Bread of Life

ディボーションタイムを助ける聖書講解

「二人の女性」マタイ9:14―  201009 第④週 

2010-09-25 11:44:08 | Weblog
●9:20 するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、
イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。
1.長血の女性
①ここに出てくる二人の女性にもたらされた奇跡は一連の出来事として記録されています。 なぜ別々の段落として記録されなかったのでしょうか。事件は二種類ですが主イエスのメッセージは一つであるからでしょう。  
②長血の女性は弱っていましたが、精神的には気丈夫であったと思われます。 彼女は自分の病が律法からは「汚れた者」として扱われていることを十分承知していたので、多分フードのある上着をつけて気づかれないよう後ろから群衆をかき分けながら主に近づいたのです。 彼女は「御衣にでもさわれば癒される」と自分に言い聞かせていて、少しのチャンスも見逃さない積極的な人物であったことが分かります。 だれかが衣に触れたのを察知された主は彼女を呼び出し、彼女の癒しを公衆の前に証明されました。 彼女にとって癒される事も大切でしたが、「汚れた女」という烙印から解放されることは、その後の社会生活上とても必要なことだったのです。 彼女は癒しを求めました。主はそれに応えられただけでなく、彼女の心の中に渦巻いていた悩みにまで届かれたのです。 何という深い憐れみでしょうか。彼女は感涙を止めることが出来なかったのです。 

2.会堂司と娘
①一方、会堂司の娘はイエスが到着される前に息を引き取りました。 他の福音書では、父親は「もはや先生に労を取って頂く資格はございません」と来訪を辞退するのです。長血の女性なら、「死にましたが生き返らせてください」と無遠慮なほどの積極性を示したと思われるのに何と消極的なのかといらつきを感じるほどです。しかしイエスはご自分から「死んでいない、眠っているだけだ」と驚異的な積極性をもって関わられます。両親が娘の死に出会って如何に落胆してしまったか十分ご存じだったのです。 つまり会堂司の信仰態度の弱さをご自分で補われるのです。 その主の踏み込んだ関わりの結果この家庭に大きな喜びが戻って来ます。ここには、悲しみの故に心が萎えてしまった人への深い同情と憐れみを感じます。
3.憐れみに満ちたる神
①積極的な人にはそれを引き出し、引っ込みがちな人にはそれを補う形でご自分を遜らせて仕えられる主のお姿に心が揺り動かされます。  私達もある時には積極的に主を求められる時もありますが、ある時は否定的な状況下の故に主を求める意欲さえ、持ち得ない気分に襲われる時もあるでしょう。 でも、主はどちらの時でも、助けを必要とする心を軽視されないことを教えられます。 二つの出来事をリンクさせて読み取るとき、そこには一つの強力なメッセージが貫いているのです。 
②それは、共にいて下さる主はこんなにも憐れみに満ちたお方なのだということです。 だから、照る日もかげる日も感謝と賛美を献げる事が出来るのであり、この主の御性質の故に私達はいかなる状況下でも顔を上げて望みを抱くことが出来るのです。 この主に信を置くとき、勇気が静かにわき上がり新しい一歩を踏み出せるのではないでしょうか。
●主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、
恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、(出34:6)


「偽預言を見破る力」 マタイ7:15-:20  201009 第③週

2010-09-18 11:37:48 | Weblog
●7:15 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、
その内側は強欲なおおかみである。
1.偽預言者の起源
①旧約聖書の中に偽預言者の具体例を見いだします。 例えば、Ⅱ歴代18:4―:5で、ユダの王ヨシャパテは北の王と組んで外敵と戦おうとします。その時、自分の国の預言者でなく偶像礼拝者であった北のイスラエル王所属の預言者達に指導を求めるという愚行を選択します。
●そこでイスラエルの王は預言者、四百人を集めて彼らに言った
『われわれはラモテ・ギレアデに、戦いに行くべきか、あるいは控えるべきか』。
彼らは言った、『上って行きなさい。神はそれを王の手にわたされるでしょう』。
本当は敗北と死が待っていたのに、預言者達は大勝利を告げるのです。彼らは神の名によって語る故、味方と思いやすいのですが、その言葉には死の毒が盛られた危険な食べ物なのです。 どうしてそんな偽りが告げられるのでしょうか。それは、預言者に「聞く人を喜ばせて自分を高く評価してもらいたい」という所有欲と聞く側の「自分の行為を神の名で肯定してもらいたい」という自己中心欲がかみ合うからです。 偽預言に従ったイスラエル王は命を失いヨシャパテ王は一命だけは守れましたが散々な結果でした。

