「呻吟祈求」

信仰と教会をめぐる求道的エッセイ


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なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ(2)-なり手がいない:歯止めのかからぬ牧師志願者減-

2023年06月29日 | 牧師

 

 

「なんか おかしくない?:今日的キリスト教のこんなとこ」(2

なり手がいない:歯止めのかからぬ牧師志願者減

 

 これもまた、進みゆく地球温暖化のしるしだろうか。早まる桜の開花とともに、春が速足で到着。そして、春本番を迎えたと思いきやすでに初夏の兆しさえ感じさせた、4月も半ば過ぎのことだった。知人の縁で、一人の牧師の葬儀に参列する機会を得た。亡くなられた故人とは個人的に交流があったわけではないが、知人経由で多少、話には聞いていた。そんなこともあって、その知人の誘いで式に出させてもらったのだが、ぼくはそこで、本当に久方ぶりにと言っていいだろう、心に響くものを感じさせられた。それは失礼ながら?、思想的・神学的に、というわけではない。実際、それらの点では、故人とぼくとはむしろ、理解や立場に大きな隔たりがあると思われる。自分で言うのもなんだが、ぼくは自分を穏健で妥当なリベラルと考えているがそれがあんたの自己認識の誤りさ、と言われたら返す言葉もないが、その種の言い方で言うなら、故人はまず間違いなく保守の人だったと、しかも筋金入りの保守だったと言っても過言はなかろう。だから、ぼくの心を揺すったのは、いわゆる思想的なそれらではない。そうではなく、それは、故人そのものに染み込んで溶け込んでいたことを思わせる、そんな事柄の真実さだった。そこにぼくは、遠ざかって久しい、人となりに対する敬意というものを改めて憶えさせられたのである。懐かしくも、いま一度新鮮に。

 告別説教でも弔辞でも異口同音に繰り返された想い出があった。それは、故人が文字どおり、一途な信仰者だったとの感慨である。どうもそれは単純なほどにそうであったらしく、牧師としての日常においても、故人はそれをそのままに生き抜いたみたいだ。イエスの隣人愛に通じると思えば、即、助けの手を伸べる。そのようにして、誰にでも時間を割き、どこにでも出かけたという。懇願されれば、保証人の書類にも署名。しかも、それで被害を被っても、見ると、またこれを引き受けている。事は(本務の?)伝道においても変わらなかったようで本務であれば当然と言えようか?、家庭集会をしてほしいと言われれば、それに応える。教会で結婚式を挙げたいと訪ねる者があれば、それが飛び込みの未信者であっても、福音に触れるチャンスになると言って、これに応じたとか。そんな逸話が次々と語られたのだが、それらを、当然あった周囲の批判や雑音をものともせずにし続けたというのである。それだけではない。その一方で同時に、なんと齢6070を越えても、通信制の大学に入学したり、神学校の通信教育で学びを続けたりと、自身の不足を少しでも補おうとされたそうな。あれやこれやのそんな生活を一体、どんなにしてやり繰りしえたのか。結構忙しい生活をしてきたこのぼくにしても、容易には想像しがたい。だが、葬儀での話から一貫して感じ取れたのは、それもこれも故人が信じるイエスのためであり、そこで教えられた隣人愛のためだった、との変わらぬ印象である。換言すれば、自らの信仰に文字どおり素直に単純に生きた、ということになろうか。24時間365日のすべてをつぎ込んで、信じるところに献身されたということなのだろう。

