「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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ぼく(ら)の聞きたい説教(2)-物書きの臭さに与することなかれ-

2018年05月04日 | 説教

 

 

「ぼく(ら)の聞きたい説教」(2

—物書きの臭さに与(くみ)することなかれ—

 

 

  「いつまでも若いと思いなさんな、っちゅうことよ。戦後73年てことは、自分も73てことだろうが」。つい何日か前、作家のくせに人間心理の機微というものに無頓着な悪友から、こんな口の悪い電話をもらった。要するに、敗戦のその年生まれのぼくは戦後の暦と手を携えてやってきたのだから、自分がどれくらい年をとったか分ってるだろうに、というわけだ(ただし、ぼくの誕生月は11月なので、厳密にはまだ72で、彼のカウントは間違っている)。根のいい奴なので、このぼくの体を労ってのことだが、ぼくは今年、悔しくも年明けから体調を崩してしまった。昨年末の飛込み仕事が事の始まりだと思う。それが老体に響いたのと、さらには、年初からのあのインフルエンザの流行である。さすがのぼくも、何年か振りにダウンした。気ばかり若くて、忍び寄る現実には気付かず、ということか。悪友もそれを言いたかったのだろうが、そんなわけで、このブログのアップも前回からだいぶ時間が経ってしまった。お読みくださっている方がどれだけおられるか不明だが、そのような奇特な方がおられたなら、書下ろしの遅れをお詫びしたいと思う。

 

 そんなこんなで、ぼくもついに、齢の現実を見せつけられる年齢になってしまったようだ。そしてそんなとき、時代の寵児のようにして登場するのが最近話題のあの言葉、「終活」である。ぼくは-物書きとしての自負があるし、意地もあるので?-流行りの言葉というのは滅多に使わないが、ただもちろん、終活というこの言葉の意味するところは分らないわけでもない。しかも今や、それがなんとも身につまされる響きを持つようになってきた。呼びもしないのに、人生の終末がいかにも親しげに、狎々(なれなれ)しく近づいてくる。いい迷惑だ。けれども、それは要するに、こう言いたいのだろう。「最後の最後に、おまえは一体、何を大事にしたいと思っているのか」。そう言われてしまってはたしかに、返す言葉がない。ぼく自身、常から同じように考え、同じように言ってきたのだから。装いでない内実、メッキでない中身、見せかけでない本質、ポーズでない本気、解説でない実存・・・。ぼくはここまで、そうしたものを求めて探し、そのようにして求道を続けてきた。きっと、相も変わらずそうし続けて、この世の生を終えるのだろうと思う。なぜなら、人の一生というのは、そこで仕上げた業績の出来映え以上に、そのようして生きること自体により大きな意味があると、ぼくはそう信じているからだ。事に向かう姿勢であり、その過程にこそ、それぞれの人となりが宿ると思う。はてさて、72歳のこの先の終活や如何に?




 というようなことを踏まえつつ、「説教」について思うところをまた一つ、言葉にしてみる。それが、キリスト教シンパの説教随想第2回目のこのエッセイである。副題は上にご覧のとおり、—物書きの臭さに与することなかれ—。幾分か(というかむしろ、かなり)自嘲の籠った副題である。それは、ぼくらのような物書きには、性(さが)というか業(ごう)というか、どこか創作の源泉でありながら、と同時にしぶとく居座って事をいかにもそれらしく作り上げてしまう、そんな憑き物のようなものがあるからである。そして、その憑き物が自省を忘れさせ自制を失わせると、そもそものあるがままに事を見る目が薄れてくる。そういえば、大江(健三郎)さんも似たようなことを言っておられた。小説を書くというのはそうする作業を通して自らの思考や思想を形成していくことでもあるのだが、ただ、創作という仕方によってそれを意図したある方向にまとめ上げることもそれなりに可能で、必ずしも難しいことではない、と。つまり、自分の内にある"予(あらかじ)め" の価値観に向けて構成を上手に練り、全体の流れをそのところへと組み立てていく、ということだろう。大江さんの言われるように、ぼくらのような物書きにはたしかに、職業的な資質として2面性と呼べるようなものがあると思う。書くことによって物の見方や考え方を見出そうとする一面と、それとは逆に、すでに抱いている見方や考え方に説得力を持たせようとしてそうする一面である。ぼくが先に「憑き物」と言ったのは後者の方で、俗な表現を借りれば「初めに結論ありき」ということだろうか。ちなみに、大江さんは1996年、米国のプリンストン大学に赴き、そこで1年間を過ごしておられる。講義と研究を兼ねてのことだが、その折の主な目的は、創作的な側面からしばし距離を置き、自身の立つべき基盤を確かにしたいと願ってのことと語っておられた。そのための取組みの中心は、オランダのユダヤ人哲学者スピノザの研究だった。長々と書いてしまったが、要するに、ぼくの今回の副題は「聖書から説教する者、物書きのそうした憑き物から来るその臭さに連なることなかれ」と、ぼく自身の自嘲も込めて付けさせていただいたものである。その種の臭さというのは、職業柄、ぼくらのような物書きには作為のそれとして自然と伝わってきてしまう。

