●9:20 するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、
イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。
1.長血の女性
①ここに出てくる二人の女性にもたらされた奇跡は一連の出来事として記録されています。 なぜ別々の段落として記録されなかったのでしょうか。事件は二種類ですが主イエスのメッセージは一つであるからでしょう。
②長血の女性は弱っていましたが、精神的には気丈夫であったと思われます。 彼女は自分の病が律法からは「汚れた者」として扱われていることを十分承知していたので、多分フードのある上着をつけて気づかれないよう後ろから群衆をかき分けながら主に近づいたのです。 彼女は「御衣にでもさわれば癒される」と自分に言い聞かせていて、少しのチャンスも見逃さない積極的な人物であったことが分かります。 だれかが衣に触れたのを察知された主は彼女を呼び出し、彼女の癒しを公衆の前に証明されました。 彼女にとって癒される事も大切でしたが、「汚れた女」という烙印から解放されることは、その後の社会生活上とても必要なことだったのです。 彼女は癒しを求めました。主はそれに応えられただけでなく、彼女の心の中に渦巻いていた悩みにまで届かれたのです。 何という深い憐れみでしょうか。彼女は感涙を止めることが出来なかったのです。
2.会堂司と娘
①一方、会堂司の娘はイエスが到着される前に息を引き取りました。 他の福音書では、父親は「もはや先生に労を取って頂く資格はございません」と来訪を辞退するのです。長血の女性なら、「死にましたが生き返らせてください」と無遠慮なほどの積極性を示したと思われるのに何と消極的なのかといらつきを感じるほどです。しかしイエスはご自分から「死んでいない、眠っているだけだ」と驚異的な積極性をもって関わられます。両親が娘の死に出会って如何に落胆してしまったか十分ご存じだったのです。 つまり会堂司の信仰態度の弱さをご自分で補われるのです。 その主の踏み込んだ関わりの結果この家庭に大きな喜びが戻って来ます。ここには、悲しみの故に心が萎えてしまった人への深い同情と憐れみを感じます。
3.憐れみに満ちたる神
①積極的な人にはそれを引き出し、引っ込みがちな人にはそれを補う形でご自分を遜らせて仕えられる主のお姿に心が揺り動かされます。 私達もある時には積極的に主を求められる時もありますが、ある時は否定的な状況下の故に主を求める意欲さえ、持ち得ない気分に襲われる時もあるでしょう。 でも、主はどちらの時でも、助けを必要とする心を軽視されないことを教えられます。 二つの出来事をリンクさせて読み取るとき、そこには一つの強力なメッセージが貫いているのです。
②それは、共にいて下さる主はこんなにも憐れみに満ちたお方なのだということです。 だから、照る日もかげる日も感謝と賛美を献げる事が出来るのであり、この主の御性質の故に私達はいかなる状況下でも顔を上げて望みを抱くことが出来るのです。 この主に信を置くとき、勇気が静かにわき上がり新しい一歩を踏み出せるのではないでしょうか。
●主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、
恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、(出34:6)
イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。
1.長血の女性
①ここに出てくる二人の女性にもたらされた奇跡は一連の出来事として記録されています。 なぜ別々の段落として記録されなかったのでしょうか。事件は二種類ですが主イエスのメッセージは一つであるからでしょう。
②長血の女性は弱っていましたが、精神的には気丈夫であったと思われます。 彼女は自分の病が律法からは「汚れた者」として扱われていることを十分承知していたので、多分フードのある上着をつけて気づかれないよう後ろから群衆をかき分けながら主に近づいたのです。 彼女は「御衣にでもさわれば癒される」と自分に言い聞かせていて、少しのチャンスも見逃さない積極的な人物であったことが分かります。 だれかが衣に触れたのを察知された主は彼女を呼び出し、彼女の癒しを公衆の前に証明されました。 彼女にとって癒される事も大切でしたが、「汚れた女」という烙印から解放されることは、その後の社会生活上とても必要なことだったのです。 彼女は癒しを求めました。主はそれに応えられただけでなく、彼女の心の中に渦巻いていた悩みにまで届かれたのです。 何という深い憐れみでしょうか。彼女は感涙を止めることが出来なかったのです。
2.会堂司と娘
①一方、会堂司の娘はイエスが到着される前に息を引き取りました。 他の福音書では、父親は「もはや先生に労を取って頂く資格はございません」と来訪を辞退するのです。長血の女性なら、「死にましたが生き返らせてください」と無遠慮なほどの積極性を示したと思われるのに何と消極的なのかといらつきを感じるほどです。しかしイエスはご自分から「死んでいない、眠っているだけだ」と驚異的な積極性をもって関わられます。両親が娘の死に出会って如何に落胆してしまったか十分ご存じだったのです。 つまり会堂司の信仰態度の弱さをご自分で補われるのです。 その主の踏み込んだ関わりの結果この家庭に大きな喜びが戻って来ます。ここには、悲しみの故に心が萎えてしまった人への深い同情と憐れみを感じます。
3.憐れみに満ちたる神
①積極的な人にはそれを引き出し、引っ込みがちな人にはそれを補う形でご自分を遜らせて仕えられる主のお姿に心が揺り動かされます。 私達もある時には積極的に主を求められる時もありますが、ある時は否定的な状況下の故に主を求める意欲さえ、持ち得ない気分に襲われる時もあるでしょう。 でも、主はどちらの時でも、助けを必要とする心を軽視されないことを教えられます。 二つの出来事をリンクさせて読み取るとき、そこには一つの強力なメッセージが貫いているのです。
②それは、共にいて下さる主はこんなにも憐れみに満ちたお方なのだということです。 だから、照る日もかげる日も感謝と賛美を献げる事が出来るのであり、この主の御性質の故に私達はいかなる状況下でも顔を上げて望みを抱くことが出来るのです。 この主に信を置くとき、勇気が静かにわき上がり新しい一歩を踏み出せるのではないでしょうか。
●主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、
恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、(出34:6)