 もちろん、申し訳ないが、そして失礼ながら事柄としては、ぼくがそうした生活の仕方を勧めることはないし、そうした信仰理解の在り方にも、ぼくは多くの点で異を憶えている。ただし、故人の生き様に触れた者たちに敬意を抱かせるものがそこには確かにあった、ということ。参列者を一様に感動させるものがそこには疑いもなくあった、ということ。それは間違いのない事実であり、その意味で、故人は個別の賛否や議論を超えたところで一つのモデルを生きた、と言えるように思う。しかも、失われて久しいモデルを、である。それは馴染みのある言葉で言うなら真っすぐな一途さであり、誠実さであり、正直さ、真実さと言えるだろう。故人はそれを、自らの信仰においても、教会の牧会においても、そして何より、自身の人間性において生きられたのだった。作為がなく、思わくがなく、計算がない。企みがなく、狡猾さがないという、今や世間で探すに容易でないそんな生き様である。それは実際、思想的な右・左を超えて、その場に居合わせた人々の心に言い知れぬ感銘を響かせた。

 今回は、日本のキリスト教界に広がる、牧師志願者の減少問題を取り上げたいと思う。ほぼどの教派においてもその減少に歯止めがかからず、しかも、信仰や教会そのものの問題にも通じる本質的で根深い問いがそこに横たわっているようにみえるからである。その問いというのは、ぼくらの見るところ、軽々な扱いでは片づかない、かなり深刻なものに思われる。このため、今回の文章は、その表現が結構辛辣なものになってしまうかもしれないあんたのは毎回そうだよ、との声がどこからか聞こえてくるような気もするが。信仰未満の未信者たちがあれこれ生意気にものを言い、もう少しこうだったら教会にもっと足が向くのに、と勝手な注文を並べ立てる。その失礼は重々承知しているつもりだがと言って、毎回同じご寛恕を願って申し訳ない、ぼくら同人仲間はそれくらい、聖書の信仰というものに拘りを持っていて、その引力のゆえに逆に、現下のキリスト教の実情を深刻に感じているということなのだ。そのことを是非、ご理解いただければと思う。そして、現状に対する危惧を、ぼくらと同じ深刻さで、同じ質で受け止めていただければ、と期待している。問題の所在を同じ鋭さと同じ深さで見据えうるか。身の程もわきまえぬ未信者らの提言ではあるが、事の行く末はそこに懸かっているようにも思われる。もしも、これを失したら・・・。ひょっとしたら、牧師と呼ばれる人の数だけは増えるかもしれない、何かの間違いで「あれくらいなら、自分だって」とか、「あんなんなら、自分のほうが」とか思って。だが、それで、どんな類いの牧会がなされるのか。それで、どんな内実の教会が形づくられるのか。地盤沈下の参入者が増えるばかりで、問題の根を一層深刻なものにするだけではなかろうか。きっと、悪循環に陥り、土壺をもっと深くすることだろう。的確な自己吟味をしないかぎり、教会はそうして結局、数合わせだけの寄り合いになってゆくように思われてならない。お茶飲みと慰め合いの寄り合いに。それよりはいくらかましにしても、せいぜい、一般社会のそれに及ぶべくもない、自己満足の社会運動サークルあたりに。

