Bread of Life

ディボーションタイムを助ける聖書講解

ルカからの福音Ⅴ 「ポーおじいさんの夢」ルカ3:24 201201 第5週

2012-01-29 12:48:13 | Weblog
●それから、さかのぼって・・3:24

1.Ring of Family
有明バイブルチャーチ主任牧師のロバート・ケーラー師との歓談中、指に珍しい指輪をはめておられるのに気がつき、お尋ねしたことがあります。
「これは、ポーおじいさんがステンレスのナットを自分で加工し、一族に付けさせてくれた特別製の指輪です」とのことでした。このポーおじいさんは、ロバートさんの母方の祖父で、一族が主の働きに特別に選ばれた存在である事を自覚してほしいとの願いを込め、自宅の工作機で手ずから制作し磨いて、それぞれの孫達にプレゼントされてこられたものであることを知りました。この方は、孫達から「ポーじいちゃん」と呼ばれていました。
なにかほのぼのとした感じを受けたのですが、この度、レオ・ケーラーご夫妻が書かれた2008年出版の書籍「私が示す地へ」を信仰継承の視点でリサーチさせていただきました。そのとき、祖父のポー氏の指輪に込められた信仰継承の思いが浮かび上がり、是非兄弟姉妹と分かち合いたいと願うに至りました。
2011年の証にも触れたのですが、レオ・ケーラーご夫妻は宣教師として来日された後、日本で出会ってご結婚され、50年余の働きを継続されている現役の牧師夫妻です。御子弟は、6人、お孫さんはすでに24人、さらに4人を超える、ひ孫達に恵まれておられます。息子さんのうち3名は日本で牧師をされています。その教会に含まれる霊の子供達を加えるなら、すでに数百名のクリスチャン一族といえるでしょう。ポーおじいさんの夢は確実に実を結んでいるといえます。この繁栄の鍵は何処にあるのかは大変興味深いことです。それは、尾山令仁師の勧めと関連するからです。

2.人口率の減少と増加
尾山師が宣教学の講義の中で、「今の日本の出産率からいうと、200年後には日本民族は消滅すると考えられる。しかし、クリスチャンが、子弟を2人以上育てるなら、クリスチャン人口は増加しつづけ、200年後は、日本人口のかなりの%を占めるようになり、日本はキリスト教の影響力が大きく支配する国になるだろう」と示唆されました。実際現在の人口減少のグラフから延長線を延ばしていくと、それは、笑い話のレベルでなく、現実的想定であることが分りました。しかし、その唯一の条件は、信仰教育の連鎖がなされることです。そして悪魔もそれをよく知っているので、
今日まで教会がリバイバルを叫ぶのを許してきましたが、隠された鍵は「信仰継承の連鎖である」ことを巧みに隠してきたと思います。
それだけでなく、継承が2代くらいで消滅するようアタックし続けている事実にも気づかされました。それは、信仰継承も3代目4代目となされるとき放物線的上昇がなされ、力強い実が結ばれていくことを悪魔も予知しているからだと思われます。旧約聖書の歴史からもそれが読み取れます。
ヤコブ、ヨセフはアブラハムから3,4代目です。パウロの忠実な後継者テモテは祖母、ロイスから数えて3代目です。アメリカの優れた教育家であり医師である、ドブソン博士も子孫の為に熱心に毎晩2時間祈られた祖父から3代目といわれていたのを思い出します。先ほどの、レオ・ケーラー師も海外宣教の為に子孫を献げる決意をされた、ヨセフ・ケーラー氏から3代目であり、現在の千葉、九州、大阪の牧師達は4代目になられると思います。もし、信仰の継承が2代で消滅していたら、それ以後の栄光も見られなかったといえます。
この、真理にクリスチャンと教会は大きく目をひらいて祈らなくてはならないと示されています。その理由はいまひとつあります。

