「健康不安症候群」が蔓延している。
「健康不安症候群」とは、健康が不安でならない症状。
本屋には、健康に関する本と雑誌が氾濫している。「健康不安症候群」は「重症」である。
いまや、「国民総半健康」の状況にある。
たとえば、「生活習慣病改め国策病」のひとつ、糖尿病は、かつては中高年の病であったが、小児糖尿病という言葉が示すように、糖尿病は子供にまで広がっている。若い人も、ガンにおかされる。かつて、成人病といわれた病が、実情にあわなくなって、いまでは、生活習慣病といわれるようになった。
この名称変更にこそ、日本が「総半健康人列島」と化した現実が示されている。ちなみに、この生活習慣病という呼称は、「国策病」というべきである。なお、「国策病」については、本ブログ2007年5月7日「国策病という病」を参照されたい。
◆健康になれない健康情報
たしかに、「健康障害の総国民化」という深刻な状況があるが、そうとばかりとはいえない現実もある。
「健康不安症候群」の背景には、健康不安をあおる人々がいる。健康不安を商売のネタにする人が、「健康不安症候群」をまき散らしているともいえる。
いまや、「健康は商品」となった。
「健康不安症候群」は、「健康障害の総国民化病」という現実と、「疾病の商品化」が、あいまってつくられたというのが真実であろう。市場経済とは、あらゆるものが商品として流通するシステムである。「健康の商品化」が、すさまじい勢いで進んでいる。
健康雑誌では、ニンジンはこうして食べたら体調がよくなったとか、このような類いの記事をよく見かける。
ニンジンの効用をうたいあげるのは間違いではないが、そのニンジンの素姓というか、とれた時期も産地も無視されている。無農薬か否か、有機栽培か否か、輸入物であろうが、国産ものであろうが、どちらでもかまわないというわけにいかない。
つまり、「身土不二の原則」が抜け落ちている。
この「原則」を抜きにしては、「みせかけの健康」は得られるだろうが、「真の健康」は無理だ。
「身土不二の原則」とは、「身体は環境と一体」という意味である。つまり、私たちは、地元の農畜産物を食べなければ、健康を保てないということ。「農畜産物の生産地」と「それを食べる人の住まい」が、ほぼ同じでなければならない
輸入農産物は、外国の環境が食物に化けたもの。日本という環境にあって、外国の環境の生産物を食べることは、異質な環境を身体に取り込むことになり、これでは生理的な不調和が生じて、健康障害を引き起こすというのが、「身土不二の原則」である。
「身土不二」は、健康の源である。
「身土不二」に反する食生活は、人々を多病・短命にする。政治にせよ、経済にせよ、その究極的な目的は、人々を健康で暮らせるようにすることにある。したがって、「身土不二」とは、健康問題だけに止まらず、すぐれて政治問題であり経済問題でもある。
これほど大切な「身土不二」が、健康雑誌では取り上げられない。
◆「身土不二」が無視される理由
健康雑誌をはじめ、新聞・ラジオ・テレビなどが「身土不二」を避けて健康を説くほど、人々を愚弄するものはない。
見せかけの健康はともかく、「真の健康」になれないことを前提にして、健康を説く健康雑誌は、詐欺まがいといっては言い過ぎだろうか。
ところで、「身土不二」が、健康雑誌から無視されるのは、なぜだろうか。「身土不二の原則」とは、「解放思想」であって、同時に「危険思想」でもあるからである。
「解放思想」とは何か。
「農と食」を商業主義の呪縛から解放し、民衆に真の健康を取り戻させてくれるという意味で、この「原則」は解放に他ならない。
「危険思想」とは、何か。
この「原則」は、健康・生命など眼中になく、ただ単に営利を目指す集団とか個人にとっては危険な考えである。この「原則」によって、彼らの望む経済的利益は否定されてしまうからである。
思想というか哲学というか、こうしたものに触れたくないというのが、健康本とか健康雑誌というものである。
いっぽう、うがった見方をすれば、こうも考えられる。
健康雑誌で「身土不二」が無視されるのは、大衆に健康を取りもどされては、雑誌側は困ることなのかもしれない。
健康雑誌を買う人が、本当に健康になってしまわれては、もはや、そのような雑誌は売れなくなる。いつも、健康不安にさいなまされる人々が存在することが、商売繁盛の秘訣なのであろうか。
「身土不二」をぬきにして、食事療法がどうとかという「技術的な対応法」に終始するだけでは、真の健康を望む人々を惑わすだけである。原理・原則を無視しながら、不都合を技術で解決しようとすることは、天に唾する類いの愚行である。