強くまた雄々しくあれはクリスチャンの愛好聖句ですが、この世の通念も弱いより強い方が勝るとします。
ところがふしぎな事に聖書に弱いことがとても大切と教えている箇所が多くみられます。
イスラエルの父となったアブラハムの孫、ヤコブは知恵にたけた世渡り上手で成功者でした。
ところが彼が天使と格闘しついに腰骨を外され激痛に襲われ漸く立ち上がりますが、腰のゆがみは回復せず以後足を引きずりながら生きなくてはなりませんでした。
この哀れな姿のヤコブに「貴方の名前をヤコブからイスラエル、神の王子と変えなさい」との命が下ったのです。
弱さの故に人生が変革するパラドックスを描いています。
使徒パウロは自分の弱さを取り除いていただくよう何度も主にいのりますが主は「私の恵みは貴方に十分である。わたしの力は弱いところに現れる」と約束され以後彼は同じ求めをすることから解放されるのです。
3年前からでしょうか。
毎朝たったの5分の礼拝がどれほど一日を素晴らしくするかに眼がひらかれ励行するようになりました。
ところが、勝利が増えてくるとどうしても心が高ぶり横着になるのが人の通性です。
ある日「今日は仕事をしてから夕食時に礼拝しましょう」と勝手に決め仕事にとりかかったのです。
すると、なすことすること何もかも歯車が食い違いとんでもない躓きを経験し自分に失望させられました。
このとき自分の弱さを忘れていた罪を正そうとされている主の愛に気づき、悔い改め、第一のことを第一にと本心に立ち返る事が出来ました。
明くる日、心は平安をとりもどし一日の諸要素も見事にかみ合って感謝と喜びを数えることが出来ました。
私達は弱さを承知した勝利者でなくてはならないのです。
神はその原則を心得ておられ、私達が、悲しみにあうこと、痛みを覚えることを許されているのでしょう。
主は愛と哀れみにみちておられ決して絶えられない苦しみに遭うことがないよう、またそれが喜びに繋がるようさじ加減を調整してくださっているのです(1コリ10:13)。
私達も使徒パウロの様に告白しようではありませんか。
●「むしろ私は自分の弱さを誇ろう、なぜなら私が弱いとき私は強いからである」2コリ12:10
(12月は黙想月としてメッセージを味わい直していただければ幸いです)
ところがふしぎな事に聖書に弱いことがとても大切と教えている箇所が多くみられます。
イスラエルの父となったアブラハムの孫、ヤコブは知恵にたけた世渡り上手で成功者でした。
ところが彼が天使と格闘しついに腰骨を外され激痛に襲われ漸く立ち上がりますが、腰のゆがみは回復せず以後足を引きずりながら生きなくてはなりませんでした。
この哀れな姿のヤコブに「貴方の名前をヤコブからイスラエル、神の王子と変えなさい」との命が下ったのです。
弱さの故に人生が変革するパラドックスを描いています。
使徒パウロは自分の弱さを取り除いていただくよう何度も主にいのりますが主は「私の恵みは貴方に十分である。わたしの力は弱いところに現れる」と約束され以後彼は同じ求めをすることから解放されるのです。
3年前からでしょうか。
毎朝たったの5分の礼拝がどれほど一日を素晴らしくするかに眼がひらかれ励行するようになりました。
ところが、勝利が増えてくるとどうしても心が高ぶり横着になるのが人の通性です。
ある日「今日は仕事をしてから夕食時に礼拝しましょう」と勝手に決め仕事にとりかかったのです。
すると、なすことすること何もかも歯車が食い違いとんでもない躓きを経験し自分に失望させられました。
このとき自分の弱さを忘れていた罪を正そうとされている主の愛に気づき、悔い改め、第一のことを第一にと本心に立ち返る事が出来ました。
明くる日、心は平安をとりもどし一日の諸要素も見事にかみ合って感謝と喜びを数えることが出来ました。
私達は弱さを承知した勝利者でなくてはならないのです。
神はその原則を心得ておられ、私達が、悲しみにあうこと、痛みを覚えることを許されているのでしょう。
主は愛と哀れみにみちておられ決して絶えられない苦しみに遭うことがないよう、またそれが喜びに繋がるようさじ加減を調整してくださっているのです(1コリ10:13)。
私達も使徒パウロの様に告白しようではありませんか。
●「むしろ私は自分の弱さを誇ろう、なぜなら私が弱いとき私は強いからである」2コリ12:10
(12月は黙想月としてメッセージを味わい直していただければ幸いです)