「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ(1)-教会は誰でも・・・、でも あんまり・・・:インクルーシビティーの問題-

2022年12月16日 | 基本

 

 

「なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ」(1

教会は誰でも・・・、でも あんまり・・・: インクルーシビティーの問題

 

 表題の連続エッセイの第3回目で、今回から本題に入り、幾つかのことを論じてみたい。とはいえ、前回の「書き出し(2)」の終わりでも述べたように、それらは本論と言うより、むしろ個別具体的な各論といったものにならざるをえない。「書き出し」の2回目に提起した問題は、ぼくのようないまだ信仰未満の者にはこれ以上扱うに大きすぎるからである。このことを、これ以降書き始める前にまずは申し上げ、ご了承を頂きたいと思う。ただし、付言をお許しいただければ、前回記した問題はキリスト教信仰にとってやはり、根本的・根元的問題と言わざるをえまい。であれば、すでに信仰者であられる皆さん方にはぜひとも、問題の探求と考察を深めていただければと願う。それはなんといっても、避けて通れない問題と思われるからである。

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 それでは早速、今回の主題に移ることにしよう。その前にひと言。ぼくの文章はどうもこれまでに頂いた感想からすると一度で読み切るには長すぎるらしい。やはり、といった感もないわけでもなく、おまけに内容が少々思弁的・哲学的でもあるつまりは、理屈っぽいということ。読者の皆さんにはエネルギーをかなり費やさせてしまったみたいで、そこは申し訳なく感じている。なので、以降の各論は一回分を短めにし、内容をできるだけ具体的にして、読みやすく分かりやすいものにできたらと考えているとはいうものの、はたしてどうなりますやら?

 ということで、今回は「インクルーシビティー(inclusivity)」と言われる問題を取り上げたいと思う。直訳では「包括性」とか「包摂性」とかいう訳語が当てられているが、要は多種・多様・多彩な存在を排除せず、有りようを異にする異質なそれらをも包み込んで共に生きる、ということである。

 ちなみに、明治以降の歴史を振り返ると、第二次大戦以前の戦前は、教会が社会にそれなりの影響力を有し、社会文化的な価値観やその視点を刺激して、それらを主導する側面もあったと言えよう。そして、戦後もしばらくは、そうした一面が認められもした。しかしながら、それが時とともに後退し、近年目につくのはどんな状況だろうか。−時代的に化石に限りなく近づきつつある人間だから、と言われてしまえば、返す言葉もないようなぼくだが−このぼくには、何かにつけ世間の時流を後追いする教会の姿が目立つように見えてならないのだ。流行語大賞風に言えば、例えば「寄り添う」。つい最近まで、ほぼ猫も杓子(しゃくし)も状態で巷に溢れた言葉である−今もまだ、そうかも−。テレビの企業コマーシャルにも登場したし、ついには、いかにも灰色の政治家先生までもが口にしていた。そんなキャッチ風の言葉を、ぼく自身、そこここの説教で何度耳にしたことだろうか。そこにその教会の真摯で実存的な息づかいが感じられたなら、それはまさに尊い言葉と言えよう。けれども、ぼくの出席した教会は−申し訳ないが−どこもそんなふうではなかった。軽かったのである。イエスに従うキリスト者というのであれば、それは自身の生き様が懸かったものではないだろうか。ある種、命懸けとも言えるような・・・。ラグビーの流行語、あの「ワンチーム」もそうだった。これもまた、訪ねた教会で繰り返し聞かされたのを覚えている。難しい教会をなんとか一つにまとめたい、との牧師の思いからだろうか。だが、ここでも、それは安易に響くものだった。そんななか、盛り上がるファンの熱気を喜びながらも、しかし、かつて代表チームのスタッフを務めた一人がインタビューでこう語っていたのが心に残っている。「ワンチームと言えるようになるまでに、彼らの間にどれだけの激論や葛藤、格闘があったことか。それなしには・・・。それがあって初めて、今のように一つになれたんですよ」。浅薄な合い言葉ではない、と言いたかったにちがいない。そういえば、「(ハン)パない」ってのもあったっけ。どこでだったか、「イエス様、パない」とか何とかいうポスターを見たこともある。はてさて、次はどんな言葉が教会に溢れるのだろう? サッカーワールドカップでの最新語、「新しい景色」かも。でも、それって一体、何のこと? そこに、どれほどの深みが? 閉塞の中の気休め的元気づけでないことを願いたい。

 余談が長くなってしまった。ぼくが言いたかったのは、つまりは、教会でもよく言われるようになった「インクルーシビティー」という概念もこの種の軽いものにならなければよいのだが、ということなのだ。言葉や概念がキャッチレベルの軽々な次元に留まり、その内実が底の浅い浅薄なものになってしまうとしたら、それはなんとももったいなくはないだろうか。自らが創出したのでないもの。巷に登場したものを後追いしただけのもの。そうしたものはやはり、内実が希薄になる危険性を孕(はら)んでいると言えよう。ぼくの見るところ失礼ながら、事が教会に移ると、社会で生まれた元々のそれがなぜか、一段浅くなる向きがあるように思われる。聖書にはむしろ逆に、何事かを生み出す深い力が内包されているはずなのにと、信仰未満のこのぼくであってもそう思わされているのだが。実際、そうしたものが具現されることを期待するからこそ、ぼくはこうしてこのエッセイを書き続けてもいるのだ。

 インクルーシビティーという用語は日常的には「インクルーシブな(包括的な、包摂的な)」という言い方で使われるのがほとんどだが、時に「ダイバーシティー(diversity。多様性)」と互換的に用いられることもある。その本質は繰り返しになるが、多様な存在を排除せず、異なる有りようを受け入れて共に生きる、ということである。

 ではあるが、そこにはしかし、しばしば気づかずにいることがある。その本質を真実炙(あぶ)り出すリトマス試験紙のようなものと言ったらよいだろうか。それは、本当のインクルーシビティーとは、各人が自らの理解や意見、立場、思想、信条、信仰・・・を "抑えられることなく口にし" "それらを明らかにしたうえで" そのうえでなお共にあることが保障され、喜ばれるということであって、それがないところでは実は、それは本来のインクルーシビティーとは言いがたい、ということである。

 というのも、このリトマス的本質を知ってか知らずしてか、いろんな人がそこに混在するというただその一事をもって、自分たちのグループはインクルーシブで誇るに足る、とそう思い込んでいるふうな人たちをよく見かけるからであるもしかすると、その差異に気づいてはいるが、それに触れないようにしているのかも。だとしたら、そこにはさらにも厄介な問題が潜んでいることになるが。いずれにせよ、そうしたところでは概して、余計なことを不用意に言わないようになり、自身の色をなるべく出さないようになる。互いの相違で緊張や摩擦が起きないようにするためであり、皆の間にギクシャクが生じないようにするためである。兎にも角にも、和を保つ。雑多なみんながいるんだから、抑制的に振る舞って、なにしろ全体の平穏な維持継続に努めよう、といったところか。そして言われるのが、こんなにいろんな人たちがいて、そのみんながぶつからないでうまくやってるでしょ。自分たちはインクルーシブなグループだから、というわけである。だけど、言いすぎると、気まずくなる。出しすぎると、いずらくなる。だから、居場所を保つため、分をわきまえ、自分を抑えていくとしたなら、それがはたして、本当にインクルーシブな在り方と言えるのだろうか。ぼくにはむしろ、ソフトな全体主義とも言える、危うい感触さえ感じられるのだ。もちろん、他の人たちへの心配りもないまま、自分の言いたいことを好き放題 勝手に喋るようなことをぼくがここで言わんとしているのでないことは、賢明な読者の皆さんなら分かってくださると信じている。しかるべき配慮や心づかいが必要なことは、一つの同じ場を共有する共同体なら、それがどんなものであれ、そこに求められるのは言うまでもない。ぼくが言いたいのはそういうことではなく、真摯な思いを内に抱く者たちがそれを躊躇(ためら)うことなく率直に吐露し合えるということ。そのことが、インクルーシブなグループにとっては重要な要素になるということである。過ぎた自制が暗黙の前提となっているグループ。つまり、疑問や批判も含め、各人が自身を語って表わすことを控えないと、そのようにして自分を圧(お)し殺さないと成り立たないようなグループ。そうしないと、そこにいられなくなるようなグループ。それがはたして、本当にインクルーシブな共同体と言いうるのかどうか、ということである。要するに、共に在ることの内実を蝕んで空洞化させるような、そうした有りよう。インクルーシビティーで問われていることの中心の中心はそこにこそあると言えよう。

 翻って、キリスト教会の現状だが、ぼくが今回このようなエッセイをしたためているのは、そこに同様な危惧を憶えるからである。ここ数年のこととしては、たしかに、その種の場を持ちにくくした新型コロナの影響もあるとは思われる。けれども、全般的な傾向としては、以前から1990年代くらいからだろうか明らかに、一つの現象が目につくようになった。教会から目立って、議論が減少したことである。言葉を換えれば、異なる意見を交換し、それらを突き合わせながら時には、ぶつけ合いながら共同体としての在り方やその方向性を探る営為である。例えば、ぼくらは折に触れ、協議や会議の場に陪席させてもらうことがあるのだが近年とりわけ気になるフレーズがある。冒頭、司会者がしばしばこう言って、その協議を始めることである。「批判はしないで、みんなで協力して話し合うようにしましょう」。このように言わせる背景には、一体、何があるのだろう? 言い争いや悶着ばかりが続いた当該教会の歴史があるのか。はたまた、関係者の(自己)防衛機制(self-defense mechanism)が働いた結果か。それは知る由もないが、ただ現象的に言えることとして、一つのことだけは確かなように思われる。それは、「批判」と「非難」の違いが理解されていない、ということである。すなわち、健全な批判は元々、より良きものを求める建設的なものであり、それは悪意の伴うつまり、悪口の非難とは本質的に違っている、という理解である。本来の議論を真っ当にすることができず、すぐにも感情的な言い争いにつまり、口喧嘩になってしまう教会を、残念ながら、ぼくらは一つならず、実地に知っている。両者の区別のないところ、それは当然の成り行きとも言えよう。信仰の共同体を自称する教会にしては未信者のぼくが口幅ったく、まことに申し訳ないがいかにも稚拙で、成熟さに欠けるように思えてならない。

