手術後に、本当にこれでよかったんだろうかと思ったりすることもあるかと思い、
忘れないように今感じていることを書き留めておきます。
他の方々の発言や判断にあれこれ言いたいといような気持ちではまったくなく、
自分が思い返すためのメモなのです。
もし配慮の足りない表現でご不快に思われる方がいらしたら、本当に申し訳ありません。
---------------
今回、子宮全摘をすることにしていますが
そこにくるまでは、結構長い道のりでした。
私の場合、子宮摘出によって女性性を失うというような喪失感はあまりなく、
というのは、もともと女性性があんまりないというか、全然重視してないタイプで……
オシャレしたり服や化粧品を買うよりは、カメラや欲しいソフトを買うほうがエキサイトする、という性格です。
そんなわけで、女性性の喪失はあまり考えてないんですが
ただ取らなくてもよい子宮を、決定的な理由もなしに摘出してしまうということは、
人として何かアンナチュラルなような、そんな気がしていました。
小学校一年のとき、手術で盲腸を切りましたが、
無駄と思われていた盲腸も、最近は免疫にかかわるから切らないケースも多い、という話をきいたりすると、
同じようなことが子宮に関して起きないとどうして保証できるのか、と思ったりもするのです。
そしてもしかしたら、今後「子宮には今まで知られてなかったこんな働きが!」というような「人体の不思議」的大発見があったとき、「だってもうとっっちゃったよ。とりかえしつかないじゃない」となるかもしれない、
その恐ろしい不可逆性がイヤだというか、
そのときに、摘出しなければ良かった、とすさまじく後悔するような心理状態になりたくないな、というか、そんな感じです。
摘出したことによる実害がいやだというよりも、自分の判断を恐ろしく後悔する状況になるのがいやだというか。
ですから。しっかり言語化された理由がほしかったわけです。
MRI画像をみれば、筋腫が相当に大きいので、
なんとなく子宮ごととらなければダメそうな感じは感覚的にはわかりますが
自分にとっては、この「言語化された」ということが大事で、
コレコレな理由で私は子宮をとりました。医者の説明をきちんと聞いて自分でそう判断しました。
というのがしっかりあれば、
今後、もし医学が進歩して、実は子宮は摘出しないほうがよかったということが知られる事態になっても、
自分で自分を納得させられるのではないかと思うのです。
だけど、今までの病院では、
「全摘出したら、今後癌検診しなくていいから楽ですよ~」(←それだけの理由で臓器を摘出するのはしっくりこない)
「子どもを生まない人にとっては単なる無駄な臓器です」(←今後「単なる無駄」ではないとわかったらどうするの?)
「子宮をとっても、100%問題はありません」(←本当に100%?)
大体こんな説明でした。積極的な理由ではないのですよね。
医学的ですらないような感じです。
「全摘出すれば、筋腫再発の可能性がない」というのはひとつの大事な要素ですが、
私の場合、年齢的に、いまからそれほど大きな筋腫が再発で出来るとは思えないので、
それも決定的な理由にはなりえません。
ともかく、このような説明では、万が一手術して何年もたってから、子宮を取らないほうが良かったという状況に直面した場合でもまったく自分を納得させれらる見込みがなかったのです。
その場合、どうしてあのとき、もっときちんと主張しなかったんだろう、と
絶対自虐的な気持ちになるし、それこそが問題というような気がしていたのです。
「自分は医者に最後まで食い下がることができなかった、その能力がなかった」
「不満はあったけどなんとなく雰囲気にながされてしまった、自分の意思が弱かった」
「無意識に聞き分けのよい患者でいようとして、本質を見失っていた」
「自分は、自己主張すべきときにきちんとできない臆病な人間だった」
「そんな自分が情けない」などなど、
実害よりも、自分を責める気持ちになることの弊害の方が大きいとすら思いました。
そんなわけで、どの病院でも、その部分をかなりしつこく話をしました。
が、どこでもこれといった返事はありませんでしたし、
むしろ、先生にうるさがられたり、不機嫌になられたり、
上記の通り一遍の返事を繰り返して、子宮全摘しかありえません、というところばかりでした。
お忙しいお医者さんとして、また病院の方針として、
全摘の基準があり、それに従うのが当然で、この対応が常識的なのはよく分かります。
それは納得しているのですが、
自分としても自分を守らねばなりません。
術後におそってくる(かもしれない)後悔の嵐から。(たとえそれがほんのわずかの可能性だとしても)
もしそれでうつ状態になったら、その死亡率だって無視はできないのですから。
「自己評価の著しい低下」というのはうつ状態の症状としても認められるものだそうですから、
どうしてきちんと主張できなかったんだろうと、繰り返し激しく後悔して自分を責めた場合
それが、うつの引きがねにならないとはいえませんから。
そんなわけだったんですが、
