「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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ぼく(ら)の聞きたい説教(4、一応の締めとして)-同人仲間の酒席から-

2019年10月10日 | 説教



「ぼく(ら)の聞きたい説教」(4、一応の締めとして)

—同人仲間の酒席から—


 とても「説教論」と言えるような代物ではないが—傲慢なぼくだって、それくらいの自己理解はある—、去年の1月から、いわゆる「説教」と呼ばれるものについて、ぼくやぼくの知人たちが感じたり考えたりするところを述べてきた。俗な言い方をすれば、「こんな説教なら、聞いてみたい」「でも、こんな喋くりじゃぁ、宝物の日曜の朝を犠牲にしてまで出かけはすまい」ということである。もちろん、ぼくらは全員、普通言う意味での「信者」ではないので、議論に見当外れのピンぼけもあったことと思う。ただ、それでも、ぼくらは総じてキリスト教のシンパであり、その信仰についてそれなりに学んで考えてもいる。しかも—これはちょっとばかし、ゴチックで言わせてもらえるだろうか—、ぼくらは誰もが「言葉」に携わり、「ことば」を紡ぎ、「言(ことば)」をたずね求めている者たちである。そんなぼくらが「ことば」を介した「説教」について考えること。それを、思いつくがままに、随想風に書かせてもらってきた。キリスト教が聖書に基を置く人格神信仰の宗教だとしたら、その信仰を伝える説教とはどのようなものなのか。巷の単なるお話とどこが違うのか。そんなあれこれを考えながら、「そこに何かしら、人を生かすいのちに繋がるものがあれば・・・」と、ぼくらは求道の期待を抱いているからである。

 とはいえ、もうすでに3回にわたって、同じ主題で語ってきた。たしかに、説教というものにはいろんな要素があり、かつ構造的に多様な局面があって、わずか数回の文章で論を尽くすなど、それこそ論外だろう。けれども、ぼくらのような物書きには、性分として(つまらぬことも含め)言葉を延々と発し続ける悪癖がある。そんな口害(筆害?)を振り撒く前に、いかにも不十分ながら、口を閉じるのが良識と思われる。そこで、表題のエッセイとしては、今回を一応の締めといたしたい。

 というお断りを申し述べたうえで、本題に進む前に、以下の場面について説明させていただきたい。というのも、下記に紹介する言葉は—副題にご覧のとおり—酒席でのやり取りだからである。説教が主題なのに酒の席での話とは、と違和感を覚えられるかもしれない。不謹慎と言われれば返す言葉もないが、ただ、そうした場面なればこそ交わされる本音というのもあるのではなかろうか。そんな時には内容も多岐にわたって面白く、話に熱が入る。席が席だけに表現が少々露骨な部分もあるが、未だ信者未満のシンパたちが繰り広げるそんな多事争論に忍耐をもって耳を傾けてくださるなら、ありがたく感謝に思う。説教というものを真面目に考えるうえでそこに何がしかヒントになるものがあるなら、こうしてエッセイを書く意味も多少はあるように感じられ、嬉しく思われる。ただし、毎回繰り返すようだが、ぼくらはあくまでも、どこかで似通った面を有する同人的仲間たちである。その意味で、ぼくらは必ずしも日本人一般を代表するわけではなく、限られた特定の者たちと言えよう。そんな但し書きを押さえたうえで、ぼくら・同人仲間の説教談議をご批判くださればと思う。

 以下、酒席で出た雑多なやり取りから主なものを抜粋し、内容的に整理して記すことにする。それに続けて、言葉をめぐる幾つかの引用を最後にご紹介し、4回にわたった説教随想の一応の締めとさせていただきたい。


〔キリストの顔が残る〕—————————————〔説教者の顔が残る〕

・説教って、教派によっても教会によってもほんとに色とりどりって思いませんか?

・まぁ、確かにそうだね。けど、ぼくなんかの印象からすると、色合いとして2つの傾向が見て取れるように思うんだよね。雑な言い方だけど、説教を聴いた後、聴いたぼくの中に「キリストの顔」が残る場合とそれを凌いで「説教者の顔」が残る場合と言ったら分かるかな?

