「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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「茶漬えんま」の悲哀(4)

2017年06月17日 | 信仰

 

「『茶漬えんま』の悲哀」(4

 


 さて、初めに申上げた類(たぐ)いの問いや課題をいくつ拾出せただろうか。この演目はたしかに、落語には稀(まれ)なくらい「説教臭い」運びになっている。落語では普通、思想や教理の説明をここまで細かくすることはない。極楽での「個」についてのくだりや締めの部分の「仏道」についての解説などはとりわけその感がする。人によっては、ちょっとばかり鼻に付くかもしれない。ただ、ぼくはそんなところにも、枝雀師匠自身が向合ったであろう人生の問いとそれへの答えを求めて手探りしたに違いないその痕跡を見る思いがしている。師匠はしかし、結局のところ、その隘路(あいろ)から抜出せず、出口を見出せないままに逝(い)ってしまわれた。「『茶漬えんま』の悲哀」とでも呼べるようなそんなやり切れなさが、このぼくの中に遺されてある。病を負いながらではあったものの、救いの在り処(か)が見つけられなかったのだろう。だとしたら、「茶漬えんま」というこの演目は、人生を喜ばしく潑剌(はつらつ)と、生き生きと生きたいと願う者すべての代弁者と言えはしないだろうか。そして、もしそうであるなら、それはまた救いを説く「キリスト教」への代弁者でもあり、それへの問いかけとも言えるに違いない。

 

 ということで、今回は、このぼくが「茶漬えんま」から受取った問いかけや印象の主なものを以下に記し、事を考えるきっかけにでもさせてもらえたらと思う。それらについては、ぼく自身もこの先ずっと、思いを巡らせてゆくことだろう。意味ある生を願うなら、だれもが自然とそうせずにはおれないからである。教会もまた、意味ある命を証ししようとするなら、「茶漬えんま」に滲む含意に目を向け、そこで聖書の使信(ししん)を探り、そして何らかの答えを手にしておかねばならないのではなかろうか。そうでないと、教会もまた、よそとあまり変らぬお楽しみの集い場になってしまう。少なくともぼくのような人間は、日曜の貴重な時間を割いて、そのような所にわざわざ出かけて行こうとは思わないように思われる。

 

「キリストが、あいつはなんじゃい、あいつ酒癖悪いねん」「まぁ、そりゃそうや、しゃあないわい。常日頃、自分を抑えてね、暮しとるやろ。ああいうやつはそうやで」

——どこで目にしたクリスチャンが背景になっているのか。とはいえ、一見優等生を演じながらも、しかし実のところ、内面は禁欲的なストレスでいっぱい。クリスチャンに対する日本人一般のそんな印象を物語っているのだろう。信仰というのは、それが本来のものであるなら、不要なストレスから人を解放するはずのものなのだが・・・。人々の誤解(?)と、それを解きえないキリスト教側の理解不足(?)や取組み不足(?)か。

 

「それにもう、ワァー言うて、こっちが嫌がってんのもえーっ分らんでやで・・・食わされてやで・・・飲まされてやで」

——「キリスト教は相手の気持ちも考えんで、どこか押しつけがましい」と受取られているのか。そんな暗示だとしたら、いわゆる「宣教」のあり方が課題として提示されているのかも。

 

「この頃はみな、自己申告や」「そんなことしたらあんた、みな『私も極楽、私も・・・』って」「いやー、それが面白いで。人間ちゅのはどこかに良心あんねんね。・・・良心ちゅうのはあるもんやで」

——人間の本質とはどんなものなのだろう? だれにも良心らしきものがあるようだと、お噺のえんまさんはそう言う。けれども、噺の最後は、良心そのもののようなはずのお釈迦さんまでもがなんと、偽善的な物言いをして終る。より深い所で人間の本性、本質を問いかけているようでもある。

 

「だいいちおまん、あんた、極楽・極楽言うけど、極楽ももひとつええとこやないで」「静かは静かで結構やけど、静かすぎるわい! ・・・何もないのや。・・・こんなとこに住んでいられるか!」「じゃで、向うにいてる人こそはほんまの聖人君子じゃい。もう何万年も何十億年も黙ってポヤーと座ってられるっちゅうのはよほどの聖人君子じゃい」

——極楽とは(キリスト教的に言えば「天国」とは)はたして、どんな所なのだろう。それは、より一般的な宗教表現で言換えるなら、「救い」ということになろう。つまり、救われるというのは一体、どういう状態を指しているのか。どういうことが救われるということなのか、ということである。枝雀師匠は(自らの芸におけるそれが第一の事だったろうが)遂に、それを得心することができずに終ったのではなかろうか。

 

「いえこっちにね、ちゃんとあの、なんですね。えっえーっ、閻魔帳というのがありますからな」「えー、ほーなるほど、色んなことしていますな、なるほどね」

——「神様がちゃんと見てるから、だから、悪いことはできないよ!」という、昔ながらの日本人的神意識、宗教観、道徳意識の現れか。それははたして、キリスト教でも同様なのか。それとも・・・?

 

「極楽にはもう『あなた』も『私』もない。私はあなた、あなたは私。・・・えーっ、あなたとか私とかという『個』というものがあるのは娑婆における時だけの話です。極楽へ来ると、私もあなたもありません。私は私、あなたも私、あなたも私、あなたもあなた」

——「色即是空(しきそくぜくう)」(目に見える現象はすべて、実体のないもの)や「諸行無常(しょぎょうむじょう)」(すべては移りゆき、同じであり続ける存在はない)という仏教の根本思想に根差した解説的一節だが、それらを悟ればありとあらゆる思い込みから解放たれて救われる。「個」とか「自我」とかいう拘(こだわ)りからも自由にされ、「解脱(げだつ)」というものを知ることができる。極楽の住人は俗人の留五郎にそれを教えようとしたのだろう。そのような悟りを得ることははたして可能なのか。そしてそもそも、救いというものがそこにあるのか。神学的な表現をするなら、創造論的、存在論的、認識論的、救済論的問いがここにありはしないか。キリスト教はこれにどう答えるのだろう。枝雀師匠にとってもそう容易ではなかったらしいこの問いに・・・。

