「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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ぼくらが知りたいのは“ブラックボックス”の秘密なのだ

2017年08月25日 | 神学

 

「ぼくらが知りたいのは“ブラックボックス”の秘密なのだ」

 


  「ブラックボックス」という言葉をご存知だろうか。そもそもは「内部の不明な装置」を意味する言葉だが、日常の会話ではそれが転用され、「中身のよく分らない部分」といった意味合で使われている。また、それがさらに進み、俗語的表現として「秘密」や「機密」といった意味で用いられることもある。他方、この語は科学的研究の分野でもよく見受けられる。身近なところでは、例えば、各種の治療に関連した分野などである。すなわち、(身体的であれ心理的であれ)病気の全容が明らかでなく治療法がいまだ確立していない段階では、ある状況で症状が改善されても、それがどのような仕組でそうなったのか、いま一つ明確でないことがある。ある投薬で、あるいはある療法で、症状が軽減される。けれども、その改善の仕組が依然として、詳細なところで解明できていないのである。施療(せりょう)とその成果は把握している。しかし、それらの両者を繋(つな)ぐメカニズムがいまいち判明していない。言ってみれば、入口と出口は分っている。そして、その入口から入ってその出口から出てくると、その間(かん)に何やら、変化が生じているというわけだ。入口と出口だけは分っているが、中が暗くて見えない箱。いわば、そのような「ブラックボックス」に喩(たと)えて言われる表現である。

 

 実際、ぼくらの人生には、日常の小事(しょうじ)においても生涯にわたる大事(だいじ)においても、こうした秘密のブラックボックスが少なくないように思われる。あれこれ考え、色々思いを巡らせても、それでもなお理解し切れない不思議が存在するからだ。だから、ぼくらは(厳密な意味での仏教用語としてではなく、いわゆる俗な言回しとして)縁起(えんぎ)だとか因縁(いんねん)だとか、あるいは(これまた、キリスト教的な同種のものとして)御旨(みむね)だとか摂理(せつり)だとか、そうした物言いを意外と安易にしてしまうのかもしれない。それらには本当は深くて重要な含意があるのだが、それはさて置き、各人の生活からそのようなブラックボックスを拾い出してみたら、結構な数のそれらが見つかるやもしれない。しかしながら、このブログ(「信仰と教会をめぐる求道的エッセイ」)の主旨とついつい長くなりがちな書き手の悪癖を勘案し、ここでは信仰的・神学的に意味深い主題に的を絞って書き進めたいと思う。それは、いわゆる「求道者」と呼ばれるこのぼくのような者にとっては、何にも増して心を惹(ひ)かれる中心的な関心の在り所(ありどころ)でもある。

 


 一言(ひとこと)で言うと、それは「イエスとキリストの間に横たわる、深遠なるブラックボックス」とでも言えるだろうか。つまり、あの「歴史のイエス」が信仰者各人の内においてどのようにして「救い主キリスト」になったのか、ということである。ただ、取違えてほしくないのは、ぼくがここでもう一歩踏込んで知りたいと願っているのは、初代教会におけるケリュグマ(宣教)のキリストの成立過程云々(うんぬん)といったようなことではない。そのような、いわゆる宗教社会学的・宗教心理学的な分析や解説ではない。また、信仰の生起を人の成長・発達との関連で科学的に解明しようとする発達心理学的なそれらでもない(こうした研究はとりわけ米国で発達を遂げ、James W. Fowler 等の著名な学者が出ている)。そうではなく、ぼくら・求道者の(つまり「未」信者の)先を行っている信仰者のより個人的な出来事を分りやすく、少しでも丁寧に知って理解したいのである。聖書の言葉を引いて直截(ちょくせつ)に表現するなら、ヨハネによる福音書 149節のあの問題である。新共同訳で引用すると、イエスはそこで「わたしを見た者は、父を見たのだ」と、弟子の一人のフィリポに語っておられる。ちなみに、前田護郎訳では「わたしを見たものは神を見たのである」と、「父」が「神」と表され、より踏込んだ訳出になっている。いずれにせよ、前後のやり取りからして、それまでイエスとずっと一緒だったはずの弟子のフィリポにしてさえ、イエスと父(なる神)との関係がよく分っていなかったということだろう。だから、問題は決して簡単なものでないのかもしれない。聖書を読むかぎり、弟子たちにしても得心したのは、イエスの「復活」に触れて以降のことである。だとしたら、その復活とは一体何で、どんなものなのか、それが問題となろう。がしかし、これは現在のこのぼくの手には余る問題で、せいぜい信仰者の実存的なあれこれに思いを巡らすばかりである。

