「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


*関連リンク→ BFC バプテスト・フェイスコミュニティー

お薬師様もお不動様も、はたまたキリスト様もたじたじ?-新型コロナの衝撃とそのリトマス作用-(2)

2021年06月27日 | 教会

 

 

「お薬師様もお不動様も、はたまたキリスト様もたじたじ?」

—新型コロナの衝撃とそのリトマス作用—(2

 

((1)から→)

 このように、今回のコロナ騒動はキリスト教会にとっても、その内実の様々を可視化させる、すなわち目に見えて浮かび上がらせるものとなったように思われる。冒頭でも触れたように、新型コロナが衝撃をもって教会にそのリトマス作用を見せた、と言ったら言いすぎだろうか。そして、である。——これまで述べてきたいずれもが言ってみれば、そこと関連し、そこに集約される形で論ぜられるべきと思うのだが——事の本質的相違の理解としてそもそも問題なのは、集う礼拝とオンラインのそれとの違いに気づいているか、その違いを認識しているか、ということである。約言するなら、論点はすなわち、「生(なま)の臨場性」ということにでもなろうか。少々小難しい言い方にはなるが、生ける緊張がそこを支配し、生きた現実性と共在性がそこを満たしているか、と言い換えてもよかろう。それらの濃密さと希薄さとが、もしかするとそれにとどまらず、それらの有ると無しとが容易には超えがたい相違としてそこにあるとしたら、どうであろうか。今回は、以下、この点に的を絞って短く付言をし、このエッセイを閉じさせてもらいたいと思う。

 初めにひと言申し上げておきたいのは、このぼくとてもちろん、時代の恩恵に大いに浴しており、おそらくは人一倍それを享受しているということである。IT(情報技術)を核にした周辺環境の劇的発展はただただ驚くばかりで、今回のコロナ下で、注目度においても活用度においてもこれに一気に拍車が掛かった。既述のLINEZoomYouTubeのほかにも各種のテクノロジーが開発され、それこそグローバルに躍動し始めている。ぼくなんかも——年甲斐もなく浮かれてはしゃいで、と冷や水をかける連中もいないわけではないが——それはそれは重宝しており、仕事上のやり取りはもとより、資料探しや会議、講座の受講、はたまた芸能・芸術関係の鑑賞や友人・知人との交流・・・等々と、この年にしては臆することなく利用させてもらっている。とりわけありがたいのは、遥か離れた諸外国との間でもその遠さを感じさせない便利さである。今思い出したが、そうそう、角野(かどの)さんも——もうだいぶ前のことだが、『魔女の宅急便』で俄然時の人となった、あの栄子(えいこ)さんである。それまでにも楽しく優れた作品を幾つも出しておられたのだが、童話作家・絵本作家のあの角野さんで、2018年には晴れて国際アンデルセン賞作家賞も受賞された——出版社のデスクとのやり取りは専らZoomでしていると言っておられた。ぼくと同じで、若いねぇ——といっても、半分は仕事とあまり関係のない "おしゃべり" だそうだが——。要するに、こうしたリモート技術はこの先いよいよ進化し、しかも内容の洗練化・高度化を遂げつつ、加速度的にそうなっていくということ。そのことを、ぼくらは初めに認識しておくべきだろうと思うのである。それは不可避の必然だろうし、合理的でもあって、ぼくらに多大なメリットをもたらしてくれるにちがいない。ぼくは実際、どこか浮き浮きした気分で、年甲斐もなくそれを心待ちにしている。

 ではあるのだが だけれども、というのが、今回のこのエッセイの全体を締め括る中心の論点である。ITがもたらしてくれる恩恵は当然ながら、これを最大限に活用したいし、そうすべきでもあろう。けれども、顔と顔とを合わせて相対し、そこに共に在って、そこで何事か大切なことに共にあずかるという在り方にそれが "取って代わる" というような発想がどこかにあるとしたら・・・。本質的で重要ななにがしかがそこで後退し、そしてついには失われていくように思われてならない。事実、コロナ下のこの間、こんな声が一度ならずぼくの耳に聞こえてきた。曰く、「危機的な大事が起きると、歴史は繰り返し変化を余儀なくされ、転換点を迎えてきた。新型コロナのパンデミックに襲われた今回も同様で、そこで手にした技術やツールは画期的なもので、生活様式のこれからを大きく変えていくにちがいない。礼拝についてもまた、その場に来られなくてもリモートで参加できる道が開かれた。その他の集会だって、委員会だって総会だって、出向くことに支障のある人も広く出席できる可能性が広がった。教会にとっても画期的なことで、今後の姿・形を指し示していると言えよう」などと。ぼくが本能的(?)に違和感を感じ、どこかしっくりこないのは、技術の劇的進歩やその活用によってもたらされる多様な変化でないことはすでにご賢察いただいているものと思う。そうではなく、ぼくが危惧の念を持って引っかかりを憶えているのは、そうした画期的なツールの活用があたかも「集う」ということの意味を軽視させる方向に作用しているように感じられるからなのだ。実際、テクノロジーの採用について、事の全体を構造的に捉え、生の臨場性や共在性、現実性を補完・拡張するものとしてこれを語ってくれた人は本当に少ない。——残念ながら、そして失礼ながら、特に教会関係の方々は——むしろ、どこか浮かれるようにして、集うあれこれがリモートで "置き換えられる" かのような言い方さえしておられた。ぼくの誤解や理解力の不足から来ているとしたらお許し願いたいが、ぼくには少なくともそんな印象が拭えない。情報収集やビジネスの会議といった類いならたしかに、そうした置き換えが大幅に、そして極限まで可能になるのだろうと思う。けれども、ぼくらが今論じているのは、とりわけ教会の「礼拝」という事柄である。利便さや効率性だけで考えることはできまい。事はその本質において、いわば人の精神性に関わることである。教派によってはスピリチュアリティーと言うところもあるが——と言うと即「霊性、霊的・・・」などと訳して、日本的な手垢の付いた言い回しにされてしまうが——、これもそもそもはもっと広くて深い、幅と奥行きを持った言葉である——大江(健三郎)さんはよく「魂のこと」という言い方をされるが、これなどもかなり妥当な意味合いを持っているように思われる——。つまり、礼拝という行為において、生で共に集うことと電波を介してメディア越しにそうすることとが同列の横並びとして——それゆえ、容易に置換しうるものとして——あるのか、それとも構造的な立体として——それゆえ、容易には崩しえないものとして——あるのか、ということである。そう問うてみると、言わずもがなに分かるのではなかろうか。集うそれが教会の礼拝の柱として、核としてあって、そのうえでリモートのオンラインがこれを補完し拡張するものとしてある、ということが。——今年の流行語大賞の一角に食い込むや否や——ニューノーマルとかのキャッチで時流になど乗っていられない話である。だからこそ、ぼく(ら)の知る教会はコロナ下でも万策を尽くし万全を期して、集う礼拝を必死になって堅持しようとしたのだろうと思う。要としてそこにあるのは、生で臨場し、共に在って、リアルな現実を共有するということではないだろうか。キリスト教会が共同体だとか隣人性だとかと唱えるのであれば、その中心たる礼拝をそのような精神性と緊張感のもとに守るのはなおのこと当然のように思われるのだが、いかがなものだろうか。

