「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ(1)-教会は誰でも・・・、でも あんまり・・・:インクルーシビティーの問題-

2022年12月16日 | 基本

 

 

「なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ」(1

教会は誰でも・・・、でも あんまり・・・: インクルーシビティーの問題

 

 表題の連続エッセイの第3回目で、今回から本題に入り、幾つかのことを論じてみたい。とはいえ、前回の「書き出し(2)」の終わりでも述べたように、それらは本論と言うより、むしろ個別具体的な各論といったものにならざるをえない。「書き出し」の2回目に提起した問題は、ぼくのようないまだ信仰未満の者にはこれ以上扱うに大きすぎるからである。このことを、これ以降書き始める前にまずは申し上げ、ご了承を頂きたいと思う。ただし、付言をお許しいただければ、前回記した問題はキリスト教信仰にとってやはり、根本的・根元的問題と言わざるをえまい。であれば、すでに信仰者であられる皆さん方にはぜひとも、問題の探求と考察を深めていただければと願う。それはなんといっても、避けて通れない問題と思われるからである。

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 それでは早速、今回の主題に移ることにしよう。その前にひと言。ぼくの文章はどうもこれまでに頂いた感想からすると一度で読み切るには長すぎるらしい。やはり、といった感もないわけでもなく、おまけに内容が少々思弁的・哲学的でもあるつまりは、理屈っぽいということ。読者の皆さんにはエネルギーをかなり費やさせてしまったみたいで、そこは申し訳なく感じている。なので、以降の各論は一回分を短めにし、内容をできるだけ具体的にして、読みやすく分かりやすいものにできたらと考えているとはいうものの、はたしてどうなりますやら?

 ということで、今回は「インクルーシビティー(inclusivity)」と言われる問題を取り上げたいと思う。直訳では「包括性」とか「包摂性」とかいう訳語が当てられているが、要は多種・多様・多彩な存在を排除せず、有りようを異にする異質なそれらをも包み込んで共に生きる、ということである。

 ちなみに、明治以降の歴史を振り返ると、第二次大戦以前の戦前は、教会が社会にそれなりの影響力を有し、社会文化的な価値観やその視点を刺激して、それらを主導する側面もあったと言えよう。そして、戦後もしばらくは、そうした一面が認められもした。しかしながら、それが時とともに後退し、近年目につくのはどんな状況だろうか。−時代的に化石に限りなく近づきつつある人間だから、と言われてしまえば、返す言葉もないようなぼくだが−このぼくには、何かにつけ世間の時流を後追いする教会の姿が目立つように見えてならないのだ。流行語大賞風に言えば、例えば「寄り添う」。つい最近まで、ほぼ猫も杓子(しゃくし)も状態で巷に溢れた言葉である−今もまだ、そうかも−。テレビの企業コマーシャルにも登場したし、ついには、いかにも灰色の政治家先生までもが口にしていた。そんなキャッチ風の言葉を、ぼく自身、そこここの説教で何度耳にしたことだろうか。そこにその教会の真摯で実存的な息づかいが感じられたなら、それはまさに尊い言葉と言えよう。けれども、ぼくの出席した教会は−申し訳ないが−どこもそんなふうではなかった。軽かったのである。イエスに従うキリスト者というのであれば、それは自身の生き様が懸かったものではないだろうか。ある種、命懸けとも言えるような・・・。ラグビーの流行語、あの「ワンチーム」もそうだった。これもまた、訪ねた教会で繰り返し聞かされたのを覚えている。難しい教会をなんとか一つにまとめたい、との牧師の思いからだろうか。だが、ここでも、それは安易に響くものだった。そんななか、盛り上がるファンの熱気を喜びながらも、しかし、かつて代表チームのスタッフを務めた一人がインタビューでこう語っていたのが心に残っている。「ワンチームと言えるようになるまでに、彼らの間にどれだけの激論や葛藤、格闘があったことか。それなしには・・・。それがあって初めて、今のように一つになれたんですよ」。浅薄な合い言葉ではない、と言いたかったにちがいない。そういえば、「(ハン)パない」ってのもあったっけ。どこでだったか、「イエス様、パない」とか何とかいうポスターを見たこともある。はてさて、次はどんな言葉が教会に溢れるのだろう? サッカーワールドカップでの最新語、「新しい景色」かも。でも、それって一体、何のこと? そこに、どれほどの深みが? 閉塞の中の気休め的元気づけでないことを願いたい。