 ということで、牧師志願者減の傾向と対策とでも言おうか。求道の未信者(ら)から見たそれを、恒例(?)になってしまったかもしれぬが今回も、灰汁(あく)の強いぼくらの不良同人の言から始めさせていただきたい。繰り返しになるが、言葉づかいや言い方が少々あからさまで品に欠けるのは承知している。だが、そんな彼だからこそ、問題の所在を、歯に衣着せずにグサリと突いてくれる。事の本質を見抜くその鋭敏さには、ぼくらも感服させられること、しばしばである。というわけで、耳障りなもの言いについては恐縮ながら、寛大な心でご理解いただくとしてその彼の言である。「牧師のなり手はなんで減る一方なんだろうね」との、皆へのぼくの問いかけに対し、彼が即、答えて曰く、「そりゃ、当然よ。あんなの見せられたら、誰がなりたいと思うかね。もちろん、全部が全部とは言わんよ。けどさ、そもそも言葉の基礎力がどれだけあんのか、好い加減な聖書の読解が目につくし。それにさ、話の端々にそれとなく、自己顕示や言い訳や保身のニュアンスを入れ込んで・・・。コピペでパクリなんてのも増えてるよね。まぁ、気づかないのが多いんだろうけど、俺らぐらいになれば、そんなのすぐにも分かんのに。もっと言えば、何かと聞こえてくるのは教会内部の駆け引きだったり、経営的な術策だったりで・・・。牧師の本務と言っていいのかどうか、そのへんはよくは分かんないけど、倫理的な実存というそういうのは一体どうなってるのか、ということだよね。それなのに、この世の真理だとか、真のいのちだとか言われたってさ。俺はもちろん、そんな教会には行ってないよ。けど、間違いなく多くなってるよね、そんなのが。だからさ、キリスト教会だけじゃないよ、お寺も神社も同じみたいだけど、後継者は今や、二世・三世がほとんどとか聞くだろ。牧師という存在に心を惹かれて、それになりたいと思って、外から入ってくる人間が本当に少なくなった、ということだよ。ひどいケースでは、世間ではまずリーダーなんかになれそうもないのが牧師になって、先生・先生と呼ばれて、それ然としているとか」。彼の「何とか節」がいつにも増して放熱したようで、ちょっと度を超えた部分があったかもしれない。その点については、彼に代わって、お許しを願うところである。ただ、彼の言いたかったそして、ぼくら同人仲間が一様に頷いたそのポイントについては是非とも、虚心にご理解いただければと願う。

 以下に、こうした発言を参考にしつつ、ぼくら・いつもの同人仲間が議論し合った内容について、ポイントを絞って列挙してみたい。それらは、知的・倫理的・精神的・信仰的・・・と、多くの面に関係している。それは必然と言えば言えようが、その一方でしかし、問題の本質的所在は意外と、限られたところに根があるようにも思われる。事の現象的実情と、それらの由って来たる根の在り処と、そして、向かうべきその方向性と・・・。未信者たちの目で見て論じた、牧師志願者減少の傾向と対策である。

1. 牧師志願者の実情については、細かな説明はもはや不要だろう。前述のとおり、ほぼどの教派においても、神学校への入学希望者減が続いている。大学の神学部がいわゆる牧師養成課程を閉鎖したり、入学受験者の募集を停止もしくは休止したり、そして誰もが入れる人文系のキリスト教コース等に一本化したりと、組織の維持に苦労する実態も顕在化して久しい。一方、そうした文科省行政下の機関と並行してより自由度の高い神学教育を行なっている所も見られるが、それらとて現状に大差はないようだ。入学者が二桁にでも達しようものなら数は各種コースの合算であることが少なくないが、それでも御(おん)の字で万々歳といったところか。入学者・受講者を増やすため、通信教育やオンライン授業等々と、実施の方法や形態の多様化も図られているなかには、教育と呼ぶにふさわしいのか、その性格や質を疑わせるようなものも見受けられるが・・・。とりわけ、時に見られる、ほとんどすべての受講が対面でなくなされて終わる在り方。それにはやはり、懸念を抱かざるをえない。単なる情報や知識の伝達ならまだしも、事は人間相手のそれであり、人と関わる教育である。さらに言えば、精神的な深みでそれをする牧師の育成教育である。であれば、なおのこと、そうであるにちがいないそれはそれとしてもそれでもなお、どの神学校も依然として、入学者確保の苦闘が続いているみたいだ。あちらもこちらも、そんな危機感からだろう。近年、その方面で販促的(販売促進的)手法がますます目につくようになっている。マーケティングの手法で広く網を投げ、牧師の志願者を隅々から獲得しようというのだ。

