「食べ処・身土不二」(札幌)は、身土不二を日本と世界へ発信する。食堂ならぬ食堂、啓蒙運動の発信地。日本よ、滅びるな!

「身土不二」は、解放思想であり、危険思想でもある。

 日本から「身土不二」を発信し、日本と世界を救おう。

「健康オタク」と「政治オタク」

2007-08-31 15:23:37 | Weblog

 
  
 いまや、わが国の食糧自給率は、カロリー換算で39%である。わが国人口の過半数は、その健康と生命を外国産農産物に預けていることになる。

 これは、「身土不二の原則」からいえば、最悪である。
 食物は、量だけでなく質も大切である。ここでいう食物の質とは、「環境質」のことである。

 「人間は、その住むところのもの(環境)を食べなければ、健康も保てず、天寿もまっとうできない」

 このこと(環境質)を、筆者は、筆者の造語で「環境拘束性」とか「環境刻印性」、あるいは「環境同一性」と呼んでいる。

 輸入農産物の最大の問題点は、この「環境拘束性」に反することにある。いかに、優秀な無農薬・有機栽培のものでも、外国産であれば、この「環境質」に反するので、ダメである。

    
「農滅べば、人滅び、国亡ぶ」 

 農は、すべての基である。  
 農が滅べば、すべてが滅ぶ。 
 これは、古今東西の世界の歴史が証明するところである。  

 人間は、その食べ物が化けたものである。
 だから、「身土不二の原則」に反する食べ物、つまり輸入農産物を食べれば、健康障害(疾病」に見舞われるのは、何の不思議もない。

  これは、「生存の鉄則」といってよい。
  都市に住むものには、この「生存の鉄則」を無視しているものが、いかに多いことか。

 「生存の鉄則」を脅かしているのは、わが国の政治であり経済である。「輸入農産物」そのものからして、政治と経済の産物である。

 先に述べたように、輸入農産物は、「環境同一性」を破るので、健康障害を引き起こし、将来的には民族の生存にかかわる。

 つまり、食糧輸入大国・日本では、生命と健康は、すぐれて政治・経済問題なのである。だから、健康で天寿をまっとうするには、「政治と経済のあり方」に関心を寄せざるを得ないのだ。 

  健康だけを追いかけるだけで、政治と経済に無関心であり、これらを無視する人種を、「健康オタク」と呼ぶ。

 いかに、「健康オタク」が多いことか。
「健康オタク」は、健康を脅かしている根本が、わが国の「政治と経済のあり方」にあることに目をむけない。
 

「健康オタク」の対極にいるのが「政治オタク」である。
「政治オタク」は、政治に関心を持つだけで、(己の健康には関心をもつだろうが)、一国の民の浮沈にかかわる「健康問題」には無関心である。

  わが国における健康問題は、政治と経済から生じていることに思いが及ばないのが、「政治オタク」である。
  
 農業と食の衰退でわが国の民が滅ぶ危機にあるとき、これ以上の政治・経済問題はないと思うのだが・・・

  
いま、日本で最も必要とされているのは、「健康」と「政治」の両方に関心を抱いて、個人、民族、人類の健康と生命を脅かすものをなくしようとする志をもつ「健康・政治オタク」である。

     出でよ、「健康・政治オタク」!!


「健康不安症候群」がはびこる

2007-08-29 12:13:06 | Weblog

   

    「健康不安症候群」が蔓延している。
 「健康不安症候群」とは、健康が不安でならない症状。   

 本屋には、健康に関する本と雑誌が氾濫している。「健康不安症候群」は「重症」である。
 
 いまや、「国民総半健康」の状況にある。
 
 たとえば、
「生活習慣病改め国策病」のひとつ、糖尿病は、かつては中高年の病であったが、小児糖尿病という言葉が示すように、糖尿病は子供にまで広がっている。若い人も、ガンにおかされる。かつて、成人病といわれた病が、実情にあわなくなって、いまでは、生活習慣病といわれるようになった。 

 
この名称変更にこそ、日本が「総半健康人列島」と化した現実が示されている。ちなみに、この生活習慣病という呼称は、「国策病」というべきである。なお、「国策病」については、本ブログ2007年5月7日「国策病という病」を参照されたい。

 ◆健康になれない健康情報

 たしかに、「健康障害の総国民化」という深刻な状況があるが、そうとばかりとはいえない現実もある。

 
「健康不安症候群」の背景には、健康不安をあおる人々がいる。健康不安を商売のネタにする人が、「健康不安症候群」をまき散らしているともいえる。
 

 いまや、「健康は商品」となった。
 
「健康不安症候群」は、「健康障害の総国民化病」という現実と、「疾病の商品化」が、あいまってつくられたというのが真実であろう。市場経済とは、あらゆるものが商品として流通するシステムである。「健康の商品化」が、すさまじい勢いで進んでいる。

 健康雑誌では、ニンジンはこうして食べたら体調がよくなったとか、このような類いの記事をよく見かける。
 ニンジンの効用をうたいあげるのは間違いではないが、そのニンジンの素姓というか、とれた時期も産地も無視されている。無農薬か否か、有機栽培か否か、輸入物であろうが、国産ものであろうが、どちらでもかまわないというわけにいかない。

 つまり、「身土不二の原則」が抜け落ちている。
 この「原則」を抜きにしては、「みせかけの健康」は得られるだろうが、「真の健康」は無理だ。

 
「身土不二の原則」とは、「身体は環境と一体」という意味である。つまり、私たちは、地元の農畜産物を食べなければ、健康を保てないということ。「農畜産物の生産地」と「それを食べる人の住まい」が、ほぼ同じでなければならない

 輸入農産物は、外国の環境が食物に化けたもの。日本という環境にあって、外国の環境の生産物を食べることは、異質な環境を身体に取り込むことになり、これでは生理的な不調和が生じて、健康障害を引き起こすというのが、「身土不二の原則」である。

 「身土不二」は、健康の源である
 「身土不二」に反する食生活は、人々を多病・短命にする。政治にせよ、経済にせよ、その究極的な目的は、人々を健康で暮らせるようにすることにある。したがって、「身土不二」とは、健康問題だけに止まらず、すぐれて政治問題であり経済問題でもある。

 これほど大切な「身土不二」が、健康雑誌では取り上げられない。
 

 ◆「身土不二」が無視される理由

 健康雑誌をはじめ、新聞・ラジオ・テレビなどが「身土不二」を避けて健康を説くほど、人々を愚弄するものはない。
 
 
 見せかけの健康はともかく、「真の健康」になれないことを前提にして、健康を説く健康雑誌は、詐欺まがいといっては言い過ぎだろうか。

 
 ところで、「身土不二」が、健康雑誌から無視されるのは、なぜだろうか。「身土不二の原則」とは、「解放思想」であって、同時に「危険思想」でもあるからである。

 「解放思想」とは何か。
 
「農と食」を商業主義の呪縛から解放し、民衆に真の健康を取り戻させてくれるという意味で、この「原則」は解放に他ならない。

 
 「危険思想」とは、何か。
 この「原則」は、健康・生命など眼中になく、ただ単に営利を目指す集団とか個人にとっては危険な考えである。この「原則」によって、彼らの望む経済的利益は否定されてしまうからである。
 

 思想というか哲学というか、こうしたものに触れたくないというのが、健康本とか健康雑誌というものである。

  いっぽう、うがった見方をすれば、こうも考えられる。
 健康雑誌で「身土不二」が無視されるのは、大衆に健康を取りもどされては、雑誌側は困ることなのかもしれない。

 
 健康雑誌を買う人が、本当に健康になってしまわれては、もはや、そのような雑誌は売れなくなる。いつも、健康不安にさいなまされる人々が存在することが、商売繁盛の秘訣なのであろうか。
 
 「身土不二」をぬきにして、食事療法がどうとかという「技術的な対応法」に終始するだけでは、真の健康を望む人々を惑わすだけである。原理・原則を無視しながら、不都合を技術で解決しようとすることは、天に唾する類いの愚行である。  


有機野菜が高いといわれるが、そんなことはない

2007-08-27 10:08:27 | Weblog

 

    「有機野菜は高い」という。
    間違いも、いいところだ。 

 ◆「危ない野菜」が「普通」という錯覚 

 讀賣新聞(2005年7月13日付)「くらし・家庭」欄に、有機野菜が取り上げられている。

土作づくりからこだわり、丁寧に育てているだけに味の評価も高い。だが、湿潤な気候で病害虫が発生しやすい日本では、こういった有機農業を実践すると当然コストがかかり、価格が高くなる。普通の野菜と比べて高くなり過ぎると消費者の多くはそっぽを向く」。