 余談が長くなってしまった。ぼくが言いたかったのは、つまりは、教会でもよく言われるようになった「インクルーシビティー」という概念もこの種の軽いものにならなければよいのだが、ということなのだ。言葉や概念がキャッチレベルの軽々な次元に留まり、その内実が底の浅い浅薄なものになってしまうとしたら、それはなんとももったいなくはないだろうか。自らが創出したのでないもの。巷に登場したものを後追いしただけのもの。そうしたものはやはり、内実が希薄になる危険性を孕(はら)んでいると言えよう。ぼくの見るところ失礼ながら、事が教会に移ると、社会で生まれた元々のそれがなぜか、一段浅くなる向きがあるように思われる。聖書にはむしろ逆に、何事かを生み出す深い力が内包されているはずなのにと、信仰未満のこのぼくであってもそう思わされているのだが。実際、そうしたものが具現されることを期待するからこそ、ぼくはこうしてこのエッセイを書き続けてもいるのだ。

 インクルーシビティーという用語は日常的には「インクルーシブな(包括的な、包摂的な)」という言い方で使われるのがほとんどだが、時に「ダイバーシティー(diversity。多様性)」と互換的に用いられることもある。その本質は繰り返しになるが、多様な存在を排除せず、異なる有りようを受け入れて共に生きる、ということである。

 ではあるが、そこにはしかし、しばしば気づかずにいることがある。その本質を真実炙(あぶ)り出すリトマス試験紙のようなものと言ったらよいだろうか。それは、本当のインクルーシビティーとは、各人が自らの理解や意見、立場、思想、信条、信仰・・・を "抑えられることなく口にし" "それらを明らかにしたうえで" そのうえでなお共にあることが保障され、喜ばれるということであって、それがないところでは実は、それは本来のインクルーシビティーとは言いがたい、ということである。

 というのも、このリトマス的本質を知ってか知らずしてか、いろんな人がそこに混在するというただその一事をもって、自分たちのグループはインクルーシブで誇るに足る、とそう思い込んでいるふうな人たちをよく見かけるからであるもしかすると、その差異に気づいてはいるが、それに触れないようにしているのかも。だとしたら、そこにはさらにも厄介な問題が潜んでいることになるが。いずれにせよ、そうしたところでは概して、余計なことを不用意に言わないようになり、自身の色をなるべく出さないようになる。互いの相違で緊張や摩擦が起きないようにするためであり、皆の間にギクシャクが生じないようにするためである。兎にも角にも、和を保つ。雑多なみんながいるんだから、抑制的に振る舞って、なにしろ全体の平穏な維持継続に努めよう、といったところか。そして言われるのが、こんなにいろんな人たちがいて、そのみんながぶつからないでうまくやってるでしょ。自分たちはインクルーシブなグループだから、というわけである。だけど、言いすぎると、気まずくなる。出しすぎると、いずらくなる。だから、居場所を保つため、分をわきまえ、自分を抑えていくとしたなら、それがはたして、本当にインクルーシブな在り方と言えるのだろうか。ぼくにはむしろ、ソフトな全体主義とも言える、危うい感触さえ感じられるのだ。もちろん、他の人たちへの心配りもないまま、自分の言いたいことを好き放題 勝手に喋るようなことをぼくがここで言わんとしているのでないことは、賢明な読者の皆さんなら分かってくださると信じている。しかるべき配慮や心づかいが必要なことは、一つの同じ場を共有する共同体なら、それがどんなものであれ、そこに求められるのは言うまでもない。ぼくが言いたいのはそういうことではなく、真摯な思いを内に抱く者たちがそれを躊躇(ためら)うことなく率直に吐露し合えるということ。そのことが、インクルーシブなグループにとっては重要な要素になるということである。過ぎた自制が暗黙の前提となっているグループ。つまり、疑問や批判も含め、各人が自身を語って表わすことを控えないと、そのようにして自分を圧(お)し殺さないと成り立たないようなグループ。そうしないと、そこにいられなくなるようなグループ。それがはたして、本当にインクルーシブな共同体と言いうるのかどうか、ということである。要するに、共に在ることの内実を蝕んで空洞化させるような、そうした有りよう。インクルーシビティーで問われていることの中心の中心はそこにこそあると言えよう。