 ここでも臨場感が大切だろうから、こうした問題に直接・間接に関係する言葉を幾つか、以下にご紹介してみよう。

 一つは俳優の渡辺(わたなべ)謙(けん)さんの言葉で、——逐語の再録ではないが——要旨、次のように言っておられた(ニュースインタビューで)。「やっと、実際の舞台でできるようになってね。リモートとかオンラインとかいうのは間にシールドがあるようで、なんか別の空間にいて違う空気を吸ってる感じなんだよね。その点、舞台はシールドがないだろ。だから、一つの同じ空間でその舞台を一緒に作れる気がするんだな。心の通い合いの違いかな?」

 また一つは——覚えてくださっているだろうか。これまた、先の酒席での説教談議に登場した女性だが——同人仲間の主婦作家のそれで、——リモート礼拝をされている信者の方々には申し訳ないが——こんなことを言っていた。「私の友だちなんですけど、ちなみに彼女はクリスチャンです。それが裏話というかなんというか、Zoomで礼拝参加をしているときなんか、チャット機能っていうのがあるでしょ、Zoomには。あれで、一緒にリモート参加している別の友だちと説教中にやり取りしてるんですって。聞いてる説教についてのコメントの交換だそうですが、冗談や軽口なんかも時々あるみたいで・・・。私的(わたしてき)には、ちょっと違うんじゃない、って感じなんですよね。説教でなくたって、人の話を聞くときにはやっぱり、誠実さというのがありますよね。リモートってどこか、それも薄くさせるんでしょうね」。そういえば、リモート経験のある知人たちの話によれば、リモート参加のときにはどうしても緩くなりがちなそうな。それで、朝の支度が遅くなって、パソコンの前に慌てて座ったりすることがあるとか言っていた。それに、例えばZoomなんかにはミュートやビデオ停止の機能が付いていて、こちらの音を他の人たちに聞こえなくすることもできるし、こちらの様子を映らなくすることもできるわけで、これも便利といえば便利かも、とも。これは主婦作家の彼女の言葉だが、彼女はわきまえのある人だから「便利」というふうに言っていたが、ということはしかし、皮肉に勘ぐれば、自分の都合に合わせて、パソコンの向こうで何をしていても分からないということでもあるわけで・・・。立ったり座ったり、誰かと話しをしたり、お茶を飲んだりしていても・・・ということになりはしないか。邪推が少々過ぎるかとも思うが、しかし、実際に耳にする話でもあるわけで・・・。

 一方、マルジナリア書店というのをご存知だろうか。今年の初め、東京の府中市に開店したばかりだが、人文書を核とした、なかなか個性的で面白い書店である。店名の「マルジナリア」とは「本の余白への書き込み」のこと。出版社「よはく舎」の経営になる書店で、店名もこれと関係している。また、オンラインの販売も行っており、そのショップの紹介文は「世界へ、美しい未来のための本を届ける」とのフレーズから始まる。こんなところからもご推察いただけるだろうが、哲学というか思想というか、それなりの理念を持った書店である。その代表者の女性の言葉である(要旨)。「オンラインで何でもこなす、いわゆるマス化されたショプだけで事がすべて済むなら、ただそれを増やせばいいことになりますが、はたしてそうなのでしょうか。小さくても、何らかの方向性を持って生の触れ合いを可能にするお店があったらいいなと思っています。バーチャルでリモートな時代には、そんな実感の感じられる、存在感のある場所がかえって大切になるのではないでしょうか。それぞれに指向性を持ったそういった書店があちこちに出来て、皆さんの少しばかり深い交流が広がるといいなと思っています」

 ついでながら、あと2つご紹介すると、一つは、あのIT開発のメッカ、アメリカのシリコンバレーで働く日本人JAL関係者の言である(ニュースインタビューより)。「このところ、コロナ騒動が少し落ち着いて、対面へ戻るところが多くなってきました。対面で会って働くことの大切さが、コロナで逆に認識されたのでしょう」。そして最後に、オンラインでの活動を余儀なくされてきた読書会メンバーの言。「今度、集まれるの、楽しみだよねー」

 いかがだろうか。いわゆるセキュラーな(世俗の)世界でもこうなのだから、(おそらくは)より深いところで精神性や隣人性、共同体性を問題にする宗教の世界が「生で集う」ということを軽視するとしたら、それはなんと皮相的で皮肉なことと言えようか。キリスト教の教会にはそんなことはないと信じたいが、これはリモートでも教育や訓練を重ねればどうにかなるといった類いの問題ではないから難儀なのである。生で集うことを止めるとき、本質的なものがそこで失われる。

