「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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ぼく(ら)の聞きたい説教(4、一応の締めとして)-同人仲間の酒席から-

2019年10月10日 | 説教



「ぼく(ら)の聞きたい説教」(4、一応の締めとして)

—同人仲間の酒席から—


 とても「説教論」と言えるような代物ではないが—傲慢なぼくだって、それくらいの自己理解はある—、去年の1月から、いわゆる「説教」と呼ばれるものについて、ぼくやぼくの知人たちが感じたり考えたりするところを述べてきた。俗な言い方をすれば、「こんな説教なら、聞いてみたい」「でも、こんな喋くりじゃぁ、宝物の日曜の朝を犠牲にしてまで出かけはすまい」ということである。もちろん、ぼくらは全員、普通言う意味での「信者」ではないので、議論に見当外れのピンぼけもあったことと思う。ただ、それでも、ぼくらは総じてキリスト教のシンパであり、その信仰についてそれなりに学んで考えてもいる。しかも—これはちょっとばかし、ゴチックで言わせてもらえるだろうか—、ぼくらは誰もが「言葉」に携わり、「ことば」を紡ぎ、「言(ことば)」をたずね求めている者たちである。そんなぼくらが「ことば」を介した「説教」について考えること。それを、思いつくがままに、随想風に書かせてもらってきた。キリスト教が聖書に基を置く人格神信仰の宗教だとしたら、その信仰を伝える説教とはどのようなものなのか。巷の単なるお話とどこが違うのか。そんなあれこれを考えながら、「そこに何かしら、人を生かすいのちに繋がるものがあれば・・・」と、ぼくらは求道の期待を抱いているからである。

 とはいえ、もうすでに3回にわたって、同じ主題で語ってきた。たしかに、説教というものにはいろんな要素があり、かつ構造的に多様な局面があって、わずか数回の文章で論を尽くすなど、それこそ論外だろう。けれども、ぼくらのような物書きには、性分として(つまらぬことも含め)言葉を延々と発し続ける悪癖がある。そんな口害(筆害?)を振り撒く前に、いかにも不十分ながら、口を閉じるのが良識と思われる。そこで、表題のエッセイとしては、今回を一応の締めといたしたい。

 というお断りを申し述べたうえで、本題に進む前に、以下の場面について説明させていただきたい。というのも、下記に紹介する言葉は—副題にご覧のとおり—酒席でのやり取りだからである。説教が主題なのに酒の席での話とは、と違和感を覚えられるかもしれない。不謹慎と言われれば返す言葉もないが、ただ、そうした場面なればこそ交わされる本音というのもあるのではなかろうか。そんな時には内容も多岐にわたって面白く、話に熱が入る。席が席だけに表現が少々露骨な部分もあるが、未だ信者未満のシンパたちが繰り広げるそんな多事争論に忍耐をもって耳を傾けてくださるなら、ありがたく感謝に思う。説教というものを真面目に考えるうえでそこに何がしかヒントになるものがあるなら、こうしてエッセイを書く意味も多少はあるように感じられ、嬉しく思われる。ただし、毎回繰り返すようだが、ぼくらはあくまでも、どこかで似通った面を有する同人的仲間たちである。その意味で、ぼくらは必ずしも日本人一般を代表するわけではなく、限られた特定の者たちと言えよう。そんな但し書きを押さえたうえで、ぼくら・同人仲間の説教談議をご批判くださればと思う。

 以下、酒席で出た雑多なやり取りから主なものを抜粋し、内容的に整理して記すことにする。それに続けて、言葉をめぐる幾つかの引用を最後にご紹介し、4回にわたった説教随想の一応の締めとさせていただきたい。


〔キリストの顔が残る〕—————————————〔説教者の顔が残る〕

・説教って、教派によっても教会によってもほんとに色とりどりって思いませんか?

・まぁ、確かにそうだね。けど、ぼくなんかの印象からすると、色合いとして2つの傾向が見て取れるように思うんだよね。雑な言い方だけど、説教を聴いた後、聴いたぼくの中に「キリストの顔」が残る場合とそれを凌いで「説教者の顔」が残る場合と言ったら分かるかな?

・例えばあれかな、あのエレクトリックチャーチって呼ばれる、いわゆるテレビ教会みたいなの? まさにアメリカンスタイルっていうような、説教者が身振りも手振りも総動員して、そうやって話術巧みに聴衆を惹き込むやつ。あれはなんかステージショーみたいで、たしかに説教者の顔がやけにでかく残るけど。

・いや、そこまで強烈じゃなくても、傾向として普通の教会にもあるんでは、ということなんだ。

・あぁそうね、確かにね。主役はどっち、って感じだろ。でも、宗教とか信仰とかいう軸からしたら、キリストの影が薄れるってのはやっぱり、なんかおかしいんじゃない? だってさ、俺がもし本気でクリスチャンになるとしたらだよ、俺は説教者を信じてそうするわけじゃないもんね、どう考えたって。

・ですけど、教条的で無味乾燥な説教というのもありますよね、申し訳ないのですが。たしかにキリストが主役で前面に出てはいるんですけど、観念的で解説的で、こちらに響いてこないんです。言葉にいのちが宿っていないというか、書き言葉で言うなら、文字が平坦で生命感が希薄って言ったら分かるでしょうか。この私の今に繋がる内実がなかなか伝わってこない。それはそれで、聴く方の忍耐と精進も・・・うーんです、私なんか。


〔出来事が起こされる〕—————————————〔知識が付与される〕

・そりゃさ、俺の言い方で言えばさ、そこで出来事がなーんも起きてないってことじゃないの?

・そうなんですよね、私もそう思います。事を理解するためには説明は説明でたしかに必要なんですけど、それが単に知識のレベルで終わってしまっては、ですよね。とりわけ説教というのは聴く者の生き方に関わるわけで、まさに実存的なものでしょ。そうであればなおさら、長い人生を生きるこの私の生き様に及んでくる、そこに訴えて影響してくるものでなければ・・・。

・それは、ぼくらが生業にしている「ものを書くこと」と本質的には通じているんだろうと思うね。そして、それが、ぼくらはみんな知ってるように、それが簡単じゃぁない。大変で厄介な仕業なもんで、だから、ぼくらはいつもこうして百薬の長を囲んで集まるってことじゃないの?

・はぁ、そうきましたか。でもですね、少し硬くて辛気(しんき)臭い言い方になりますけれど、私なぞはこう思うんです。当事者の説教者にはきつい表現になって申し訳ないのですが、説教をする牧師というのはまさに人の生ともろに向き合って、そこにもろに関わっていく存在ですよね。だとしたら、これは自分の言い訳が入ってるかな、私ら以上に実存的にものを考えて、人の生き方の核心に触れるような言葉を発してほしいと思うんです。だってそうでしょ、聖書にはそういう真理が書かれているって、説教で言うんですから。

・おやおや、天下国家のような大上段の話になってしまったな。

・そうね、私たちのような主婦作家には、台所や家事の日常にも通じる出来事が欲しいですものね。でも、言わんとされるポイントは分かります。価値観の中心や生き方の核に触れるような、そんな出来事に説教を通して触れられたら、ということでしょ。それはそうよね。人間関係の調整法とか世渡りの知恵とか、そんな処世術ばかりじゃ、わざわざ教会に行くことないですもん。そういうことなら、他所に行ったほうがよっぽどいいアドバイスを貰えるし。

 

〔自ら経験する〕—————————————〔借り物を語る〕

・要するに、大事(おおごと)だってことよ。実際、物書きの俺らもそのあたりで四苦八苦してるわけで、小説だって、自分がそれを出来事として経験しているかどうかってのは決しておまけのことじゃぁない。決定的なことも少なくないよな。つまり、俺自身がその種の出来事を味わっていなけりゃ、インパクトのある代物はそうそう書けるもんじゃない。説教だって、本質的には同じじゃないの?

・うーん、ぼくらもどこかで見つけた着想なんかを活用することがあるけど・・・、たしかにね。自分のものと借り物とでは、そりゃぁ違うさ。

・説教ということで言えば、他人の注解書や説教集からの「まんま借り」ということでしょうかね。

・私も時々、そのように思われる説教に出くわすことがあります。職業がら、自分が人より敏感にそれを感じ取るのかもしれませんけど、この説教者は自分では経験していない、実際にはそれほど信じてもないことを語っているみたいと感じる時です、失礼な言い方ですけれど。

・ということは、言い方を換えると、自分がそこから出来事を味わうほどには聖書の言葉に浸かってない、ということになりますかね

・それはどこか普遍的な真理に通じているんじゃないかなぁ、私らの書き仕事も含めて。

・書くにしても語るにしても、借り物の言葉では、読んで聴く人たちの心に伝わるものが限られるということですね。

・語る前に、まず自分が聖書の言葉から、自分自身の事として何事かを聴き取るということ。そうした事柄が生じるくらい深く密に聖書に向き合って、そこに入り込むということ。そういうことなんだろうね。なんか、作品を紡ぎ出すぼくらの産みの苦しみと似てると思わない?



〔必死で取り組む〕———————————————〔余裕でこなす〕

・それはあれですか、別の言い方で言うと、「真実味」というようなことになりますか?

・あっ、それそれ。私、もう何年か前になるんですけど、それを現実に感じさせられる場面に出会ったことがあります。牧師が説教の途中で言葉を詰まらせて、黙り込んでしまったんですよね。何がどうしたんだろうかって、不安な緊張がその場を覆いました。その時ですね、見たんです、私。牧師の目から涙が流れてたんですよ。

・何それ? ねたが尽きて、話せなくなったってわけじゃないよな。

・もちろんです。偉そうに聖書の言葉を語る資格などない自分がそのことをしているという、どこか自己矛盾というか罪責感というか・・・、いや違います。それ以上に、むしろ「申し訳なさ」というような感じだったと思います。そして、これはいわゆるキリスト教的な言い回しなんでしょうけど、すみません、私はまだそのへんが未熟なもんで。そんな自分なのに、こうして説教することを許されている、という感謝の思いですね。「恩寵」とか「恵み」とか言うようですけど、そのありがたさに涙したということらしい。私には深いところはまだ分かりませんが、その姿の中に真実なものを見たことだけは今でもはっきり覚えています。

・つまり、説教に向き合うその牧師の真剣さということ? 必死さかな?