しばらく前に、ちょっとした変化がありました。
きっかけは人間の話じゃなくて、ウサギの話です。
友人が、家族のようにかわいがっているウサギの避妊手術(子宮摘出手術)を最近しました。
出産を考えないウサギの場合、(賛否両論はあるみたいですが)
子宮をとったほうが、健康に生きられるということでした。
その人は、決して人間の都合を押し付けるタイプの人ではなく、
いつもウサギの立場で考えているような人です
その人が自分のウサギに、子宮摘出手術を選択した。
なんだかそれって、妙に、あ、摘出してもよいんだな。という気持ちになりました。
その人が話してくれたのは、
ウサギにとってのナチュラルは、自分の命を削っても子孫を残すということ。
だからどんどん子どもを産み、そして、自然界では寿命短く、長く生きれば子宮の病気になることも多いと。
この子には、そうした生き方とは違う生き方をしてほしい。
長く元気でいてほしい。だから子宮を取ることにしたのですよと。
生き物としてのナチュラルは自分の命をけずって子孫をのこすことだとするならば、
そういう意味のナチュラルからは既に自分ははずれているんだと実感しました。
40代で、子どもいなくて、自分のしたいことしているんだから、そしてまだまだ生きるつもりなんだから、
原始時代からの人類の長い歴史から見たら、全然ナチュラルじゃないですね。
だから、いまさら、たかが子宮のことで、アンナチュラルだの何だの心配しなくても、
すでに充分アンナチュラルな生をいきているんだなぁ、自分はと。
だから積極的に子宮を全摘出をするのもありなんだな、と。
変に納得しました。ありがとう、ウサギのMちゃん、勇気をもらったよ。
そんなこんなで少し納得したところで、先日書いたように今回手術を決めた病院の診察があったのです。
この病院では、子宮を残す場合は保険外診療になり、手術費が高額になります。
一生懸命交渉したからとか、医者にしつこくくいさがったとか、そんなことには関係なく、
その線引きははっきりしています。
それは、判断材料として、自分としてはわかりやすいです。
そして、子宮を全摘することが100%問題がないわけではなく、
子どものいない人、特に不妊治療などをしてきた人には、
精神的に喪失感がひどくなり、それにより、不調になるケースは実際あるとのことも話してくださり。
でも、お話して、この先生と病院を信頼する気持ちが出てくると、
仮に何かあっても、そのあと頑張ればなんとか超えていけるんじゃないかと思えてきました。
心理的にはいろいろあるとしても、
少なくても医学的には問題がないとこの先生が言うのなら、自分はそれを信じてみよう、という気持ちになりました。
ようやくこんな心境です。
実は、3年前、最初に筋腫が発覚したときにも、まっさきに一度この病院に予約だけ入れたことがありました。
そのときは、別の病院で「手術はせずに、ウチで経過観察をしていきましょう」といわれたので
すぐにキャンセルしたんですが
もし、3年前だったら、せっかくのこの病院でも、自分は納得して手術を受けることはできなかったように思います。
3年間いろいろとさまよい、いろんな先生とお話し、自分の希望する方向を少しずつかため、
その状態であらためて受診して、だからこそ自分の希望もしっかり言語化して先生に伝えることができ、
それに対して先生も、選択肢を示してくださったわけで。
こちらの希望になるべく沿ってくださる、という方針のこの病院の場合、
逆に言うと、方針をおまかせ、ということはありえず、
どうしたういかをこちらが(迷いはしても)明確に持って、言語化する必要があるように思いました。
3年前に自分はそうではなかったと思います。
そういう状態までなんとかこられたのは、今までお話させていただいた先生方全員のおかげですね。
少しずつ鍛えられていったというか。
そういう意味では、すべての病院、すべての先生方に感謝しなくてはならないです。
(ときどき、つい非難めいた口調で書いてしまうのですが、決してそんなことはなく、
病院の方針がいろいろあるというだけのことなのです…)
なので、その病院の方針と自分があっているかどうかが
結局のところ重要なのだなぁと思うのです。
もう本当に、たかが筋腫でここまで大げさで申し訳ない、と我ながら思ったり、
でもやっぱり自分にとってはオオゴトだよなぁ、ちゃんと言うこと言わねばだよね、と思い返したり。
そういう気持ちで日々ゆれますが。
まずは体力つけて、無駄に反省しないで、前向きに行こうと思います。
他人にとって、それがたいしたことじゃないとか、大げさとかどうか、というのは関係なく、
自分の人生において、どうなのか、どうしたいのか、ということに尽きるかな。
ここで、たくさん書かせていただいているおかげで、
その分実生活では、あまり人には言わずに済ませようと思います。
確かに、もっと大変な問題を抱えている人はたくさんいて、
本当に「たかが筋腫」という気持ちもわかるんで。
そんな感じで頑張って行こうとおもいます。
