「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ(3-1)-民主主義の落とし穴とキリスト教の地盤沈下:底下げが進む諸教会(1)-

2024年04月08日 | 基本

 

 

「なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ」(31

民主主義の落とし穴とキリスト教の地盤沈下:底下げが進む諸教会(1

 

 ぼくのペースが乱れ、書き下ろしが遅れてしまった。何の間違いか、予想に反して、このエッセイを愛読くださってる方も結構おられるような・・・。気恥ずかしくもうれしいかぎりだが、であればなおのこと、まずは今回の遅筆をお詫びせねばなるまい。実は、本業の物書きに追われて、というのも嘘ではないがそれに、そう言ったほうがなんとなく格好もつくのだが、ただそれだけでないのが偽らざるところで、実にそのへんで、ぼくは言いようのない鬱(うつ)とした思いにさせられていたのだ。筆が進まなかったのも、そこに大きな理由があった。

 何とも言えない、その鬱々感。もどかしさと言おうか落胆と言おうか、はたまた気持ちを削がれたと言うか期待を冷まされたと言うか。その感覚はなかなか言葉にしにくいのだが、読者の皆さんはそれこそそう言われても困るだろうから、あえてひと言でそれを表現するなら、こんなふうに言えばお分かりいただけるだろうか。つまり、キリスト教会は昨今、ぼく(ら)の言ってることが理解できないところが少なくなくなった、ということなのだ。失礼を十分承知のうえでもう少し直截な言い方を許してもらえるなら、こちらの言ってることさえ理解できない、そもそもそれさえ叶わぬ教会が目立つようになった、ということである。エッセイの連載をここまでお読みくださった方々ならきっと同意いただけると思うのだが、ぼくやぼくの同人仲間の言ってきたことは決して妙なことでも支離滅裂なことでもない(と、ぼくらは思っている)。作り事の話でもなければ、筋の通らぬ論理不明な内容でもないはずだ(と、ぼくらは思っている)。要するに、フェイクに基づくとんちんかんな分かりにくいエッセイとは思われない、ということ。実際、それが証拠には、ぼくらの同様な話は(クリスチャンでない)教会外の人たちには通じるのだから、勝手ながら、それは言えるように思う。事は、事実の認識や事柄の読み取りにおいて、また背景や文脈の理解と論理の組み立てにおいて、教会の内側の人々がまことに失礼で申し上げにくいのだが少しく後退してしまったように感じられることである。もしかすると、ぼくの観察するところ、そうでない人たちが年を追っていなくなった、教会を去っていった、と言ったほうが正確かもしれない。より具体的に言うなら、理念的・哲学的思考に容易に入れる人たちがこの間、教会から減少したのではないか、ということである。しかるべき読解力と理解力を持ってそうした神学的思索に向かえる人たちである。イベントやお交わりの企画宣伝、人間関係や組織の管理運営、伝道や宣教の方策など、即物的・マニュアル的ハウツーについては手慣れて上手にこなすものの、それらに先立ってあるはずの事実と論理を踏まえた理解力と思考力。それらに関しては、その基礎的・基本的なものがどこか十分でないように思われてならない。それらは、何を考え、何をするにもまずもって必要なもののはずである。信仰ってのはそれだけじゃないからね、とどこからか声が聞こえてくるような気もするが、キリスト教信仰の基盤たる聖書にしても、その的確な読解とそれに基づく真っ当な論理が大切にされなければ、その信仰は容易に誤解や盲信、盲従に陥りかねないそもそも、聖書もまた歴史的・文学的・哲学的記述に満ちており、そのうえで神学的内容を伝えんとするものであろうから、それを理解する基礎力が求められるのは言を待つまい。それなくして、そこに盛られた語りかけをどうして適切に読み解けようか。懸念し、少なからず落胆させられもしているのは、そうした基本的素養に疑のある人たちの数が、一般の信徒のみならず、ここがまさに重要で、問題でもあるのだが牧師と呼ばれる人々についても増えつつあるようにみえることである。それはあんたの個人的印象だろ、と言われるかもしれないが、そしてたしかに、ぼくは客観的な調査をしたわけでもないがしかし、複数の教派にまたがって礼拝に出席している同人仲間の大方が同様な傾向を感じ取っているとしたら・・・。だから、事は決して小さくないのだ。このままでは、教会の人たちは外の人々と話しができなくなるやも。そして、外の人たちから相手にされなくなって、置いてきぼりにされるやもしれぬ。そんな危惧さえ、ぼくは抱くようになった。これは、最近、議論に勝てぬとみるや、相手を黙らす切り札のようにしてそんな言い方がなされるのをしばしば耳にもするが上から目線だとか持論の絶対化だとか、そういった問題ではない。パワハラだとかアカハラだとかいった話でもないのだ。そうではなく、現状の観察に基づく事柄の単純な描写であり、さらに言わせていただけるなら、キリスト教会に対するぼくの個人的な期待の裏返しでもある。そう言ったら分かっていただけるだろうか。これまで繰り返し述べてきたように、いろんな意味で教会に期待を寄せてきた、このぼくである。その思いが削がれるような、教会を取り巻く昨今の風景。それらを見るにつけ、ぼくは、筆を執る気持ちが滞る自分を憶え始めたのだ。どこか気落ちして、書くことの意欲が高まらない自分。筆が進まなかったのは何より、ここに理由があった。

