「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


*関連リンク→ BFC バプテスト・フェイスコミュニティー

ぼく(ら)の聞きたい説教(3)ー読解力と説教と:語る側の汗にも同情の思いがー

2019年05月15日 | 説教

 

 

「ぼく(ら)の聞きたい説教」(3

—読解力と説教と:語る側の汗にも同情の思いが—

 

 去年102日(火)の『朝日新聞』(朝刊)「耕論」に、次のようなインタビュー記事が載った。社会的人権の課題として、日本でも昨今、広く関心を惹起しつつある「LGBT」の問題をめぐってである。「LGBT」とは周知のとおり、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーの性的マイノリティーを意味する総称的略語だが、当日のタイトルは「新潮45、揺らぐ論壇」。LGBTを論じた企画で結局、休刊を余儀なくされた月刊誌『新潮45』の事件に関し、3名の論者が持論を展開している。事件そのものについては各位、記憶におたずねいただきたい。何はさておき、(ぼくの今回のエッセイと関連する部分だけの抜粋だが)その一部をご紹介しよう。こんな論評である。

 

 発端となった杉田水脈(みお)氏の論文は、LGBT支援に税金を投入することを問題視していますが、実際にはほとんど使われていない。ファクトチェックを編集部がしていなかったことが信じられません。わしも雑誌で何本も連載を持っているけれど、毎回、本当に細かいことまでチェックされます。腹が立つくらいだけど、言論をやろうとすれば不可欠な作業です。

 最近は、右派言論誌全体を読まなくなってしまいました。見出しを見れば中身がわかるものばかりで、何も新しさがない。昔は違いましたよ。文芸春秋から出ていた『諸君!』なんかは、西尾幹二氏や西部邁(すすむ)氏の長大な論文を載せたり、浅田彰氏を出したりしていて、「そういう考え方もあるのか」と目を開かされることが多かった。

 でも、今はそういう長い文章を読める読者がいない。ネット社会になって、読者が恐ろしく劣化してしまった。書き手も劣化した。長文をしっかり書ける人がいない。読者の劣化と書き手の劣化が、リンクしているのです。

 今の右派言論誌の読者が求めているのは、自分がすでに思っていることの代弁です。そういう読者向けに売ろうとすると、同じことばかりを繰り返し載せる雑誌にならざるをえません。中身は同じで、表現だけがどんどん過激になっていく。だからわしは、右派言論誌よりも、不特定多数の読者が読む一般誌で描くことを選んだわけです。

 それでも、言論誌がなくなってほしくはない。言論や表現の場は広ければ広いほどいい。雑誌がなくなって、言論の場が狭まっていくと、極右か極左の意見しかなくなってしまう。中間の多様な意見が出てこなくなり、どんどん分断が進む。民主主義にとって非常に危険なことです。中間の意見も含めてバランスをとっていくのがすごく大事で、新潮45はそれができる雑誌のはずだったんです。

 休刊する前に、まず今の路線にかじを切った編集長を代え、編集方針を変えると宣言すべきだったと思いますね。少なくとももう号は出して、LGBTの問題をもっと掘り下げるべきでした。いきなりの休刊は、敗北でしかありません。

 

 少々長い引用になってしまった。また、LGBTと『新潮45』をめぐるこの論評が聖書の説教といかなる関係にあるのか、その点についてもいささか怪訝(けげん)に思われるかもしれない。それは追って述べることにしたいが、そもそも、この発言の主は一体、誰と思われるだろうか。「わしも」だとか「わしは」だとか、そんな口調で切り出すのは例のあの人に決まってる、とすでにご推察の方も少なくないと思われるが、そのとおり。「ゴーマニズム宣言」で知られる「よしりん」こと小林よしのりさんである。ちなみに、当日掲載の他の2氏は、自民党現職の稲田朋美さんと旧・民主党元職の松浦大悟(だいご)さん。そして、よしりんの記事には、「読者も劣化、代弁求める」とのタイトルが付されている。

 


