Bread of Life

ディボーションタイムを助ける聖書講解

2015年3月第5週  「変えられる人そうでない人」3

2015-03-29 20:19:45 | Weblog
口語訳】マル10:51
イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。
その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。

はじめに)
人生の大変革を経験したバルテマイから、キリストにあって変えられていく人の原則を学んで来ました。第1は、幹であるキリストと命の連結があること、第2は行いが伴った信仰です。今日の学びは第3の原則で「み言葉の適用」です。51節後半に注目しましょう。
         
1.視力の回復を求めた根拠
①主が何をしてほしいのか
と問われた時、バルテマイは「主よ、見えるようになることです」と即答しました。なんと厚かましい要求か、何と大胆な求め方をしたものだと思いませんか。そこに何の根拠もなければ大言壮語としか言いようがありません。しかし彼の希望は聖書の約束に基づいた希望でした。
イザヤ書29:18-19にこうあるからです。
目しいの目はその暗やみから見ることができる。
人のなかの貧しい者はイスラエルの聖者によって
楽しみを得る。
つまり、バルテマイの求めは、彼の自我からでた途方もない欲求ではなく、イザヤ書の約束をそのまま自分に適用したのです。バルテマイは子供のころから聖書を学ぶだけでなく、御言葉を暗誦して心に蓄積していたと思います。それ故、主が何をしてほしいのかと問われた時、とっさにイザヤ書28章を思い出し、「あなたが約束されたことを私の上にあらわしてください」と言えたのです。
②イザヤ書に、
その日とあるのは、キリストが来られる時にそれらはなされるということを知っていたのです。バルテマイは、そのキリストをイエスと重ねました。その原則に基づき、イザヤ書29:18-19の御言葉は、今日実現し始めていると受け止め、預言にあるように、そのキリストであられる貴方は私の不自由な視力を回復されるのに何の問題があるでしょうかと告白したのです。彼の求めの根拠は自分の熱心さに基づくものではなく、神のみ言葉の真実に基づくものであり、それを100%信頼することに基づいていたのです。もし、それが応答されないなら神様の側に責任が問われるのです。
主は応答されないはずがありません。ですから、主は彼の信仰をほめられて言われました。
【口語訳】マル10:52
そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。
すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。

2.御言葉の適用
①クリスチャンが集会
のあと「今日のメッセージはよかった」「まあまあだった」と言います。でも一番大切なのは、聞いた人がそれを適用するかどうかなのです。なぜなら適用してこそ御言葉は実を結ぶからで、その結果メッセージは良かったと云えるからです。収穫を期待しないで種を撒く農夫はいません。ですから、御言葉と適用は切り離せないものなのです。
年ごとに変えられていくクリスチャンは、御言葉の適用に生きる人です。それは、詩編1編のほとりのそばに植えられた木のようです。み言葉を知るだけでなくどう適用できるのか一日中思いめぐらす人だからです。
デボーションの勧めは、近年盛んになされています。でも聖書を味わっても最後に適用しないなら、気分はよくなっても生活は変わらず人生も変わりません。
③なぜ適用
がなおざりにされがちなのでしょうか。楽でないからです。適用するには心を動かさなくてはなりません。頭を働かせなくてはなりません。意思の力も必要です。でも、人の脳は普通6%しか使われないで終わるといわれています。どれほど動かしたと感じていても、まだまだ余地があるのです。互いに適用と体験(できなかった時も含めた体験)を分かち合い励まし合いながら継続できるなら、それに勝ることはありません。これがヨベルタイムと呼ばれるのは一番大切な恵みをいただけるからです。
礼拝のメッセージを聞いて心に留まったこと、心が動かされた事があるなら、それを適用してみましょう。毎回、完璧な適用ができなくても試みていくうちに、内容が充実してきます。やがて、適用しないで終わるなど考えられないというクリスチャンになるでしょう。そのような人は、主イエスが言われた、良い地に落ちた種の人の様で(ルカ8:15)栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくのです。


(4月はイースター休暇とさせていただき5月から再開いたします。
御言葉を愛される兄弟姉妹の上に祝福と勝利がありますよう
お祈りしております。)

2015年3月第4週  「変えられる人そうでない人」2

2015-03-22 19:31:33 | Weblog
口語訳】マル10:50
そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。