2. そんななか、例えば次のような現実が以前に増して見られるようになったのだが、皆さんはどう思われるだろうか。少し前、ぼくがある教会を訪ねたときのことである。案内の連絡を受け、特別礼拝と銘打った日曜の礼拝に出かけた。案内文によれば、企業の人事教育経験者が牧師に転身し、その教会に赴任。言ってみれば、その御披露目の礼拝説教ということらしかった。付加価値をアピールして集会に誘うという、世間でよく採られる手法である。ただ、世間のそれに比べて、明らかに結果が良くなかった。案内に惹かれて出席した人たちもそれなりにいたようだが、帰路、その中のある男性の呟きがぼくの耳に入ってきた。たまたま傍らを通り過ぎたぼくに聞こえてきたその言葉とは、「なんか、誇大広告だよな。その道の経験者って言うから来たけど、なんてことない経験談ばかりでさ。教育にしろキリスト教にしろ、話が薄っぺらで、中身がほとんどないもんな。もういいわ、こんなん」。一緒に来た奥さんに呟いたものだが、裏目の逆効果に終わったのは明白だった。呟いた男性のご夫婦は当面、教会に足を運ぶことがないだろう。人集めの手法を真似ても、それだけで肝心の内実が欠落しているところでは、こうしたことが起こり続けるということである。実際、教育だけでなく、福祉、経営、NPO・・・と、付加価値を売りにして人を呼ぼうとする手法は昨今の流行りのようでもある。それらが真実、実のあるものであらんことを、と願うばかりである。

 要は、こうしたことが牧師志願者の確保やその養成とも無縁でないということ、無縁どころかむしろ、それらとまさに深く関連しているということなのである。これを忘れると、上述の例と同じ運命にはまりかねないように思われる。その牧師に会ったがゆえに逆に、教会に行こうとは思わなくなった。その牧師に会いさえしなければまだ・・・、という裏目の運命に。

3. このような事実を示唆して的確な言葉を二・三、次にご紹介したい。鋭く厳しいながらも、しかし、実に的を射た言葉ではないだろうか。

 「近年、評伝を書きたいと思わせるような政治家がいなくなった。政治家の劣化ということです」。あるとき、今は亡きあの大江健三郎さんが言った言葉である。

 「次の世代の後継者を得たいと願うなら、憧れのスター選手を生み出すことでしょう。そして、その選手をみんなが見られるようにすることですかね」。こちらは、キング・カズこと、サッカーの三浦知良さんの言である。

 どちらもたしかに、キリスト教関係者の言葉ではない。だが、いずれも、ここまで論じてきた問題に通じるのみならず、その本質に迫って余りある、見事な指摘と言えるのではなかろうか。つまり、分野が何であれ、人を事に向かわせる中心には、その人を惹き付けるということがある。しかも、単なる物質的なつまらぬ魅力ではなく、それ以上のものがそこにはある、ということなのだ。

 そして、それが牧師というような、それこそ単なる物質的事柄以上の働きに携わる人間の問題であれば、必然のこととして、人を惹き付け、その心を揺するものがそこになければ、それは嘘になるのではないだろうか。「なんか、憧れちゃうな」「心に響いて、どこか惹き付けられる」「自分もあんな人になれたらなぁー」などと。冒頭でご紹介した(葬儀の)一牧師の生き様もそのようなもので、信者未満のこのぼくにさえ、何とも言いがたい感銘を遺した。

4.「自分もあんなになれたらな」「自分も牧師になりたいなぁ」と、人間性の深さも込みでそう感じさせ、そう思わせるなにがしかがそこにある。それを−言葉としては陳腐だが、本来的には豊かな含意がそこにはある−「モデル」と表現することもできようか。本当は、そんなモデルがいて初めて、そもそもの牧師志願者が生まれて現われるのだろうと思う。ところが、現実には、なのに・・・という実態が少しく多すぎるのである。