 中身の伴った対話なしには、事の内実は空虚なものとなり、骨粗鬆症に陥るのは避けられまい。そして、対話というのはそもそも、異なる者たちが異質な事柄を披瀝し合って分かち合うことが不可欠で、それは必然的に(健全な)批判を含む意見交換の議論へと向かい、そうなることでその内実が深まるようになる。そうした中身のないところでは段取りや手続きばかりが問題にされ、ハウツーや体裁ばかりが取り上げられることになろう。そこでは皆が仲良く活動し、一つとなって体を動かしはするものの、異なる者たちが内なる深みを開いて語り合い、問い合い、そのようにして本当の意味で自身を分かち合うということが希薄になっていく。

 ぼくが言いたいのは、ソフトな全体主義にもなりかねないそのようなところでは、信仰に伴うはずの本来的な内的活力も損なわれていくのでは、ということである。監督制などを基本とする教派・教会であれば、それでも、そこにさほどの違和感や活力の後退はないのかもしれない。だが、それがもし民主的な在り方を標榜する会衆派系の諸教派・諸教会であったとしたら、それを小さな問題と済ますことはできまい。教派・教会の根幹に触れる問題で、そこでの内実と活力を左右するとも思われるからである。危惧されるのは、時に牧会等という名で人心の管理が行なわれ、自然で自由な語り合いが抑制されること。そのようにして、知らずのうちに、全体が一つの同色に染め上げられていくことである。しかし、民主的であることを旨とする教派・教会にとって、それは命取りにもなるのではないだろうか。

 繰り返しになるが、異なってあることを抑えての共存や異を隠しての共生は本当の意味でのインクルーシビティーとは言いがたい、ということである。違いを誠実に理解し合ったうえで、なおも共にあること。ぼくらはそのようにあって初めて、インクルーシブな社会、インクルーシブな共同体と言いうるのではなかろうか。LGBTQ一つをとっても、自分の考えや主張をあまり言わないでおとなしく暮らしていたら受け入られる、という社会だとしたら、それが本当にインクルーシブな社会だとは思われない。

 その方面ではよく耳にすることだが、政権を維持したいと願うなら、治安と経済をうまくやることがその秘訣、と言われたりする。しかし、そればかりが政治の中心になると、人々の知性や感性、精神性が劣化し、内的空洞化が進展。人間を人間らしくあらしめるものが忘れられ、生存と繁栄だけに駆られる、いわば動物的な存在に人を至らせるようになる。それでは、本当の意味での活力も内から生まれ出ることがなくなるにちがいない。

 これを教会に重ねると、どういうことになろうか。治安とは、ゴタゴタが起こらないように、全体を上手に管理し、時に規制や禁止も付すること。他方、経済とは、教勢の確保ということか。そのためにあの手この手で出席者を増加させ、それをもって財政の維持・拡大を図ること、と言えようか。信仰の教会とて、現実にはたしかに、そうしたことを一切無視して成り立つものではあるまい。それはもちろん、分かったうえでのことである。しかしながら、である。しかしながら、そのような治安と経済ばかりに心を奪われ、より根源的で本質的な、つまり教会を教会あらしめるそもそもの根本を置き去りにすると、政治のそれと同じ落とし穴にはまるように思われる。そうなれば、教会とは、信仰のそれであろうから教会や信仰の本来的なことがおかしくなっていくのは当然で、避けがたいことと言えよう。

 なればこそ、今回のインクルーシビティーの問題もしかり。インクルーシビティーもそのようにして、教会とその信仰や事柄の本質的理解が曖昧なまま、建て前の言葉とは裏腹に、インクルーシブでない実情が現出しているようにみえるのである。インクルーシブを謳いながらも、実際には、意を異にする者がいずらいようなその現実が・・・。

 インクルーシビティーとは、−ぼくが思うに−自身でない存在に対する、その思いに対する感受性の鋭さ、深さ、真摯さにその基盤があるように思われる。

 それと−直接ではないが、深いところで本質的に−関係する話を、もう半年ほど前になるだろうか、同人仲間の一人から聞く機会があった。以前、酒席での説教談議でご紹介した主婦作家の女性を覚えておられるだろうか。近くの礼拝に通い始めたころ、そこでの暗黙の習わしを知らずに、教会ではあまり聞いてはいけないことを尋ねてしまったという、あの女性である。その話によれば、彼女にはクリスチャンの友人がいるとのこと。仲の良い友だちで、彼女には小学生の男の子がいたという。ところが、その友人がその子をなんと、つい一年前、交通事故で亡くしてしまったというのである。救急搬送された病院の枕元で、その友だちは必死になって祈り続けた。がしかし、その子が彼女のもとに戻ることはなかった。愛する子を失った悲痛な母親の姿を、同人の彼女はなす術(すべ)もなく、ただ見守るしかなかったという。そんな彼女が、それからまだ日も浅い、それこそ半年ほど前である。ある牧師の説教集を目にしたというのである。そして、そこに書かれていることに、言いようのない悲しみを憶えた。心が痛くなって、言葉が出なかったという。それは、祈りが聞かれないのは・・・と説く一編で、次のように続いていたそうだ。祈りが聞かれないのは、その祈りが足りないから、祈りが御心(みこころ)に合っていないから、それが神の時(カイロス)とは違うから・・・と。だから、諦めずに祈り続ければ、祝福は必ず来る・・・と。同人の彼女は、言っていた。人の痛みの分からない、なんという感受性のなさか。友だちは神にすがって、必死に祈ったのだ。その祈りに不足などあるだろうか。しかも、彼女には、その瞬間しかなかった。諦めずに祈り続ければ・・・などと言ってられる時間はなかった。彼女にとっては、神の時はその瞬間しかなかったのだから。それでもなお、御心ではなかったから、と言うとしたら。彼女は神に顧みられなかったとでも言うのだろうか。そんなひどい・・・。

 これを聞いて、このぼくもまた、言い知れぬ悲しさに落胆させられた。そのような説教がいまだになされているとは。しかも、おそらくは訳知り顔で、まことしやかになされているのだろう。そして、それがそのまま、口写しでコピーされ、思慮の足りないあちこちに拡散されていく。ぼくも思った。必死な祈りも虚しく事実、彼女の友人は素直なクリスチャンだったそうだ我が子を失った人の前ではたして、そんな説教ができるだろうか。できるとしたら、それはあまりに無神経で、人の心情を想う感性が貧しすぎはしないか。観念的で目の前の現実が心に響かず、教条的で、いかにも人間が不在なのだ。ひょっとすると、そうした人にかぎって、寄り添うなどとの言葉を安易に使うのかもしれない。神様のご計画という言葉もよく耳にするが、これも同じ類いのように思われる。神のことは人にはよくは分からないのだから、それが神のご計画なのか不明なだけでなく、ご計画で "ない" ということもまた、結局は不明なはずだ。であれば、そうした言葉を軽々に口にするのは控えるのが賢明とは言えまいか。他者の現実に対する感受性というのは、時に、ノンクリのほうが鋭敏なのかもしれない。なぜなら、キリスト教に限らず、宗教的な信仰や信条というのはしばしば、人間の感性に蓋をし、それを機能不全に陥らせることがあるからだ。そして、そのとき、公に掲げるインクルーシビティーはその実体が危うくなり、それとは裏腹の実態を呈するようになりかねない。蛇足だが、ウクライナで無惨にも殺害された母親たちのことが今、ぼくの脳裏に浮かんだ。命乞いも叶わず、踏み込んできたロシア兵に自らの子どもたちの前で犯され、そしてなす術もなく殺されていった母親たちだ。そこには、祈りも叫びもあったにちがいない。彼らは、その多くが(東方正教会の)クリスチャンなのだから。けれども、それはあっという間の出来事。瞬間の惨事だった。そこに、ぼくらの感受性はどれだけあるだろうか。

 話をしてくれた当の主婦作家は、−何度も繰り返すようだが、事ほどさように−感じたことや考えていること、疑問に思うことを真っすぐ率直に吐露するタイプの女性である。そうした人物には、ぼくなどは好感を憶えるのだが、しかしなので、彼女は教会でも、信仰のこと、社会のこと、個人的なこと、家族のこと、倫理や道徳のことなど、様々な事柄について、自身の問題意識を口にするらしい。ところが、そんな彼女が最近、教会でなぜか、気まずい空気を感じるようになったと言うのである。すなわち、彼女曰く、自分にとって大切な思いや疑問を皆の前で率直に口にすると、その場の空気がどこか気まずいものになる、と。特に、意見や考えに違いがあるとき、そうした傾向が強まるとの由。そんなふうで、話が深まらず、あまり中身のある話ができないというのはなんか寂しくもあり、どこか空虚な感じも残って・・・と、彼女はそう呟いていた。

 要するに、ぼくは思うのだ。教会がインクルーシビティーを旨とするなら、第一に、他者の思いを感じ取る深く豊かな感受性を大事にすること。そして第二に、相違や批判も含め、そうして知ったあれこれを受け止め、理解し、そのうえでそれらを分かち合う器の大きさを持つこと。インクルーシビティーにはそれが欠かせず、そうなって初めて、本当にインクルーシブで包摂的なところと言えるように思われる。キリスト教会は教派を問わず、ほぼどこに行っても次のように謳って、ぼくらに呼びかけてくる。「教会は誰でもいらっしゃれます。どうぞ、皆さん、教会にいらしてください」。これを聞くにつけ時に、見るにつけ、ぼくはこう思わされ、そうあることを願う思いにされる。言葉のとおりに、そこが心ある人たちみんなの場所となり、誰もが自分らしくいられるところ。違う自分を出し合ってなお、互いが豊かに大きくされるところ。そのようにして、多様な者たちが共にいて、一緒に生きられるところ。教会がそんなところになれば・・・、との思いである。間違っても、「教会は誰でもいらっしゃれます。皆さん、いらしてください。でもあんまり、自分自身を出しすぎないように。ギクシャクして、平和が乱れますから」などといった、看板に偽りありにならないことを願っている。実際、それは主婦作家の彼女が抱き始めた疑問でもある。そう感じてしまった彼女がこの先、どんなになるのか。ぼくの見るかぎり、つまりぼくが聖書から読み聴きするかぎり、彼女のほうに理があると思われるので、ぼくとしては頷くしかなく、複雑な思いにさせられている。考えてみれば、彼女のようにして教会を去っていった人も少なくないのかもしれない。

