「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ(0-2)-書き出し(2)-

2022年07月07日 | 基本

 

 

「なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ」(0−2

書き出し(2

 

 神は死んだ。

 唐突な切り出しで驚かれただろうか。もしそうだったら、いきなりの不躾(ぶしつけ)なもの言いをお許し願いたい。ご存じのとおり、かの哲学者ニーチェがツァラトゥストラに語らせた言葉だ。なんとも挑発的な宣言だが、ぼくが今回、そのフレーズをもってこの一文を始めたのにはもちろん、それなりの理由がある。それは、と言えば、ほかでもない。ぼくらは今や、神が本当に死につつある時代に差しかかっているからだ。本当に、というのは、それが事の実相として、ニーチェの言うそれを凌いでそうだからである。

 そもそも、ニーチェが生きたのは19世紀のドイツで、神という存在がリアルに意識され、そのようにして、神が人々の間に「実在」した時代だった。神は広く、日常的に生きていたのである。言うまでもなく、ニーチェが「神は死んだ」と言ったのは、単にキリスト教の神を指してのことではない。それは、「神」という言葉に象徴される、存在や世界や価値の本質的・絶対的な基準を意味している。がしかし、当然ながら、いわゆるキリスト教の神がそれと無縁なわけでもない。当時の社会に実在していたそれが背景としてあったことは容易に想像される。ちなみに、ニーチェがルター派の牧師の長男だったことを思うと、これまた興味深く考えさせられる。要するに、ニーチェが「神は死んだ」と言ったのは、信仰的にはもちろん、概念としても思想としても、神がいまだ明確に生きていた時代だということである。神が現役の存在として生きるその社会にあって、その社会に向けて「神は死んだ」とニーチェは言ったのだった。

 ところが、ぼくらの生きる今のこの時代はどうも、それとは少しく違うようなのだ。ニーチェの時代には、神的なものを否定した彼自身の中にも依然として、対立概念としての神が存在した。しかし今や、概念としても思想としても、感覚としても意識としても、-はたまた、もしかすると信仰それ自体においても-神が消えつつあるように感じられてならない。本当に、神は死にかけているのではないか、と。

 ということで、今回は前回お約束のとおり、多くの教会の今後を左右すると思われる本質的かつ普遍的な危機情況についてぼくの考えるところを述べさせてもらいたいのだが、本題に入る前に二点、ご了解とご理解を頂きたいことがある。

 一つは、ぼくがここで「神」と言うとき、それは主として、いわゆる「人格神」と呼ばれるそれを念頭に置いていることである。人格神とは通常、意識や感情・意志・知性等を有する、人間に似た独立の存在としての神のことを言うが、伝統的なキリスト教の神がこれに当たることは言うを待つまい。他方、これに対し、例えば自然の事物や力を崇拝して神格化した自然神と呼ばれるものもあれば、それと関連したアニミズム(精霊崇拝)と呼ばれる信仰等、宗教心の対象は実際、様々見られる。そうしたなか、ぼくが危機的とその情況を捉えているのは、人格神信仰のそれである。

 そしてあと一つは、再三のお願いで諄(くど)いようでもあるが、以下に述べることは単なる議論好きの批評ではなく、-自分で言うのもなんだが-キリスト教という宗教をそれなりに大切に受け止めているぼくの真摯な思いの表白であることである。より焦点化して言えば、-前回も最後に記したが-キリストと呼ばれたイエスにこのぼくが心打たれるものを見、そこに自らの生に意義深いものを少なからず感じ取っているからである。今回の連続エッセイは表題からしていかにも批判的な趣だが、そこにはぼくのそうした真情がこもっていることをご賢察願えればと思う。ちなみに、大江(健三郎)さんがこんな一文を記しておられるのをご存じだろうか。「私はキリスト教徒ではなく、聖書についての知識も浅いのです。・・・私はただ、十字架の上で死なれた、そして『新しい人』となられたイエス・キリストがよみがえられたということを、つまり再び生きられて、弟子たちに教えを広めるよう励まされたということを、人間の歴史の中でなにより大切に思っています。・・・中心にあるのは、『新しい人』として生きられた、ということです」(『新しい人の方へ』より)。もちろん、ご本人も言われるように、キリスト教徒ではない大江さんの言葉である。しかも、そもそも文学者であって、時に哲学者ともなる大江さんである。言い回しとしては、十字架の死や復活といったものを、また宣教といったものを思わせる表現が見られはするものの、いわゆる信仰者が言うような意味合いとそれらは同じでないのは言うまでもない。視点においても意味においても、文学的・哲学的・社会的な色合いの濃いものと言えよう。が、ぼくがここで言いたいのはそういうことではなく、巷に言われるクリスチャンでもなければ教会員でもないそのような人たちの中にも、キリスト教という宗教やイエスという存在を重く大切に受け止めている人々がいる、ということなのだ。人間の歴史の中でなにより大切に思っている、とまで言うほどに。つまり、そうした真剣さの中から出てくる言葉。ぼくがこのエッセイで言葉にしたいと願っているのはそのような言葉であり、批判的なそれらもまた、大事なものを思う同じ真剣さから来ている。そして、そうであればこそ、今から触れようとする(今日の教会を取り巻く)本質的かつ普遍的な危機情況についても、お茶を濁すことなく直截に論じたいと思うのである。