・うーん、俺らが油断するとはまってしまうあれだよな、手慣れた余裕ってやつよ。それを忍び込ませない真実味があったってことだろ、その説教者には。

・その先生はもう70過ぎのベテランでしたから、なおのこと、そんな感じを受けたんです。

・年を重ねても、その内に依然として出来事が起こっていたということか。

・聖書というものがぼくらが説教で耳にするとおりのものだとしたら、説教をする当の本人は誰よりもまず、その種の出来事を探って聴き取らなければ・・・。いやー、大変だわ。技巧に走らず、まずもって内実に立つということだろうね、ぼくらも同じだけど。



〔信じて・・・〕—————————————〔建て前で・・・〕

・それでですね、真実味っていうのと関係するかと思うんですけれど、私は以前、クリスチャンの何人かに尋ねたことがあるんです。今考えると、なんて失礼なことをとも思うんですが、「あなたはイエス・キリストのことを本当に信じておられるのですか」って。というのも、当時の私はまだ、教会の暗黙の習わしというのをよく知らなかったもので、人のいわゆる偽善性について聞いてしまったんです。どこか、モヤモヤしてたもんですから。

・ほぉー、大胆だね。でも、みんなどこかで感じてることだよね。で、答えは?

・えぇー、それがですね、例えば「正面切ってそう聞かれると、うーん・・・」とか「神様は信じてるけど、なんとなく」とか、「復活までは信じられないけど・・・」とか、いま一つ歯切れが良くなかったんですね。おまけに、その教会の長老格の人まで、「そんなもんじゃないでしょうか」とこられては、私も私の友人もなんか「カックン」でした。もちろん、それがすべての教会とは思いませんけど、「キリスト教の信仰って、そんな程度だったの?」って。

・つまりは、それがもし説教をしている牧師の信仰の実態でもあるとしたら、ということだね。

・いえ、そこまでは思いませんけれど。説教者たる牧師までそうだったら、その言葉は建て前のそれでしかなくなってしまいますから。いくら人のいい私だって、そんな所には行きたくありませんよ。

・まぁ、キリスト教といっても実際、なんとなく神様というのもあれば、心情的宗教心に近いものもあるし・・・。あるいは自然宗教的な信仰や、さらには、どこか仏教に近似したものもあるからね。

・そんなふうにして、それぞれのところにそれぞれの人々が集うってこと?

・俺の悪友だけど、冷めた目でキリスト教を見ててね、こんな口の悪い言い方をするんだぜ。「名前はキリスト教会、しかれどもキリストの存在感やいずこに?」「礼拝堂を飾る十字架、しかれどもその実体はいずこに?」ってなぐあいにね。

・もしかしたら、こんな議論をしてる未信者の私たちの方が信仰について真面目なのかもしれませんね。なので、行き場がなかなか見つからないのかなぁ?

 

〔聖書に語らせる〕———————————————〔自分が語る〕

・それにしても、説教という問題の中心はどこにあるのかね?

・それは、いまだ信者でない物書きのぼくという、言ってみれば人間的営みの観点からの考えだよ。あくまでもその域を出ないのは承知しているけれど、基本的に言って、どこまで聖書そのものに語らせることができるかということじゃないかな、ぼくらの生き様との接点においてね。もちろん、どこまで行ったって、そこにぼくら人間の思い入れや思い込みが、また偏見や誤認・誤解が割り込んでしまうのは避けられっこない。だけど、いつもそのことを心に留めて、そのミスに警戒を怠らないということ、それは決して小さなことではないと思う。それをせずにおいて、自分の言いたいことを言うために聖書を都合よく利用するというようなことがあるとしたら・・・。聖書に本来秘められている出来事がそこで現実になることはないのじゃないないだろうか。

・作家の端くれの私らにとっては、それは言うまでもなく、常識的なあり方だと思いますよ。たまに、書いたのはこの自分だけど、作品の解釈は読者の自由に任せるという作家もいはしますけれど、ごく少数にしかすぎないでしょ。作品を著した作者にはそれぞれそれなりの執筆意図というのがあるわけで、それを無視して勝手な解釈をされたら、それはたまりませんから。

・それは、たしかに一般論だけど、どの分野でも共通してるんじゃないかな。まずは原作者の元々の意図を大切にする、ということだよね。

・それは、私も同感です。音楽で言えば、指揮者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんも端的に同じことを言っておられました。自分の目指すところは作曲者の原意に迫ることだ、って。

・俺、顔に似合わず、恥ずかしながら面食いで、バイオリンの庄司紗矢香(しょうじ・さやか)が好きなんだよ。デビューしたての時から聴いてるけど、紗矢香ちゃんもその頃からずっと、同じことを言ってるもんね。作曲者の思いに迫って、それを感じ取って表現することだって。

・改めて言うまでもないことだろうけど、聖書の原意をきちっと探って、それに触れて、今生きているこの時・この所で何事かに出会うということだよね。語る者がそれを第一に実践して、そして説教という形で、聴く者たちとその実践を分かち合うことじゃないのかな。

・という意味でも、皆さん、感じられることありません? そう言う私なんかも誘惑に駆られることがあるんですけど、話の中にそれとなく自己宣伝が入ってきたりして・・・。

・あぁ、ありますね。キリスト教会では「証(あか)し」というふうに言われてますが、それ的な説教の中でいつの間にか話が自分の自慢話に変わってるというような、あれでしょ。

・自分がいつも善人になってるというのもありますよね。

・そういうの、俺、ダメなんだよな。クサイのって、すぐ臭ってしまうじゃん。本音が見えちゃってさ。

・つまり、実は自分が主役で、キリストはその引き立て役ってこと?

・おかしいじゃない、そんなの

・言葉の中身を信じて語ってるのか、それとも自分の話術を信じてそうしてるのかってことだよね、本質論としては。

・俺たち・物書きにはさ、なんか習性として、読み手の受けを計算して書くってところがあるだろ。俺なんか、だからこそせめて聖書に向かったり説教を聴いたりする時くらい、そんな自分から自由になりたいってところがあってさぁ。


 

〔出っ張る説教〕—————————————〔壇上説教〕

・おやおや、ちょっと愚痴っぽくなってきたかな、時間もそろそろだし。じゃぁ終わりに、文脈なしのアトランダムでいいので、それぞれ言い足したいことがあったら言うようにしようか。

・そうですねぇ、分かりやすさということで一つだけ言うと、分かりやすい話というのは説教にかぎらず、どこでも喜ばれますよね。でも、それは単なる言葉の易しさということでもなければ、ましてや面白おかしいということでもないと思うんですね。よく劇作家の井上ひさしさんの言葉が引用されますけど、「むずかしいことをやさしく」というあの有名な言葉です。私が実際に見聞きした経験からすると、この言葉を引き合いに出す人たちは概して軽いんですよね。井上さんが目にされたら、それこそカックンとくるぐらい軽い。その人たちは、井上さんがさらに続けて言われている言葉、その言葉が自分の中に入ってないんですね。「やさしいことをふかく」と、井上さんはそう言っておられる。要するに、考えさせられるようなことばで、ということでしょ。説教も、ただ易しく分かりやすくではなくて、ちょっと考えさせられるようなものであってほしいと思います。

・俺はそうだな、ドキッとする実話でいこうか。どちらも牧師の代わりに信徒が説教したって言ってたな。二人共、前日の土曜になんかがあって、次の日の説教準備が満足にできなかったんだそうだ。しかも、どちらもそのことを説教の中で白状したと。ところが、片方の教会の聞き手は笑ってやり過ごすだけで、そのまま聞き続けたんだそうな。けど、もう片方の教会では、「準備もしないそんな説教、誰が聴けるか」と、一人の人が憤慨して途中で出てってしまったと言ってた。俺は憤慨した人のいる教会で説教を聴きたいと思う。こちとらは真面目に出かけていくんだぜ。以上。

・考えるところはいろいろありますけど、わたくし的には、聖書というものから語られる説教ですから、やはり精神性の感じられるお話といいましょうか、自分の内面を掘り下げられるようなそんなお話が聴きたいですね。巷の話やテレビの話題なんかは、朝から晩までいやというほど耳にするわけですから。

・まだ、ほかにある? それくらいかな? なら、締めになるかどうか分からないけど、最後にぼくの「説教出っ張り論」というのを聞いてくれる? 何それ、と思うでしょ。きっかけは、みんなも多分どこかで耳にしたことがあると思うんだけど、「自分は説教に命を懸けている」といった類いの言い方、あれなんだ。

 ある教会の礼拝に参加したとき、牧師が説教の冒頭でこれを口にしたんだ。おそらく、言葉のとおりに、時間をかけて説教を準備されたのだと思う。けれど、説教の後の報告の時間に、今度はこう言われた。「明日の月曜日は牧師の休日なので、電話や訪問は控えていただきたい」。まぁ、ビジネスで考えれば、首を傾(かし)げるほどのことでもないかもしれない。でも、ぼくはそのとき、何とも言えない違和感を感じたわけ。

 というのは、説教に命を懸けてるって言うんだよね。で、明日は休日だから、手間をとらせないでほしいと。ぼくがこのとき直感的に感じたのは、その説教っていうのは一体、何なんだろうかということだったんだ。この場合、それは明らかに、礼拝における壇上でのある限られた時間のことだよね。つまり、講壇で話しているその限られた時間でしかない。でも、ぼくが思うに、説教って、本質的にそれだけのことなんだろうか。もっと言うなら、聖書で言われている信仰って、本質的にそれだけのもの? さらに言えば、人に関わるって、それは本質的にその程度のものなんだろうか、っていうことなんだ。

 ぼくは、もちろんボロボロの自戒の念を込めてだよ、聖書の説教と言うんなら、それは本質論としては、講壇から降りた後も続くもんじゃないかと思っててね。つまり、説教者が聖書から聴いたとして語ったそのことばは、壇上での説教が終わっても、自分が生きる日常のその場・その所にまで出っ張っていって、そこでまさに説教になっていくもんじゃないかって感じてるわけで・・・。ことばにしたことを現実に生きてこそ、本当に説教というものになっていくんじゃぁないのかな。それは信者でないぼくらのこととしても変わらないわけで、「言葉」から「ことば」へと、そしてさらには「言」へと、という言い方をしたら伝わるかな?