 
 この記事には、いくつかの疑問を感じる。

 そのひとつは、農薬と化学肥料で栽培された野菜(以下、農薬・化肥野菜という)を「普通の野菜」といっていることである。 

 元来、野菜といえば、「有機野菜」のことであった。

 それが、いつの間にか、「農薬・化肥野菜」が普通とされて、「有機野菜」は特殊とみなされるようになった。さきの記事は、農薬・化肥野菜を「普通の野菜」と位置づけることに、判断の誤りが見て取れる。このような見方では、「有機野菜」は普通ではなく特殊とされてしまう。 

 断じて、有機野菜が「普通の野菜」である。
 

 農薬と重金属で汚染され、栄養価の低く、水ぶくれした、健康を害する「農薬・化肥野菜」は、普通どころか「異常な野菜」といわなければならない。

 そもそも、本物の「有機野菜」とニセ物の「農薬・化肥野菜」の両方が生産され売られることに誤りがある。

 生命にかかわる野菜に、安全なもの(本物)と危ういもの(ニセ物)があることが、異常といわなければならない。しかも、そのいずれかを、消費者に選ばせるとは、言語道断である

 ◆有機野菜が「本来の価格 

 二つめの疑問は、「有機野菜が高い」という評価についてである。

 ダイヤでいえば、イミティーションに当たるのが、「農薬・化肥野菜」である。ダイヤならば、安いイミティーションでも構わないが、食物のイミティーションは、生命を害する。「農薬・化肥野菜」は、本来、栽培・販売されてはならないものである。安い・高いなどは、論外である。

 「危ない野菜」を基準にして、「安全・安心な有機野菜」が高いというのは、とんでもない。
 
 

 土地を疲弊させて、健康を害する「農薬・化肥野菜」は、見せかけだけの安さである。

農薬・化肥野菜」は、本来、生産・販売すべきでないのだから、コスト計算そして「高い安いという価格」を論じること自体が、ナンセンスである。

 「
有機野菜」のコストと販売価格が、本来のものであって、それを高いというのは当たらない。

 
政府の無策、ここに極まるとでも言うしかない。
農薬・化肥野菜と「有機野菜」の生産と併売を許している政府は、無責任というそしりを免れまい。

 国民医療費は、年間30兆余円である。
 この額のおよそ半分の15兆円でも、有機農業の振興に振り向ければ、有機農産物がでまわるようになる。価格も下がって需要が高まり、その結果、国民は健康になって医療費は激減するに違いない。

 入り口(有機農業)に金をかけるのか、それとも出口(医療費)に金をかけるか。金銭上の収支は合う。
 

「危うい野菜」は、必ず、身心を蝕む。
 安いからといって「危うい野菜」を買う理由は、いささかもない。このことがわからないほど、人々は狂ってしまったのだろうか。この判断力の狂いは、「危うい野菜」を食べ続けた結果なのかもしれない。
  

 消費者にも問題がないわけではない。
 スーパー、デパートの地下食品売り場、コンビニ、その他の食品販売店で売られている農産物の大半は、食物としての価値を問われるものである。

 こうした「危うい農産物」が消え去らないのは、消費者がそうした農産物を買うことに一因がある。消費者が安全な農産物を求めれば、栽培者も危ないものをつくらない。販売店も、危ないものを売るはずがない。
 

 もちろん、いうまでもなく、政府の責任は重大である。納税者のための政府が、その納税者の生命・健康を損なう野菜を公認しているのだから・・・。 

 ともあれ、生産者、消費者、政府、流通業者、いずれも、生命の安全よりも「安さ」を求めている。

 生命が「安さ」と引き換えになるとは・・・これは、狂っているとしかいいようがない。
 
 
 狂った人が、社会を狂わすのか。社会が狂うから、人も狂うのか。

 


なるほど、わが国の農政は、NO政に違いない

2007-08-24 13:15:45 | Weblog

 

 さきの敗戦以来、わが国の歴代政府は,わが国の伝統食・米菜食を捨てて、輸入食物「輸入飼料)による「白パンと肉乳卵食」という、「反健康食」を推し進めたことは、これまで述べたとおりである。

 このような「食政策」で、当然のことながら、米の消費量は減リ続けた。そして、米あまり現象が生じた。その対策として、水田の減反政策が推し進められた。

 ◆農地が足りなくなる 
 1997年8月15日、農林中金総合研究所は、「米穀依存の食糧安全保障の現実性」と題するレポートを発表した。

「最大の問題は、農地が毎年五万ha余りも減少することである。そのうち水田の減少量を米の量に換算すれば、毎年約十万トンの生産力が永久に失われることとなり、米の潜在生産力は十年で、百万トン、二十年で二百万トンが未来永劫に失われるのである。この量は極めておおきく、他のどうような方法によっても補うことはできない」。

 さらに,同レポートはいう。
「農地保全を国の方針として確立すべきときであり、適切な土地利用計画の策定、厳格な転用規制等の確保手段を整備すべきときである。一旦かい廃された農地は、元には戻らない。農地の維持・保全こそが唯一の国民食糧の確保の方法であり、国民食糧の危機管理に寄与する方法である」。

 わが国政府は、減反につぐ減反を続けてきた。減反のあげく、「農地不足で米不足とは、聞いて呆れる。

 わが国の農政は、NO政(まともな農業政策なし)とヤユされてきたが、先の報告書は、まさしくわが国政府の愚策ぶりを明らかにしている。

 農地といえば、優良農地つぶしを進めてきたのが、わが国の歴代政府ではなかったか。
 
 優良農地は、ゴルフ場、工場用地、マンション用地などへ転用されていった。
 
 いかに農地潰しが激しかったか。
 羽田国際空港へ離着陸する航空機から下界を見れば、歴然としている。いまや、首都圏には、農地は、ほとんどないといってもよいほど少なくなっているではないか。半世紀前には、相当の農地があったのだが。  

  ◆理解し難い政府の食糧不足対策
 
 日本政府は、食糧不足対策として「不測時の食料安全保障マニュアル」というものを定めた。
 
 食糧不足になると、卵と肉が消えて穀物と野菜中心の生活になるという。緊急事態ともなれば、国産米が不足する。イモが増産されて、主食はイモとなる。米の国・日本で、イモが主食になるとは、おかしい。

 米の減反政策を実施しながら、食糧危機となればイモが米にとって代わるとは、いったいどういうことか。

 米にはイモを寄せつけない価値がある。
「健康」「スタミナ」「備蓄のしやすさ」などで、イモはとうてい、米に敵わない。有機栽培の籾米であれば、およそ10年間は保存できる。
 
 水田の減反政策をやめて、米を充分に備蓄すべきではないのか。 主食としては、米に適うものはない。

 
万が一の場合、米が食べられるように、十分な米の生産と備蓄に税金を使っても、納税者は納得すると思われるのだが。

 日本の飢餓対策は、農地保全、とりわけ水田保全に力を尽くして、米を中心とする穀物の増産と備蓄でなければならない。

 


無責任な学者、官僚、団体役員

2007-08-22 13:05:29 | Weblog

 

 前回(8月20日)では、キッチンカーについての不透明さについて論じた。

 不透明さとは、キッチンカーの製作・運行などの諸費用は、アメリカ合衆国政府からの資金援助で行われたにもかかわらず、その資金の出所、つまりアメリカ政府であることが、当時から今日までタブー視され隠されてきたことである。
 
 ところで、真相を隠蔽するよりも、さらに重大なことがある。それは、キチンカーに象徴される「白パンと肉乳卵食」が原因で、「生活習慣病改め国策病」が激増したことである。なお、「国策病」については、本ブログ2007年5月7日「国策病という病」を参照のこと。

  病気の激増といえば、例えば、糖尿病である。
  わが国の糖尿病患者は、いまでは約700万人、糖尿病予備軍にいたっては、約2000万人ともいわれている。

 もともと、わが国では糖尿病という疾病はなかったといわれる。「文久元年(1861)長崎精得館に迎えられたオランダ一等軍医ボードウィンは、『日本人には肝臓病と糖尿病はない』(沼田勇『医学の不安』農文協)に示されるように、穀物菜食という伝統食の時代には、糖尿病はなかったのである。

 今日では、糖尿病をはじめ、疾病による死因のトップであるガンなど、神戸山手大学・島田彰夫教授(故人)の造語でいえば、「国策病」(国の失政で生じた疾病)が蔓延している。「国策病」の蔓延は、国策によって普及された「白パンと肉乳卵食」(造病食)が、もたらしたものといってよい。

