「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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「イ」音の後退と「かな」「とは」の拡散-言語文化に見る時代精神点描-

2020年11月06日 | 文化

 

 

「『イ』音の後退と『かな』『とは』の拡散」

—言語文化に見る時代精神点描—

 

 前回から大分、時間が経ってしまった。それにはそこそこそれなりの理由があるのだが、その点については最後に短く触れるに留(とど)めたい。ぼく自身の中でいまだ、事の見極めがついていないからだ。しかも、それが仮に現下のキリスト教会の一般的風潮だとしたら、事は些事(さじ)とは言えず、なおさら軽率に論じることはできない。ということで、今回は一般社会での現象を中心に考察し、諸教会へのその影響如何(いかん)については、懸念される可能性の推測として、終わりにひと言 言及するのみでお許し願いたい。

 さて、物書きを生業(なりわい)とするぼく(ら)には、日常使いの言葉のことで、ここ十年来 気になって仕方のない現象がある。日頃から何かにつけ耳にし目にしてきた変化なのだが、それが疑うべくもなく、年を追って顕著になり続けている。そこで、それをいま一度 確かめようと、それだけのために先日 半日以上かけて、テレビ各局の番組をはしごした(ぼくも暇だねぇ)。すると、やはりそうだった。紙幅の関係で長々と書き連ねるわけにもいかないので、代表的なものをパターン化して列挙すると、つまりはこういうことである(パターン、一例、コメントの順で記載)。ちなみに、今回の要所をハイライトするために同様のコメントを繰り返してあるので、適宜、飛ばし読みで読み進めていただいてかまわない。

 

*テレビ番組からの聞き書き(20201016日)

・〜に → 〜と

  「〜というコースなる」

  「調整が課題なりそう」

  「傘が必要なくらいなりそう」

 音的にきつい響きの「に」(=「イ」音)がソフトなそれの「と」(=「オ」音)に変化。このパターンの「に」は昨今、ほぼ消滅し、「〜と」がこれに取って代わっている。

・〜に → 〜を

  「その話聞き入る」

  「面白い店立ち寄る」

  「主人背く」

  (当然のこと、今後 変化を遂げる可能性はあるものの)目下(もっか)の一般的言語状況からすると、文法的に誤り。

 音的にきつい響きの「に」(=「イ」音)がソフトなそれの「を」(=「オ」音)に変化。

・〜に → 〜に → 〜とは

  「〜ではダメということになってしまう」

  「地域的に雨模様の所もあるでしょう」

  「難しい状況とはなってしまっている」

 音的にきつい響きの「に」(=「イ」音)がソフトなそれの「と」(=「オ」音)に変化。

 クッション効果をもたらす語と語数そのものの追加(この場合は、いずれも「は」)で、全体のトーンが軟らかく。なおかつ、ソフトな語調のそれ(「は」)が一層、これを後押し。

 文脈上、無意味で不要な場合にも「は」を追加。「は」の有る無しで表現の意味合いが違ってくることに気づかず。ニュアンスの相違感が消失し、平板な一様化に。

・〜と → 〜と ; 〜と → 〜と → 〜かなと → 〜かな

  「〜したほうが良かったんじゃないかと思いますけど」

  「素敵な句かな思う」

  「満足してくれればいいかな思っている」

 クッション効果をもたらす語と語数そのものの追加(この場合、「は」「な」「かな」「かな_は)で、全体のトーンが軟らかく。なおかつ、ソフトな語調のそれらが一層、これを後押し。

 文脈上、無意味で不要な場合にも「は」「な」「かな」「かな_は」を追加。それらの有る無しで表現の意味合いが違ってくることに気づかず。ニュアンスの相違感が消失し、平板な一様化に。