 よしりんのこの論評を読んで、ぼくがまず目を惹かれたのは、これまでの印象と異なるその全体的トーンだった。ぼくとはそもそも真逆なスタンスでその主張を拡散していた、とぼくは思っていた小林さんがなんと、ぼくと似たような感覚を抱いている。ちょっとした驚きである。とりわけ民主主義を論じたくだりなどがそれだが、「言論や表現の場は広ければ広いほどいい」とか「多様な意見が出てこなくなり、どんどん分断が進む」とか、はたまた「(それは)民主主義にとって非常に危険なことです」とか。小林さんに対するぼくのこれまでの見方を調整せねばならないのかもしれない。

 たしかに、いわゆる「リベラル」一つとっても、そこには大まかに言って、「保守的リベラル」と「革新的リベラル」の2種類があるという。旧・新党さきがけの代表代行でその理論的リーダーでもあったあの田中秀征(しゅうせい)さんの論だが、それによるなら、個別の問題を前面に押し出し、それらの変革を第一にするのが「革新的リベラル」。それに対し、個々の取り組みの前提として、思想・信条の自由や言論の自由をまずもって重視するのが「保守的リベラル」である、と田中さんは言われる。もしそうだとしたら、いわゆる「左派」と言い、いわゆる「右派」と言っても、それらのある部分に性格を共にする共通項があってもおかしくはあるまい。小林さんの民主主義論はそうした面の現われなのかもしれない。実際、昨今の小林さんはなんと、最も信頼しうる政治家として、立憲民主党代表の枝野幸男(ゆきお)さんを称賛している。ほぼ右翼かとも思われていたあの小林さんが、である。何事にも順応に遅延気味な最近のぼくなどは、頭がグラグラして、目を白黒させてしまう。ただ、国民の内面性に至るまで集権的になりつつある現政権のあり方に対し、小林さんが批判的な立場にあることだけは確かなようである。ちなみにもう一人、元来、自民支持・保守派であったはずの評論家のあの大宅映子さんもまた、近年、似たような言動を見せている。



 少しばかり、本題から逸れてしまった。物書きの困った習性で、放っておくと、ペンがあちらへこちらへと、走るがままに放浪を始めてしまう。本筋に戻って、説教との関わりに話を移そう。

 上に述べた民主主義論は教会との関連で言っても決して周辺的な事柄ではなく、そこで生きられている信仰の質や内実を示す一つの重要なメルクマールとなろう。教会政治や教会管理という日常において、また牧会という日常において、それは露わになってくる。

 ただし、ここでの主題は「説教」である。その説教に焦点を絞って、上記の小林さんの言葉を読み返してみると、ぼくはつまりは、そこで言われている次のような指摘に呻吟させられるのである。「今は・・・長い文章を読める読者がいない。・・・読者が恐ろしく劣化してしまった。書き手も劣化した。長文をしっかり書ける人がいない。読者の劣化と書き手の劣化が、リンクしているのです」「今の・・・読者が求めているのは、自分がすでに思っていることの代弁です。そういう読者向けに売ろうとすると、同じことばかりを繰り返し載せ・・・ざるをえません。中身は同じで、表現だけがどんどん過激になっていく」



 実は、何年か前に次のような場面に出くわし、それ以来、しばしば反芻させられてきた懸念がある。小林さんの発言を目にして、そのことに再度、思いを惹かれたのだった。それは、時々訪ねる東京近郊の教会だが、その教会の礼拝に友人と連れ立って出席した折のことである。そこでは月に一度、礼拝後に時間を設け、当日の説教について感想を交換する時を持っているという。その日もそのようにして、説教した牧師を囲んで、皆の感想やレスポンスが分かち合われた。それは自由で忌憚のないもので、当の説教者にしてみれば「俎板(まないた)の鯉」でなんとも緊張を強いられるだろうが、ぼく的には好感をおぼえる時間だった。ただし、である。ただし、出された意見の質とそれが故にそこに滲んだ説教者の悲哀とを別にすれば、である。その意見とは、掻い摘まんで言えば、こんなふうである。「話というのは20分ぐらいがせいぜいで、初めに気を惹くイントロを置いて、あとは5分置きくらいにユーモアを交ぜるってことだよね。最後にワンポイント、その日の急所を話せば、それで十分だと思うな」