 事柄の的確な認識とそれに基づく筋の通った思考。事はそれらの基本的素養の問題だが、少し前、ぼくが実際に目にした正確には、耳にした一例をご紹介して後、本論に移りたいと思う。物書きの習性で言葉に関わるものに自然と心が向いてしまうため、ついつい説教を題材にすることが多くなってしまうが、今回もその例に漏れず、たまたま聴いた礼拝説教の話である。しかし、事の問題性という意味では、今回の主題に共通するそれが、そこにも明らかに見て取れるように思われる。

 所用で都市郊外の町に出かけた折のことだった。ぼくは、普段からそうするように、その日も近くの教会の礼拝に出席した。出席人数からすると、中サイズの教会だろうか小に近いそれと言ったほうが適当か? 説教のタイトルは「狭い門から」。と言えば、聖書のテキストは当然、マタイによる福音書の713節から14節。知る人ぞ知る、有名な箇所である。説教の分析と論評が今回の本題ではないので、その詳細な説明は控えるが、内容と構成の骨子は大筋、次のようなものだった。

1.「狭い門」と言うと、かつての受験やジッドの有名な小説『狭き門』が想い起こされる。

2. しかし、主イエスはすべての人の救いのために来られたのだから、厳しい裁きを感じさせる今朝の御言葉(みことば)にはどこか、違和感を憶えてきた。

3. が、そんな違和感もある日、こんなふうに思いついたことで消えて、モヤモヤが晴れた。すなわち、狭くても、身を低くし、体を小さくして入れば入れる。そのようにして一人ずつ入れば、億人だって入れる、と。

4. つまり、門とはイエス様のことであり、驕(おご)りを捨て、遜(へりくだ)ってそこをくぐる。そして道を進めば、誰もが必ず永遠の命に辿り着けるということ。

5. その意味で、今朝の箇所は必ずしも厳しいものではなく、招きの言葉と言えよう。

6. 実は、三浦綾子さんの小説『千利休とその妻たち』に、こんな逸話が記されてもいる。利休の二人目の妻 おりきは、利休に嫁いだ後、キリシタンに。そして、ある日、聖堂で聞いた「狭い門から入れ」の話を利休に聞かせる。曰(いわ)く、「天国(はらいそ)に入るためには、狭い門から入らねばならぬと伺いました。すべての持ち物を捨てねばなりません。身分、財産、傲慢、美しい姿形、学問という持ち物も。天国ではかえって、邪魔になるそうでございます」と。利休が茶室の躙り口(にじりぐち)を思いついたのはおりきのこの言葉からで、大名であれ誰であれ、茶室に入るにはその身を小さくし、膝を躙らねばならない。小さな口から遜って入らねば、というように。