 この点についていま一度、不良同人の呟きを借りて、今回のまとめとさせていただきたい。——彼には今回、借りがだいぶ出来てしまったが——彼はこんな言い方をした。「リモートって要するに、匂いがしないんだよな、匂いが」。これは事の本質を突いた、実に的確な表現なのだが、本能的嗅覚とも言える彼の感覚の鋭敏さがお分かりいただけるだろうか——比喩とか寓意、含意とかいうのは苦手で、象徴的な表現や文学的言い回しも分かりにくくて・・・などと、どうぞ言わないでいただきたい。それらが少しなりとも理解できなければ、どう考えたって、聖書が読めるようにはならないだろうから——。その場に共に在ることがなければ、人の匂いは当然ながら、感じられない。つまり、その場に生で共に臨場しなければ、本当のところは、隣人と共に在ることも共に事をなすことも、またそれを共有することもできまいと、彼はそう言いたかったのだ。

 リモートの利便さはこの先いよいよ大きくなり、計り知れないほどになるにちがいない。ぼく(ら)もそれに期待し、それを大いに活用したいと思っている。けれども、そこにもし、礼拝という行為でのその姿勢と関わり方において「傍観の距離」とでも呼ぶべき緩みが付きまとうとしたら、礼拝と聖書の説教が教会の基だと言われる方々はくれぐれも心しておかれた方がよいと思う。その緩みはまず間違いなく、教会の隣人性や共同体性にも及ぶだろうから。それよりなにより、そもそも、自分たちが信ずると言っておられるそのキリストや神への距離に、傍観のそれは必ずやなるはずだからである。リモートで間に距離があるということは本質的に、相互の緊張を低減させる作用を生む。それはどこか、安楽さに繋がるもので、ストレスの回避に繋がるものでもある。だからそれは、誰にとっても魅力的なものとなる。しかし、SNS等のIT技術がかくも進歩し、人類史上最も広範な繋がりが人々の間に生まれたにもかかわらず、皮肉にも、孤独に苛まれる人たちの数がこれまた人類史上最多となっているという事実。あるいは、絆や繋がりといった言葉が巷を席巻しているにもかかわらず、いつになっても孤独死が後を絶たないという事実。そうした現実の真実意味するところを、IT時代に突き進む今だからこそ、ぼくらは一度立ち止まって、よく考えねばならぬのではないかと思わされている。それはことのほか宗教という領域に問われることであり、その中心たる礼拝という行為に関わることでもあろう。でないと、かつて時の話題となりつつも、心ある人々からは批判と顰蹙(ひんしゅく)の対象ともなったあのエレクトリックチャーチ(テレビ教会)と似た道を辿ることにもなりかねない。

 宗教や信仰というのは本来的に、利便性や有用性や効率性といったものとは異なる特質を、その中心に有しているのではないだろうか。であれば、便利さや即物的効果ばかりに目を奪われるのは危うくもあろう。何がその核心に位置し、何がそれを補完・拡張するものなのか、事を構造的に捉えることは時に、その生死を決めるものともなる。「電波越しはもう十分。画面越しはもう結構。やっと生の舞台が見られる、生の演奏が聴ける」と、その時を待ちに待っていた人々の声。「あ〜ぁ、オンラインの味気なさってのは・・・」とこぼした不良同人のぼやき。ぼくも思わず「御意!」と言ってしまった。聖書のイエス流に言うなら、聞く耳のある者はその意味するところを聞き取るがよい、というふうにでもなろうか。

 終わりに、今回のタイトル「お薬師様もお不動様も、はたまたキリスト様もたじたじ?」について、ひと言。新型コロナの衝撃を前にして、ぼくが興味深くもあり考えさせられもしたのは、病の癒やしを売りにしてきたところが——寺社はもとより、教会もどこもかしこも、そうしてきたところが——総じて、感染防止に徹底対策をと、どこか落ち着かない様子でこれに対応したことだった。癒やしのご利益を売りにするなら、ここぞとばかりにコロナに大胆に向かい、これを完膚なきまでにやっつけるはずのところが、である。つまり、宗教というのはやはり、そして信仰というのもやはり、目に見える即物的なご利益にその本質があるのではないということであろう。タイトルの含意を正しく読み取っていただけるとうれしく思う。

 

 

 

©綿菅 道一、2021

*無断の盗用、借用、転載、コピー等を禁じます。

 

(本ページは、読者の投稿受付けを行っていません)

 

 

 


お薬師様もお不動様も、はたまたキリスト様もたじたじ?-新型コロナの衝撃とそのリトマス作用-(1)

2021年06月27日 | 教会

 

 

「お薬師様もお不動様も、はたまたキリスト様もたじたじ?」

—新型コロナの衝撃とそのリトマス作用—(1

 

 ぼくらがその何やら妙な気配を感じ始めたのはいつのことだったろうか。たしか、2019年も年の瀬に向かう頃ではなかったか。とすれば、それからもう1年半余が経ったことになる。それはどこからともなく——巷では、中国の武漢からというのが大方の推測のようだが?——やってきて、あれよあれよという間に世界中に広がってしまった。WHO(世界保健機関)はこれを "COVID-19(新型コロナウイルス感染症)" と命名したが、パンデミック(世界的大流行)となったこの感染症により、あまりに多くの命が失われた。しかも、それが過去形でなく、今もって続いている。そこにある哀惜や悔恨の涙はどれほどのものかと思わされる。憤怒の歯軋りさえ、そこにはあるやもしれない。心ならず逝かれた命の一つひとつに、二つとないかけがえのない生があったのだから。初動の重要時になんとも不可解な言動を繰り返した、WHOの事務局長。経済や政局や日程を人命以上のものとした、そこかしこの行政人たち。先々同じ轍を踏まぬためにも、反省材料の一々に目を向ける必要があろう。かく言うぼくなんかも立派な高齢者なのに、ほんの数日前、ワクチン接種の1回目の "予約" がやっと取れたという状態。実際の接種は一月ほど後になるそうな。

