「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ(0-1)-書き出し(1)-

2021年12月29日 | 基本

 

 

  「なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ」(01

-書き出し(1)-

 

 クリスマスの賑わいが行き、替わって、年の瀬の喧騒が巷に湧き始めている。ぼくが今回、このエッセイを拙文にしているのは一年の終わりを迎えたそんな時節だが、この年もまた--というか、この年は、と言ったほうが適当かも--実にいろんなことがあった。最たるものは言うまでもなく新型コロナをめぐる騒動のあれこれだが、その先行きは依然として不透明で、はたしてどうなることやら。今回のこのブログも、実際にアップするのは年が明けた新年の1月だろう(と思いきや、うれしい見込み違いで、年内にアップできるかも?)。関係各方面の的確な対応で、新春と呼ぶにふさわしい正月が迎えられていることを願っている。

 今回の主題は--正確には、追って説明のとおり、今回の「シリーズ」の主題は--、直近の事柄としては昨今のこうした情況を契機に露呈した諸問題と関係しているが、より長期的には--ということは、つまりはより本質的でより深刻な問題としては、ということだが--、戦後70年余の間に日本のキリスト教会が遂げてきたその姿勢の変容に関連している。期間をもう少し限定するなら、1980年代の後半ぐらいからとりわけ顕著になり始めたそれ、と言えようか。もちろん、ぼくは厳密な意味での学的研究者でもなければ、そもそも、今もって洗礼も受けていないいわゆる未信者の一人でしかない。なので、日本のキリスト教会が・・・といっても、それは主としてこのぼくが知る範囲でのプロテスタントの諸教派・諸教会が、ということにならざるをえない。なおかつ、いまだにどこの教会の会員でもないわけだから、諸教会の内側の深いところまでは知りえないのが現実である。ぼくの書く文章は常にそうした限界を負ってのものであること、そのことは、このぼく自身がいつだって自覚していることである。なのだが、そのうえで、未信者だからこそかえって、その目に冷静かつ客観的に見えてくる部分があるのではないか。また、思想的論考家だからこそ同様に、全体的趨勢を包摂的かつ本質的に見て取れるということもあるのではないか。勝手ながら、そんなふうにも思うので、時々の的外れも怖れず、このようなエッセイを公にしているのである。ぼくのそんな思いをご理解いただけたら、幸甚に思う。と同時に、その一方で、ぼくはぼくなりのネットワークと調査手法を持っており、一般の教会員に比べればおそらく事の内実にかなり肉迫しうるはず、との自負もないわけではない。何かにつけ、感じるところ・思うところを直截に語ってくれるぼくの同人仲間もまた、標準以上のセンスを有している。未信者だからといって、決して侮れない存在である。それより何より、キリスト教を論じるぼくの文章は、その現状の批判も含め、聖書とキリスト教へのぼくなりの愛情から出ていることを察してもらえたらと願っている。そこには、キリスト教シンパを公言する人間の、それらへの愛着と期待とが込められているのだから。

 ということで、まずは上述の「直近の事柄」から、今回の話を始めることにしよう。それは、コロナ騒動に揺れた(今もって揺れている?)2年弱の後、情況が少しく落ち着いて、礼拝に関わる制約がそれなりに緩められた後のことである。時期的に言えば、今年(2021年)の夏以降ぐらいからと言えようか。どういうことかというと、多くの教会が1年余にわたって、会堂に実際に集い、顔を合わせて礼拝することができなかったわけである。その間、リモートや録画の配信等、あの手この手を用いて、なんとか礼拝を守ってきた。それがついに、やっとまた、一つ所で一緒に礼拝することができるようになったのである。さあこれで、さぞや多くの人たちが礼拝に戻り、以前のように教会に人気(ひとけ)が回復するだろう、と関係者が期待しても不思議はなかろう。がしかし、--もちろん、そうでないところもあるが--大方の現状としては、そうした希望的観測が叶えられているようにはみえない。礼拝出席の人数に以前のような賑わいは戻らず、それどころかむしろ、後退しているところが少なくないようだ。加えて、礼拝に帰ってきた人たちの表情である。その顔からは、どこか沈鬱な内面さえ感じられる。うれしい(はずの)礼拝に、みんなで揃って集えるようになったのに。何がそうさせているのか。何がそこに横たわっているのだろうか。