・うひぇー、まぁそうだけど、それは大それたことだわー。

・うん、ぼくもそう思うよ。でもね、人に関わるってのはそもそもそういうことなんじゃないかと、自分は全くできてないのに、理解としてはそう思わされてるんだ。元・高校教師の旧友がいてね、彼は現役時代、そんなふうにして自分の生徒と向き合っていたもんだから。24時間・365日のこととして、彼はそこで「ことば」を「言」にしようとしていたように思うんだ、クリスチャンではなかったけど。そこには生きたことばがあったし、思想もあった。さっきの涙した牧師も同じようなことじゃないのかな。

 要するに、壇上の説教は日常に出っ張ってこそ、本当の説教になっていくんじゃないかと思わされててね。このぼくも、説教はしないけど、言葉を扱う物書きとして、少しなりともそんなふうに生きられたら、と。


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 言葉はおのずから人の考えを検証する。その抑制力がずいぶん失せてきた。自分で表現を考えている暇(いとま)は少ないのではないか。本来は、いまのような複雑な世では、一つの考えや状態を人に伝えるのに、どうしてもワンセンテンスの呼吸が長くなるはずなんです。

 限界期が一般に見えてこないと、言葉は生きてこないのではないかとも思う。その時に言語がよみがえるのではないか。

——作家、古井由吉(ふるい・よしきち)さんの言葉


 私が口にした言葉で、ものごとが立ち上がってくるという感じがある。言葉を発すると、その言葉が何かを生起させるというか、何かが起こると、この子たちは信じているんだなという気がします。

 いま家庭で、朝起きてから夜寝るまで発した言葉を録音し、ていねいに見ていったら、語彙としてはかなり少ないでしょう。おそらく限られた言葉しか使っていないし、その中で精神生活に関わるような言葉の数はさらに少ないと思います。

——児童文学者・翻訳家、松岡享子(まつおか・きょうこ)さんの言葉


 持っている言葉が貧しければ、その範囲でしか物事を考えられない。言葉の貧しさから、考えることも表現することも単純になり、人格がやせ細っていく怖れを感じる。

——生活経済学者、暉峻淑子(てるおか・いつこ)さんの言葉


 私がこの問題に触れたいと思ったからではなく、テキストを講解する中でこの問題に触れなければならなかったから、である。

 本来われわれはこう言わなければならない。聖書は神の言葉になる。神の言葉になるそのところで、神の言葉なのである。この出来事が大切なのである。聖書と、いわばひとつの生活史を営むようにと、説教者は召されているのである。それは説教者と神の言葉との間に何か出来事が起こるような歴史である。神がここで自分に語りかけてくださることを期待しているかどうかにかかるのである。それは常に新しい献身的没入である。相手が自分を見つけてくれるために、自分から探し出しに行くのである。

——神学者、カール・バルトの言葉


 授業というものは、その深浅によって、たんなる行きずりの人のように頭の中を通り過ぎていく態のものから、子どもをして深いところで何ものかと出会わせ、その心をゆさぶるような質の高いものまである。授業は人間と教材との出会いにまで深められたとき、子どもを変え、教師自らも変革することができるのだと感ずるようになった。

——元・沖縄県小学校長会会長、安里盛市(あさと・せいいち)さんの言葉


 出会いの場面の深い浅いを決定するのは教材とのとりくみの深さであるように私は感じています。

——元・宮城教育大学学長、林竹二(はやし・たけじ)さんの言葉


 日曜学校を指導しておられた(代々木教会の)高井弘副牧師は、子どもに話をする名人であった。話を上手に聴かせようとするよりも、話のなかに語り手が入り込んでいたからであろう。

——日本基督教団隠退牧師、加藤常昭(かとう・つねあき)さんの言葉


 言葉というのは、声に出したときに伝わる命がとても大切です。

——児童文学者、松居直(まつい・ただし)さんの言葉


 

©綿菅 道一、2019

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(本ページは、読者の投稿受付けを行っていません)

 

 



ぼく(ら)の聞きたい説教(3)ー読解力と説教と:語る側の汗にも同情の思いがー

2019年05月15日 | 説教

 

 

「ぼく(ら)の聞きたい説教」(3

—読解力と説教と:語る側の汗にも同情の思いが—

 

 去年102日(火)の『朝日新聞』(朝刊)「耕論」に、次のようなインタビュー記事が載った。社会的人権の課題として、日本でも昨今、広く関心を惹起しつつある「LGBT」の問題をめぐってである。「LGBT」とは周知のとおり、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーの性的マイノリティーを意味する総称的略語だが、当日のタイトルは「新潮45、揺らぐ論壇」。LGBTを論じた企画で結局、休刊を余儀なくされた月刊誌『新潮45』の事件に関し、3名の論者が持論を展開している。事件そのものについては各位、記憶におたずねいただきたい。何はさておき、(ぼくの今回のエッセイと関連する部分だけの抜粋だが)その一部をご紹介しよう。こんな論評である。

 

 発端となった杉田水脈(みお)氏の論文は、LGBT支援に税金を投入することを問題視していますが、実際にはほとんど使われていない。ファクトチェックを編集部がしていなかったことが信じられません。わしも雑誌で何本も連載を持っているけれど、毎回、本当に細かいことまでチェックされます。腹が立つくらいだけど、言論をやろうとすれば不可欠な作業です。

 最近は、右派言論誌全体を読まなくなってしまいました。見出しを見れば中身がわかるものばかりで、何も新しさがない。昔は違いましたよ。文芸春秋から出ていた『諸君!』なんかは、西尾幹二氏や西部邁(すすむ)氏の長大な論文を載せたり、浅田彰氏を出したりしていて、「そういう考え方もあるのか」と目を開かされることが多かった。

 でも、今はそういう長い文章を読める読者がいない。ネット社会になって、読者が恐ろしく劣化してしまった。書き手も劣化した。長文をしっかり書ける人がいない。読者の劣化と書き手の劣化が、リンクしているのです。

 今の右派言論誌の読者が求めているのは、自分がすでに思っていることの代弁です。そういう読者向けに売ろうとすると、同じことばかりを繰り返し載せる雑誌にならざるをえません。中身は同じで、表現だけがどんどん過激になっていく。だからわしは、右派言論誌よりも、不特定多数の読者が読む一般誌で描くことを選んだわけです。

 それでも、言論誌がなくなってほしくはない。言論や表現の場は広ければ広いほどいい。雑誌がなくなって、言論の場が狭まっていくと、極右か極左の意見しかなくなってしまう。中間の多様な意見が出てこなくなり、どんどん分断が進む。民主主義にとって非常に危険なことです。中間の意見も含めてバランスをとっていくのがすごく大事で、新潮45はそれができる雑誌のはずだったんです。

 休刊する前に、まず今の路線にかじを切った編集長を代え、編集方針を変えると宣言すべきだったと思いますね。少なくとももう号は出して、LGBTの問題をもっと掘り下げるべきでした。いきなりの休刊は、敗北でしかありません。

 

 少々長い引用になってしまった。また、LGBTと『新潮45』をめぐるこの論評が聖書の説教といかなる関係にあるのか、その点についてもいささか怪訝(けげん)に思われるかもしれない。それは追って述べることにしたいが、そもそも、この発言の主は一体、誰と思われるだろうか。「わしも」だとか「わしは」だとか、そんな口調で切り出すのは例のあの人に決まってる、とすでにご推察の方も少なくないと思われるが、そのとおり。「ゴーマニズム宣言」で知られる「よしりん」こと小林よしのりさんである。ちなみに、当日掲載の他の2氏は、自民党現職の稲田朋美さんと旧・民主党元職の松浦大悟(だいご)さん。そして、よしりんの記事には、「読者も劣化、代弁求める」とのタイトルが付されている。

 


 よしりんのこの論評を読んで、ぼくがまず目を惹かれたのは、これまでの印象と異なるその全体的トーンだった。ぼくとはそもそも真逆なスタンスでその主張を拡散していた、とぼくは思っていた小林さんがなんと、ぼくと似たような感覚を抱いている。ちょっとした驚きである。とりわけ民主主義を論じたくだりなどがそれだが、「言論や表現の場は広ければ広いほどいい」とか「多様な意見が出てこなくなり、どんどん分断が進む」とか、はたまた「(それは)民主主義にとって非常に危険なことです」とか。小林さんに対するぼくのこれまでの見方を調整せねばならないのかもしれない。

 たしかに、いわゆる「リベラル」一つとっても、そこには大まかに言って、「保守的リベラル」と「革新的リベラル」の2種類があるという。旧・新党さきがけの代表代行でその理論的リーダーでもあったあの田中秀征(しゅうせい)さんの論だが、それによるなら、個別の問題を前面に押し出し、それらの変革を第一にするのが「革新的リベラル」。それに対し、個々の取り組みの前提として、思想・信条の自由や言論の自由をまずもって重視するのが「保守的リベラル」である、と田中さんは言われる。もしそうだとしたら、いわゆる「左派」と言い、いわゆる「右派」と言っても、それらのある部分に性格を共にする共通項があってもおかしくはあるまい。小林さんの民主主義論はそうした面の現われなのかもしれない。実際、昨今の小林さんはなんと、最も信頼しうる政治家として、立憲民主党代表の枝野幸男(ゆきお)さんを称賛している。ほぼ右翼かとも思われていたあの小林さんが、である。何事にも順応に遅延気味な最近のぼくなどは、頭がグラグラして、目を白黒させてしまう。ただ、国民の内面性に至るまで集権的になりつつある現政権のあり方に対し、小林さんが批判的な立場にあることだけは確かなようである。ちなみにもう一人、元来、自民支持・保守派であったはずの評論家のあの大宅映子さんもまた、近年、似たような言動を見せている。



 少しばかり、本題から逸れてしまった。物書きの困った習性で、放っておくと、ペンがあちらへこちらへと、走るがままに放浪を始めてしまう。本筋に戻って、説教との関わりに話を移そう。

 上に述べた民主主義論は教会との関連で言っても決して周辺的な事柄ではなく、そこで生きられている信仰の質や内実を示す一つの重要なメルクマールとなろう。教会政治や教会管理という日常において、また牧会という日常において、それは露わになってくる。

 ただし、ここでの主題は「説教」である。その説教に焦点を絞って、上記の小林さんの言葉を読み返してみると、ぼくはつまりは、そこで言われている次のような指摘に呻吟させられるのである。「今は・・・長い文章を読める読者がいない。・・・読者が恐ろしく劣化してしまった。書き手も劣化した。長文をしっかり書ける人がいない。読者の劣化と書き手の劣化が、リンクしているのです」「今の・・・読者が求めているのは、自分がすでに思っていることの代弁です。そういう読者向けに売ろうとすると、同じことばかりを繰り返し載せ・・・ざるをえません。中身は同じで、表現だけがどんどん過激になっていく」