 こうした置き場のない思いに心を乱しつつも、しかし、ぼくは今ここにこうして筆を執り始めた(キーボードを叩き始めた?)のだから、ここでの趣旨に添って筆を進めねばなるまい。ここでの趣旨とはつまり、このブログのタイトルが物語るように、「信仰と教会をめぐる求道的エッセイ」としてこれを書き進めるということである。というわけで「新型コロナの衝撃とそのリトマス作用」という今回の副題になったのだが、要は、新型コロナの感染拡大によって教会のいかなる姿が、また信仰のどんな様相が現出したのか——今流行りの言い方をすれば、可視化されたのか——ということになろうか。それを求道的な視点で、なおかつ事の本質に触れるような洞察を持って探ることができたら、と思っている。

 ただ、その前に一つ、おり入ってのお願いがある。ぼくらのような物書きが結構出くわす現象なのだが、言葉づかいや文言等の表現様式をどうか、狭く閉じられた読み方で即物的、教条的に理解しないでいただきたいのである。そこでは言語というものが本来的に享受すべき含意や膨らみや余白や遊びが失われ、なんとも貧弱なものに終始してしまうからである。今回のタイトルも、人によっては、宗教や信徒・信者に対して失礼で不謹慎と感じられるかもしれない。がしかし、修辞的というか詩的というか、幅と奥行きとを持ったそうした文学的表現様式にはそれなりの趣意があり、それらは時に問題の本質に迫るための呼び水ともなる。なので、今回もそのように、書き手の意図や文脈に即した適切で的確な読み取りをお願いしたい。

 それにしても、実際、色々あるものである。今回のコロナ下での教会の対応が、である。2019年末からの一年半余、ぼくは折あって、少なからぬ教会に触れることができた。地域も教派も一様ではないが——といっても、教派的にはプロテスタントだけだが——、けれども、コロナへの対応が総じて様々というのが予想以上で、いかにも興味深く思われた。いまだに信者未満で、であれば当然、どこの教会にも属していないぼくのような者にとっては、礼拝への出席が教会の実に触れる主たる機会となる。コロナ下の今回、そこで目にしたのがその「様々」である。

 例えば、コロナへの対応開始の時期とその後の推移である。ある教会は、新型コロナの感染拡大云々がテレビ報道等で流れ始めてさして経たないうちに——2020年が明けて間もなく、緊急事態宣言も蔓延防止等重点措置もまだ出ていなかったときでなかったか?——、それこそ素早くこれに反応。対面で集う礼拝の休止を決めた。かと思うと、この間、その集う礼拝を一度も休止せず、今もなお守り続けている教会もある。対照的とも言える両者だが、諸所の教会はいわば、こうした二つの在り方の間で大いに揺れ動いたと言えはしまいか。細かな一々は別にして、集う礼拝をただちに休止したところ、宣言や措置が出るたびにそうしたところ、あるいはそれらが出ても時に休止・時には実施といった臨機の対応をしたところ、そしてまた休止せずにそれをずっと守り続けたところ・・・と、実に色々だった。今現在はというと、それなりに落ち着きを取り戻したのか、それとも昨今の状況に慣れが進んだのか、これまでほどにはバタバタしていないように見受けられる。事はウイルス感染の拡散であり、どこの教会にとってもおそらく、初めて遭遇したリスク状況かと思う。教会には高齢者をはじめ、病を抱えた人々も集うし、地域間の差異というのもそこにはある。一律に論じられないのは言うまでもない。

 ただ、それにしてもこの間の様々は、と思わされるのである。対応の策についても、これまた色とりどり。LINE(ライン)、Zoom(ズーム)、YouTube(ユーチューブ)といったリモート配信の活用がかなりの広がりを見せてきたが、教会によってはこれ(ら)をもって対面の礼拝にそのまま置き換えた——すなわち、横並びの平行置換をした——ところもあれば、教会堂での礼拝を維持したまま、これにリモート配信を加えた——すなわち、立体型の追補加算をした——ところもあった。配信の形式もまた同様で、誰でもいつでも見られる仕方から、視聴参加者を限定したものまで多彩である。こうした手法は緒に就いたばかりで、技術的にも運用的にも今後発展を遂げ、有意なツールとなるにちがいないが、教会間での対処の多様さはこれだけでない。対面礼拝を行ったところで言えば、出席者の検温、手指の消毒、マスクの着用といったことから、椅子やベンチのレイアウト、使用座席の指定とその案内、説教者のマスクやフェイスシールド、説教者の前のアクリル板や会衆席最前列までの距離、はたまた出席者同士の会話の自粛指導・・・等々と涙ぐましいまでの努力が見られた一方で、しかしまた、こうした取り組みの具体的な内容や厳格さについてはやはり、教会間でかなりの相違が見て取れた。