 一方、「より長期的には」というのは、教会に通う人たちの層が年を追って明らかに高齢化してきたことであり、しかも前述のとおり、1980年代の後半ぐらいから、それがとりわけ顕著になっていることである。これが、今回の本題に繋がる第二の時代的現象である。高齢化とその滞留とでも表現できようか。しかも、事はこれだけでない。これに加え--というか、こうした現象の奥に潜むより根元的な問題を暗示する事態として--、さらにも明白なのは、社会人の男性たちが目立って減少し続けていることであろう。そして、その一部として--重々留意すべき一部として--、かつて教会にいたその彼らがそこを去ったという側面も小さくなく、看過できないように思われる。社会全体が高齢化したのだから・・・、社会生活が多様・多忙になったので・・・という説明にもたしかに、一理はあろう。しかし、やはり、それだけでは片づかないのではないか。社会に生きる成人男性は今も現にいるのであって、その数は決して少なくないし、彼らの姿が教会に数多く見られたあの高度成長期の会社人間の猛烈さもまた、昨今の比ではなかったのだから。兎にも角にも、時代の現象としてはこういうことなのではないか。つまり、年齢云々を超えた全体的趨勢として、新たに教会の扉を叩く人たちが減り続けている。そして、そんななか、教会を去った社会人の男性たちが少なからず目につくということである。もしもこのような観察と視点の置き所が的を得ているとしたら、事は教会にとって決して小さなことでなく、先々の有りようを左右する本質的かつ深刻な課題を孕(はら)んでいるように思われるのだが、いかがなものだろうか。

 以上二点の観察については--大掴みなそれではあるが--、大勢としては現在のキリスト教界に明らかな傾向であり、誰の目にも大きな異論はないと思われる。

 そもそも、第一の点について言うなら、--まことに失礼! 不謹慎ながら--おそらくこうなるのでは・・・と、どこかで予想していた。というのも、ぼくは折に触れ各地に諸教派の教会を訪ねて歩いているが、かなりの所で--重ねて失礼!--習慣的な礼拝詣でとでも呼べるような空気が感じられたからである。「教会員としては、まぁ、礼拝に行くのが務めだから」といった感じの・・・。贔屓(ひいき)めに見ても、聖書の言葉そのものやその説教に心を惹かれ、それらに惹き寄せられて、というのとはどこか違っている。もちろん、繰り返しになるが、そうでないところもあった。しかし、行くべきもの、行かねばならないもの・・・といった、よく言えば使命感のような、悪く言えば義務感のようなものが漂う所が少なくなかった。だから、礼拝に生気がない。何かを求めて聴き耳を立てるといった、求道的な緊張感が感じられない。下を向いてチーンとしている者もいれば、静かに目を閉じ、眠りの寝学(しんがく)をしている人たちもいた。それが皮肉にも、今回のコロナ騒動で、公然と休めるようになったのである。--理解を容易にするため、再び失礼ながら--世俗の分かりやすい言い方をすれば、公認の「公休」扱いになったわけである。しかも、それに Zoom とか YouTube とかのリモートテクが加わり、これを支援するようにもなった。そこがもし、本来的な内的誘因の薄いところだとしたら、その結果は容易に想像がつくのではなかろうか。すなわち、礼拝を休むことの罪悪感が弱まり、今度は、対面の出席を適当に間引くのが習慣化するようになることである。おまけに、コロナのこの間、それまであった各種の活動や楽しい集いも休止を余儀なくされ、それがいまだに続いている。礼拝そのものでなく、--言ってみれば、おまけとでも言えようか?--そうした社交的な寄り合いを楽しみに来ていた人たちにとっては、それもまた--というか、それこそ最大の要因として--礼拝から遠ざかる原因となっているのかもしれない。それもこれも、礼拝そのものの求心力の減少・低下・喪失という、教会論的に見て極めて深刻かつ本質的な問題から来ているように思えてならない。