3.悪魔のアタック
アブラハムの生涯に戦いはありましたが、勝利の内に凱旋しています。2代目のイサクは、ペリシテ人の圧迫を受けましたが、うまくかわして良き収穫を得ています。しかし、3代目のヤコブは、兄エソウから命を狙われます。4代目のヨセフに至っては、命の危険が一度、冤罪で処刑されそうになる事一度と聖書が記すだけでも命が狙われる経験が共通して記録されています。これは、偶然ではなく、殺したり滅ぼしたりして、神の御計画を断絶しようとする暗黒の存在からのアタックと理解すべきです。きっと親たちはこのために熱心に祈ったことでしょう。その結果、彼らは魔手から守られ、アブラハムの祝福を具現する器として生涯を全うしたのです。
この原則は、今も同じです。ケーラー家のご長男であるロバート師はこのことをよくご存じで、毎日孫達の為に祈ると強調されていました。(レオケーラー師の書籍はホープチャーチで購入できます。www.hopechurch.jp)
これらの、新しい視点からの新しいヴィジョンの故に御名を崇めたいと思います。


☆「Bread of Life」1/22「荒野の試み」コメント
自分の力では どうする事も出来ない状況の時も みことばを与えて支え、勝利させてくださると教えられました!信じて歩んで行けるように祈っていきます。 1/26

ルカからの福音Ⅳ 「荒野の試み」ルカ3:22 201201 第4週 

2012-01-22 12:00:08 | Weblog
●悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。・・ルカ4:13

1.あらゆる試み
ヨルダン川でバプテスマを受けられ聖霊に満たされたイエスはその聖霊に導かれて、荒野で祈られています。40日間の断食の後、空腹を覚えられたとき、悪魔が3つの問いかけを通して、最後の試みをしかけてきました。その一つ一つに聖書のみ言葉で撃退され勝利を得られました。その事の成り行きをルカが「あらゆる試みをし尽くした」と伝えているのですが、そのところに留まって考える時、少々疑問がわいてこないでしょうか。同じ事が、ヘブル書の類似した聖句ともかさなります。
それは、ヘブル 4:15でこうあるからです。

「【口語訳】この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。」

40日間というごく限られた日数で、しかも荒野という市井の生活から離れた環境の中で、人生のあらゆる試みを経験するなどということは考えられません。また、ヘブル書に関しても同様です。彼がどれほど優れた知性に恵まれておられたとしても、地球上の60億以上の人々の全ての弱さを共有できるでしょうか。
「いやイエスは神であられたのだから神の全能からして可能である」とクリスチャンなら受け取るかもしれませんが、ここは文脈から考えて、人間としてのイエスに関する著述ですから、人間イエスにそれを要求するのは無理があります。これらの事を総合すると、一般的に安易に解釈されているこれらの箇所は、熟慮して福音書の筆者の真意をくみとる真理への熱意が要求される箇所です。そこで、まず、ルカの4:13の「あらゆる試み」を検証してみましょう。

2.何故あらゆるといえるのか
多くの人が経験する試みの回数を数えるなら天文学的数字になるでしょう。しかしそれを種類に分類するなら、たったの3種であることをルカは教えたかったのだと思います。その視点からまとめるなら「あらゆる試みをし尽くした」と言いたかったのです。その悪魔に得点を得させる3種のカードとはどんなカードなのでしょうか。ヨハネは「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」の3種のカードだと指摘しています(Ⅰヨハネ2:16)これさえ、悪魔に使わせないように注意すれば、勝利はいつもクリスチャンの側にあるということです。イエスが、荒野の40日目に悪魔が切ってきたカードも吟味すると、同様の3種のカードであったことを射抜けます。つまり、イエスは、人類の代表として、悪魔がつけ込む全ての手口を明示すると同時に、それを使用させない封じ手を見事に示されたと言えるのです。
この箇所から「あなたも人生の様々な問題に苦しむ事があっても、決して悪魔に点数を稼がせることなく、むしろ、神の栄光を現すチャンスとして、用いる事が出来るのです」が、ルカの伝えたい福音のメッセージであることに気づきます。しかし一つだけ気になる記述があります。