 ぼくは帰路、一緒に行った友人にも言ったのだが、その日の牧師の説教がつまらないものとは必ずしも思わなかった。むしろ、当日の聖書箇所をよく読み込んで、そこに盛られた使信(ししん)を丁寧に解き明かしていた。換言すれば、当該箇所の文意をその文脈や地理的・歴史的背景を押さえつつ探り、そのうえで、それが今のこの時を生きるぼくらに何を語りかけているのか、そのことを考えさせようとするものだった。それは、このぼくには望ましいものに思われたし、連れ立った友人も同様な感想を述べていた。しかし、今ご紹介した意見の主はどうやら違ったらしい。ぼくがそのとき、その発言から受けた印象は、まず第一に、説教の時間が長すぎるということ(ほんの40分かそこらのものだったが)。次に、話の内容が真面目すぎて、面白くない。そして、その構成や展開に起伏が足りず、倦きてしまうという主張のように感じられた。要するに、コミュニケーションの技術が下手だということなのだろう。実際、説教の中身自体についてはそこで全く言及がなく、話術の評論に終始した。

 当日の様子はこのようなものだったが、このエッセイをお読みの皆さんはどう考えられるだろうか。事は、これと似たような情況が昨今、思いのほか、各所で散見されることである。ご紹介した教会でも、それはその場の空気感として少なからず感じられたし、その他各地の教会においても、これに類する傾向は認められるように思う。

 ぼくが懸念をおぼえるというのは、説教の話術が論ぜられることではない。話術はもちろん、上手に越したことはないし、ぼくの基準からすれば、上述の牧師のそれとて、決して貧しいものではなかった。逆に、構成にしても展開にしても、よく練られた説教だった。問題は、事の関心と論点がひたすら話術ばかりで、説教にとって肝心要の中身の理解と議論が全く見られなかったことなのだ。それが完全に抜け落ちていることである。実は、後日分かったことなのだが、そこには看過できない問題が隠れていた。そもそも、上記の発言者は説教の内容を理解できないでいたのだった。説教のテキストたる聖書の箇所を読解できずにいた。だから、当然のこと、話術の話に終始せざるをなかったのである。



 もうご賢察のことかと思う。今回のエッセイの主題はこうした現状の中で説教をする・せざるをえない牧師たちの悲哀とジレンマであり、そうした実情の裏に潜む、この先のキリスト教会への懸念と期待とである。ぼくは、いまだに信者でなくシンパに留まっていることからも分かるように、教会やその牧師に対し、普段はどちらかというと批判的に語ることが少なくない。けれども、今回はどうにも、その苦労の汗に同情の思いを禁じえないのである。

 どういうことかといえば、説教を聞く側の問題にもどこかで一度、目を据える必要があるのではないか、ということである。そして、それが説教する側の問題とどうリンクしているのか、さらには、それが次代の教会形成の問題にどう影響していくのか、そうしたことを幾つかのより大きな枠組みの中に位置づけて考えることが大切なように思われる。

  小林さんは、「今は長い文章を読める読者がいない。長文をしっかり書ける人がいない」と言われる。そして、「そうした読者の劣化と書き手の劣化がリンクしている」とも意見される。また、「今の読者が求めているのは自分がすでに思っていることの代弁で、雑誌はこれを受け、同じことばかりを繰り返す」と指摘される。「だから」、小林さんは「右派言論誌を読まなくなった」というのである。一々の点については議論もあろうが、ぼくはしかし、小林さんの言わんとされる全般的なトーンやニュアンスについては、頷かされること小ならず、である。なぜならば、事はひとり(小林さんの言われる)右派のみならず、左派においても、そしてまた、ここでの本題のキリスト教会においても似たような傾向が感じ取れるからである。しかも、それがこのぼくやぼくらの心性に不協和音をもたらし、教会へと向かうその足を鈍らせつつあるとしたら、どうだろうか。ぼく(ら)のような者たちはたしかに、人口構成的にはある意味、特殊なグループで、日本人全般を代表するものではないかもしれない。しかしながら、前にも触れたが、近年とりわけ減少した40代からそれ以降の、かつ少しばかり思索的で理屈っぽい男性種のそれなりの部分を代表していることは確かだろう。つまり、外の社会に身を置き、そこでものを考えているそうした人たちが教会には惹きつけられるものを感じないとしたなら・・・。キリスト教会は一体、この先、どこへ向かうのだろうか。