 後者の第二の点についても、問題は決して別物ではなく、その所在はこれと通ずるところにあるように考えられる。事は教会の全般的高齢化であり、とりわけ社会人男性の際立った減少だが、ここではその詳細な議論というより、事柄の急所を突く発言をご紹介して、問題の本質に直截に迫れればと思う。それはいつものように、ぼくの同人仲間のそれだが、一人はこう呟いていた。「ぼくら社会人は、ウイークデーを目いっぱい働き切って、それで土・日を迎えるんだよね。仕事に追われて、土曜が休みにならないときだって、結構ある。ぼくらが教会に行くってのはそんな時間を割いてのことで、貴重な休みの日曜の、しかもまだ寝ていたい午前の時間にわざわざ礼拝に出かけるってんだから、それにはそれなりの引力がないと。そうまでして行って、それで締まりのない、なんとも言いようのない話を聞かされちゃ、そりゃもう、何のために出てきたのかってことになるだろ」。企業で働きながら物書きをしている仲間だが、その彼の口から出た愚痴っぽいひと言である。そして、これに刺激されて、いつものように(?)口を開いたのが、またまたあの(一見)不良(?)同人だった。曰く、「あんたもそう思ってたんかい。俺もさぁ、ここんとこ、説教がなんか手抜きに感じられてね。体重がかかってないっていうか、言葉を発する者の実存が見えないんだよね。そもそも、聖書の解釈自体が雑になってるように思えるし。そこからそんなふうに読めるかねー? 国語やり直したほうがいいんとちゃう、ってね。それにさぁ、恣意的な説教が増えたように思わん? 文脈も背景も歴史も無視して、なんか無理やり、自分の言いたいことにもっていこうとするような。聖書を出汁にして、自分の主張を押し付けるみたいな感じの。読み取り自体がそんなになったら、そこから何を喋ったって、そりゃもう信用できんよね。俺らはさぁ、聖書をちゃんと読もうと思って、それで教会に行ってるんだから。毎回、1,000円も献金してさ」。いつものように(?)辛口で辛辣な観察評だが--1,000円云々はちょっと、口が滑りすぎ?--、読者の皆さんももう慣れられたかと思う。それにしても、彼は根っから真面目なんだよねー、と事あるごとに思わされてならない。そうでなければ、こうした真剣な言葉は出てきはしないから。実際、社会人であると否とを問わず、また男女にも関係なく、何かを探して必死な思いで礼拝に出向く人がいるかもしれないし、事実、そのような人を、このぼくは知っている。なのに、礼拝がもしそうした人たちの真剣さに見合うものでなかったら、真面目で誠実な彼らはきっとそこを去り、もう戻りはしないだろう。残念ながら、第一の言葉の主もそうした理由で、最近、教会から遠ざかっているらしい。彼の思いが理解できないわけでもないので、ぼくは複雑な気持ちでいる。要するに、事の本質はこういうことなのだ。すなわち、若かろうが歳行っていようが、男であろうと女であろうと、年齢や性別に関わりなく、それぞれが割いた貴重な時間に見合うだけの中身がなかったら、誰しも当然、そこに再び出かけることはない、ということである。

 第一の点、第二の点の双方から共通して見えてくることははたして、何だろうか。それは、教会の中心にあるはずの--すなわち、その礼拝にあるはずの--内的に惹き寄せる本来的な引力が弱まってきているということではなかろうか。ぼくらの仲間がほぼ一致して言っているのは--ぼくらの出席する教会はバラバラなので、ということは、教派を超えたこととして、ということになる--、教会はこのところ、その内実がどうも全般的に衰微してきているように感じられるということである。心情的にも意欲の面でも、さらには知的にもそう感じられ、そしてより深刻に思われるのは、精神的にも--教会用語で言えば、霊的にも、となろうが--そのように見て取れる、と彼らは言う。つまり、教会が全般的に緩くなって薄っぺらになったのではないか、と言うのである。ひょっとすると、今回のコロナ騒動で、それまで潜行していたものが目に見えて表面化したのかもしれない。要は、聖書とか説教とか、礼拝とか教会とか、そうした信仰というものの内実を具現する根っこの事柄に対し、それらに向かう姿勢が総じて緩んだということなのか? たしかに、昨今の牧師らの多忙さはハンパでない。何に多忙か? SNSZoomYouTube、インターネット・・・といった、いわゆるITテクにである。それらに物理的に時間を奪われているとしたら、--時代遅れの老人の僻(ひが)みと言われてしまえば、返す言葉もないが--本務の聖書読みに割く時間はどれくらいあるのだろうか? 落ち着いて思索し、語る言葉をそこから紡ぎ出す時間をどれだけ確保できているのだろうか? さらには、求めてくる人と心を込めて向き合う時をどれだけ用意しているのだろうか? ぼくもまた、道を求めてやまない求道者の一人として、--不遜ながら--そんなふうに感じてしまうのである。