 

「この蜘蛛の糸をつたって、亡者どもが極楽へ来ようとして、ドンドンドンドン上って来るがな。はぁーっ、九割九分の所まで来ると必ず、自身の罪の重さでプチっとこの糸が切れますな」「自然と己が罪の重さで切れるで仕方がない。自業自得というものじゃ」

——「罪」の問題や、それに伴う「裁き」と「救い」の問題がここには置かれている。そして、ぼくらがよく口にする「自業自得」の考え方も・・・。それらは、こと宗教的真理を求める者たちにとっては本質的な事柄であるはず。とりわけ自業自得の論理は多くの問題をはらんでおり、キリスト教にとって、解放や自由や救いの核心に触れる事柄ではなかろうか。

 

「地獄は地獄で楽しそうにやっておるぞ」「へぇ、えらいもんでんな。ほな、地獄やおまへん、極楽ですな」「いやー、あれが本当の地獄じゃぞ」「そうじゃーないか。楽しいことをいつまでも追続けなければならぬ。楽しさというものはな、これは今日よりは明日、明日よりは明後日と、より刺激の強いものを求めなければ楽しみとして感じることができないのでな。・・・どこまでもどこまでも楽しいことを追続けなければならない。あれが本当の無間地獄じゃ」

——幸せの源を単なる楽しみに求めていくと(つまり、単なる刺激に求めていくと)切りがなくなり、遂には自分で自分の首を絞(し)めることになるという。然(しか)り。恐いが、まさしく真理と言えよう。これは、ほかならぬ枝雀師匠自身の告白的心情とも言えるもの。師匠の晩年の芸風は、身体的表現を随所に取入れた、伝統的な落語からすると型破りなものだった。まさに「刺激的」芸風。そんな師匠がある時、伝統の芸風で高座をつとめる噺家の姿を見ながら、舞台の袖(そで)で傍らの兄弟弟子にこう呟(つぶや)いたと言われる。「自分ももう一度、あんな風なとこに戻れたらなー」。刺激は刺激を重ねねば、客の楽しみを繋ぎ留められなくなる。そこにはまってしまって出口が見えず、きついばかりだったということか。何事も、本来の内実で勝負せず、おまけの飾りばかりでそうするようになると、結局はにっちもさっちも行かなくなるということなのだろう。芸も、人生も、そして教会の宣教も。「宣教の本道は?」と問いかける刺激的な一節でもあるのでは?

 

「あのね、私とあんたはよろしい、罪がないさかい。そやけど、留やんがあのーっぶら下ったら、あの人の罪でこいつブチッと切れまっさかい、そりゃちょっと。そいつ上らさんようにしないと、上らさんように。あんただけ上んのや、あんただけ。私とあんただけが助かりまんねん。そいで、留やん下にバンと下しな、落しな落しな。留やんは蹴落せっちゅうのに!」

——なんと、お釈迦さんが「蹴落とせ!」と言う。いわゆる俗人は俗人故にかえって、逆に厳しい目で聖人たちの偽善を見抜くのかも。お寺さんだけのことではない。教会もまた、そうした目にさらされている。講壇上や教会内で語られる言葉とそれ以外の所での実際の言行が食違っているとしたら・・・。偽善に偽善を重ねる「偽善の上塗り」だけは慎みたい。それこそ、(ぼくの読取るところでは)イエスが最も叱責したことのように思われる。

 

「途端にーっ、蜘蛛の糸がブチーッ! また3人共、下へドーンと落ちましたんに」「なんじゃい、これー。極楽へ帰ることがでけんのか。はぁーあー、神も仏もないものか」

——見事なオチ! 見事なツッコミ! 人間論としても、人生論としても、また宗教論・神学論としても・・・ではなかろうか。そして何より、我が身につまされる一席である。よーく考えねばならない課題を与えられた。

 

*「茶漬えんま」というと、落語では上方の演目「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」などが、また文学では芥川龍之介の作品『蜘蛛の糸』などが想い起される。あわせて耳にされ、目にされると参考になるのではないだろうか。

 

 

©綿菅 道一、2017

*無断の盗用、借用、転載、コピー等を禁じます。

 

(本ページは、読者の投稿受付けを行っていません)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「茶漬えんま」の悲哀(3)

2017年06月17日 | 信仰

 

「『茶漬えんま』の悲哀」(3

 


(枝雀:なんてこの男がさて窓口へこの書類を提出しまして、「こちらでございます」言われますというと、「極楽行き」というような大きな額があがっておりまして、その下にいわゆるドアがあるのでございます。そのドアを開けて中へ入りますというと、さて別世界でございます。真っ暗でございまして、なぜか真っ暗でございますのに、前にこう石段のようなものが見えるのでございます。それをば一段一段、一段一段こう上ってまいりますというと、追々と明るくなってまいりまして、遂には山頂へ到着をいたしますというと、「極楽浄土」という結構な額があがっております。山門のようなものがございます。一方、内側へ入りますというと、まず目につきますのが七層の大楼閣でございます。金、銀、瑠璃(ルリ)、玻璃(ハリ)、赤珠(シャクシ)、車渠(シャコ)、瑪瑙(メノウ)という七宝(しっぽう)の大楼閣。これを映しておりますのが「七宝の池」と申しまして、いわゆる蓮池(はすいけ)でございますね。大輪の蓮の花がポカッポカッポカッと浮いているのでございますが、朱塗りの回廊がこう張巡らされておりまして、あーらもう下の砂はキラキラキラキラ光っておりますが、空はあくまでも晴渡り、名も知らぬ鳥が歌い舞い踊っているのでございます。曼荼羅華(まんだらけ)の花がハラハラハラハラ(笑)散っているのでございますが、いずかたよりかはこのー楽の音が聞えてまいります)<ごくらくじょーーどーーー>

(留五郎)わあー、来たー! 極楽やー! ほーらまた結構なとこやなー。ほんに静かやなー。なんにも聞えへんがな、へぇー。えーお天気やなー。玉砂利がキラキラキラキラ光って・・・。ほんまに人おらんなー。ははぁー、あんなとこに一人ポツンといてるね、日向(ひなた)ぼっこしてポカーッと。はぁーはー、あそこにも一人。へぇーっ、よっぽどええことした人やないとこっち来られんのやろなー。おもろいとこや。

いたっ、あいたー! えらい、すんまへん。あんた、ここに座ってはんの知りませんで、キョロキョロしてましたんで。

     (極楽の住人)大きな声出しなさんな。大きな声を出すと、地獄へやられますよ。

えらい、すんまへん。あんた、ここにお座りになってたの知りませんでして、すんまへんでした。あの、足パッと踏みまして、痛おましたやろ。すんまへんでした。

     あなた、極楽はまだ素人(しろうと)ですね。(笑)

いや、素人ですねって、私今来たとこですわ。

     ああ、そうでしょう。だから、そういう誤った言動をする。あなたが私の足を踏んだからといって、謝ることはありませんよ。

なんでですか?

