Bread of Life

ディボーションタイムを助ける聖書講解

2018年9月・サマリヤの不思議④ 「最大の不思議」列王下7:8 7:9

2018-09-28 09:37:29 | Weblog
 スリヤ軍の軍営で思わぬ食料に与った4人のライ病人たちは、無我夢中で自分の腹を満たし、さらに余分の食料を隠し一息つきました。
その時「この幸運を自分達だけに止めておいて置くなら神の裁きにあうだろう、王の家族に知らせよう」という思いがわき上がりました。
よく考えてみれば王家の人達は自分達を蔑視して城の外に置き去りにした人達です。自分達は不運を嘆き、憐れみを示さなかった王をどれだけ恨めしく思った事だろうか。
その恨みに対し恨みで報いるのがアダム以来の罪を背負っている人の常でしょう。もし恨みに対し恩寵で報いると思ったとするなら、物体が自然と下から上に上り始めた様なもので尋常ではないでしょう。まさにサマリヤの不思議です。
この物語に2種類の不思議が描かれています。一つは食料提供の不思議、今1つは不思議な心の変化です。
どちらが人生に重要かは言うまでもありません。与えられた食料は食べればやがてなくなっていきますが、生き方の変革はその後も継続し人生を一変させるでしょう。
クリスチャンは可視的出来事に限定して神の祝福を追い求めてはならないのです。信仰が招来する愛の変革、価値観の変化、新しい感性などの内的奇跡に復活の主イエスを見い出して喜ぶのです。
弟子達が復活の主と出会い驚喜したように当たり前の生活の中に主を見い出し、深い喜びと満足を覚えることこそクリスチャンの喜びと幸せなのです。
ハピネスダイアリーはそのような幸せを感じ取り、主を喜び主を楽しむ営みです。それはヨセフの幸せと重なります。その原則を再確認させていただいたお証を届けさせて下さい。

「いつも通勤中に通る、川端通り、桜の木にセミがミンミン鳴り響いています。その音はまさに大合唱! 去年までの私なら『あ〜朝からうるさ…耳障り〜』とイライラしていたように思います。
でも今年は違います。ミンミン鳴いている蝉の声を聞くと 夏の到来を感じて セミも一生懸命鳴いてるんだな〜、と感動さえ覚えます。
自転車で通勤できる喜び、そんな距離に職場がある喜び、働ける喜び、五体満足に感謝する喜び。
毎日のヤーダー礼拝と感謝日記を通して、当たり前に通り過ぎていた数々の出来事、今までは 出来事でもなかったコト・モノたちが途端に輝き始めました。
これからも 小さな幸せに気づけて主に感謝できる自分でいれるように、ヤーダー礼拝と感謝日記を楽しく続けていきたいと思います。」

このような奇跡は貴方の中にもとどいているでしょう、貴方はそこで復活の主に出会ったのです。何という喜び何という幸せでしょうか。(ヨハネ20:20)

●<ブログは10月はお休みで11月に再開いたします>

2018年9月・サマリヤの不思議③「ライ病人の不思議」列王下7:5~7:7

2018-09-18 10:43:10 | Weblog
サマリヤの不思議の3つ目は、飢餓とひん死のサマリヤを救いに導いたのはライ病のため城に入れてもらえず場外に置かれていた4人の男達だったことです。
 彼らは「座して餓死を待つくらいならベネハダテの軍営に行き、おこぼれに与るのにかけよう。万が一殺されてもだめもとなのだ」と互いをはげまし合いながら立ち上がり後進し始めたのです。すると神は彼らの足音を何百倍に増幅され軍馬の轟音の様に響かされました。
 スリヤ軍は夜襲だと肝を冷やし恐怖に襲われ何もかもそのままにして逃亡したのです。なんと不思議な現象でしょうか、サマリヤの七不思議の3番目です。
 エリシャの預言を聞いてはいなかったが4人が、神が何かよいことをしてくださるだろうと信じて行動した事を神が喜ばれ予期しない祝福を届けられたのは何を物語るのでしょうか。
それは行動の伴う信仰こそ信仰の本来の姿であるということです。
 うまく行きそうな気分がするまで主を待ち望むのは霊的な様に見えて本来の信仰とは異質のあり方なのです。
感情高揚の有無にかかわらず御心から外れない方向なら行動してみるという行動先行型の信仰が成長した信仰で人知を越えた勝利を引き寄せるのです。
 彦根福音教会開拓時代、何人かの献身者が生まれましたがその一人に槽有朋という高校生がおられました。
彼は卒業後聖書学院に進学したのですが向学の志が止むこと無く米国の聖書学校に留学することにしました。
博愛会病院で試験管洗いのバイトをしながらお金を貯めて、いよいよ渡米にこぎ着けた最中最後の健康診断書を提出する際検診を受けると、なんと結核にかかっている事が判明し入学願書を提出できなくなりました。
打ちひしがれている彼に対し学院長の藤林師は「だったら、アメリカを見てくるだけでもいいじゃないか、とにかく行ってきなさい」と送り出しました。
 彼もこれ限りなら、ぶ厚いステーキをお腹一杯いただき出来るだけ広くアメリカ観光を楽しんでこようと、何週間か渡米観光を満喫して帰国しました。帰国後念のためもう一度検診を受けました。なんと結核の影がなくなっていたのです。大喜びで再び願書を提出し遅れ気味でしたが留学し3年後、無事聖書学校を優秀な成績で卒業し川西市の牧師に就任できたのです。
 
●箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に 上から流れくだる水はとどまって(ヨシヤ3:7)
クリスチャンは初歩の信仰に止まっていてはなりません(ヘブル6:1)行動を先行させる信仰こそ信仰を完成させるからで、そこにだけ人知を越えた勝利と祝福が貴方を待っているからです。
あなたは何処にいますか、何処へ進みたいですか。祈りましょう。

2018年9月・サマリヤの不思議② 「副官の不思議」

2018-09-15 22:54:23 | Weblog
 サマリヤの不思議の第2番目は副官の不思議です。エリシャが間もなく安価で食料を入手できるようにされると希望を届けたとき、「神様でもそれは不可能」と反論しますが、よくぞここまで不信仰になれるかと不思議に思います。 
でも一つ明らかになったことはイスラエル王が不信仰のゆえ神の祝福を受けそこなってきたのはこの副官の不信仰の影響であったことがわかります。
人間関係の濃さは良きにつけ悪しきにつけその影響を免れません。他者から否定的な影響を受けながらその関係から自分を切り離せない場合、悩みは継続します。
 その人と接触すると、何となく自分が惨めに思えてきて自分に腹立たしい奇妙な感情に見舞われるのです。
それは相手の人の中に存在する不適切な図式が元凶である場合が多々あります。その図式とは「私はOK貴方はNOT・OK」という不健全な心の図式です。
それ故、いつも優位性を感じていないと落ち着けないという脅迫概念が働いています。
勿論、持ち合わせている優越性により自然と優位性を覚えることは余り害はないのですが、ゼロサムゲームに生きている人は、優越性を獲得できないと分かると相手を引き下ろしてでも優位性を維持しようとしてしまいます。
それに触れると気づかないうちに引き下ろされ、惨めな気分、自分にいやな気分を抱くのです。その結果、喜びと平安が失われ憂鬱な気分が支配し、今度は貴方が引き下げやすい人を見つけて引き下げ、自分の優位性を保持し心の空白を埋め合わせようとしてしまうのです。 
このゲームに参加者は例外なく互いに不幸に向かって流されていくのです。どうすればいいのでしょうか。まず自分がこのゲームに誘われた事に気づくことです。
次にそのゲームに「NO」を宣言し、貴方は互いを幸せにするゲームに招集された存在である事を思い起こし、心をリセットし直すのです。
そして優位性を無理に勝ち取ろうとするのはなく、同時にいたずらに卑下するのでもなく「わたしもOK貴方もOK」と肩の力を抜き、互いを認め合い尊重しあう関係の保持に思いを切り替えるのです。
その結果、共に幸せになる流れに入ることができます。この心の自由を得させるのがハピネスダイアリーです。なぜなら「にも関わらず感謝、お陰様感謝」は、否定的な状況でも自分をOKにすることが出来るので、他者に対し「貴方もOK」というサインを届けやすくなるからです。
この自由を届けて下さったのが私達の救い主イエスさまです。
この主を崇め、この素晴らしい自由を喜び楽しみましょう。

●自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。(ガラテヤ 5:1)


2018年9月・サマリヤの不思議①(列王6:24 6:25)「王の不思議」

2018-09-03 14:56:55 | Weblog
スリヤ軍に攻められたイスラエル王は、城郭の中に逃げ込み民もそこに避難したので、たちまち蓄えた食料は底をつき始め、酷いインフレーションに見舞われました。
こんな不利な状況にありながら王が、エリシャの元に来て助けを乞わなかったのは、なんとも不可解な態度です。実は、サマリヤは丘陵の上に位置し町を取り囲む城郭は、高く攻め込もうとすれば多大の犠牲を強いられるので王と家来は城に立てこもれば安全と考えたのです。
しかしベネハダテは一枚上手で、城を力攻めするのを避け、町を包囲し兵糧攻めにしたのです。イスラエル王の目論見は裏目に出て、たちまち食料は底をつき飢餓で自滅する運命になりました。
人間的に誇りにしていたことが逆に弱さに転じるのはよくある事です。「何を食べても大丈夫、私は偉大(胃大)ですから」と誇っていた方が後年胃腸の大病で困難に見舞われた実例を知っています。むしろ弱さを覚えていた方が健康に繋がったと思えるのです。
誰でも一つや二つ弱さを抱えていると思いますが、それを通して自分の弱さと向き合い、謙遜になれるなら、その弱さが強みへのバイパスにもなり得るのです。
私の父は若い時から胃腸が弱く、市バスに揺られただけで吐き気を催して途中下車するほどでした。これではいけないと、大学時代はダンベル体操をしたりラクビー部で楕円球を追って走ったりして、小柄ながら体力増強に取り組み続けました。 
最終的には歩行が一番健康維持に効果的と悟り、京都周辺の山歩きを楽しむのが常となりました。それが効を奏し殆ど大病を患いませんでした。
92才で召されましたが、寝込んだのは僅か6ヶ月でそれでも寝床で帳簿を確認するなどしていましたので生涯現役といえるでしょう。
それは私達への大きな励ましとなっています。
強さを覚えたらそれをくださった主を崇めましょう。弱さを覚えたなら「にも関わらず感謝」で乗り越え、弱さから恵みを生み出されるクリエイティブな主に全てをお委ねし、今なし得る最善だけに集中しましょう。
主はその名を不思議と呼ばれる方で弱さが強さとなるという不思議を経験させてくださるからです。

●あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。(Ⅰペテ5:10)

●それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。(Ⅱコリ12:9 12:10)