太田市長とれたて日記

清水まさよしが太田の元気をお届けします

小山五郎さんとの思い出のひとこま

2006年03月06日 | Weblog

 小山五郎さんがお亡くなりになりました。太田市の名誉市民でした。心からご冥福をお祈りします。

 1996年の初夏、旧三井銀行本店で江戸英雄さんを加えて鼎談をしたことがあります。もう10年も前のこと。江戸英雄さんは元三井不動産の社長をしていた方であり、東京ディズニーランドの建設を手がけられた傑物です。私も市長になったばかりで、まさか、お話ができるなんて思ってもみなかった。すごく緊張していたのを覚えています。

 あのときの江戸さんは90歳を越していたでしょうか、耳も少し遠くなっていました。小山さんが紹介してくれて、お話の機会をつくってくれました。その後、しばらくしてお亡くなりになったとのこと、私が最後の対談相手だったのだと思います。

 お二人が無二の親友になったきっかけは三井グループの解体と産業の再建で議論したこと、小山さんは「昔のケンカは真剣だったのです。お互いをぶつけ合ったのです。それで、心のふれあいができました。お互いに『いいやつだなあ』ということがわかったのですね」こう語っていました。

 

 「長生きは安らかで社会に有用な長生きであるべきですね」とお話になられ、政府にチクリと釘をさされました。

 「60歳のときに年金を辞退したことがあります。そうしたら、厚生省が『困る』というのです。政府がそれだけ助かるからいいと思うでしょう。ところが、『ひとりだけ政府の方針とちがうことをやりだすと、それをより分ける費用が年金より多くかかる。やめてくれ』というのです」

 これはおもしろい話で記憶に残っています。名誉市民としての年金を少額ながら予算化していましたが「市民のためにお使いください」とご辞退され続けていました。

 

 さくら銀行の名誉会長室の応接間でお話をさせていただいたのですが、エレベーターから応接間にいたるまでがギャラリーでした。小山さんの部屋もギャラリーでした。迫力のある風景画が並んでいました。

 いつもスケッチブックを持って世界を歩いていたとのことです。スケッチは描いた場所のイメージがずっと残るとおっしゃられていました。

 「人はだれでも、自分の感情や意思を自然に表現するものです。表現力というものですか・・。それが、何かのきっかけで、たとえば描いた絵をほめられたりすることによって、それにのめりこんでいくことになるのです。私もそうでした」

 小学校の校長先生が県の展覧会に出すように勧めてくれたそうです。それが銀賞になった。これを機会にいっしょうけんめいになったそうです。「絵描きになろうかと思った」というほどの腕前です。残念なことに、太田市で所蔵している作品はひとつもありません。あのときがチャンスだったのか、と思うと悔いが残ります。

 

 そうそう、こんなことも言っておられました。

 「エコノミック・アニマルと外国人から批判されていたとき、『日本人は、銀行員だって趣味でこのくらいの絵は描くのだぞ』と、自分の絵を見せたものです」

 金儲けばかりが日本人ではないという証明をしたとのことです。小山さんは特別にすばらしい絵をお描きになる。別格です。その絵をみた外国人はびっくりしたはずです。仕事が日本人の趣味と思っていたのでしょうから。

 「画室に入って絵の具のにおいをかぐと気分が変わりました。私を慰めてくれたのは絵でしたね」

 

 銀行苦難の時代を乗り切ってこられた姿は奥にしまって、いつもながらの穏やかな語り口調で後輩の私にいろいろお話いただきました。太田高校の大先輩には政治・経済界、それぞれで活躍された方がたくさんいらっしゃいますが、偉ぶらず、常に相手の目線でお話をされる立派な方でした。一生かかっても小山さんのようにはなれない気がします。

 江戸さんをご紹介いただき鼎談ができた10年前のことを思い出しました。

 戦後史に残る大先輩からいただいたご厚情に心から感謝しています。ありがとうございました。


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