 

 そうではないだろうか。人が何かしら大切なものを探そうとするとき、結論を初めから下していては、そこで別のものが見つかろうはずがない。しかも、事が重要であればあるだけ、本質的であればあるだけ、そのようにして見つけられないその損失は大きいに違いない。ツケは甚大であろう。冒頭でぼくの終活のことに触れたが、歳を重ねると普通、頭が堅くなる。自分をもう一度、初期化してリセットするのは容易なことでない。けれども、人生の終末期に向っているこの時、ぼくはむしろ、今こそ意識して"聴き取る耳" を研ぎ澄ませたいと思う。こちらの色に色付けする口や手ではなく、向うからの声を聞き逃さない聴き取る耳である。そのようにして、最後の最後に大事にすべきかけがえのないものに触れたいと願っている。




 このエッセイではキリスト教が中心のテーマとなっているが、こと宗教となればなおさら、「聴く」ということが重みを帯びてきはしないだろうか。宗教というのがいずこか自分を超えたところから来るなにがしかのものに出会うことだとしたら、それはまずもって、そこに耳を傾けることがなければなるまい。そうでなければ、自分以上のものをどうして知ることができようか。事は自分を超えているのだから。その意味で、「信仰は聞くことにより・・・始まる」(ローマ1017)と言ったパウロの言葉は実に的を得ていると言えよう。「私意」という私心を排することはもちろん、不可能であろう。けれども、「恣意」という私心をそうするのは、当人の意識次第でそれなりに可能になる。ただし、それには不断の意識化が求められるのは言うまでもない。説教という本題に話を戻すなら、要するにこういうことである。聖書の説教をしようと思うなら、何はともあれ、そしてとにもかくにも、予めの構えを一度、意識して虚心に戻すこと。そして、その文言の言わんとするところを、まずもって脚色なしに聴き取るということである。

 

 事はなにも特別なことではない。小説であれ記録であれ、フィクションであれノンフィクションであれ、そこから何事か元々の含意を読み取ろうとするなら、まずは原作者の意図や真意に色抜きした耳を傾けねばなるまい。それが宗教や信仰の書であれば、なおのことであろう。聖書で言えばたしかに、そこに記された言説の信憑性云々等が言われる。「これは元来、イエスの言ったことではない。パウロの言ったことではない」等々である。(聖書学の専門家でないぼくには当然、詳細を論ずる資格はないが)しかし、それをそのように編集してまとめたその編著者らの解釈や理解に聴き耳を立てること、それはやはり、最初にすべきことと思われる。




 今さらなぜ、こんな分り切ったことを言うのか。それは、昨今、そうでない「予め」の読み方に幾度か触れたからである。そして、そこからなされた「予め」の説教を幾つか耳にした。聞けば、ぼくの友人も時に同様な経験をしているらしい。もしもその予めの読みが外れていたとしたら、そこからなされる説教とは一体、何なのだろうか。講話や講演、発題や演説といった類いなら、まだ分るし、許容の範囲と言えるかもしれない。だが、聴くことから始まる信仰の事柄となると、はたしてどうなのだろう。事は、説教が説教とされるその生命線にも関わるように思われる。小さな軽いことではなく、大きく重いことのように思う。

 

