日曜日は休日ではない。ほとんどの場合、行事が入っている。
今朝は市民総体、水泳大会が市民プールで開かれた。
出場者はその大多数が子どもたちだ。開会式直後の小学生の200mメドレーリレーをみた。みんなきれいな泳ぎをしている。
「バタフライなんか、むずかしいのだろうがうまいね。ただ練習しているだけではああはいかない。子どもたちの可能性は指導者で決まる」
イトマンができた。イトマンのユニホームが目立つ。以前は野間スイミングが強かったように思ったが、今ではイトマンか。
学校でも練習をしているはずだ。でも、専門に教えるコーチにはかなわない。「先生もがんばって」と声援を送りたいが、学校の限界なのだろう。
こんなこというと叱られそうだが、あえていうと、学校の先生が苦手の分野ははじめからギブアップしたらどうだろう。
たとえば、学校でやるよりスイミングスクールのほうが子どもたちの可能性を引き出させると思ったならば、スイミングスクールに子どもたちの教育をお願いしてしまう。「泳ぐ」という基礎的な教育テーマをスイミングスクールに委託する。
小学校3年生までに全員「泳ぐ」ということを身につけさせることは可能のような気がする。学校の先生にこのテーマを与えてもむずかしいのではないか。
体育を通じて「人間をつくる」ことができる。教えるテーマによって委託すれば、先生の加重感は減る。「どうやって、泳げるようにするか」泳ぎの苦手な先生は、まじめな先生であればあるほどこの季節になると悩みが増えるのではないか。
市民総体でスイスイ泳ぐ子どもたちをみて、変なこと?が頭に浮かんだ。
道路の北側にある塾の張り紙が否応なく目に入る。
「太高94名、太女96名合格」誇らしげだ。
南側の塾にも「太高32名、太女23名」と窓ガラスに貼られていた。
夏休みは受験生にとってのんびりしていられないときである。遅れた勉強を取り戻すためにも、希望する高校に入るためにも塾は欠かせないものになっている。張り紙をみればわかる。
「勉強までも委託か。これだけは塾に委託せずに学校でやってくれないものか」
ゆとり教育が子どもたちの学力低下の原因だ、として批判の的になっている。
教育再生会議でもこのことが話題になったようだ。「授業時間を増やすべきだ」と。
授業時間を増やせば学力を上げることができるという論法はベルトコンベアーに乗って商品をつくる作業に似ている。コンベアーを動かす時間が増えれば製品の数量が増える。
この論理である。
時間で物事が解決するわけではあるまい。
子どもたちと「縁台トーク」をやっている。
「塾のほうがわかる」という声をきくと、肩が落ちる。なにが違うのか、何かが違うので
ある。だから、塾は流行っている。
「数学とか英語とか少人数でやっているでしょう?」といってもピンとこない。
効果があるのか、ないのか。いずれにせよ、勉強は塾と信じている子どもたちが多い。「勉強は学校」といえるようにならないのか。くやしい。
塾に行くにはずいぶんとお金がかかるという。夏期講座、冬季講座が普段とは別に持たれる。子どもをもつ先生方はわが子を塾に通わせるジレンマを感じないのだろうか。「仕方がない」と思ったら負けである。
お金に余裕のない家庭の子は希望の高校に進学できにくい。その延長が有名大学になっている。そして、就職につながる。すべての事例がそうでないと思うが、巷間そう言われている。
流行の「格差」ということばを使えば、経済的格差を教育的格差に連動させたらいけないのである。
「民間にできることは民間へ」は構造改革のキーポイントである。
勉強までもが構造改革の範疇になったら、「官=公教育」はどうすればいいのだ。
信頼される教育はこれからも教育行政の最大のテーマだ。