はじめに)
バルテマイを通して、人が変えられるために何が必要なのかを教えられます。一番大切なのはイエス様の命です。クリスチャンが捧げる感謝と賛美はその命を受け取る管です。そして、もう1つの大切な原則があります。10章50節に注目しましょう。

1.上着を脱ぎ捨てて
①バルテマイは
乞食をし続けるのに大切なユニフオームである上着を脱ぎ捨てたということは、乞食をし続ける必要が無いように主が変えてくださると100%信じたことを示しています。つまり、彼の信仰には行いが伴ったということです。ヤコブはこう教えています。
【口語訳】ヤコブ
2:14 わたしの兄弟たちよ。
ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、
なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、
それだけでは死んだものである。
ある人は、「いいえ私たちは行いによって救われたのでなく恵みによってすくわれたのです。」と反発するかもしれません。でも両者は矛盾するのではなく補い合うのです。つまり「人は律法の行いによって自分を義とすることはできない。」というのは真実です。でもヤコブは信仰が実を結ぶために必要な行いを教えているのです。私たちの信仰が求めていることにふさわしい行動を伴っているかどうかを、主は見られるのです。
②現代の様にメール
と違って葉書が常用されていた時代の事です。ある教会の長老さんは教会に新来者があると、その人のために100枚の葉書を用意されました。毎週、葉書でコミュニケーションをとるためです。気が付いたこと、励ましの言葉、休んだ時にはメッセージの要約などを自筆で記し毎週送るのです。彼は、ただ救われることを願う、また背後で祈るというだけでなく、救われると信じて、葉書を100枚購入するという行いを主の前に示したかったのです。その長老さんは、教会に新来者があると、その人用に葉書を100枚用意し毎週何かを書いて出しました。この教会の求道者は殆ど葉書が100枚使い切られる前に洗礼に至ったということです。神は信仰の行いを見られていたのです。

2.望みが信仰に変わる時
①松見先生は
結核で入院されていた時期がありました。回診に来られた医師がベッドの枕辺に置いてある巻物をみて「これは何ですか」と尋ねました。松見先生は「はい、退院後の20年間計画です」医師は驚いて「まだ治療中なのに?」と問いかけそうになりました。でも、先生は主の癒しを先取りされていて、それに基づく計画をするという行動をされたのです。松見先生の祈りの目標は諸教会を助ける働きであり、そのためには癒しは当然なされるべきことでした。その先取りの信仰を神は祝福され信仰通り、癒され退院して、計画済みの目標にむかって歩み出されました。ヘブル書にこうあります。
【口語訳】ヘブル 11:1
さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない
事実を確認することである。
詳訳聖書には「実体であることの保障」と書かれています。婚約指輪が、近い将来迎える新生活の保証であるのと同じです。まだそれが始まっていなくても、指輪を見つめて、将来の結婚を喜び楽しむことがきるように、信仰とは将来の実体だと言うのです。ここに「願望と信仰」とが大きく異なることを知ります。単なる願望は消え去るかも知れませんが、信仰からきた望みは、消え去らないだけでなく、現実を生み出していく種となるのです。
②バルテマイの
願望が信仰からくる望みに変えられたのはいつでしょうか。彼が古い衣を脱ぎ捨てた瞬間です。彼が衣を捨て去った時、聖霊はそれを見て感動され、信仰からくる望みを届けられました。それ故、まるで視力を回復した人の様な喜びを感じたのです。彼が躍り上がったのは、その非日常的な喜びの故です。あなたの信仰にも、ふさわしい行いを加えるなら、それをご覧になって主はあなたの願望を信仰からくる望みに変えてくださいます。
カナの婚礼の中で僕が水を運び始めた瞬間、水が香しい葡萄酒にかえられたのと同じ奇跡です。
あなたの信仰に行動が伴っていますか、主はそれを問われています。この原則を瞑想し、祈りの中で応答しましょう。


2015年3月第3週 「変えられる人そうでない人」1

2015-03-15 20:35:52 | Weblog
マルコ10:47彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。

はじめに)
イエスがエリコの町を訪ねられた時、彼の取り巻き連中は多くいましたが人生が変えられたのは数人でした。主が共に居られる事に自己満足しているだけでは人生の変革は起こらないことを示しています。変革には従うべき原則があるからです。私達はバルテマイから人生の変革の法則を学びたいのです。

