「島崎城跡を守る会」島崎城跡の環境整備ボランティア活動記録。

島崎城跡を守る会の活動報告・島崎氏の歴史や古文書の紹介と長山城跡・堀之内大台城の情報発信。

「島崎盛衰記」常陽新聞掲載記事の紹介

2020-12-24 14:35:27 | 歴史

約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に10回シリーズで掲載された記事を紹介します。

[島崎盛衰記その2】

宗幹、胸に筒矢当たる 源平入り乱れて死闘

 北風の吹きまくる中を西海に乗り出した船5隻、その数およそ二百五十騎にすぎなかったが、いずれも一騎当千の強者である。あまり風が強いので帆の裾を切って風を通し、船を相互にはさみ、わき風がくれば嵐の表へ乗りかけ、□になれば中を乗り、打浪は船首をくだき、船尾を洗った。とても目的地までたどりつけまいともみられたが、必死の梶取だったから。苦しいながらも乗りすすみ、三日路のところをわずか4時間で、阿波国の勝浦というみなとについた。

 5隻の船を1ヶ所に漕ぎながらはるかかなたを見渡せば、なぎさから5,6丁ばかりのところに、赤旗が林立している。半官殿は、おのおの用意をせよ、馬は船につけて泳がせよと命令した。敵は矢襖をつくっていた。二百五十騎の兵、くつわをならべ、なぎさへかけあがった。半官殿が諸軍に咲きだち、声をあげてすすめば、つづいて川越太郎。常陸大掾、堀藤次、熊井太郎、江田兼八をはじめとして、亀井、片岡、伊勢、駿河など、われもわれもと名乗りをあげて切ってはいり、秘術をつくして戦ったから、敵将桜間外記は一戦に打負け、木の葉が風に散るように、右往左往して逃げまわる。寄手は追いかけ追いかけ、強き者をば生け捕って、縦横無尽になぎたてた。桜間外記はふせぎかね、馬にむち打って逃げだしたが、これをきびしく追いかけて生捕り、まずまずの出足とよろこんだものだ。

 それから、阿波、讃岐にあるところどころの城を攻めてみたものの、みな大風に油断してなんの備えもなく、あるものは討たれ、からめ捕われ、まったく手だしする者はなかった。さらに源氏の軍勢二百五十騎、破竹の勢いで屋島の内浦ちかくにどっと攻めかかり、火をかける。平家方は敵兵たちの勢いにのまれ、あわてて安寿帝を御座船に移し、北の政所はじめ女房方を乗せて、西海に押し出す。源氏の先手七、八十騎、引き潮を利用して海近くに乗り入れ攻め、相方に名乗りをあげ、互いに負けじ劣らじと必死になって戦ったが、両軍ともつかれてさっと引き、ここでにらみ合いながら一服。

 このとき、能登守教経が兜もつけず、唐綾おどしの鎧にいかものづくりの大刀を帯び、五人張りの大弓をたずさえ、菊王丸という小姓をしたがえて源氏の軍勢の□にたった。教経は平家隋一の大将で、弓勢は鎮西八郎為朝にも劣らない精将だったから、この人の矢先にむかう者は命が無いとまでいわれた。その教経が、源氏の大将九郎判官義経を一矢で射落そうと思えば、源氏方も敵将教経を倒そうと、常陸大掾宗幹がまっ先にすすみでて、能登守の矢を切り払おうと構えた。

 これを見た佐藤兄弟、江田、熊井など一騎当千の勇士、馬のくつわを一線にならべ、矢表にたちふさがった。能登守は気おいたった。宗幹は能登守の大弓の矢を5本まで切り払ったから、教経は怒り、かねて用意していた筒矢をつがえ、ひょうと放った。

 宗幹はその矢を切り払おうとしたが、間に合わず胸板をはっしと射抜かれ、急所だったこともあって即死、真っ逆さまに馬から落ちた。この宗幹をはじめ、屈強の勇士14人が教経の矢に倒れた。次いで、大将危うしとみた佐藤兵庫繁信がすすみでて、矢表にたったものの、これも胸板をぶち抜かれ即死。これをみた教経の小姓菊王丸は、繁信の首を切り落とそうと、船をとびこえてやってきたから、佐藤忠信がこれを討ち、その首を切り取ろうとすすみでれば、こんどは能登守がでて、菊王丸の身体を弓で引き寄せ、船の中へ投げ入れたが、深手を負っていたため、そのまま倒れて息絶えた。

 それからは源平いり乱れての戦い。そして、何時間かののちに平家は破れ、志度の浦へとしりぞく。源氏勢が引きつづき攻めかければ、志度にとどまれて防戦もできず九州さして逃げていった。

島崎盛衰記 その三につづく