 実を言えば、こうした真剣さと危機的情況について、そもそも当のキリスト教会自体がどれだけそれらを意識し、それらにどれだけ体重をかけているか。そのことがまずもって重要で、今後の展開を左右する根底的な要因とも考えられるのだが、実情ははたしてどうなのだろう? もしも、それが(キリスト教)シンパ止まりのぼくら未満のものだったりしたら、危機はさらにも増して深刻に思われるのだが・・・。

 本題に入ろう。教会を取り巻く、今日の危機的情況。それが今回の主題で、要するに、神は本当に死にかけているのでは、との認識がその危機感の中心にあるということである。

 

 まずは、そうした現状を示唆する近年の傾向から見てみよう。アメリカのデータではあるが、同国のPew Research Center(ピュー研究センター)という機関が10年前(2012年)に行った調査の結果がある。Pew Research CenterPRC)は多方面にわたって社会科学関連の調査研究を実施している機関で、独立の組織として高い信頼性を得ている。そのPRC201210月、ホームページに公表した調査報告である。題して、"Nones on the Rise"。「増加するナンズ」と銘打たれている。「ナンズ(nones)」とは特定の宗教的立場に帰属しない人々を総称する呼称で、無神論者や不可知論者はもとより、霊的なものは信じるがいわゆる宗教とは違うと言う人たちも、また宗教の文化的価値は認めるが宗教そのものを信じているわけではないと言う人たちもそこには含まれ、その実態には多様なものがある。が、報告書のポイントは要するに、そうしたナンズが近年、総じて増え続けているということなのだ。増加のペースは速まっており、30歳未満の成人に至っては、今やその3人に1人がナンズとの結果が出ている。割程度だったらさほどのことでもないのでは、とぼくら日本人は思うかもしれないが、かつてはキリスト教国と言われた-もはや、そのように言う人々は少なかろうが-そのアメリカでのことだ。これまでからしたら、大した問題なのである。調査は詳細にわたり、ここでその一々をご紹介することはできないが、今回のエッセイとの関連で興味深くもあり、事の大きさをさらにも物語る現象として、一つのことだけ押さえておきたい。すなわち、ナンズと言われるその人たちの中には、次のような人々もまた含まれていることである。元はいわゆる教会員だったが今は教会を離れている人や、自分はクリスチャンだと自認はしているもののそもそも初めから教会とは無縁な人など、つまりは、いわゆる教会という所から距離を置き、どこの教会にも属することなく、自分流の信仰に従って生活している人たちである。換言すれば、神という存在がそれなりに具体的でリアルだった従来のようなそれとは違って、信仰と呼ばれるものの質が少なからず変わりつつあること。それを、調査結果は示唆していると言えよう。

 PRCの数字は前述のとおり、2012年のもので、現在はそれからすでに10年が経っている。また、調査はたしかに、アメリカのそれでもある。しかしながら、社会的情況の推移を見るとき、ナンズの傾向は強まりこそすれ、弱まっているとは思えない。と同時に、日本は伝統的に、自然宗教的な色合いの濃い国である。「なんとなく」の類いの宗教心・信仰心は、また特定のものへの帰属意識の薄いそれらはアメリカ以上に親和性が高く、数字は総じて、アメリカをかなりの程度上回るにちがいない。だとしたら、以上に述べた趨勢は2022年のこの時も進行中で、かつ我が国にも妥当するのではないか。そう思われてならない。その意味で、日本でも同様な調査研究がなされればと思う。ちなみに、かの国ではさらに進んで、「ダンズ(dones)」との呼称もすでに生まれていると聞く。「見切りをつけた」とでも訳そうか。熟慮の末、既成の組織教会を去ったり、果ては信仰そのものを終わりにする人々の顕在化とその増加である。