・〜かなってというところも(〜かなって)、かなってという部分も(〜かなって

  「なんでかなっていうところもあるんじゃないか」

   「〜かなっていう部分もあるんじゃないかなって思ってます」

 文脈上、無意味で不要な場合にも言葉を重ねる。言葉の追加による長文化で、全体のトーンが軟らかく。

 加えて、追加語がクッション効果をもたらすソフトな語調のため、それらが一層、これを後押し。

 以上が今回問題する—あれまぁ、このぼくも「イ」音が「オ」音に変わっちゃってる!—ポイントに直接関係する言い回しだが、気づいたものだけでもご覧のとおりである。テレビ一つとっても、ほんの半日余の間にこれだけの数(全局を完全に網羅すれば、もっと多くなるにちがいない)の類例が聞こえてきた。まさに社会を席巻(せっけん)しつつあるのではなかろうか。そこに、言語文化論的に何を見るか? そこに見る、いわば「今この時の "時代精神"」とも言うべき意味合いについては追ってすぐにも述べることして—分かったかな、「イ」音をそのまま使ったの—、ついでながら、これまでのものと機能的に似た言い回しをもう幾つか書き出しておくことにしよう。昨今、巷(ちまた)で流行(はや)りのこんなのはいかがだろうか。

・〜とか

  「被害を受けた人とかはまだいるかも」

 文脈上、無意味で不要なときにも追加。「とか」の有無で元来、ニュアンスに相違が生じるにもかかわらず、それが消失し、平板な一様化に。

 ソフトな語調の語と語数そのものの追加によるクッション効果で、全体のトーンが軟らかく。

・〜たり→〜たりとか

   「得体の知れないサイトに変わったりとか

  「湘南もあったりとかしますからね」

  「たり」と「とか」は共通の意味合いを持つ二語。にもかかわらず、文脈上、無意味で不要なときにもそれらを重ねて使用。語調のソフトさと語数の増加によりクッション効果が生まれ、全体のトーンが軟らかく。

・〜みたいな、〜(の)かも(しれない)

  「ただで貰(もら)えちゃったりみたいな

  「どういう連絡をしますかみたいなことを」

  「検査体制を確認しておくのがいいのかもね」

 明白かつ当然なことでさえも明言を避け、婉曲的(えんきょくてき)に言及。言い切り的に響かせないことで、トーンをソフトに軟らかく。

・〜ある→〜ある

  「切断されて遺棄された疑いある」

  「〜を回避する狙いある」

 状況の推測時、可能性の選択肢として最たるものには「〜が」を当てるのが文法的にも慣習的にも通常で適切。それを「〜も」に置き換え、事の特定化を避ける傾向。推定の誤認に備える、先回りの防衛策か? いずれにせよ、可能性の余白が拡大することで、表現のトーンは軟らかに。

・〜感

  「スピードをもって」

  「〜というスケジュールで」

  「ちゃんとソーシャルディスタンスをとっていたので」

 ほぼ不要か もしくは全く無意味で不要な場合にも「感」を追加。語調のソフトさと語数の増加によりクッション効果が生まれ、全体のトーンが軟らかく。

 初めに「長々と書き連ねるわけにもいかない」と言っておきながら、長々な列挙と似たコメントの繰り返しになってしまった。お許しいただきたい。ただ、そうする必要があったことも初めに述べたとおりである。

 ならば、以上の類例から明らかに見えてくることとは何なのか。今回の要所としてハイライトされるべきは一体、どんな点なのだろうか。それは—皆さんもすでにお気づきかと思われるが—、要約すれば次のような特徴であり、変化である。すなわち、上記の列挙から見て取れる昨今の言語的特質とは、

・音的にきつい響きの「イ」音がソフトなそれの「オ」音に変化

・クッション効果をもたらす語の追加

・類義語の重ね使用

・語数そのものの追加

・直截(ちょくせつ)でない婉曲的(えんきょくてき)表現の増加

・特定化を避ける、余白を残した言い回しの増加

ということではあるまいか。今回、タイトルを「『イ』音の後退と『かな』『とは』の拡散」としたが、ぼくがこのタイトルで言わんとしたのは要するに、こうした言語情況の全体である。実際、これらはかなりの確度で拡散しているように思われる。