 インクルーシビティーの前提は、多様の者たちの真摯な分かち合いにこそある。すなわち、異質な者同士の開かれた誠実な対話に、である。インクルーシブな関係はそれが保障されて初めて成り立つもので、聖書の言う隣人性とか隣人愛というのもまた、しかりであろう。そこには時に意見の交錯や摩擦といった緊張も伴うが、そうした真実なものがその欠片(かけら)が?他のどこでもなく、まさに教会で経験しうると期待するからこそ、人はそして、このぼくらもそこに足を向けるのだと思う。事実、ぼくなどは、聖書というのはきっと、そうしたものを生み出す力を内包しているはず、とどこかで期待しているようにそして多分、信じてもいるように思う。

 終わりに、最近聞いた興味深い話をご紹介して、今回のエッセイを閉じることにしよう。

 超教派の牧師たちが会して持たれた協議会でのこと。話が神学校の入学問題に及んだ。出席者の一人が躊躇いながら言った。「前科のある人はやはり、どうなんでしょう?」。と、間髪(かん はつ)を容れず、言葉が返った。「どうして、いけないんですか」。見事な切り返しである。ぼくの解するところ、前科とは「前」があるということ。前があるとは、「脛(すね)に傷」があるということ。脛に傷があるとは、「疚(やま)しい隠し事」があるということ。そして、だとしたら、前科のない人など、一人もいないということ。なぜなら、「義人はいない、ひとりもいない」と聖書にあるのだから、ということか。切り返しの真意がこのとおりだとしたら、現実の諸課題はさておいて教会におけるインクルーシビティーの意味合いを象徴的に物語る、実に的を射た返答ではないだろうか。誰もが疚しさを隠し持ち、そのようにして脛に傷を持って、前を身に帯びているからである。であれば、前科のある者もそこに安心していられるところ。それだけでなく、さらには異を口にしてもなお、変わらず安心していられるところ。聖書の言う信仰の共同体たる教会というのは、そういうものなのではないか。そんな教会であれば、ぼくは喜んで行きたいし、そうした教会が増えることを心から願っている。同人の仲間たちもきっと、同じにちがいない。

 

 

©綿菅 道一、2023

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なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ(0-2)-書き出し(2)-

2022年07月07日 | 基本

 

 

「なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ」(0−2

書き出し(2

 

 神は死んだ。

 唐突な切り出しで驚かれただろうか。もしそうだったら、いきなりの不躾(ぶしつけ)なもの言いをお許し願いたい。ご存じのとおり、かの哲学者ニーチェがツァラトゥストラに語らせた言葉だ。なんとも挑発的な宣言だが、ぼくが今回、そのフレーズをもってこの一文を始めたのにはもちろん、それなりの理由がある。それは、と言えば、ほかでもない。ぼくらは今や、神が本当に死につつある時代に差しかかっているからだ。本当に、というのは、それが事の実相として、ニーチェの言うそれを凌いでそうだからである。

 そもそも、ニーチェが生きたのは19世紀のドイツで、神という存在がリアルに意識され、そのようにして、神が人々の間に「実在」した時代だった。神は広く、日常的に生きていたのである。言うまでもなく、ニーチェが「神は死んだ」と言ったのは、単にキリスト教の神を指してのことではない。それは、「神」という言葉に象徴される、存在や世界や価値の本質的・絶対的な基準を意味している。がしかし、当然ながら、いわゆるキリスト教の神がそれと無縁なわけでもない。当時の社会に実在していたそれが背景としてあったことは容易に想像される。ちなみに、ニーチェがルター派の牧師の長男だったことを思うと、これまた興味深く考えさせられる。要するに、ニーチェが「神は死んだ」と言ったのは、信仰的にはもちろん、概念としても思想としても、神がいまだ明確に生きていた時代だということである。神が現役の存在として生きるその社会にあって、その社会に向けて「神は死んだ」とニーチェは言ったのだった。

 ところが、ぼくらの生きる今のこの時代はどうも、それとは少しく違うようなのだ。ニーチェの時代には、神的なものを否定した彼自身の中にも依然として、対立概念としての神が存在した。しかし今や、概念としても思想としても、感覚としても意識としても、-はたまた、もしかすると信仰それ自体においても-神が消えつつあるように感じられてならない。本当に、神は死にかけているのではないか、と。

 ということで、今回は前回お約束のとおり、多くの教会の今後を左右すると思われる本質的かつ普遍的な危機情況についてぼくの考えるところを述べさせてもらいたいのだが、本題に入る前に二点、ご了解とご理解を頂きたいことがある。

 一つは、ぼくがここで「神」と言うとき、それは主として、いわゆる「人格神」と呼ばれるそれを念頭に置いていることである。人格神とは通常、意識や感情・意志・知性等を有する、人間に似た独立の存在としての神のことを言うが、伝統的なキリスト教の神がこれに当たることは言うを待つまい。他方、これに対し、例えば自然の事物や力を崇拝して神格化した自然神と呼ばれるものもあれば、それと関連したアニミズム(精霊崇拝)と呼ばれる信仰等、宗教心の対象は実際、様々見られる。そうしたなか、ぼくが危機的とその情況を捉えているのは、人格神信仰のそれである。

 そしてあと一つは、再三のお願いで諄(くど)いようでもあるが、以下に述べることは単なる議論好きの批評ではなく、-自分で言うのもなんだが-キリスト教という宗教をそれなりに大切に受け止めているぼくの真摯な思いの表白であることである。より焦点化して言えば、-前回も最後に記したが-キリストと呼ばれたイエスにこのぼくが心打たれるものを見、そこに自らの生に意義深いものを少なからず感じ取っているからである。今回の連続エッセイは表題からしていかにも批判的な趣だが、そこにはぼくのそうした真情がこもっていることをご賢察願えればと思う。ちなみに、大江(健三郎)さんがこんな一文を記しておられるのをご存じだろうか。「私はキリスト教徒ではなく、聖書についての知識も浅いのです。・・・私はただ、十字架の上で死なれた、そして『新しい人』となられたイエス・キリストがよみがえられたということを、つまり再び生きられて、弟子たちに教えを広めるよう励まされたということを、人間の歴史の中でなにより大切に思っています。・・・中心にあるのは、『新しい人』として生きられた、ということです」(『新しい人の方へ』より)。もちろん、ご本人も言われるように、キリスト教徒ではない大江さんの言葉である。しかも、そもそも文学者であって、時に哲学者ともなる大江さんである。言い回しとしては、十字架の死や復活といったものを、また宣教といったものを思わせる表現が見られはするものの、いわゆる信仰者が言うような意味合いとそれらは同じでないのは言うまでもない。視点においても意味においても、文学的・哲学的・社会的な色合いの濃いものと言えよう。が、ぼくがここで言いたいのはそういうことではなく、巷に言われるクリスチャンでもなければ教会員でもないそのような人たちの中にも、キリスト教という宗教やイエスという存在を重く大切に受け止めている人々がいる、ということなのだ。人間の歴史の中でなにより大切に思っている、とまで言うほどに。つまり、そうした真剣さの中から出てくる言葉。ぼくがこのエッセイで言葉にしたいと願っているのはそのような言葉であり、批判的なそれらもまた、大事なものを思う同じ真剣さから来ている。そして、そうであればこそ、今から触れようとする(今日の教会を取り巻く)本質的かつ普遍的な危機情況についても、お茶を濁すことなく直截に論じたいと思うのである。

 実を言えば、こうした真剣さと危機的情況について、そもそも当のキリスト教会自体がどれだけそれらを意識し、それらにどれだけ体重をかけているか。そのことがまずもって重要で、今後の展開を左右する根底的な要因とも考えられるのだが、実情ははたしてどうなのだろう? もしも、それが(キリスト教)シンパ止まりのぼくら未満のものだったりしたら、危機はさらにも増して深刻に思われるのだが・・・。

 本題に入ろう。教会を取り巻く、今日の危機的情況。それが今回の主題で、要するに、神は本当に死にかけているのでは、との認識がその危機感の中心にあるということである。

 

 まずは、そうした現状を示唆する近年の傾向から見てみよう。アメリカのデータではあるが、同国のPew Research Center(ピュー研究センター)という機関が10年前(2012年)に行った調査の結果がある。Pew Research CenterPRC)は多方面にわたって社会科学関連の調査研究を実施している機関で、独立の組織として高い信頼性を得ている。そのPRC201210月、ホームページに公表した調査報告である。題して、"Nones on the Rise"。「増加するナンズ」と銘打たれている。「ナンズ(nones)」とは特定の宗教的立場に帰属しない人々を総称する呼称で、無神論者や不可知論者はもとより、霊的なものは信じるがいわゆる宗教とは違うと言う人たちも、また宗教の文化的価値は認めるが宗教そのものを信じているわけではないと言う人たちもそこには含まれ、その実態には多様なものがある。が、報告書のポイントは要するに、そうしたナンズが近年、総じて増え続けているということなのだ。増加のペースは速まっており、30歳未満の成人に至っては、今やその3人に1人がナンズとの結果が出ている。割程度だったらさほどのことでもないのでは、とぼくら日本人は思うかもしれないが、かつてはキリスト教国と言われた-もはや、そのように言う人々は少なかろうが-そのアメリカでのことだ。これまでからしたら、大した問題なのである。調査は詳細にわたり、ここでその一々をご紹介することはできないが、今回のエッセイとの関連で興味深くもあり、事の大きさをさらにも物語る現象として、一つのことだけ押さえておきたい。すなわち、ナンズと言われるその人たちの中には、次のような人々もまた含まれていることである。元はいわゆる教会員だったが今は教会を離れている人や、自分はクリスチャンだと自認はしているもののそもそも初めから教会とは無縁な人など、つまりは、いわゆる教会という所から距離を置き、どこの教会にも属することなく、自分流の信仰に従って生活している人たちである。換言すれば、神という存在がそれなりに具体的でリアルだった従来のようなそれとは違って、信仰と呼ばれるものの質が少なからず変わりつつあること。それを、調査結果は示唆していると言えよう。