 ぼく(のような者たち)は、たとえ拙く朴訥とした話しぶりであっても、事を虚心に・謙虚に・柔軟に、そして誠実に・必死に聴き取り、その上でそこから同じように語ろうとするその姿勢に、何よりもまず心を惹かれる。それは、具体的問題として言うなら、例えば読解の基本のこと、すなわち背景や文脈を踏まえて内容を読み取るということなどである。いわゆる「山上の説教」一つを取っても、倫理律法的色彩の極めて強い形で、その各所の説教を聞くことがある。しかし、(聖書学の知識には浅いものの、文章の読み取りにはそこそこ馴染んでいる)ぼくの読解からすると、山上の説教の個々の章節は単なる倫理的要求という以上に、それらに先立って説教全体を支えている恩寵という枠組みの中で言われているように見えるのだが、いかがなものだろうか。事の背後にある背景理解の問題である。また、これとは反対に、例えば「幸いの教え」と呼ばれる山上の説教冒頭の言葉。マタイ福音書(5312)の場合、後の編集による付加があったとされているようだが(とりわけ1012節)、いずれにせよ、幸いの全体がいわゆる幸福宗教のそれとして言われているのでないことだけは確かであろう。「悲しむ人々」とか「義に飢え渇く人々」とか、あるいは-付加の部分まで入れれば-「義のために迫害される人々」とか、彼らの置かれている容易でない現実の様が想像される。気休め的な安心感を保証しているのではあるまい。それを-時に目にするのだが-、「心の貧しい人々」とは「神にしか望みを置くことのできない人々」のことで、そんな彼らも神のおられるがゆえに「幸いである」と、すなわち「大丈夫!」と説かれたりする。他の「〜人々は、幸いである」も同じようにして、「大丈夫」と結ばれる。しかも、その大丈夫の中身が癒しや成功といった、目に見える具体的な安心結果だとしたら・・・。ぼくらはもちろん、安心が欲しい。そして、そうした空気がいわゆる時代精神として、ぼくらの周囲を覆っているのも知っている。けれども、気休めのそれを匂わすいかにも優しいイエス様が「予めの結論」として心を占めているとしたら、ぼくらははたして、聖書の真意をその深みにおいて読み取り、聴き取ることができるのか。読解の基本はいつ・どこにおいても基本であり、聴き取りにこそそのいのちが懸かっているとも言える宗教や信仰においてはなおのこと、それが大切にされねばならないように思う。読む側の好みや願望の囚われから離れ、また時代精神のそれからも離れて、語られているところをきちんと受け止めるということだろうか。ぼく(ら)のような堅物は、そんな愚直で生真面目な説教に心惹かれるのである。物書きは日頃、恣意や作為の創作に生きているため、その臭いに敏感で、その臭さを拭い去りたいと思ってもいるからである。




 物書きの悪い習性がまた出てしまった。長々くどくどと書き続ける悪癖である。これも物書きの臭さの一つだろう。与することなかれ! 要するに、ということで、論点を的確に突いた一文を引用し、この点の締めとさせていただきたい。

「ここに収録した説教は、ユダヤ人問題に触れている。その理由は、私がこの問題に触れたいと思ったから、ではなく、テキストを講解する中で・・・この問題に触れなければならなかったから、である。主題として〔ということであれば〕、ユダヤ人問題であれ、私たちを今日動かしている他の諸問題の内の一つであれ、説教壇にはふさわしくないであろう」(カール・バルト、天野有訳)

 つまりは、説教する側が予めの意図で聖書を活用するのではなく、聖書の意図するところから語らされるのが説教というもの、ということであろう。




 これが物書きの臭さの一であり、説教と言われるものの内に見たくない第一の点である。説教が説教とされるその生命線に関わると思われるからである。そして、あと一つ。第一が分ればもはや多言を要しないと思うが、ぼく(ら)の聞きたい説教は話術や話芸に非ず、ということだ。その類いのものなら、それを生業とするぼく(ら)の方が数段うまいと言えよう(失礼!)。しかも、それがどこかいかがわしい一面をも隠し持っていることを、当のぼく(ら)自身が知っている。もちろん、話術に長けるに越したことはないし、長けた方がいいに決まっている。ただ、その誘惑と落し穴が曲者(くせもの)で、要注意なのである。中身の脆弱を物言いでカムフラージュし、言葉の化粧で見えなくするからである。そして、それが実は、そうする者の生の内実を示しており、生きる実存を証ししているとしたら・・・。ここでも、物書きのそうした臭さを真似てほしくはない。これまた、説教のいのちを左右しかねないからである。

 

 というのも、一つには、この20年程のことだろうか、いわゆる信徒説教と呼ばれるものが(その多少はあるにせよ)教派を超えて目につくようになったからだ。教会員の信者でないこのぼくにそれを論じる資格も力もないのは重々承知しているが、信徒説教それ自体については、ぼくにさしたる違和感はない。実際、教職制を採る日本基督教団の教会においても、信徒説教を聞く機会が何度かあった。制度のより緩い教派やそもそも教職制のない教派では、その頻度が高くなるのは自然なことであろう。説教がいわゆる牧師の専売特許や専権事項であるとは、このぼくが聖書を読むかぎり、思われない。だが、である。そう考える一方で、だがこれまで稀にしか、信徒説教で心を動かされたことがないのはなぜなのか。そう思わされるのである。




 その理由を明確に言い切れるものは、残念ながら、このぼくの中にはまだない。ただ、これだけは言えるように思う。(少なくとも、ぼくの見聞きしたところによれば)信徒説教は話術に流れやすい、ということである。聖書そのものの読み取りやその神学的理解に不足があるからだろうか。話の組立てや言葉のレトリックに頼りすぎのように見て取れる。加えて、信徒説教を指導(?)する牧師の助言もまた、聞くところによれば、テクニックのそれに終始しているようだ。言葉が難しいとか、構成がスムーズでないとか、時間の配分がいま一つとか、例話が多すぎるとか・・・。事実、どのような信徒が説教者に選ばれるかというと、-たしかに、ぼくの知る範囲でではあるが-よく言われる「お話の上手な人」というのが多いようである。だとしたら、生の気迫と言うか、信仰の気合と言うか、体重のかかったそうした実存的緊張がそこに薄くなるのも不思議でないのではなかろうか。そして、ぼくはそれを何より、信徒の説教に感じるのである。