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忘れないように今感じていることを書き留めておきます。
他の方々の発言や判断にあれこれ言いたいといような気持ちではまったくなく、
自分が思い返すためのメモなのです。
もし配慮の足りない表現でご不快に思われる方がいらしたら、本当に申し訳ありません。
---------------
今回、子宮全摘をすることにしていますが
そこにくるまでは、結構長い道のりでした。
私の場合、子宮摘出によって女性性を失うというような喪失感はあまりなく、
というのは、もともと女性性があんまりないというか、全然重視してないタイプで……
オシャレしたり服や化粧品を買うよりは、カメラや欲しいソフトを買うほうがエキサイトする、という性格です。
そんなわけで、女性性の喪失はあまり考えてないんですが
ただ取らなくてもよい子宮を、決定的な理由もなしに摘出してしまうということは、
人として何かアンナチュラルなような、そんな気がしていました。
小学校一年のとき、手術で盲腸を切りましたが、
無駄と思われていた盲腸も、最近は免疫にかかわるから切らないケースも多い、という話をきいたりすると、
同じようなことが子宮に関して起きないとどうして保証できるのか、と思ったりもするのです。
そしてもしかしたら、今後「子宮には今まで知られてなかったこんな働きが!」というような「人体の不思議」的大発見があったとき、「だってもうとっっちゃったよ。とりかえしつかないじゃない」となるかもしれない、
その恐ろしい不可逆性がイヤだというか、
そのときに、摘出しなければ良かった、とすさまじく後悔するような心理状態になりたくないな、というか、そんな感じです。
摘出したことによる実害がいやだというよりも、自分の判断を恐ろしく後悔する状況になるのがいやだというか。
ですから。しっかり言語化された理由がほしかったわけです。
MRI画像をみれば、筋腫が相当に大きいので、
なんとなく子宮ごととらなければダメそうな感じは感覚的にはわかりますが
自分にとっては、この「言語化された」ということが大事で、
コレコレな理由で私は子宮をとりました。医者の説明をきちんと聞いて自分でそう判断しました。
というのがしっかりあれば、
今後、もし医学が進歩して、実は子宮は摘出しないほうがよかったということが知られる事態になっても、
自分で自分を納得させられるのではないかと思うのです。
だけど、今までの病院では、
「全摘出したら、今後癌検診しなくていいから楽ですよ~」(←それだけの理由で臓器を摘出するのはしっくりこない)
「子どもを生まない人にとっては単なる無駄な臓器です」(←今後「単なる無駄」ではないとわかったらどうするの?)
「子宮をとっても、100%問題はありません」(←本当に100%?)
大体こんな説明でした。積極的な理由ではないのですよね。
医学的ですらないような感じです。
「全摘出すれば、筋腫再発の可能性がない」というのはひとつの大事な要素ですが、
私の場合、年齢的に、いまからそれほど大きな筋腫が再発で出来るとは思えないので、
それも決定的な理由にはなりえません。
ともかく、このような説明では、万が一手術して何年もたってから、子宮を取らないほうが良かったという状況に直面した場合でもまったく自分を納得させれらる見込みがなかったのです。
その場合、どうしてあのとき、もっときちんと主張しなかったんだろう、と
絶対自虐的な気持ちになるし、それこそが問題というような気がしていたのです。
「自分は医者に最後まで食い下がることができなかった、その能力がなかった」
「不満はあったけどなんとなく雰囲気にながされてしまった、自分の意思が弱かった」
「無意識に聞き分けのよい患者でいようとして、本質を見失っていた」
「自分は、自己主張すべきときにきちんとできない臆病な人間だった」
「そんな自分が情けない」などなど、
実害よりも、自分を責める気持ちになることの弊害の方が大きいとすら思いました。
そんなわけで、どの病院でも、その部分をかなりしつこく話をしました。
が、どこでもこれといった返事はありませんでしたし、
むしろ、先生にうるさがられたり、不機嫌になられたり、
上記の通り一遍の返事を繰り返して、子宮全摘しかありえません、というところばかりでした。
お忙しいお医者さんとして、また病院の方針として、
全摘の基準があり、それに従うのが当然で、この対応が常識的なのはよく分かります。
それは納得しているのですが、
自分としても自分を守らねばなりません。
術後におそってくる(かもしれない)後悔の嵐から。(たとえそれがほんのわずかの可能性だとしても)
もしそれでうつ状態になったら、その死亡率だって無視はできないのですから。
「自己評価の著しい低下」というのはうつ状態の症状としても認められるものだそうですから、
どうしてきちんと主張できなかったんだろうと、繰り返し激しく後悔して自分を責めた場合
それが、うつの引きがねにならないとはいえませんから。
そんなわけだったんですが、
しばらく前に、ちょっとした変化がありました。