 

 ということで、今月の本題に戻るわけだが、要するに「イエス」を見ることがどうして、すなわち「父(なる神)」を見ることになるのかということなのだ。換言すれば、イエスを見ることでどうして、父(なる神)が見えるようになるのか。さらに言えば、イエスを見ることでどうして、神を信じるようになれるのか、ということである。聖書箇所の釈義的議論というよりはより具体的・実際的な事柄で、ぼくらの内でイエスと神とを繋ぐようになる(すなわち、イエスから神へと移行する)、その間(あいだ)のよく見えない部分の問題である。人の内なるそのブラックボックスで一体、何がどのように起って、未信者が「信ずる者」になってゆくのか。それが、ぼくら・道を求める者たちの大きな関心事なのだ。実際、日本基督(キリスト)教団の信仰告白も「旧新約聖書は・・・キリストを証(あかし)し」と始り、「主イエス・キリストによりて啓示せられ・・・る唯一の神は」と、さらには「ただキリストを信ずる信仰により・・・」と、その言葉を続けている。また、日本バプテスト連盟の信仰宣言も同様に「私たちの信仰宣言の中心はイエス・キリストであり」と書出し、「イエス・キリストにおいてご自身を啓示された神こそ・・・」と、その内容を展開している。これらからも見て取れるように、キリスト教の中心はやはりイエス・キリストという存在であり、その歴史的な人物を、あの人・この人がある時々に特別な存在として信ずるようになってきたということだろう。もちろん、信ずるといっても、文字どおり(いわゆる三位一体の「三一神」の)「神」として信ずる伝統的な立場から、それとは微妙に違うようにも思われる「神と等しい者」として信ずる在り方や、さらには神はただ神のみであって、イエスを尊(とうと)びはするものの、それは神としてではなく「卓越した宗教指導者」としてそうするという(いわゆる「ユニテリアン」的な)人々まで、様々あるのは言うまでもない。繰返しになるが、ポイントは(いずれの立場であっても)「イエス」という入口から入って「その神信仰」という出口から出る間に横たわる、中のよく見えないブラックボックスで一体何が起っているのか、ということである。

 


 悪い癖がまた出始めたようだ。だらだらと締りなく続けないよう、ここからはそれこそ要点を絞って、簡潔に記したい。というような(以上のような)ことを、ぼくは今回、2つの視点から課題として投かけ、期待としてお願いしたいと思う。一つはいわゆる「証し」ということにおいて、そして、あと一つはいわば「学際的な対話」ということにおいてである。

 

 1つ目の「証し」というのは、こういうことである。すなわち、どこの教会でも、信仰の様々について、個々人それぞれの「談」というものが語られることがある。ある人は生活の体験から、ある人は人との出会いから、またある人は読後の感想から・・・と、その形式も内容も色々である。ただ、信仰ということと何らかの接点を持つかぎりにおいて、それらは「証し」と呼ばれるわけである。それが最も明確な形でなされるのが、入信・入会に際して正式・公式になされる「信仰告白」というものだろう(承認の可否を求める、狭義の意味での信仰告白である。単純に信仰を語るという広義の意味では、それは以上の「証し」とほとんど変らなく思われる)。(時に、狭義の信仰告白も含め)そうした証しにおいて上記のブラックボックスに言及することが少なくなってはいないか。それが第一の疑問であり、課題として感じる点である。証しや告白はもちろん、様々であっていいと思う。けれども、何より頻繁(ひんぱん)になされる「説教」をも含め、イエスの言葉や生き様(ざま)・死に様といったその生涯に触れることでなぜに(その)神が見えてくるのか、そうしたことについてこのところ、あまり丁寧には語ってくれないように感じている。イエスに触れると、何がどう見えてきて、何がどう分って、そして何をどう動かされて、その神を信ずるようにされていくのか。そのブラックボックスについてである。