 PRCの数字は前述のとおり、2012年のもので、現在はそれからすでに10年が経っている。また、調査はたしかに、アメリカのそれでもある。しかしながら、社会的情況の推移を見るとき、ナンズの傾向は強まりこそすれ、弱まっているとは思えない。と同時に、日本は伝統的に、自然宗教的な色合いの濃い国である。「なんとなく」の類いの宗教心・信仰心は、また特定のものへの帰属意識の薄いそれらはアメリカ以上に親和性が高く、数字は総じて、アメリカをかなりの程度上回るにちがいない。だとしたら、以上に述べた趨勢は2022年のこの時も進行中で、かつ我が国にも妥当するのではないか。そう思われてならない。その意味で、日本でも同様な調査研究がなされればと思う。ちなみに、かの国ではさらに進んで、「ダンズ(dones)」との呼称もすでに生まれていると聞く。「見切りをつけた」とでも訳そうか。熟慮の末、既成の組織教会を去ったり、果ては信仰そのものを終わりにする人々の顕在化とその増加である。

 いずれにせよ、こうした傾向は概して世界的なものに見え、とりわけ欧米やその他、先進国と言われる国々では顕著に思われる。そして、人格神を信仰の中心に据える宗教に、それはいよいよ避けがたい難題をもたらすことだろう。その要因は、と問われるなら、-もちろん、単純であろうはずがないが-根源的なものとしては、主として2つの事柄が考えられる。一つは、神を舞台の袖に追いやる、直接の要因。そしてあと一つは、ボディーブローのようにしてそれに追い討ちをかける、間接的な要因である。すなわち、前者は科学研究の飛躍的進歩。後者は永遠の未解決、いわゆる神義論(しんぎろん)の問題である。言葉を換えれば、今や宇宙や生命の起源に迫ろうかという科学の急速な進歩を前にして、顔を持った人格神のような神なんか本当にいるのかね、といった疑念が広く深く浸透し続けていること。加えて、-歴史的には決して新規なテーマではないが、世界各地で明白な悪があからさまに行われ、無辜(むこ)の命がなす術もなく奪われ続ける昨今の惨状を目の当たりにし、時ここに至って-義を掲げる神がいるんだったら、なんでこんな悪行がやりたい放題に野放しにされるのかと、神の存在を疑わせる不条理な思いがこれまでにも増して拡大していること。これらの現実が根底的な要因となって、人格神の神信仰を危ういところに追い詰めつつあるということである。それは否定しがたい現実であり、しかも、この先間違いなく、さらにも差し迫ったものになると予想される。

 二千年来のそれとは決定的に異なる、存在論的な転換点。そこに、人格神宗教の一つとして、キリスト教もまた立ち至っている。これが、今回の論点の中心と言える。

 実際、科学研究の進展は目覚ましく、その探究は加速度的に進んでいる。-確定可能な事実の枠を越えて断定的に物事を言う、いわゆる(〜主義的な)科学主義には極めて危険な側面が伴うが-客観的な事実の学としての科学は信仰の範疇においても相矛盾するはずがなく、軽視や無視は心して避けねばなるまい。事実の軽視・無視は、信仰を盲信や妄信へと変質させる。

 が、であるからこそ、事は小さくないのである。一方で、世界の知が集結して、宇宙の探査を極め、その起源と生成の歴史を解き明かそうとしている。他方、生命科学の分野でも、同様に世界の知が集結し、その起源と生成の過程を明かそうとしている。こうして、微小な領域から広大なそれに至るまで、未知の世界のベールが次々と解かれている。IT(情報技術)やAI(人工知能)の進歩がこれを強力に後押ししているのは周知のとおりだが、例えばそのAIは-3年ほど前にも述べたとおり-いずれ、人間の知能を間違いなく凌駕すると言われている。いわゆるシンギュラリティ(技術的特異点)と呼ばれる現象でありまたその瞬間だが、それはわずか23年後の2045年というのが関係の識者たちのほぼ一致した見通しである。実際、科学の探究はどこまで加速するのか。そして、こうしたなか、その行く着く先はどこで、何がどこまで明らかになるのだろう? 何もないところから-スペースもゆらぎも温度も・・・何もかもが全くないところ、すなわち完全なる無から-はたして何かが生まれるのか、ぼくにはいまひとつよく分からない。いわゆるクレアチオ・エクス・ニヒロ(無からの創造)をめぐる議論になるが、ただ確かなことが一つある。それは、ここに至って、神の影がいよいよ薄くなり続けている、ということだ。なかでも、人格神のそれが。

 そして、これに-じわじわと、しかし確実に-拍車を掛けているのが、神がいるんならどうしてこんなことが、という疑念の思いである。これは決して今に始まったものではなく、歴史に長く深く、そして澱(おり)が溜まるように続いてきた、言いようのない割り切れなさである。いわば、古くて新しい未決の不条理とでも言おうか。神がいて、その神が義なる存在だと言うんなら、なんで世界に悪がなされ、それがこんなにも蔓延(はびこ)るのか。神の義と現実世界の悪は相矛盾しており、そうしたなかにあって、神の義というのをどう説明し、両者にどう折り合いをつけるのか。そんな、いわゆる神義論と言われる難題の底流にある、ぼくらの理不尽な思いである。広く知られたところでは、エリ・ヴィーゼルの例が挙げられようか。第二次大戦下、ナチスの強制収容所に入れられたユダヤ人作家で、ホロコースト(大虐殺)の記憶を証言するその自伝的小説『夜』で著名である。1986年にはノーベル平和賞も受賞している。しかし、敬虔なユダヤ教徒だったそのエリ・ヴィーゼルの行き着いたところとは? それは、自分の中で神が死ぬ、という経験だった。収容所に着いた一日目に、いたいけな幼児が焼却炉に投げ込まれるのを目にしたからである。その後も、何百万人もの-600万人余というのが通説だが-ユダヤ人同胞が無惨に殺されていくのだから、同様に神と決別した人たちも少なくない。キリスト教の神は基本的にユダヤ教の神と同じはずだから、他人事(ひとごと)では済まない話ではなかろうか。神がいるんだったら、こんなにもひどい悪が罷(まか)り通って、それを覆す何事も起こらないなんて、なんでなのか。神の義というのを、理屈が通るように説明してほしい。そうした割り切れなさ、やり切れなさである。

 こうした感覚は今また、リアルに、しかもより身近に浸透しているようにみえてならない。なぜなら、ミャンマーやウクライナで明白な悪がなされ、罪なき人々がなす術もなく殺害され続けているからである。同種の状況は、ぼくらの同時代を見るだけでも、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ルワンダ、シリア、香港・・・と、なんと多く繰り返されてきたことだろう。神信仰に対するその影響は決して小さくないように思われる。もしかすると、それは日常の些事にまで入り込み、神様がいるんならなんでこんなふうに、などと、ぼくらを疑い・不満・不信へと進ませるかも・・・・?

 つまり、顔を持った人格神が存在論的に-すなわち、実体として本当に存在するのかという疑念の-危機に面しており、その信仰がリアリティーを失いつつあるということである。ちなみに、欧米ではすでに珍しくもないが、現役の教会員でありながら、イエスの生涯についてもその言葉や教えについても、実はあまりよく知らない人たちが増えているという。そういう現実を知ると、ぼくなんかはすぐ、それじゃ何を信じてなんで洗礼を受けたんだろう、と不思議に思わされるのだが、要するに、顔のないなんとなくの神が教会内でも拡散しているのだ。欧米でそうなら、キリスト教の伝統の薄い我が国ではさらにもそうだろうと推測される。従来のキリスト教からしたら確かに、危機の時代と言えよう。そして、当のキリスト教関係者らがもしもこれに気づいていないとしたら-また、気づいていても、必要な議論を始めていないとしたら-、それこそ、本当に危機的と言わざるをえまい。(かつて一度、殺されかかった人格)神が今や本当に姿を消し、今度は本当に死んでしまうかもしれないのだから。

 これが人格神的色彩のさほど強くない宗教であれば、話は少しく違ってくる。

 例えばぼくらのよく知る仏教だが、その中に、初期仏教に最も近い一つとされる上座仏教という流れがある。その高僧(スリランカのアルボムッレ・スマナサーラ)の言である。曰く、「仏教は全く宗教ではないのです。仏教には神様などいないし、信仰しなさいということも全くない」。つまり、悟りを開いたお釈迦さんが教えてくれた法というものを知って、それに従って生活すること。それが上座仏教の根本だと言うのである。-仏教についてはあまり勉強もしていないぼくが言うのもなんだが-原初の仏教というのはおそらく、そういうものだったのではなかろうか。上座仏教の伝統を受け継ぐスリランカでは今でも、お釈迦さんが生きていて見てるよ、などと言うと、小さな子どもでも笑ってしまうという。観音さんや〜〜さんに至ってはなおのことである。要するに、人格神の信仰とはかなり距離のある特質。そうしたものが、仏教には宗派を超えて多かれ少なかれ、本質的に横たわっているように思われる。だとしたら、顔を持った神がいなくなったとしても、それが決定的な問題になるとは考えられない。事の中心は、神の存否ではなく、法の悟りなのだから。

 また、神道は神道で、その根底には-研究者がたびたび言及しているところだが-自然崇拝的な-とりわけ、豊穣の自然を崇める-要素が息づいていて、そこにアニミズム(精霊崇拝)的性格も見て取れる。これもまた、人格神の信仰とはだいぶ違っており、いわゆる宗教心や宗教的心情といったものを基底にしてこの先も生き続けることはそう難しくないと思われる。

 さらに言うなら、カトリックのそれも、メインラインのプロテスタントとは微妙に異なっているように感じられる。-カトリックについてはいまだ勉強不足なので、間違っていたらお許し願いたいが-ぼくが興味深く思わされるのは、カトリックの内的多様性であり、その幅の広さと奥の深さである。ぼくの見るところ、それは人格神信仰の本丸から自然宗教的な信仰まで、-言が過ぎるやもしれぬが-宗教的要素のほぼすべてを包摂している感すらする。多様性を掲げる教派はプロテスタントの中にもあるが、カトリックの多様性はそれをはるかに凌駕しているのではなかろうか。神学的な論争や世界宣教の苦闘から、また組織の維持・拡大の必要性から・・・と、それを必然にさせる理由があったのだろうが・・・。いずれにせよ、同じキリスト教でも、カトリックは事柄への対応力に幅があり、人格神信仰の危機にもそれなりに対処していくように思われる-だからといって、自動的にそのすべてが良ということには、当然ながら、必ずしもならないが-。