きっかけは人間の話じゃなくて、ウサギの話です。
友人が、家族のようにかわいがっているウサギの避妊手術(子宮摘出手術)を最近しました。
出産を考えないウサギの場合、(賛否両論はあるみたいですが)
子宮をとったほうが、健康に生きられるということでした。
その人は、決して人間の都合を押し付けるタイプの人ではなく、
いつもウサギの立場で考えているような人です
その人が自分のウサギに、子宮摘出手術を選択した。
なんだかそれって、妙に、あ、摘出してもよいんだな。という気持ちになりました。
その人が話してくれたのは、
ウサギにとってのナチュラルは、自分の命を削っても子孫を残すということ。
だからどんどん子どもを産み、そして、自然界では寿命短く、長く生きれば子宮の病気になることも多いと。
この子には、そうした生き方とは違う生き方をしてほしい。
長く元気でいてほしい。だから子宮を取ることにしたのですよと。
生き物としてのナチュラルは自分の命をけずって子孫をのこすことだとするならば、
そういう意味のナチュラルからは既に自分ははずれているんだと実感しました。
40代で、子どもいなくて、自分のしたいことしているんだから、そしてまだまだ生きるつもりなんだから、
原始時代からの人類の長い歴史から見たら、全然ナチュラルじゃないですね。
だから、いまさら、たかが子宮のことで、アンナチュラルだの何だの心配しなくても、
すでに充分アンナチュラルな生をいきているんだなぁ、自分はと。
だから積極的に子宮を全摘出をするのもありなんだな、と。
変に納得しました。ありがとう、ウサギのMちゃん、勇気をもらったよ。
そんなこんなで少し納得したところで、先日書いたように今回手術を決めた病院の診察があったのです。
この病院では、子宮を残す場合は保険外診療になり、手術費が高額になります。
一生懸命交渉したからとか、医者にしつこくくいさがったとか、そんなことには関係なく、
その線引きははっきりしています。
それは、判断材料として、自分としてはわかりやすいです。
そして、子宮を全摘することが100%問題がないわけではなく、
子どものいない人、特に不妊治療などをしてきた人には、
精神的に喪失感がひどくなり、それにより、不調になるケースは実際あるとのことも話してくださり。
でも、お話して、この先生と病院を信頼する気持ちが出てくると、
仮に何かあっても、そのあと頑張ればなんとか超えていけるんじゃないかと思えてきました。
心理的にはいろいろあるとしても、
少なくても医学的には問題がないとこの先生が言うのなら、自分はそれを信じてみよう、という気持ちになりました。
ようやくこんな心境です。
実は、3年前、最初に筋腫が発覚したときにも、まっさきに一度この病院に予約だけ入れたことがありました。
そのときは、別の病院で「手術はせずに、ウチで経過観察をしていきましょう」といわれたので
すぐにキャンセルしたんですが
もし、3年前だったら、せっかくのこの病院でも、自分は納得して手術を受けることはできなかったように思います。
3年間いろいろとさまよい、いろんな先生とお話し、自分の希望する方向を少しずつかため、
その状態であらためて受診して、だからこそ自分の希望もしっかり言語化して先生に伝えることができ、
それに対して先生も、選択肢を示してくださったわけで。
こちらの希望になるべく沿ってくださる、という方針のこの病院の場合、
逆に言うと、方針をおまかせ、ということはありえず、
どうしたういかをこちらが(迷いはしても)明確に持って、言語化する必要があるように思いました。
3年前に自分はそうではなかったと思います。
そういう状態までなんとかこられたのは、今までお話させていただいた先生方全員のおかげですね。
少しずつ鍛えられていったというか。
そういう意味では、すべての病院、すべての先生方に感謝しなくてはならないです。
(ときどき、つい非難めいた口調で書いてしまうのですが、決してそんなことはなく、
病院の方針がいろいろあるというだけのことなのです…)
なので、その病院の方針と自分があっているかどうかが
結局のところ重要なのだなぁと思うのです。
もう本当に、たかが筋腫でここまで大げさで申し訳ない、と我ながら思ったり、
でもやっぱり自分にとってはオオゴトだよなぁ、ちゃんと言うこと言わねばだよね、と思い返したり。
そういう気持ちで日々ゆれますが。
まずは体力つけて、無駄に反省しないで、前向きに行こうと思います。
他人にとって、それがたいしたことじゃないとか、大げさとかどうか、というのは関係なく、
自分の人生において、どうなのか、どうしたいのか、ということに尽きるかな。
ここで、たくさん書かせていただいているおかげで、
その分実生活では、あまり人には言わずに済ませようと思います。
確かに、もっと大変な問題を抱えている人はたくさんいて、
本当に「たかが筋腫」という気持ちもわかるんで。
そんな感じで頑張って行こうとおもいます。
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