 翻って、キリスト教会の現状だが、ぼくが今回このようなエッセイをしたためているのは、そこに同様な危惧を憶えるからである。ここ数年のこととしては、たしかに、その種の場を持ちにくくした新型コロナの影響もあるとは思われる。けれども、全般的な傾向としては、以前から1990年代くらいからだろうか明らかに、一つの現象が目につくようになった。教会から目立って、議論が減少したことである。言葉を換えれば、異なる意見を交換し、それらを突き合わせながら時には、ぶつけ合いながら共同体としての在り方やその方向性を探る営為である。例えば、ぼくらは折に触れ、協議や会議の場に陪席させてもらうことがあるのだが近年とりわけ気になるフレーズがある。冒頭、司会者がしばしばこう言って、その協議を始めることである。「批判はしないで、みんなで協力して話し合うようにしましょう」。このように言わせる背景には、一体、何があるのだろう? 言い争いや悶着ばかりが続いた当該教会の歴史があるのか。はたまた、関係者の(自己)防衛機制(self-defense mechanism)が働いた結果か。それは知る由もないが、ただ現象的に言えることとして、一つのことだけは確かなように思われる。それは、「批判」と「非難」の違いが理解されていない、ということである。すなわち、健全な批判は元々、より良きものを求める建設的なものであり、それは悪意の伴うつまり、悪口の非難とは本質的に違っている、という理解である。本来の議論を真っ当にすることができず、すぐにも感情的な言い争いにつまり、口喧嘩になってしまう教会を、残念ながら、ぼくらは一つならず、実地に知っている。両者の区別のないところ、それは当然の成り行きとも言えよう。信仰の共同体を自称する教会にしては未信者のぼくが口幅ったく、まことに申し訳ないがいかにも稚拙で、成熟さに欠けるように思えてならない。

 中身の伴った対話なしには、事の内実は空虚なものとなり、骨粗鬆症に陥るのは避けられまい。そして、対話というのはそもそも、異なる者たちが異質な事柄を披瀝し合って分かち合うことが不可欠で、それは必然的に(健全な)批判を含む意見交換の議論へと向かい、そうなることでその内実が深まるようになる。そうした中身のないところでは段取りや手続きばかりが問題にされ、ハウツーや体裁ばかりが取り上げられることになろう。そこでは皆が仲良く活動し、一つとなって体を動かしはするものの、異なる者たちが内なる深みを開いて語り合い、問い合い、そのようにして本当の意味で自身を分かち合うということが希薄になっていく。

 ぼくが言いたいのは、ソフトな全体主義にもなりかねないそのようなところでは、信仰に伴うはずの本来的な内的活力も損なわれていくのでは、ということである。監督制などを基本とする教派・教会であれば、それでも、そこにさほどの違和感や活力の後退はないのかもしれない。だが、それがもし民主的な在り方を標榜する会衆派系の諸教派・諸教会であったとしたら、それを小さな問題と済ますことはできまい。教派・教会の根幹に触れる問題で、そこでの内実と活力を左右するとも思われるからである。危惧されるのは、時に牧会等という名で人心の管理が行なわれ、自然で自由な語り合いが抑制されること。そのようにして、知らずのうちに、全体が一つの同色に染め上げられていくことである。しかし、民主的であることを旨とする教派・教会にとって、それは命取りにもなるのではないだろうか。