     極楽にはもう「あなた」も「私」もない。私はあなた、あなたは私。イケイケですからな。えーっ、あなたとか私とかという「個」というものがあるのは娑婆におる時だけの話です。極楽へ来ると、私もあなたもありません。私は私、あなたも私、あなたも私、あなたもあなた。お分りですか?(笑)

どぅーいうことですか、それは?(笑)

     じゃから、おまえさんが私の足を踏んだと思うから、謝っておられる、ね。そうじゃーない。いわば、あなたがあなた自身の足を踏んだようなものです。私もあなたなのですから。分りますか? あなたがあなたの足を踏んだ。言い換えると、私が私の足を踏んだようなものです。私は私、あなたも私、あなたはあなた、私もあなたですから。お分りですか?(笑)

どぅーいうことですか?(笑)

     分らぬ人ですな。早い話が<パシッ!>

痛々っ! 何するんです?

     怒るというのがおかしいぞ。あなたは私があなたを叩いたと思うから悔しいとかいう気持ちが起って、怒るということが・・・。そうじゃーない。あなたは私なんですよ。だから、私が私を叩いたようなもんです。いや、あなたがあなたを叩いたとも言えるんですよ。あなたはあなた、あなたは私、私はあなた、あなたは私ですよ。お分かりですか?

どぅっ、どぅーいうことですか?(大笑)

     分らん人じゃな。おまえさんの胸を<ドーン>

あんた、何しまんねん、あなた。

     怒るというのがおかしいぞ。私があなたの胸を突いたのではない。私が私の胸を突いたようなものだ。えー、またあなたがあなたの胸を突いたとも言える。あなたは私、私はあなた(笑)、あなたはあなた、私は私じゃ。お分りか?

どどっ、どぅっ、どぅーいうことですか?(大笑)

     ここに金属バットがある。(大笑)

よーあんなアホなこと言いやがったぜ、ほんまに。おらー、あいつの足踏んだだけやがな。遂には、金属バットでどつかれそうになてもうた。(笑)どうもならんでー。よほどのことしてー、油断も隙(すき)もないがな。




あーっ、向うで釣りしてる人があるなー。

こんにちは。えーお天気ですね、こんにちは。

     (お釈迦さん)良いお天気ですな。

へぇー、釣りですか。釣れますか?

     うーん、あまり釣れぬな。

へぇ、糸は何(なん)です? あの、餌(えさ)は何です?

     糸は蜘蛛(くも)の糸じゃ。餌はなし。

餌なし。蜘蛛の糸で釣って・・・。あっ、あんさん、ひょっと間違うたら堪忍(かんにん)しておくれはれ。お釈迦さんとちがいますか。

     私を釈迦とお分りか。ある時は・・・。

何を言うてんねん。(笑)なにが、ある時は・・・って。お釈迦さんでしょ。

     そうじゃ、お釈迦じゃが、ある時は・・・じゃ、ぅん。(笑)

なんでんや、あんた、えっ。そいで、釣りは何釣ってまんねん?

     亡者を釣っておる。

亡者を。

     そうじゃ、この蓮池の真ー下が「血の池地獄」じゃ。この蜘蛛の糸をつたって、亡者どもが極楽へ来ようとして、ドンドンドンドン上ってくるがな。はぁーっ、九割九分の所まで来ると必ず、自身の罪の重さでプチッとこの糸が切れますな。また糸を換えて、えー釣りを垂れる。亡者がドンドン上ってくる。九割九分の所まで来ると、プチッと糸が切れる。それを見ているのが楽しくてなぁ・・・。

悪い人だんな、あんた。(笑)人の苦しむのを見て・・・。

     そういうわけじゃーない。自然(じねん)と己(おの)が罪の重さで切れるで仕方がない。自業自得(じごうじとく)というものじゃ。またな、地獄に落ちたとゆっても、そうなんじゃーぞ。えーえーっ、気をかけてやることもありゃーせん。地獄は地獄で楽しそうにやっておるぞ。見てみなさい。血の池地獄はすっかり浄化されてな。今は広い広い、きれーな湖になっておる。琵琶湖のようなものじゃ。そこへみんな、屋形船をしつらえて、ドンチャン騒ぎや。あーら、楽しそうにやっておる。「針の山」はきれいに針が刈取られてしまってな、今はゴルフ場となっておる。(笑)あーぁ、あのーうーん、温泉宿なぞがたくさんに立並んでな、みな楽しそうにやっておる。

へぇ、えらいもんでんな。ほな、地獄やおまへん、極楽ですな。

     いやー、あれが本当の地獄じゃぞ。

なんで?

     そうじゃーないか。楽しいことをいつまでも追続けなければならぬ。楽しさというものはな、これは今日よりは明日(あす)、明日よりは明後日(あさって)と、より刺激の強いものを求めなければ楽しみとして感じることができないのでな。今日よりは明日、明日よりは明後日、明後日よりは明々後日(しあさって)と、どこまでもどこまでも楽しいことを追続けなければならない。あれが本当の無間地獄(むげんじごく)じゃ。

えらいもんでんな。いや、そりゃ、それはそうか分りまへんけども、私らまぁこんな俗っぽい人間には、あんなのやっぱりおもろいと思いますけど。見てみなはれ、えーっ。みな踊ってまっしゃろやけぇ、えーっ。コラコラコラコレーッ。いやー、面白そうにやっとるやっとるって。こんな退屈な極楽より、向うの方がよっぽど面白そうだな。はぁ、コラコラコラ・・・。

     あーっ、これこれこれ、踊ってはいかん、踊ってはいかん。ひょっとはまったらえらいことになる。

何を言うてなはる。あーっ、コラコラコラコラーッ。

     これこれ、踊ってはいかんと言うておんのに。


 


(枝雀:てなことをしていますというと、さて、お釈迦さんの言うことを聞かずに踊っていたもんでございますから、足を踏滑らしまして、下へ真っ逆様にドーーン!)

