「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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ぼく(ら)の聞きたい説教(1)-聖なる睡眠導入剤?-

2018年01月05日 | 説教

 


「ぼく(ら)の聞きたい説教」(1

—聖なる睡眠導入剤?—

 


2017年の今年も、残すところあとわずか(ぼくはこのブログのエッセイをアップ月直前の月末に書くようにしているので、新年1月分のこれを書下している今日は暮れも差迫った1230日で、2017年もあと1日である)。今年も、というか今年はと言うべきか、いろんなことがあった。冷静な知性や理性を置き忘れた動物的な——と言ったら、それこそ動物たちに失礼だが——輩(やから)が欲と利害と駆引きの情に身を任せて、命やいのちを弄(もてあそ)ぶ愚行を繰返した。知性も理性も、人間はそもそも大切なものを大切にせんがためにそれらを育み、それらを生かしてきたはずなのに、国の内外を問わず、そうした本来の人間らしさが影を潜めつつあるように思う。私事においてもまた、今年はいつになく落着かない一年だった。ぼくも70歳の大台を越えて、早2年。72ともなると、近しいあの人この人に先立たれ、寂しい別れを強いられるのは世の常と言えば言えなくもない。とはいえ、そのだれもがかけがえのない、たった一人の人。どれもがただ一つの命。なんと侘(わび)しいものなのか。そのようにして、ぼくはこの年、いつにも増して「命」というものについて考えさせられ、「いのち」ということについて、思いを深く巡らすところとされた

 

 そして、ぼくらはあと少しで、2018年の新しい年を迎えようとしている。そうであればこそ、ぼくはここでいま一度、この自分が何を求めて教会を訪ね歩いてきたのか、何を探してそこになおも足を運んでいるのか、その理由の根っ子に目を据えたいと思う。そして、そこから、(いまだ “キリスト教シンパ” に留まっている失礼と無礼に寛大なお許しを願いつつ)その大本(おおもと)たる一つのことについて(真面目な)シンパなりの感想と意見とを記させていただきたいと思っている。なぜなら、自分のを意味あるものとして納得のゆくいのちを生きるために、それはこのぼくにとって大事なガイドだったし、今もなおなくてならぬ日毎の糧(かて)であり続けているからだ。 




 それは、生きる道を求めて教会に通っておられる人ならすでにお察しのとおり、礼拝であり、そこで語られる説教であり、それらの実存的な重さということである。今回こうして書留めようとしていることは、ぼく(ら)の周辺ではそれなりに市民権を得ている見方かと思う。「ぼく(ら)の周辺では」と言ったのは、この「ぼく」やこのぼくと「付合いのある人たち」という意味である。したがって、その範囲には当然ながら、ある種の「限定」が付く。すなわち、(これは大事な点なのだが)それぞれの見解は一様でないとしても、ものを考える際の目の据え所が似ていて、事を本質的な視点から見詰めて吟味しようとする傾向のある者たちである。そうした「ぼく」及び「ぼくと交流のある人たち」は、年齢的には30代後半から上は80代までが主(おも)で、男女別では——ぼくが男ということもあってだろう——男性が多い。そのような限定が付くものの、しかし、そのぼく(ら)の間では「教会」というものに向ける視線にある種の共通項があるように思われる。つまり、ぼく(ら)が教会に関心を寄せるのは、そこで読まれる「聖書」というものが一体どんなもので、そこにどんなことが書かれているのか、それを知りたいからであり、それが「説教」というものでどのように語られ、それを聞くいわゆる「信者」と言われる人たちがどのような生き方をしているのか、それを見たいからなのだ。なぜかと言えば、ぼく(ら)の考えるところでは、教会が依って立つのは「聖書」というものにであり、教会に足を運ぶ信徒たちはそれが語られる「説教」というものに生き方の指針を聞かんとしていると推測しているからである。

 