 実は、何年か前に次のような場面に出くわし、それ以来、しばしば反芻させられてきた懸念がある。小林さんの発言を目にして、そのことに再度、思いを惹かれたのだった。それは、時々訪ねる東京近郊の教会だが、その教会の礼拝に友人と連れ立って出席した折のことである。そこでは月に一度、礼拝後に時間を設け、当日の説教について感想を交換する時を持っているという。その日もそのようにして、説教した牧師を囲んで、皆の感想やレスポンスが分かち合われた。それは自由で忌憚のないもので、当の説教者にしてみれば「俎板(まないた)の鯉」でなんとも緊張を強いられるだろうが、ぼく的には好感をおぼえる時間だった。ただし、である。ただし、出された意見の質とそれが故にそこに滲んだ説教者の悲哀とを別にすれば、である。その意見とは、掻い摘まんで言えば、こんなふうである。「話というのは20分ぐらいがせいぜいで、初めに気を惹くイントロを置いて、あとは5分置きくらいにユーモアを交ぜるってことだよね。最後にワンポイント、その日の急所を話せば、それで十分だと思うな」

 ぼくは帰路、一緒に行った友人にも言ったのだが、その日の牧師の説教がつまらないものとは必ずしも思わなかった。むしろ、当日の聖書箇所をよく読み込んで、そこに盛られた使信(ししん)を丁寧に解き明かしていた。換言すれば、当該箇所の文意をその文脈や地理的・歴史的背景を押さえつつ探り、そのうえで、それが今のこの時を生きるぼくらに何を語りかけているのか、そのことを考えさせようとするものだった。それは、このぼくには望ましいものに思われたし、連れ立った友人も同様な感想を述べていた。しかし、今ご紹介した意見の主はどうやら違ったらしい。ぼくがそのとき、その発言から受けた印象は、まず第一に、説教の時間が長すぎるということ(ほんの40分かそこらのものだったが)。次に、話の内容が真面目すぎて、面白くない。そして、その構成や展開に起伏が足りず、倦きてしまうという主張のように感じられた。要するに、コミュニケーションの技術が下手だということなのだろう。実際、説教の中身自体についてはそこで全く言及がなく、話術の評論に終始した。

 当日の様子はこのようなものだったが、このエッセイをお読みの皆さんはどう考えられるだろうか。事は、これと似たような情況が昨今、思いのほか、各所で散見されることである。ご紹介した教会でも、それはその場の空気感として少なからず感じられたし、その他各地の教会においても、これに類する傾向は認められるように思う。

 ぼくが懸念をおぼえるというのは、説教の話術が論ぜられることではない。話術はもちろん、上手に越したことはないし、ぼくの基準からすれば、上述の牧師のそれとて、決して貧しいものではなかった。逆に、構成にしても展開にしても、よく練られた説教だった。問題は、事の関心と論点がひたすら話術ばかりで、説教にとって肝心要の中身の理解と議論が全く見られなかったことなのだ。それが完全に抜け落ちていることである。実は、後日分かったことなのだが、そこには看過できない問題が隠れていた。そもそも、上記の発言者は説教の内容を理解できないでいたのだった。説教のテキストたる聖書の箇所を読解できずにいた。だから、当然のこと、話術の話に終始せざるをなかったのである。



 もうご賢察のことかと思う。今回のエッセイの主題はこうした現状の中で説教をする・せざるをえない牧師たちの悲哀とジレンマであり、そうした実情の裏に潜む、この先のキリスト教会への懸念と期待とである。ぼくは、いまだに信者でなくシンパに留まっていることからも分かるように、教会やその牧師に対し、普段はどちらかというと批判的に語ることが少なくない。けれども、今回はどうにも、その苦労の汗に同情の思いを禁じえないのである。

 どういうことかといえば、説教を聞く側の問題にもどこかで一度、目を据える必要があるのではないか、ということである。そして、それが説教する側の問題とどうリンクしているのか、さらには、それが次代の教会形成の問題にどう影響していくのか、そうしたことを幾つかのより大きな枠組みの中に位置づけて考えることが大切なように思われる。

  小林さんは、「今は長い文章を読める読者がいない。長文をしっかり書ける人がいない」と言われる。そして、「そうした読者の劣化と書き手の劣化がリンクしている」とも意見される。また、「今の読者が求めているのは自分がすでに思っていることの代弁で、雑誌はこれを受け、同じことばかりを繰り返す」と指摘される。「だから」、小林さんは「右派言論誌を読まなくなった」というのである。一々の点については議論もあろうが、ぼくはしかし、小林さんの言わんとされる全般的なトーンやニュアンスについては、頷かされること小ならず、である。なぜならば、事はひとり(小林さんの言われる)右派のみならず、左派においても、そしてまた、ここでの本題のキリスト教会においても似たような傾向が感じ取れるからである。しかも、それがこのぼくやぼくらの心性に不協和音をもたらし、教会へと向かうその足を鈍らせつつあるとしたら、どうだろうか。ぼく(ら)のような者たちはたしかに、人口構成的にはある意味、特殊なグループで、日本人全般を代表するものではないかもしれない。しかしながら、前にも触れたが、近年とりわけ減少した40代からそれ以降の、かつ少しばかり思索的で理屈っぽい男性種のそれなりの部分を代表していることは確かだろう。つまり、外の社会に身を置き、そこでものを考えているそうした人たちが教会には惹きつけられるものを感じないとしたなら・・・。キリスト教会は一体、この先、どこへ向かうのだろうか。


 

「説教は短いほうがいい」という俗説については、前回すでに、その吟味の浅薄さを述べた。気になることは、ほかにもある。「聖書を読めるようになりたいですね」との牧師の言葉に、「読めますよ、もちろん」と応える教会員。「聖書は歩きながら読むものです」との説教に、「歩きながら、どうやって読めるんですか?」と質問する信徒。はては、説教でたった今、「聖書の信仰は単なる御利益信仰ではありません」と教えられたのに、礼拝が終わるや早速、「この間、思わぬお金が戻ってきて。その前には、こんないいこともあったし。神様のお蔭ね」等々。各地の教会で時々に遭遇するそんな光景を目にして、ぼくは思わず、何とも言えぬ思いに襲われる。当の牧師たちはどんな思いで、それを聞いているのだろうか。聖書の文字は読めるし、説教の声も聞き取れる。けれども、そのどれもが表面的・即物的で、読解も理解もそれ以上の深まりが見られない。今もって俗なぼくなぞは、説教する側の徒労と悲哀をそこに感じて、失礼ながら、同情の思いが湧いてしまう。事の理解を容易にするために少しばかり極端な例を紹介したが、根を同じくする同種の問題は決して珍しくない。しかも、濃淡の差こそあれ、教派を問わず、似たような現象が広がりつつあるようである。説教をするとは、なんと大儀なことか!

  聖書の原意を読み取れる読解力を養うこと。文意の把握に必要な理解力を培うこと。そして、そこに盛られた使信を現実にする実存的な生命力を膨らますこと。これらは事の原点として、この先の教会がおそらく、いま一度、目を向け直さねばならない起点かと思われる。ぼく(ら)のような人間は、食べ物や世間話や出し物に賑やかであっても、聖書そのものへの姿勢がどこかで真剣みに欠けるところには足が向かない。向かないどころか、遠のいてしまう。礼拝が終わるや途端に世間話の雑談というような場所が、ぼく(ら)のような人種にとってどれくらい居心地の良くないところか、ご想像いただけるだろうか。

 社会は今後、世界的な規模で混沌と進歩の速度が速まり、かつそこに管理と覇権の影が忍び寄るだろう、と世の識者たちは予見する。とりわけそれは政治的混乱と科学技術の発展とに際立って現出し、そこに重なるようにして、人間存在のコントロールと政治力の独占化が企てられる、と予測するのである。事実、わずか26年後の2045年には、AI(人工知能)が人間の知能を凌駕するというのが当該分野の一致した見解である。いわゆる「シンギュラリティ(技術的特異点)」と呼ばれる現象であり、またその瞬間だが、これだけではない。ヒトを含む生物界のゲノム(遺伝情報の全体)解析が急速に進み、事はすでに、遺伝子の操作にまで及んでいる。このとき、良からぬ社会的・政治的勢力が同様のあれこれを総動員して、権力を我が物にし、ぼくらの生をコントロールすることを企んだとしたら・・・。もはや、楽しい歌声やお食事やお話し会だけでは済まない事態に立ち至ろう。そこではやはり、それなりの理解力や判断力が欠かせなくなる。

 キリスト教会はこれまで、時に社会の流れに棹さし、時にその進路を指し示して、(ぼくが思うには)良きガイド役を果たしてきた。たしかに、それは必ずしも、小難しいもの言いをするということではない。ただし、事の読み取りとその判断のためには、基本的な読解力と理解力を軽視することはできまい。書物一つをとっても、例えば、救世軍の山室軍平によるかの有名な『平民の福音』はどうだろうか。「平民の」という書名の印象から、一見、いとも簡単に読み解けそうとの期待を持たれるかもしれない。難しい表現を用いない入門書という意味では、また譬え話を多用するという意味では、たしかにそう言えなくもない。しかし、その中身は必ずしもそう言えないものを持っている。時代的な言い回しや(こちらは個性的口調にもよるのだろうか)今で言う不快語などの表現でつっかかるのは当然としても、それだけではなく、神学的問いかけや倫理的・実存的指摘にも鋭いものがある。片手間に読み流して分かる、といったものではない。



 要するに、ぼくはなおも、キリスト教会に期待したいのだ。時代がかつてないほどのスピードでリスキーかつ非人間的な行く末に向かいつつあるこのとき、教会はこれまでにも増して、聖書の価値観や視点の置き所を提示すべきではないのか。その言わんとするところをきちんと読み解き、そのものの見方をしっかりと把握して、そうすべきではないのか。細々とした知識や知恵は早晩、ぼくら・人間の特質ではなくなるだろう、悔しいけれど。人間を見るうえで、社会を見るうえで、また世界を見、そこに生きる命を見るうえで、すべての基盤となるもの。そのようなものを、ぼく(ら)は聖書にたずね、その教会にたずねたいと思っている。もしも教会にそれがないとしたら、ぼく(ら)は別の所に出向かなければならない。

 説教というのは、ぼく(ら)にとってはやはり、そうしたことの中心にあるのだ。だからこそ、週に一度、貴重な時間を割いてわざわざ(失礼!)、礼拝に出かけていくのである。そして、その労に見合うだけの話を聴きたいと願っている。要点を箇条的に述べるだけなら、ビジネスミーティングの話とどこも違わない。あの手この手で話を面白おかしくし、が中身は結局、どこかで聞いたことの繰り返しというのでは、見かけだけシュガーコーティングされた子ども用のお菓子のようで、そんなふうにしてもらわないと食べられない自分がなんとも情けない。人が人として生きるということは、そこに詩的・文学的・哲学的・思想的揺れが起こるということでもある、実存的に。だからこそ、「文学の分からない者は人間も分からない」と、ちょっとばかり度の過ぎた言い方さえなされるのだろう。だが実際、それは当たらずとも遠からずだろうし、しかも聖書はそもそも、そうした要素に溢れている。だから、聖書に聴こうとするぼくらには、そうするに必要な基本的備えが期待されるのではなかろうか。それを養い、培って膨らまそうとする牧師たち・説教者たちの汗と労苦(と祈り)はどれほどのものだろうか。いまだ信者でないこのぼくにも、それは想像に難くない。