 こうしたなか、なかでも特に興味深く思わされたのが礼拝のプログラムに関してである。どういうことかというと、どこの教会もコロナの影響でほぼ例外なく礼拝プログラムの変更を余儀なくされたのだが、ただしその変更の仕方がこれまた一様でなく、しかもここでの違いに当該教会の特質がとりわけ顕著に滲み出ているように感じられたのである。事の相違というのにはしばしばその裏に本質的なものの違いが横たわっているものだが、礼拝がそれこそ教会の中心であり基盤であると言うのであれば——ぼくの周りの友人信者たちは大体そう言っている——、他の事柄以上にそこにそれぞれの教会の内実としての有り様が現れ出るのはいたって自然のように思われる。実例でもって見たほうが分かりやすいだろう。ぼくが実地に経験したケースであり、また友人仲間から聞き知ったケースである。それぞれ両極とも言える例に絞って紹介すると、例えば時間枠の変更である。どこも当然ながら礼拝時間を短縮したわけだが、その幅は(聖餐式なしの通常の場合)1時間15分だったそれを1時間にしたところから、1時間のそれを30分にしたところまで様々。また会衆讃美についても、曲数減では共通しているものの、一節だけを声に出して歌うところもあれば、全節を、ただし声に出さずに歌詞を追って心の内でそうするところもあった。さらにまた献金についても、従来どおり礼拝の中で献金を集めて祈りをするところもあれば、受け付けで事前に献金を済ませ、礼拝ではその祈りだけをするというところも見られた。はたまた面白く感じさせられたのは報告の時間で、教会によっては、一方で礼拝時間を縮減しつつも、しかし報告の時間はそれまでどおりにしっかり確保。週報に記載済みの事柄まで読み上げていた。もちろん、これとは逆に、口頭での報告を極力省くという仕方で時間配分を行っていた教会もある。上記の事前献金と相通ずる在り方と言えようか。この他にも細かな点を挙げればまだ幾つかあるが、しかしここでぼくの心中をよぎったのは、こうした相違の背後に何やら本質的な問題が横たわっているように感じられたことである。背後にというか、表現が少々きつく響くかもしれないが、相違の「根」にと言ったほうがより正確かもしれない。つまり、これは実に象徴的で、それゆえ興味深く、そしてなんとも皮肉な現実なのだが、献金や報告(や時には紹介や挨拶)といった部分を従前どおりそのまま続けた教会は一体、プログラムのどこを削って礼拝時間の短縮を行ったかということである。他のどの部分にも増して手を入れたのはほかでもない、説教の時間枠だった。これは例外なくそうであり、礼拝時間の短縮幅が大きいところほど、その度合いもまた著しい。礼拝を30分に短縮した前述の教会では、説教に当てがわれたのはわずか10分だけだった。礼拝で一番長い部分が説教となれば、そこを削るのが何より手っ取り早く容易だから、ということなのだろうか。けれども、他の部分をギリギリまで簡略化してでも、説教の時間だけは最大限確保しようと努めた教会もあった。実際、1時間15分の礼拝を1時間に縮めた上記の教会では、様々な工夫をして、なおも35分の説教枠を堅持していた。こうした相違は、知恵や工夫といった単なる手法上の違いだけではないように思われる。そこにははたして、本質的な事柄として、どのような問題が横たわっているのか。それはぼくらにとっても決して小さなことではない。ぼくらはぼくらでそれぞれに、真面目に求道したいと思っているのだから。

 ぼくはこう思っている。それは、教会というところに心を向ける人たちはまずもって何を探し求めてそうしているのか、また人々を招き迎える教会というところはまずもって何を基にして何を分かち合いたいと願ってそうしているのか、ということである。そして、ぼくはこう考えている。ぼくらは——覚えてくださっているだろうか。2年近く前に酒席での説教談議をこのブログに載せたが、そこにいたぼくの同人仲間を。そのぼくらは皆——ほかのどこでもなく「教会」というところを選んでそこに出かけているのだから、ぼくらは他の何にも増して、そこでしか見つけられないもの・手にしえないものが欲しいのだ。そして、教会が他の団体・組織としてではなく「教会」として自らをそこに建てている以上、その教会もまたそうであろうと思っているし、そうあってほしいと願っている。もちろん、いわゆるお交わりやお楽しみのプログラムもあったらいいし、受肉した信仰のしるしとしてそれらが教会生活を豊かにするという言い方も分からないわけではない。しかし、だからといって、それが礼拝や説教の中心性を減殺する理由にはなるまい。ぼくらは生き方の指針を求め、そのための価値観や人生観を探り、そして願わくはすべての根っことなる精神性の基盤を得られればと願って、期待して、教会という場を訪ねているのである。その教会がよりによって、自身の中心にあるはずの礼拝とそこでの説教をいかにも実務的に重くなく扱うとしたら——今回の措置はコロナ下での苦渋の決断で致し方なくそうしたのであって、決して安易にしたのではないとお叱りを受けるかもしれないが、それにしても、二義的・三義的部分をそのままにしておいて一義的な説教を10分に簡略化した教会というのは一体、何をどう考えてそうしたのだろうか——、それはその教会の何が可視化されたものと言えるだろうか。説教の重さの後退が聖書の重みのそれへと繋がり、さらにはイエス・キリストの存在感の弱化へと繋がらねばいいが、と信者未満の者ながら懸念している。説教は短いほうがいいなどという俗説がまことしやかに信奉されているとしたら、それは——結婚式の祝辞ではあるまいし——文学や読書の類いに縁遠い人間のそれと言えよう。説教が聴く者の心や魂に語りかけるものだとしたら、それは箇条的な説明や「100de名著」のような要約の解説では済まない。また、ワンポイント説教のような手軽な方法で聖書が読み解けるようになるとも思えない。いみじくも、ぼくらの仲間の一人が次のように言っていた。同人仲間に一人、少しばかり不良っぽいのがいたのを覚えておられるかと思うが、その彼である。不良っぽい奴ほど正直なもの、とはよく言われるところだが、彼は全くそのとおりで——なので、そこに悪意はないので、その点はご理解願いたいのだが——、その彼曰くである。「俺たち、飯食いに教会に行くわけじゃないし、お茶しに行くんでもないんだよな。なのに、なんだって? 説教をザックリ短縮? 俺は行かんさ、そんなとこ。聖書の話を聴きに行くんだろ、教会ってところは」

 ついでながらもう一つ付け加えると、これまた皮肉なことに、——ぼくの知る範囲でのことだが——感染リスクの小さな教会のほうが——つまり、礼拝出席者の少ない教会のほうが——対面での礼拝を休止したり、説教の時間を大幅に短縮したりするところが多かったように見受けられる。逆に、リスクが相対的に大きな教会のほうが——つまり、礼拝出席者の多い教会のほうが——むしろ、集う礼拝を維持し、説教の時間枠も確保しようとしたように思われる。リスク対策は当然ながら、少人数で過密度が低く、いわゆるソーシャルディスタンスを確保しやすいところのほうがその実施も容易なはずなのだが、なんとも予想外の現象だった。それもこれも、ぼくにはやはり、礼拝や説教に対する、すなわち聖書と信仰のリアリティーに対する姿勢の相違から来ているように思われたのだが、そこまで言うと失礼に過ぎるだろうか。もしそうであったらその無礼をお許しいただきたいのだが、それにしてもこれら両者の対比と相違は皮肉な現実で、そこに少なからず大切なメッセージが隠されているように思われてならない。はたしていかがだろうか。ここでも不良同人のひと言を記しておくと、彼はこの点については、今度はこんなふうに呟いていた——呟くというのは彼にはちょっと可愛すぎるが——。「俺だったらさ、出席者を3グループぐらいに分けて、礼拝を一日3回でもやるけどね。部屋の方々に分散して座ってもらってね。ソーシャルディスタンスは文句ないし、それこそ静かで、かえって落ち着いて礼拝できるじゃん? 牧師さんは大変かもしれないけど・・・。でもさ、牧師さんも信者さんも日頃、聖書だ、礼拝だ、信仰だ、教会だと言ってるんだろ。それが本気なら、それくらいのことするんじゃないの? 格好いい言い方をさせてもらえればさ、そこに真剣な実存がかかってるなら、ということかな。それくらいの気概、信仰ってのには付いてくるん・・・だろ?」 まぁ、だいぶ生意気な言い草に聞こえるかもしれないが、彼の真面目さの裏返しであることはこのぼくが保証する。実際、ぼくらの同人仲間は個性的ではあるが、誰もが皆、それなりに真摯な求道者なのである。そして、求道者は教会のことをよく見ている。それも、教会の内実としての本質的な実態を。それは確かである。そういえば、現に、地区別の分割をして集う礼拝を続けていた教会もあったっけ。