 限られた例だが、例えばこうした宗教や教派は、その人格神的色彩の薄さや内的多様性の故に、危機の衝撃を全面的に受けずに済むように思われる。

 問題は、人格神的信仰を中心に据え、専らそれを強調してきたプロテスタントのメインライン諸教派であり、-信者でもないのに、なぜか-容易にはそれと決別できずにいるこのぼくやぼくの同人仲間のような者たちなのだ。

 信仰というものの捉え方・受け止め方によってはたしかに、事はさほどの問題でもなく、大袈裟に難儀するようなことでないとも言えよう。例えば、キリスト教の信仰を-自然やその秩序を通した-一般啓示的な次元で良しとし、-イエス・キリストという特定の個的存在における-特殊啓示的なそれをさして問題にしなければ、頭を悩ますこともずっと減るにちがいない。しかし、それで、事は本当に済むのだろうか。なぜなら、それは-前述の神道のところで出てきた-宗教心や宗教的心情を核とする信仰にシフトすることであり、イエスという存在の質と重さが、またイエスが説いたその神の質と重さが変容することを意味するからだ。歴史的な三位一体論の神学にも変更を迫るやもしれない。俗な言い方をすれば、イエスの存在感が薄くなり、その神も気持ち的ななんとなくの神様に薄れていく、とでも言おうか。それはそれでいいじゃないか、と言うんなら話は別だが、はたしてどうなのだろう? こんな風潮もあってのことだろうか。実際、説教にイエスの名が登場する-説教でそれが語られる-頻度が、このところ、間違いなく減ってきている。代わって、神とか神様とかいった言い方が明確でない抽象的な仕方で口にされることが多い。細かな統計を取ったわけではないが、戦後の教会をずっと見てきたこのぼくの観察である。

 そして、こうした危機的情況下でのプロテスタント諸教派の有りようなのだが、それがまた-率直に言って-ぼくには少々分かりにくいところがあり、あれこれと考えさせられている。すなわち、ある教会・教派は、これまで述べてきたような問題などそもそも存在しないかのように、我関せず。教条主義的な信仰に熱心である。観念的な神学主義も体験的な聖霊主義も共にこの類いに属し、表出の形こそ違え、眼前の現実に向き合うことには消極的みたいだ。唯我独尊といったところだろうか。見たくないものは見ない、のオストリッチ(ダチョウ)症候群に陥らねばいいのだが。と同時に、社会的な活動に力点を置く教会・教派も増加している。信教の自由-より広義には、思想信条の自由とか良心の自由とも-や反戦・非戦といった従来からの取り組みはもとより、近年は人権や社会正義、福祉、被災、貧困・・・といった諸問題へのそれが目立っている。それらはイエスの教えを現実の生き様に具現するとともに、いわゆるミシオデイ(神の宣教)の神学などを踏まえて、教会の務めをより広範かつ包括的に実践するものだと言う。それらは極めて重要な視点で、聖書を読む者は心して忘れてならないことだと思う。けれども、その一方で、-直接的な活動とは違うが、理解を容易にするため、失礼ながら、福祉(的)という繋がりで身近な分かりやすい例をご紹介すると-例えば、教会の出席者はほとんど高齢の女性ばかり。講壇から聞こえてくるのは、ぼくが聞いてもよく分からない説教。がそれでも、不満や要望が出ることはない。どうやら、説教を聞くことが教会に来る主眼ではないみたいだ。最近、そんな教会が散見され、残念ながら、その数が増えているようにみえるのだが・・・。そのようにして、礼拝がお交わりの場と化し、それが-正確には、礼拝の後のお話しの時が-教会に来る最大の誘因となってしまった、そんな教会である。高齢者の(牧会)福祉的ケアの一環として、と言えば言えなくもなかろう。しかし、ほとんどそれだけ、となってしまったら、何かがやはり欠けているように思われてならない。このほかにも、そもそも哲学的・神学的・思想的思考にはあまり関心がなく、それらに無頓着に楽しいプログラムを用意し、いかにして人を呼ぶかに腐心しているところなど、昨今の教会の有りようは実際、様々と言えよう。

 -言うまでもなく、教会もその一つだが-組織が今日のように行き詰まり、先行き不透明な閉塞情況に立ち至ると、それぞれに多様な対応を見せる。それが問題の本質に向けられた的確なものであれば良いが、時に表向きの言葉や建て前とは違って、実は組織の維持や延命に向けた一時しのぎの便法でしかないということもある。ぼくがいつも違和感を感じるのはそうした浅薄な対応であり、対症療法的な底の浅さなのだ。今回の危機的情況についても、上に記した各々に対し、だからそれでイエスという中心の存在はどこにどうあるのか、そもそも神という存在のリアリティーはどこに、と問いたい思いに駆られる。そして、教会の中心にあるはずの礼拝や説教の存在感はどこに、とも。そうでなければ、教会がわざわざそこにある必然性は限りなく後退し、例えば人道的団体等があれば、それで十分事足りることになろう。事実、実効性の面からしたら、社会の諸団体のほうが普通、はるかに優れているのだから。繰り返し、事の根底に立ち戻り、そこから問いを発し、そこから答えを模索する。そして、それをもって現実の具体に向き合い、勝負すべきもので勝負していく。ぼくは-できもしない自分に忸怩(じくじ)たる思いを憶えながらも、しかし-いつもそうありたいと願っている。そうできないとき、小手先の術策をめぐらすばかりで、結局、先に進めなくなることを知っているからだ。

 だから、結局、どうだと言うのか。ここまでのぼくのエッセイを読んで、そう思われる方もきっと少なくないだろう。全くそのとおり。そのとおりなのだ。(プロテスタント)キリスト教を取り巻く情況は予断を許さぬところにまで来ており、しかも問題の根はとんでもなく深く大きいのだから、早く事に向かい、何らかの答えを早急に探らねばなるまい。ぼくら(同人仲間)だって、暇潰しの遊び半分で聖書を読み、キリスト教に向き合っているわけではない。ぼくらはぼくらで、自らの生き方を納得のゆくものにしたいと願い、各人の実存をもってそこに向かっているのだ。求道という姿勢において-自分で言うのもなんだが-好い加減な在り方ではいたくないと思っている。だけれども、-口幅ったい言い方で申し訳ないが、お許しいただきたい-問いに答えるべきはそもそも、いまだ信仰者でないこのぼくらではなく、現に信仰に生きている人たちのほうではなかろうか。日常的に神学しているはずの信仰者の人たちであり、なかんずくそれを専門の務めとしている、いわゆる神学者の人々である。ぼくらもまた、そこから、他では得られない示唆や答えを貰いたいのだ。事は難問中の難問である。容易に答えが出るとは、もちろん思われない。おそらくは、永遠の未解決が未解決のまま続くのだろう。しかし、問題に向かうことを初めからしないとしたら、-再び、失礼ながら-怠慢と言われてもしかたがないように思う。

 今現在のぼくに言えるのは、人格神的信仰をあっさりとやめてしまうなら話は別だが、依然としてそれに拘(こだわ)るのなら、やはり、イエスという存在にいま一度徹底して向かうほかないのではないか、ということである。キリスト教という信仰がその源と基をイエスという存在に拠っている以上-その背後に旧約の歴史と思想があるのは言うまでもないが-、そのイエスの言動や生き様のすべてを、すなわちその生の全体をどう理解し、どう受け止めるか、事はやはり、そこに懸かっているように思われる。

 なのに・・・、ぼくにはよく分からないのだ。なのに、このところ年々、哲学的・神学的な話が聞かれなくなってきているのが。つまり、事柄の中身の議論がなされないまま、その質や妥当性が置き去りにされているのである。それはどうも、難しい神学のことだけでなく、聖書の理解や説教の内容といった日常的なことでも、また伝道や牧会と呼ばれる関わりの働きにおいてもそうらしい。しかも、こうした傾向は教派を超えて少なからず広がっているようで-間違っていたら、ぼくのネットワークの不備のためで申し訳ないが-、しかるべき吟味もなしに事が進められているみたいだ。

 それに代わって、ぼくらが昨今何かと見聞きするのは、組織としての教会・教派の維持延命策である。教勢、財政、制度、システム、販売促進・・・とそれらは広範にわたるが、その特徴はどれもが総じて、教会や教派という入れ物の、すなわち器の扱い方を語るものばかりで、そこに盛られる中身の議論がほとんど見られないことである。組織が行き詰まると一般に、管理や運営の方向に傾斜すると言われるが、キリスト教会も例外に非ずということなのか。喩えて言えば、長年の在庫品を、品質の改善も検品もせずに、製造や包装、流通といった仕方だけを効率的にして販売するようなものに思えてならないのだが、それはちょっと言い過ぎだろうか。けれども、もしもこれが多少なりとも当たっているとしたら、ぼくらはそれを一度や二度は買ってみるにしても、すぐにでも質の悪さを見抜いて、それ以上手にすることはまずない。教会というところにあっては、それは礼拝であり説教であり、献身であり隣人性であり、その生き様の全体だろうが、見た目の体裁ばかりをよくしても、内実のおぼつかないそれらはじきメッキが剝げ、人々の足は離れるにちがいない。そのことに気づかず、今のままの策を続けるなら、悪循環の循環が待ち受けているのではないだろうか。先は見えているように思うのだが。

 随分と長くなってしまった。長々のもの言いにおつき合いくださり、恐縮の限りである。

 ぼくの問いたいのはつまり、キリスト教会はここに至って、どこに立ち、何を求めて、どう生きようとしているのか、ということである。ひと言で言うなら、信仰の内実の再検証とでも言おうか。それははたして、いま一度、生きる哲学を切望しているのか-教会では、信仰とか神学とか言うべきなのだろうが-。それとも、崩れそうな組織を守ろうとしているにすぎないのか。そして、そのすべての根底にある問い。現下の危機的情況下におけるそれが今回の問いの中心だった。すなわち、神という存在をどう捉え、どう受け止めて、どう信じているのか。神のリアリティーはどこまでリアルなのか。そしてまた、イエスとはどんな存在で、そのイエスをどう受け止めて、どう信じているのか。ヒューマニストの極致か。真理の体現者か。唯一無二の教師か。人間的生のモデルか。それとも、神の子か。あるいは、それ以上の誰かか。それを、ぼく(ら)は聞かせてほしいのだ。信仰者の皆さんの信仰の内側を教えてほしいと、ぼく(ら)は偽りなくそう思っている。