(お釈迦さん)えらいこっちゃがな。ちょっとでもああして物言うたのに、落ちてしまいよったがな。だれぞ来てくれんかいな。

     (キリストはん)おー釈迦さん、どーしましったかー?

あっ、キリストはんですかいな。(笑)ぼちぼち、あんたに来てもらわにゃいかんと思うてましたんです。いや実は、えー・・・。

     はいはいはいはい、なんですか。あなたのおっ友だちが下に落っちましたか、そりゃこんまりましたね。いやー、よっろしい。わったしがオリブ山から昇天した時に使いました縄梯子(なわばしご)ございますから、それで下りましょ。

そうですか。ありゃー、すぐに持ってきておくんなはれ。

(枝雀:オリブ山からキリストが昇天をいたしました縄梯子がございます。持ってまいりまして、ふたりがまぁボチボチボチボチ下りかけたんでございますが、なにしろもう何千年も前の縄梯子でございますからな、もう腐りがきていたんでございますね。中途まで下りますというと、ブチーッと切れまして、キリストはんとお釈迦さんが下へガラガラガラガラーッ・・・)(笑)

           (赤鬼殿)これ、しっかりせんかい。何をしてんのじゃい、キリストはんにお釈迦さん。ほーらまぁ、あんたらしゅうもない。

おっ、これはこれは、あっ赤鬼殿。いやー、助けてもらって、えらいすまん。血の池、うはー、すまなんだな。また一杯やろう。えー、すまなんだ、すまなんだ。キリストはん、キリストはん、あんた起きなはれ。

     こっこどっこですか?

どこですかって、血の池落ちましたよって、いつまで「どっこですか」って言うてなんで(笑)、早う起きなはれ、あんた。なんとか、帰っ、帰らにゃいけまへん。

     どうして帰りますか?

えーい、よろしいっ。あーっ、私のちょうど、でぇーでぇー、釣り、釣りをしてました蜘蛛の糸おわす。これで行きまひょ。

     そうですかー、私も一緒に行っきますよ。

あー、来なはれ、来なはれ。

(枝雀:お釈迦さんとキリストはんがドンドンドンドン、この蜘蛛の糸をつたって上(のぼ)っておりましたんでございますが・・・)

キリストはん、あかんあかんあかん。いやー、さっき落ちた私の友だちが上(あが)ってくる、上ってくる。留やん上ってくる、留やん。あのね、私とあんたはよろしい、罪がないさかい。そやけど、留やんがあのーっぶら下ったら、あの人の罪でこいつブチッと切れまっさかい、そりゃちょっと。そいつ上らさんようにしないと、上らさんように。あんただけ上んのや、あんただけ。私とあんただけが助かりまんねん。そいで、留やん下にバンと下(おろ)しな、落しな落しな。(笑)留やんは蹴落せっちゅうのに!(大笑)

(枝雀:お釈迦さんがえらいこと言うてしまいました、えーっ。このー、あなたと私と別にするという、これが仏道では一番いけないことでございますから、お釈迦さんであれだれであれ法の前には平等でございますから、「我々だけが助かろう。留やん蹴落せ!」と言うた途端にーっ、蜘蛛の糸がブチーッ! また3人共、下へドーンと落ちましたんに)

           しっかりしなはれ、これっ。

あっ、あー赤鬼はん。あーキリストはんも。また元に戻ってしもうたがな。なんじゃい、これー。極楽へ帰ることがでけんのか。はぁーあー、神も仏もないものか。(笑)

 

(枝雀)茶漬えんまの一席でした。(拍手)(→ (4)に続く)

 

 

 

©綿菅 道一、2017

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「茶漬えんま」の悲哀(2)

2017年06月17日 | 信仰

 

「『茶漬えんま』の悲哀」(2

 

 

創作落語「茶漬えんま」

作:小佐田 定雄、噺:桂 枝雀

 

(枝雀)一生懸命のおしゃべりでございまして、よろしくお付合いを願うのでございます。

「茶漬えんま」というお噺でございます。えんま(閻魔)さんが出てまいりますが、決してそんなに恐いようなえんまさんじゃございません。我々のイメージ、まぁみなさん方えんまに対してどのようなイメージか、イメージ調査したことないので分りませんけども、まず第一に恐い顔して・・・というような、あのーコワ〜というような、あんなんじゃないかと思うんですけども、今の若いお子たちはもうそのこともあんまり知らないんじゃないか。「えんまさんなんているの?」なんていうお子もあるかも分りません。我々の頭の中にはやっぱり、えんまさんいったら恐い人やというようなイメージがございますけれども、あのーこのお噺は新作でございまして、新しくこしらえたもんです。昔からあったもんじゃございません。

えーっ、いつも申しますとおり、まぁえんまという今も言いましたように恐いお人と、そういう緊張材料と、えー茶漬、お茶漬というようないわゆる緩和材料と、えんまさんのようなこんな恐い顔した人がお茶漬を食べていれば面白いだろうなというような発想から生まれた落語でございまして、面白いか面白くないかはもう分りません。で、とにかくですから、今言いましたように、えんまさんという恐いお人が茶漬を食べているというようなことをおかしいと思わない人にはおかしくない噺でございます。(笑)ですから、そこんとこだけは必ず、あの笑っていただきたいのでございます。(笑)ほかは別に無理は申しませんけども、初めの「わしがえんまじゃ。茶漬を食べてんのじゃ」というとこだけは、もうどんなことがあっても笑っていただきたいんですね。(笑)そうでないと前進みませんので、ひとつそのご協力だけ、まぁこの落語の場合はいつもみなさん方にお願いをするわけでございます。今日もひとつ、そのとおりでございまして、よろしくお願いをいたします。(笑)

(松本留五郎)あのーっ。

     (えんま)そうじゃー!