  さて、造病食ともいえる「白パンと肉乳卵食」はわが民族の生死を決定すると、前回、述べた。ちなみに、アメリカ政府は、アメリカ国民に、その食生活を「白パンと肉乳卵食」から、わが国の伝統食に酷似した「穀物と野菜と果物」へと転換するように勧めている(2007-07-04 「アメリカ政府は一物全体食を取り入れ始めた」を参照)。

  キッチンカーによる食生活改善(事実は、食生活改悪であり、造病食の勧めである)にお墨付きを与えた、当時の政府関係者、学者、実働部隊であった諸団体には、先に述べた「真相」を隠すという反社会的行為だけでなく、「国策病」を蔓延させた「最大の社会的責任」がある。

 「真相の隠蔽」もさることながら、この「社会的責任」を放棄している(後述)。これは、きわめて
悪質である。

 このように、彼らの「社会的責任」を問うと、「それは、あまりにも酷だ」と、したり顔で言う者も現われてくる。このブログの筆者は、そういう連中には「何があまりに酷なものか」と言い返してやることにしている。 

 当時の栄養学者、厚生官僚、栄養士、医師をはじめとして、(財)日本食生活協会、(財)全国食生活改善協会、(財)日本学校給食会などの幹部らは、石塚左玄・桜沢如一による「食養」(欧米名・マクロビオティック)をせせら笑って、まったく無視したではないか。 

 桜沢らの主張に耳を傾けていたら、「白パンと肉乳卵食」にのめり込むことはありえなかった。この「責任」は免れようがない。


 当時の関係者の中には、物故された方も多いと思われるが、今日、当時の関係者が生存していないでもない。彼らは、なぜ、沈黙しているのであろうか。沈黙とは、無責任きわまるのではなかろうか。 

 もちろん、彼らは、その過ちの「責任」を問われても、今となっては、いかんともしがたいであろう。 だが、何らかの手段で率直に過ちを認めることで、いささかなりとも、社会に貢献できる。

 公表することで、世間の人々に「白パンと肉乳卵食」の「反健康性」を知らせる役割ぐらいは果たせるはずだ。それが、人の道というものであろう。

 


キッチンカーは、タブー視される

2007-08-20 10:38:05 | Weblog

 

  前々回(8・15)、前回(8・17)では、先に世界大戦で敗れたわが国の「敗戦と食物と健康の関係」に触れた。     今回は、第3回目である。

  日本の伝統食(米穀菜食)を欧米流の「白パンと肉乳卵食」に代えるのに大きな役割を果たしたのは、キッチンカ-を全国に走らせての一大キャンペーンであった。      

  このキチンカーについては、本ブログ2007・5・7キッチンカ-、伝統食を滅ぼす」で触れたので、詳しくは触れない。ここでは、キチンカーにまつわる不透明な要素に触れておこう。
  
 
キチンカーとは、敗戦後の日本において、「米食追放し、白パンと肉乳卵食を普及する」ために用いられた「官製運動」で使われた車である。

 大型バスを改造して移動調理車をつくって、それに流し、ガスコンロ、冷蔵庫、調理道具、食器、放送設備などが積み込まれた。

 
 
 栄養士・保健婦らは、このキチンカーに乗って全国各地へおもむき、地域住民を集めて「パン食と油食」の野外料理講習を行った。

 
この運動は、大成功をおさめた。
 
ご覧の通り、今日、伝統食である米菜食が衰微し、白パン・肉乳卵食が全盛とはなった。今日の米余り現象も、いってみれば、キッチンカ-に象徴される米菜食追放運動がもたらしたものといえなくもない。
 
 ところで、この車は、アメリカ政府からの資金援助で作られ運営されたことが、意外に知られていない。
 
 
キッチンカーは、その製作費・運行費など、一切がアメリカ政府の援助でなされた。そのことは、栄養士、保健婦、そして国民にも隠されたのである。
 
 
その隠された事情が、鈴木猛夫『アメリカ小麦作戦と日本人の食生活』(藤原書店)には、次のように記されている。

 
 
「アメリカは、キッチンカー十二台を運行させるのに、車の制作費、ガソリン代、食材費、人件費など総額一億数千万円(いまの貨幣価値でならば数十億円か)を(財)日本食生活協会に提供しているが、その資金の出所について、当時の財団の赤谷満子副会長(現会長)は、『ことさら隠そうとしたわけではないのです。けれども、何といいますか、アメリカの資金について触れるのは、協会の中ではタブ-のような空気がありましてね』と語っている」(57ペ-ジ)。
 
  資金の出所がアメリカであることを隠したのは、もしも、それが明らかになれば「運動そのものの信憑性が疑われかねないからである」と前掲書の著者は述べている。

 このブログの筆者は、タブー視する意図がわからない。
 当時の御用学者、政府、(財)日本食生活協会は、欧米の栄養学を信じ、その線で「白パンと油料理」の普及にまい進したはずである。

 
 しかも、当時は、「すべて日本的なものはダメ、アメリカのものは結構」という時代風潮をも考え合わせると、その尖兵となったキッチンカーにかかわる費用を提供してくれたアメリカ政府からの資金提供は、当時の関係者に感謝されこそされ、秘密にする理由はないと思われる。

 
 そのことが国民に向けて公表されても、何ら不思議でないのではなかろうか。にもかかわらず、アメリカ政府からの資金提供はタブーとされた。

 
 何があったのであろうか。前掲書の著者によると、その真相を明かすと、運動への信憑性がなくなることを恐れたというが、はたしてどうか。

  逆に、当時のアメリカ一辺倒の風潮にあっては、真相を明かすことは、歓迎されるとも考えられるのだが・・・。

 ともあれ、真相は明らかでない。しかも、当時の関係者は、今日でも黙して語らずである。沈黙の理由は定かでない。

 
 キッチンカーについては、栄養関係の学校でも教えられていない。

 キッチンカーは、今日の「白パン・肉乳卵食」の氾濫へ導くスタートであった。このような「身土不二の原則」に反する「反日本民衆食」に法律的にお墨付きを与えたのが、「栄養改善法」であったことは、すでに前回(8・15)述べたとおりである。

 この民族の生死にかかわる、食を変えるという世界的に前例のない人体実験の道具でもあったキッチンカーの真相が明らかにされないことは、解せない限りである。<o:p></o:p>

 キッチンカーによるキャンペーンには、つぎのとおり、わが民族を肉体的に消滅させかねない要素が含まれている。

 ①「白パン・肉乳卵食」によって生じる疾病の激増。

 ②伝統食の基盤である日本農業が、輸入農産物によって事実上崩壊したこと(食糧自給率39%)。

 ③こうした「農業の崩壊と日本人の生理に反する食生活は犯罪を産みだす源」となったこと。

 当時の政府の誤った政策、例えば、「栄養改善法」の導入に象徴されるが、その悪法が、「食育基本法」を制定しなければならないほどの食生活の荒廃をもたらしたのである。

  栄養改善法」(1952)に基づく失政が、半世紀後、「食育基本法」(2005)
を産みださざるを得なかったともいえる

 当時、さきの3点にかかわるキチンカーキャンペーンにかかわる政府機関としては、厚生省、農林省、文部省が挙げられる。

 そして、それら政府機関の実働部隊としての役割を果たしたのは、つぎの諸団体であった。(財)日本食生活協会、(財)全国食生活改善協会、(財)日本学校給食会。<o:p

 ところで、先に述べたように、キチンカーは、犯罪的といってもよいほどの害毒を全国へ流すキッカケとなった。

 
このキチンカーにかかわった、当時の役人、そして諸団体の幹部らは、どのように、責任をとるのであろうか。いまさら、責任を取れといわれても、取りようがないであろう。

 

 責任をとるといえば、このブログの筆者は、自決でもって責任をとった、天草地方の鈴木代官を思い起こすのだが。なお、この鈴木代官については、2007-08-08 07「農民を守るために切腹した、江戸時代の公務員」を参照のこと。

 責任を取れといっても、鈴木代官のような自決までは求めない。せめても、当時の関係者であって今日でも生存している者は、己に不都合な真相であろうとも、その知るところを明らかにすべきであろう。それが、責任の取り方である。

 
       
次回は、8月22日(水曜日)

 このブログは、月曜日、水曜日、金曜日に掲載します。


食による「生理的支配」は、永続性がない

2007-08-17 12:37:45 | Weblog

 

  前回(8月15日)の続きである。

  今日、わが国には、さまざまな社会問題があるが、少子化と不妊による「人口激減」の兆しは、最大の社会問題といってよかろう。たとえば、人口の激減したアイヌ、インディアンには、かつての旺盛な活力が失われている。