 

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 本シリーズの「書き出し」は以上で終え、次回から本論に入りたいと思う。ただし、今回言及したような問題はぼくの手には余るもので、ぼくにはこれ以上扱いかねるため、本論ではより具体的な個別の問題を取り上げたいと考えている。あらかじめご了承いただければ幸いである。

 

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〔ご参考までに〕

 1970年前後に邦訳が出版され、我が国でも注目を集めた人物に「テイヤール・ド・シャルダン(18811955年)」というフランス人がいる。地質学、古生物学の研究者として著名だが、カトリック・イエズス会の司祭でもあり、神学・哲学にも通じていた。科学と信仰の調和・統合を目指す、壮大な哲学的世界観を展開した。当該分野での古典的な著作として、『テイヤール・ド・シャルダン著作集』がみすず書房から刊行されている。

 

 

©綿菅 道一、2022

*無断の盗用、借用、転載、コピー等を禁じます。

 

(本ページは、読者の投稿受付けを行っていません)

 

 

 


なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ(0-1)-書き出し(1)-

2021年12月29日 | 基本

 

 

  「なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ」(01

-書き出し(1)-

 

 クリスマスの賑わいが行き、替わって、年の瀬の喧騒が巷に湧き始めている。ぼくが今回、このエッセイを拙文にしているのは一年の終わりを迎えたそんな時節だが、この年もまた--というか、この年は、と言ったほうが適当かも--実にいろんなことがあった。最たるものは言うまでもなく新型コロナをめぐる騒動のあれこれだが、その先行きは依然として不透明で、はたしてどうなることやら。今回のこのブログも、実際にアップするのは年が明けた新年の1月だろう(と思いきや、うれしい見込み違いで、年内にアップできるかも?)。関係各方面の的確な対応で、新春と呼ぶにふさわしい正月が迎えられていることを願っている。

 今回の主題は--正確には、追って説明のとおり、今回の「シリーズ」の主題は--、直近の事柄としては昨今のこうした情況を契機に露呈した諸問題と関係しているが、より長期的には--ということは、つまりはより本質的でより深刻な問題としては、ということだが--、戦後70年余の間に日本のキリスト教会が遂げてきたその姿勢の変容に関連している。期間をもう少し限定するなら、1980年代の後半ぐらいからとりわけ顕著になり始めたそれ、と言えようか。もちろん、ぼくは厳密な意味での学的研究者でもなければ、そもそも、今もって洗礼も受けていないいわゆる未信者の一人でしかない。なので、日本のキリスト教会が・・・といっても、それは主としてこのぼくが知る範囲でのプロテスタントの諸教派・諸教会が、ということにならざるをえない。なおかつ、いまだにどこの教会の会員でもないわけだから、諸教会の内側の深いところまでは知りえないのが現実である。ぼくの書く文章は常にそうした限界を負ってのものであること、そのことは、このぼく自身がいつだって自覚していることである。なのだが、そのうえで、未信者だからこそかえって、その目に冷静かつ客観的に見えてくる部分があるのではないか。また、思想的論考家だからこそ同様に、全体的趨勢を包摂的かつ本質的に見て取れるということもあるのではないか。勝手ながら、そんなふうにも思うので、時々の的外れも怖れず、このようなエッセイを公にしているのである。ぼくのそんな思いをご理解いただけたら、幸甚に思う。と同時に、その一方で、ぼくはぼくなりのネットワークと調査手法を持っており、一般の教会員に比べればおそらく事の内実にかなり肉迫しうるはず、との自負もないわけではない。何かにつけ、感じるところ・思うところを直截に語ってくれるぼくの同人仲間もまた、標準以上のセンスを有している。未信者だからといって、決して侮れない存在である。それより何より、キリスト教を論じるぼくの文章は、その現状の批判も含め、聖書とキリスト教へのぼくなりの愛情から出ていることを察してもらえたらと願っている。そこには、キリスト教シンパを公言する人間の、それらへの愛着と期待とが込められているのだから。

 ということで、まずは上述の「直近の事柄」から、今回の話を始めることにしよう。それは、コロナ騒動に揺れた(今もって揺れている?)2年弱の後、情況が少しく落ち着いて、礼拝に関わる制約がそれなりに緩められた後のことである。時期的に言えば、今年(2021年)の夏以降ぐらいからと言えようか。どういうことかというと、多くの教会が1年余にわたって、会堂に実際に集い、顔を合わせて礼拝することができなかったわけである。その間、リモートや録画の配信等、あの手この手を用いて、なんとか礼拝を守ってきた。それがついに、やっとまた、一つ所で一緒に礼拝することができるようになったのである。さあこれで、さぞや多くの人たちが礼拝に戻り、以前のように教会に人気(ひとけ)が回復するだろう、と関係者が期待しても不思議はなかろう。がしかし、--もちろん、そうでないところもあるが--大方の現状としては、そうした希望的観測が叶えられているようにはみえない。礼拝出席の人数に以前のような賑わいは戻らず、それどころかむしろ、後退しているところが少なくないようだ。加えて、礼拝に帰ってきた人たちの表情である。その顔からは、どこか沈鬱な内面さえ感じられる。うれしい(はずの)礼拝に、みんなで揃って集えるようになったのに。何がそうさせているのか。何がそこに横たわっているのだろうか。

 一方、「より長期的には」というのは、教会に通う人たちの層が年を追って明らかに高齢化してきたことであり、しかも前述のとおり、1980年代の後半ぐらいから、それがとりわけ顕著になっていることである。これが、今回の本題に繋がる第二の時代的現象である。高齢化とその滞留とでも表現できようか。しかも、事はこれだけでない。これに加え--というか、こうした現象の奥に潜むより根元的な問題を暗示する事態として--、さらにも明白なのは、社会人の男性たちが目立って減少し続けていることであろう。そして、その一部として--重々留意すべき一部として--、かつて教会にいたその彼らがそこを去ったという側面も小さくなく、看過できないように思われる。社会全体が高齢化したのだから・・・、社会生活が多様・多忙になったので・・・という説明にもたしかに、一理はあろう。しかし、やはり、それだけでは片づかないのではないか。社会に生きる成人男性は今も現にいるのであって、その数は決して少なくないし、彼らの姿が教会に数多く見られたあの高度成長期の会社人間の猛烈さもまた、昨今の比ではなかったのだから。兎にも角にも、時代の現象としてはこういうことなのではないか。つまり、年齢云々を超えた全体的趨勢として、新たに教会の扉を叩く人たちが減り続けている。そして、そんななか、教会を去った社会人の男性たちが少なからず目につくということである。もしもこのような観察と視点の置き所が的を得ているとしたら、事は教会にとって決して小さなことでなく、先々の有りようを左右する本質的かつ深刻な課題を孕(はら)んでいるように思われるのだが、いかがなものだろうか。

 以上二点の観察については--大掴みなそれではあるが--、大勢としては現在のキリスト教界に明らかな傾向であり、誰の目にも大きな異論はないと思われる。

 そもそも、第一の点について言うなら、--まことに失礼! 不謹慎ながら--おそらくこうなるのでは・・・と、どこかで予想していた。というのも、ぼくは折に触れ各地に諸教派の教会を訪ねて歩いているが、かなりの所で--重ねて失礼!--習慣的な礼拝詣でとでも呼べるような空気が感じられたからである。「教会員としては、まぁ、礼拝に行くのが務めだから」といった感じの・・・。贔屓(ひいき)めに見ても、聖書の言葉そのものやその説教に心を惹かれ、それらに惹き寄せられて、というのとはどこか違っている。もちろん、繰り返しになるが、そうでないところもあった。しかし、行くべきもの、行かねばならないもの・・・といった、よく言えば使命感のような、悪く言えば義務感のようなものが漂う所が少なくなかった。だから、礼拝に生気がない。何かを求めて聴き耳を立てるといった、求道的な緊張感が感じられない。下を向いてチーンとしている者もいれば、静かに目を閉じ、眠りの寝学(しんがく)をしている人たちもいた。それが皮肉にも、今回のコロナ騒動で、公然と休めるようになったのである。--理解を容易にするため、再び失礼ながら--世俗の分かりやすい言い方をすれば、公認の「公休」扱いになったわけである。しかも、それに Zoom とか YouTube とかのリモートテクが加わり、これを支援するようにもなった。そこがもし、本来的な内的誘因の薄いところだとしたら、その結果は容易に想像がつくのではなかろうか。すなわち、礼拝を休むことの罪悪感が弱まり、今度は、対面の出席を適当に間引くのが習慣化するようになることである。おまけに、コロナのこの間、それまであった各種の活動や楽しい集いも休止を余儀なくされ、それがいまだに続いている。礼拝そのものでなく、--言ってみれば、おまけとでも言えようか?--そうした社交的な寄り合いを楽しみに来ていた人たちにとっては、それもまた--というか、それこそ最大の要因として--礼拝から遠ざかる原因となっているのかもしれない。それもこれも、礼拝そのものの求心力の減少・低下・喪失という、教会論的に見て極めて深刻かつ本質的な問題から来ているように思えてならない。