 

「説教は短いほうがいい」という俗説については、前回すでに、その吟味の浅薄さを述べた。気になることは、ほかにもある。「聖書を読めるようになりたいですね」との牧師の言葉に、「読めますよ、もちろん」と応える教会員。「聖書は歩きながら読むものです」との説教に、「歩きながら、どうやって読めるんですか?」と質問する信徒。はては、説教でたった今、「聖書の信仰は単なる御利益信仰ではありません」と教えられたのに、礼拝が終わるや早速、「この間、思わぬお金が戻ってきて。その前には、こんないいこともあったし。神様のお蔭ね」等々。各地の教会で時々に遭遇するそんな光景を目にして、ぼくは思わず、何とも言えぬ思いに襲われる。当の牧師たちはどんな思いで、それを聞いているのだろうか。聖書の文字は読めるし、説教の声も聞き取れる。けれども、そのどれもが表面的・即物的で、読解も理解もそれ以上の深まりが見られない。今もって俗なぼくなぞは、説教する側の徒労と悲哀をそこに感じて、失礼ながら、同情の思いが湧いてしまう。事の理解を容易にするために少しばかり極端な例を紹介したが、根を同じくする同種の問題は決して珍しくない。しかも、濃淡の差こそあれ、教派を問わず、似たような現象が広がりつつあるようである。説教をするとは、なんと大儀なことか!

  聖書の原意を読み取れる読解力を養うこと。文意の把握に必要な理解力を培うこと。そして、そこに盛られた使信を現実にする実存的な生命力を膨らますこと。これらは事の原点として、この先の教会がおそらく、いま一度、目を向け直さねばならない起点かと思われる。ぼく(ら)のような人間は、食べ物や世間話や出し物に賑やかであっても、聖書そのものへの姿勢がどこかで真剣みに欠けるところには足が向かない。向かないどころか、遠のいてしまう。礼拝が終わるや途端に世間話の雑談というような場所が、ぼく(ら)のような人種にとってどれくらい居心地の良くないところか、ご想像いただけるだろうか。

 社会は今後、世界的な規模で混沌と進歩の速度が速まり、かつそこに管理と覇権の影が忍び寄るだろう、と世の識者たちは予見する。とりわけそれは政治的混乱と科学技術の発展とに際立って現出し、そこに重なるようにして、人間存在のコントロールと政治力の独占化が企てられる、と予測するのである。事実、わずか26年後の2045年には、AI(人工知能)が人間の知能を凌駕するというのが当該分野の一致した見解である。いわゆる「シンギュラリティ(技術的特異点)」と呼ばれる現象であり、またその瞬間だが、これだけではない。ヒトを含む生物界のゲノム(遺伝情報の全体)解析が急速に進み、事はすでに、遺伝子の操作にまで及んでいる。このとき、良からぬ社会的・政治的勢力が同様のあれこれを総動員して、権力を我が物にし、ぼくらの生をコントロールすることを企んだとしたら・・・。もはや、楽しい歌声やお食事やお話し会だけでは済まない事態に立ち至ろう。そこではやはり、それなりの理解力や判断力が欠かせなくなる。

 キリスト教会はこれまで、時に社会の流れに棹さし、時にその進路を指し示して、(ぼくが思うには)良きガイド役を果たしてきた。たしかに、それは必ずしも、小難しいもの言いをするということではない。ただし、事の読み取りとその判断のためには、基本的な読解力と理解力を軽視することはできまい。書物一つをとっても、例えば、救世軍の山室軍平によるかの有名な『平民の福音』はどうだろうか。「平民の」という書名の印象から、一見、いとも簡単に読み解けそうとの期待を持たれるかもしれない。難しい表現を用いない入門書という意味では、また譬え話を多用するという意味では、たしかにそう言えなくもない。しかし、その中身は必ずしもそう言えないものを持っている。時代的な言い回しや(こちらは個性的口調にもよるのだろうか)今で言う不快語などの表現でつっかかるのは当然としても、それだけではなく、神学的問いかけや倫理的・実存的指摘にも鋭いものがある。片手間に読み流して分かる、といったものではない。