 ただし、是非ともお願いしたい。聖書から使信を読み取るべき説教者が自らを、小林さんの言うような「代弁者」にしないことを。説教を、それを聞く者が求めている「自分がすでに思っていることの代弁」に貶めないことを。道を探求する「求道者」というのは、ぼくが思うには、自分がまだ気づかず、まだ知らずにいる何事かを発見したいからこそ、そこにいるのである。それが本来の求道者というものであり、(たとえ信仰生活が何十年になろうとも)人は最後までそのようにあり続けるのだと聖書は教えている、とぼくはそう考えている。この時代の空気だろうか、ぼくらはいつになく、癒やしを求め、優しさに渇いている。時に「時代精神」とも呼ばれるものである。そんな空気のなか、ぼくらは自然と、これに合わせるようにもの言いをするようになる。「それでいいのよ、そのままで」。ここ十年来になろうか、教会でもよく耳にする流行りの言葉である。それはたしかに、神学的に重要な福音の理解に通じるものでもあろう。けれども、それがもし「それでいいのよ、そのままで。いつまでもずっと、そのまま何も変わらないで」というふうに、信仰の入り口の話が生涯不変の全肯定に変容してしまうとしたら、それははたしてどうなのだろう。ボンヘッファー流に言うならば、「罪人」の赦しが軽々に「罪性そのもの」の赦しに掏り替わり、変質してしまったとしたら、とでもなろうか。あるいはまた、イエスの譬えに見る木と実の関係はどこにいってしまうのだろうか。簡単に捨象しうることなのか。これらはやはり、聖書が本来語るところとは違うように思われる。そこに生じるのは、例えば、気休めの思考停止といった類いではなかろうか。そんなになったら、いわゆる「宗教アヘン説」の格好の餌食になってしまう。気にかかることは、他にもないわけではない。聖書のどこをテキストにしてもいつも同じような話になる説教などがそれだが、これもまた根っこのところで、代弁説教のそれと通じるものがあるのかもしれない。



 繰り返しになるが、ぼくらを待ち受けているのは、かつてない速度で迫る変化と混沌の時代である。ぼくらはそこで、これまで以上に、事の本質を読み取り、把握し、そして的確な判断を下すことが必要になる。キリスト教会もまた、その例外ではなかろう。否、むしろ、そうした情況にもろに曝されるのではないだろうか。今後さらにも問われる戦争、平和、科学、社会倫理、生命倫理、人間観、人生観、価値観・・・といった枠組みの中で、信仰や教会はいかなる存在価値を、いかなる存在意味を認められるのか。そして、そこに生きる信仰者は何を語り示して、どんな生き様を社会に見せてゆけるのか。そのことを、それぞれの日常の足もとの事柄として、ぼく(ら)は知りたいのである。

 そのためにも、その土台の土台として、聖書の読解と理解とが問われるように思う。そして、その中心にあるのはやはり、説教であるにちがいない、とぼくは思っている。そのような説教が知的な面においてもさらに真っ当で適切なものとされることを、ぼく(ら)は期待し、そんな説教を聞きたいと願っている。昨今の説教は知的に過ぎる、との声を耳にすることも確かにある。でも(信者でないから分からないんだと言われたら、返す言葉もないが)、このぼくの見るかぎり、(祈り心に加えて)聴く者たちの的確な読み取りをさらにも育む意味は小さくないと思う。そもそも、ぼくはこう考えている。聖書が「神のかたち」と表現するのは人間存在全体としてのそれであり、そこには当然、知性もまた含まれ、そして、その問いかけはぼくらに対して全人的なものとして提示されている、と。

 その意味で、(余談ながら)近年、米国をあたかも反知性主義の権化のように批判し、それをもって自国の不足の免罪符にしているような風潮も感じられるが、目を据えるべきは他国よりもまず自国の内実であり、日本の教会のそれなのではないだろうか。ぼくは、そんなふうにも思わされている。



 教会において、聖書を読むその会衆の読解や理解を培い、その実存的姿勢を深めるというのは、時間のかかる大変な取り組みにちがいない。しかしながら、例えば民主主義は、そのようにして初めて成り立つのである。すなわち、そのようにして全体の「底上げ」を続けて初めて、それは継続の基盤を得る。逆に、それを怠ると、全体が底下げを引き起こし、いわゆる衆愚政治に向かってしまう。そのかぎは、事を教え込むそれではなく、ものを考えさせる教育にこそあると言えよう。(民主的なあり方を重視する教派においてはとりわけそうだが)キリスト教会もまた同様に、継続的で堅実な教育的取り組みを通してその全体的底上げを図ることは、自らの使命を果たすうえで欠かせない事柄ではなかろうか。時間を要する作業ではあるが、しかし、それ以外にどんな近道があるだろう。説教は教育的に見ても、その中心に位置しているように思われる。

 教会ははたして、目先の人集めに奔走するのか。それとも、長期の教会形成に心を向けるのか。それはそのまま、そこにどんな人たちが集まり、そこでどんな人たちが育っていくのかに繋がるものと思う。シンギュラリティの2045年は、ほどなくやってくる。そのとき、キリスト教会ははたして、どんな姿を見せているだろうか。それは、意外と早くやってくるかもしれない。

 

 

©綿菅 道一、2019

*無断の盗用、借用、転載、コピー等を禁じます。

 

(本ページは、読者の投稿受付けを行なっていません)

 

 

 



 

 


ぼく(ら)の聞きたい説教(2)-物書きの臭さに与することなかれ-

2018年05月04日 | 説教

 

 

「ぼく(ら)の聞きたい説教」(2

—物書きの臭さに与(くみ)することなかれ—

 

 

  「いつまでも若いと思いなさんな、っちゅうことよ。戦後73年てことは、自分も73てことだろうが」。つい何日か前、作家のくせに人間心理の機微というものに無頓着な悪友から、こんな口の悪い電話をもらった。要するに、敗戦のその年生まれのぼくは戦後の暦と手を携えてやってきたのだから、自分がどれくらい年をとったか分ってるだろうに、というわけだ(ただし、ぼくの誕生月は11月なので、厳密にはまだ72で、彼のカウントは間違っている)。根のいい奴なので、このぼくの体を労ってのことだが、ぼくは今年、悔しくも年明けから体調を崩してしまった。昨年末の飛込み仕事が事の始まりだと思う。それが老体に響いたのと、さらには、年初からのあのインフルエンザの流行である。さすがのぼくも、何年か振りにダウンした。気ばかり若くて、忍び寄る現実には気付かず、ということか。悪友もそれを言いたかったのだろうが、そんなわけで、このブログのアップも前回からだいぶ時間が経ってしまった。お読みくださっている方がどれだけおられるか不明だが、そのような奇特な方がおられたなら、書下ろしの遅れをお詫びしたいと思う。

 

 そんなこんなで、ぼくもついに、齢の現実を見せつけられる年齢になってしまったようだ。そしてそんなとき、時代の寵児のようにして登場するのが最近話題のあの言葉、「終活」である。ぼくは-物書きとしての自負があるし、意地もあるので?-流行りの言葉というのは滅多に使わないが、ただもちろん、終活というこの言葉の意味するところは分らないわけでもない。しかも今や、それがなんとも身につまされる響きを持つようになってきた。呼びもしないのに、人生の終末がいかにも親しげに、狎々(なれなれ)しく近づいてくる。いい迷惑だ。けれども、それは要するに、こう言いたいのだろう。「最後の最後に、おまえは一体、何を大事にしたいと思っているのか」。そう言われてしまってはたしかに、返す言葉がない。ぼく自身、常から同じように考え、同じように言ってきたのだから。装いでない内実、メッキでない中身、見せかけでない本質、ポーズでない本気、解説でない実存・・・。ぼくはここまで、そうしたものを求めて探し、そのようにして求道を続けてきた。きっと、相も変わらずそうし続けて、この世の生を終えるのだろうと思う。なぜなら、人の一生というのは、そこで仕上げた業績の出来映え以上に、そのようして生きること自体により大きな意味があると、ぼくはそう信じているからだ。事に向かう姿勢であり、その過程にこそ、それぞれの人となりが宿ると思う。はてさて、72歳のこの先の終活や如何に?




 というようなことを踏まえつつ、「説教」について思うところをまた一つ、言葉にしてみる。それが、キリスト教シンパの説教随想第2回目のこのエッセイである。副題は上にご覧のとおり、—物書きの臭さに与することなかれ—。幾分か(というかむしろ、かなり)自嘲の籠った副題である。それは、ぼくらのような物書きには、性(さが)というか業(ごう)というか、どこか創作の源泉でありながら、と同時にしぶとく居座って事をいかにもそれらしく作り上げてしまう、そんな憑き物のようなものがあるからである。そして、その憑き物が自省を忘れさせ自制を失わせると、そもそものあるがままに事を見る目が薄れてくる。そういえば、大江(健三郎)さんも似たようなことを言っておられた。小説を書くというのはそうする作業を通して自らの思考や思想を形成していくことでもあるのだが、ただ、創作という仕方によってそれを意図したある方向にまとめ上げることもそれなりに可能で、必ずしも難しいことではない、と。つまり、自分の内にある"予(あらかじ)め" の価値観に向けて構成を上手に練り、全体の流れをそのところへと組み立てていく、ということだろう。大江さんの言われるように、ぼくらのような物書きにはたしかに、職業的な資質として2面性と呼べるようなものがあると思う。書くことによって物の見方や考え方を見出そうとする一面と、それとは逆に、すでに抱いている見方や考え方に説得力を持たせようとしてそうする一面である。ぼくが先に「憑き物」と言ったのは後者の方で、俗な表現を借りれば「初めに結論ありき」ということだろうか。ちなみに、大江さんは1996年、米国のプリンストン大学に赴き、そこで1年間を過ごしておられる。講義と研究を兼ねてのことだが、その折の主な目的は、創作的な側面からしばし距離を置き、自身の立つべき基盤を確かにしたいと願ってのことと語っておられた。そのための取組みの中心は、オランダのユダヤ人哲学者スピノザの研究だった。長々と書いてしまったが、要するに、ぼくの今回の副題は「聖書から説教する者、物書きのそうした憑き物から来るその臭さに連なることなかれ」と、ぼく自身の自嘲も込めて付けさせていただいたものである。その種の臭さというのは、職業柄、ぼくらのような物書きには作為のそれとして自然と伝わってきてしまう。