 後者の第二の点についても、問題は決して別物ではなく、その所在はこれと通ずるところにあるように考えられる。事は教会の全般的高齢化であり、とりわけ社会人男性の際立った減少だが、ここではその詳細な議論というより、事柄の急所を突く発言をご紹介して、問題の本質に直截に迫れればと思う。それはいつものように、ぼくの同人仲間のそれだが、一人はこう呟いていた。「ぼくら社会人は、ウイークデーを目いっぱい働き切って、それで土・日を迎えるんだよね。仕事に追われて、土曜が休みにならないときだって、結構ある。ぼくらが教会に行くってのはそんな時間を割いてのことで、貴重な休みの日曜の、しかもまだ寝ていたい午前の時間にわざわざ礼拝に出かけるってんだから、それにはそれなりの引力がないと。そうまでして行って、それで締まりのない、なんとも言いようのない話を聞かされちゃ、そりゃもう、何のために出てきたのかってことになるだろ」。企業で働きながら物書きをしている仲間だが、その彼の口から出た愚痴っぽいひと言である。そして、これに刺激されて、いつものように(?)口を開いたのが、またまたあの(一見)不良(?)同人だった。曰く、「あんたもそう思ってたんかい。俺もさぁ、ここんとこ、説教がなんか手抜きに感じられてね。体重がかかってないっていうか、言葉を発する者の実存が見えないんだよね。そもそも、聖書の解釈自体が雑になってるように思えるし。そこからそんなふうに読めるかねー? 国語やり直したほうがいいんとちゃう、ってね。それにさぁ、恣意的な説教が増えたように思わん? 文脈も背景も歴史も無視して、なんか無理やり、自分の言いたいことにもっていこうとするような。聖書を出汁にして、自分の主張を押し付けるみたいな感じの。読み取り自体がそんなになったら、そこから何を喋ったって、そりゃもう信用できんよね。俺らはさぁ、聖書をちゃんと読もうと思って、それで教会に行ってるんだから。毎回、1,000円も献金してさ」。いつものように(?)辛口で辛辣な観察評だが--1,000円云々はちょっと、口が滑りすぎ?--、読者の皆さんももう慣れられたかと思う。それにしても、彼は根っから真面目なんだよねー、と事あるごとに思わされてならない。そうでなければ、こうした真剣な言葉は出てきはしないから。実際、社会人であると否とを問わず、また男女にも関係なく、何かを探して必死な思いで礼拝に出向く人がいるかもしれないし、事実、そのような人を、このぼくは知っている。なのに、礼拝がもしそうした人たちの真剣さに見合うものでなかったら、真面目で誠実な彼らはきっとそこを去り、もう戻りはしないだろう。残念ながら、第一の言葉の主もそうした理由で、最近、教会から遠ざかっているらしい。彼の思いが理解できないわけでもないので、ぼくは複雑な気持ちでいる。要するに、事の本質はこういうことなのだ。すなわち、若かろうが歳行っていようが、男であろうと女であろうと、年齢や性別に関わりなく、それぞれが割いた貴重な時間に見合うだけの中身がなかったら、誰しも当然、そこに再び出かけることはない、ということである。

 第一の点、第二の点の双方から共通して見えてくることははたして、何だろうか。それは、教会の中心にあるはずの--すなわち、その礼拝にあるはずの--内的に惹き寄せる本来的な引力が弱まってきているということではなかろうか。ぼくらの仲間がほぼ一致して言っているのは--ぼくらの出席する教会はバラバラなので、ということは、教派を超えたこととして、ということになる--、教会はこのところ、その内実がどうも全般的に衰微してきているように感じられるということである。心情的にも意欲の面でも、さらには知的にもそう感じられ、そしてより深刻に思われるのは、精神的にも--教会用語で言えば、霊的にも、となろうが--そのように見て取れる、と彼らは言う。つまり、教会が全般的に緩くなって薄っぺらになったのではないか、と言うのである。ひょっとすると、今回のコロナ騒動で、それまで潜行していたものが目に見えて表面化したのかもしれない。要は、聖書とか説教とか、礼拝とか教会とか、そうした信仰というものの内実を具現する根っこの事柄に対し、それらに向かう姿勢が総じて緩んだということなのか? たしかに、昨今の牧師らの多忙さはハンパでない。何に多忙か? SNSZoomYouTube、インターネット・・・といった、いわゆるITテクにである。それらに物理的に時間を奪われているとしたら、--時代遅れの老人の僻(ひが)みと言われてしまえば、返す言葉もないが--本務の聖書読みに割く時間はどれくらいあるのだろうか? 落ち着いて思索し、語る言葉をそこから紡ぎ出す時間をどれだけ確保できているのだろうか? さらには、求めてくる人と心を込めて向き合う時をどれだけ用意しているのだろうか? ぼくもまた、道を求めてやまない求道者の一人として、--不遜ながら--そんなふうに感じてしまうのである。

 ぼくらは今や、IT技術急拡大の時代に突入している。キリスト教会もこれに乗り遅れまいと、それらのツールを駆使して、各種の取り組みを始めているようだ。ただ、それらはほぼすべて、いかなる類いの取り組みか。自分たちのあれこれを知らせるためのそれであり、見せるためのそれであり、そのようにして、人々を教会に呼び入れるためのそれではなかろうか。つまり、一般社会の商用語を借りれば、マーケティングのそれらであって、しかも、ほぼそれらだけでしかないのだ。ぼくの言わんとするところを分かっていただけるだろうか。要するに、販売促進のあの手この手ばかりに気を取られ、売らんとする商品の中身とその品質の吟味・検討が置き去りにされているのである。人は、広告に惹かれて店に行っても、お目当ての品自体がそれほどの物でなかったら、お金を出してそれを買うことはすまい。広告に偽りあり、となるのがせいぜいである。教会のそれも、基本的にはこれと変わるところはなかろう。呼び込みに惹かれて中に入ってはみたけれど--お誘いに応えて、礼拝に出てはみたけれど--、忙しい時間を割いて、そのうえお金(献金)を出すまでするにはなんとも商品の貧弱なことか--中身の薄い礼拝か--ということになったら、どうだろうか。ぼくだったら、もうそれっきり、そこに出かけることはあるまい。事ほどさように、お知らせやお誘いに先立ってまずもって肝要なのは、教会が現実に提供する礼拝それ自体の中身であり、その質にこそほかならないのではないか。ぼくはそう思うのだが、いかがだろうか。実際、ぼくらの同人仲間が昨今の教会に感じている疑問や苛つきはそのあたりにあるのだ。それにしても、諸教会のこのところの IT浮かれはやはり、ぼくには気になるところである。ツールにばかり心を奪われ、何より大切な中身が劣化し、貧しくならないように、と願っている。聖書、信仰、教会、社会といったこと等についての実のある語り合いが見られないというのも、ぼくらの共通した感想なのだから。

 書き出しから、少しばかり批判的な文章になってしまった。新型コロナの騒動も相まって、世の中、ネガティブに過ぎる、悲観的に過ぎると、皆が明るくなろうとしている最中(さなか)である。暗いトーンを払拭して、なにしろポジティブに、というふうに。ぼくのような書き方はあまり好まれず、どこか敬遠されるやもしれない。けれども、ぼくは一貫してそう思ってきたし、戦後70年余を経た今、さらにも確信している。問題の根をそのままにしておいて、原因の大本を放ったまま上辺だけを盛り上げても、そうした元気は早晩、エネルギー切れを起こし、メッキが剥げてしまう、と。それが戦後社会を長年生きてきた者の実体験だし、人の生に深く関わる哲学だとか宗教、信仰だとかいうものの場合、とりわけそうであるにちがいない。事の本質を問う批判的吟味というのは建設的営みを生み出す最良の端緒であり、最大の拠点なのである。しかも、繰り返しになるが--そして、ぜひとも分かっていただきたいのは--、ぼくが不足を憶えながらもこうしてこのブログを書き続けているのは、キリスト教のシンパとしてぼくがそこにそれなりの愛情を有しているからであり、その故にまた、そこに期待をも抱いているからである。その底流には、キリストと呼ばれたイエスに心打たれるものを見、自らの生に意義深い何かをそこに感じつつあるぼくの実存がある。加えて言うなら、ぼくの同人仲間もまた、少なからず同様な思いでいる真っ当な者たちである。どうか、敬遠しないでいただきたい。

 ということで、やっと今回の本題になるわけだが、あれまぁ、もうこんな長文になってしまって。徒然(つれづれ)なるままにどこまでも続けてしまう物書きの悪い癖、またしてもである。お許し願いたい。この「書き出し」は冒頭で述べた今回予定のシリーズのイントロとして記しているわけだが、シリーズの説明に移る前に、実はあと一つ、どうしても言及しておきたい問題があった。が、これまたひと言ふた言で済むようなテーマではなく、やはり、紙幅がそこそこ必要になる。申し訳ないが、次回もう一度、この書き出しを続けさせていただきたい。そして、その終わりに、今回のシリーズの趣旨説明を付したいと思う。

 そこへの繋ぎとして最後に申し上げるなら、ここまで書き連ねてきたあれこれの主意は要するに、キリスト教会の現状が--表向きの見た目ではなく--その内実としてどのような状態にあるのか、それを素描・点描ながら、本質的な視点から描出することにあった。そして、それは考えようによっては、かなり危機的な情況とも言いうるのではないか。これが、ここまでのポイントである。

 と同時に、そうした情況はただそれだけにとどまらず、時代が進展変化するなか、キリスト教はさらにも大きな、より本質的かつ普遍的な危機情況に包まれつつもあるのではないか。これがあと一つの点で、次回、多少丁寧に触れたく考えていることである。実際、ぼくの思うところ、それは(プロテスタント)教会の多くにとって今後の命運を左右するようなものにも感じられ、教会は今や、そのような時代に--より差し迫った表現として、そのような「時期」に、と言うべきかも--立ち至りつつあるということなのである。そのことにはたして、諸教会が気づいているか? それが問題であって、もしも気づいていないとしたら、それこそ最大の危機と言えるかもしれない。危機の所在を見て取り、そこを見据えて、先々の展望を拓いてもらいたい。ぼくの真面目な願いであり、偽りなく期待するところである。

 

 

©綿菅 道一、2022

*無断の盗用、借用、転載、コピー等を禁じます。

 

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求道者であるということ

2017年04月01日 | 基本

 

「求道者であるということ」

 


 ぼくは今のところ、いわゆる「クリスチャン」ではない。つまり、世間一般で言われるような意味での(というか、形でのとでも言おうか)「信者」ではない。そんなぼくが今こうして、「信仰と教会をめぐる求道的エッセイ」などというブログを綴ろうとしている。おまけに、その頭に「呻吟祈求(しんぎんききゅう)」という、なんとも厳めしいタイトルまで付けてしまった。いかにも硬派の書き物で、お世辞にも今風の流行りではないだろう。はたして、どれだけの人が読んでくれるだろうか。知人の一人曰く、「老境の無謀な巡礼」とか。

 