 「民族の衰退と生死」への助走である「人口激減」を招いたいくつかの原因の中でも、食物の及ぼす甚大な影響は無視しがたい。つまり「人口激減」は、「身土不二の原則に適う食生活」(伝統食)の崩壊にあるというのが、私の見解である。

  前回述べたことだが、わが国の場合、日米間の政治力学によって「米食・菜食」という伝統食が、アメリカ流の「白パンと肉乳卵食」に乗っ取られてしまった。 

 この「反民族食」をもたらした敗戦を、このブログの筆者は「生理的敗戦」と呼び、そのスタートを1952年(昭和27年)7月31日に求めた。この日は「栄養改善法」が公布・施行された日である。

 この悪法こそ、アメリカ産小麦を用いた「パン食」と、それに伴った「肉乳卵食」に、日本伝統食・米菜食を駆逐するキッカケを与えた。

  このような「身土不二の原則」に反する「反民族食」は、必ずや、日本民族を淘汰させずにはおかないであろう。 

 ◆「白パン食と肉乳卵食」普及への大合唱
 「白パン食と肉乳卵食」は、「栄養改善法」でお墨つきが与えられた。そして、この欧米流の「反身土不二食」を支持する見解が、マスメディアにも現われた。

 たとえば、朝日新聞のコラム「天声人語」(1959年7月28日)には、いまにしてみれば噴飯ものとしかいいようのない米食の否定が語られた。

「池のコイや金魚に残飯ばかりやっていると、ブヨブヨの生き腐れみたいになる。パンくずを与えていれば元気だ。米の偏食が悪いことの見本である。若い世代はパン食を歓迎する。大人も子どもの好みに合わせて、めしを一日一回くらいにしたほうがよさそうだ」

 米菜食攻撃には、マスメディアだけでなく大学教授も加わった。慶応大学の林髞教授は『頭のよくなる本』で、米を食べれば頭の働きが悪くなると書き立てたのである。

 こうして、対日小麦輸出戦略を推進するアメリカ合衆国政府と、その戦略にのせられた(正確には、擦り寄っていったというべきか)日本政府によって、日本人の多くに「白パン食と肉乳卵食」への嗜好がつくられていった。 

 アメリカ西部小麦連合会のリチャ-ド・バウム会長によれば、日本でのアメリカ産小麦によるパン食普及は大成功であったという。

 同会長は、つぎのように語っている。
 「いまになって、日本では『米を見直す』キャンペ-ンを始めていることは承知しています。しかし、すでに小麦は日本人、特に若い層の胃袋に確実に定着したものと私たちは理解しています。今後も消費は増えることはあっても減ることはないでしょう。私たちの関心は、とっくに他のアジア諸国に移っています。日本の経験で得た市場開拓のノウハウを生かして、この巨大な潜在市場に第二・第三の日本をつくってゆくのが今後の任務です。日本のケ-スは、私たちに大きな確信をあたえてくれました。それは、米食民族の食習慣を米から小麦に変えてゆくことは可能なのだということです」(高嶋光雪『日本侵攻 アメリカ小麦戦略』家の光協会刊)

 ◆永久占領(支配)は不可能 
 占領期にあって、日本人に「パン食」普及を目指したアメリカの目的は、食物援助を糸口にしたアメリカ産余剰小麦の対日輸出に他ならない。

「パン食」普及によって、はからずも、アメリカは政治的・経済的・軍事的支配に加えて、食物による「生理的支配」までも手中にすることができた。 

 政治的・経済的・軍事的支配だけでも、かなりの程度、被支配国(民)を支配できるが、それでは十分でない。しかし、政・経・軍による支配に加えて、被支配者の「食の嗜好」を変えて「生理的支配」が加われば、支配力はさらに強くなる。

 この「生理的支配」でもって、アメリカは、わが国を「永久に支配する」という野望を実現できたと思ったかもしれない。
 
 だが、食物による「生理的支配」には、「ある矛盾」が潜んでいる。この矛盾ゆえに、「支配」は、早晩、無意味となってしまう。

 「ある矛盾」とは、いったい、何であろうか。
 食による外国(民衆)支配は、永続性がないということである。輸入食物という「身土不二に反する食生活」を押しつけられた被支配国民は、早晩、生理的・生物的に滅亡してしまうからである。

 「支配」とは、ある国が、己の都合のよいように、他の政府とその民衆を政治的・経済的・文化的に支配することである。そのためには、その国と民衆が「生存」していなければならない。したがって、その国の民衆が、輸入食物で「肉体的に消滅」してしまっては、「支配」そのものが無意味になってしまう。

 だが、「支配者」の意図とはかかわりなく、いったん定着した「白パン食と肉乳卵食」(反民族食)への嗜好は、容易なことでは変えられない。

 食物の嗜好性とは、そういうものである。この嗜好性のために、「反民族食」を自ら好んで求めるようになる。そして、滅びへの途を驀進する。滅ぶな、日本人!!

 


生理的敗戦 が、伝統食を滅ぼす

2007-08-15 14:39:19 | Weblog

 

  1945年8月15日は、わが国の敗戦へとつながる戦闘を停止した日である。

 敗戦こそは、「身土不二の原則」が侵されて、病人・半病人の激増へのキッカケとなった忌むべき日である。

  ちなみに、この8月15日は、戦闘停止日であって、敗戦日ではない。わが国の敗戦日は、法理的には、日本政府が降伏文書に調印した9月2日である。 本論に入る前に、いささか述べておきたいことがある。 

  ◆昔、日本は病人が少なかった
 かつて、わが国は、疾病の少ない国であった。
 だが、いまや、奇病・難病を含めたあらゆる病が蔓延する病人・半病人列島と化している。 『日本型食生活の歴史』(新泉社刊)には、戦国時代に来日した宣教師、フランシスコ・ザビエルから本国へ宛てた通信文が紹介されている。

  「日本人は自分たちが飼う家畜をすることもせず、またこれを食べもしない。彼等は時々魚を食膳に供し、ほとんど米麦飯のみをたべるが、これも意外に少量である。ただし彼等が食べる野草(野菜)は豊富にあり、また僅かではあるが、果物もある。それでいて日本人はふしぎなほど達者であり稀な高齢に達する者も多い(後略)」(227ページ)

 先の引用文には、ザビエルの言「日本人はふしぎなほど達者」とあるが、当時の日本人が、きわめて健康であったことがわかる。

 いま少し現代に近い、江戸時代、明治時代の日本人はどうであろうか。彼らも、総じて健康であったといってよさそうである。

  沼田勇『医学の不安』(農文協)には、つぎのようなことが紹介されている。 「文久元年(1861)長崎精得館に迎えられたオランダ一等軍医ボードウィンは『日本人には肝臓病と糖尿病はない』といい、また明治15年(1885)アメリカ神経病を記録したビーアードは『本病(註・ノイローゼ)に日本人はかかることは永久にないだろう』と書いている」(136ページ)

 ところで、現代人は、どうだろうか。いまでは、昔とは様変わりで、病気にならないのが珍しいくらい、病人が増えてしまった。病人・病気の激増時代といってよい。 

  例えば、病人の多さということになれば、糖尿病者は約700万人、糖尿病予備軍にいたっては、約2000万人ともいわれている。 難病・奇病も多い。例えば、ベーチェト病・スモン病・重症筋無力症・再生不良性貧血などの特定疾患は、45種にものぼっている。

 このような疾病の激増の原因そして対策については、これまでも何度か述べてきたので、ここでは繰り返さない。

 ◆「政治的敗戦」が「生理的敗戦」を導く
 今日のような病人・半病人列島になった原因であるが、わが国の敗戦にその源があるというのが、筆者の見解である。

 以下、病気激増の「構造的原因」を述べる。
 「構造的原因」とは、これから述べる、「政治的敗戦」と「生理的敗戦」である。 
  
  たしかに、疾病激増の遠因は、明治時代に始まってはいる。穀菜食(伝統食)を退け、「身土不二の原則」に反する「白パンと肉乳卵食」に傾斜していったキッカケは、明治政府の政策に求められる。 

  さて、本論へ入ろう。さきに、結論をいえば、わが国の8・15の「政治的敗戦」(後述)が「生理的敗戦」を導いたことは、 「最大の不幸」を招いた元凶といってもよい。

 「最大の不幸」とは、先にも述べたように、病人と半病人の激増である。 限りなく病人が少なく、限りなく健康人の多いことが、一国の民が生存できるのか、あるいは消滅するか、そのいずれかを決める鍵である。

