スーパーで秋鮭が安かったので、シャケのチャンチャン焼きをすることにした。
バター、味噌。野菜をたっぷり。我が家の庭で取れたハヤトウリも使った。魚介類としては、シャケ以外にエビと牡蠣を使い、至ってシンプルな料理が出来上がる。
息子は、一人っ子のせいか、食わず嫌いで、今まで食べたことのない食材をいたく警戒する。ハヤトウリについては、その存在は知っているものの、今まで食べたことは一度もない。
「バ . . . 本文を読む
人と人との結びつきを深めるためには、触れあいが欠かせない。人はお互いに触れあってこそ理解を深め、良き人間関係を築いていけるからだ。
なないろという場所は、そのためにある。
Kくんは、そんななないろに来るようになって、最近、卓球に嵌っている。木曜なないろのスタッフ、由美子女史を相手に卓球をしているKくんは、いつもは寡黙で他のなないろ利用者と会話をすることもなかったのだが、卓球を通してお互いの理 . . . 本文を読む
6月過ぎから我が家の庭に異変が起きていた。見たこともない蔓植物が駐車場の支柱に絡みつき、庭木を覆っていく。その蔓植物は、みるみるうちに我が家の庭を占拠し、その大きな葉っぱが無秩序に日陰を作る。
正体不明の蔓植物が我が家の庭を占拠している間、その植物がどんな名前なのか調べる気にはならなかった。ただ、どうしてこんな植物が生えてきたのかだけには興味があった。
引っ越ししたばかりで家の整理もできない . . . 本文を読む
田熊町に移り住んで半年余りになる。その間、PTA活動は、これまで土生でしかしたことがなかったのだが、田熊でも徐々に参加するようになっている。
地域が違えばPTAでの活動もその活動方法が変わるし、勝手も違う。僕にしてみれば、ようやくこの地域の雰囲気や人との繋がりが分かり始めたといったところだ。
そんな中、今日10月23日、市P連の球技大会があった。結果としては、中学の部Bブロックで優勝、Aブロ . . . 本文を読む
人権福祉センターの吉田さんからアトリエ素心居の見学の話があったのは、先月の下旬のことだった。以前、吉田さんから、「となりのピカソ」という愛媛県松山市で活躍する知的障害を持った人たちの創作活動をサポートする「素心居」のことは聞いていた。
「いいでしょう。この作品、全部、彼らが作ったものなんですよ」
吉田さんは、「となりのピカソ」を私に見せながら、夢み心地で説明してくれた。
「技巧もない、飾り気も . . . 本文を読む
生み育ててくれた父母が、自らの宿命を背負うように蕨野行という村の約定を守り通していく。この物語に描かれる無惨で、儚い夢は、美しく鮮明に生命の尊さを浮き彫りにする。
現代の少子高齢化社会における「老い」は、村田喜代子の描いたワラビ衆ほどの輝きを持っているだろうか。「老い」は、高度医療に支えられ管理され、主体性を失い、人間としての輝きを奪うだけの存在となっている。
「老い」のもたらす特質を対比して . . . 本文を読む
先週の木曜日に釣りに行って好評だったので、この日もサヨリ釣りに行くことになっていた。集合時間は、午前9時。なないろの開所時間は10時からなので、1時間も早くなないろに集合する必要がある。
参加予定者は、Kくん、Fくん、Sくんの3名。自宅を出発する前、実は一抹の不安があった。統合失調に罹った人は睡眠をコントロールしにくいため、起きだす時間をコントロールすることが苦手な人が多いからだ。
自宅から . . . 本文を読む
芥川賞作家村田喜代子の原作「蕨野行」に出会って8年、名匠・恩地日出夫が山形の四季を一年に渡ってロケーションし、ついに執念の完全映画化。
(姥捨伝説)というショッキングなドラマが、人間の死を見つめさせ、生きることへの意味を問う。
10月21日(金)
瀬戸田ベルカントホール
1回目 午後1時30分 恩地監督のお話
午後2時 上映開始
2回目 午後6時30分 恩地監督のお話し
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10月も半ばだというのに、なないろにはまだ蚊がでる。
「あっ、噛まれた。このー」
裏庭に出て畑の手入れをしていたボスが忌々しそうに声を上げる。なないろ室内では蚊取り線香を焚いているので影響はないのだが、裏庭は蚊の別天地になっている。スタッフは、それぞれ自分の担当する得意分野を持っているが、ボスの場合は気が付いたときに畑の手入れをしているようだ。これも誕生日会などで食卓に出る野菜を育てるための大 . . . 本文を読む
磁石のN極、S極は互いを引きつけ、同じ極同士は反発する。電極のプラスはマイナスを求め、同じ電極では反応しない。
この真理は常識に違いない。
気の強い男がいたとする。また、気の強い女がいたとする。どちらかが片方の極、あるいは電極を正反対の性格に擬態していたとする。この場合、先述した真理はどのような結果を招くのだろうか。
擬態は、理性の元に行われる習性に違いない。理性の仮面が剥がされるとき、未 . . . 本文を読む