 

 そうではないだろうか。人が何かしら大切なものを探そうとするとき、結論を初めから下していては、そこで別のものが見つかろうはずがない。しかも、事が重要であればあるだけ、本質的であればあるだけ、そのようにして見つけられないその損失は大きいに違いない。ツケは甚大であろう。冒頭でぼくの終活のことに触れたが、歳を重ねると普通、頭が堅くなる。自分をもう一度、初期化してリセットするのは容易なことでない。けれども、人生の終末期に向っているこの時、ぼくはむしろ、今こそ意識して"聴き取る耳" を研ぎ澄ませたいと思う。こちらの色に色付けする口や手ではなく、向うからの声を聞き逃さない聴き取る耳である。そのようにして、最後の最後に大事にすべきかけがえのないものに触れたいと願っている。




 このエッセイではキリスト教が中心のテーマとなっているが、こと宗教となればなおさら、「聴く」ということが重みを帯びてきはしないだろうか。宗教というのがいずこか自分を超えたところから来るなにがしかのものに出会うことだとしたら、それはまずもって、そこに耳を傾けることがなければなるまい。そうでなければ、自分以上のものをどうして知ることができようか。事は自分を超えているのだから。その意味で、「信仰は聞くことにより・・・始まる」(ローマ1017)と言ったパウロの言葉は実に的を得ていると言えよう。「私意」という私心を排することはもちろん、不可能であろう。けれども、「恣意」という私心をそうするのは、当人の意識次第でそれなりに可能になる。ただし、それには不断の意識化が求められるのは言うまでもない。説教という本題に話を戻すなら、要するにこういうことである。聖書の説教をしようと思うなら、何はともあれ、そしてとにもかくにも、予めの構えを一度、意識して虚心に戻すこと。そして、その文言の言わんとするところを、まずもって脚色なしに聴き取るということである。

 

 事はなにも特別なことではない。小説であれ記録であれ、フィクションであれノンフィクションであれ、そこから何事か元々の含意を読み取ろうとするなら、まずは原作者の意図や真意に色抜きした耳を傾けねばなるまい。それが宗教や信仰の書であれば、なおのことであろう。聖書で言えばたしかに、そこに記された言説の信憑性云々等が言われる。「これは元来、イエスの言ったことではない。パウロの言ったことではない」等々である。(聖書学の専門家でないぼくには当然、詳細を論ずる資格はないが)しかし、それをそのように編集してまとめたその編著者らの解釈や理解に聴き耳を立てること、それはやはり、最初にすべきことと思われる。




 今さらなぜ、こんな分り切ったことを言うのか。それは、昨今、そうでない「予め」の読み方に幾度か触れたからである。そして、そこからなされた「予め」の説教を幾つか耳にした。聞けば、ぼくの友人も時に同様な経験をしているらしい。もしもその予めの読みが外れていたとしたら、そこからなされる説教とは一体、何なのだろうか。講話や講演、発題や演説といった類いなら、まだ分るし、許容の範囲と言えるかもしれない。だが、聴くことから始まる信仰の事柄となると、はたしてどうなのだろう。事は、説教が説教とされるその生命線にも関わるように思われる。小さな軽いことではなく、大きく重いことのように思う。

 

 ぼく(のような者たち)は、たとえ拙く朴訥とした話しぶりであっても、事を虚心に・謙虚に・柔軟に、そして誠実に・必死に聴き取り、その上でそこから同じように語ろうとするその姿勢に、何よりもまず心を惹かれる。それは、具体的問題として言うなら、例えば読解の基本のこと、すなわち背景や文脈を踏まえて内容を読み取るということなどである。いわゆる「山上の説教」一つを取っても、倫理律法的色彩の極めて強い形で、その各所の説教を聞くことがある。しかし、(聖書学の知識には浅いものの、文章の読み取りにはそこそこ馴染んでいる)ぼくの読解からすると、山上の説教の個々の章節は単なる倫理的要求という以上に、それらに先立って説教全体を支えている恩寵という枠組みの中で言われているように見えるのだが、いかがなものだろうか。事の背後にある背景理解の問題である。また、これとは反対に、例えば「幸いの教え」と呼ばれる山上の説教冒頭の言葉。マタイ福音書(5312)の場合、後の編集による付加があったとされているようだが(とりわけ1012節)、いずれにせよ、幸いの全体がいわゆる幸福宗教のそれとして言われているのでないことだけは確かであろう。「悲しむ人々」とか「義に飢え渇く人々」とか、あるいは-付加の部分まで入れれば-「義のために迫害される人々」とか、彼らの置かれている容易でない現実の様が想像される。気休め的な安心感を保証しているのではあるまい。それを-時に目にするのだが-、「心の貧しい人々」とは「神にしか望みを置くことのできない人々」のことで、そんな彼らも神のおられるがゆえに「幸いである」と、すなわち「大丈夫!」と説かれたりする。他の「〜人々は、幸いである」も同じようにして、「大丈夫」と結ばれる。しかも、その大丈夫の中身が癒しや成功といった、目に見える具体的な安心結果だとしたら・・・。ぼくらはもちろん、安心が欲しい。そして、そうした空気がいわゆる時代精神として、ぼくらの周囲を覆っているのも知っている。けれども、気休めのそれを匂わすいかにも優しいイエス様が「予めの結論」として心を占めているとしたら、ぼくらははたして、聖書の真意をその深みにおいて読み取り、聴き取ることができるのか。読解の基本はいつ・どこにおいても基本であり、聴き取りにこそそのいのちが懸かっているとも言える宗教や信仰においてはなおのこと、それが大切にされねばならないように思う。読む側の好みや願望の囚われから離れ、また時代精神のそれからも離れて、語られているところをきちんと受け止めるということだろうか。ぼく(ら)のような堅物は、そんな愚直で生真面目な説教に心惹かれるのである。物書きは日頃、恣意や作為の創作に生きているため、その臭いに敏感で、その臭さを拭い去りたいと思ってもいるからである。




 物書きの悪い習性がまた出てしまった。長々くどくどと書き続ける悪癖である。これも物書きの臭さの一つだろう。与することなかれ! 要するに、ということで、論点を的確に突いた一文を引用し、この点の締めとさせていただきたい。

「ここに収録した説教は、ユダヤ人問題に触れている。その理由は、私がこの問題に触れたいと思ったから、ではなく、テキストを講解する中で・・・この問題に触れなければならなかったから、である。主題として〔ということであれば〕、ユダヤ人問題であれ、私たちを今日動かしている他の諸問題の内の一つであれ、説教壇にはふさわしくないであろう」(カール・バルト、天野有訳)

 つまりは、説教する側が予めの意図で聖書を活用するのではなく、聖書の意図するところから語らされるのが説教というもの、ということであろう。




 これが物書きの臭さの一であり、説教と言われるものの内に見たくない第一の点である。説教が説教とされるその生命線に関わると思われるからである。そして、あと一つ。第一が分ればもはや多言を要しないと思うが、ぼく(ら)の聞きたい説教は話術や話芸に非ず、ということだ。その類いのものなら、それを生業とするぼく(ら)の方が数段うまいと言えよう(失礼!)。しかも、それがどこかいかがわしい一面をも隠し持っていることを、当のぼく(ら)自身が知っている。もちろん、話術に長けるに越したことはないし、長けた方がいいに決まっている。ただ、その誘惑と落し穴が曲者(くせもの)で、要注意なのである。中身の脆弱を物言いでカムフラージュし、言葉の化粧で見えなくするからである。そして、それが実は、そうする者の生の内実を示しており、生きる実存を証ししているとしたら・・・。ここでも、物書きのそうした臭さを真似てほしくはない。これまた、説教のいのちを左右しかねないからである。

 

 というのも、一つには、この20年程のことだろうか、いわゆる信徒説教と呼ばれるものが(その多少はあるにせよ)教派を超えて目につくようになったからだ。教会員の信者でないこのぼくにそれを論じる資格も力もないのは重々承知しているが、信徒説教それ自体については、ぼくにさしたる違和感はない。実際、教職制を採る日本基督教団の教会においても、信徒説教を聞く機会が何度かあった。制度のより緩い教派やそもそも教職制のない教派では、その頻度が高くなるのは自然なことであろう。説教がいわゆる牧師の専売特許や専権事項であるとは、このぼくが聖書を読むかぎり、思われない。だが、である。そう考える一方で、だがこれまで稀にしか、信徒説教で心を動かされたことがないのはなぜなのか。そう思わされるのである。




 その理由を明確に言い切れるものは、残念ながら、このぼくの中にはまだない。ただ、これだけは言えるように思う。(少なくとも、ぼくの見聞きしたところによれば)信徒説教は話術に流れやすい、ということである。聖書そのものの読み取りやその神学的理解に不足があるからだろうか。話の組立てや言葉のレトリックに頼りすぎのように見て取れる。加えて、信徒説教を指導(?)する牧師の助言もまた、聞くところによれば、テクニックのそれに終始しているようだ。言葉が難しいとか、構成がスムーズでないとか、時間の配分がいま一つとか、例話が多すぎるとか・・・。事実、どのような信徒が説教者に選ばれるかというと、-たしかに、ぼくの知る範囲でではあるが-よく言われる「お話の上手な人」というのが多いようである。だとしたら、生の気迫と言うか、信仰の気合と言うか、体重のかかったそうした実存的緊張がそこに薄くなるのも不思議でないのではなかろうか。そして、ぼくはそれを何より、信徒の説教に感じるのである。

 

 だいぶ前だが、ぼくの友人で、同人誌に寄稿しているサラリーマン作家の一人がこんなふうにぼやいていた。「出張先で礼拝に行ったんだけど、説教の途中でホテルに戻ったよ。たまたま信徒説教の日でね。前の日にイベントがあって、準備する時間が十分に取れなかったんだって。説教の内容は、推して知るべしでね。途中で時間が惜しくなって、帰ってしまった。ホテルのカフェで本を読んでる方がずっと生産的だろ。それを、教会の人たちも笑ってるんだから。自分みたいな人間には分らんよ」。ぼくには、時間を割いて出かけたこの友人の気持ちが分るように思う。真面目だから出かけたのであり、真面目だから帰ってしまったのだ。そんな誠実な人間に背を向けられていては、教会のいのちはどこに行くのだろうか。説教というのは、-ぼくが言うのもおこがましいが-語る者が聖書と向き合う中でその生きる姿勢を言葉にするものではないだろうか。言葉にされた実存ではないのか。それは生き様に直結したもののはずだ。なのに、友人の見た信徒説教者のそれは・・・? 話術ではなく、事に向かう姿勢とそこから突き動かされる実存とがまずもって問われるのではなかろうか。それが言葉という媒体を得て息づくもの。それが説教というものであり、ぼく(ら)はそんな説教を聞きたいのだ。信徒説教の意義と可能性を思いながらも、このあたりに、それが成立する境界のようなものがあるように感じられる。告白的作品にも通じる一面である。安易なものでないのは確かであろう。