3.一時イエスを離れた
「一時」ということは、まだ残っている試みがあることを暗示しています。イエスの公生涯が3年目に入った頃にそれが姿を現します。ピリポカイザリアの告白と称される出来事です。そのとき、ペテロは全くの善意から、十字架の死などあってはなりませんとイエスを諫めます。そのとき「サタンよ、引き下がれ」と叫ばれたのです。そこに、イエスはサタンの姿を意識されたからです。(マタイ16:23)
ここに、最後に残しておいたサタンの試みのカードが出された事をみいだします。この試みは弟子レベルの試みです。その内容は「常識では理解に苦しむ主のお取り扱いを受けたときに」生じます。どうすればいいのでしょうか、そのまま自分の戸惑いと弱さをイエスに申し上げれば良いと思います。必ず主ご自身から個人的な語り掛けを通して、それぞれの局面で平安を取り戻す聖霊の慰めが届けられるでしょう。なぜなら、主は「私はすでに世に勝っている」と宣言されているからです。

この福音書を通し、クリスチャン生活の中で悪魔に勝利できること、しかし、終わりまで注意しながら油断しないで歩み続ける必要、それがあれば、あなたも永遠の栄冠を勝ち取ることができますと、ルカはあなたにエールを送っているのです。

ルカからの福音Ⅲ 「聖霊による識別」ルカ3:22 201201 第3週

2012-01-14 21:08:13 | Weblog
●天が開けて、聖霊が鳩のような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。ルカ3:22

1.聖霊の3つの助け
聖霊により身ごもり生まれ、成長されたイエスでさえ、聖霊の注ぎなしには公の奉仕を始められなかったこの事実は、クリスチャンも聖霊に満たされてはじめて超自然的な、神の約束を生きることが可能である事をまず教えられます。そこで、聖霊が助け主である事を前提に、この箇所から3つのお働きを受け取りましょう。

2.「天が開けて」(3:21後半)
福島原発から6キロの地点にある、福島第一バプテスト教会は、教会堂も会員の住宅も避難地域に完全に含まれました。ほとんど全ての教会員は退去を余儀なくされ、最近完成した新会堂もそこに含まれるという、大被害が教会を襲いました。牧師の佐藤彰師は涙と共に祈られたのですが、その中で、天が開け、それまでの教会の歩みが走馬燈の様に見えてきたのでした。ある時点で「どうしてそんな事が」と思える出来事も後になれば、「あれがあったから今日がある」といえる歴史のつながりが、まるで天から眺めるように見えたのでした。
その法則は、今の「何故こんなことが」ということも、後には「あれがあったからこそ」に必ず繋がるという信仰をよびおこし、それを力として立ち上がることが出来、事実、考えもしなかった方法で新しい場所に会堂建設の運びとなっていると、証され一同大きなチャレンジを受けました。
天が開けるとは、霊的に高い場所に引き上げられ、そこからしか見ることが出来ない景色を見させていただく超自然的経験なのです。この超自然的経験がリアルな体験となるのは、超自然的存在である聖霊の働きの恵みといえます。

3.「聖霊が鳩の様に」(3:22前半)
中世の聖画には洗礼を受けておられるイエスの頭上に「鳩」が降りてくるのが描かれています。鳩は、平和のしるしであることはノアの洪水が治まった事から連想されます。でも、霊は目に見えないのですから、鳩として描くのは聖書理解として無理があります。むしろ、イエスの顔に言葉に表しがたい穏やかさが満ちてきたのを見て、それは聖霊がもたらされた特別の平安であったことを伝えたかったのだと、解釈すべきでしょう。
聖書にも、御霊(聖霊)の実は、愛、喜び、平安とありますから、聖霊が下りイエスの内面が上からの平安に満たされたのは、言葉と一致し聖書の整合性と調和します。
クリスチャンも時には、不安、恐れ、疑いに心が乱される事があるでしょう。箴言に「人を恐れると罠に陥る」という警告があります。不安、恐れにとらえられているときは、健康も崩れてきますし、対人関係にも茨が生じます。平安がない中でなされた決断はあとで後悔します。
自分でコントロールしがたい不安と入れ替わって下さるのが、聖霊です。聖霊の名を唱え(ヨハネ14:26)御霊を待ち望めば、やがて不思議な平安を経験するでしょう。それは、世が与える平安と異なる不思議な安息となります。