 いま一度ついでながら——と言ったら、語弊もあろうが——、聖餐式(主の晩餐式と呼ぶところも)の持ち方も色々だった。式自体を休止したところも少なくなかったが、これまた両極の対照的なケースを挙げれば、片や(パンも葡萄酒も用意せずに)形だけ式を行い、パンと葡萄酒については取ったつもりで心の内でそれらを頂くという仕方をしていたところがあるかと思えば、その一方で——これは教団全体としての推進があって可能になったことかと思われるが——、パン(実際にはクラッカー)と葡萄酒(実際には葡萄ジュース)をそれぞれ別個に個包装し、それらをセットごとにさらに二重に個別包装して実施するという、実に大変な準備をして式を行っていたところもあった。取ったつもりで心の内で・・・というのは象徴とかシンボルとかいうことの意味合いをいかにも軽々に考えた結果だろうが——それらの意味合いを本当に理解していたら、式を行わないことの方がむしろ適切かつ的確な判断となることもありうる——、礼典と呼ばれる重要事にしてこのような具合である。そこには言うまでもなく教派間・教会間の神学的相違というのもあるが、しかし、事柄の受け止め方や事柄への向かい方に違いがあることはやはり否めまい。だとしたら、それらの違いははたして何を意味しているのか、そのことが問題と言えよう。いずれにせよ、説教時間を削り、礼拝を短縮しておきながら、なのに礼拝後の活動は止めず、会議や委員会も以前のように続けるといった教会があるとしたら——実際、あったわけで・・・——、心ある方々はいかに思われるだろうか。教会が神への礼拝に立つと言うのであれば、このぼくには論外に思えてならない。

(→(2)へ)

 

 

©綿菅 道一、2021

*無断の盗用、借用、転載、コピー等を禁じます。

 

(本ページは、読者の投稿受付けを行っていません)

 

 

 


教会に足が向かない男たち--エッセイの問いかけになにがしかの真理が?

2017年05月01日 | 教会

 

「教会に足が向かない男たち

--エッセイの問いかけになにがしかの真理が?」

 


 もう6年ばかり前になる。アメリカの雑誌だが、興味深いエッセイを目にした。雑誌の名は The Christian Century(ザ・クリスチャン・センチュリー)、エッセイのタイトルは "Why do men stay away?" で、事象として興味を惹かれただけでなく、信仰論や教会論の点からも大いに考えさせられた。日本語にしたら、「男たちはどうして寄付(よりつ)かないのか?」とでもなろうか。2011年10月20日号の The Christian Century で、Thomas G. Long(トマス・G. ロング)の筆になる。内容的には当然、米国での出来事を扱ったものだが、よくよく考えてみると、日本の教会も無縁とは言えない状況にあるのではないか。ひょっとすると、エッセイで論じられている問題はアメリカ以上に日本の現状に当てはまるかもしれない。そんなふうにも思わされた。

 

 ちなみに、The Christian Century はアメリカを代表するキリスト教誌(隔週刊)で、超教派の穏健な進歩的雑誌として知られている。教会に忠実でありつつ、同時に世界に開かれていることを旨とする正統派の雑誌と言えよう。かつて、Reinhold Niebuhr(ラインホルド・ニーバー)も寄稿者の一人に名を連ね、Martin Luther King, Jr.(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)の獄中書簡をいち速く掲載してもいる。一方、Thomas G. Long は米国キャンドラー神学校の名誉教授で、説教学と礼拝学を専門にしている。キャンドラー神学校は、アメリカ南部の名門私大・エモリー大学の神学校である。加えて、Long は米国長老教会の受按牧師でもあり、かような雑誌のかような執筆者の文章ということで、エッセイの指摘にそれなりの重みをおぼえさせられた。




 その内容はといえば、次のようなものである。Long は言う。日曜の礼拝に連なる男性たち。が、讃美歌を歌う女性たちの傍らで、ある者たちはどうしているか。立ったまま息を潜め、押黙って虚空(こくう)を見詰めている、と。そして、問いかけるのである。男性と教会というのはどういうものなのか、と。実際、最近の調査によれば、と Long は続けている。我々男性は数的に圧倒されている、確実に。礼拝出席者の39パーセントしか占めないのが通常の教会である。男は早死にするので、より頑強な性別の方が席を埋めるようになるといった、単にそういうようなことではない。そもそも調査研究のたびに明らかになるのは、自らをクリスチャンと言う者たちですら、その多くが実は教会に退屈し、気持ちが離れて、教会から疎遠になっているという事実である。そんな我々男性が(重い足を引きずって)教会に行くのは、自分自身のためにではなく、息子としての、夫としての、また父親としての(あるいはまた牧師としての)役割義務を果たすためなのかも・・・。研究者はそう語っていると、Long は記してもいる。

 