1.「Because of thanks」
①周囲の人々は
「ナザレのイエスが来られる」と噂しましたがバルテマイは全く異なる名で叫んだのです。「ダビデの子イエス」です。それは、アブラハム、ダビデとつながる歴史のなかでなされた神の恵みを思い起こし、私にも同じ憐れみと恵みを届けてくださいという告白です。
神に良きことを期待するならまずその恵みを覚えて感謝することが先立たなくてはならないというのが第1の原則です。103篇の3節~5節に7つの祝福を約束するまえに1節~2節で、「すべての恵みを神に感謝せよ」と命じていることと重なります。
②その短い1節2節の
中で4度も「ほめよ」という命令が繰り返されているのはなぜでしょうか。人間がいかに恵みに慣れてしまい、感謝を忘れてしまいやすいかをダビデは自覚していたからです。私たちも、主に求める前に自分が切り出された岩を思い起こし、取り出された穴を思い起こして、心の深みから感謝を捧げるべきなのです。恵みを当たり前と思いやすい自分を戒め、すべての事はあなたがくださった贈り物です、すべての栄光はあなたにあります、
と恵みを数え始めるなら、喜びで心が満ちてきます。その喜びの中に、自分が変えられていく命が届けられるからです。これは、「Because of thanks」
「それ故感謝します」という感謝の泉です。その泉は健全でしょうか。

2.「In spite of thanks」
①しかしバルテマイの叫びは、
それ以上の告白でした。なぜなら、彼は人生の途中で視力を失い物乞いをするほか生きられない状況に置かれたのです。彼は自分の前を通り過ぎる人達がいかに無情かを経験しました。自分の不運を嘆き人の無情を憤り、周囲に恨み辛みを吐き出したとしても、誰も彼を責めることはできないでしょう。しかし彼はそれを拒否し詩編103篇1~2節に従い、自分に命じて「感謝を数えることを選択」したのです。
「神様、私は父母の愛を感謝します。友人の好意を感謝します。
また目が不自由になっていますが、あなたをほめたたえ感謝することは
止めません。なぜなら、あなたの恵みと慈しみは変わることがないからです。
あなたは私にも憐れみ深い方であられるからです。」

このような告白ができたのは「にも拘らず感謝」を学んでいたからです。貴方が、苦しみに見舞われた時、悪魔は何とか感謝と賛美を止めさせようと懸命に誘惑します。しかし「にも拘らず感謝」を選択するなら、悪魔は完全に打ちのめされるのです。
②わたしたちは
信仰の初歩から完成(へブル6:1)を目指して進まなくてはなりません。彼がこの感謝を告白したのを、イエスはすぐに感知されました。イエスはその告白を慕わしく思われました。その歩みを止められたことがそれを証明しています。つまり、バルテマイの魂と主の霊とが繋がったのです。つまり、(ヨハ 15:5)にあるように、枝が葡萄の幹に繋がったのです。その結果、バルテマイの中に新しい人生の実が豊かに結ばれる結果をもたらしたのです。貴方も、イエス様との命のパイプが閉塞していないか今一度、点検しましょう。感謝告白を新しくしましょう。悪魔を成功させるのでなく貴方と主の計画を成功させなくてはなりません。
「Because of thanks」と「In spite of thanks」を生きたものに保持しましょう。そして、豊かな実を結ぶ聖霊の命を受け取っていきましょう。その土台の上に、願いと計画を掲げて祈りましょう。その前提の上に、人生の変革がなされるからです。


2015年2週 カナの婚礼2 「マリヤの躓き」

2015-03-08 19:32:03 | Weblog
【口語訳】ヨハ 2:4 イエスは母に言われた、
「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。