・例えばあれかな、あのエレクトリックチャーチって呼ばれる、いわゆるテレビ教会みたいなの? まさにアメリカンスタイルっていうような、説教者が身振りも手振りも総動員して、そうやって話術巧みに聴衆を惹き込むやつ。あれはなんかステージショーみたいで、たしかに説教者の顔がやけにでかく残るけど。

・いや、そこまで強烈じゃなくても、傾向として普通の教会にもあるんでは、ということなんだ。

・あぁそうね、確かにね。主役はどっち、って感じだろ。でも、宗教とか信仰とかいう軸からしたら、キリストの影が薄れるってのはやっぱり、なんかおかしいんじゃない? だってさ、俺がもし本気でクリスチャンになるとしたらだよ、俺は説教者を信じてそうするわけじゃないもんね、どう考えたって。

・ですけど、教条的で無味乾燥な説教というのもありますよね、申し訳ないのですが。たしかにキリストが主役で前面に出てはいるんですけど、観念的で解説的で、こちらに響いてこないんです。言葉にいのちが宿っていないというか、書き言葉で言うなら、文字が平坦で生命感が希薄って言ったら分かるでしょうか。この私の今に繋がる内実がなかなか伝わってこない。それはそれで、聴く方の忍耐と精進も・・・うーんです、私なんか。


〔出来事が起こされる〕—————————————〔知識が付与される〕

・そりゃさ、俺の言い方で言えばさ、そこで出来事がなーんも起きてないってことじゃないの?

・そうなんですよね、私もそう思います。事を理解するためには説明は説明でたしかに必要なんですけど、それが単に知識のレベルで終わってしまっては、ですよね。とりわけ説教というのは聴く者の生き方に関わるわけで、まさに実存的なものでしょ。そうであればなおさら、長い人生を生きるこの私の生き様に及んでくる、そこに訴えて影響してくるものでなければ・・・。

・それは、ぼくらが生業にしている「ものを書くこと」と本質的には通じているんだろうと思うね。そして、それが、ぼくらはみんな知ってるように、それが簡単じゃぁない。大変で厄介な仕業なもんで、だから、ぼくらはいつもこうして百薬の長を囲んで集まるってことじゃないの?

・はぁ、そうきましたか。でもですね、少し硬くて辛気(しんき)臭い言い方になりますけれど、私なぞはこう思うんです。当事者の説教者にはきつい表現になって申し訳ないのですが、説教をする牧師というのはまさに人の生ともろに向き合って、そこにもろに関わっていく存在ですよね。だとしたら、これは自分の言い訳が入ってるかな、私ら以上に実存的にものを考えて、人の生き方の核心に触れるような言葉を発してほしいと思うんです。だってそうでしょ、聖書にはそういう真理が書かれているって、説教で言うんですから。

・おやおや、天下国家のような大上段の話になってしまったな。

・そうね、私たちのような主婦作家には、台所や家事の日常にも通じる出来事が欲しいですものね。でも、言わんとされるポイントは分かります。価値観の中心や生き方の核に触れるような、そんな出来事に説教を通して触れられたら、ということでしょ。それはそうよね。人間関係の調整法とか世渡りの知恵とか、そんな処世術ばかりじゃ、わざわざ教会に行くことないですもん。そういうことなら、他所に行ったほうがよっぽどいいアドバイスを貰えるし。

 

〔自ら経験する〕—————————————〔借り物を語る〕

・要するに、大事(おおごと)だってことよ。実際、物書きの俺らもそのあたりで四苦八苦してるわけで、小説だって、自分がそれを出来事として経験しているかどうかってのは決しておまけのことじゃぁない。決定的なことも少なくないよな。つまり、俺自身がその種の出来事を味わっていなけりゃ、インパクトのある代物はそうそう書けるもんじゃない。説教だって、本質的には同じじゃないの?