2.新約時代にも偽預言者は?
①この旧約時代の偽預言は新約時代にもあるのかのかという問いに対して、使徒パウロがアジアの諸教会のリーダーと最後の別れをするときの言葉に答えを見いだします。
●「わたしが去った後、狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、
容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。また、あなたがた自身の
中からも、いろいろ曲ったことを言って、弟子たちを自分の方に、ひっぱり込もうとする
者らが起るであろう。だから、目をさましていなさい。・・云々」使徒20:29・・20:31
②時代が進むに従って情報化も進展し偽預言も多くなると警告しているのです。私達はどうすればよいのでしょうか、それに主イエス様が答えてくださっています。
●7:16 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。
7:17 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
つまり「その勧めを受け容れることにより、より清い生活に引き上げられるのか、それとも、罪と汚れに鈍くなり神を畏れないこの世的な生活にスライドバックするのか、奉仕へのビジョンに燃やされてくるのか、それとも自分の信仰だけが守られれば良いという自己中心な心にされるのか、主を喜ばせる神へ愛を慕い求めるようになるのかどうか、・・・」その行き先をイメージすることにより、神様からきた言葉か肉の欲を動機とした偽預言なのかを判断できるのです。
③赤ん坊は何でも口に入れ時には命の危険を招きます。大人は、結果を判断して口に入れます。 神がある範囲で偽預言を許されているのは、クリスチャンが判断力において成長するためです。 ですから、有名な人からの言葉かどうか、麗しい気持ちにさせてくれるかどうかではなく、それにより結ばれる実が何であるかをイメージして、受け容れる言葉か吐き出すべき言葉かを判断できる成熟を追い求めたいのです。
それは、クリスチャンが他の人をも助けられる存在になれるよう神がある範囲で預言の存在を許されている理由でしょう。
●だから賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、
今の時を生かして用いなさい。 エペ5: 15

☆9月第1週 『賛美の供えもの』コメント
「賛美の供えもの」の中で神様が教えてくださる素晴らしい恵みに目が開かれました!悩みの中で打ちひしがれ、意気消沈する時、賛美する事によって心の視界が開かれた事がありました!賛美のいけにえの意味を深く教えていただけた事を感謝致します!賛美出来る事はクリスチャンの特権ですね!!  9/13

「御言葉が開けると」 詩119:121-136 201009 第②週

2010-09-11 11:31:24 | Weblog
●119:130 み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。

1.時刻表は不要?
①電車が毎日のように遅れるので腹を立てた乗客が駅員にくってかかりました「いつも遅れるのだったら、時刻表なんか出しておくな」すると職員は答えました「時刻表が無いと電車の遅れも分からないでしょう」<織田正吉著(笑いの心ユーモアのセンス)>「昔なら笑っておしまいだが今は笑った後が心配になる、駅員さん殴られなかっただろうか。」 7月17日の天声人語からの抜粋です。
②時刻表も別の見方をすればユーモアが生まれたのです。「今日はこれだけしかできなかった」と思うと疲れがどっと出てきますが、「今日はこれだけは出来た」と見直すと感謝が生まれて疲れが取れる気分になります。 
キリスト教の民話に「道で死んでいた犬」の話があります。そこを通りかかった人達が「何と薄汚れた犬だ」「もう老犬でどうにもならなかったのだろう」とはやし立てていると群衆の後ろから声がしました。「見てごらんなさい、その歯が真珠の様ではありませんか」ちょうど、朝日にその歯がきらりと輝きました。「本当だ、宝石の様に光っている」と人々は驚きました。 最初にそう言ったのは誰かと振り向くと、朝日を背にイエス様が立っておられたのでした。