 繰り返しになるが、異なってあることを抑えての共存や異を隠しての共生は本当の意味でのインクルーシビティーとは言いがたい、ということである。違いを誠実に理解し合ったうえで、なおも共にあること。ぼくらはそのようにあって初めて、インクルーシブな社会、インクルーシブな共同体と言いうるのではなかろうか。LGBTQ一つをとっても、自分の考えや主張をあまり言わないでおとなしく暮らしていたら受け入られる、という社会だとしたら、それが本当にインクルーシブな社会だとは思われない。

 その方面ではよく耳にすることだが、政権を維持したいと願うなら、治安と経済をうまくやることがその秘訣、と言われたりする。しかし、そればかりが政治の中心になると、人々の知性や感性、精神性が劣化し、内的空洞化が進展。人間を人間らしくあらしめるものが忘れられ、生存と繁栄だけに駆られる、いわば動物的な存在に人を至らせるようになる。それでは、本当の意味での活力も内から生まれ出ることがなくなるにちがいない。

 これを教会に重ねると、どういうことになろうか。治安とは、ゴタゴタが起こらないように、全体を上手に管理し、時に規制や禁止も付すること。他方、経済とは、教勢の確保ということか。そのためにあの手この手で出席者を増加させ、それをもって財政の維持・拡大を図ること、と言えようか。信仰の教会とて、現実にはたしかに、そうしたことを一切無視して成り立つものではあるまい。それはもちろん、分かったうえでのことである。しかしながら、である。しかしながら、そのような治安と経済ばかりに心を奪われ、より根源的で本質的な、つまり教会を教会あらしめるそもそもの根本を置き去りにすると、政治のそれと同じ落とし穴にはまるように思われる。そうなれば、教会とは、信仰のそれであろうから教会や信仰の本来的なことがおかしくなっていくのは当然で、避けがたいことと言えよう。

 なればこそ、今回のインクルーシビティーの問題もしかり。インクルーシビティーもそのようにして、教会とその信仰や事柄の本質的理解が曖昧なまま、建て前の言葉とは裏腹に、インクルーシブでない実情が現出しているようにみえるのである。インクルーシブを謳いながらも、実際には、意を異にする者がいずらいようなその現実が・・・。

 インクルーシビティーとは、−ぼくが思うに−自身でない存在に対する、その思いに対する感受性の鋭さ、深さ、真摯さにその基盤があるように思われる。

 それと−直接ではないが、深いところで本質的に−関係する話を、もう半年ほど前になるだろうか、同人仲間の一人から聞く機会があった。以前、酒席での説教談議でご紹介した主婦作家の女性を覚えておられるだろうか。近くの礼拝に通い始めたころ、そこでの暗黙の習わしを知らずに、教会ではあまり聞いてはいけないことを尋ねてしまったという、あの女性である。その話によれば、彼女にはクリスチャンの友人がいるとのこと。仲の良い友だちで、彼女には小学生の男の子がいたという。ところが、その友人がその子をなんと、つい一年前、交通事故で亡くしてしまったというのである。救急搬送された病院の枕元で、その友だちは必死になって祈り続けた。がしかし、その子が彼女のもとに戻ることはなかった。愛する子を失った悲痛な母親の姿を、同人の彼女はなす術(すべ)もなく、ただ見守るしかなかったという。そんな彼女が、それからまだ日も浅い、それこそ半年ほど前である。ある牧師の説教集を目にしたというのである。そして、そこに書かれていることに、言いようのない悲しみを憶えた。心が痛くなって、言葉が出なかったという。それは、祈りが聞かれないのは・・・と説く一編で、次のように続いていたそうだ。祈りが聞かれないのは、その祈りが足りないから、祈りが御心(みこころ)に合っていないから、それが神の時(カイロス)とは違うから・・・と。だから、諦めずに祈り続ければ、祝福は必ず来る・・・と。同人の彼女は、言っていた。人の痛みの分からない、なんという感受性のなさか。友だちは神にすがって、必死に祈ったのだ。その祈りに不足などあるだろうか。しかも、彼女には、その瞬間しかなかった。諦めずに祈り続ければ・・・などと言ってられる時間はなかった。彼女にとっては、神の時はその瞬間しかなかったのだから。それでもなお、御心ではなかったから、と言うとしたら。彼女は神に顧みられなかったとでも言うのだろうか。そんなひどい・・・。