 ならば、翻ってぼくらの日本はどうであるのか、ということになろう。エッセイは異国のことで、日本の教会事情は同じではなく、アメリカの実情分析がそのままぼくらの国に当てはまるとはかぎらないといったふうな、そんな声が聞こえてくるようでもある。たしかに、国が違って、歴史も文化も違うのだから、それはそうだろうと思う。けれども、Long の書留める米国教会の現状は、(もちろん、このぼくの知る範囲での限られた観察と知見からのことではあるが)その一つ一つを日本のそれと照し合せるとき、はたしてそう言って一言(いちげん)のもとに切捨ててよいものかどうか。信仰と教会の事柄を真面目に求道的に考えたいと思っている人間にとっては、信仰論から言っても教会論から言っても、それらは逆に、大切な課題を考える良い契機を与えてくれるように思う。そう思われないだろうか。そう思って、Long のそれらを日本の教会の様子と突合せてみると、そこにはやはり、国境を越えたものが少なからずあるように思わされる。例えば、礼拝での讃美中、押黙ってあらぬ方を見詰めている・・・と言われる男性たち。また、あまり気乗りがしないようで、教会から距離を置きがちな・・・と記される男性たち。どちらもアメリカの専売特許で、日本の教会には関係ないと、はたしてそう言切れるだろうか。言うまでもなく一般論としての話で、そうでない所ももちろんあるだろうが、ぼくの出入りする諸教会ではそれなりに目にする光景である。とにもかくにも、元気で活発な女性たちに比べ、おとなしくて押され気味の男性たちという図柄はそこそこ的を得たものという感じがする。

 

 そうした「印象」というものが「事実」に肉迫して出てくるのが「統計」と呼ばれるものなのだろう。数字というのは恐いものである。礼拝の参加者に男性が占める割合は、(一般的な数字として)アメリカでは一教会当り39パーセント(2011年)というが、ならば日本の場合はどうだろう。ぼくの手元には、残念ながら、日本のキリスト教界全体を見渡せる詳細な数字はない。したがって、統計的数字に基づく正確な物言いはできないが、日常の観察から受ける印象としては、その割合は米国よりさらに低いのではないか・・・と思っている。大まかに言って、「1対2」くらいの割合で、男らは女性に凌駕(りょうが)されているように感じられる。ちなみに、このブログのリンク先の「BFC」との関連で言えば、日本バプテスト連盟の2010年度の数字がたまたま、書付けのメモとしてファイルに残っていた。それによれば、「礼拝出席数の男女比≑1:1.7」とある。同連盟を構成する全国の教会・伝道所全体の平均値と考えられるが、ぼくの印象よりは若干いいようである。それでも、男性の割合は、(パーセントに直して)37パーセントほどに留まる。やはり、日本の教会における男性の占有率はアメリカのそれ以上に小さいようである。日本の教会は元々、女性の多い所と言われてきたが、2010年からさらに7年を経た現在、男たちの数字ははたしてどんなになっているだろうか。減少の度を増していなければいいのだが・・・? いずれにせよ、こうした点からも、Longの問題提起は当らずといえども遠からずと言えるのではなかろうか。



 

 だとしたら、次の問いはまさに「男たちはどうして(教会に)寄付かないのか?」ということになろう。Longのエッセイタイトルそのものである。Longはこれを "Why are men and the church often at odds?"(男たちと教会とはなぜに、しっくりこないことが多いのか?)と文中で言葉を換えて繰返しているが、要するに、男性が教会に惹きつけられないその理由である。実際、どうして、教会という所に男たちの足は向かないのだろうか。

 

 日本的な言い方をするなら、男は仕事が忙しいので、というようにでもなるのだろう。毎日、仕事仕事で追いかけられてるんだから、週に一度の日曜ぐらい、昼までゆっくり休みたいよ・・・といった具合に。ぼくも同じ男として、そんなふうに言うことがないわけではないし、たしかに忙しい(70を越した今となっては、正確には忙しかっだろうが、多少、言い訳がましい後ろめたさを引きずりつつも、たしかにそう言える)。しかし、これまたよく言われるように、経済の高度成長期からバブル期前後のあの頃はこんなものでなかったのを覚えている。今よりはるかに大車輪だったのを。なのに、にもかかわらず、教会の男性は現在より明らかに多かったことを思い出す。それに、以前との比較で言うなら、考え様によっては、女性の方がずっと忙しくなっているとも言えよう。仕事に追われてというのは、やはり、ぼくら・男たちの自己弁護の臭いがしなくもない。他方、Longも諸説をいくつか紹介しており、なかには、(アメリカという社会の歴史的・政治的背景が特に滲出たものと言えるだろうか)男性による教会の支配が長きにわたって続いた結果、その不可避の所産として「女性化」という力学が逆に働いたという説もあるという。かの国における女性解放の歴史的展開に照らすとそれも理のないことではないように感じられるが、ならば、それを日本の教会という土壌と歴史に重ねてみたら一体どんな様相を呈するのか。そして、それはどこまで妥当性を有するのか(日本の教会はそもそも外の社会とは少しく違って、女性たちが比較的早い時期から意外と実権を握っていたと語る人たちもいたりするわけで?)。そんなふうに考えさせられ、またまた探究の虫を刺激された。

 

