここまで頑なに断る理由。間違いない、きっと阿部はシャブをどこかに隠し持っているのだろう。そんなものでこっちまで、とばっちりを受けたら溜まらない。何としてもこいつを店から出さないと、一大事に発展する可能性がある。
「申し訳ないですが、うちも商売でやっています。営業時間内ならある程度のお客さまの話は聞きますが、今はもう閉店時間です。本当にお引き取り下さい」
「それはそっちが勝手に決めたんだろ? いつも二十四時間やってんじゃねえか。俺は嫌だ!」
 ギョッと剥き出しながら血走った目を向けてくる。首筋辺りだけが、汗を掻いていた。完全なシャブ中特有の証拠だ。シャブ汗とも言われる。
「一緒に従業員が途中まで付き添いますのでお願いします」
「嫌だって言ってんだろ!」
 仕方ない…。俺は少し手荒だったが阿部の体を押さえ、強引に店の外へ連れ出した。
「や、やめろ! 何しやがるんだ!」
 いくら暴れようと関係ない。こんなシャブ中一人の為に店を犠牲にする訳にはいかない。
「阿部さん! それ以上暴れていると、逆に警察が不審に思いますよ」
「い、嫌だ!」
「警察に捕まりますよ? いいんですか? 職質受けますよ?」
 警察という言葉が利いたのか、職質が利いたのか。今まで騒いでいたのが嘘みたいに阿部は静かになった。
「さあ、まだ今なら他のお客さんたちも外を歩いていますから、一緒に目立たないよう行きましょう。もちろん、私も一緒に途中まで送りますから」
「う、うん……。ほんとに大丈夫かな……」
「ええ、大丈夫ですよ」
 そう言って、俺はニコリと微笑んだ。もちろん彼の安全の保証などどこにもなかった。

 中にいた客すべてを歌舞伎町のバリケードから出し、俺は再び店へと戻る。幸い外は大騒ぎだったので、こちらまで警察も気に掛けなかったようだ。
 まず部下へ自分の荷物をまとめさせ、大急ぎで着替えさせる。俺は店の売り上げと重要な書類だけ持ち、着替えだした。
 それにしてもあの外の大騒ぎ…。一体、何があったのだろうか?
 休憩室へ入り、自分の携帯をとろうとして初めてビックリした。自分の携帯に着信履歴がかなり残っていたのだから……。
 留守電も入っているようなので、とりあえず聞いてみる事にする。
『あ、長谷部です。龍一、大丈夫か? 今、テレビですごい事になってるぞ! この留守電聞いたら電話ちょうだい』
 地元の先輩である長谷部さんからの留守電。何だか只事じゃないな。テレビで報道するような大きな事件でもあったのだろうか?
『もしもし、兄貴! 歌舞伎町すごいじゃん。兄貴の店、大丈夫なの?』
 続いて弟の龍也からもメッセージが……。
『おい、生きてるか? 連絡くれー!』
『神威! お~い、留守電聞いたら連絡くれよ』
『神威さん、神威さん…。神威さ~ん……』
『歌舞伎町大丈夫かよ? まさかおまえの店じゃないよな?』
『神威、平気か? 電話ほしい。無事なら連絡待ってるよ』
 何だ、この留守電の内容は……。
 外のバリケードまでして封鎖しているあの騒ぎ。確かに尋常ではないが、何故俺の生死を確認するような内容が多いのだろう?
 先ほど買い物に行く前に、煙が出ていたあのビルが原因だろうか。
 すっきりしないので、一番初めに連絡をくれた長谷部さんに電話をしてみる。