・うーん、ぼくらもどこかで見つけた着想なんかを活用することがあるけど・・・、たしかにね。自分のものと借り物とでは、そりゃぁ違うさ。

・説教ということで言えば、他人の注解書や説教集からの「まんま借り」ということでしょうかね。

・私も時々、そのように思われる説教に出くわすことがあります。職業がら、自分が人より敏感にそれを感じ取るのかもしれませんけど、この説教者は自分では経験していない、実際にはそれほど信じてもないことを語っているみたいと感じる時です、失礼な言い方ですけれど。

・ということは、言い方を換えると、自分がそこから出来事を味わうほどには聖書の言葉に浸かってない、ということになりますかね

・それはどこか普遍的な真理に通じているんじゃないかなぁ、私らの書き仕事も含めて。

・書くにしても語るにしても、借り物の言葉では、読んで聴く人たちの心に伝わるものが限られるということですね。

・語る前に、まず自分が聖書の言葉から、自分自身の事として何事かを聴き取るということ。そうした事柄が生じるくらい深く密に聖書に向き合って、そこに入り込むということ。そういうことなんだろうね。なんか、作品を紡ぎ出すぼくらの産みの苦しみと似てると思わない?



〔必死で取り組む〕———————————————〔余裕でこなす〕

・それはあれですか、別の言い方で言うと、「真実味」というようなことになりますか?

・あっ、それそれ。私、もう何年か前になるんですけど、それを現実に感じさせられる場面に出会ったことがあります。牧師が説教の途中で言葉を詰まらせて、黙り込んでしまったんですよね。何がどうしたんだろうかって、不安な緊張がその場を覆いました。その時ですね、見たんです、私。牧師の目から涙が流れてたんですよ。

・何それ? ねたが尽きて、話せなくなったってわけじゃないよな。

・もちろんです。偉そうに聖書の言葉を語る資格などない自分がそのことをしているという、どこか自己矛盾というか罪責感というか・・・、いや違います。それ以上に、むしろ「申し訳なさ」というような感じだったと思います。そして、これはいわゆるキリスト教的な言い回しなんでしょうけど、すみません、私はまだそのへんが未熟なもんで。そんな自分なのに、こうして説教することを許されている、という感謝の思いですね。「恩寵」とか「恵み」とか言うようですけど、そのありがたさに涙したということらしい。私には深いところはまだ分かりませんが、その姿の中に真実なものを見たことだけは今でもはっきり覚えています。

・つまり、説教に向き合うその牧師の真剣さということ? 必死さかな?

・うーん、俺らが油断するとはまってしまうあれだよな、手慣れた余裕ってやつよ。それを忍び込ませない真実味があったってことだろ、その説教者には。

・その先生はもう70過ぎのベテランでしたから、なおのこと、そんな感じを受けたんです。

・年を重ねても、その内に依然として出来事が起こっていたということか。

・聖書というものがぼくらが説教で耳にするとおりのものだとしたら、説教をする当の本人は誰よりもまず、その種の出来事を探って聴き取らなければ・・・。いやー、大変だわ。技巧に走らず、まずもって内実に立つということだろうね、ぼくらも同じだけど。



〔信じて・・・〕—————————————〔建て前で・・・〕

・それでですね、真実味っていうのと関係するかと思うんですけれど、私は以前、クリスチャンの何人かに尋ねたことがあるんです。今考えると、なんて失礼なことをとも思うんですが、「あなたはイエス・キリストのことを本当に信じておられるのですか」って。というのも、当時の私はまだ、教会の暗黙の習わしというのをよく知らなかったもので、人のいわゆる偽善性について聞いてしまったんです。どこか、モヤモヤしてたもんですから。

・ほぉー、大胆だね。でも、みんなどこかで感じてることだよね。で、答えは?

・えぇー、それがですね、例えば「正面切ってそう聞かれると、うーん・・・」とか「神様は信じてるけど、なんとなく」とか、「復活までは信じられないけど・・・」とか、いま一つ歯切れが良くなかったんですね。おまけに、その教会の長老格の人まで、「そんなもんじゃないでしょうか」とこられては、私も私の友人もなんか「カックン」でした。もちろん、それがすべての教会とは思いませんけど、「キリスト教の信仰って、そんな程度だったの?」って。

・つまりは、それがもし説教をしている牧師の信仰の実態でもあるとしたら、ということだね。

・いえ、そこまでは思いませんけれど。説教者たる牧師までそうだったら、その言葉は建て前のそれでしかなくなってしまいますから。いくら人のいい私だって、そんな所には行きたくありませんよ。

・まぁ、キリスト教といっても実際、なんとなく神様というのもあれば、心情的宗教心に近いものもあるし・・・。あるいは自然宗教的な信仰や、さらには、どこか仏教に近似したものもあるからね。

・そんなふうにして、それぞれのところにそれぞれの人々が集うってこと?