 これが、説教が説教とされる生命線とぼくが思うところの、もう一つの点である。ぼくが敬意を寄せる牧師の言葉をご紹介しよう。病床にあって、その教会に宛てて書かれた一文である。内容は、自分に代わって説教をする者の人選について。

「病院にいていちばん心にありますことは、礼拝の説教のことです。話のできる人にしてもらえばいいとか、男性だけでなく女性の中からもとか・・・いうことでは、全くありません。・・・どうしてあの人にしてもらわないのか、できるはずなのにと、あるいは自他共に思っておられる方がいるかも知れません。・・・宴会の席をゆずるとか、ただミンナでとか、適当にあの先生をとか、考えないで下さい。私が・・・胸をかかえていることができなくなり、それならば、這ってでも講壇に立ちたいと思わなければならなくなります」

 ここにあるのは説教に対する真剣勝負の姿勢であり、ぼく(ら)の聞きたい説教のそれである。間違っても「説教の中でジョークを言ってみよう。非常に好評なので」と、そんなレベルで「教会は楽しくないと・・・」などと考えないでいただきたい。一般教育の授業であっても、それが出会いの次元にまで深められるのは教材との取り組みの深さによってであり、そこへと高められるのは教材の底にある本質との格闘によると言われる。宗教や信仰の事柄であれば、なおのこと、そうではあるまいか。違いははたして、どこから来るのだろう? 求道者のぼくにはいま一つ不明で、どこか怪しく感じられる部分もあるのだが(またまた失礼!)、やはり(キリスト教で)いわゆる「召命感」と呼ばれる意識が関係しているのだろうか。 



  「ぼく(ら)は、しつこいようだが・・・」と、前回書いた。もう一度、繰り返すことをお許しいただきたい。ぼく(ら)は、聖書というものが一体どんなもので、そこにどんなことが書かれているのか、そしていわゆる信者と言われる人たちがその聖書をどのように生きようとしているのか、それが知りたくて、またそれが見たくて、礼拝に出向き、説教に聞き入るのである。

  


 聖書とは禅宗で言う公案的なもので、生死の一大事である。禅宗の僧侶は全身全霊を傾注して、公案にぶつかる。生真面目さと熱意が必要である。求道的謙虚さが求められる。(瀧澤 克己)

 

 聖書と、いわばひとつの生活史を営むようにと、説教者は召されているのである。それは説教者と神の言葉との間に何か出来事が起こるような歴史である。(カール・バルト、加藤常昭訳)

 

 説教の聴き手に先立って全存在をさらして神の言葉としての聖書のアッピールの言葉を聴き取る説教者の、隠れた、神のみ前にあって深く神の言葉に生きる生活があった。そして、存在を賭けて語る。だから私たちは、その言葉に生かされたのである。(加藤 常昭)

 

 

©綿菅 道一、2018

*無断の盗用、借用、転載、コピー等を禁じます。

 

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ぼく(ら)の聞きたい説教(1)-聖なる睡眠導入剤?-

2018年01月05日 | 説教

 


「ぼく(ら)の聞きたい説教」(1

—聖なる睡眠導入剤?—

 


2017年の今年も、残すところあとわずか(ぼくはこのブログのエッセイをアップ月直前の月末に書くようにしているので、新年1月分のこれを書下している今日は暮れも差迫った1230日で、2017年もあと1日である)。今年も、というか今年はと言うべきか、いろんなことがあった。冷静な知性や理性を置き忘れた動物的な——と言ったら、それこそ動物たちに失礼だが——輩(やから)が欲と利害と駆引きの情に身を任せて、命やいのちを弄(もてあそ)ぶ愚行を繰返した。知性も理性も、人間はそもそも大切なものを大切にせんがためにそれらを育み、それらを生かしてきたはずなのに、国の内外を問わず、そうした本来の人間らしさが影を潜めつつあるように思う。私事においてもまた、今年はいつになく落着かない一年だった。ぼくも70歳の大台を越えて、早2年。72ともなると、近しいあの人この人に先立たれ、寂しい別れを強いられるのは世の常と言えば言えなくもない。とはいえ、そのだれもがかけがえのない、たった一人の人。どれもがただ一つの命。なんと侘(わび)しいものなのか。そのようにして、ぼくはこの年、いつにも増して「命」というものについて考えさせられ、「いのち」ということについて、思いを深く巡らすところとされた

 

 そして、ぼくらはあと少しで、2018年の新しい年を迎えようとしている。そうであればこそ、ぼくはここでいま一度、この自分が何を求めて教会を訪ね歩いてきたのか、何を探してそこになおも足を運んでいるのか、その理由の根っ子に目を据えたいと思う。そして、そこから、(いまだ “キリスト教シンパ” に留まっている失礼と無礼に寛大なお許しを願いつつ)その大本(おおもと)たる一つのことについて(真面目な)シンパなりの感想と意見とを記させていただきたいと思っている。なぜなら、自分のを意味あるものとして納得のゆくいのちを生きるために、それはこのぼくにとって大事なガイドだったし、今もなおなくてならぬ日毎の糧(かて)であり続けているからだ。 




 それは、生きる道を求めて教会に通っておられる人ならすでにお察しのとおり、礼拝であり、そこで語られる説教であり、それらの実存的な重さということである。今回こうして書留めようとしていることは、ぼく(ら)の周辺ではそれなりに市民権を得ている見方かと思う。「ぼく(ら)の周辺では」と言ったのは、この「ぼく」やこのぼくと「付合いのある人たち」という意味である。したがって、その範囲には当然ながら、ある種の「限定」が付く。すなわち、(これは大事な点なのだが)それぞれの見解は一様でないとしても、ものを考える際の目の据え所が似ていて、事を本質的な視点から見詰めて吟味しようとする傾向のある者たちである。そうした「ぼく」及び「ぼくと交流のある人たち」は、年齢的には30代後半から上は80代までが主(おも)で、男女別では——ぼくが男ということもあってだろう——男性が多い。そのような限定が付くものの、しかし、そのぼく(ら)の間では「教会」というものに向ける視線にある種の共通項があるように思われる。つまり、ぼく(ら)が教会に関心を寄せるのは、そこで読まれる「聖書」というものが一体どんなもので、そこにどんなことが書かれているのか、それを知りたいからであり、それが「説教」というものでどのように語られ、それを聞くいわゆる「信者」と言われる人たちがどのような生き方をしているのか、それを見たいからなのだ。なぜかと言えば、ぼく(ら)の考えるところでは、教会が依って立つのは「聖書」というものにであり、教会に足を運ぶ信徒たちはそれが語られる「説教」というものに生き方の指針を聞かんとしていると推測しているからである。

 

もちろん、人が教会に行くのはそんな真面目くさった辛気(しんき)臭い理由からだけでないのはこのぼく(ら)だって知らないわけではないし、それが悪いとも思ってはいない。けれども、教会について少しばかり理屈っぽく(哲学的に?)考え、生の支柱をそこに真剣に探ろうとする者にとっては、枝葉のようなあれこれでなく、すべての核となる中心的なものに目を引かれるのは至極(しごく)当然なことではなかろうか。そうでなければ、生業(せいぎょう)に追われて週日を走った後、貴重な休日の時間を割いて、朝から1時間も2時間も(往復の車中も入れたら、時間も時間も?)無為に外出などをするだろうか。少なくともぼく(ら)のような類いは、単なる社交や歌声や会食のために、あるいは気晴しや気分転換のために日曜の朝の価値ある時間を犠牲にしようとは思わない。ぼく(ら)はたしかに、限られた人種かもしれない。ただし、——近年、教派を超えた現状のようだが——現在の教会にいわゆる「(3050歳代の)壮年層」が少ないとしたら、それはまさしくぼくが親しくする年代に重なるものだし、その理由の一つとして今述べたようなことがありはしないかと、ぼくはそう感じるのである。これがもし的を得たものなら、教会のこの先に多大な影響を及ぼすのは確実で、容易に看過しえないところではないだろうか。つまり、教会を教会たらしめている、その本質的な「中身」の問題である。それが見えないと、ぼく(ら)のような者たちはどこか別の所に生の支柱を探さねばならなくなるし、社会の第一線で働く3050代の男性もいよいよ、教会から遠ざかって行くように思われる。

 



 ということで、(教会の中にいる教会員ではなく、いわば外からその有り様を見ているぼくらのような者たちにとって)それを何より分りやすく示してくれる「(礼拝の)説教」というものについて、今月から数回にわたり、ぼくの考えるところを記させていただければと思う。ぼくは言うまでもなく、牧師でもなければ説教家でもなく、そもそも教会のメンバーでもない。したがって、これから述べることにはどこか的外れで要領を得ないところがあったり、もしかすると、見当違いの誤りもあったりするかもしれない。なので、以下は「キリスト教シンパの説教随想」とでも考えてくださって結構である。ただ、一つだけ、半身でなく正面から受止めてもらいたいのは、これから記すことは上に述べた「ぼく(ら)」のような者たちがいろんな説教に触れて正直感じるところであり、深く考えさせられるところだということである。そんな説教論から、2018年のエッセイを始めたいと思う。聖書の説教が教会の出発点だとすれば、新しい年に踏出すのに、これもまたふさわしいのではないだろうか。

 