 ただ、日本の戦後史に間違いなく一時代を画し、混沌のなかに深く重要な問いを投げかけ続けた、あの1960年代と70年代。その両方を身をもって体験し、そのただ中で日常を生きて人生を積み重ねたぼくらのような者たちには、いくつになっても消すことのできない習性がある。何につけても「事の本質は?」と問わずにおれないのである。なんと厄介で手間のかかる人種かと、当の本人もそう思う。けれども、ぼくらは常にそのような問いを懐に抱き、内に温めながら歩いてきた。手間はかかるが、事が大事であればあるほど、小手先のやり繰りでは埒が明かなくなる。いま一度、本質に立ち戻り、原点から出直すこと。そこにこそ、遠くの先まで望み見ることを可能にするかぎがあるのではなかろうか。ハウツーの具体もまた、堅実で息の長いそれらを願うなら、その源泉は実は同じところにあるのではないか。そう思うからこそ、ぼくらは厄介な問いを大切にしてきたのだった。

 

 そんな背景を持ち、その中でキリスト教というものにも触れてきたのが「ぼく」という人間である。(格好のいい言い方をすれば)時代の精神からか(俗な言い方をするなら)時代の流行りからか、実に猥雑で、それゆえ生活的でも哲学的でもあって実に刺激的だった戦後という時の中で、ぼくもまた例にもれず、人生の指針を求めて歩を重ねてきた。右往左往をしながら、一喜一憂を繰り返しながら、よろめきながらそうしてきた。逆に言えば、それほどに多様で豊かなものがそこにはあったということなのだろう。そして、時代は今や戦後、外へと向かって開かれた時代である。道すがらには当然のようにキリスト教というものがあり、その教会というのがあった。ぼくはどこか眩しくも映ったそれらに目配せをしながら、時代を嚙み締め、そこを通って、今いるここに辿り着いたのである。 




 それはたしかに迷いながらよろめきながらではあったものの、しかし(自分で言うのもなんだが)真面目な求道心に促されてのものだった。だから、キリスト教についても、いろんな本を手にしてきた。教会についても、いろんなところを尋ね歩いた。そして、その信仰について、いろんなことを考えてきたと思う。そうした意味で、(もちろん、学者や牧師のようないわゆる「プロ」ではないが)このぼくでもいくらかは信仰と教会をめぐる求道的語り合いの輪の中に入れてもらえるのではないかと、そう思ったしだいである。


 ぼくのような人間は、言ってみれば、通称「シンパ」と呼ばれる類いに分類されるのかもしれない。「教会員」という形ではいまだ「クリスチャン」にはなっていないが、しかしキリスト教の信仰に少なからず足を踏み入れ、その教会に様々心を向け続けている。実際、物書きの世界には、(方向や深さや立場は一様でないとしても)キリスト教に関心を寄せる者が結構多くいる。例えば、阿刀田(高)さんなどはその誠実さがいかにも滲み出ていて、そう言うにふさわしい一人かと思う。奥様を介して、牧師や教会とのお付き合いを深められたらしい。それはそれとして、ぼくが言いたいのは要するに、シンパの中にも真面目な求道者がいるということ。そして、道を真剣に探し求める求道の者だからこそ、信仰や教会についての思索や論考に、内輪の議論ではおそらくは気づかないなにがしかのことを語ることができるのではないか、ということなのだ。




 このブログでは、最初に申し上げたように、信仰と教会をめぐる求道的エッセイを本質的な視点を大事にして綴っていきたいと考えている。そこで、これが第1回目の文章ということもあるので、そのようなエッセイを書くにあたって、求道者ならではの持ち味というのがあるとしたら それははたしてどんなものなのか、その点について簡潔にまとめておきたいと思う。信仰と教会を考えるにあたって、求道者ならではの利点とは一体、どこにあるのだろうか。


 それはまずもって、(このブログの読者の読解力を信じて言わせていただければ)「業界タブー」とでも言えるような、教会内にしばしば見受けられるある種の禁忌がぼくらのような求道者にはあまりないということである。内輪の事情に疎いぼくたちは、分らなかったり不思議に感じたり、あるいは疑問に思ったり異論を持ったりすると、そのことを素朴に口にする。が 寂しいのは、そのとき、取り巻く辺りの空気が瞬間、冷たく張り詰めるのを時に感じることなのだ。「教会では言ってならない何事かを言ってしまったらしい」という、なんとも表現しがたい複雑な心情。何もかもを吐き出していい、吐き出せばいいというような話でないのはもちろんである。そうではなくて、悪意のない心から出た素朴で真面目な思いとその言葉を大切にすること。先入観や固定観念で決めつけることをせず、互いに胸襟を開いて受け止め合うということである。そのような自由で温かな空気がその場に満ちていたら、ぼくたち求道者も信仰の語り合いにもっと加われるかもしれない。ぼくらもまた、信仰や教会のことをよりよく、より深く知りたいと願っているのだから。しかも、固定化した枠にとらわれない 少しく違った問題意識や視点がぼくたち求道者にはあるやもしれない。そして、もしかすると、そうしたところから、聖書や信仰や教会についての思わぬ発見があるやもしれないと、ぼくはそう考えている。「真理は往々にして、子供や愚者の内に隠されている」とも言われる。そこでは思いがけず、「本質」が問われるからである。

 

 続く一つも、これと関連している。それは、ぼくたち求道者はタブーや固定観念に縛られることが少なく、しかも事をもっと知りたいと願っているがゆえに、物事の幕引きを いわゆる「予定調和」のような仕方で簡単に済ませることはしない、ということである。神学的にはたしかに、創造論的に、また終末論的に予定調和ということがあるのかもしれない。けれども、日常の信仰生活において、課題や疑問をあまりに容易に片付けてしまうことがありはしないだろうか、「分らないことがいろいろありますが、神様はすべてをご存知ですので・・・」というような言い方でもって。しかし、ぼくらのような者たちは、そう簡単に「はい、そうですね。分りました」とは言えないのである。そして、そこには、(我田引水的にはなるが)事の探求と理解を止めずに深める それなりに良い道筋が隠されているようにも思われるのだが、いかがだろうか。ぼくらは、もっとしっかりと、もっと納得のゆくところまで探りたいのである。たとえ最終的に、結局、予定調和に行き着くとしても。ちなみに、メジャーリーグのあのイチローがある日本人選手に言った一言が今でも耳に残っている。「おまえさん、いつも予定調和なんで、つまんないんだよね」

 

 だから、ぼくたち求道者は考え・探り・そして求めるということを、それなりの理解を放り出すようにして、中途で中断したくはないのである。これがいわば、3つ目の利点と言えようか。言うまでもなく、信仰や教会のことが単なる「理解」という次元で分るかといえば、求道者のこのぼくでもそうは思われない。ただ、それにしても、日々を生きる姿勢が問われている「信仰」という事柄を前にして、(もちろん、一般論だが)そこに向き合う探求の真剣さが巷にあまり感じ取れないのはどうしてなのだろう。

 

 それもこれも、(求道者の特質の最後になるが)信仰とか教会とかいうものの「本質」や「原点」を、ぼくたちがなんとかして少しでも知りたいと願っているということなのである。信仰とは突き詰めたところ、おそらくは「実存的」「経験的」なものなのではないかと推察している。であればこそ、そこに近づきたい、迫りたいと思う。思索も論考も、理解も議論も、このぼくにとっては詰まるところ、そこへと歩を進めるための通り道なのである。そこを、ぼくは真剣に、誠実に歩いていきたいと思っている。真面目な求道者であれば、その点はきっと、同じなのではないだろうか。そして、依然として「求」道者であり、いまだ「未」信者であるからこそ、ぼくらは常に期待に満ちた緊張感をもって、そこを生きているのである。そこに息づく新鮮な探究心と向上心。ひょっとしたら、それこそが、ぼくら求道者の持ち味の最たるものなのかもしれない。




 そもそも、人はだれしも例外なく、限りのある存在と言えよう。有限の存在である。たとえ信仰に入り、教会に通い、奉仕に励んだとしても、人間が人間である以上、それは変わることがない。だとしたら、そこに完成や完全はなく、どこまでいっても混沌や不明、不確かさ、頼りなさが付きまとう。それゆえ、だからこそまた、人は出来上がってしまったら終わりなのだろうと思う。つまり、ぼくらはだれもが不完全な存在だから、だからこそ「求道」ということが(いわゆる「求道者」であると「信仰者」であるとにかかわらず)すべての人の本質的な事柄になるということである。その意味で、たとえ すでにクリスチャンである「既」信者の人たちであっても、どこかに求道を置き忘れてしまったら、大切な何かを失うことになるのではないだろうか。いまだ未信者のぼくながら、そう思われてならない。

 

 長々と書き連ねてしまった。お許しいただきたい。いずれにしても、以上のような趣旨のもとにこのブログを記し、信仰と教会の本質をめぐるあれこれについて、クリスチャンもノンクリスチャンも一緒になって考えていけたらと願っている。そこでは、とにもかくにも「求道」という言葉がキーワードになる。良きものを探し求める、謙虚な心の有り様である。

 「エーゲ海に面したホテルの屋上から眺める夕日は美しい。私はバーの片隅で強烈なラキ酒を飲みながらパウロの生涯を思った。

 ——あれは・・・なんだったのかな——

 パウロの生涯は、なにもかもダマスコ郊外で起きた出来事に凝縮されている。つまりイエスの顕現・・・。思想的転向は言うに及ばず、神学の拠りどころも、身のふりかたも、みんなあれから始まっている。

 信仰を持たない私は、イエスの顕現をそのまま信ずることはできない。むしろ、

 ——パウロにはそれが必要だったろうな——

 と、こざかしい思案が浮かんでしまう。

 イエスの直弟子たちを中心とする重鎮たちが、ユダヤ教との縁を切れずにいるとき、それを越えて新しい思想を確立するためには『私自身がイエスからじかに命令を受けたのだ』と、錦の御旗のようなものがなくてはパウロはつらかったろう。それを主張しなければ、立場が弱くなる。たったいま〝身のふりかた〟と言ったのは、このあたりの事情についてである。〔が、〕

 ——それだけじゃないな——

 とも思った。

 パウロが宣教に費した厖大なエネルギーと執念を思えば、その出発点において、イエスの声を実際に聞き、イエスを実際に見なかったならば、

 ——あそこまではやれない——

 と、そんな判断も生まれてくる。

 他人を騙すことはできても、自分を騙すことはできない。少なくとも主観的にはパウロはイエスを絶対に〝見た〟のだろう。だからこそ、それを原点として彼の神学が確立できたのだろう。」

(阿刀田高『新約聖書を知っていますか』新潮文庫、265〜66頁、新潮社、平成十年)

 

 

©綿菅 道一、2017

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