4.「声がした」(3:22後半)
天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。と周囲の人々が天からの言葉を聞いた事を証言しています。この言葉は、イエスが後に十字架の苦難をも乗り越えさせる力となったと推測できます。
自分の苦しみを神に委ねなさいという勧めは、あらゆる宗教で語られます。それは、キリスト信仰と同じでしょうか。いいえ違います、神に委ねるのでなく、神の言葉に委ねるという所において明確な相違があるのです。使徒パウロはエペソの長老達との別れの際「今わたしは、主とその恵みの言(ことば)とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある。使20:32」と明示しています。
成り行きに委ねるのでもなく、事態を投げ出すのでもなく、神の言葉に委ねるのです。そのためには、まず神がどう言われているか聞かなくてはなりません。そのとき、状況を洞察しそれに適した神の言葉を届けて下さるのが聖霊の役割なのです。それこそ神の恵みです。ですから、神の恵みの言葉とパウロは表現したのです。
この世の信心と聖書の信仰とを明確に区別させて下さり、神の御心に調和する道に導いて下さるのが聖霊です。この混乱の時代の中で、聖霊の助けをしっかり頂く事はとても意味あることなのです。


ルカからの福音Ⅱ 「新時代のグッドニューズ」ルカ2:8 201201 第2週 

2012-01-08 10:15:46 | Weblog
●ルカ2:8 さて、この地方で羊飼たちが夜、
野宿しながら羊の群れの番をしていた。

1.聖書自身に回答を
救い主の出現はイスラエル全体の宿望でした。しかし、その誕生が告げられたのが、神殿に詣でていた人達にではなく、仕事柄とはいえ野宿をしていた羊飼い達であったという事は意表をつく事態です。あえてそれを記したルカには、どうしても伝えたかったメッセージがあるはずです。それについては、各種の解釈が聖書研究者によってなされています。でも、ルカは自分の筆でその回答を示しているはずですから、自分達自身でそれを見いだしていくことが可能です。それは子供から大人への信仰的成熟に欠かせない営みです。

2.生活の中で
羊飼い達は、牧草を求めて、絶えず移住し、エルサレムの神殿の近くにいるとは限らず、むしろ野にいる事が多かったのです。そこは礼拝とは無縁の場所でした。当時、神殿こそ神に出会える場所と考えられていたからです。(ヨハネ4:20)
その常識を破って、荒野にいる人達に、救い主の誕生が告げられた記事は「場所を選ばない時代の到来」を宣言しているのです(ヨハネ4:21-:23)。条件はただ一つ、内面的条件のみです。
●神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって
礼拝すべきである」。ヨハ4:24

羊飼い達が、神からのメッセージに耳を傾け、それを信じて、すぐに動き出した姿に、ルカは普段の生活の中で神の恵みを受け取れる礼拝の鍵「霊と真」を描き出しています。

3.時空を超えた礼拝
大川修平師の教会で、ある青年が職を求めていましたが、なかなか見つからなくて「先生祈って下さい」とリクエストしていました。それから数日後、大川師が書斎でデスクワークをしておられた時、ふと心に彼の為に「塗装業のH兄弟に電話しなさい」という声が聞こえたように思えました。ほんの僅かな印象でしたが、その霊の声を無視しないで、同師は受話器を取り上げダイヤルしました。話を始めると「若い人が必要で探している」との事でした。すぐに、青年を紹介し、再就職が決まったのはいうまでもありません。大川師の書斎は礼拝堂となったのです。
聖書の知識の知的理解は無駄ではありませんが、それだけでは、信仰の命は生まれません。真の礼拝が必要なのです。神の言葉に耳を傾け、その、細い御声に反応して行動する、これが、真の礼拝であり、そのような礼拝者を神が求めておられると、スカルの女性にイエスは丁寧に教えられました。
その様な礼拝があるなら、普通の営みの中で普段の生活の中で、主に出会う経験が可能なのです。そして、その時代が来ているのだとルカは気づかせたく、こう記しています。
寝かしてある幼な子(キリスト)を捜しあてた。ルカ 2:16

主との個人的交流が招来する、み言葉の確かさ、平安と喜び、未来へ躍動するエネルギー、それらを礼拝者は受けとります。この連鎖が信仰生活のキャンバスに命の彩りを描き出すのでしょう。黙想のなかで、普段の台所、教室、職場、通勤の途中の中に、主の手で描かれたピクチャーを数える事ができるなら、クリスチャンの至福の時間となるはずです。
この新時代の幕開けは、イエス様の十字架の死と墓からの復活という福音の故です。そして、よみがえられて、天に帰られ、聖霊として帰ってこられている、イエス様を身近に感じる生きた礼拝者に加えられましょう。ルカが届けたかった、「新時代到来」というグッドニューズに感謝と賛美を献げましょう。