・俺の悪友だけど、冷めた目でキリスト教を見ててね、こんな口の悪い言い方をするんだぜ。「名前はキリスト教会、しかれどもキリストの存在感やいずこに?」「礼拝堂を飾る十字架、しかれどもその実体はいずこに?」ってなぐあいにね。

・もしかしたら、こんな議論をしてる未信者の私たちの方が信仰について真面目なのかもしれませんね。なので、行き場がなかなか見つからないのかなぁ?

 

〔聖書に語らせる〕———————————————〔自分が語る〕

・それにしても、説教という問題の中心はどこにあるのかね?

・それは、いまだ信者でない物書きのぼくという、言ってみれば人間的営みの観点からの考えだよ。あくまでもその域を出ないのは承知しているけれど、基本的に言って、どこまで聖書そのものに語らせることができるかということじゃないかな、ぼくらの生き様との接点においてね。もちろん、どこまで行ったって、そこにぼくら人間の思い入れや思い込みが、また偏見や誤認・誤解が割り込んでしまうのは避けられっこない。だけど、いつもそのことを心に留めて、そのミスに警戒を怠らないということ、それは決して小さなことではないと思う。それをせずにおいて、自分の言いたいことを言うために聖書を都合よく利用するというようなことがあるとしたら・・・。聖書に本来秘められている出来事がそこで現実になることはないのじゃないないだろうか。

・作家の端くれの私らにとっては、それは言うまでもなく、常識的なあり方だと思いますよ。たまに、書いたのはこの自分だけど、作品の解釈は読者の自由に任せるという作家もいはしますけれど、ごく少数にしかすぎないでしょ。作品を著した作者にはそれぞれそれなりの執筆意図というのがあるわけで、それを無視して勝手な解釈をされたら、それはたまりませんから。

・それは、たしかに一般論だけど、どの分野でも共通してるんじゃないかな。まずは原作者の元々の意図を大切にする、ということだよね。

・それは、私も同感です。音楽で言えば、指揮者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんも端的に同じことを言っておられました。自分の目指すところは作曲者の原意に迫ることだ、って。

・俺、顔に似合わず、恥ずかしながら面食いで、バイオリンの庄司紗矢香(しょうじ・さやか)が好きなんだよ。デビューしたての時から聴いてるけど、紗矢香ちゃんもその頃からずっと、同じことを言ってるもんね。作曲者の思いに迫って、それを感じ取って表現することだって。

・改めて言うまでもないことだろうけど、聖書の原意をきちっと探って、それに触れて、今生きているこの時・この所で何事かに出会うということだよね。語る者がそれを第一に実践して、そして説教という形で、聴く者たちとその実践を分かち合うことじゃないのかな。

・という意味でも、皆さん、感じられることありません? そう言う私なんかも誘惑に駆られることがあるんですけど、話の中にそれとなく自己宣伝が入ってきたりして・・・。

・あぁ、ありますね。キリスト教会では「証(あか)し」というふうに言われてますが、それ的な説教の中でいつの間にか話が自分の自慢話に変わってるというような、あれでしょ。

・自分がいつも善人になってるというのもありますよね。

・そういうの、俺、ダメなんだよな。クサイのって、すぐ臭ってしまうじゃん。本音が見えちゃってさ。

・つまり、実は自分が主役で、キリストはその引き立て役ってこと?