 要するに、ぼくはなおも、キリスト教会に期待したいのだ。時代がかつてないほどのスピードでリスキーかつ非人間的な行く末に向かいつつあるこのとき、教会はこれまでにも増して、聖書の価値観や視点の置き所を提示すべきではないのか。その言わんとするところをきちんと読み解き、そのものの見方をしっかりと把握して、そうすべきではないのか。細々とした知識や知恵は早晩、ぼくら・人間の特質ではなくなるだろう、悔しいけれど。人間を見るうえで、社会を見るうえで、また世界を見、そこに生きる命を見るうえで、すべての基盤となるもの。そのようなものを、ぼく(ら)は聖書にたずね、その教会にたずねたいと思っている。もしも教会にそれがないとしたら、ぼく(ら)は別の所に出向かなければならない。

 説教というのは、ぼく(ら)にとってはやはり、そうしたことの中心にあるのだ。だからこそ、週に一度、貴重な時間を割いてわざわざ(失礼!)、礼拝に出かけていくのである。そして、その労に見合うだけの話を聴きたいと願っている。要点を箇条的に述べるだけなら、ビジネスミーティングの話とどこも違わない。あの手この手で話を面白おかしくし、が中身は結局、どこかで聞いたことの繰り返しというのでは、見かけだけシュガーコーティングされた子ども用のお菓子のようで、そんなふうにしてもらわないと食べられない自分がなんとも情けない。人が人として生きるということは、そこに詩的・文学的・哲学的・思想的揺れが起こるということでもある、実存的に。だからこそ、「文学の分からない者は人間も分からない」と、ちょっとばかり度の過ぎた言い方さえなされるのだろう。だが実際、それは当たらずとも遠からずだろうし、しかも聖書はそもそも、そうした要素に溢れている。だから、聖書に聴こうとするぼくらには、そうするに必要な基本的備えが期待されるのではなかろうか。それを養い、培って膨らまそうとする牧師たち・説教者たちの汗と労苦(と祈り)はどれほどのものだろうか。いまだ信者でないこのぼくにも、それは想像に難くない。



 ただし、是非ともお願いしたい。聖書から使信を読み取るべき説教者が自らを、小林さんの言うような「代弁者」にしないことを。説教を、それを聞く者が求めている「自分がすでに思っていることの代弁」に貶めないことを。道を探求する「求道者」というのは、ぼくが思うには、自分がまだ気づかず、まだ知らずにいる何事かを発見したいからこそ、そこにいるのである。それが本来の求道者というものであり、(たとえ信仰生活が何十年になろうとも)人は最後までそのようにあり続けるのだと聖書は教えている、とぼくはそう考えている。この時代の空気だろうか、ぼくらはいつになく、癒やしを求め、優しさに渇いている。時に「時代精神」とも呼ばれるものである。そんな空気のなか、ぼくらは自然と、これに合わせるようにもの言いをするようになる。「それでいいのよ、そのままで」。ここ十年来になろうか、教会でもよく耳にする流行りの言葉である。それはたしかに、神学的に重要な福音の理解に通じるものでもあろう。けれども、それがもし「それでいいのよ、そのままで。いつまでもずっと、そのまま何も変わらないで」というふうに、信仰の入り口の話が生涯不変の全肯定に変容してしまうとしたら、それははたしてどうなのだろう。ボンヘッファー流に言うならば、「罪人」の赦しが軽々に「罪性そのもの」の赦しに掏り替わり、変質してしまったとしたら、とでもなろうか。あるいはまた、イエスの譬えに見る木と実の関係はどこにいってしまうのだろうか。簡単に捨象しうることなのか。これらはやはり、聖書が本来語るところとは違うように思われる。そこに生じるのは、例えば、気休めの思考停止といった類いではなかろうか。そんなになったら、いわゆる「宗教アヘン説」の格好の餌食になってしまう。気にかかることは、他にもないわけではない。聖書のどこをテキストにしてもいつも同じような話になる説教などがそれだが、これもまた根っこのところで、代弁説教のそれと通じるものがあるのかもしれない。