 いずれにせよ、こうした傾向は概して世界的なものに見え、とりわけ欧米やその他、先進国と言われる国々では顕著に思われる。そして、人格神を信仰の中心に据える宗教に、それはいよいよ避けがたい難題をもたらすことだろう。その要因は、と問われるなら、-もちろん、単純であろうはずがないが-根源的なものとしては、主として2つの事柄が考えられる。一つは、神を舞台の袖に追いやる、直接の要因。そしてあと一つは、ボディーブローのようにしてそれに追い討ちをかける、間接的な要因である。すなわち、前者は科学研究の飛躍的進歩。後者は永遠の未解決、いわゆる神義論(しんぎろん)の問題である。言葉を換えれば、今や宇宙や生命の起源に迫ろうかという科学の急速な進歩を前にして、顔を持った人格神のような神なんか本当にいるのかね、といった疑念が広く深く浸透し続けていること。加えて、-歴史的には決して新規なテーマではないが、世界各地で明白な悪があからさまに行われ、無辜(むこ)の命がなす術もなく奪われ続ける昨今の惨状を目の当たりにし、時ここに至って-義を掲げる神がいるんだったら、なんでこんな悪行がやりたい放題に野放しにされるのかと、神の存在を疑わせる不条理な思いがこれまでにも増して拡大していること。これらの現実が根底的な要因となって、人格神の神信仰を危ういところに追い詰めつつあるということである。それは否定しがたい現実であり、しかも、この先間違いなく、さらにも差し迫ったものになると予想される。

 二千年来のそれとは決定的に異なる、存在論的な転換点。そこに、人格神宗教の一つとして、キリスト教もまた立ち至っている。これが、今回の論点の中心と言える。

 実際、科学研究の進展は目覚ましく、その探究は加速度的に進んでいる。-確定可能な事実の枠を越えて断定的に物事を言う、いわゆる(〜主義的な)科学主義には極めて危険な側面が伴うが-客観的な事実の学としての科学は信仰の範疇においても相矛盾するはずがなく、軽視や無視は心して避けねばなるまい。事実の軽視・無視は、信仰を盲信や妄信へと変質させる。

 が、であるからこそ、事は小さくないのである。一方で、世界の知が集結して、宇宙の探査を極め、その起源と生成の歴史を解き明かそうとしている。他方、生命科学の分野でも、同様に世界の知が集結し、その起源と生成の過程を明かそうとしている。こうして、微小な領域から広大なそれに至るまで、未知の世界のベールが次々と解かれている。IT(情報技術)やAI(人工知能)の進歩がこれを強力に後押ししているのは周知のとおりだが、例えばそのAIは-3年ほど前にも述べたとおり-いずれ、人間の知能を間違いなく凌駕すると言われている。いわゆるシンギュラリティ(技術的特異点)と呼ばれる現象でありまたその瞬間だが、それはわずか23年後の2045年というのが関係の識者たちのほぼ一致した見通しである。実際、科学の探究はどこまで加速するのか。そして、こうしたなか、その行く着く先はどこで、何がどこまで明らかになるのだろう? 何もないところから-スペースもゆらぎも温度も・・・何もかもが全くないところ、すなわち完全なる無から-はたして何かが生まれるのか、ぼくにはいまひとつよく分からない。いわゆるクレアチオ・エクス・ニヒロ(無からの創造)をめぐる議論になるが、ただ確かなことが一つある。それは、ここに至って、神の影がいよいよ薄くなり続けている、ということだ。なかでも、人格神のそれが。