 とするなら、次に問われるべきは、こうした言語現象がはたして何を意味しているのか、ということではないだろうか。しばしば耳にする評論に、粗雑な暴論とも言うべき乱暴なものがある。曰(いわ)く、「言葉ってのは時とともに変わるもんなんだから、ああだこうだととやかく言うことないんだよな」。たしかに、言葉は時とともに、時代とともに変わりゆく。しかし、だからといって、それらの変化に何の兆しも見て取ることなく、そこに何らの意味合いも感じ取ることがないとしたら、それはやはり、感性の貧困を物語っていると言わざるをえまい。なぜなら、言葉というのはそれを生み出す者(たち)がいて、その内に存する何がしかに根を持って、そこから発せられるものだからである。ぼくらはそれを、(意識するとしないとにかかわらず)それぞれの時代情況に反応しつつ、言葉という形に具現化しているのである。それは決して、成り行き任せの無意味な現象ではない。そこには、各個の評価は別にして、それを生み出す内的特質がある。言葉は言葉であって、しかし単に言葉に非(あら)ず、ということか。

 表現の具体は若干違うが、これに通ずる同様のことを、日本語学者としてつとに著名な金田一 秀穂(きんだいいち・ひでほ)さんが語っていた。知る人ぞ知る日本語学者の家系に生まれ、国内外で日本語について論じてこられた その道の第一人者である。ぼくなんかよりはるかに説得力があるのは言うまでもない。実は、その金田一さんのことを、ぼくは当初、言葉の変容に随分と寛容な好好爺(こうこうや)学者のように感じていた。けれども、そんな金田一さんもここに来て、どうやら寛容の限界に立ち至ったみたいだ。「耕論:にほんごをまなぶ」(『朝日新聞』20191114日、朝刊)から引用しよう。

 

 言葉とは、常に移り変わりゆくものです。時代によってその意味や使い方が変わることは避けられません。・・・

   「食べさせていただきます」や「コンビニさん」といった過度な言葉の「丁寧化」が最近目立つのは、円滑な人間関係を維持するための知恵ではないかと感じます。こうした変化は、言葉が「生きている」証拠といえます。

 日本語の「やさしさ」や「わかりやすさ」の追求もこうした変化の一環ですが、〔しかし〕私は疑問を感じます。・・・言葉は、やさしくなり、分かりやすくなりましたが、思考の深みはなくなりました。

 言葉は通じればいいというコミュニケーションの道具である以前に、私たちが考えたり、感じたり、判断したりするための道具です。

 多くの語彙(ごい)、複雑な言葉があるからこそ、すぐれた政治や哲学を作り出すことができるのです。

 難しい言葉は敬遠し、ただ「やさしさ」を目指す。こんな「やさしい」日本語が広がってしまうと、日本人の思考力や感受性がおそろしく粗雑で雑駁(ざっぱく)なものになってしまうでしょう。

 

 今日(こんにち)の言語文化に対する金田一さんの批評であり、そこに見られるこの時代の精神文化に対する批判と言うことができよう。そしてぼくは、金田一さんのこの論評を的確で適切なものと思っている。

 そこで、類似の観点から先の用例をさらに深く吟味してみると、言葉の背後からどんな思いが浮かび上がってくるだろうか。ぼくの感じ取るところ、そこには以下のような心的特質が存するように思われる。用例の言葉を生み出している心理的・心情的動因と言えようか。これもまた要約的に記すと、

・きつさを避け

・摩擦を回避するため

・緩くて含みの多い言い回しをし

・トーンをソフトに軟らかくする

ということである。そこで多用されるのが いわば「クッション語」「潤滑語」「婉曲語」「多義語」とでも呼ぶべき言葉や言い回しの類いで、これにより、当該の印象はたしかに軟らかくソフトにはなる。それはきっと、善意に解すれば、人間関係を円滑にし、ギスギスさせないための知恵であり、工夫なのだろう。だとすれば、それはそれで必ずしも悪(あ)しきものとも言えない。しかしながら、それと表裏の関係で、そこにもしも同時に次のような動機が潜んでいるとしたら、それは少なからず懸念を抱(いだ)かせる。ぼくの見るところ、言葉を発している当の本人もそれに気づかずにそうしているふしが色濃い。おそらくは、時代の空気のようなものがそうさせているのだろう。

 動機というのはすなわち、次のようなものである。

・和を重んじ、摩擦を起こすのを避けたい。

・自身を明かすことで異論の主(ぬし)との関係がギクシャクし、嫌われるようになるのを避けたい。

・明言することで責任が生じるのを避けたい。

・心の狭くない出来た人間と見られたい。

 このようなぼくの推論には、もちろん、ぼくの身についた目線や思い込みが作用している部分もあるかと思う。けれども、それなりの観察を踏まえたものである。客観性と無縁、とまで言う方はおられまい。だとして、多少なりともそこに妥当性があるとするなら、それなりに懸念を抱くのもあながち的外れではないだろう。ぼくが危惧するのはこういうことなのだ。