  「端書き」とも言うべきその第1回目を、ぼくは、巷で一時(いっとき)話題になった談志師匠のあの話から始めようと思う。談志師匠とは、かの有名な落語界の風雲児「7代目(自称5代目)立川談志」である。その談志師匠が19981217日、長野県飯田市伊賀良地区の「伊賀良寄席」で起した事件(?)である。事は、観客約250人で満員札止めとなったその寄席で起った。談志の演目中に、一人の男性客が居眠りをしたという。お酒が入っていたようだが、場所も悪かった。会場の中央部で、椅子席最前列の真ん中。なんと、師匠と真向いの席だった。談志師匠は「おとうさん、寝ちゃって大丈夫かい」と話しかけたり、ジョークを次々と繰出しては、その客を起そうとした。しかし、ついにプッツン。溜め息をついて、「やる気なくなっちゃったよ。休憩します」。高座を降りてしまったのである。事件は「落語を聞く権利の侵害」云々で裁判沙汰にまでなり、結局は師匠の勝訴で終ったが、ちょっとした話題になった。「プロが客の態度で一々キレてたら・・・」とか、あるいは「寝た客を起せないのは、その芸が未熟だからじゃないの? もう少し謙虚でないと」とか、そんな声もあるかもしれない。だが、談志師匠の心中については、さして想像に難くないだろう。名人芸の傑作「芝浜」などを聞くにつけ、師匠の高座からは、単なる話芸という域を超えた実存的な没入感さえ感じられる。それは時に、鬼気迫るような独特の真剣勝負を思わせる。そんな談志師匠であれば、こんなふうに思ったとしても不思議はないのではなかろうか。「おれが命削って、こうして死に物狂いでやってんのに、おめえさん、寝てやがんのかい」と。落語のスタイルにはもちろん、様々ある。そして、そのどれもがなかなかおつなものである。ぼくがここで言いたいのはしかし、そういうことではなく、高座で語る談志師匠の体重のかかったその姿であり、その姿勢である。

 

 翻(ひるがえ)って、話を本題の「(教会での)説教」に転じることにしよう。そこで(いつもとは言わないものの)そこそこよく目にする光景に、聴衆のこんな姿がある。これもまた教派を超えた現象のようだが、牧師の説教が会堂に響くなか、いかにも気持ちよさそうにスヤスヤと寝入る人たちの姿である。普通は、2人か3人。だが、その数がたまに3分の1を超す時もある。説教がBGMのように心地よく聞えるのだろうか。しかも、さすがに滅多にはないが、説教をしている当の牧師自身が次のように言って、これに言葉を足すこともある。「説教で寝てくれるなんて、皆さんに安らぎを与えられて、牧師として嬉しいことです」。これははたして、冗談なのか皮肉なのか。はたまた、自虐的な卑屈なのか。真意はそれこそ、その折の文脈を見なければ分らないが、いずれにせよ、その場にいわゆる「緊張感」が感じられないのは確かであろう。その原因が説教をする側にあるのか、あるいはそれを聞く側にあるのか、これもまた、その時の状況による。しかしながら、ぼく(ら)のような堅物(かたぶつ)がそうした所に再び出かけることは、まずほとんどないと思う。

 

 要するに、ぼく(ら)は暇を持て余して出かけるわけではないのだ。(全員が、とはもちろん言わないが)かなりの部分がそれなりの求道心を持っているし、深刻な問題意識を抱えて、それこそ一期一会的な出会いを求めてそこにいることもある。だから、出かける以上は当然ながら、そうするにふさわしい価値ある時を持ちたいと考えている。実のある時間ということであり、それが教会という場であれば、言わずもがな。礼拝で聖書について語られる「説教」というものがどれだけ中身のあるものか。それが、ぼく(ら)のような類いには、まずは第一の関心事となる。そこでの出会いがあるかどうか、である。おまけのあれこれも悪くはないが、まずはそこに——俗な言い方で不謹慎だったら、お許しいただきたい——ぼく(ら)の「コスパ(コストパフォーマンス)」感覚とでもいうようなものがあると言えようか。

 



 実際・・・と書進んだところで、とうとう年が明けてしまった。晦日(みそか)に急な仕事が入ったせいで、今回のエッセイは「年越し」の労作(?)になってしまった。——ということで、以下は、年明けの正月三箇日以降に続けさせていただきたい—

 

 マスコミでも広く話題に上(のぼ)ったのですでにご存知かと思うが、昨年の8月に出版されるや、あれよあれよと言う間に60万部、70万部と売上部数を伸ばした漫画がある。吉野源三郎氏の名著の翻案で、原著の新装版共々、引き続き異例のベストセラーになっている。「君たちはどう生きるか」という漫画であり、本である。実際、——というところで、旧年の前文に続くわけだが——その名著のタイトルを借りれば、「君たちはどう生きるか」と問いかけるもの。そして、「ここに人生の真理があり、本当のいのちがある」と指示すもの。それが聖書であり、その聖書が教会の土台だとしたら、それについて説く「説教」というものが緊張感の欠けたものでありうるだろうか、と思わされるのである。説教をする者は、その限りにおいては——鬼気迫る必要はないにしても——落語に後塵を拝するようなことはできないだろうし、そこにかける体重において、談志師匠にけなされるわけにもいかないのではないかと思われる。と同時に、聞く方もまた、説教で心を緩めてボーッとしたりスヤスヤと寝入ったりというふうにはならないはずだし、礼拝が終った途端にお目覚め、そして元気全開というようにもならないのではないだろうか。

 

 つまりは、いのちに不可欠な事柄を、説教者はそれに見合った備えと姿勢で語り、会衆はそれにふさわしい備えと態度で聞くということ。どちらももちろん、聖書が前提の話だが、ぼく(ら)は結局、そのような言葉から生きる指針を聞取り、そのような態度から生きる姿を学び取りたいのである。「説教」というのは、ぼく(ら)にとっては、——深い意味で真の休息を与えてくれるものだとしても——単なる睡眠導入剤ではありえない。(実際にそうせよというのではなく、想像してみたときに、ということだが)いろんなものが削落されたそのとき、はたして、礼拝とそこで語られる説教にどれだけの人が引寄せられて、そこに集うだろうか。そこに、大切な問いが隠されているように思われる。

 

 以上のようなことを踏まえ、この後、引続き(おそらく)回にわたって、もう少し具体的な仕方で「キリスト教シンパの説教随想」を記させていただければと思っている。それらは、例えば説教の生命線と思われる諸要因についてであり、その動機とそこにおける聖書の使用法についてであり、またその担い手や教派性について、さらには説教というものの広がりやその言葉の変化についてといったようなものになるかと思う。いずれにせよ、いわば一つ外の輪にいる(多少理屈っぽい)求道者が説教というものに触れて考えているあれこれを思うままに短く、しかし正直に真面目に分ち合うものである。その意味で、これを読まれる方々も、内容的な賛否は賛否として結構。けれども、記す事柄については真っすぐ受止め、誠実に考えていただきたいと思う。




 次回、本論に移る前に、終りに一つだけ、俗説の誤りについて述べておきたい。その俗説とは、しばしば耳にするこんな物言いである。「説教は短いほどいい。人が集中できるのは、せいぜい10分前後だから」。俗説というのは、心理学などを多少なりとも正しく学んだ者なら、こうした言い方は決してしないからである。(心理学等の)科学的な学をきちんと学んだ者であれば、——それがたとえ「かじった」程度のものであっても——事を無条件・無前提に決めつけることはしない。詳しくは省くが、学を学んだ者は常に次のように言う。「かくかくしかじかの環境下(=状況下)、かくかくしかじかの条件のもとで、かくかくしかじかの刺激(=情報等)を与えたとき、かくかくしかじかの反応(=結果)が生じる」。つまり、例えば説教等のスピーチ関連で言えば、(影響因はいくつも考えられるが)少なくともその内容が聞く人にとって意味あるものか、それとも無意味なものか、それが大きな要因(条件因)となって、聴衆の集中力や持続力を左右することになる。心理学ではこれらを「有意味刺激」「無意味刺激」などと呼んだりするが、難しいことではない。幼児が1時間も好きな番組に見入ったり、小学生が何時間もお気に入りの本に没頭する。似たような光景は、視聴や読書以外の分野でも容易に思い浮かぶのではないだろうか。そして、片や5分で寝入っている礼拝の説教と、片や40分、50分を超えても聞入っている礼拝の説教。問題は単に、時間の長さだけではないのである。

 

 であれば、単なる時間の長短に増して、説教の内容自体と会衆の内面にまずもって目を据えることが必要なのではあるまいか。そこで吟味され、深められ、研澄まされた説教を聞くことができたら、と聞く側の身勝手な願望を膨ませている。実際、内容が重要であればあるほど、しかるべき時間が必要になるのは言うを待たない。そうでないと、聖書の理解がやはり、感覚的で浅薄なものに留まり、深く的確な読取りが培われないように思う。

 

 要するに、説教を真剣に思うところにはそのような人たちが引寄せられ、そうでないところには、それ以外の引力に引寄せられる人たちが集るということだろう。そして、それはすなわち、聖書に対するそれぞれの教会の思いの丈を象徴しているように思われてならない。だからこそ、それは、そこにいかなる教会を建てようとしているのか、そのことに直結することになる。ぼく(ら)は、しつこいようだが、聖書というものが一体どんなもので、そこにどんなことが書かれているのか、そしていわゆる信者と言われる人たちがその聖書をどのように生きようとしているのか、それが知りたくて、またそれが見たくて、礼拝に出向き、説教に聞入るのである。

 

 

 *キリスト教に関する気になる文章を2

 

  (渡辺善太)先生は決して、一般受けのする人生論を語ったりはしない。先生のお話はいつも原理が核となっていることを感じる。そして、お話の土台は聖書である。・・・聖書一巻の中にさまざまに描かれてある〈具体的実相〉によって〈指し示される原理〉こそがキリスト教の本質なのだ、と私は気づくようになった。・・・その説教を通じて学んだ先生の聖書解釈のあり方は、私にそのことを教えてくれたと思う。

 渡辺先生は大変に話術に優れたお方で・・・先生のお話はある意味では非常にむずかしいのだが・・・お話が終わった時には、私はいつも軽い陶酔からゆっくりと抜け出る満足感を覚えた。

  〔しかし〕牧師の話が面白いから聴くということではいけない、牧師の〈人間〉に惹かれるのはまちがいだ、〈人間〉にだけ惹かれることはつまずきのもとだ、人を見ず、その指し示す指の先を見よ、と先生は常に言われる。私は・・・先生がつくりだす磁場のとりこになって満足感を味わい、それで事足れりということになってはならないと思った。先生が指し示しておられる、先生を〈超えたもの〉をもっとよく見たい、と願った。

——元・銀座教会牧師、故・渡辺善太(ぜんだ)氏の説教集を編集した牧野留美子さんの言葉

 

 キリスト教の伝来から現代までの500年余を概観した通史。キリスト教が日本の文化や教育、社会運動に与えた影響の大きさを痛感。

——『日本キリスト教史』(鈴木範久著、教文館)を評した、文芸評論家・斎藤美奈子さんの言葉

 

 

©綿菅 道一、2018

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