 そして、これに-じわじわと、しかし確実に-拍車を掛けているのが、神がいるんならどうしてこんなことが、という疑念の思いである。これは決して今に始まったものではなく、歴史に長く深く、そして澱(おり)が溜まるように続いてきた、言いようのない割り切れなさである。いわば、古くて新しい未決の不条理とでも言おうか。神がいて、その神が義なる存在だと言うんなら、なんで世界に悪がなされ、それがこんなにも蔓延(はびこ)るのか。神の義と現実世界の悪は相矛盾しており、そうしたなかにあって、神の義というのをどう説明し、両者にどう折り合いをつけるのか。そんな、いわゆる神義論と言われる難題の底流にある、ぼくらの理不尽な思いである。広く知られたところでは、エリ・ヴィーゼルの例が挙げられようか。第二次大戦下、ナチスの強制収容所に入れられたユダヤ人作家で、ホロコースト(大虐殺)の記憶を証言するその自伝的小説『夜』で著名である。1986年にはノーベル平和賞も受賞している。しかし、敬虔なユダヤ教徒だったそのエリ・ヴィーゼルの行き着いたところとは? それは、自分の中で神が死ぬ、という経験だった。収容所に着いた一日目に、いたいけな幼児が焼却炉に投げ込まれるのを目にしたからである。その後も、何百万人もの-600万人余というのが通説だが-ユダヤ人同胞が無惨に殺されていくのだから、同様に神と決別した人たちも少なくない。キリスト教の神は基本的にユダヤ教の神と同じはずだから、他人事(ひとごと)では済まない話ではなかろうか。神がいるんだったら、こんなにもひどい悪が罷(まか)り通って、それを覆す何事も起こらないなんて、なんでなのか。神の義というのを、理屈が通るように説明してほしい。そうした割り切れなさ、やり切れなさである。

 こうした感覚は今また、リアルに、しかもより身近に浸透しているようにみえてならない。なぜなら、ミャンマーやウクライナで明白な悪がなされ、罪なき人々がなす術もなく殺害され続けているからである。同種の状況は、ぼくらの同時代を見るだけでも、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ルワンダ、シリア、香港・・・と、なんと多く繰り返されてきたことだろう。神信仰に対するその影響は決して小さくないように思われる。もしかすると、それは日常の些事にまで入り込み、神様がいるんならなんでこんなふうに、などと、ぼくらを疑い・不満・不信へと進ませるかも・・・・?

 つまり、顔を持った人格神が存在論的に-すなわち、実体として本当に存在するのかという疑念の-危機に面しており、その信仰がリアリティーを失いつつあるということである。ちなみに、欧米ではすでに珍しくもないが、現役の教会員でありながら、イエスの生涯についてもその言葉や教えについても、実はあまりよく知らない人たちが増えているという。そういう現実を知ると、ぼくなんかはすぐ、それじゃ何を信じてなんで洗礼を受けたんだろう、と不思議に思わされるのだが、要するに、顔のないなんとなくの神が教会内でも拡散しているのだ。欧米でそうなら、キリスト教の伝統の薄い我が国ではさらにもそうだろうと推測される。従来のキリスト教からしたら確かに、危機の時代と言えよう。そして、当のキリスト教関係者らがもしもこれに気づいていないとしたら-また、気づいていても、必要な議論を始めていないとしたら-、それこそ、本当に危機的と言わざるをえまい。(かつて一度、殺されかかった人格)神が今や本当に姿を消し、今度は本当に死んでしまうかもしれないのだから。

 これが人格神的色彩のさほど強くない宗教であれば、話は少しく違ってくる。

 例えばぼくらのよく知る仏教だが、その中に、初期仏教に最も近い一つとされる上座仏教という流れがある。その高僧(スリランカのアルボムッレ・スマナサーラ)の言である。曰く、「仏教は全く宗教ではないのです。仏教には神様などいないし、信仰しなさいということも全くない」。つまり、悟りを開いたお釈迦さんが教えてくれた法というものを知って、それに従って生活すること。それが上座仏教の根本だと言うのである。-仏教についてはあまり勉強もしていないぼくが言うのもなんだが-原初の仏教というのはおそらく、そういうものだったのではなかろうか。上座仏教の伝統を受け継ぐスリランカでは今でも、お釈迦さんが生きていて見てるよ、などと言うと、小さな子どもでも笑ってしまうという。観音さんや〜〜さんに至ってはなおのことである。要するに、人格神の信仰とはかなり距離のある特質。そうしたものが、仏教には宗派を超えて多かれ少なかれ、本質的に横たわっているように思われる。だとしたら、顔を持った神がいなくなったとしても、それが決定的な問題になるとは考えられない。事の中心は、神の存否ではなく、法の悟りなのだから。