1.イエスの拒絶
①葡萄酒が
切れて宴会が台無しになることを憂い、助けを乞うたマリヤに対し、イエスの返答は木で鼻を括るようなすげない言葉でした。「婦人よ、貴方と私とは何の関わりがあるのですか」と返答されマリヤは一瞬耳を疑い、きっとイエスに躓きかけたことでしょう。この個所から躓きの原因と、躓きからの解放を学びましょう。
マリヤはなぜ躓きかけたのでしょうか。それは、イエスが母親にそれまでよく仕えてきた息子(ルカ2:51)であったので、当然自分が窮状を訴えればすぐに動いてくれると「決め込んでいた」からです。ところが、その予想とまったく違う反応が返ってきたので戸惑いと同時に大きなショックを覚えたのです。マリヤがその感情に支配されたなら「あなたは息子でしょう、わたしの言うことが聞けないのですか」と叱責したかもしれません。
でも、彼女が躓いた本当の原因は、イエスの言葉ではなく、彼女の中にあった「決め込み」だったのです。それを一般化すると「不適切な前提」といえます。
②この事実に気が付かないと
クリスチャン同士でも躓くのです。「あの人は、前回は私に声をかけてくれたのに、今日は見向きもしないで私の前を通り過ぎてほかの人と親しそうにしている。なんて不真実な人か、あれでクリスチャンと言えるのですか」
そこには「クリスチャンにはキリストの愛があるのだから、いつもだれにでも親切であるべきである。」という前提があります。でも、この前提は適切と言えるでしょうか。クリスチャンはキリストの様に完璧であるのでしょうか。それとも欠点や弱さがあるので、救われているのでしょうか。
クリスチャンならば、常にあなたの心を充分理解してくれるのでしょうか。
もちろんそうであるに越したことはありませんが、人はキリストの様に完全でないのもまた事実です。ですから、上記の前提は、不適切な前提と言えます。不適切な前提が望ましくない躓を生むのです。
最も重要なのは、自分を躓かせているのは、外の人や物事にあるのではなく、自分のうちにある不適切な前提であることに気付きそれを認める事です。
不適切な前提はどうして生まれるのでしょうか、それは、自己中心の心からです。英語で罪をSINと言いますが「私I中心」が罪の本質です。つまり不適切な前提には罪があるのです。その罪を悔いあらため、十字架の下で清めていただかなくてはなりません。そして不適切な前提を修正するのです。その時、十字架には復活が続く様に、貴方は、不適切な前提がもたらす否定的な感情と呪縛から解放されるのです。

2.マリヤの回れ右
①さすがに
マリヤは神に選ばれた器です。すぐに自分の間違いに気づいたのです。そして不適切な前提を十字架に付け、適切な前提を受け入れました。「息子が自分のいうことを聞いてくれるに越したことはない」と。
貴方もマリヤに倣って不適切な前提を修正するなら、望ましくない躓きと悪魔のもたらす束縛の縄目から解放されるでしょう。
ここで、注目すべき事は、マリヤは不適切な前提を修正しただけではなく、さらに優る道を選んだ事です。世話人達がイエスの言葉に100%従うよう指示したからです。御言葉を「新しい前提」としたのです。
②三浦綾子さんが
旭川の病院に長期入院しておられたときです。最初、入院されたとき病院の雰囲気はとても暗かったのです。それは建物が古いと言うだけでなく入院されている患者さん達の暗さでもありました。彼女は入院当初、廊下で出会う人に「おはようございます」と挨拶しましたが誰も返事をしないのです。「暗いなあ」が彼女の印象でした。
きっと彼女は祈り始めたでしょう。「あのような態度では病院が暗くなります。神様どうか彼らにそれを気づかせてください」見舞いに来た友人にも、問題を分かち合い、祈りをリクエストされたと思います。でも、一向に聞かれません。やがて綾子さんはマリヤのように「御言葉に聞いて従うのが先ではないか」と気づいたのです。
そして、「善をなすことに倦み疲れてはならない。たゆまないでいると豊かに刈り取る」を前提としました。「たとえ、返事がなくても、私の方から挨拶し続けよう、結果は神に委ねよう。」と回れ右しました。
やがて1年が経過しました。病院中の患者さんが互いに朝の挨拶、夕べの挨拶をされる様になったのです。院内の雰囲気が大きく変えられた事は言うまでもありません。水が葡萄酒に変わったのです。
綾子さんの内にも「愛の忍耐」という香しい葡萄酒が届けられたのです。それは、水を運んだ僕だけが知っている奇跡でした。
貴方も、その葡萄酒に与る機会が与えられています。それを生かして、造りかえられる経験をしませんか。