2.新しい視点
①生まれつきの盲人に「これは神の栄光の現れる為である」と主が宣言されたと聖書に出てきます。その様な新しい視点の幻を宣言できるのは、創造者が人となられたイエス様だけだと思います。 「私はあなたを捨てて孤児とはしない。」と、共に歩んでくださる主イエスに信仰の目を今日も上げて行きたいのです。
②以前、バンクーバーに語学留学をさせて頂いたとき、12週の最後に、4ページの英作文を暗唱して発表する課題が出ました。暗唱し始めると暗記力が若いときのようでないことが痛感させられました。 3行覚えるとその前の1行を忘れます。日増しに厭世気分が心をよぎり、登校拒否児童になりかけました。 ついに白旗を揚げて主に祈りました。 
数日後、すばらしいアイデアが浮かんだのです。「当日掲示するポスター中のパーツをスピーチの順に並べて台紙に張り、それを横目で見ながら話せば途中で話の筋が混乱することはない。」  当日3番バッターでさせて頂いた後、教授から「スピーチは良かった。少し目を絵から離し、会衆を見ながらしていたら、もっとよかった」と言われました。それは自分にも十分承知の上だったので、感謝して受け取りました。 自分なりには大成功だったからです。
②改めて主の下さった知恵に深く感謝をました。 生ける御言葉である主イエスは共にいてくださり、必要なら光を放って私達の闇に光を照らしてくださるのですから、今一度この恵みを信じて、その光を受け止めながら歩ませて頂こうではありませんか。


「賛美の供え物」 民11章―13章 201009 第①週

2010-09-04 11:43:24 | Weblog
●詩篇119:108 主よ、わがさんびの供え物をうけて、
あなたのおきてを教えてください。
1.賛美の供え物
①ある大阪のクリスチャン家族が名古屋での集会後帰途につきました。夜の名神を南下し彦根市のあたりを通過しようとしていた時、突然「ガタッ」と音がして車が傾き止まりました。外に出て調べると前車が一つはずれて遠くに転がり、車が道路にすって制止したのだと解りました。あまりのことに驚きましたが気を取り直し、まず転がったタイヤをもとに納めようとしましたが固定用ナットが一個しか見つかりません。多分、途中で一個ずつ外れ最後に残りの一個がタイヤと一緒にはずれたのでしょう。 事故の経過を考えると背筋が寒くなるような気分でしたがとにかく懸命に復旧を考えました。
②その時「賛美しなさい」という、とてつもない思いが心に届きました。「賛美と車の復旧とどう関係があるのか」それが彼の反応でした。

2.供え物のメッセージ
①119:108に「供え物(生け贄)を献げる」とありますがヘブル書には「だから、わたしたちはイエスによって賛美のいけにえ、すなわち彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。」(13: 15)と表現されています。これは獣を殺して献げる旧約祭儀の新約への適用です。その霊的意味は「自分の知、情、意を神に献げる」事を指しています。 神の意志に従おうとする際、必要なら自分の思いを献げて神様の意志を優先させる従順の必要を教えるのです。主イエスは「自分の十字架を負って私に従うのでなければ私の弟子に成ることは出来ない」とまとめておられます。それは私達が自分を救う道であり、同時に上からの助けを受ける道でもあるのです。悪魔はそれを「神様は酷な命令をされている」と思わせます。  そして「十字架を捨てなさい、そうすれば自由になれる」と囁くのです。でも主の命令が神の愛から出ていることを悟る人は「むしろ十字架を捨てる思いを捨てて、十字架を負って従う」ことを選択するのです。
③ドライバーの主人は自分の思いを捨てて啓示に従い「主を誉め称えます」と告白しました。その瞬間、不思議な知恵が届きました。「ナットを平均にすればいいでしょう。」
「なるほど」他のタイヤホイールからナットを一個ずつ外し、装着ナットをすべて4個に調整すれば走行可能と判断しました。神の上からの知恵のすばらしさ、また賛美の生け贄を献げる事の意味の深さを教えられ、彼は喜びと平安に支えられて無事大阪の自宅に着くことが出来ました。119:108の御言葉が彼の上に実現し、「主のおきてを知った(悟った)」のです。
聖書の言葉を文字として知っていても生活の力にはならないでしょう。でもそれを、悟るなら人生の霊的資産となります。今週も、その宝が増えるよう108節の御言葉を今一度告白して祈りましょう。
●主よわがさんびの供え物をうけてあなたの
おきてを教えてください。