・おかしいじゃない、そんなの

・言葉の中身を信じて語ってるのか、それとも自分の話術を信じてそうしてるのかってことだよね、本質論としては。

・俺たち・物書きにはさ、なんか習性として、読み手の受けを計算して書くってところがあるだろ。俺なんか、だからこそせめて聖書に向かったり説教を聴いたりする時くらい、そんな自分から自由になりたいってところがあってさぁ。


 

〔出っ張る説教〕—————————————〔壇上説教〕

・おやおや、ちょっと愚痴っぽくなってきたかな、時間もそろそろだし。じゃぁ終わりに、文脈なしのアトランダムでいいので、それぞれ言い足したいことがあったら言うようにしようか。

・そうですねぇ、分かりやすさということで一つだけ言うと、分かりやすい話というのは説教にかぎらず、どこでも喜ばれますよね。でも、それは単なる言葉の易しさということでもなければ、ましてや面白おかしいということでもないと思うんですね。よく劇作家の井上ひさしさんの言葉が引用されますけど、「むずかしいことをやさしく」というあの有名な言葉です。私が実際に見聞きした経験からすると、この言葉を引き合いに出す人たちは概して軽いんですよね。井上さんが目にされたら、それこそカックンとくるぐらい軽い。その人たちは、井上さんがさらに続けて言われている言葉、その言葉が自分の中に入ってないんですね。「やさしいことをふかく」と、井上さんはそう言っておられる。要するに、考えさせられるようなことばで、ということでしょ。説教も、ただ易しく分かりやすくではなくて、ちょっと考えさせられるようなものであってほしいと思います。

・俺はそうだな、ドキッとする実話でいこうか。どちらも牧師の代わりに信徒が説教したって言ってたな。二人共、前日の土曜になんかがあって、次の日の説教準備が満足にできなかったんだそうだ。しかも、どちらもそのことを説教の中で白状したと。ところが、片方の教会の聞き手は笑ってやり過ごすだけで、そのまま聞き続けたんだそうな。けど、もう片方の教会では、「準備もしないそんな説教、誰が聴けるか」と、一人の人が憤慨して途中で出てってしまったと言ってた。俺は憤慨した人のいる教会で説教を聴きたいと思う。こちとらは真面目に出かけていくんだぜ。以上。

・考えるところはいろいろありますけど、わたくし的には、聖書というものから語られる説教ですから、やはり精神性の感じられるお話といいましょうか、自分の内面を掘り下げられるようなそんなお話が聴きたいですね。巷の話やテレビの話題なんかは、朝から晩までいやというほど耳にするわけですから。

・まだ、ほかにある? それくらいかな? なら、締めになるかどうか分からないけど、最後にぼくの「説教出っ張り論」というのを聞いてくれる? 何それ、と思うでしょ。きっかけは、みんなも多分どこかで耳にしたことがあると思うんだけど、「自分は説教に命を懸けている」といった類いの言い方、あれなんだ。

 ある教会の礼拝に参加したとき、牧師が説教の冒頭でこれを口にしたんだ。おそらく、言葉のとおりに、時間をかけて説教を準備されたのだと思う。けれど、説教の後の報告の時間に、今度はこう言われた。「明日の月曜日は牧師の休日なので、電話や訪問は控えていただきたい」。まぁ、ビジネスで考えれば、首を傾(かし)げるほどのことでもないかもしれない。でも、ぼくはそのとき、何とも言えない違和感を感じたわけ。

 というのは、説教に命を懸けてるって言うんだよね。で、明日は休日だから、手間をとらせないでほしいと。ぼくがこのとき直感的に感じたのは、その説教っていうのは一体、何なんだろうかということだったんだ。この場合、それは明らかに、礼拝における壇上でのある限られた時間のことだよね。つまり、講壇で話しているその限られた時間でしかない。でも、ぼくが思うに、説教って、本質的にそれだけのことなんだろうか。もっと言うなら、聖書で言われている信仰って、本質的にそれだけのもの? さらに言えば、人に関わるって、それは本質的にその程度のものなんだろうか、っていうことなんだ。

 ぼくは、もちろんボロボロの自戒の念を込めてだよ、聖書の説教と言うんなら、それは本質論としては、講壇から降りた後も続くもんじゃないかと思っててね。つまり、説教者が聖書から聴いたとして語ったそのことばは、壇上での説教が終わっても、自分が生きる日常のその場・その所にまで出っ張っていって、そこでまさに説教になっていくもんじゃないかって感じてるわけで・・・。ことばにしたことを現実に生きてこそ、本当に説教というものになっていくんじゃぁないのかな。それは信者でないぼくらのこととしても変わらないわけで、「言葉」から「ことば」へと、そしてさらには「言」へと、という言い方をしたら伝わるかな?