「もしもし、龍一か?」
「長谷部さん、一体どうしたんですか?」
「今、歌舞伎町か?」
「ええ、もちろん。仕事でですけどね」
「テレビ見てないのか?」
「店だからテレビなんて置いてないですよ」
「まあ、良かったよ……」
 長谷部さんはホッと気の抜けた声で言った。
「良かったよって?」
「おまえの店、一番街通りにあるって前に言ってたじゃん」
「ええ、そうですけど…、それが何か?」
「雑居ビルが大火事で、何十名も亡くなったらしいというニュースをどこのチャンネルも報道しっ放しだよ」
 やはりあの時のビルの煙がそうだったんだ……。
 知らなかったとはいえ、俺はあのビルの近くをそのまま素通りしていたのだ。思い出すと身震いする。あの時点で、何十名もの人間が亡くなっていたのだから……。
「まあ、龍一が無事っていうの分かったから、とりあえずは良かったよ……」
「ありがとうございます」
「あ、ごめん…。ちょっと俺の店も忙しいから電話切るからな」
「すみません、忙しいのに気に掛けさせちゃって……」
「いいよ。じゃあな、龍一」
「はい」
 あの時、客をすぐ外に出した俺の判断は間違っていなかった。ただのボヤ騒ぎだと思ったのが、そんな大惨事になっていたとは……。
 こんな状況下になって初めて分かる事がある。誰が俺の事を心の底から心配してくれていたのかを…。少し大袈裟過ぎる留守電の数々。しかし逆にそれが嬉しく思えた。
 結局店を閉め、従業員を先に帰す事にする。さすがに三日間ぐらいは、店を閉めておいたほうがいいかもしれない。
 朝方の電車を一人寂しく薄暗い店内の中で待ち、眠そうな目を擦りながら時間が経つのをのんびり待った。
 電車の中では精神的に疲れていたのか、つい熟睡状態で眠ってしまう。目を覚ますと、地元の駅へ到着していた。
 季節は夏からすっかり秋に切り替わっている。肌寒さを感じながら駅のホームへ降りると、こんな早朝に携帯が鳴り出した。
 見た事のない番号……。
 一瞬出るのを躊躇ったが、大火事の件もある。誰かが今朝のニュースでも見て、心配で掛けてくれたのかもしれない。
「はい……」
 電話に出ても、しばらく相手からの声が何も聞こえてこなかった。
「もしもし、どちらさまですか?」
「……」
 微かに聞こえる息遣いの音。単なるいたずら電話だろうか。少し相手が話し掛けてくるのを待ったが、突然、電話は切れた。さすがにこれにはムカッときた。俺は着信履歴に残る番号にこちらから電話を掛ける。
「ガチャ……」
 予想に反してすぐ電話に出る相手。
「もしもし、先ほど電話もらったんですけど……」
「……」
 非情にイライラする相手だ。
「もしもし……」
「か、鎌田です……」
 全身に嫌悪感が走る。世の中で一番声を聞きたくない相手の声だった。
「あの~…、一体、何の用でしょうか?」
「あ、ああ…、あの騒ぎを聞いたから、生きてんかなと思って電話しただけ」
「……」
「さっき電話したら出たから、ああ、生きてんのかって思って切っただけだから……」
 何でこいつは、未だ俺に関わろうとしてくるのだ。
「あの…、何故俺が歌舞伎町にいるって知ってるんですか? 何故俺の携帯番号を知っているんですか?」
 声の主は俺の質問には何も答えず、ただ黙って電話を切った。