・事の重要さや明白さを脇にやってでも、異論の出ないことを優先する。

・言い回しの違いによるニュアンスの相違が失われ、表現の一様化と意味内容の平板化が進む。換言すれば、微妙な表現の差異が看過され、各個に付随する重要な意味合いを感受する感性が失われる。

 そのようにして、総じて、

・事が緩くなり、

・中身が希薄になり、

・思考が浅く停滞するようになる。

 また、総じて、

・対話が深みを失い、

・絆(きずな)が浅薄化し、

・関係の基盤が弱体化する。

 そしてゆくゆくは、

・責任回避の保身的空気が広がりはしないか?

ということである。

 ちなみに—これは蛇足かな?—、七十有余年に及ぶ自(みずか)らの経験からするとき、曖昧語やクッション語、回避語、保身語等々を多用する人間には信頼に足る人物があまり多くなかったように思われる(「そりゃ、あんたの勝手な思い込みだよ」と言われたら、そうかもしれないが・・・?)。

 こうした懸念と関連し、ここで一人の書家の言葉をご紹介しよう。石川 九楊(いしかわ・きゅうよう)という書家で、書家であれば当然だが、言葉がその題材となる。ただし、この石川さん、ぼくの見るところ稀(まれ)に見る人物で、書の理解はもとより、書という窓を介して視野を大きく広げ、歴史や文化の領域においても鋭く深い分析を行なってきた。そうしてなされた評論は的確なもので、耳を傾けるべき点が多々あるように(このぼくは)思っている。その言葉とは、次のようなものである。

 

 人間は言葉、言葉は人間です。言葉は名詞や動詞の「詞」が核であって、助詞、助動詞の「辞」は補助的なものです。ところが詞が貧弱になって、辞ばかりはびこっているところに、さまつなことにかまけて、本質を問わずに崩れていく日本の文化的状況がある。

 

 つまり、石川さんの説明の繰り返しになるが、「詞」とは名詞や動詞のことで、事柄の中身を語る中心の部分。「辞」はそれらに付属する助詞や助動詞で、中身とは直接関係しない付属の言葉を指す。ところが、と石川さんは言われるのである。ところが今日(こんにち)、ぼくらの間には中身と関係のない飾りの言葉ばかりが溢(あふ)れ、中身を語る「中心の言葉」が失われている。見かけを装うおまけの言葉ばかりが氾濫し、中身を語る「本質的な言葉」が失われている、と。これは、前述の金田一さんの指摘とも相通ずるものと言えよう。そして、石川さんの先見的感性の鋭敏さを思わされるのは、これが1998年の早きに語られたものであるということである(「語る 石川九楊の世界」『朝日新聞』 199818日(土)、夕刊)。22年前である。

 

 はたして何が、ぼくらをこういった方向に向けさせるのだろう? いわゆる「時代精神」と呼ばれるものか。それはこれまで折に触れて使われてきた言葉だが、個人的には、強制収容所の体験を記録した あのヴィクトール・E. フランクルのそれが印象深い。フランクルには、そのものズバリをタイトルにした『時代精神の病理学(Pathologie des Zeitgeistes)』という著作もある。それは一般に、ある時代に支配的な思潮や動向を特徴づける全般的な精神傾向をいうが、それがどこで生み出され、どのように広められていくのか、極めて興味深く、また文化的・社会的・政治的観点から重要な問題と思われる。ここではそこに踏み込むことはできないが、ただ、これまでの吟味でかなり見えてきたのは次のようなことではないだろうか。すなわち、相互の摩擦を避け、自身の安全をも守るため、昨今日本の時代精神がどうやら、内実の議論を脇に追いやる方向にぼくらを導いているらしい、ということである。言ってみれば、燃料のクオリティーは問わぬがまま、ただ潤滑油ばかりを選んでいる工場主といったところか。これがもし当たっているとしたら、待ち受けているのは広範な「貧困化」ということではなかろうか。言葉の貧困化であり、思考の貧困化であり、思想・文化・社会の貧困化である。ひょっとすると、宗教の貧困化も・・・?