(枝雀:あのー、まぁぼちぼちやりますので(笑)、みなさん方の方も一つ、あの心の準備をしていただきたいのですが・・・)(笑)

(留五郎)あのー、あなたがえんまさんですか?

     (えんま)そうじゃー、わしがえんまじゃ。えー、茶漬を食べているのじゃ。(大笑、拍手)

     あーなにかぃ、えんまが茶漬食べたらおかしいか?

いやー、おかしいことはないんですが。そりゃ、えんまさんかて、そりゃお茶漬食べてもうても結構でございますけども、なぜにお茶漬をお食べでございます?

     ちっ、「なぜにお茶漬をお食べでございます?」はおかしいけども、まぁなんじゃね。ちょっと、今日まぁなんじゃね、ムカムカしてんのでね、あっさりしたものが食いとうてね。

ほう、なぜにムカムカ?

     んにゃー、どうもいかんわい。

なんで?

     なんでったかって、ゆんべちょっと、なんじゃ、キリストんとこで寄合いがあったんじゃいね。(笑)それでおまえ、向こうで・・・。

キリストんとこで寄合いが?

     そうや、町内会の寄合いやけえ。大体、当番がずっと回っていくのやけどね、昨日はキリやんとこで・・・。

キリやん!(笑)

     キリやんとこで、なんじゃいあってな。で、町内会やがな。えっ、どぶの掃除はどこがするっちゃなことで、大体順番でなんやであのゴミの日はどこに置いてはいかんとか、みなまぁ町内会あるわいな。うるさいわ、ワアワア言うて。どこのおばあさんお亡くなりになったけど香典なんぼにしようとか、もうみなごちゃごちゃとな、みな寄って。

ほう、町内会で。

     そうよ。

ほかにどのような人が?

     さあ、どのような人がって、キリやんとこ寄ったんやけど、まぁほかにっていうとしゃかやんな。(笑)

はぁー、お釈迦(しゃか)さん!

     そうや。それでまぁ、マ、マ、あのなんじゃがな、マホやん。

マホやんとは?

     マホメッド、マホメッド。(笑)それから、こうしやんにもうしやんにろうしやん。

だれです?

     こうしやんに、もうしやんに、ろうしやん。

だれでんねん?

     孔子に、孟子に、老子やないか。それに「やん」をつけてるんのやがな、おまえ大阪の人間やから。

あれっ、大阪の人間やからって、ここ大阪ですか?(笑)

     いや、別に大阪じゃないけどもや、大体元々わしは大体、関西圏の人間じゃい、こう見えてもな。

     そいであのなんじゃ、寄合いやってんけども、さぁいつも寄合いの済んだ後、宴会や。

宴会?

     宴会ってのもおかしいけど、まぁあり合せのものでみなワァッてなこと言うねんけど、昨日もさぁキリストが、あいつはなんじゃい、あいつ酒癖悪いねん。(笑)おまえ知ってるか知らんか知らんけど。

キリストは酒癖悪うおますか?

     悪いわ、あんな酒癖の悪いやつないべぇ。まぁ、そりゃそうや、しゃあないわい。常日頃、自分を抑えてね、暮しとるやろ。ああいうやつはそうやで。ようあんなこと言いよったね、「左のほぺたどつかれたら、右のほぺた出せ」って(笑)、そんなそんなアホなことできるかい、ええっ。人情としてやで、人情って、まぁあいつは神さんやから神情(かみじょう)やろうけど、ええっ。(笑)

神情?

     神情やろうけども、情としてや。右どつかれたら、どつき返そうと思うのが情やろ。それを、右どつかれたら左出せっちゃな、あんなふうにしてえーっ、グーッと己れを抑えて暮しているもんやさかいやで、酒飲んだらそりゃ暴れるがな、随分。(笑)酒癖悪いがな。じきに、このー、あばらの傷見せて「どうだどうだ、どうだ!」ってな。(大笑)ねーっ。向う傷のおやじさんやないねんからね、あばら傷のおやじさんちゃ、そんなんカッコつかんねん。それにもう、ワァー言うて、こっちが嫌がってんのもえーっ分らんでやで、酒飲んでるもんやから「肉食え、肉食え」って、向うのしょうもない並の下の肉ぎょうさん食わされてやで(笑)、ムカムカしてんのや。そいでワイン。ちゅうか、なんかけったいなワインや。なんや、赤いの青いの分らへんなワイン飲まされてやで、こりゃいかんわいと思うて、帰りに「釈迦やん、一緒に帰ろうか」言うて、釈迦やんまぁ誘うてやで、「おまえとこ寄って、ちょっと精進料理を」てな。けど、知ってんか知らんか知らんけど、釈迦やんちゅうやつはね、あれは大体、インドのやっちゃやけんね。で、向うはカレーやがな!(笑)そやから、またあの脂身(あぶらみ)の多い、肉ぎょうさん放り込んだカレー食わされて、さぁちょっともさぁ、サッパリせんがー。でまぁ、とうとう悪酔いや。まぁ、今朝こうして茶漬食ってるってなこっちゃ。(笑)

     <ジュルジュルジュルー、サラサラサラー・・・>

     あぁーっ、まぁなんじゃい、あっさりしたもの食ったら、スッとするわい。

はぁー、さようか。いや、大体分りましたです。

     えーっ、それじゃーわしー。あっ、ごっつぁん、ごっつぁん。

あのー、お出かけですか?

     んじゃ、仕事に出んならんが。えんまかて、遊んでるわけにいけへんが、えっ。今日は日曜あらへんで、ちょっと出ないかん。

どこへ?

     閻魔の庁へで、やっぱり、仕事に出んならん。

あっ、お仕事に。

     そうえ、ちょっと着替えてくるよって。おまん、どうする?

えっ、あのっいやっ、一緒に連れてってもらえます?