 ぼくらは今や、IT技術急拡大の時代に突入している。キリスト教会もこれに乗り遅れまいと、それらのツールを駆使して、各種の取り組みを始めているようだ。ただ、それらはほぼすべて、いかなる類いの取り組みか。自分たちのあれこれを知らせるためのそれであり、見せるためのそれであり、そのようにして、人々を教会に呼び入れるためのそれではなかろうか。つまり、一般社会の商用語を借りれば、マーケティングのそれらであって、しかも、ほぼそれらだけでしかないのだ。ぼくの言わんとするところを分かっていただけるだろうか。要するに、販売促進のあの手この手ばかりに気を取られ、売らんとする商品の中身とその品質の吟味・検討が置き去りにされているのである。人は、広告に惹かれて店に行っても、お目当ての品自体がそれほどの物でなかったら、お金を出してそれを買うことはすまい。広告に偽りあり、となるのがせいぜいである。教会のそれも、基本的にはこれと変わるところはなかろう。呼び込みに惹かれて中に入ってはみたけれど--お誘いに応えて、礼拝に出てはみたけれど--、忙しい時間を割いて、そのうえお金(献金)を出すまでするにはなんとも商品の貧弱なことか--中身の薄い礼拝か--ということになったら、どうだろうか。ぼくだったら、もうそれっきり、そこに出かけることはあるまい。事ほどさように、お知らせやお誘いに先立ってまずもって肝要なのは、教会が現実に提供する礼拝それ自体の中身であり、その質にこそほかならないのではないか。ぼくはそう思うのだが、いかがだろうか。実際、ぼくらの同人仲間が昨今の教会に感じている疑問や苛つきはそのあたりにあるのだ。それにしても、諸教会のこのところの IT浮かれはやはり、ぼくには気になるところである。ツールにばかり心を奪われ、何より大切な中身が劣化し、貧しくならないように、と願っている。聖書、信仰、教会、社会といったこと等についての実のある語り合いが見られないというのも、ぼくらの共通した感想なのだから。

 書き出しから、少しばかり批判的な文章になってしまった。新型コロナの騒動も相まって、世の中、ネガティブに過ぎる、悲観的に過ぎると、皆が明るくなろうとしている最中(さなか)である。暗いトーンを払拭して、なにしろポジティブに、というふうに。ぼくのような書き方はあまり好まれず、どこか敬遠されるやもしれない。けれども、ぼくは一貫してそう思ってきたし、戦後70年余を経た今、さらにも確信している。問題の根をそのままにしておいて、原因の大本を放ったまま上辺だけを盛り上げても、そうした元気は早晩、エネルギー切れを起こし、メッキが剥げてしまう、と。それが戦後社会を長年生きてきた者の実体験だし、人の生に深く関わる哲学だとか宗教、信仰だとかいうものの場合、とりわけそうであるにちがいない。事の本質を問う批判的吟味というのは建設的営みを生み出す最良の端緒であり、最大の拠点なのである。しかも、繰り返しになるが--そして、ぜひとも分かっていただきたいのは--、ぼくが不足を憶えながらもこうしてこのブログを書き続けているのは、キリスト教のシンパとしてぼくがそこにそれなりの愛情を有しているからであり、その故にまた、そこに期待をも抱いているからである。その底流には、キリストと呼ばれたイエスに心打たれるものを見、自らの生に意義深い何かをそこに感じつつあるぼくの実存がある。加えて言うなら、ぼくの同人仲間もまた、少なからず同様な思いでいる真っ当な者たちである。どうか、敬遠しないでいただきたい。

 ということで、やっと今回の本題になるわけだが、あれまぁ、もうこんな長文になってしまって。徒然(つれづれ)なるままにどこまでも続けてしまう物書きの悪い癖、またしてもである。お許し願いたい。この「書き出し」は冒頭で述べた今回予定のシリーズのイントロとして記しているわけだが、シリーズの説明に移る前に、実はあと一つ、どうしても言及しておきたい問題があった。が、これまたひと言ふた言で済むようなテーマではなく、やはり、紙幅がそこそこ必要になる。申し訳ないが、次回もう一度、この書き出しを続けさせていただきたい。そして、その終わりに、今回のシリーズの趣旨説明を付したいと思う。

 そこへの繋ぎとして最後に申し上げるなら、ここまで書き連ねてきたあれこれの主意は要するに、キリスト教会の現状が--表向きの見た目ではなく--その内実としてどのような状態にあるのか、それを素描・点描ながら、本質的な視点から描出することにあった。そして、それは考えようによっては、かなり危機的な情況とも言いうるのではないか。これが、ここまでのポイントである。

 と同時に、そうした情況はただそれだけにとどまらず、時代が進展変化するなか、キリスト教はさらにも大きな、より本質的かつ普遍的な危機情況に包まれつつもあるのではないか。これがあと一つの点で、次回、多少丁寧に触れたく考えていることである。実際、ぼくの思うところ、それは(プロテスタント)教会の多くにとって今後の命運を左右するようなものにも感じられ、教会は今や、そのような時代に--より差し迫った表現として、そのような「時期」に、と言うべきかも--立ち至りつつあるということなのである。そのことにはたして、諸教会が気づいているか? それが問題であって、もしも気づいていないとしたら、それこそ最大の危機と言えるかもしれない。危機の所在を見て取り、そこを見据えて、先々の展望を拓いてもらいたい。ぼくの真面目な願いであり、偽りなく期待するところである。

 

 

©綿菅 道一、2022

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(本ページは、読者の投稿受付けを行っていません)

 

 

 

 


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