7. だから、身を低くしつつ主イエスの門をくぐり、主イエスの道を共に歩んでいきたい。

 説教の大筋は以上のとおりだが、読者の皆さんはこの骨子をお読みになって、どのように感じられただろうか。内容とその組み立て自体は整っていて、心に余韻さえ残す。特に、おりきの一節は全体の“落ち”のようで、説教をまとめ上げる効果的な引用となっている。その意味ではたしかに、それなりの説教と言えようか。がしかし、事柄の認識とそれに基づく思考という前述の視点からするとき、はたしてどうだろう? 的確で筋の通った読み取りとなっているだろうか。前置きが長くなるといつものように?なかなか本題に入れなくなるので、要点のみを列挙すると、次のような問題があるように思われる。

1. ここでのイエスの言葉は裁きというよりもむしろ「現実の実態」を語っているのに、厳しい響き即裁きというように、いかにも短絡的な読みとなっている。

2. しかも、読解以前の構えとして、厳しさを思わせる印象をイエスから極力拭い去ろうという意図が初めから認められる。恣意的(しいてき)なもので、読解には禁物な在り方と言えよう。

3. その結果、「狭い」と「広い」、「少ない」と「多い」の明確な対比が見事に消されてしまっている。イエスの言わんとしたポイントはそして、マタイの編集意図もまた誰が読んでも「狭い」門から入る者が「少ない」という現実の描写にあるのに、それがなんと、みんな入れる、億人でも入れるのだから、と心配ご無用のニュアンスに脚色されてしまっている。

4. そもそも、門が狭いのと(入り)口が小さいのとではその形状も概念も違うのに、それを同一のものとして論じるのはやはり、強引さを免れまい。狭いというのは幅の問題で(入り)口の全体が小さいのとは異なり、そこを通るのに頭を下げて腰を低くすることが必ずしも不可欠とは言えない。

5. 加えて、三浦さんの小説の引用だが、著者自身は利休の躙り口の発想を、そうすることは容易ではないが、しかし・・・、との文脈で執筆している。難しいことだが、しかしたとえ大名であれ誰であれ、持てるものを捨てて遜らねばならない。なぜなら、そうあることが肝要で必要なのだから、というように。それが、事を安易に思わせる逸話として引用されるとは・・・。これには、今は亡き三浦さんもきっと、苦笑いをされているのではなかろうか。

6. さらに言わせていただけるなら、三浦さんの小説は利休の躙り口をめぐる一つの説に基づくもので、それを採用した三浦さんの解釈は、間違いとまでは言わないものの、的確性の点ではやはり、少々ずれがある、と言えるだろう。どこか気の利いた解釈で魅力的にも感じられるが、考えてみれば、三浦さんは人間的には尊敬しうる方だが、失礼ながら小説家であって、聖書学者ではないわけで・・・。

 主たる問題点はこんなところだが、それもこれも約言すれば、歴史的・社会的・文化的背景を押さえた講話的文脈の理解と、そのうえでの論理的読み取りの不十分さによる、と言えはしないだろうか。「狭い門から」のくだりで基本的に押さえておくべき背景と文脈は、まず間違いなく、次のような点と考えられるからである。