 地域的にも教派的にもあちこちの教会に散在して出席しているお蔭(?)と言おうか、ぼくら同人仲間が目にしたり、耳にしたり、あるいは尋ねたりして持ち寄ったところによれば・・・。「牧師の仕事は、一に辛抱、二に辛抱、三・四がなくて、五に辛抱」で、「牧師職は男子一生の仕事に非ず」とか、現役の牧師自らが言っているそうな。まるで、そんな牧師になんかなりなさんな、と言ってるようなものではないだろうか。説教は説教でぼくらは物書きで、言葉を扱うのが商売のため、それに気づき、それを見抜く目が多少あるせいか、コピペやパクリの増加が目立つし引用元や典拠を隠して使うのは盗作と言って、それは犯罪の一種ですよ! そんなことをしてる自分が情けなくないのだろうか。ぼくなんかは情けなくなって、惨めになって、そんなこととてもできないのだが、どうやら生成AIを使った究極の手抜き説教もすでに始まっているみたいで・・・。そんなこんなで、説教も劣化進行中のようにみえる。このほかにも、親しみある牧会で慕われる牧師が実は、教会内の力学や人心の操作に長けた裏管理の御仁(ごじん)だったり教会にもしばしば、牧師派・反牧師派といった派閥擬きが出現するのはよく知られたところだが、さらには、メールを駆使し、メールの主(ぬし)に無断で他に転送したりして、巧みな(?)管理術を用いる牧師もいるような。そんなのは牧会「術」とは言っても、本当の「牧会」とは言えまいが、あるいはまた、注意して聞いてみると、その話に時に理屈にならない理屈や誤魔化しが潜んでいたり・・・。それが嘘にまでなると論外だが、そのようにして、自らの保身や求心力の維持に努める姿も見受けられないわけではない。そうした小賢しい術策や画策は人為の謀(はかりごと)で、それこそ、神に頼るのではなく、自身を頼りにしていることになるまいか、とぼくらは思うのだが、どうなのだろう。よく言われるように、生ける神が見てるとしたら、その神の前ではたして、信仰者にそのようなことができるのだろうか。人為の巷(ちまた)にはない真実や清々しさがあるのではたとえ、その欠片であっても、と思うからこそ、ぼくらは聖書と教会に心を向けているのだ。その教会にも、もしそれらがないとしたら・・・?

 欧米では、かつて聖職者と呼ばれ、人々の尊敬を集めていたその司祭や牧師たちが今や、信頼と敬意の対象から遠くなりつつある。各種のハラスメント、守秘義務の軽視と漏洩(ろうえい)、教会政治の駆け引き、利権の画策、保身の裏工作、偽証云々となっては、それも当然と言えようか。精神性の輝きも、モデルとしての存在感も薄れゆくばかりである。そんな聖職者(?)を世に出すだけだとしたら、皮肉ながら、出さないほうがまだ、教会の存続に資するのではなかろうか。

 言葉や知性においても、生き様においても、そして何より、その人間性において世間に通用すること。そうでなければ、事は始まらないように思われる。人の心を揺するモデルとなりうるのも、そのようにして・そこから、ということではないだろうか。

5. ここまで来て、ぼくらが思うこと。それは話が一挙に飛び、いかにも唐突に感じられるやもしれぬが、事はどうも信仰の根本的事柄と無縁でないようだ、ということである。無縁どころか、そこに通じているようにも思われる。

 伝え聞くところでは、ある神学校の教授がクラスで蛇遣いの話をしたというちなみに、その教授はいわゆるリベラルな学者である。事は、その話を受けての学生とのやり取りである。教授が学生たちに尋ねた。毒蛇を扱うこの蛇遣いの話を聞いて、信仰ということについてどんなことを思うか、と。応答は様々で、迷信や盲信の危うさを言った者たちも。当然と言えば当然か。だが、その教授が最後に言ったのは、こんなひと言だったとか。「蛇遣いはその呪い(まじない)の術を心底、信じていた。だから、毒蛇の箱の中に恐れることなく、その手を入れた。はたして、我々の信仰の真実やいかに?」。その信仰が神学的にコンサバかリベラルか、ということが問題なのではない。ポイントは、信ずるというそのところに自身が本心、身を懸ける、ということなのだ。体裁や格好をそれらしく整え、いかにもそれぶって見せるのではなく、そこに本心、身を懸けるということ。時に妄信や盲信と一笑される蛇遣いだが、彼らにはしかし、そうした姿が見て取れる。教授が願ったのは、神学的立場の如何を超えたそのような根底的問題に学生たちが目を向け、信仰の様々をそこから吟味することだったにちがいない。それはたしかに、信仰というものを真面目に考える者にとっては容易には看過できないことだと思われる。実際、冒頭の(葬儀の)牧師の例もまさにそこに要所があり、ぼくはそこで心を動かされたのだから。

