太田市長とれたて日記

清水まさよしが太田の元気をお届けします

「やりたいことならがんばれる」を発見させることが教育 その2

2008年05月24日 | Weblog

たとえば、自分が通信簿で「5」を取りたいと思う科目だけ集中して授業を受けさせるとか、そういう極端なことはできないものだろうか。
そうすれば生徒にとって学校というのは楽しい場所になる。
学校というのは概して全体でものを考えがちである。すべてが組織として動く。
「ひとりひとりの生徒の身になって」というのは先生の気持ちとしてはあるだろうが、学校現場の現実論となると、どうしても全体が優先し、組織の問題がひとりひとりの問題より前に出てしまう。
ただ、教育の本当の目的は、やはり生徒ひとりひとりに勉強してもらうことであるし、生徒の身体の中に残る「結果」とか「成果」の中に教育の本来の実の部分はある。
今の学校というのは不登校であっても中学まではそのまま卒業できる。
不登校の場合、生徒は学校に来ないわけだから、学習指導要領など、そもそもまったくおかまいなしに卒業できる。

 

つまり、義務教育とはいうものの親が子どもに、「教育を受けさせる義務」も行政が「教育を与える義務」も両方とも実行されなくても、おとがめもない。
これを学校のほうから逆手に取ると、面倒な生徒は学校に来ないでくれ、ということにもなってしまう。
それでも卒業はさせます。
卒業はさせますからそれでいいでしょうと、学校の方から授業放棄してしまう、などということは別に珍しい話ではない。
高校であっても事情は似たりよったりで、多少の不登校でも卒業はさせるし、いったん入学してしまえば、成績が悪いくらいで卒業できないなんてことはまずない。
つまり、生徒の身体の中、頭の中に何が残ったかは関係なく、教育の現場は日々進む。学校が授業としてその科目をこなしたかどうかだけが問題で、生徒個人の中に残った教育成果のことなど関係ない。

 

教育の場合、どうしてこういう実質的でないことが問題にならないかというと、通信簿で「1」を取るような生徒にとっては、そもそもその勉強は必要ないんだろう。
生徒も親も何も学校に期待していないから、多少雑に扱われても文句が出ない。
期待できそうもない食堂に入って、やっぱり思っていたとおりのまずいものが出てきても、それはその食堂に入った自分が悪いのであって、つまり客は反省したとしても怒りはしない。
こんな関係が学校の中にもありはしないか。
通信簿が「5」から「4」になってショックを受ける生徒はいると思う。
でも「2」から「1」になってもそういう生徒はショックなんて受けない。
所詮、生徒にとってその勉強は興味がないんだろうから。

 

話を元に戻すと、生徒が本当にやりたいと思えるものを見つけてあげる、「これ」と思えるものが見つかったらそこをトコトン深掘りさせる、「これ」というものに対しては妥協させない、これが本当の教育なんじゃないだろうか。

 

昔、家庭科の授業で「運針」というのがあった。針と糸でひと目ひと目雑巾を縫う。
灘高や開成の生徒も運針やるんだろうか。「灘高と運針」どうなのだろう。
美容師を目指している生徒に物理はいるのだろうか。教師からは、もちろん「必要です」という答えがかえってくるだろう。
ただ、こういう多少無茶な暴論をあえてふっかけてみたくなるのは、とかく教育が机上論だけに終始しているように思えてならないからだ。

 

世の中には「理路整然とした間違い」というものもある。
それに対しては「無茶苦茶な正論」というのをぶつけてみたくもなる。
世の中に出れば辛いことなんて山ほどある。
「辛いことをやっているんだから、だから人からお金をもらえるんじゃないの」というのが現実だ。
大人であればそれは身に染みてわかる。
ただそれをそのままそっくり認めてしまうと、やっぱり世の中がつまらなくなってしまう。
だから子どもたちにはせめて「好きなことをやっているんだから、辛いなんて言えないよな」というセリフぐらいは用意してあげたい。
それが教育なんだろうから。


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