 また、神道は神道で、その根底には-研究者がたびたび言及しているところだが-自然崇拝的な-とりわけ、豊穣の自然を崇める-要素が息づいていて、そこにアニミズム(精霊崇拝)的性格も見て取れる。これもまた、人格神の信仰とはだいぶ違っており、いわゆる宗教心や宗教的心情といったものを基底にしてこの先も生き続けることはそう難しくないと思われる。

 さらに言うなら、カトリックのそれも、メインラインのプロテスタントとは微妙に異なっているように感じられる。-カトリックについてはいまだ勉強不足なので、間違っていたらお許し願いたいが-ぼくが興味深く思わされるのは、カトリックの内的多様性であり、その幅の広さと奥の深さである。ぼくの見るところ、それは人格神信仰の本丸から自然宗教的な信仰まで、-言が過ぎるやもしれぬが-宗教的要素のほぼすべてを包摂している感すらする。多様性を掲げる教派はプロテスタントの中にもあるが、カトリックの多様性はそれをはるかに凌駕しているのではなかろうか。神学的な論争や世界宣教の苦闘から、また組織の維持・拡大の必要性から・・・と、それを必然にさせる理由があったのだろうが・・・。いずれにせよ、同じキリスト教でも、カトリックは事柄への対応力に幅があり、人格神信仰の危機にもそれなりに対処していくように思われる-だからといって、自動的にそのすべてが良ということには、当然ながら、必ずしもならないが-。

 限られた例だが、例えばこうした宗教や教派は、その人格神的色彩の薄さや内的多様性の故に、危機の衝撃を全面的に受けずに済むように思われる。

 問題は、人格神的信仰を中心に据え、専らそれを強調してきたプロテスタントのメインライン諸教派であり、-信者でもないのに、なぜか-容易にはそれと決別できずにいるこのぼくやぼくの同人仲間のような者たちなのだ。

 信仰というものの捉え方・受け止め方によってはたしかに、事はさほどの問題でもなく、大袈裟に難儀するようなことでないとも言えよう。例えば、キリスト教の信仰を-自然やその秩序を通した-一般啓示的な次元で良しとし、-イエス・キリストという特定の個的存在における-特殊啓示的なそれをさして問題にしなければ、頭を悩ますこともずっと減るにちがいない。しかし、それで、事は本当に済むのだろうか。なぜなら、それは-前述の神道のところで出てきた-宗教心や宗教的心情を核とする信仰にシフトすることであり、イエスという存在の質と重さが、またイエスが説いたその神の質と重さが変容することを意味するからだ。歴史的な三位一体論の神学にも変更を迫るやもしれない。俗な言い方をすれば、イエスの存在感が薄くなり、その神も気持ち的ななんとなくの神様に薄れていく、とでも言おうか。それはそれでいいじゃないか、と言うんなら話は別だが、はたしてどうなのだろう? こんな風潮もあってのことだろうか。実際、説教にイエスの名が登場する-説教でそれが語られる-頻度が、このところ、間違いなく減ってきている。代わって、神とか神様とかいった言い方が明確でない抽象的な仕方で口にされることが多い。細かな統計を取ったわけではないが、戦後の教会をずっと見てきたこのぼくの観察である。