 健康こそ、民のそして一国の命運を決める。政治の要諦は、国民の健康維持に尽きるといってもよい。 いまや、この健康が国民的規模で揺らいでいる。 

 さて、話題を「政治的敗戦」にうつそう。
 政治的敗戦とは、日本の政治権力が、その独立性を失って、アメリカ合衆国を盟主とする連合国の外国権力に取って代わられたことである。 
 
 生理的敗戦」とは、何か。
 
「身土不二の原則にもとづく食生活」の崩壊、つまり、わが民族をしてわが民族ならしめているものの喪失が、「生理的敗戦」である。「生理的敗戦」に見舞われると、その固有の文化的・生理的・生物的・環境的存在である民族の生存が危うくなる。

 「生理的敗戦」の行きつく先は 、肉体の消滅である。

 ◆「生理的敗戦」こそ、「真の敗戦」
    「食養」(欧米名・マクロビオティック)を世界に広めた桜沢如一は「食なきところ生命現象なし」という。この意味するところは、「身体と心は食物が化けたもの」ということである。 伝統食で育った、かつての日本人は、「日本伝統食の化身」である。 

 「私たちは食物の化身」であるから、伝統食が健在な限り、日本民族の身心もまた健在である。 日本伝統食が崩壊するとき、大和民族は身心ともに崩壊する。 政治・経済・芸術・文化・教育・宗教など、すべては、身体あってのことである。肉体の存在は何ものにも代えがたいほど重要である。

 「政治的敗戦」の8月15日、わが大和民族の身心は健在であった。もちろん、食糧不足ではあったが、「身土不二の原則にもとづく伝統食」が堅持されていたので、生理的・生物的・生態的にも、当時の民の身心の健在さはいささかも損なわれていなかった。
だが、「政治的敗戦」が、「生理的敗戦」を招く事態が生じた。
 
 ◆栄養改善法という悪法
  不幸なことに、わが伝統食が崩壊しはじめる日、つまり、大和民族の身心崩壊の始まる「生理的敗戦日」が、法律の形でやってきた。

 1952年(昭和27年)7月31日。
 この日、栄養改善法が公布・施行された。
 この日こそ、私のいう「生理的敗戦日」でなければならない。なぜならば、この法律こそ、わが国における「身土不二の原則」が蹂躙される地ならしの役割をになったからである。

 「政治的敗戦」に加えて、生理的・生物的・生態的に不都合な「生理的敗戦」が決定づけられたのが、この7月31日である。 

 この法律の第一条には、その目的が次のようにうたわれている。「この法律は、国民の栄養改善思想を高め、国民の栄養状態を明らかにし、且つ、国民の栄養を改善する方途を講じて国民の健康及び体力の維持向上を図り、もって国民の福祉の増進に寄与することを目的とする」  

  栄養改善法に、いみじくも現われているのは、米食と野菜中心の伝統食は、わが民族にとって好ましくないということである。 つまり、「白パンと肉乳卵食」という欧米の食生活が進歩的であって、「米菜食中心の伝統食」は、後進性の象徴と見なされたのである。 

 米菜食こそ、わが大和民族の「身土不二の原則」に適った食生活であったが、この民族のイノチとも言うべき米菜食(伝統食)が、当時の為政者と御用学者によって葬り去られたのである。

  この法律は、「栄養改悪法」とでもいうべき代物である。
  この法律を制定した日本政府は、小麦の統制を撤廃してアメリカ産小麦の日本上陸に途を開いた。そのような国策が、米食を駆逐して、今日の「白パンと肉乳卵食」の隆盛をもたらした。

 当時の日本政府は、「身土不二」にもとづく伝統食を崩壊させるキッカケをつくり、わが民族の生命を絶つというた最大の愚挙を演じたのである。

  ◆牛乳とパン給食にみる「生理的敗戦」
  米食民族の食の嗜好を変える実験が始まった。
  「白パンと肉乳卵食」が米菜食を駆逐する経緯は、スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』(朝日新聞社刊)に明らかにされている。以下、要約する。

 1954年のPL480(農業貿易促進援助法のこと、その狙いは余剰農産物処理)にもとづく食糧援助で日本が受け取った食糧は、4億ドル足らずであったが、1974年までに日本がアメリカから買い付けた食糧は175億ドルを上回った。米食に慣れた日本の子供たちの味覚をパン食になじませるために、学校給食が利用され、大成功をおさめた。

 マクガバン・アメリカ合衆国上院議員は、「アメリカがスポンサ-になった日本の学校給食でアメリカのミルクやパンを好きになった子どもたちが、後日、日本をアメリカ農産物の最大の買い手にした」(前掲書)と語っている。  

  ◆「生理的敗戦」で大和民族は滅ぶ  
  アメリカの小麦戦略は、ソフトな侵略主義である。
  ハ-ドな軍事的侵略よりも、その破壊力はすさまじい。
 
  「身土不二」に反する食物をそっと押しつけることは、麻薬になじませるのに似てなくもない。
   軍事力では、民族殺戮(ジェノサイド)を完遂するのは難しいが、それが食戦略では可能である。


 食戦略のターゲットにされた民族は、自壊作用にみまわれる。つまり、多病・短命化、犯罪の横行、少子化などが、民族の活力を奪ってしまう。最近、凶悪犯罪の増加しているが、その根本原因は「白パンと肉乳卵食」の氾濫を抜きにできない。

 敗戦以来、わが国では一貫して「身土不二」に反する「食形態」が推し進められてきた。

 「食の荒廃」が犯罪を引き起こすといったのは、アメリカの犯罪学者A・J・シャウスである。 なお、シャウスについては、本ブログ2007・07・09 「犯罪者をつくるのも、運命を変えるのも、食物なのだ」を参照のこと。

 また、介護保険を必要とするほど、わが国の高齢者の健康状態が危ういのは、棡原村長寿者の教訓が生かされていないからである。   
 その教訓とは、「身土不二」にかなう食こそ、無病・長寿の源であるということである。なお、棡原村長寿者については、本ブログ2007・06・19「アンバランスな食事が、長寿の秘訣」を参照のこと。

 

 わが国の災厄(病人・半病人列島)の源は、すべて、アメリカの意図にすり寄っていったわが国政府の愚かさに求められる。

 愚かさと小賢しさを
象徴する「生理的敗戦」で、わが大和民族は滅びつつある。


世界に冠たる偉大な日本人、食医・石塚左玄(2)

2007-08-13 07:23:16 | Weblog

 

  前回(8月9日)のブログを読まれていない方は、このブログを読まれる前に、前回分を読まれると、今回の一文がいっそう理解しやすいと思います。

  食医・石塚左玄は、食物の正しい取り方として、ミネラルバランスを考えなければならないと説いた。
 この左玄
を徹頭徹尾無視したのが、明治時代の医学者・栄養学者、政府であった。

  日本陸軍薬剤監であった石塚左玄は、ミネラルという微量栄養素の重要性さを、明治時代に欧米に先駆けて世に訴えた先覚者である。今日では、医学者・栄養学者はもちろんだが、一般の庶民でも、ビタミンとミネラルの重要性を知っている。

  だが、明治時代では、当時の(今日でもそうだが)わが国の医学者・栄養学者が崇拝した欧米の医学界と栄養学会では、3大栄養素である炭水化物・タンパク質・脂肪とカロリーが論議の的であった。つまり、当時の栄養学者・医学者は、左玄が唱えたミネラルバランスの重要性を知らなかったのである。

  欧米一辺倒であった日本にあって、ミネラルバランスの重要さに左玄が気づいたのは、たいへん先駆的なことといってよい。今日ならば、石塚は、ノーベル賞を与えられても不思議でないほどの業績を挙げたのである。

  だが、わが国の医学界と政府は、明治以来、左玄を無視し続けたきた。その挙句、いまや、病気の少なかったわが国は、難病・奇病の続発とよる病人・半病人列島と化した。 

 「剣に倒れるものよりも飲食に倒れるものが多い」(西洋の諺)がある。たしかに、私たちを生かすのも殺すのも、食物である。この食物の取り方を、食養で説いたのが、左玄である。

  左玄は、食養の祖である。
 食養とは、食物プラス修養という意味である。「食は病をつくり病を治す」食養の基本のひとつは、ミネラルバランスにある。マグネシュウム、カルシュウム、鉄、亜鉛、マンガンなど、いろいろあるミネラルの中から、ナトリウムとカリウムの二つのミネラルを取り上げて、その均衡(ナトリウム1対カリウム5)の大切さを左玄は説いた。