 翌日の新聞は、昨日の歌舞伎町一番街通り雑居ビルの大火事の件が堂々と一面を飾っていた。どの新聞も、すべてその記事一色である。
 死者四十四名……。
 とんでもない数字だ。詳しく読んでみると、ビルの三階の窓から働く従業員が三名、あまりの火の勢いに飛び降り、全員が足を骨折したと出ている。まあ、足の骨折程度で済んで良かった。
 ほとんどの人間は下から来る大量の煙に巻かれて亡くなったらしい。普通に飲んで酔っ払い、気付かぬ内に人生を終える…。想像すると、鳥肌が立っていた。
 それにしても今朝の電話。
 思い出しただけでイライラが募るばかりだ。ふざけやがって……。
 何が生きてんのかだ。
 世の中で一番会いたくなく、一番嫌いで、一番無関係でありたい人物。好き勝手やっておいて、よくもこんな時ばかり訳の分からない連絡ができるものである。
 未だ断ち切れないかこの憎悪。
 俺の根底に流れているのは、間違いなく憎悪である。
 自慢ではないが勉強は学生時代、かなり優秀なほうであった。とにかくあの頃は、いい成績をとらなければならない環境だったのだ。
 力なき幼少期、成績が悪いというだけで受ける数々の暴力。
 祖父母との仲も悪く、当然親戚筋とも悪かった母親。親父は余裕ある家の財産を気にもせず遣い込み、好き放題遊んでいた。
 当然の事ながら夫婦仲は悪く、夜になると醜い喧嘩を子供の前にも関わらず平気で見せた。
 一度、母方の祖母が家まで喧嘩を止めに来た事があった。まだ幼かった俺には非常に頼もしく思えた。しかしあの時のショッキングな出来事。未だに忘れられない。
 ヒステリックな母親の爪が、仲裁に来た祖母の右腕に食い込み、赤い血が静かに垂れ流れる。気丈にも表情にはおくびも出さず、ジッと我が娘の顔を見つめる祖母の顔が、今でも鮮明な記憶として残っていた。
 家での姑問題。母親の辞書には『譲る』という文字がまったくなかった。
 今思えば、何もかも気に食わなかったのだろう。
 家で用意する食事は一切俺ら子供には食べさせず、それでいて自分は特に料理という料理を作らない。なので幼少の頃は常に飢えが酷く、ひもじい思いがあった。
 お腹いっぱいご飯が食べたい……。
 そんな儚い思いさえ、エゴで踏みにじられる。
 家の人間と口論になってイライラすると、その怒りは幼かった俺にぶつけられた。今でいえば虐待と問題になるかもしれないが、当時の俺は力もなく、ひたすら泣いて謝るしか方法がなかったのだ。
 成績がいいからといっても、誰かが守ってくれる訳ではない。
 そうして俺の顔や体には、傷が一つ一つついていった。それと同時に、心の奥底へ消えない傷まで刻み込まれていった。
 小学校二年生の二月。朝起きると母親の姿はなく、まだ幼稚園の弟が「お腹が減った」と泣いていた。慌てて弟をあやしながら俺は、母親がこの家にもう戻ってくる事はないだろうという妙な確信があった。
 案の定三十歳となった現在まで、母親は家には戻っていない。
 確か小校校五年生の時だったっけ。
 俺たちを捨て家から出て行ったのに係わらず、近所で新しい男と一緒に住んでいるという情報を聞いたのは……。
 そして、今朝の歌舞伎町大火事のあとの電話。
 何が生きているのを確認しただ……。
 ふざけやがって。
 よく近所の人には、「お母さんを許してあげなよ」「きっと事情があったんだよ」と言われる事もしばしあった。
 よくもまあ、そんな簡単な台詞を吐いてくれるものだ。俺がどんな思いで今まで生きてきたのか……。
 結局他人の痛みなど分からないから、そんな台詞を簡単に吐けるのだ。
 俺はきっと生涯母親を許す事はないだろう。
 根底に流れるのは憎悪。常に大きな塊の憎悪が、俺の心の奥底に沈んでいる。
 エゴイズムと見られるかもしれない。しかし俺は俺の生き方がある。通常の生き方が出来ないからこうして今、歌舞伎町に生息しているのかもしれないな。