もちろん、人が教会に行くのはそんな真面目くさった辛気(しんき)臭い理由からだけでないのはこのぼく(ら)だって知らないわけではないし、それが悪いとも思ってはいない。けれども、教会について少しばかり理屈っぽく(哲学的に?)考え、生の支柱をそこに真剣に探ろうとする者にとっては、枝葉のようなあれこれでなく、すべての核となる中心的なものに目を引かれるのは至極(しごく)当然なことではなかろうか。そうでなければ、生業(せいぎょう)に追われて週日を走った後、貴重な休日の時間を割いて、朝から1時間も2時間も(往復の車中も入れたら、時間も時間も?)無為に外出などをするだろうか。少なくともぼく(ら)のような類いは、単なる社交や歌声や会食のために、あるいは気晴しや気分転換のために日曜の朝の価値ある時間を犠牲にしようとは思わない。ぼく(ら)はたしかに、限られた人種かもしれない。ただし、——近年、教派を超えた現状のようだが——現在の教会にいわゆる「(3050歳代の)壮年層」が少ないとしたら、それはまさしくぼくが親しくする年代に重なるものだし、その理由の一つとして今述べたようなことがありはしないかと、ぼくはそう感じるのである。これがもし的を得たものなら、教会のこの先に多大な影響を及ぼすのは確実で、容易に看過しえないところではないだろうか。つまり、教会を教会たらしめている、その本質的な「中身」の問題である。それが見えないと、ぼく(ら)のような者たちはどこか別の所に生の支柱を探さねばならなくなるし、社会の第一線で働く3050代の男性もいよいよ、教会から遠ざかって行くように思われる。

 



 ということで、(教会の中にいる教会員ではなく、いわば外からその有り様を見ているぼくらのような者たちにとって)それを何より分りやすく示してくれる「(礼拝の)説教」というものについて、今月から数回にわたり、ぼくの考えるところを記させていただければと思う。ぼくは言うまでもなく、牧師でもなければ説教家でもなく、そもそも教会のメンバーでもない。したがって、これから述べることにはどこか的外れで要領を得ないところがあったり、もしかすると、見当違いの誤りもあったりするかもしれない。なので、以下は「キリスト教シンパの説教随想」とでも考えてくださって結構である。ただ、一つだけ、半身でなく正面から受止めてもらいたいのは、これから記すことは上に述べた「ぼく(ら)」のような者たちがいろんな説教に触れて正直感じるところであり、深く考えさせられるところだということである。そんな説教論から、2018年のエッセイを始めたいと思う。聖書の説教が教会の出発点だとすれば、新しい年に踏出すのに、これもまたふさわしいのではないだろうか。

 



  「端書き」とも言うべきその第1回目を、ぼくは、巷で一時(いっとき)話題になった談志師匠のあの話から始めようと思う。談志師匠とは、かの有名な落語界の風雲児「7代目(自称5代目)立川談志」である。その談志師匠が19981217日、長野県飯田市伊賀良地区の「伊賀良寄席」で起した事件(?)である。事は、観客約250人で満員札止めとなったその寄席で起った。談志の演目中に、一人の男性客が居眠りをしたという。お酒が入っていたようだが、場所も悪かった。会場の中央部で、椅子席最前列の真ん中。なんと、師匠と真向いの席だった。談志師匠は「おとうさん、寝ちゃって大丈夫かい」と話しかけたり、ジョークを次々と繰出しては、その客を起そうとした。しかし、ついにプッツン。溜め息をついて、「やる気なくなっちゃったよ。休憩します」。高座を降りてしまったのである。事件は「落語を聞く権利の侵害」云々で裁判沙汰にまでなり、結局は師匠の勝訴で終ったが、ちょっとした話題になった。「プロが客の態度で一々キレてたら・・・」とか、あるいは「寝た客を起せないのは、その芸が未熟だからじゃないの? もう少し謙虚でないと」とか、そんな声もあるかもしれない。だが、談志師匠の心中については、さして想像に難くないだろう。名人芸の傑作「芝浜」などを聞くにつけ、師匠の高座からは、単なる話芸という域を超えた実存的な没入感さえ感じられる。それは時に、鬼気迫るような独特の真剣勝負を思わせる。そんな談志師匠であれば、こんなふうに思ったとしても不思議はないのではなかろうか。「おれが命削って、こうして死に物狂いでやってんのに、おめえさん、寝てやがんのかい」と。落語のスタイルにはもちろん、様々ある。そして、そのどれもがなかなかおつなものである。ぼくがここで言いたいのはしかし、そういうことではなく、高座で語る談志師匠の体重のかかったその姿であり、その姿勢である。

 