 ぼく(ら)が信者未満のところでいまだにうろうろしているのは、多分、そのようになり切れないからではないか。どこかでそう感じ、薄々それに気づいている自分がいることを、ぼくは知っている。だから、こうも思ったりするのである。牧師と呼ばれる人たちはそんなぼく(ら)とは違って、多少なりともそうなりえているのだろう。それで、(教会でよく耳にする)証しという務めをどこか象徴的に負っているとぼくらは思うのだが牧師という任に就いているのではないか、と。

 蛇足だがもしかしたら、蛇足を超えて、失礼なもの言いになるかも。もしそうであれば、ご寛恕願いたいのだが、キルケゴールのあの怖い話がふと想い起こされた。ご存じの方も多いかと思うが、本当は信じてもいないことを語ってきた牧師の話である。そのようにして、自身を装いながら説教をしてきた牧師がある礼拝で突然、会衆に向かって「子たちよ、泣くな。今言ったことは皆、嘘かもしれないのだから」と語ったという、あの話である。キルケゴールはそんななんとも怖い文章を残しているが、不運にも万一、そんな牧師に出会ってしまい、その牧師のそんな姿に気づいてしまったとしたら、誠実な人間はまず、牧師になろうなどとは思わぬにちがいない。

 また長くなりかけている少し短めにという皆さんのご要望にお応えし、ではそういたしましょう、と自分で言ったのに・・・。ということで、そろそろ今回の締めに移らせていただきたいと思う。ぼくらが言いたいのは賢明なる読者諸氏はすでにご理解くださっていると思うが、要するに、次のようなことなのだ。

 すなわち、牧師志願者の減少に歯止めがかからぬ、近年のキリスト教界。その原因はもちろん、様々推測され、ぼくらが論じてきたその一点に限られるものでないのは重々承知している。当然ながら、それが理由のすべてではなかろう。時代の社会文化的変容と、それに伴う意識や価値観の変化。生活環境や職務条件の進展と、その整備・未整備。牧師職の紹介や志願者掘り起こしの工夫と、その手法の活用・不備等々。これら以外にも、細かに挙げれば、あれこれ考えられよう。だが、ぼくらが感じ、反芻吟味し、そのようにしてぼくらが議論を詰めて行き着いたのは本当は、信仰そのものの中身や質という、さらにも本質的な事柄があるにちがいない。だが、いまだ未信者のぼくらにはそれは少々荷が重すぎるので、その一つ手前の言及でご勘弁願いたい、時代に合わせた牧師のイメージ作りも結構、待遇の改善も結構、職務の再検討とその効率化も結構、住まいの整備も結構、リクルートのつまり、人集めの手法開発も結構・・・。それらはどれも、工夫をし、より望ましいものにすべきは言うを待つまい。がしかし、それらがそれなりに整ったからといって、それではたして、ぼくらが考えるようなつまり、ぼくらが聖書から読み取るところの、そのような使命に生きようとする牧師が生まれるものかどうか。ぼくらは極めて疑わしく思う、ということである。