 これを聞いて、このぼくもまた、言い知れぬ悲しさに落胆させられた。そのような説教がいまだになされているとは。しかも、おそらくは訳知り顔で、まことしやかになされているのだろう。そして、それがそのまま、口写しでコピーされ、思慮の足りないあちこちに拡散されていく。ぼくも思った。必死な祈りも虚しく事実、彼女の友人は素直なクリスチャンだったそうだ我が子を失った人の前ではたして、そんな説教ができるだろうか。できるとしたら、それはあまりに無神経で、人の心情を想う感性が貧しすぎはしないか。観念的で目の前の現実が心に響かず、教条的で、いかにも人間が不在なのだ。ひょっとすると、そうした人にかぎって、寄り添うなどとの言葉を安易に使うのかもしれない。神様のご計画という言葉もよく耳にするが、これも同じ類いのように思われる。神のことは人にはよくは分からないのだから、それが神のご計画なのか不明なだけでなく、ご計画で "ない" ということもまた、結局は不明なはずだ。であれば、そうした言葉を軽々に口にするのは控えるのが賢明とは言えまいか。他者の現実に対する感受性というのは、時に、ノンクリのほうが鋭敏なのかもしれない。なぜなら、キリスト教に限らず、宗教的な信仰や信条というのはしばしば、人間の感性に蓋をし、それを機能不全に陥らせることがあるからだ。そして、そのとき、公に掲げるインクルーシビティーはその実体が危うくなり、それとは裏腹の実態を呈するようになりかねない。蛇足だが、ウクライナで無惨にも殺害された母親たちのことが今、ぼくの脳裏に浮かんだ。命乞いも叶わず、踏み込んできたロシア兵に自らの子どもたちの前で犯され、そしてなす術もなく殺されていった母親たちだ。そこには、祈りも叫びもあったにちがいない。彼らは、その多くが(東方正教会の)クリスチャンなのだから。けれども、それはあっという間の出来事。瞬間の惨事だった。そこに、ぼくらの感受性はどれだけあるだろうか。

 話をしてくれた当の主婦作家は、−何度も繰り返すようだが、事ほどさように−感じたことや考えていること、疑問に思うことを真っすぐ率直に吐露するタイプの女性である。そうした人物には、ぼくなどは好感を憶えるのだが、しかしなので、彼女は教会でも、信仰のこと、社会のこと、個人的なこと、家族のこと、倫理や道徳のことなど、様々な事柄について、自身の問題意識を口にするらしい。ところが、そんな彼女が最近、教会でなぜか、気まずい空気を感じるようになったと言うのである。すなわち、彼女曰く、自分にとって大切な思いや疑問を皆の前で率直に口にすると、その場の空気がどこか気まずいものになる、と。特に、意見や考えに違いがあるとき、そうした傾向が強まるとの由。そんなふうで、話が深まらず、あまり中身のある話ができないというのはなんか寂しくもあり、どこか空虚な感じも残って・・・と、彼女はそう呟いていた。