 翻(ひるがえ)って、話を本題の「(教会での)説教」に転じることにしよう。そこで(いつもとは言わないものの)そこそこよく目にする光景に、聴衆のこんな姿がある。これもまた教派を超えた現象のようだが、牧師の説教が会堂に響くなか、いかにも気持ちよさそうにスヤスヤと寝入る人たちの姿である。普通は、2人か3人。だが、その数がたまに3分の1を超す時もある。説教がBGMのように心地よく聞えるのだろうか。しかも、さすがに滅多にはないが、説教をしている当の牧師自身が次のように言って、これに言葉を足すこともある。「説教で寝てくれるなんて、皆さんに安らぎを与えられて、牧師として嬉しいことです」。これははたして、冗談なのか皮肉なのか。はたまた、自虐的な卑屈なのか。真意はそれこそ、その折の文脈を見なければ分らないが、いずれにせよ、その場にいわゆる「緊張感」が感じられないのは確かであろう。その原因が説教をする側にあるのか、あるいはそれを聞く側にあるのか、これもまた、その時の状況による。しかしながら、ぼく(ら)のような堅物(かたぶつ)がそうした所に再び出かけることは、まずほとんどないと思う。

 

 要するに、ぼく(ら)は暇を持て余して出かけるわけではないのだ。(全員が、とはもちろん言わないが)かなりの部分がそれなりの求道心を持っているし、深刻な問題意識を抱えて、それこそ一期一会的な出会いを求めてそこにいることもある。だから、出かける以上は当然ながら、そうするにふさわしい価値ある時を持ちたいと考えている。実のある時間ということであり、それが教会という場であれば、言わずもがな。礼拝で聖書について語られる「説教」というものがどれだけ中身のあるものか。それが、ぼく(ら)のような類いには、まずは第一の関心事となる。そこでの出会いがあるかどうか、である。おまけのあれこれも悪くはないが、まずはそこに——俗な言い方で不謹慎だったら、お許しいただきたい——ぼく(ら)の「コスパ(コストパフォーマンス)」感覚とでもいうようなものがあると言えようか。

 



 実際・・・と書進んだところで、とうとう年が明けてしまった。晦日(みそか)に急な仕事が入ったせいで、今回のエッセイは「年越し」の労作(?)になってしまった。——ということで、以下は、年明けの正月三箇日以降に続けさせていただきたい—

 

 マスコミでも広く話題に上(のぼ)ったのですでにご存知かと思うが、昨年の8月に出版されるや、あれよあれよと言う間に60万部、70万部と売上部数を伸ばした漫画がある。吉野源三郎氏の名著の翻案で、原著の新装版共々、引き続き異例のベストセラーになっている。「君たちはどう生きるか」という漫画であり、本である。実際、——というところで、旧年の前文に続くわけだが——その名著のタイトルを借りれば、「君たちはどう生きるか」と問いかけるもの。そして、「ここに人生の真理があり、本当のいのちがある」と指示すもの。それが聖書であり、その聖書が教会の土台だとしたら、それについて説く「説教」というものが緊張感の欠けたものでありうるだろうか、と思わされるのである。説教をする者は、その限りにおいては——鬼気迫る必要はないにしても——落語に後塵を拝するようなことはできないだろうし、そこにかける体重において、談志師匠にけなされるわけにもいかないのではないかと思われる。と同時に、聞く方もまた、説教で心を緩めてボーッとしたりスヤスヤと寝入ったりというふうにはならないはずだし、礼拝が終った途端にお目覚め、そして元気全開というようにもならないのではないだろうか。

 

 つまりは、いのちに不可欠な事柄を、説教者はそれに見合った備えと姿勢で語り、会衆はそれにふさわしい備えと態度で聞くということ。どちらももちろん、聖書が前提の話だが、ぼく(ら)は結局、そのような言葉から生きる指針を聞取り、そのような態度から生きる姿を学び取りたいのである。「説教」というのは、ぼく(ら)にとっては、——深い意味で真の休息を与えてくれるものだとしても——単なる睡眠導入剤ではありえない。(実際にそうせよというのではなく、想像してみたときに、ということだが)いろんなものが削落されたそのとき、はたして、礼拝とそこで語られる説教にどれだけの人が引寄せられて、そこに集うだろうか。そこに、大切な問いが隠されているように思われる。

 

 以上のようなことを踏まえ、この後、引続き(おそらく)回にわたって、もう少し具体的な仕方で「キリスト教シンパの説教随想」を記させていただければと思っている。それらは、例えば説教の生命線と思われる諸要因についてであり、その動機とそこにおける聖書の使用法についてであり、またその担い手や教派性について、さらには説教というものの広がりやその言葉の変化についてといったようなものになるかと思う。いずれにせよ、いわば一つ外の輪にいる(多少理屈っぽい)求道者が説教というものに触れて考えているあれこれを思うままに短く、しかし正直に真面目に分ち合うものである。その意味で、これを読まれる方々も、内容的な賛否は賛否として結構。けれども、記す事柄については真っすぐ受止め、誠実に考えていただきたいと思う。