1. 言説の焦点は、「広い門=滅びに通じる門」から入る者が「多い」のに対し、「狭い門=命に通じる門」を見出し、そこから入る者は「少ない」ということ。

2. そして、この直後、つの講話が畳みかけるように続けられていること。すなわち、

 「偽預言者を警戒しなさい」(1520)、

 「主よ、主よ」と言うだけでなく、「御心(みこころ)を行う者」となりなさい(2123)、

 「聞いて行う・・・岩の上に自分の家を建てた賢い人」のようになりなさい(2427)、 と。

 ここで共通して言われているのは事の真実性と内実の問題であり、これらがひと固まりとなって、直前の「広い門」「狭い門」の意味するところを説明していると言えよう。

3. であればこそ、マタイの福音書は、イエスは「律法学者のよう」ではなかったと、続く29節でわざわざ「律法学者」を引き合いに出し、その一節をもって「山上の説教」(章)を締め括っているのではあるまいか。時代の律法学者は通常、まさしくその言葉に真実性が薄く、その内実が希薄な、いわゆる偽善的な者たちとして言及されているからである。

4. そもそも、「山上の説教」はイエスの弟子たちと群衆に向けて語られたもの。だとすれば、あなた方(弟子たちと群衆)はくれぐれも彼ら(律法学者)のようにはならないように、との語りかけがその裏に置かれているように思われてならない。

 ということで、「狭い門から」の一節はイエスの同時代人の現実を述べてやはり厳しいもの、と言わざるをえないのではなかろうか。実際、聖書が記すイエスの言動の半分(?)は論争的でもあり、パウロにいたっては、その書簡のなんと激しい言葉で溢れていることか。—低迷する教会になんとかして人を呼び戻そうとしてか?—敷居を低くして優しいイエスを演出するばかりでは、イエス本来の奥深さもそのメッセージの厚みと豊かさも、いかにも薄っぺらで軽いものになってしまう。そんなあらかじめの構えをもって聖書に向かうと、しかるべき読み取りが損なわれるのが常であろう。大丈夫、大丈夫、とトーンを弱め、事を単に緩くするだけでは済まないものがそこにはあるように思われる。ただ、実態としてのその厳しい描写がそのまま、断罪の裁きとなるのか。それらの関係や、また(万人に差し出された、いわゆる)救いとの関係についてはどうか。そうしたことはまた別の問題とも言え、それこそぼくのような、半ば素人の人間ではなく専門の聖書学者や神学者にご登場願って論じてもらえれば、と思う。いずれにせよ、ここでの論点は繰り返しになるが事の読み取りの的確性の是非であり、筋の通った論理的思考のそれである。それらはひとり聖書の読解にとどまらず、社会の現象や事象の全般にわたって重要なものと言えよう。それが、昨今の教会で失礼!後退しつつあるようにみえてならないのである。決して小さくない問題と思われるのだが・・・。

 しかも、これらに加えてさらに、上記の「狭い門から」の説教がもし、他人のそれの盗作から成っていたとしたら、どうだろう? 悪いことに、そのもしもが事実、そのとおりだったのである。ぼくの落胆はここで一層深まった。言葉を扱う作業を生業(なりわい)とするぼくらのような者にとって、盗作や盗用の類いは持ち前の嗅覚で敏感に窺(うかが)い知れる。その日、説教に違和感を憶えたぼくは帰宅してチェックしてみると、それは案の定、他の牧師の—正確には、他の牧師たちの—説教の切り貼りで構成されていた。受験や小説の話で切り出すその骨組みの全体を、一本の説教から盗用。合間合間に別の説教からの一節や自身の話などを組み込んで、最後はいかにも気の利いた利休話の—おそらくは、自分では読まずにいて、盗用元の説教からの再びの?—無断借用で締め括る。手の込んだ“パクリ”のコピペ集である。そんなものなら、時間もあれば仕上がるだろう。そして、なんとも楽なその味をしめ、やがては容易に常習の中毒へと流されよう。立派な犯罪で、身を削るようにして言葉を紡ぐぼくら・物書きにとって、それは言葉にならぬほどの失望と悲しみとを憶えさせる。そしてなんと、あろうことか、追い討ちの一撃がまたしても。つい最近、出向いた先の別の町の教会で、今度は完全盗用である。他人の説教を丸ごと一本、コピペ。当日の説教の割かたを、それで埋めていたおまけに、付属の資料まで、自作のようにして印刷・配布するとは。もう、やめよう。虚しくなるばかりだから。悲しくなるばかりだ。

