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TANAKAHAN日々思った事を綴ってみたりして

ハッキリさせよう

2024-07-12 23:49:47 | Weblog

広島高裁は、男性から女性への戸籍上の性別変更を、性別適合手術を受けずに変更する事を認める異例の判決を下した。現行法では「生殖機能がないこと」「変更後の性別に似た性器の外観を備えていること」などの複数の要件を満たした場合に限り戸籍上の性別変更が認められていたが、この生殖機能の手術について最高裁は「体を傷付けられない権利を保障する憲法に違反して無効」という判決を下している。この件に関し最高裁は、審理をやり直すよう広島高裁に命じていた結果がコレ。

人の内面と言うのは決して分からないから、その内面が外見と異なる性別であるといくら本人が主張しても、それを証明する事は困難だ。ただ、それを本人が主張する事は勝手である。しかしこれを判決という裁判例を作ってしまった事で、社会的混乱を招くであろう事を広島高裁の倉地真寿美裁判長は分かっているのだろうか。この判決が出た事で、内面が分からない事を良い事に、悪意を持つ人間(特に男性)による性犯罪が助長される事は容易に想像出来るし、実際に女装して女性用浴場に入った男が逮捕された事件がいくつも起きている。昨今の司法判断は、個人の自由を尊重し過ぎる余りに社会秩序を乱しているようにしか見えない。

この性同一性障害については昔から思う事がある。たとえば外見が男であれば、その外見に伴う行動に内面が寄せられていくもので、それが人間の自然な感覚だと思う。しかし性同一性障害を持つ人は、己の外見に伴う行動を疑問に感じるのだから、その感覚を持つ時点で普通の男性女性とは異なる不自然な性癖を持つ人達である。ならば外見的特徴に伴う行動をする正常な感覚を持つ人達と同じ扱いをすべきではない。普通の男性でもなければ女性でもない、それとは別の性別だ。少なくともそういう人達がそうだと分かるように区別しておかなければ社会的混乱が起きるのが当然の成り行きだ。分ける事でお互いが平穏に暮らせるなら差別には繋がらない。むしろ一緒にしているから差別が起きている。

具体的にはそういう人達向けにトイレや風呂を別に設置するべきだし、スポーツ競技も男女とは別のカテゴリーを設ける事が正しい。そこまでやらないと本当の意味での平等な社会とは言えない。それ以前に私が個人的に思う事は、生物学的特徴に従わない生き方をする人達は、神様の決定に抗っているように見える。私は神様から「お前は男として生きなさい」と言われたと感じているので、男として生きる事を何も疑問に思わない。でも性同一障害を持つ人はそうは思っていないと思う。社会的混乱をもたらすかもしれないのに、それでも自分の感覚を優先するのだから、周りの迷惑より自我を通したがる少し傲慢な生き方をする人々に思える。

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