 要するに、ぼくは思うのだ。教会がインクルーシビティーを旨とするなら、第一に、他者の思いを感じ取る深く豊かな感受性を大事にすること。そして第二に、相違や批判も含め、そうして知ったあれこれを受け止め、理解し、そのうえでそれらを分かち合う器の大きさを持つこと。インクルーシビティーにはそれが欠かせず、そうなって初めて、本当にインクルーシブで包摂的なところと言えるように思われる。キリスト教会は教派を問わず、ほぼどこに行っても次のように謳って、ぼくらに呼びかけてくる。「教会は誰でもいらっしゃれます。どうぞ、皆さん、教会にいらしてください」。これを聞くにつけ時に、見るにつけ、ぼくはこう思わされ、そうあることを願う思いにされる。言葉のとおりに、そこが心ある人たちみんなの場所となり、誰もが自分らしくいられるところ。違う自分を出し合ってなお、互いが豊かに大きくされるところ。そのようにして、多様な者たちが共にいて、一緒に生きられるところ。教会がそんなところになれば・・・、との思いである。間違っても、「教会は誰でもいらっしゃれます。皆さん、いらしてください。でもあんまり、自分自身を出しすぎないように。ギクシャクして、平和が乱れますから」などといった、看板に偽りありにならないことを願っている。実際、それは主婦作家の彼女が抱き始めた疑問でもある。そう感じてしまった彼女がこの先、どんなになるのか。ぼくの見るかぎり、つまりぼくが聖書から読み聴きするかぎり、彼女のほうに理があると思われるので、ぼくとしては頷くしかなく、複雑な思いにさせられている。考えてみれば、彼女のようにして教会を去っていった人も少なくないのかもしれない。

 インクルーシビティーの前提は、多様の者たちの真摯な分かち合いにこそある。すなわち、異質な者同士の開かれた誠実な対話に、である。インクルーシブな関係はそれが保障されて初めて成り立つもので、聖書の言う隣人性とか隣人愛というのもまた、しかりであろう。そこには時に意見の交錯や摩擦といった緊張も伴うが、そうした真実なものがその欠片(かけら)が?他のどこでもなく、まさに教会で経験しうると期待するからこそ、人はそして、このぼくらもそこに足を向けるのだと思う。事実、ぼくなどは、聖書というのはきっと、そうしたものを生み出す力を内包しているはず、とどこかで期待しているようにそして多分、信じてもいるように思う。

 終わりに、最近聞いた興味深い話をご紹介して、今回のエッセイを閉じることにしよう。

 超教派の牧師たちが会して持たれた協議会でのこと。話が神学校の入学問題に及んだ。出席者の一人が躊躇いながら言った。「前科のある人はやはり、どうなんでしょう?」。と、間髪(かん はつ)を容れず、言葉が返った。「どうして、いけないんですか」。見事な切り返しである。ぼくの解するところ、前科とは「前」があるということ。前があるとは、「脛(すね)に傷」があるということ。脛に傷があるとは、「疚(やま)しい隠し事」があるということ。そして、だとしたら、前科のない人など、一人もいないということ。なぜなら、「義人はいない、ひとりもいない」と聖書にあるのだから、ということか。切り返しの真意がこのとおりだとしたら、現実の諸課題はさておいて教会におけるインクルーシビティーの意味合いを象徴的に物語る、実に的を射た返答ではないだろうか。誰もが疚しさを隠し持ち、そのようにして脛に傷を持って、前を身に帯びているからである。であれば、前科のある者もそこに安心していられるところ。それだけでなく、さらには異を口にしてもなお、変わらず安心していられるところ。聖書の言う信仰の共同体たる教会というのは、そういうものなのではないか。そんな教会であれば、ぼくは喜んで行きたいし、そうした教会が増えることを心から願っている。同人の仲間たちもきっと、同じにちがいない。

 

 

©綿菅 道一、2023

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