 そういえば、俗称「失言防止マニュアル」というのが某公党から出されたのを思い起こした。つい去年の5月だったと思う。発言の内容そのものというより、どうやって失言をしないようにするかという、要するにものの言い方のハウツーマニュアルだ。所属の国会議員や党の職員らに配られたが、隅には「配布厳禁・内部資料」との付記まで付けられていた。

 今回も長くなってしまったが、賢明な皆さんはもう十分に察知してくださったと思う。ぼくが今回言いたかったのは、つまりは常識的なことで、本当は言うまでもないことなのだ。なのに、それをこうしてわざわざ書き出さねばならないということ。それは、今この時の時代精神がそれとは違う方向に向いており、ぼくらの社会を包み込んで、ぼくらをそっちへと誘(いざな)っているようにみえるからである。そうした情況を、ぼくは言語文化から点描し、「『イ』音の後退と『かな』『とは』の拡散」というタイトルで象徴的に表現した。

 中身あっての言い回しだろう。内実あっての見栄えだろう。そして、いのちあっての存在だと思う。そのことをどこかに置き忘れるとき、ぼくらは空虚な閉塞の時空に迷い込むのではなかろうか。

 終わりに、冒頭でお約束の点について短く触れさせていただきたい。このエッセイが前回から久しぶりのものになってしまった理由だが、それはひと言で言うなら、−いまだに信仰の門前をウロウロしているぼくのような者がこう申し上げるのは失礼なことは重々承知しているが、お許しいただきたい−一般社会の現象として上に述べたようなことが実は教会においても生じているのでは、と感じさせられるところがあったからである。先に記したように、今現在、そう明言できるほど、事の見極めがついているわけではない。しかしながら、日常のやり取りのみならず、各種の協議においても、また(ぼくの考えるところ、教会の中心に位置すると思われる)説教においてさえも、似たような兆しが見て取れた。ぼくの見るところ、必要かつ十分な神学的検討を踏まえてのこととも思われない。もしもこれが当たっているとしたら、教会の存在理由そのものにも関わる問題である。そうそう軽率に論じることはできないし、そもそもそんな傾向を感じ取ったぼくの内側でこうした書きごとをするという気持ちが減じたのも事実である。これが、ほぼ一年ぶりのエッセイとなってしまった偽らざる理由である。

 キリスト教会というのは、社会の時代精神を後追いし、その流れにただ追従するだけのものではないはず。そのようにして、自身の信ずるところをぼやかし、その立場を曖昧にして、誰にも彼にも良い顔をする、といったところではないであろう。「宣教論的に」と言って、実際にはその時々のブームに軽々に便乗し、人数集めの教勢主義に奔走するところもあるが、教会とは本来的には、むしろ時代精神を創っていくべきところなのではないだろうか。基盤たる聖書の読みに基づいて、それをしていくところ。いまだ信者未満のぼくではあるが、それがぼくの理解するキリスト教会である。実際、時代の精神的支柱創りになんらの役割も果たすことができないとしたら、どこに教会の存在理由があるのだろうか。

 

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〔追加のコメントを2つ〕

1. 痛みを避け、優しさばかりを求めるあり方の落とし穴を指摘して、以下の両書が面白い。

大平 健『やさしさの精神病理』(岩波新書 409)岩波書店、1995

森岡 正博『無痛文明論』トランスビュー、2003

2. この数年ですっかり定着したようだが、テレビのキャプションから、句読点(句点「。」と読点「、」)がほぼ消えた。NHKを含め、全局でのことである。入力上の容易さからだろうが、これは日本語の読解力に多大な弊害をもたらしつつある。句読点は単なる便宜的記号ではなく、読解時の把握と理解の固まり(=単位)をも示しているからである。ちなみに、句読点のない文章にそれらを挿入させてみるとよい。読解力のある者は的確に挿入できるが、それが足りない者はそうできない。句読点はぼくらの読み解く力を養っているのである。

 

 

©綿菅 道一、2020

*無断の盗用、借用、転載、コピー等を禁じます。

 

(本ページは、読者の投稿受付けを行っていません)

 

 

 


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