 

 信仰という事柄の性質上、それは事細かに説明できるものではあるまい。また、たとえ手取り足取り解説されても、それで信じられるというものでもないだろう。このぼくとて、それくらいはわきまえているつもりである。それはたしかに、聖書的表現を借りれば、「聖霊」の事柄に属することになるからである。実際、聖書に言われる信仰というのは聖霊の働きを抜きにしては生まれないと、広くそう言われてもいる。しかし、それにしても、聖霊とは一体どんな存在で、どのように理解したらいいのか。前述の復活共々、求道者にとっては、これまた分りにくくて厄介(やっかい)な代物(しろもの)と言えよう。であるからこそ逆に、その働きと言われる出来事をギリギリまで見極め、一つずつ丁寧に言葉にしていく必要があるのではなかろうか。いや、求道者としてはそれ以上に、何とかしてそうしてほしいのである。「夜、ベッドに体を横たえていたら、突然、心に迫ってきたのです」だとか、「〜さんと話してたら、胸が熱くなって、ドンと押出されるような気がして」だとか、あるいはまた「どうもうまく言えないんだけど、大きな恵みに包まれてるような感じかな」だとか・・・。それはそれで、どれもが入信の秘というか、言葉では表現しえないものとして有うることだと思う。けれども、ぼくはやはり、どこか肩すかしを食ったようなあの時の余韻が忘れられないのだ。それは、その姿勢の誠実さと深さとのゆえに、ぼくが尊敬する作家だったからなおさらなのかもしれない。真摯(しんし)なクリスチャンとして、正篇で人間の奥深い本質を見事に描き出された作家である。が、後年、続篇として書かれたそれでは、最後の最後に思いがけない仕方で結末を締括(しめくく)られた。つまり、夕光に染まって真紅に輝く流氷を、主人公が目(ま)の当りにする。その時、苦悩の中にあった主人公は人間を超えた者の意志を感じ、赦(ゆる)しということを信じられるようになるのである。「流氷が! 流氷が燃える!」「そう思った瞬間、・・・キリストが十字架に流されたという血潮を、今目の前に見せられているような、深い感動を覚えた。それは、説明しがたいふしぎな感動だった」「先程まで容易に信じ得なかった神の実在が、突如として、何の抵抗もなく信じられた」。その間のくだりである。たしかに、何とも言いがたい感動を誘われる筆致(ひっち)ではある。しかし、「説明しがたい」「突如として」で事が決着するとなると、ぼくのような求道者にとってはやはり、肩すかしの感が否めない。信仰に秘儀的な、不明な部分が残るのは理解できる。けれども、それにしてももう少し、イエスの人となりやそれが持つ信仰的意味合について知りたいのである。そして、「あなたはそこからなぜに、どのようにして神を信ずるようになったのか」と、少しなりとも丁寧で分りやすい言葉を聞きたいのである。ブラックボックスの内側についてである。はたして、我儘(わがまま)で贅沢(ぜいたく)な願いだろうか。

 

 自然界の未知を通して、信仰者の姿を通して、教会の交わりを通して、信仰というものに目を開かれる。たしかに、そうしたこともあるにちがいない。しかしながら、それらがもし、イエスという存在の薄いところで起るとしたなら、聖書的な信仰の中核の部分がどこかであやふやになり、時に危うくさえなりかねないのではなかろうか。と思うからこそ、聖書の神を探り求めるぼくは、イエスについてまだまだ知りたいと願っている。イエスに触れ、ブラックボックスの中をかいま見て、そしてできれば、聖書の神というものに出会いたいのである。