     そうか、よっしゃ。ちょっと待っててや、えっ。支度(したく)するよってな。

     あぁ、お待っとうさん。ほな、行こうか。

     ほな、行ってくるよってんな。

           (えんまの奥さん)あのー、早うお帰り。

           あのー、すんませんけどちょっと、今日生ごみの日ですねんけど、ごみ出しといてもらえます?(笑)

     また今度にしよう。えーっ、おまえ出しといてくれ。今日は連れがあるよってんな。そんな、えんまが生ごみ持ってうろうろするじゃなんて・・・(笑)、客人に見せられへんがな。さっさっ、そんなら行こか。

へっ、あの、お供いたします。




へぇー、そうですか。いやしかし、私ねちょっとね、ええお天気ですね。

     そう、ええお天気や。急にお天気のこと言出すな、ええっ。ええお天気じゃ。

ええお天気ですね。

     そうや、そうや、えーっ。

で、なんですね。私はだいぶにこのなんですね、イメージが違いますね、えんまさんの。

     なんで?

なんでったかて、んな、まぁあんた、かわいい顔して。これをーという冠着けて、こんな所から、耳からなんや棒出して、あんた、恐い顔、こんな恐〜い顔してるんのかと思ったら、なかなかええ男ですね。

     ええ男じゃないがな。ありゃ、嘘、嘘! ありゃー、なんじゃい、演出上で。えー、ありゃ、お芝居で。まぁ、だれぞに言う時に、いやー、釈迦の坊主が好(い)い加減なこと言いよって、あんな、あんなやて。いやいや、みんなこういう、ちゃんとシュンとしたんじゃい。

シュンとしたんで・・・。結構ですね。

     結構や。

へぇー、でやっぱり、閻魔の庁へはお仕事に。

     そうえ。

お裁きに。

     お裁きにっちゅうけど、まぁまぁ、まちょっとね、「おまえは地獄、おまえ極楽」っちゅなことも、ちょと仕事はせんならんわ。

へぇー、えれえもんでんね。やっぱりこう、紙の橋やとか善悪の首やとか、見る目・嗅(か)ぐ鼻・・・。

     おまえ、いつ頃の人間や、おまえ。(笑)そんなもん、善悪の首や見る目・嗅ぐ鼻、それはずーと大昔の話や。今はなんじゃで、あのーなんじゃい、冥途(めいど)ミュージアムに行かにゃ、そういうものありゃあせんわい。今はもっと事務的なもんじゃい。

あっ、そうですか。

     そりゃ、そうや。そんなもん、昔みたいにお上のご意向でギューと「おまえ地獄、おまえ極楽」っちゅなこと、そんなん言うたら、この頃、亡者(もうじゃ)の頭進んでるやないか。「上告じゃ、再審じゃ」ちゅなことで、いやーもう、何十年もまだごちゃごちゃしてるのぎょうさんあるのやで、あんなことしてられへんで、ほんまにもう。そやから、この頃は私も試験受けに行ってるけどね、もうなんじゃい・・・。ちょっと落ちたわい、もう。

ほぉー、ほー落ちましたか。

     難しいのや、あの試験はね。で、もうしゃーない。みなもう、あのーなんじゃい、みなにまぁー、なんちゅうのやね、このブレインに任してまぁ、私は「ほー、ほー」ちゅなこと言って、はんこをポンと押しとけば、まぁいいようなことになってるわい。

へぇー、えらいもんでんな。ほんな、えんまさんのお裁きがない?

     ならんね。この頃はみな、自己申告や。(笑)自己でみな申告するんや。

あっ、そうですか。

     そうや。ちょうど、娑婆(しゃば)で税金納めるようなもんやい。自分のをザーッと書いて、「こんだけええことしました。こんだけ悪いことしました。何点、何点・・・」って、ちゃんと数字表があって何点、点数表があって何点何点、プラス・マイナス何点、えーっ必要罪状何点ていうて、必要経費引いてやで、そいでなんぼか残ったら、何点以上は極楽・何点以下は地獄って、自分でなにすんねん。こっちはもう、よほど怪しいなというもんだけ「おい、こっち来い」てなこと言うて、まぁなんじゃで、コチャコチャとまたわしがやるだけのこっちゃ。

えーっ、えらいもんですね。そんなことしたらあんた、みな「私も極楽、私も・・・」って。

     いやー、それが面白いで。人間ちゅのはどこかに良心あんねんね。どうしてもこりゃー極楽無理やなと思うたら、「地獄行き」とやっぱり書きよるんよ。(笑)うまいもん残るんねん、そういうもんはね。良心ちゅうのはあるもんやで。

     だいいちおまん、あんた、極楽・極楽言うけど、極楽ももひとつええとこやないで。

そんなことは間違いない。みんな極楽に・・・。

     いやー、いやっ思うほどええとこやない。

なんで?

     なんでったら、静か、静か。

静か?

     静か。

静か、結構やん。

     あっ、あのね、アホやでこの人は、アホやで。(笑)静かは結構です? 静かは静かで結構やけど、静かすぎるわい! 静か、シーン!(笑)えーっ、物音せんでー、そんなもん。年に何度かね、ハスの花が「ポッ」。(笑)「ポッ」。それがあり体(てい)に聞えてくるぐらいの静けさやぞ。車は通らん、喧嘩(けんか)はない、もめ事はない、物言わん、何もないのや。「ポッ」、これだけやぞ。(笑)こんなとこに住んでいられるか! まぁ、二、三日は「静かでよいのう」ちゃな言うて奴でも、「うーん、何か音くれ、何か音くれ!」言うて、で自分の方から「地獄へやっとくなはれ」ってみな願書出して、みな地獄へ行くくらいのもんじゃい。(笑)

そうですか?

     そうですかって、そりゃ縁のない者には、極楽はそなええとこやないよー。じゃで、向うにいてる人こそはほんまの聖人君子じゃい。もう何万年も何十億年も黙ってポヤーと(笑)座ってられるっちゅうのはよほどの聖人君子じゃい。

あぁそうですか。けど、やっぱりなんやかんや言われても、極楽へ行きたいですね。私、行けますか?

     そりゃ、行けるか行けんか分らんが、自分でこうなに申告してみないかんけど、よう書くか?