 話を本題に戻そう。問いの中心は、男たちはどうして教会に寄付かないのか、ということだった。男たちの足はどうして教会に向かないのか、ということである。なぜならば、そこには何か、信仰とか教会とか宣教とかいった事柄に関係した重要な洞察が隠されているように思われるからである。もしそうだとしたら、誠実な求道者はそれを脇にやって、不問のままにやり過すことはすまい。自身の求道の質を左右することになるからである。そんななか、Longがエッセイで紹介する事例は事の本質に触れていて、少なからず示唆に富むように思われる。すなわち、Longは次のように語るのである。原因が複雑なのは分り切っている。しかし、人数で見るかぎり、男性をも女性をもほぼ等しく惹きつけているグループが一つある。おそらくは、そこいらに手掛りを見出しうるのではないか。と言って、Longは統計的に一つの教派を紹介するのだが、それが(ぼくらの意表を衝くような?)「東方正教会」だというのである。ラテン文化をその特質とした西方のローマカトリック教会に対し、ギリシア文化を特質としたという意味で「ギリシア正教会」とも称されるグループである(大枠としてのこの呼称のもと、自治自立組織としてのロシア正教会やブルガリア正教会等が、また大枠とは別のギリシア正教会等々がそれぞれに存在することは周知のとおりである)。ぼくらの国では、日本ハリストス(キリストの意)正教会とも呼ばれている。そのようにして、Longは言う。なかには、正教会は保守的で、聖職者が全員男であって、おまけにスポーツ選手のような格好いい髭(ひげ)を生やしてるのが多いからな、とそんな皮肉を言う人もいるかもしれない。けれども、宗教ジャーナリスト(Frederica Mathewes-Green)の調査結果が出ており、そちらの方がむしろ、より真実に近いと言えよう。成人男性の信者たちを調査した結果、そこで明らかになったのは、彼らにとって正教会の最大の魅力は、それが "challenging"(チャレンジング)だということだった(つまり、そこにはより良くて高い、より困難なことに向かわせるものがある。そうした意欲を引き起こすものがある、ということだろう)。ジャーナリストの調査結果を、Longはそのように紹介している。そして、その中に記されている彼ら・正教会信者の次のような言葉を引用している。"Orthodoxy is serious.  It is difficult.  It is demanding.  It is about mercy, but it is also about overcoming myself."(正教は真面目である。安易でない。求めるところが多い。正教は慈しみを本質とするが、同時に、克己も旨としている)"(I am sick of) bourgeois, feel-good American Christianity."(小市民的で、気持ちをよくさせるだけのアメリカのキリスト教なんぞ[うんざりだ])事を少しばかり描写的に言表すなら、(もちろん、全部が全部、そうというわけではないが)アメリカの教会は日曜日の朝、コーヒーとドーナツが必須アイテムで、さらには、何かにつけてご馳走とソーシャル(楽しいお交わり)。加えて、礼拝の説教も聞く者たちにやたらな要求はしない、優しくて物分りのいいお話ばかり、ということか。要するに、ソフトでスウィートな、人当りのいいムード教会ばかりをつくろうとしている。だが、自分たちはそんなところには心惹かれない、ということなのだろう。



 

 これが Longのエッセイの概要である。エッセイはそもそも、海の向うの国のお話。なおかつ、東方正教会というのは、当の米国においてもトップ10に入らない、いわば必ずしもメジャーでない教派である。2001年の時点で、645,000人前後の信徒数と推定されている(American Religious Identification Survey, 2001, conducted by The Graduate Center of the City University of New York)。アメリカにあっては決して大きくないと言えよう。日本の統計を見ても、状況は同様である。日本ハリストス正教会の信徒数は、おおよそ10,000人と報告されている(2014年)。宗教年鑑によれば、日本バプテスト連盟の信徒数が約35,000人となっている(2012年)から、この三分の一以下ということになる。しかしながら、だからといって、参考にする価値のない取るに足らぬものと、Longの問題提起を無下(むげ)に捨去ってよいものかどうか。ぼくなんぞは、自分がいまだ求道者で、しかも真面目なそれたらんとしていることもあって、正教会の信徒たちの思いに共感する部分が小さくない。実際、こうした問題に対する向い方は少なからず、教会のあり方や信仰の質に関ってくるように思われる。何しろ人数を獲得せんとして、スウィートなムードで教会を覆い、あらゆる敷居を消去るのか。そのようにして、チャレンジングな要素を極力なくすことで、いわゆる宣教の成果を確保しようとするのか。それとも・・・と、それこそ教会の立ち方を左右する、そんな本質的問題を内包しているように考えられるからである。ちなみに、ぼくなんかは、ため口が闊歩し、世間話のおしゃべりばかりが耳に響く、曰くソフトで親しみやすいと言われるような所には、何となく居づらさを感じてしまう。そうした "unchallenging"(アンチャレンジング)な路線の裏で代償として失われるものもあるのではないかと、そう思うからである。まぁ、そんな考え方こそ、まさしく化石世代の証拠だ、お堅い男性の印だと、そう言われてしまえば身も蓋もないが。たしかに、Long先生も言っている。女性たちはおそらく、男たちよりも忍耐強いのだろう。あるいは、より深い所で十字架を負うということを洞察しているのかもしれない、と。う〜ん、そうなんだろうかと、ぼくはまた頭を悩ませている。いずれにせよ、ぼくにとって問題なのは、その時そこで読まれる聖書の読取りとは一体、どんな読取りなのか、ということである。そこでなされる宣教の中身とは一体、どんな中身なのか。そこで進められる教会の形成とは一体、どんな形成なのか。そして、そのようにして培われる信仰の内実とは一体、どんな内実なのか、ということなのである。

 

 アメリカの教会の「今」を論じたLongのエッセイは、はたして、日本の教会の「今」にどれほどの妥当性を有しているのだろう。日本の諸教会に似た所があるのか否か。共通する症状のようなものがそこに見て取れるのか否か。論じられた問題が教会という存在にとって決して周辺的な事柄ではないが故に、大事なことを考えるきっかけを提供してくれたことだけは間違いあるまい。

 Longのエッセイは、次のような言葉で閉じられている。そして、それに、このぼくは少なからず心を惹かれている。人の精神性に関る言葉だからである。

 

 教会の出席者の中には、たしかに、いい気持ちのキリスト教で満足している人たちもいる。しかし、クリスチャンの多くは--女性も男性も--本当は、そこに自分をもっと懸けて生きられる、自分にもっと課するものの多い、そして自分の人生に何らかの変革をもたらすような生き方を求めていると思う。

 自分を超えたものに生きようとすること、それがそれなりにあるなら(たとえ、そこに多少の齟齬があろうとも)、その欠けらもないよりはましである(Near transcendence is preferable to no transcendence at all)。

 

 

©綿菅 道一、2017

*無断の盗用、借用、転載、コピー等を禁じます。

 

(本ページは、読者の投稿受付けを行っていません)