 繰り返しになるが、ぼくらを待ち受けているのは、かつてない速度で迫る変化と混沌の時代である。ぼくらはそこで、これまで以上に、事の本質を読み取り、把握し、そして的確な判断を下すことが必要になる。キリスト教会もまた、その例外ではなかろう。否、むしろ、そうした情況にもろに曝されるのではないだろうか。今後さらにも問われる戦争、平和、科学、社会倫理、生命倫理、人間観、人生観、価値観・・・といった枠組みの中で、信仰や教会はいかなる存在価値を、いかなる存在意味を認められるのか。そして、そこに生きる信仰者は何を語り示して、どんな生き様を社会に見せてゆけるのか。そのことを、それぞれの日常の足もとの事柄として、ぼく(ら)は知りたいのである。

 そのためにも、その土台の土台として、聖書の読解と理解とが問われるように思う。そして、その中心にあるのはやはり、説教であるにちがいない、とぼくは思っている。そのような説教が知的な面においてもさらに真っ当で適切なものとされることを、ぼく(ら)は期待し、そんな説教を聞きたいと願っている。昨今の説教は知的に過ぎる、との声を耳にすることも確かにある。でも(信者でないから分からないんだと言われたら、返す言葉もないが)、このぼくの見るかぎり、(祈り心に加えて)聴く者たちの的確な読み取りをさらにも育む意味は小さくないと思う。そもそも、ぼくはこう考えている。聖書が「神のかたち」と表現するのは人間存在全体としてのそれであり、そこには当然、知性もまた含まれ、そして、その問いかけはぼくらに対して全人的なものとして提示されている、と。

 その意味で、(余談ながら)近年、米国をあたかも反知性主義の権化のように批判し、それをもって自国の不足の免罪符にしているような風潮も感じられるが、目を据えるべきは他国よりもまず自国の内実であり、日本の教会のそれなのではないだろうか。ぼくは、そんなふうにも思わされている。



 教会において、聖書を読むその会衆の読解や理解を培い、その実存的姿勢を深めるというのは、時間のかかる大変な取り組みにちがいない。しかしながら、例えば民主主義は、そのようにして初めて成り立つのである。すなわち、そのようにして全体の「底上げ」を続けて初めて、それは継続の基盤を得る。逆に、それを怠ると、全体が底下げを引き起こし、いわゆる衆愚政治に向かってしまう。そのかぎは、事を教え込むそれではなく、ものを考えさせる教育にこそあると言えよう。(民主的なあり方を重視する教派においてはとりわけそうだが)キリスト教会もまた同様に、継続的で堅実な教育的取り組みを通してその全体的底上げを図ることは、自らの使命を果たすうえで欠かせない事柄ではなかろうか。時間を要する作業ではあるが、しかし、それ以外にどんな近道があるだろう。説教は教育的に見ても、その中心に位置しているように思われる。

 教会ははたして、目先の人集めに奔走するのか。それとも、長期の教会形成に心を向けるのか。それはそのまま、そこにどんな人たちが集まり、そこでどんな人たちが育っていくのかに繋がるものと思う。シンギュラリティの2045年は、ほどなくやってくる。そのとき、キリスト教会ははたして、どんな姿を見せているだろうか。それは、意外と早くやってくるかもしれない。

 

 

©綿菅 道一、2019

*無断の盗用、借用、転載、コピー等を禁じます。

 

(本ページは、読者の投稿受付けを行なっていません)

 

 

 



 

 

ジャンル:
文化
この記事についてブログを書く
« ぼく(ら)の聞きたい説教(2... | トップ |   

説教」カテゴリの最新記事