 前回、述べたことだが、左玄宛の手紙が「東京・市ケ谷、大根先生」でも、まちがいなく届いたというほど、左玄は、食物で病気を治す医師として有名になった。

 食養は、左玄亡きあと故桜沢如一(食養の中興の祖)によって、その欧米名をマクロビオティック(長生術という意味)と名づけられて、同氏とその弟子たちによって、世界に広められてきた。桜沢自身、18十八歳のとき、肺と腸を結核に侵されたが、左玄の食養でもって命拾いした。

 左玄の唱えた食養は、沼田勇著『病は食から』(農山漁村文化協会刊)には、つぎの五つに要約されている。

 ①食物至上論(食物が生命に変わる。したがって健康も      疾病も食物が決める)
 ②人類穀物動物論(人間は、肉食でも草食でもなく穀物
     食である)
 ③身土不二論(その土地でとれるものを旬を守って食べ
    ること)
 ④一物全体論(食物は、皮などもむかずその全体を  
    食べること)
 ⑤陰陽調和論(陰〈カリウム〉と陽〈ナトリウム〉の調和
    がとれるように食物を選択する)。

 左玄の主張をまとめれば、「環境・食物・人間一体論」である。 生理的・生物的・生態的な要素を重要する食養は、カロリーそして食物を栄養素に還元する分析的な現代栄養学とは、そのよってたつ基盤が異なる。

 このブログの筆者がかかわっている、啓蒙運動の拠点「食べ処・身土不二」(札幌)では、左玄の食養に基づく食事をお出ししている。

  このブログを終えるにあたって、桜沢の予言に触れておこう。山口卓三『陰陽でみる食養法』(柏樹社)には、桜沢如一『日本を亡ぼすもの』から、つぎの一文が引用されている。 

 「日本を亡ぼすものは外敵ではない。それは西洋を知らず、また日本そのものをもみずからよく知らず、日本びいきのくせに、内実は西洋文明にあこがれて、ことにその食生活を喜ぶ傾向にあるのは、西洋に身を売って生理的に西洋の植民地化をはかって亡びに至らしめる日本人自身がその元凶であることになる

 日本民族自滅の桜沢予言は、いま、まさに実現されつつあるといってよい。
 
 いい加減にせよ、欧米諸国のサルまねは・・・といわざるを得ない。 

 いつになったら、事大主義という悪癖から、わが民族は抜け出せるのであろうか。


世界に冠たる偉大な日本人、食医・石塚左玄(1)

2007-08-10 07:18:34 | Weblog

 

 世界に冠たる日本人・食医石塚左玄(1851~1909)について、今回と次回の二回にわたって、その足跡を紹介したい。 

 石塚左玄といっても、いまの日本人で知る人は少ない。
 いま、わが国では、欧米から逆輸入されたマクロビオティックが流行りだしている。このマクロビオティックという言葉は、「食養」の欧米語訳である。この食養の創始者が、石塚左玄である。

 冒頭に、食医という言葉がある。
 あまり、聞きなれないことばである。食医とは、いったいどのような医者なのであろうか。
 
 
食物だけで疾病を治す医者を食医という。
 いまの日本では、食医はきわめて少ない。医者のほとんどが、薬医、手術医と放射線医である。

 さて、
石塚左玄は、卓抜な食医であった。

 その評判は、日本中に広まっていた。石塚左玄宛ての手紙が、「東京市牛込区、(通称)野菜医者様」とか「東京市ヶ谷、大根医師先生」、そして「東京市 反対医者大先生様」で届いていたといわれる。
 

 その診療ぶりの一端を、丸山博解題・橋本政憲訳『食べもの健康法』(農山漁村文化協会)にみてみよう。

  (色の黒い太った男、ていねいにおじぎするのも、大儀そう)

 先生(石塚左玄)「どちらです」

 新患「ハイ私は日本橋の×××、今年49歳で」

 先生「49歳(註・始終臭い)顔つきじゃ」

 患者一同(クスクス)

 先生「お前は西洋料理屋じゃろう。全く年百年中、臭い商 売じ      
          ゃ。便秘はする。痔は出る、全く鼻つまみじゃ。そんな事で
          は、地獄へ往生するより仕方があるまいじゃないか」

 新患「イヤハヤもう、この上、地獄へまいらねばなるまいと思います  
    と、まことに心細い次第です」

 先生「お前さんは、肉食の中毒だ。体の肥ったのも、便秘するの
          も、それから、どうとう痔になったのも、原因はみんな肉食の 
         ためだ・・・何でも御飯を頂くのだ、御飯の方を多くするの
         だ・・・まず一番に、お前さんの体にの中にある、塩気を取ら
         ねばならぬ」

 新患「どうしてとりますか」

 先生「毎日お湯に入る。なるたけ熱い湯に入るのじゃ、当分一日
         に二度くらい入ってもよい」

 新患「これはしごき結構です。お湯は私の大好物です・・・」

 先生「お湯で塩気をぬいて、それからじゃ、食べ物は海藻類で
         血液を清らかにせにゃならぬ。当分は、ひじきと油揚げ
         とコンニャクとの煮しめお惣菜にして・・・すいぶん重い痔で
         も、そんなに食物に気をつけると、だんだんに治る。しかし、
        お前さんのは、だいぶ重いから2.3年もすればすっかりよくな
        るよ。何でもしんぼうが大事だ」

 新患「イヤお療治のことなら、どんなことでもきっとしんぼうしま
        す・・・そしてお薬は?」

 先生「何にもいらぬ。『ひじきに油揚げ、コンニャク、大根』とこれ
          が、お前さんのような人の極楽に参られるお経だ。忘れて   
     はならぬ・・・」

 新患「イヤ、こんな経済なお薬が他にございましょう
      か・・・ありがたいお経です・・・」

   ********************

  いささか、蛇足を加えておこう。
 
 前掲書によると、以上のようなやり取りが、石塚左玄と患者との間で交わされたという。

 先のケースは、肉などの陽性な食べ物の過剰によって病になった患者に対する、食箋(食物による処方箋)である。

 もちろん、果物など(陰性な食物)の食べすぎによる、いわゆる陰性体質の人に対する食箋は、別にある。

 食養(狭義)とは、食物・運動などで陰陽の調和をはかって、疾病を克服し健康を保つ方法である。

 だが、食養は、ここに止まるものではなく、食物の調和を軸にして心身を一変する「人間改造法」である。そして、生まれ変わった「新しき人々」による「社会変革」への展望を開くのが、食養の本義(広義)ではあるが・・・。

 なお、前掲書は、石塚左玄著『食物養生法』の現代語訳である。

  

    この続きは、次回(8月13日)である。

このブログは、月曜日、水曜日、金曜日に掲載します。  

 


  


農民を守るために切腹した、江戸時代の公務員

2007-08-08 07:47:27 | Weblog

 

 きょうは、役人と農民に関する話である。

 天草地方の代官、鈴木重成は、農民のために死の抗議をしたことで知られる。   

 代官・鈴木は、納税者である同地の農民の味方となって、江戸幕府に減税を何度も嘆願した。だが、そのつど、その願いは却下された。鈴木代官は、その責任を取って自決したのである。

 この話は、童門冬二氏が雑誌「新世」(2000年11月号)で紹介されている話である。 

 島原の乱、いわゆるキリシタン一揆を鎮圧した幕府が、天草地方をその直轄領とした。その初代代官として送り込まれたのが、鈴木重成である。

 かつて島原の乱の際、鈴木には、その乱を鎮圧するための軍隊に従軍した経験があった。

 鈴木は、その時、島原の乱は、はたして、キリスト教信仰だけで起きたのだろうか、つまり、他に原因があったのではなかろうかという、素朴な疑問を感じていた。 

 島原の乱の平定3年後、鈴木は天草地方の初代代官に任命された。鈴木は、かねてからの疑問を解くために、喜んで同地へ赴任した。

 赴任後、農民の担税能力を精力的に調査した。
 そして、天草地方への課税4万石は過酷であるという結論に達した。税金は、半分の2万石が適当であると判断し、課税を半額にするよう幕府に嘆願した。その嘆願は、幕府から一蹴された。

 屈せずに、鈴木代官は、13年にわたって嘆願を繰り返した。だが、その願いは入れられなかった。嘆願を繰り返すうちに62歳になった鈴木代官は、承応2年(1654)に最後の嘆願をして、それが入れられないとなるや、切腹して果てたのである。

