口語訳】マル10:51
イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。
その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
はじめに)
人生の大変革を経験したバルテマイから、キリストにあって変えられていく人の原則を学んで来ました。第1は、幹であるキリストと命の連結があること、第2は行いが伴った信仰です。今日の学びは第3の原則で「み言葉の適用」です。51節後半に注目しましょう。
1.視力の回復を求めた根拠
①主が何をしてほしいのか
と問われた時、バルテマイは「主よ、見えるようになることです」と即答しました。なんと厚かましい要求か、何と大胆な求め方をしたものだと思いませんか。そこに何の根拠もなければ大言壮語としか言いようがありません。しかし彼の希望は聖書の約束に基づいた希望でした。
イザヤ書29:18-19にこうあるからです。
目しいの目はその暗やみから見ることができる。
人のなかの貧しい者はイスラエルの聖者によって
楽しみを得る。
つまり、バルテマイの求めは、彼の自我からでた途方もない欲求ではなく、イザヤ書の約束をそのまま自分に適用したのです。バルテマイは子供のころから聖書を学ぶだけでなく、御言葉を暗誦して心に蓄積していたと思います。それ故、主が何をしてほしいのかと問われた時、とっさにイザヤ書28章を思い出し、「あなたが約束されたことを私の上にあらわしてください」と言えたのです。
②イザヤ書に、
その日とあるのは、キリストが来られる時にそれらはなされるということを知っていたのです。バルテマイは、そのキリストをイエスと重ねました。その原則に基づき、イザヤ書29:18-19の御言葉は、今日実現し始めていると受け止め、預言にあるように、そのキリストであられる貴方は私の不自由な視力を回復されるのに何の問題があるでしょうかと告白したのです。彼の求めの根拠は自分の熱心さに基づくものではなく、神のみ言葉の真実に基づくものであり、それを100%信頼することに基づいていたのです。もし、それが応答されないなら神様の側に責任が問われるのです。
主は応答されないはずがありません。ですから、主は彼の信仰をほめられて言われました。
【口語訳】マル10:52
そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。
すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
2.御言葉の適用
①クリスチャンが集会
のあと「今日のメッセージはよかった」「まあまあだった」と言います。でも一番大切なのは、聞いた人がそれを適用するかどうかなのです。なぜなら適用してこそ御言葉は実を結ぶからで、その結果メッセージは良かったと云えるからです。収穫を期待しないで種を撒く農夫はいません。ですから、御言葉と適用は切り離せないものなのです。
年ごとに変えられていくクリスチャンは、御言葉の適用に生きる人です。それは、詩編1編のほとりのそばに植えられた木のようです。み言葉を知るだけでなくどう適用できるのか一日中思いめぐらす人だからです。
デボーションの勧めは、近年盛んになされています。でも聖書を味わっても最後に適用しないなら、気分はよくなっても生活は変わらず人生も変わりません。
③なぜ適用
がなおざりにされがちなのでしょうか。楽でないからです。適用するには心を動かさなくてはなりません。頭を働かせなくてはなりません。意思の力も必要です。でも、人の脳は普通6%しか使われないで終わるといわれています。どれほど動かしたと感じていても、まだまだ余地があるのです。互いに適用と体験(できなかった時も含めた体験)を分かち合い励まし合いながら継続できるなら、それに勝ることはありません。これがヨベルタイムと呼ばれるのは一番大切な恵みをいただけるからです。
礼拝のメッセージを聞いて心に留まったこと、心が動かされた事があるなら、それを適用してみましょう。毎回、完璧な適用ができなくても試みていくうちに、内容が充実してきます。やがて、適用しないで終わるなど考えられないというクリスチャンになるでしょう。そのような人は、主イエスが言われた、良い地に落ちた種の人の様で(ルカ8:15)栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくのです。
(4月はイースター休暇とさせていただき5月から再開いたします。
御言葉を愛される兄弟姉妹の上に祝福と勝利がありますよう