ルカからの福音Ⅰ「死の陰に住む者を照らす」ルカ1:79 201201 第1週 

2012-01-01 14:22:38 | Weblog
●暗黒と死の陰とに住む者を照す・・ルカ1:79

1.再会
一昨年8月、東京のあるセミナーで福島県高田市から来られていた大友幸一牧師とクラスメイトとなりました。その明くる年3月11日にあの震災が海岸地帯に臨みました。クラスメイトの一人、三坂正治師が大友師と連絡を付けられ「教会は丘の上にあったので無事、しかし、被災した信者さんはおられる」と言うことが分かり心が痛みました。早速募金で支援しましたが、その後のことは詳しく分りませんでした。しかし、昨年11月にヤマハリゾートつま恋で開かれたJCGI全国研修会に同師も参加され、再会を喜びました。
そして、大会中同師が震災後現地で起こった災害と同時に主の御業も会衆に話され一同大いに心が動かされました。まず、このことを皆様にお分かちしたいと思います。

2.新しい希望
3月11日以後、震災地への救援物資が全国から届けられ、その物資の集結と配給センターとして大友師の教会も用いられてきました。しかし、未だに、山間僻地には救援物資が届いていない人々がおられ、教会へ行けば何とかなるという噂を耳にして、尋ねてこられ、対応することが出来てとても喜ばれたと聞きました。今後必要なのは、物資もさることながら、ボランティアの継続的活動です。いまだに、クリーニングすれば再利用できる家屋の清掃には人手が必要で、昨年11月に京都福音教会から行かれたボランティアの方々は、正味2-3日間でしたが、とても感謝されたとの報告を聞きました。その為ボランティアセンター設置が祈られて来たのですが、昨年それが実現し、宿泊と物資保管の両方が出来る家屋が建設されました。この事は援助活動担当者にとり、とても喜ばしい事です。
このような経過の中で、関西淡路大震災後とは明らかに違う現象が東北で起こり始めています。それは、人々が教会に心が向いてきただけでなく福音にも心が開かれつつある事です。津波は生活の土台を文字通り流し去りました。それは、主イエス様という確かな岩を土台として新しい人生をやりなおす気持ちを人々が持ちやすくなる状況を生み出したからです。クリスチャンの多くも「信仰だけが何が消えてもなくならない人生の土台なのだ」という気持ちを喚起させられ、流された家の教会のメンバーも家屋の復興と同時に家の教会を再開しなくてはと立ち上がり始めたと聞きました。

3.新しいヴィジョン
以前から日本の各地で教会主導のソーシャルワーク(ホームレス援助、被災者への救援などの社会活動)は各種なされてきましたが救霊に繋がりにくいのが悩みでした。しかし、東北では、教会から支援を受けた方々が、救われ始めているのです。つまり、ソーシャルワークとエバンジェリズムが両車輪として回転することで福音を前進させているということです。これは、日本の宣教の歴史の中でも、画期的な現象と考えられます。
大友師はこれを期に、自分の県だけでなく、「東北を基督へ」という一大プランを立ち上げ、すでに、そのセンター的教会が各地に名乗りを上げています。福祉活動と宣教活動の両者が効果的になされるとき、宣教が強力に前進する原則は、『西洋史とキリスト教』の著者、黒川知文博士の強調されている視点です。今回の大震災というトラジェティーの中で新しい光明が輝きだしつつあるとするなら、これこそルカの福音書のメッセージではないでしょうか。
震災に遭わなくても、長い人生には、予期しないときに、一瞬で自分の人生の土台が、流失してしまう経験はあり得ます。しかし、ルカはその暗闇に光が届けられると伝えるのです。この福音こそ墓の門を破り復活されたキリストだけが届けられる希望の光といえます。ルカからの福音を現在の光として受止めたいのです。

『日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、
わたしたちの足を平和<回復の予知からくる安息>へ<案内>
するであろう。』1:78-:79(詳訳聖書他)