 次回、本論に移る前に、終りに一つだけ、俗説の誤りについて述べておきたい。その俗説とは、しばしば耳にするこんな物言いである。「説教は短いほどいい。人が集中できるのは、せいぜい10分前後だから」。俗説というのは、心理学などを多少なりとも正しく学んだ者なら、こうした言い方は決してしないからである。(心理学等の)科学的な学をきちんと学んだ者であれば、——それがたとえ「かじった」程度のものであっても——事を無条件・無前提に決めつけることはしない。詳しくは省くが、学を学んだ者は常に次のように言う。「かくかくしかじかの環境下(=状況下)、かくかくしかじかの条件のもとで、かくかくしかじかの刺激(=情報等)を与えたとき、かくかくしかじかの反応(=結果)が生じる」。つまり、例えば説教等のスピーチ関連で言えば、(影響因はいくつも考えられるが)少なくともその内容が聞く人にとって意味あるものか、それとも無意味なものか、それが大きな要因(条件因)となって、聴衆の集中力や持続力を左右することになる。心理学ではこれらを「有意味刺激」「無意味刺激」などと呼んだりするが、難しいことではない。幼児が1時間も好きな番組に見入ったり、小学生が何時間もお気に入りの本に没頭する。似たような光景は、視聴や読書以外の分野でも容易に思い浮かぶのではないだろうか。そして、片や5分で寝入っている礼拝の説教と、片や40分、50分を超えても聞入っている礼拝の説教。問題は単に、時間の長さだけではないのである。

 

 であれば、単なる時間の長短に増して、説教の内容自体と会衆の内面にまずもって目を据えることが必要なのではあるまいか。そこで吟味され、深められ、研澄まされた説教を聞くことができたら、と聞く側の身勝手な願望を膨ませている。実際、内容が重要であればあるほど、しかるべき時間が必要になるのは言うを待たない。そうでないと、聖書の理解がやはり、感覚的で浅薄なものに留まり、深く的確な読取りが培われないように思う。

 

 要するに、説教を真剣に思うところにはそのような人たちが引寄せられ、そうでないところには、それ以外の引力に引寄せられる人たちが集るということだろう。そして、それはすなわち、聖書に対するそれぞれの教会の思いの丈を象徴しているように思われてならない。だからこそ、それは、そこにいかなる教会を建てようとしているのか、そのことに直結することになる。ぼく(ら)は、しつこいようだが、聖書というものが一体どんなもので、そこにどんなことが書かれているのか、そしていわゆる信者と言われる人たちがその聖書をどのように生きようとしているのか、それが知りたくて、またそれが見たくて、礼拝に出向き、説教に聞入るのである。

 

 

 *キリスト教に関する気になる文章を2

 

  (渡辺善太)先生は決して、一般受けのする人生論を語ったりはしない。先生のお話はいつも原理が核となっていることを感じる。そして、お話の土台は聖書である。・・・聖書一巻の中にさまざまに描かれてある〈具体的実相〉によって〈指し示される原理〉こそがキリスト教の本質なのだ、と私は気づくようになった。・・・その説教を通じて学んだ先生の聖書解釈のあり方は、私にそのことを教えてくれたと思う。

 渡辺先生は大変に話術に優れたお方で・・・先生のお話はある意味では非常にむずかしいのだが・・・お話が終わった時には、私はいつも軽い陶酔からゆっくりと抜け出る満足感を覚えた。

  〔しかし〕牧師の話が面白いから聴くということではいけない、牧師の〈人間〉に惹かれるのはまちがいだ、〈人間〉にだけ惹かれることはつまずきのもとだ、人を見ず、その指し示す指の先を見よ、と先生は常に言われる。私は・・・先生がつくりだす磁場のとりこになって満足感を味わい、それで事足れりということになってはならないと思った。先生が指し示しておられる、先生を〈超えたもの〉をもっとよく見たい、と願った。

——元・銀座教会牧師、故・渡辺善太(ぜんだ)氏の説教集を編集した牧野留美子さんの言葉

 

 キリスト教の伝来から現代までの500年余を概観した通史。キリスト教が日本の文化や教育、社会運動に与えた影響の大きさを痛感。

——『日本キリスト教史』(鈴木範久著、教文館)を評した、文芸評論家・斎藤美奈子さんの言葉

 

 

©綿菅 道一、2018

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