 より本質的なところで、その人となりや生き様が人々を惹き付け・惹き寄せるようなモデルがそこに存在するか、また、そのような存在をそこに生み出しうるか。そのことに、それは懸かっているように思われるからだ。これが唯一無二、現状打破の決定打などとはもちろん、思っていない。けれども、問題の所在に深いところできっと繋がっている、とぼくらは考えている。キリストを信じ、そのキリストに従って生きること、そしてそのキリストに倣って生きることが信仰というものだとしたら信仰未満の者たちの理解ゆえ、間違っていたら、お許しいただきたい。それを身をもって証しする象徴的な存在として、牧師というものを理解するとしたらこれもまた、間違っていたら、お許し願いたい。そのようにして人を惹き付けるモデルがそこにいるか否か。単なる立派さとは異なる人間性の深みにおいてキリストの残響が感じられるような、そんなモデルがそこに存在するか否か。それこそが単なる手法のあれこれに先んじて問われるべき課題の中心ではないか、とぼくらはそのように思うのだが・・・。馴染みのあるごく普通の言い方で言うなら、心を動かされる尊敬しうる牧師の存在、ということか。実際、そんな牧師がいたら、多少遠くてもその教会に通って、説教をじっくり聴いてみたい、と言うぼくの友人も少なくない。

 教派を問わず、牧師のなり手確保に苦闘する昨今。が、だからといって、人数第一の安易な打開策に終始するようなことがあると・・・。牧師の志願者をあの手この手でリクルートし、そしてなにしろ、牧師不足の教会現場へと送り出す。なり手を獲得し、辞め手を減らすため、牧師職の期待水準を低くし、何はともあれ、信徒が牧師を守り支えるように促すイエスによれば、牧師は羊飼いであって、羊たる信徒を守り支えるのがその務めのはずだが、どうやら今や事は逆転し、羊が羊飼いを守り支えるようだ。牧会さるべき人たちが牧会すべき人を牧会する? 牧師のいる意味と必然性は一体、どこにあらんや。牧師として立たされ・立つその当事者の姿勢や内実が置き去りにされたまま、そのような事態が進むとしたら・・・。ぼくらが心を惹かれ、心打たれて揺さぶられる牧師の存在というのははたして、この先どんなになってゆくだろうか。

 ついでながら、神学校と神学教育について付言させていただければ専門外の、しかも未信者の部外者が生意気のことを言うようで躊躇い(ためらい)がなくもないのだが、読者の皆さんのご容赦に信頼して述べさせていただくとして、だからこそ、それらに対する望みと期待には大きなものがあるように思われるのである。つまり、これまで論じてきた、モデル的存在となりうるような牧師の育成教育。そこに、事の切り口となる重要なかぎの一つがあると考えられるからである。所管の行政等の規定や制約などもあり、現実には組織維持のためにやむをえぬ面もあるようだが入れて出すの人数的観点を可能なかぎり乗り越えて、そうした神学教育に努めること。そのことが求められ、そのようにして、悪循環の泥沼にはまるのを回避することである。そうでないと、キリスト教界はそこにはまり、そこから抜け出せなくなるのではなかろうか。モデル的将来性を秘めた牧師たちの輩出。神学校とそこでの神学教育に落とせぬ視点のように思うのだが・・・。くれぐれも、薄利多売的な発想には注意されたほうがよい。

 冒頭でお許しを願ったように、今回もまた、身の程知らずの失礼で辛辣な文章を書き連ねてしまった。もはや遅きに失するやもしれぬが、信仰未満の未信者ながら、真面目な求道者として、ぼくらは事を論じ合ったということ。そのことだけはご理解いただければと願う。言い換えれば、ぼくら同人仲間は日本のキリスト教の現状をそれくらい深刻に感じているということである。信者以前の者でも、聖書とその信仰を真摯に考える者にとっては、安直にやり過ごすことのできないくらいの状況として。すでに信者としておられる皆さんははたして、いかがだろうか。同じ意識で事を受け止め、同じ視点で問題の所在を見据えておられるだろうか。

 モデルというのは、ポジティブにもネガティブにも作用する。この時の、そして来たる時の牧師たちがどちらのモデルとして作用するか。人をその信仰に惹き寄せ、その務めへと向かわせる、憧れのモデルとしてか。それとも、人をそれらから遠ざける、反面教師のモデルとしてか。その違いは決して小さくない。それどころか、決定的なものにさえなることも・・・。

 

 

©綿菅 道一、2023

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(本ページは、読者の投稿受付けを行っていません)

 

 

 


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