 

 だいぶ前だが、ぼくの友人で、同人誌に寄稿しているサラリーマン作家の一人がこんなふうにぼやいていた。「出張先で礼拝に行ったんだけど、説教の途中でホテルに戻ったよ。たまたま信徒説教の日でね。前の日にイベントがあって、準備する時間が十分に取れなかったんだって。説教の内容は、推して知るべしでね。途中で時間が惜しくなって、帰ってしまった。ホテルのカフェで本を読んでる方がずっと生産的だろ。それを、教会の人たちも笑ってるんだから。自分みたいな人間には分らんよ」。ぼくには、時間を割いて出かけたこの友人の気持ちが分るように思う。真面目だから出かけたのであり、真面目だから帰ってしまったのだ。そんな誠実な人間に背を向けられていては、教会のいのちはどこに行くのだろうか。説教というのは、-ぼくが言うのもおこがましいが-語る者が聖書と向き合う中でその生きる姿勢を言葉にするものではないだろうか。言葉にされた実存ではないのか。それは生き様に直結したもののはずだ。なのに、友人の見た信徒説教者のそれは・・・? 話術ではなく、事に向かう姿勢とそこから突き動かされる実存とがまずもって問われるのではなかろうか。それが言葉という媒体を得て息づくもの。それが説教というものであり、ぼく(ら)はそんな説教を聞きたいのだ。信徒説教の意義と可能性を思いながらも、このあたりに、それが成立する境界のようなものがあるように感じられる。告白的作品にも通じる一面である。安易なものでないのは確かであろう。




 これが、説教が説教とされる生命線とぼくが思うところの、もう一つの点である。ぼくが敬意を寄せる牧師の言葉をご紹介しよう。病床にあって、その教会に宛てて書かれた一文である。内容は、自分に代わって説教をする者の人選について。

「病院にいていちばん心にありますことは、礼拝の説教のことです。話のできる人にしてもらえばいいとか、男性だけでなく女性の中からもとか・・・いうことでは、全くありません。・・・どうしてあの人にしてもらわないのか、できるはずなのにと、あるいは自他共に思っておられる方がいるかも知れません。・・・宴会の席をゆずるとか、ただミンナでとか、適当にあの先生をとか、考えないで下さい。私が・・・胸をかかえていることができなくなり、それならば、這ってでも講壇に立ちたいと思わなければならなくなります」

 ここにあるのは説教に対する真剣勝負の姿勢であり、ぼく(ら)の聞きたい説教のそれである。間違っても「説教の中でジョークを言ってみよう。非常に好評なので」と、そんなレベルで「教会は楽しくないと・・・」などと考えないでいただきたい。一般教育の授業であっても、それが出会いの次元にまで深められるのは教材との取り組みの深さによってであり、そこへと高められるのは教材の底にある本質との格闘によると言われる。宗教や信仰の事柄であれば、なおのこと、そうではあるまいか。違いははたして、どこから来るのだろう? 求道者のぼくにはいま一つ不明で、どこか怪しく感じられる部分もあるのだが(またまた失礼!)、やはり(キリスト教で)いわゆる「召命感」と呼ばれる意識が関係しているのだろうか。 



  「ぼく(ら)は、しつこいようだが・・・」と、前回書いた。もう一度、繰り返すことをお許しいただきたい。ぼく(ら)は、聖書というものが一体どんなもので、そこにどんなことが書かれているのか、そしていわゆる信者と言われる人たちがその聖書をどのように生きようとしているのか、それが知りたくて、またそれが見たくて、礼拝に出向き、説教に聞き入るのである。

  


 聖書とは禅宗で言う公案的なもので、生死の一大事である。禅宗の僧侶は全身全霊を傾注して、公案にぶつかる。生真面目さと熱意が必要である。求道的謙虚さが求められる。(瀧澤 克己)

 

 聖書と、いわばひとつの生活史を営むようにと、説教者は召されているのである。それは説教者と神の言葉との間に何か出来事が起こるような歴史である。(カール・バルト、加藤常昭訳)

 

 説教の聴き手に先立って全存在をさらして神の言葉としての聖書のアッピールの言葉を聴き取る説教者の、隠れた、神のみ前にあって深く神の言葉に生きる生活があった。そして、存在を賭けて語る。だから私たちは、その言葉に生かされたのである。(加藤 常昭)

 

 

©綿菅 道一、2018

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