お祈りしております。)
イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。
その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
はじめに)
人生の大変革を経験したバルテマイから、キリストにあって変えられていく人の原則を学んで来ました。第1は、幹であるキリストと命の連結があること、第2は行いが伴った信仰です。今日の学びは第3の原則で「み言葉の適用」です。51節後半に注目しましょう。
1.視力の回復を求めた根拠
①主が何をしてほしいのか
と問われた時、バルテマイは「主よ、見えるようになることです」と即答しました。なんと厚かましい要求か、何と大胆な求め方をしたものだと思いませんか。そこに何の根拠もなければ大言壮語としか言いようがありません。しかし彼の希望は聖書の約束に基づいた希望でした。
イザヤ書29:18-19にこうあるからです。
目しいの目はその暗やみから見ることができる。
人のなかの貧しい者はイスラエルの聖者によって
楽しみを得る。
つまり、バルテマイの求めは、彼の自我からでた途方もない欲求ではなく、イザヤ書の約束をそのまま自分に適用したのです。バルテマイは子供のころから聖書を学ぶだけでなく、御言葉を暗誦して心に蓄積していたと思います。それ故、主が何をしてほしいのかと問われた時、とっさにイザヤ書28章を思い出し、「あなたが約束されたことを私の上にあらわしてください」と言えたのです。
②イザヤ書に、
その日とあるのは、キリストが来られる時にそれらはなされるということを知っていたのです。バルテマイは、そのキリストをイエスと重ねました。その原則に基づき、イザヤ書29:18-19の御言葉は、今日実現し始めていると受け止め、預言にあるように、そのキリストであられる貴方は私の不自由な視力を回復されるのに何の問題があるでしょうかと告白したのです。彼の求めの根拠は自分の熱心さに基づくものではなく、神のみ言葉の真実に基づくものであり、それを100%信頼することに基づいていたのです。もし、それが応答されないなら神様の側に責任が問われるのです。
主は応答されないはずがありません。ですから、主は彼の信仰をほめられて言われました。
【口語訳】マル10:52
そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。
すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
2.御言葉の適用
①クリスチャンが集会
のあと「今日のメッセージはよかった」「まあまあだった」と言います。でも一番大切なのは、聞いた人がそれを適用するかどうかなのです。なぜなら適用してこそ御言葉は実を結ぶからで、その結果メッセージは良かったと云えるからです。収穫を期待しないで種を撒く農夫はいません。ですから、御言葉と適用は切り離せないものなのです。
年ごとに変えられていくクリスチャンは、御言葉の適用に生きる人です。それは、詩編1編のほとりのそばに植えられた木のようです。み言葉を知るだけでなくどう適用できるのか一日中思いめぐらす人だからです。
デボーションの勧めは、近年盛んになされています。でも聖書を味わっても最後に適用しないなら、気分はよくなっても生活は変わらず人生も変わりません。
③なぜ適用
がなおざりにされがちなのでしょうか。楽でないからです。適用するには心を動かさなくてはなりません。頭を働かせなくてはなりません。意思の力も必要です。でも、人の脳は普通6%しか使われないで終わるといわれています。どれほど動かしたと感じていても、まだまだ余地があるのです。互いに適用と体験(できなかった時も含めた体験)を分かち合い励まし合いながら継続できるなら、それに勝ることはありません。これがヨベルタイムと呼ばれるのは一番大切な恵みをいただけるからです。
礼拝のメッセージを聞いて心に留まったこと、心が動かされた事があるなら、それを適用してみましょう。毎回、完璧な適用ができなくても試みていくうちに、内容が充実してきます。やがて、適用しないで終わるなど考えられないというクリスチャンになるでしょう。そのような人は、主イエスが言われた、良い地に落ちた種の人の様で(ルカ8:15)栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくのです。
(4月はイースター休暇とさせていただき5月から再開いたします。
御言葉を愛される兄弟姉妹の上に祝福と勝利がありますよう
お祈りしております。)