 第2の「学際的な対話」というのも、これと無縁ではない。より具体的に言えば、キリスト教学の中の「聖書学」と「神学(教義学、組織神学)」の関係である。なぜなら、ぼくが講演などで聞いたり著作などで読んだりするかぎりにおいてだが、これら両者の間にはえも言われぬ溝があるように感じられるからだ。それがどこから来ているのか、研究の手法に由来するのか、それとも歴史的な背景や、はたまたそれら以前のある種の態度に起因するのか、ぼくにはよく分らない。がいずれにせよ、片や歴史のイエスを探求し、その原像に迫ろうと、(いわば下からの)草の根的アプローチをしている(聖書学)。それに対し、もう一方の片やは神という大前提から出発し、この世界でその使信(ししん)を現実化しようと、(いわば上からの)啓示的アプローチをしている(神学)。そのようにして、一方は(論理を超えたような)信仰についてはあまり語ろうとせず、また一方は(大前提たる神を信ずるに至った)神認識の因(よ)って来る経緯について進んで語ろうとはしない。とすれば、ここにもまさに、前述の「証し」のところで述べたと同じブラックボックスが存在しているのではないだろうか。歴史のイエスと(その)神との間に横たわる、深遠なるブラックボックスである。

 

 そもそも、学的研究と言われるものには、(分野を越えて)その手法や論理の進め方に基本的原則というのがあるはずである。少々難解な用語になるが、「帰納(きのう)」と「演繹(えんえき)」というそれである。「帰納」とは周知のとおり、具体的な諸事象から一定の結論を導き出し、それを法則や命題としてまとめること(いわば「下から上へ」)。他方、「演繹」とはこれと逆に、普遍的・一般的な原理、法則、命題から、個々の事柄について一定の結論を推論すること(いわば「上から下へ」)である。つまり、これに照すと、聖書学のアプローチは帰納的傾向が顕著なのに対し、神学のそれは演繹的傾向が強いということである。そこにはもちろん、両分野の特質上、致し方ない部分もあろうかと思う。しかし、それにしても、ということなのだ。それにしても、両者は全く切離されて存在しているわけではあるまい。なぜなら、少なくとも聖書を基盤とするキリスト教であるかぎり、この地上を歩いて生きたイエス(聖書学のメインテーマ?)とそのイエスを通して示された神(神学のメインテーマ?)とは決して無縁・無関係でないはずだからである。

 

 持って回ったような言い方はもう不要かと思う。要するに、片や聖書学に携る方々にお願いしたい。イエスの原像を探って後(のち)のご自身の信仰を、(たとえ、それが学的対象たる客観的物言いを超えるものであったとしても)それに繫る経緯をも含めて(実存的に?)語り、ぼくらにそれを聞かせてほしいのである。少なくともキリスト信者であるなら、それはできないことでないだろう。と同時に、神学に携る方々にもお願いしたい。神の啓示を語るに先立って、ご自身がそれを信ずるに至ったその前の経緯について語り、ぼくらにそれを聞かせてほしいと思う。その両方が語られ、その両方を耳にした時、互いの学際的対話が始り、双方の溝が埋ってゆくように思われる。帰納と演繹のリンクである。そして、ぼくら・求道者もその両方を聞とって初めて、また一つ、ブラックボックスの闇に光が射(さ)すように思われるのである。



 以上が今回、本エッセイで取上げ、課題として投かけ、期待としてお願いしたかったことである。証しと学際的対話という2つの点から論じたが、問題は共通しており、同じ一つのことと言えよう。詰まるところ、(伝統的な)キリスト教において信仰を語るというのは、本質的にはこれまで述べてきたブラックボックスを語るということではないだろうか。であればこそ、ぼくはクリスチャンの皆さんにこう尋ね、こうお願いしたいと思う。

 

 信仰者の皆さん、あなたはイエスに触れることで、何が・どこで・どうなって、その神を信ずるようになられたのですか?

 あなたのそのブラックボックスの秘密を、どうか聞かせてください。

 

 

 ©綿菅 道一、2017

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