2015年3月第1週 カナの婚礼1 「問題という問題」

2015-03-01 20:12:43 | Weblog
ヨハネ2:3 母はイエスに言った「ぶどう酒がなくなってしまいました」。

1.不測の出来事
①ユダヤでは
男の子が生まれると葡萄酒を蓄積し婚礼の宴席で振る舞う葡萄酒に備えます。この時も十数年かけて蓄積した葡萄酒が用いられました。ところが予想以上に参加者が多かったため宴会の途中で葡萄酒が不足しはじめたのです。今さら買い求めに行く時間もないし、このままだと花婿は新婚生活の最初に大恥をかくことになります。「大問題発生」と花婿側の関係者は青くなったでしょう。ところが、聖書は、「イエスはその栄光を現された。」(ヨハ 2:11)と記録したのです。この個所を聖書は「神の栄光の時」と名付けたのです。「葡萄酒が不足した」という事と、それが問題であるということとは全く別だということになります。
②もし花婿が
この事を悔やみ、落ち込み、準備してくれた人に「貴方たちの為にどんなに恥をかいたかわかりますか」と責め、花嫁は、「こんな恥ずかしい思いをさせられたことは生涯忘れないわ」と夫を責めたならその後の人間関係にヒビが入り問題となります。しかし、花婿が参加者の前で率直にお詫びし「私が甘かったので大変ご迷惑をおかけし申し訳ございません。今後はこれを教訓として肝に銘じて励んで参りますので皆様方のご鞭撻ご指導をよろしくお願い申し上げます。」と告白したとしたら「若いけど、誠実な男らしい婿殿じゃないか、これからが楽しみだ」と逆に親しみを得る最高のチャンスとできたかも知れません。また彼がその後、必ずダブルチェックする事を習慣化したとしたら彼を成熟へと導いたでしょう。事件は常に中立であってそれに「問題」という名前を付けるのか「栄光」と呼ぶのかはあなたの選択だということです。

2.名前を付ける
①自分に出会って
くる物事に名前を付ける権威を人に与えられたことを記しているのは創世記2章19節です。土から動物を形作られた神は、それをアダムの所に連れてこられました。そしてアダムがそれにどのような名前をつけるかを見守られたのです。アダムが「馬」と告白した瞬間、それは馬らしい動きをし始めました。彼が「羊」と告白した瞬間それは「羊」らしい雰囲気を持つ生き物となったのです。子供が写生する様子を楽しみながら背後で見守る親の様に神は人が動物に命名する様子を「なるほどそうするか」と微笑みながら楽しまれたのです。これは、神は人に人生の諸要素に自分で麗しい名前を付ける権威を与えられたことを示しています。なんと素晴らしい祝福でしょうか。しかし、創世記3章で悪魔の誘惑を受け入れて神様とのつながりを断絶したとき、神が警告された様にその権威を喪失しました。
そして、神の栄光の衣をまとい輝いていたアダムとエバは互いを「恥ずかしい裸の人」と定めたのです。神がどれほど嘆かれたことでしょう。しかし、主イエスは十字架で「すべては終了した」と宣言して罪の呪いをすべて飲み干された瞬間、失った権威が回復される道が開かれました。そして、聖霊が上から注がれたときその実態が届けられ、弟子たちは主イエスのお名前で、悪霊さえ追放し、神の栄光の現れる機会としたのです。
②あなたにも
同じ回復がなされています。主は言われました。
あなたがたは、この世ではなやみがある。
しかし、勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハ16:33)
人生の歩みの中でカナの婚礼の時の様に、好むと好まざるによらず困惑する出来事に出会います。でも、それを、問題と定めるのか、不幸と名付けるのか、それとも、愛なる主の訓練と名付けるのか、神の栄光のチャンスと名付けるか、それは貴方に委ねられているのです。
その権威を用いて「最良、最高の名前を付ける勇気」を持ちなさいと主は勧められています。「勇気」とは「言う気」なのです。
人生の否定的な出来事の責任を他者の責任とするのは楽ですし何の勇気も不要です。自分の告白がそれを定めると受け止めるのは勇気を要します。しかし勝利者になりたいならその勇気を持たなくてはなりません。勇気をもって告白するとき、聖霊は寄り添ってきて、貴方の魂を奮い立たせてくださいます。なぜなら、御心にそう告白を主はひとり置き去りにされないからです。
あなたがこの年に出会ってくる様々な出来事にどのような名前を付けるのか創造者なる主は楽しみに見守っておられるのです。
人がすべて生き物に与える名は、
その名となるのであった。( 創造2:9)