 鈴木代官は、幕府に対して「死の嘆願」というか「死の抗議」をしたのである。

 鈴木代官の行いは、大変なものである。
 公務員というものは、どうあるべきかのカガミである。
 
それに引きかえ、現代の公務員はどうか。
 鈴木代官のツメのアカを煎じて飲まなくてはいけないのが、いまの公務員である。
  
 この数年、収賄など、役人(公務員)にまつわる不祥事は頻発しているようである。綱紀のたるみそして不祥事は、国家公務員に限られず、地方公務員にも広がっている。
 
 中国の毛沢東(故人)は「為人民服務」(民衆のために奉仕せよ)といった。公務員であれば、中国に限らず日本でも、民衆(納税者)に懸命につかえなければならない。文字が示しているように、公務員とは、公衆に奉仕する人である。

 崇高な職業である。だが、世の親の中には、公務員は失業の心配がないからといって、己のダメ息子や娘を公務員にしたがるダメ親がいる。
 
 とんでもないことである。考え違いもはなはだしい。本来、公務員には、最も優秀な人間がなるべきものであろう。
でなければ、破廉恥で無節操な公務員がのさばることになりかねない。 
 
 いまでは、わが国の食糧自給率は、カロリー換算で40%でしかない。

 ということは、わが国民の過半数が、生命を養う食物(食物イコール生命というべきであるが)を外国に支配されて、外国の人質になっているといってよい。

 この亡国的状況を解消するには、わが国農業の行政的責任の一端をになう各級官庁の農政公務員の奮闘が必要とされる。

 鈴木代官のような自決までは求めないが、一身上の不利を顧みずに、場合によっては、辞職を覚悟で農民と納税者のために闘う役人はいるのであろうか。

     

       次回は、8月10日(金曜日)

 このブログは、月曜日、水曜日、金曜日に掲載します。 


「食物の量」も大切だが、「食物の質」も大切

2007-08-06 09:18:07 | Weblog

 

 本日のテーマは、「環境拘束性」という「食物の質」である。

 「環境拘束性」(筆者の造語)とは、いってみれば「身土不二の原則」の別名である。 

 名著『なぜ世界の半分は飢えるのか』(日本語訳・朝日新聞社刊)の著者・スーザンジョージは、その近著『WTO徹底批判』(杉村昌昭訳・作品社)で、食物の自給についてつぎのように述べている。 

 「民族の主食をいったような必要不可欠の食糧が、どこか遠くにある世界市場に-しかも予測しがたい価格に-依存するなどということは、まったくとんでもない話しである。大半をそれぞれの国や民族の現地の消費者のために生産する多くの中小の農業者でもって、世界中(すべての人)に食糧を与える方が、よほど確実である」。

 同氏の発言に異論はない。
 たしかに、同氏のいうように、食物の「量」の確保は大切であることは、いうまでもない。

 だが、食物となれば、「量」だけでなく「環境拘束性」という「環境に支配・強制される質」を抜きにできない。

 ここでいう「質」とは、残留農薬・化学肥料にかかわるだけでなく、「環境」に拘束される「質」のことである。

 世界各国が食糧自給を必要とする根本理由は、「環境拘束性」を保たなければならないことに求められる。
 
 なぜであろうか。「食物と環境との同一性」を私たちに強制する「自然の掟」に従わなくては、健康に生きられないからである。 

 具体的な例として、バナナでもって、この「自然の掟」を考えてみよう。 
 
 バナナは、熱帯の産物である。したがって、バナナは、熱帯に住む人々の食べ物である。バナナと、それを適食とする人々を結ぶものは、熱帯という環境である。

 熱帯に住む人々が、バナナを食べることは、「環境との同一性」を保っていること(=「環境拘束性」)になる。
 
 だが、バナナの産地でない日本にいながらにして、バナナを食べることは、この「環境との同一性」を破ることになる。「環境との同一性」を破れば、肉体と精神弱体化、疾病が待ち受けている。

 「環境拘束性」をぬきにして、「農業」「食物」そして「健康」を語ることは、片手落ちである。

 「食物の本質」である「環境拘束性」がないがしろにするならば、いかに量が足りていようとも、それは、食物の本筋を外れるものといわなければならない。

 食糧が、「環境拘束性」という「質」を無視して、「量」の確保だけですむものならば、外国から安定供給が絶対的に保証されれば、それで、食糧問題は解決されることになる。(もっとも、食糧供給の絶対的保証というものは、現実にはあり得ないが。絶対的保証という言い方は、ここでは論理の上でという意味である)。  

 この「環境拘束性」という「質」ゆえに、各国とも、食糧自給が必要となる。食物に限っては「量」と「質」はワンセットでなければならない。

 食物の「量」と「質」の両方を担うものとなれば、それは、輸入農産物ではなく、各国の農業で産みだされた農産物以外にあり得ない。  

                次回は、8月8日(水曜日)

 このブログは、月曜日、水曜日、金曜日に掲載します。


納税者は、殺されるために、税金を払っているのか

2007-08-03 12:55:08 | Weblog

 
   
  安全・安心な食品を選ぶには、表示への理解など、あれこれの知識が必要とされるのは、いかがなものであろうか。  
 
 これ
まで、砂糖とコンビニ弁当の害、輸入農産物の氾濫、食品添加物の有害性、3白食品(白米・白パン、白砂糖、化学調味料)によって健康が蝕まれること、「身土不二の原則」(地域性と季節性)の無視、「伝統食をほうむりさって肉乳卵食」を推進した国策の誤り・・・を論じてきた。

  いまや、わが国は、ジャンクフ-ズによる「国民総食汚染」の状況にあるといってもよい。こうした事態を招いた原因と責任は、いったい、どこに求めたらよいのであろうか。

  このブログの筆者は、政府にあると思う。
  個人の責任がないとはいわない。だが、それは、国の責任に比べたら、ないに等しいというのが、筆者の意見である。

  なぜならば、私たちは、納税者であるからである。納税は国民の義務である。税金でまかなわれる政府は、納税者に対して、国民の健康をおかす食物を禁じ、安全・安心の食物を供給する諸政策で応える義務がある。

  だが、政府は、国民の健康を守ってきたであろうか。むしろ、国民の健康を害してきたのが、わが国政府であるといわなければならない。
 
  たとえば、街で売られている弁当、ほとんどの加工食品に使われている砂糖である。

  弁当は、弁当製造会社の経営幹部そして従業員が危険を感じて食べないことは、本ブログ2007年6月3日「コンビニ弁当をつくる会社の社長と従業員は、コンビニ弁当を食べない」で述べた。

  砂糖に至っては、犯罪につながる代物であると、前回のブログ・8月1日「砂糖とキレル症候群と犯罪」で述べた。

  こうした危ない食品の製造・販売が、政府によって公認されていることは、納税者に対する政府の裏切りでなくて、何であろう。私たちは、殺されるために税金を払っているのであろうか。

  安全・安心な食品を求めようとすれば、消費者(納税者)は、食品の表示、食品添加物の知識など、あれこれの情報でもって、食品の安全性を見極めなくてはならない。

 こうした選択を消費者に行わせていること自体、政府の怠慢である。あれこれの知識なくしては、安全な食品を選択できなくなっているのは、政府が、その負うべき責任を納税者の責任に転嫁しているからである。

 あれこれの知識なくても、安全・安心な食品を得られるのが、当然のことである。いったい、納税者は、何のために、政府に税金を払っているのであろうか。

  刑法には、殺人に対する処罰が記されている。国民の生命を奪う食汚染を公認してきた政府は、未必の故意で処罰されるのであろうか。

                    次回は、8月6日(月曜日)

 このブログは、月曜日、水曜日、金曜日に掲載します。

  


砂糖とキレル症候群と犯罪

2007-08-01 12:15:58 | Weblog

 

  「キレル症候群」と犯罪は、砂糖の摂取と関係がある。
 
 アメリカの犯罪研究学者A・Gシャウスは、砂糖の害を、その著『栄養と犯罪行動』(大沢 博訳・ブレーン出版)で明らかにした。 

 アメリカ合衆国の例として、ある矯正施設で砂糖抜きの食事で生じた変化を、シャウスは、次のように紹介する。
 
 「暴行、強姦、加重暴行、自動車盗、暴力行為、子どもへのみだらな言い寄り、放火、致死可能の武器の所有という事件で収容されたものたちが、食事変化(註・砂糖ぬきの食事)でもっともよくなったのである」(前掲書)。

 砂糖を食べることで起きる「低血糖症」(糖尿病の逆の症状)で、反社会的行為が引き起こされ、砂糖減らしで異常行動が改善される。砂糖を減らした未精白穀物の食事で、強盗・麻薬・強姦・殺人などの犯罪行為が劇的に減る。これらのことを、シャウスは前掲書で実例を挙げて、くわしく論じている。