 歌舞伎町の大火事から十日以上が過ぎた。
 気のせいか街を歩いていても、人通りが寂しく感じる。無理もない。あれだけの死者を出した大騒動だったのだから……。
 あれこれ騒いでいる間に、アメリカではテロによる大事件が起きた。それまで歌舞伎町の大火事を取り上げていたマスコミもアメリカテロ事件に切り替わり、世間一般ではタイミングよくといえばいいのだろうか、歌舞伎町の一件は人々の関心から薄れていった。
 日本の繁華街レベルと、世界規模を揺り動かすレベルの差だろう。
 俺のいるゲーム喫茶は、以前と変わらず営業をしている。
 大火事以降変わった事といえば、新しい従業員の木村が入ってきた事と、警察がよく聞き込み調査にやってきた事だ。
 このゲーム屋『ワールド』は当然無許可営業である。
 客層もまともな客というより、陰で何をやって稼いでいるのか分からないような金持ちが多かったので、当然営業には響く。みんな、警察には弱いのだ。
 通常の刑事の聞き込みもあれば、丸暴専門の刑事も来る。
 毎日のように続くうんざりする聞き込み。本当に警察の態度は横柄でイライラするものだ。
 しかしこの街の中にいないと分からないような秘密情報も色々聞けた。あの雑居ビルの大火事は、火事などでなく爆破で起こったという事実。
「この男、この店に出入りしてなかったかね?」
 ビルが爆破され、数分後らしい一番街通りを走る男の写真を見せながら、刑事は質問をしてくる。写真の写りは非常に荒く、見づらいものであった。
「う~ん、見た事ないですね……」
 短髪の二十台半ばの男が振り返った横顔が少しだけ見える後ろ姿。これだけじゃまったく分からない。
「嘘をつくと為にならんぞ?」
「嘘ついたって、しょうがないじゃないすか」
「こいつは中国人なんだ」
「なら尚更うちには来ませんよ。うちは日本人しか入れませんからね」
 こんなやり取りを常にしていた。
 数々の聞き込みを受け、あらかたまとめてみると、あれは火事ではなく爆破によるもの。爆破されたのは、三階に会った『三休』と言う雀ピュ―ター屋(ゲーム屋と変わらないが、ポーカーでなく麻雀ゲームが置いてある)で、負けの込んだ中国人が腹いせに爆弾を仕掛けたらしい。
 入り口のドアを開けると、起爆装置が作動し、『三休』店内は一気に炎に包まれ、その上の流行っていたお触りパブのスタッフと客らは煙に巻かれ、一酸化中毒により亡くなった。
 雑居ビル内で生き残ったのは、『三休』の従業員三名で、一番街通りの窓に面したところがたまたま小さな厨房になっており、爆破を見て三階なのに躊躇わず飛び降りたそうだ。
 三名の従業員は現在も足を折った状態で、病院に入院している。
 四十四名もの命を奪った大火災。あれの発端が爆破だと言うのなら、警察が躍起になるのも分かる。しかしあの写真一枚程度では永久に見つける事はできないだろう。もし写真に写った中国人が本当に犯人なら事件当日に歌舞伎町から消え、とっくにこの日本にはいないはずだ。
 仕事を終え従業員たちと刑事についての愚痴を話していると、新人の木村が話に加わってきた。まだ二十歳の木村はそそっかしく、年中俺に怒られていた。
「神威さん、自分、すごい運がいいんすよ」
「運がいい?」
「実は今だから話せるんですけど……」
「何だ?」
「実はここ、『ワールド』に来る前、『三休』の面接に行っていたんです」
「『三休』って雀ピューターの?」
「はい、そうです」
「それで?」
「じゃあ、明日からって採用されたんですけど、何か嫌な予感して、急遽黙ってこっちへ面接に来たんですよ」
「嘘こけ」
「本当ですって…。そしたらすぐあの爆破じゃないですか?」
「う~ん、確かに運はいいな……」
「ええ、本当にそうなんですよ」
「じゃあ、その運の良さでこの店に、もっと客が来るように祈っててくれ」
「了解で~す」
 一歩間違えば、木村の命は爆破と共に亡くなっていた。運のいい奴を手元に置いておく。このような上がり下がりの激しい歌舞伎町では、そういう勘というか運のようなものが大事なのかもしれない。