私、ちょっと書けんのですけど・・・。

     ん? んな、あのーぼくのーなんじゃ、部下になにさしてやろ。




(枝雀:えーっ、ふたりがゴチャゴチャ言いながらやってまいりますというと、閻魔の庁でございます)

     (えんま)おはようさん。

           (えんまの部下)あーっ、こりゃこりゃ庁長さん、おはようさんでございます。

(留五郎)あんた、庁長さんですか?

     そうや、閻魔の庁の長やで庁長さんえ、えーっ。よーあの、なんじゃで、あの町の町長さんと間違えられるけど、こっちは閻魔の庁の長やさかいね、よほど庁長やど。

はぁ、よほど庁長ですか。

     あのー、すまんけどーきみ、あのこの男、この人ね、私のちょっとした知合いで、なんで知合いになったんかよう分らんのけど(笑)、知合いになっとんで、この人地獄行くか極楽行くか、ちょっとその書いてやってもらいたいと・・・。

           あぁそうですか、分りました。へぇへぇ、へぇへぇ、えーっ承知しました。お務めご苦労さんでございます。

           さー、あんたですか、どうぞこっちへ、どうぞこっちへ。えーっ、あんたはご自分で大体は書かにゃいかんのですけど、まぁなんですね、えんまさんの、はぁーえんまの、うちの庁長のお友だちらしいですから、私書いてあげますけども。えーっ、ほんまは向う行って、みなああして並んでますねん。朝早うからズラーと並んで、みな係員が一人ずつ応対して、あれーまぁなにしますねんけどね。あんただけは特別に、私がなにしてあげます、へぇ。

           へぇー、お名前なんちゅうんです?

えーっ、松本留五郎(とめごろう)です。

           あーなるほど、松本留五郎。どっかで聞いたことのある名前やな、ん?(笑)〔枝雀おはこの演目「代書屋」に登場するボケの主人公が松本留五郎で、その留五郎が突然ここで出てきたので、客の大笑いを誘った〕いやいや、同姓同名はよくあるこっちゃ。待ってくれよ。松本留五郎・・・、ちょっと待ってや。えーっ、<ウーン、んわんわんわーん・・・> えーっ、いやー、いまだにな、墨っちゅうなものを使うてんのやけど、この方が味わいがあってええわい、えーっ。そりゃ、今は万年筆やらマジックインキやらあるけど、やっぱりこれやないといかん。味が出んわい。

           えーん、うん、まずあのー、本籍はどこ、本籍は?

えー、大阪の日本橋(にっぽんばし)です。

           ああ、なるほどね。えー、大阪市えー、南区〔現在は、東区と合併して中央区に〕日本橋。

三丁目。

           あぁ、三丁目。

二十六番地。

           えー、二十六番地。風呂屋の向いか?

そうです。

           ああ、なるほどな。(笑)〔「代書屋」の留五郎がそう〕風呂屋の向い、と。

           現住所は? えっ、いっぺんも変ったことない、ここ? あぁそうや、やっぱりそうやね。〔同上〕右に同じ、と。名前が松本留五郎、と。へぃ、分りました。

           えーっ、松本さん、松本さん。いえこっちにね、ちゃんとあの、なんですね。えっえー、<ガラガラガラガラガラー>閻魔帳というのがありますからな。エーッとショの、ヨイショッと。どうです、えーっ。もうなんですね、数限りなくありますからな。もう大勢の亡者やからね。もう何年もにわたって・・・イェーンとシェッと、開けてみなはれ。「あ」から順番にね。えー、「あかい」「あかー、あかし」「あかがわ」、えー「あかたに」「あかむら」・・・。ねぇ、こりゃ色々よう見てみなはれ、えーっ。あかー、あのーうーん、あのなんじゃね、「あきた」「あっあっ、あきがわ」「あきやま」、あんね色々あるでしょ。「いのうえ」「いのした」「いのな、いのなか」、えっ(笑)、えっ「いのなかかわず」? 面白い名前やね。(笑)え、「いのうえ」「うやま」「う、う、あのー、う、う、うざき」、えっーえっ、色々あるわね。えーっ、色々あるけど、なかなか出てこんもんやね、名前はね、うん。えー「おがわ」「お、おのでら」「お、お、おさだ」、えーえーっ。あんた、何? だれ? 「ま、松本さん」?「松本さん」? えっ、えぇーっ、「あ〜き」。あーっ、ちゃーてた!(大笑)

           ヨーコラショッと。(笑)早いこと言いなはれ、早いこと、あんた、えーっ。「あ〜き」に「まーつもと」が載ってますかいな、あんた。ヨイショッと。えー、「まーまー、まー、まー」、あったったった。「まえだ」「まえやま」「まえかわ」「まえたに」「まえがしら」。(笑)えっ、「まえがしら」? いや「じゅうさんまいめ」とか・・・?(笑)えーぅん、あー「まつもと」ありました、はいはい。ヨイトショノショッと。えー「まつもととめごろう」、はぁーはー。あー「まつもととめごろう」が色々、やっぱり同姓同名ありますからな。どの分です、えーっ、どの分? その五? 五かな、六かな? えー、あー、あの南区の、あーありました、ありました。はいはい、なるほどね、へーへーへー。えー、ほーなるほど、色んなことしていますな、なるほどね。えー、あーなるほど。あー、あー、なるほど。えーっ、ああたなんですか、大工さんで?

へー、あのー、内弟子で見習いに。

           偉いですな。へぇー、で、親方のとこの子供の、赤子の守(も)りをしていて、あー、子供に与えたチチボーロを横手から取って食べた!(笑)あー、これよくあります、こういうのね。(笑)これ、だいぶ点数引かれますよ、これ引かれます。えー、それから、色んなことしてますね。えー、橋の欄干(らんかん)を、酒を飲んだら渡る、渡るとね。なるほど。これは普通、点数引かれませんけどね。えー、ここでおしっこをしてはいけないという所で3遍(べん)した、と書いてありますな。(笑)これね、してはいけないと書いてあるいうことはね、ようする人があるということを白状しているようなもんやからね、あれ書かん方がいいと思うのやけどね。でも、これも引かれますよ。うーん、色んなことしてますな。えーっ、銭湯へ、はーはー、あの男湯入るのにわざと大きい額のお金を出して、お釣りを待っているような顔をして、女湯をチラチラと覗(のぞ)く。(笑)これ、かなり引かれますよ。(大笑)このー、気の小さいとこがね、引かれます。もっと堂々とやらにゃいけませんよね。あー色んなことを、えー、もっとまぁ色々ありますけど、まあそんなことばかり言うてられませんのでな、みんな引写して、はい!