 こんなことが人々の気づかぬところで広がりつつあるとしたら・・・。そこで、真理だの真(まこと)のいのちだの、福音だの生きる指針だの、誠実だの遜りだのと説かれるとしたら、それは一体、何なのだろうか。虚偽に立った虚構でしかなくなるのではなかろうか。重ねて失礼ながら理知的な後退のみならず、倫理的良心のそれまでそこで進行しつつあるとしたら、そうした教会にどれほどの存在理由が残るだろう。賢明な方々はもうお気づきのとおり、ぼくの筆が進まない理由の一つはおそらくは、ぼくの内に最も深くあるそれは、事に向き合うこうした姿勢の問題なのだ。それは、イエスの姿勢となんと異なることか。数ある諸教会が、その良心的言動とは裏腹に、著作権侵害の巣などにならぬことを。自らに対する緩さに流されぬように、と願っている。

 いやはや、とんでもなく長くなってしまった。冒頭で、説教の分析と論評が本題ではないので詳細な説明は控えるが、と言っておきながらの長文である。あんたの習性でいつものことよ、と言われたら返す言葉もないが申し訳ない。ただ、上に記した一例が駄目押しのもう一例も加わってぼくにとってそれなりの実事件であり、多少なりとも暗憺(あんたん)たる思いにさせられたため、ついつい筆が止まらなくなってしまった。ご理解いただければ幸いである。兎にも角にも、今回の主題を一回で書き上げるのはどうにも無理のようだ。まことに勝手ながら、お許しを頂いて、本論は次回に回させていただければと思う。

 要するに、今回の主題は、事の的確な読み取り(事実認識)とそれに基づく筋道立った思考の組み立て(論理的思考)である。長々と書き連ねた釈義的議論はその適否を理解するための一つの材料で、課題の本質をそこから広く把握するのが目的だった。

 ということで、以降のポイントを箇条的に記して次回に繋ぐと、次のようになろう。

1. 重要なのは、

 事の的確な読み取り:事実認識の的確さ、

 筋道立った思考の組み立て:思考の論理的適切さ、

 以上を踏まえた建設的な意見交換:対話的やり取りの充実であり、

2. これらの不十分なところに、好悪や心情に流されたり、先入観や思い入れに縛られたり、はたまた誤解や偏見に囚われたりといった不適切な在り方が生まれる。

 その好例とも言えるのがトランプのアメリカであり、プーチンのロシアであり、習近平の中国とは言えまいか。そこでは、世論の操作がいとも簡単になされてしまう。

3. それはまた、民主主義のはまりやすい落とし穴とも考えられる。

4. なぜなら、一般民衆の総意を基とする民主主義は、その総意の質が劣化し後退するとき、その適切性も崩れゆくからである。

5. そこで問われるのは、それゆえ、総意の主体たる一般民衆個々人の「底上げ」であり、それを絶えず継続することであろう。安易な手抜きのもと、これを怠れば、そこに待ち受けるのは人々の「底下げ」であり、民主主義の機能不全にちがいない。民主主義を成り立たせるのは、それを担う者たち全体の「底上げ」以外にない。

6. そして、それは終わりに、教会にもまた当てはまることではなかろうか。教会は一般的に、民主的であることを標榜(ひょうぼう)しているからだ。

7. ならば、その教会の現実は? 昨今の実態として、諸教会の様相はいかなる情況にあるだろうか。

8. そして、そこにもしも問題や課題があるとしたら、それを解くかぎは一体、どこに?

 落胆の小さくない現在のぼくにはたして、以上を論じて書き進める熱意が生まれるや否や。また、続くや否や。

(→(2)へ)

 

 

©綿菅 道一、2024

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