 ささらに、シャウスは、次のように語る。
 「現在まで、多人数の犯罪者の加工食品食事を減らし、栄養素が豊かで化学処理されていない食事を提供するという研究で、そのような食事変化が反社会的行動の率に、測定可能な低下をひき起こさなかったことを示したものは、世界中に一つもない」(前掲書)。

 翻訳臭が残る日本語訳でわかりにくいが、要するに、「加工食品食事を減らして、栄養素が豊かで化学処理されていない食事で犯罪が減る」ことは、これまでの世界中の研究で証明されている、ということである。

 先の引用には「栄養素が豊か」「化学処理されていない」という言葉があるが、このことに正反対の食品が、砂糖である。砂糖は、加工食品の最たるもので、しかも、化学処理されており、精製炭水化物以外、いかなる栄養素もないものである。
   

 シャウスは「人間の歴史で、人々の食事がこんな短期間にこれほどの急激な変化をした時代はない。体の中のもっとも敏感な器官である脳が、私たち全部になんの影響もなく、この急激な変化に耐えられるだろうというのは、論理を無視することである」という。その具体的例として、砂糖の大量消費が含まれてしかるべきであろう。  

  日本では、キレル子供・大人が、社会現象となっている。      
 キレルとは、脳の抑制機能がうまく働かないと考えられるが、いいかえれば、脳が「狂っている」ことである。

 キレることは、殺人などの犯罪行為につながりかねない。筆者の憶測であるが、わが国ではキレルを辛うじて抑制している「キレル症候群予備軍」は、相当数いるのではなかろうか。日本国民は、大なり小なり、皆、キレれやすくなっている「総国民半キレ状態」にあるのかもしれない。

 この総国民半キレ状態を引き起こす元凶のひとつに、砂糖が含まれるいってよかろう。
 

 シャウスは語る。「もし、犯罪者という少数集団の行動が、栄養素の濃い未加工食品と食事でよくなるというならば、何百万というもっともっと大きい社会にとって、どういう意味を持つことになるであろうか」(前掲書)

 この一文の示唆するところは、「栄養素の濃い未加工食品と食事」で、犯罪が減って住みよい社会になるということである。当然のことながら、砂糖は除外される。

 さて、砂糖と法務省と厚生省の関係である。
 厚生省は食物・食品にかかわる官庁。
 法務省は、犯罪防止にかかわる官庁。
 厚労省は、砂糖を禁じないことで、犯罪の発生を促している。つまり、法務省の仕事である「犯罪の防止」を妨害しているのが、厚労省であるともいえる。

 
 前回、書いたことだが、いま一度、触れておこう。
 砂糖は、「人を狂わせ」「社会を狂わせ」「国を狂わせる」。その行く末は,自己崩壊である。砂糖を禁じないで、犯罪を減らすことは不可能であろう。 
 

        (次回は、8月3日)

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悪童・マイケルに、砂糖抜きの食事を与えると

2007-07-30 10:56:22 | Weblog

              (前回の続き)

  あるイギリスの有名な話である。

  それは、悪童・マイケルの変身物語である。以下、高尾利数『砂糖は体も心も狂わせる』(ペガサス)から、紹介する。
 

 悪童・マイケルとは、マッカーネス医博(イギリス)の患者であった。同博士は、家庭医としてマイケル坊やを、長い間診てきた。前掲書に、この坊やは、次のように描かれている。

 「たいへんケンカ好きであり、学校に行っても、家庭でも勉強にも遊びにも集中できないし、忍耐強く何かをやり通すということができなかったのです」(15ページ)

 「この坊やは、いつも落ち着かず、手が震えていました。そして話をしようとするとどもるし、イライラして怒りっぽく、情緒が不安定で自分の爪をよく噛んでいました」(16ページ)

 このようなマイケル坊やを診ているうちに、マッカーネス医博は、坊やは、まっとうな食事をしていないことに気づいた。

 この坊やは、「かぎっ子」のような生活をしていて、自由に使えるお金で、毎日、自分の好き勝手なものを食べていたことがわかった。
 
 「マイケル坊やが毎日主として食べていたのは、アイスクリーム、種々のケーキ、種々のチョコレート、精製シアリアル、グディーズと呼ばれる菓子類、ボン・ボン、ミルクセーキ、ミルク・チョコレート、そして白パンと加工食品ばかりでした」(16ページ)

 そこで、マイケル坊やの悪童ぶりは、食事と関係があるとみた同博士は、坊やの母親と相談して、坊やの食事を変えてみることにした。

 それまで食べていたものをすべて止めさせ、とくに砂糖はいっさい食べさせないようにした。そして、肉類を減じ、黒パンとたくさんの野菜を食べさせた。

 すると、一週間もすると、先に述べた悪童ぶりの数々が消えていき、数週間もすると、驚くほど素直なよい子になった。

 その後、同博士は、試みにマイケル坊やに,以前と同じような食事をさせたところ、数日後には、マイケル坊やは、また、以前のような悪童に戻ってしまった。

 そこで、ふたたび、砂糖の入らない食事に戻してみると、マイケル坊やは、また、よい子に戻った。

 以上が、悪童・マイケルの変身物語の要旨であるが、ひとつ申し上げたいことがある。マイケル物語は、単なるエピソードの類ではなく、リチャード・マッカーネス医博(イギリス)による臨床医学的データに基づいていることである。 
  しかも、それは、同博士から、1964年8月21日、ロンドンで開催されていた「社会精神医学国際会議」において発表されてもいる。

  さて、このマイケル坊やは、砂糖の過剰摂取で、「低血糖症」に陥っていたと考えられる。

  「低血糖症」とは、つぎのようなものである。
 精製された砂糖は、身体に取り入れられると、急速に吸収されて、血液中に一時的に糖の洪水(高血糖)を引き起こす。その状態をただすために膵臓が多量のインシュリンをだす。すると、こんどは、糖が少なくなりすぎて、血糖値が低下したまま、あがらない状態となる。これが、「低血糖症」である。 

 「低血糖症」に陥ると、脳が必要とするブドウ糖(=血糖)が不足する。このブドウ糖不足を解消するために、攻撃ホルモン・アドレナリンが分泌される。それが、人を攻撃的にさせる。

 「低血糖症」は、次のような症状を示す。
 大沢博『その食事では悪くなる』(三五館)には、600人以上の低血糖患者を治療したアメリカ・フロリダ州のステファン医師による「低血糖症候群リスト」がある。
 
 神経過敏、いらいら、極度の疲労、無気力、ふらふら、震え、冷や汗、弱い発作、うつ、めまい、眠い、頭痛、消化障害、忘れっぽい、不眠、たえず悩む、わけのわからない不安、精神的錯乱、内的震え、心悸亢進,頻脈、筋肉痛、感化麻痺、非社交的,反社会的、決断できない、発作的に泣く,性衝動の欠如(女性)、アレルギー、協調運動不能、脚の引きつり、集中力欠如、目がかすむ、筋肉のひきつりや不随意運動、皮膚がかゆかったり、何かが這うような感覚、息がきれる、息がつまる発作、よろめき、ため息とあくび、インポテンツ(男性)、意識がなくなる、夜間の恐怖、夜驚、リウマチ性関節炎、恐怖症、恐怖、神経性皮膚炎、自殺志向、神経衰弱、けいれん
 (前掲書96~98ページ)

  いまでは、梅干にも砂糖が使われて、甘ったるくなっている。街で売られている加工食品は、そのほとんどに砂糖が使われている。

 これほど多く、砂糖が使われているのだから、わが国民のほとんどが、大なり小なり「砂糖の害」を受けている。しかも、その害は、継続的に毎日・毎日、免れることがない。

 ということは、程度の差こそあれ、わが国では、いつも「国民総低血糖症」の状態にあるといってよい。その程度がひどければ、犯罪、交通事故、疾病が引き起こされる。その程度が軽ければ、いろいろな不定愁訴に悩まされる。

 要するに、先にあげた「低血糖症候群リスト」が示すように、砂糖は、人を「たえず悩ませ、わけのわからない不安に駆り立てる」だけでなく、「精神的錯乱と内的震え」へと導く。つまり、砂糖を継続的にとり続けるわが国民は、そのほとんどが、程度の差はあっても、いつも狂っているのであろうか。

 だが、いまだに、国は砂糖を禁じてない。これは、国自身が、すでに狂っているということか。 
 しかも、国の狂いをたださなければならない国民自身も、砂糖で判断力がマヒしているとなれば、これは、もはや救いがたい。

 砂糖は、わが民を狂わせ、わが国を狂わせる。そして、民が滅び、国が滅ぶ。

     (次回は、8月1日水曜日)   

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