地獄、極楽、どちらです?

           さぁさぁ、今からね、ちょっとなにしてみましょうか、えっ。今、電卓というような便利なもんありますけど、私らやっぱり、こういうものがね、味があってよろしい。うーぅふん、これが・・・<チッチッチッチッチッチ、チャッチャッチャッチャッチャ、チッチッチ>ね。そろばん3級です。(笑)<チッチッチッチッチッチ、チャッチャッチャッチャッチャ、チッチッチッチ>えーっこれが引かれて、必要罪状まぁ、どいだけ認めるかですけどなー。なんなら、青色申告・・・。(笑)

いえいえ、そんなんいいです。

           <チッチッチッチッ、チャッチャッチャッチャ>うん、まあまあ、これなら極楽行けんことないでしょ。いやー、あのー地獄の方がいいなら地獄へも行ける、ちょうどいいところです、どちらでも取れるような。(笑)極楽へ一遍(いっぺん)行ってみますか。そうですか、そいじゃぁ、そういうことにしましょう、えっ。<ポンッ>はいっ、じゃぁこれを持って。あのー2番のなにから、窓口にこれを提出して、そいで指示に従うて、あのドアからあちらへ入んなさい。極楽行きと書いてあるドアがあるでしょ。

それでは、そういたします。えんまさんによろしく。(→ (3)に続く)

 

 

 

©綿菅 道一、2017

*無断の盗用、借用、転載、コピー等を禁じます。

 

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「茶漬えんま」の悲哀(1)

2017年06月17日 | 信仰

 

「『茶漬えんま』の悲哀」(1

 


 桂 枝雀(かつら・しじゃく)という噺家(はなしか)をご存知だろうか。「東の(古今亭)志ん朝、西の(桂)枝雀」と並び称され、「上方(落語)の爆笑王」とも「浪速の爆笑王」「昭和の爆笑王」とも呼ばれた落語家である。正確には2代目枝雀のことだが、1939年に生れ、1999年に亡くなっている。今回は、その枝雀の一席をご紹介したい。枝雀のおはこ(十八番)は数々あるが(例えば「代書屋」などは、落語にあまり縁のないお方でも耳にしたことがあるのでは? ちなみに、読みは正しくは「でぇーしょや」と発音するのがこの道の通)、ご紹介するのは「茶漬えんま」という演目である。「枝雀寄席」での一席だが、型破りの枝雀にしても珍しく、古典物でなく新作の創作落語となっている。

 



 お噺は時間にして30分近くになる、そこそこのものである。したがって、文字に起すと結構な長さになる。今書付けているこのブログのようなツールには、少しばかり長すぎの感がしなくもない。ただ、それでも今回それをしようとしているのには、それなりの訳がある。それは、この演目には噺家・枝雀の人間模様が織込まれており、師匠の生の闘いと苦悩、求道が滲(にじみ)出ているからである。それは結局、悲哀の結末に至ったように思われる。なぜなら、枝雀師匠はそうこうして、遂には自(みずか)らその命を絶たれたからである。1999313日、自宅で首を吊(つ)り、搬送先の病院で翌月19日に亡くなられた。59歳の若さだった。けれども、ぼくはそこに、人生を真剣に生きようとした一人の人間の姿を見る思いにさせられている。そして、それは決して宗教的な問いとも無関係でない、信仰という事柄と無縁のものではないと考えている。事実、枝雀師匠の「茶漬えんま」では、仏教、キリスト教、イスラム教・・・といった諸宗教の有名キャラたちが主役を張ってやり取りする。それは言わずもがなに、宗教的なものになにがしかの救いを求めた師匠の苦悶を暗示していると言えよう。

 

 「茶漬えんま」は初め、桂枝雀自身の手で書下された。その後、落語作家の小佐田定雄(おさだ・さだお)氏に枝雀が改作を依頼し、最終的な演目にまとめられたものである。この経緯からしても、そこに枝雀自身の思索と思い入れが込められているのは疑いえない。実際、師匠は晩年、宗教的な(特に仏教関連の)書物を読込んでいたと言われる。たしかに、「茶漬えんま」一つを見ても、(キリスト教をも含めた)その知識の豊富さに気づかされる。桂枝雀という人間の、人生を生きた苦闘と求道の足跡なのだろう。

 

 師匠がいわゆる「鬱(うつ)」を患っていたというのはよく知られたところである。そのため、人並以上にプレッシャーを感じ、演じること、生きることに追詰められたのかもしれない。しかし、そうであってもなお、師匠はその作品を通し、またその高座や生き様を通して、多くの問いと課題を遺してくれた。「茶漬えんま」にはとりわけ、そうした色彩が色濃く出ているように思う。たしかに、そこにはキリスト教についての理解不足や揶揄(やゆ)と言えなくもないやり取りが散見される。けれども、ぼくはそんなところで了見の狭い人間にはなりたくない。ぼくらはむしろ、そこからいくつ問いかけを見つけられるか。いくつ課題を感じ取り、その答えをいくつ探り出すことができるか。そのことを大切にしたいと思う。その多少はきっと、人生という「生きる道すがら」に対するぼくらの感性の濃淡を証しているにちがいないからである。なぜにか?「茶漬えんま」には、真面目(まじめ)で本質的な葛藤が山程溢(あふ)れているから。人生について、幸せについて、人間について、宗教について、信仰について、偽善について、死後について、神について・・・。間違っても、おちゃらけだけのお笑いネタと侮ってはいけない。

 



 何はともあれ、さぁー一席、お付合い願いましょう。抱腹絶倒(ほうふくぜっとう)間違いなし! 何しろ大笑いなんで。真面目なお話は、またその後で・・・。(→ (2)に続く)

 

 

 

©綿菅 道一、2017

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