 制服で来る刑事。私服のまま、でかい態度で来る丸暴。日常、ヤクザを相手にしているだけあって、丸暴は貫禄のある刑事が多い。パッと見、ヤクザ者にしか見えない奴もいた。
 かなり捜査には協力してはいるが、警察自体を好きになる事はないだろう。
 ある日聞き込みで来た刑事が、爆破とは関係ない事を妙に気にしていた。
「随分流行っているお店ですね~。お客さん、今現在何名ぐらい入っているんですか?」
 若い刑事が人懐っこそうな笑顔で聞いてくる。
「たまたまですよ。いつもはもっと暇ですから」
 爆破事件の聞き込みにしては、妙にこの店の事を色々聞きたがる刑事だ。俺は笑顔で応対しながらも、用心する事にした。
「オープンしている時間帯は、いつも何時ぐらいからなんですか?」
「刑事さん、あまり調査と関係ないじゃないですか」
 こいつは信用できない……。
 あえて店の入り口付近で止めて話しているのに、若い刑事は常に店内を見回すように身を乗り出す。
「あ、すいませんね。職業柄、色々と気になるものでして」
 若い刑事の愛想良さそうな笑顔。しかし目は笑っていない。
「とにかく例の写真の男…。見掛けたり情報が入ったりしたら、刑事さんにキチンと連絡しますから。今日のところはお引取り下さい」
「はいはい、仕事中にすいませんね~」
 半ば強引に刑事を帰す。何故か先ほどの刑事の対応に違和感を覚える。俺はオーナーへこの事を伝え、しばらく店を閉めるよう促した。しかしオーナーの反応は悪い。
 毎日『ワールド』から出る売り上げ。相当な日銭にはなっていた。オーナーは一ヶ月で数百万もの金が無条件で転がり込んでくるものだから、店を休む決断がなかなかできないでいる。
 目先の金に目が眩むと、ろくな事がない。今は安定した収入が入ってはくるが、警察に踏み込まれたら店自体が崩壊する可能性だってある。そうなれば当然従業員は捕まり、店は営業停止、パクられ要員の名義人は社長として全責任を負う為出頭し起訴になる。そうなると弁護士をつけ、名義人とはオーナーの身代わりで前科者になる人間の事なので彼への保証金も払わねばならない。あらゆる損害になるのだ。
 一つの大きなギャンブルみたいなものであった。
 しかし本音を言えば、それ以上に今の安定した収入がなくなるという部分が溜まらない。現在俺の給料は日払いで一万八千円。当初この系列店に入った頃は三店舗しかなかった。始めはINキーを持たされて客のINを入れるだけだった。一日が終われば一万一千円の金を手渡しでもらうだけの日々。そんなシンプルな商売なので従業員の入れ替えは激しい。一日で消える従業員などザラで、酷い奴はその日仕事中に買い物を頼むと、その一万円札を持ったまま消える馬鹿もいた。店の金を抜けるかどうかで来る従業員も後を絶たない。一ヶ月続きようやく慣れてきたかなと思うと、翌日には連絡なしで急に来なくなる者もいる。色々な困難を乗り越え初めて人材が揃っていく。
 半年も毎日同じ事を繰り返すと俺の給料は、一日一万二千円と千円だけアップした。ようやく俺の存在がオーナーの目に留まると責任者となり、一万三千円の給料と月に三万円の責任者手当てがもらえるようになる。人が育つまで半年以上休みをとれない時もあった。俺は入ってきた従業員の面倒を出来る限り見るようにして、少しでも安定した職場作りに励む。仕事が終われば部下を誘って食事へ連れて行き、家賃が払えない部下には金を貸してやり、時には新しい物件を借りる際の保証人になってやる事もした。裏切る者も多数いたが、そんな俺についてきてくれる者いた。
 一年二年と続いた部下は、他の店を立ち上げるからとオーナーへ連れて行かれ、系列店は徐々に増えていく。流行らない店には時たま指導へ行く事もあった。
 一店舗に置くゲーム機の台数は十台から十四台。店の広さによって置く台数は違うが、うちの店『ワールド』は遅番のINだけで三百万を超える。INとは台へ入れた金額の事で千円分入れれば千である。要は総売り上げがINの合計となる。ゲーム屋はまず始めに客が来ると、新規サービスという名目で余分にクレジットをサービスする。二千円もらって三千円の新規サービスを入れるので、ゲームのクレジットは五千スタート。この一人三千円分のINも当然含まれる訳だから、実際に一日の夜だけで二百万以上の金の動きがあった。
 逆にゲーム屋の支出はOUTである。金をつぎ込んでギャンブルしている訳なので、当然出る台だって多数ある。台から吐き出した点数、分かり易く言えばそれがOUTである。それ以外に人件費、買い物などで使う経費、家賃等に割り当てる為別に一日十万円の経費を作らないといけない。ようするにたくさんの客を入れ、INを回してもらう事が店の繁栄のすべてとなる訳だ。その集めた売り上げから経費を引いた金額がオーナーの取り分となる。
 シンプルにする為、給料も日払いにしているのかもしれない。必要経費は一日一日で済ませておけば、オーナーの手にする金は純粋に儲けになるものだから。
 店を流行らせ、それを持続させていた俺の給料はどんどん上がっていった。
 まあ無許可営業でやっている以上、いつかは手入れの入る時がある。ゲーム屋は警察に捕まる裏稼業であるのだ。
 俺としては、警察が来ないよう祈る事ぐらいしかできないのである。明後日は俺の休みだ。何も考えずゆっくり過ごし、頭を空っぽにするのも必要かもしれない。
「神威さん、すみませんが、今度の日曜日、自分の休みと交代してもらえませんか?」
 仕事の合間を縫って、新人の木村が話し掛けてきた。
「何だよ。二週間ぶりの休みなんだぞ、俺は」
「すみません…。その日、友人の結婚式が急に入りまして……」
 木村が嘘をついているのはすぐに分かった。二日後急に結婚式へ呼ばれるなんてある訳がない。しかしいちいち目くじらを立てても仕方ないので、あえて気づかないふりをした。
「しょうがねえな…。変わってやるよ」
「ありがとうございます」
 休みの日が変わり、喜ぶ木村。まだ新人なので、仕事に本腰を入れるのはまだまだ先だろう。
 次の休みまでさらに三日間伸びた。様々な聞き込み調査、客の応対、店を維持する責任、部下の管理などで、精神的に疲れが溜まっている。
 それでも愚痴をこぼせない立場に俺はいるのだ。もちろんそれ相応の金だってもらっている。歌舞伎町という特異な場所。予期せぬ事態が、いつ起きても不思議ではない。
 そんな危機感を常に持ちながら、日々の営業をこなしていく。

 

 

2 新宿フォルテッシモ - 岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

店が忙しかった日は従業員全員を集め、よく食事へ連れて行った。もちろん自分のポケットマネーである。「山羽、今日ステーキ食うか?」「え、本当っすか?」「ああ、他の奴...

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