 そして、こうした危機的情況下でのプロテスタント諸教派の有りようなのだが、それがまた-率直に言って-ぼくには少々分かりにくいところがあり、あれこれと考えさせられている。すなわち、ある教会・教派は、これまで述べてきたような問題などそもそも存在しないかのように、我関せず。教条主義的な信仰に熱心である。観念的な神学主義も体験的な聖霊主義も共にこの類いに属し、表出の形こそ違え、眼前の現実に向き合うことには消極的みたいだ。唯我独尊といったところだろうか。見たくないものは見ない、のオストリッチ(ダチョウ)症候群に陥らねばいいのだが。と同時に、社会的な活動に力点を置く教会・教派も増加している。信教の自由-より広義には、思想信条の自由とか良心の自由とも-や反戦・非戦といった従来からの取り組みはもとより、近年は人権や社会正義、福祉、被災、貧困・・・といった諸問題へのそれが目立っている。それらはイエスの教えを現実の生き様に具現するとともに、いわゆるミシオデイ(神の宣教)の神学などを踏まえて、教会の務めをより広範かつ包括的に実践するものだと言う。それらは極めて重要な視点で、聖書を読む者は心して忘れてならないことだと思う。けれども、その一方で、-直接的な活動とは違うが、理解を容易にするため、失礼ながら、福祉(的)という繋がりで身近な分かりやすい例をご紹介すると-例えば、教会の出席者はほとんど高齢の女性ばかり。講壇から聞こえてくるのは、ぼくが聞いてもよく分からない説教。がそれでも、不満や要望が出ることはない。どうやら、説教を聞くことが教会に来る主眼ではないみたいだ。最近、そんな教会が散見され、残念ながら、その数が増えているようにみえるのだが・・・。そのようにして、礼拝がお交わりの場と化し、それが-正確には、礼拝の後のお話しの時が-教会に来る最大の誘因となってしまった、そんな教会である。高齢者の(牧会)福祉的ケアの一環として、と言えば言えなくもなかろう。しかし、ほとんどそれだけ、となってしまったら、何かがやはり欠けているように思われてならない。このほかにも、そもそも哲学的・神学的・思想的思考にはあまり関心がなく、それらに無頓着に楽しいプログラムを用意し、いかにして人を呼ぶかに腐心しているところなど、昨今の教会の有りようは実際、様々と言えよう。

 -言うまでもなく、教会もその一つだが-組織が今日のように行き詰まり、先行き不透明な閉塞情況に立ち至ると、それぞれに多様な対応を見せる。それが問題の本質に向けられた的確なものであれば良いが、時に表向きの言葉や建て前とは違って、実は組織の維持や延命に向けた一時しのぎの便法でしかないということもある。ぼくがいつも違和感を感じるのはそうした浅薄な対応であり、対症療法的な底の浅さなのだ。今回の危機的情況についても、上に記した各々に対し、だからそれでイエスという中心の存在はどこにどうあるのか、そもそも神という存在のリアリティーはどこに、と問いたい思いに駆られる。そして、教会の中心にあるはずの礼拝や説教の存在感はどこに、とも。そうでなければ、教会がわざわざそこにある必然性は限りなく後退し、例えば人道的団体等があれば、それで十分事足りることになろう。事実、実効性の面からしたら、社会の諸団体のほうが普通、はるかに優れているのだから。繰り返し、事の根底に立ち戻り、そこから問いを発し、そこから答えを模索する。そして、それをもって現実の具体に向き合い、勝負すべきもので勝負していく。ぼくは-できもしない自分に忸怩(じくじ)たる思いを憶えながらも、しかし-いつもそうありたいと願っている。そうできないとき、小手先の術策をめぐらすばかりで、結局、先に進めなくなることを知っているからだ。

 だから、結局、どうだと言うのか。ここまでのぼくのエッセイを読んで、そう思われる方もきっと少なくないだろう。全くそのとおり。そのとおりなのだ。(プロテスタント)キリスト教を取り巻く情況は予断を許さぬところにまで来ており、しかも問題の根はとんでもなく深く大きいのだから、早く事に向かい、何らかの答えを早急に探らねばなるまい。ぼくら(同人仲間)だって、暇潰しの遊び半分で聖書を読み、キリスト教に向き合っているわけではない。ぼくらはぼくらで、自らの生き方を納得のゆくものにしたいと願い、各人の実存をもってそこに向かっているのだ。求道という姿勢において-自分で言うのもなんだが-好い加減な在り方ではいたくないと思っている。だけれども、-口幅ったい言い方で申し訳ないが、お許しいただきたい-問いに答えるべきはそもそも、いまだ信仰者でないこのぼくらではなく、現に信仰に生きている人たちのほうではなかろうか。日常的に神学しているはずの信仰者の人たちであり、なかんずくそれを専門の務めとしている、いわゆる神学者の人々である。ぼくらもまた、そこから、他では得られない示唆や答えを貰いたいのだ。事は難問中の難問である。容易に答えが出るとは、もちろん思われない。おそらくは、永遠の未解決が未解決のまま続くのだろう。しかし、問題に向かうことを初めからしないとしたら、-再び、失礼ながら-怠慢と言われてもしかたがないように思う。

 今現在のぼくに言えるのは、人格神的信仰をあっさりとやめてしまうなら話は別だが、依然としてそれに拘(こだわ)るのなら、やはり、イエスという存在にいま一度徹底して向かうほかないのではないか、ということである。キリスト教という信仰がその源と基をイエスという存在に拠っている以上-その背後に旧約の歴史と思想があるのは言うまでもないが-、そのイエスの言動や生き様のすべてを、すなわちその生の全体をどう理解し、どう受け止めるか、事はやはり、そこに懸かっているように思われる。