・うひぇー、まぁそうだけど、それは大それたことだわー。

・うん、ぼくもそう思うよ。でもね、人に関わるってのはそもそもそういうことなんじゃないかと、自分は全くできてないのに、理解としてはそう思わされてるんだ。元・高校教師の旧友がいてね、彼は現役時代、そんなふうにして自分の生徒と向き合っていたもんだから。24時間・365日のこととして、彼はそこで「ことば」を「言」にしようとしていたように思うんだ、クリスチャンではなかったけど。そこには生きたことばがあったし、思想もあった。さっきの涙した牧師も同じようなことじゃないのかな。

 要するに、壇上の説教は日常に出っ張ってこそ、本当の説教になっていくんじゃないかと思わされててね。このぼくも、説教はしないけど、言葉を扱う物書きとして、少しなりともそんなふうに生きられたら、と。


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 言葉はおのずから人の考えを検証する。その抑制力がずいぶん失せてきた。自分で表現を考えている暇(いとま)は少ないのではないか。本来は、いまのような複雑な世では、一つの考えや状態を人に伝えるのに、どうしてもワンセンテンスの呼吸が長くなるはずなんです。

 限界期が一般に見えてこないと、言葉は生きてこないのではないかとも思う。その時に言語がよみがえるのではないか。

——作家、古井由吉(ふるい・よしきち)さんの言葉


 私が口にした言葉で、ものごとが立ち上がってくるという感じがある。言葉を発すると、その言葉が何かを生起させるというか、何かが起こると、この子たちは信じているんだなという気がします。

 いま家庭で、朝起きてから夜寝るまで発した言葉を録音し、ていねいに見ていったら、語彙としてはかなり少ないでしょう。おそらく限られた言葉しか使っていないし、その中で精神生活に関わるような言葉の数はさらに少ないと思います。

——児童文学者・翻訳家、松岡享子(まつおか・きょうこ)さんの言葉


 持っている言葉が貧しければ、その範囲でしか物事を考えられない。言葉の貧しさから、考えることも表現することも単純になり、人格がやせ細っていく怖れを感じる。

——生活経済学者、暉峻淑子(てるおか・いつこ)さんの言葉


 私がこの問題に触れたいと思ったからではなく、テキストを講解する中でこの問題に触れなければならなかったから、である。

 本来われわれはこう言わなければならない。聖書は神の言葉になる。神の言葉になるそのところで、神の言葉なのである。この出来事が大切なのである。聖書と、いわばひとつの生活史を営むようにと、説教者は召されているのである。それは説教者と神の言葉との間に何か出来事が起こるような歴史である。神がここで自分に語りかけてくださることを期待しているかどうかにかかるのである。それは常に新しい献身的没入である。相手が自分を見つけてくれるために、自分から探し出しに行くのである。

——神学者、カール・バルトの言葉


 授業というものは、その深浅によって、たんなる行きずりの人のように頭の中を通り過ぎていく態のものから、子どもをして深いところで何ものかと出会わせ、その心をゆさぶるような質の高いものまである。授業は人間と教材との出会いにまで深められたとき、子どもを変え、教師自らも変革することができるのだと感ずるようになった。

——元・沖縄県小学校長会会長、安里盛市(あさと・せいいち)さんの言葉


 出会いの場面の深い浅いを決定するのは教材とのとりくみの深さであるように私は感じています。

——元・宮城教育大学学長、林竹二(はやし・たけじ)さんの言葉


 日曜学校を指導しておられた(代々木教会の)高井弘副牧師は、子どもに話をする名人であった。話を上手に聴かせようとするよりも、話のなかに語り手が入り込んでいたからであろう。

——日本基督教団隠退牧師、加藤常昭(かとう・つねあき)さんの言葉


 言葉というのは、声に出したときに伝わる命がとても大切です。

——児童文学者、松居直(まつい・ただし)さんの言葉


 

©綿菅 道一、2019

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