 なのに・・・、ぼくにはよく分からないのだ。なのに、このところ年々、哲学的・神学的な話が聞かれなくなってきているのが。つまり、事柄の中身の議論がなされないまま、その質や妥当性が置き去りにされているのである。それはどうも、難しい神学のことだけでなく、聖書の理解や説教の内容といった日常的なことでも、また伝道や牧会と呼ばれる関わりの働きにおいてもそうらしい。しかも、こうした傾向は教派を超えて少なからず広がっているようで-間違っていたら、ぼくのネットワークの不備のためで申し訳ないが-、しかるべき吟味もなしに事が進められているみたいだ。

 それに代わって、ぼくらが昨今何かと見聞きするのは、組織としての教会・教派の維持延命策である。教勢、財政、制度、システム、販売促進・・・とそれらは広範にわたるが、その特徴はどれもが総じて、教会や教派という入れ物の、すなわち器の扱い方を語るものばかりで、そこに盛られる中身の議論がほとんど見られないことである。組織が行き詰まると一般に、管理や運営の方向に傾斜すると言われるが、キリスト教会も例外に非ずということなのか。喩えて言えば、長年の在庫品を、品質の改善も検品もせずに、製造や包装、流通といった仕方だけを効率的にして販売するようなものに思えてならないのだが、それはちょっと言い過ぎだろうか。けれども、もしもこれが多少なりとも当たっているとしたら、ぼくらはそれを一度や二度は買ってみるにしても、すぐにでも質の悪さを見抜いて、それ以上手にすることはまずない。教会というところにあっては、それは礼拝であり説教であり、献身であり隣人性であり、その生き様の全体だろうが、見た目の体裁ばかりをよくしても、内実のおぼつかないそれらはじきメッキが剝げ、人々の足は離れるにちがいない。そのことに気づかず、今のままの策を続けるなら、悪循環の循環が待ち受けているのではないだろうか。先は見えているように思うのだが。

 随分と長くなってしまった。長々のもの言いにおつき合いくださり、恐縮の限りである。

 ぼくの問いたいのはつまり、キリスト教会はここに至って、どこに立ち、何を求めて、どう生きようとしているのか、ということである。ひと言で言うなら、信仰の内実の再検証とでも言おうか。それははたして、いま一度、生きる哲学を切望しているのか-教会では、信仰とか神学とか言うべきなのだろうが-。それとも、崩れそうな組織を守ろうとしているにすぎないのか。そして、そのすべての根底にある問い。現下の危機的情況下におけるそれが今回の問いの中心だった。すなわち、神という存在をどう捉え、どう受け止めて、どう信じているのか。神のリアリティーはどこまでリアルなのか。そしてまた、イエスとはどんな存在で、そのイエスをどう受け止めて、どう信じているのか。ヒューマニストの極致か。真理の体現者か。唯一無二の教師か。人間的生のモデルか。それとも、神の子か。あるいは、それ以上の誰かか。それを、ぼく(ら)は聞かせてほしいのだ。信仰者の皆さんの信仰の内側を教えてほしいと、ぼく(ら)は偽りなくそう思っている。

 

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 本シリーズの「書き出し」は以上で終え、次回から本論に入りたいと思う。ただし、今回言及したような問題はぼくの手には余るもので、ぼくにはこれ以上扱いかねるため、本論ではより具体的な個別の問題を取り上げたいと考えている。あらかじめご了承いただければ幸いである。

 

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〔ご参考までに〕

 1970年前後に邦訳が出版され、我が国でも注目を集めた人物に「テイヤール・ド・シャルダン(18811955年)」というフランス人がいる。地質学、古生物学の研究者として著名だが、カトリック・イエズス会の司祭でもあり、神学・哲学にも通じていた。科学と信仰の調和・統合を目指す、壮大な哲学的世界観を展開した。当該分野での古典的な著作として、『テイヤール・ド・シャルダン著作集』がみすず書房から刊行されている。

 

 

©綿菅 道一、2022

*無断の盗用、借用、転載、コピー等を禁じます。

 

(本ページは、読者の投稿受付けを行っていません)

 

 

 


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