Bread of Life

ディボーションタイムを助ける聖書講解

償いの原則 出22章→ 080929

2008-09-27 18:37:52 | Weblog

●22:1 もし人が牛または羊を盗んで、これを殺し、あるいはこれを売るならば、彼は一頭の牛のために五頭の牛をもって、一頭の羊のために四頭の羊をもって償わなければならない。
1.五倍も償うの!!
①神はなぜ償いに四倍、五倍の支払いを命じられるのでしょうか。被害者は、加害者の推測より何倍も心のダメジを深く感じていることを加害者は忘れやすいからです。安藤仲市師の歌に、「アザミ花おのれの刺を知らずして花と思いし今日の今まで」
②無意識でも人の刺になっていることが有るなら、目に見えて人を傷つけた場合いは十分以上の償いを示す誠意が必要なのです。それでも相手の側では癒されたとはなかなか感じてもらえないことが有ります。ですから、本当の意味で人に与えた傷を癒す事は人にはできないのかもしれません。 その負いきれない責任から解放させて頂けるのは十字架上のイエスの執り成し「父よ彼等をお許しください、彼等は何をしているか解らないのです」の祷りが天に届いているからです。あなたがこの恵みに自分を委ね続けるなら、時間は掛かっても、主は特別の方法で相手の心をも和らげてくださるでしょう。安んじて信じ続けましょう。
2. 五倍しか償わないの!!
①逆に被害者になったときは、償いを無制限に要求したくなり被害者意識は肥大化しやすいのです。でも被害者意識の肥大は心をサタンのブラックホールへと連れ込みます。ここから私達を救い出してくれるのも十字架上の宣言です。 ②主が「すべてが終った」と宣言されたとき「のろわれるべきものは何もなくなった」のです。この完了済みの宣言に心を向けるとき、被害者意識は溶け始めます。依然として苦しみはあります、当てはずれの痛みもたやすくはなくなりません。でも被害者意識からくる呪いは無力化されていくのです。同時にその中心に主の愛顧の陽光が差し込んで来るのを経験します。それを受けとめその中に止まり、今日から明日へ精一杯生き続けるなら主が未来の最善へと導いて下さるに違い有りません。
「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」ロマ5:5

生活の中の祭壇 出20章→  20080922

2008-09-20 16:31:25 | Weblog
 ●20:25 あなたがもしわたしに石の祭壇を造るならば、切り石で築いてはならない。20:26 あなたは階段によって、わたしの祭壇に登ってはならない。
1.ノーモアー切石
①礼拝の祭壇をなぜ自然石で造るようにモーゼは命じなくてはならなかったのでしょうか。それは、誰にでも祭壇を美化したいという誘惑が有ったためです。祭壇は手段で、礼拝にとり大切なのは、霊と真とに裏付けられた中身であることは、イエスが、サマリヤの女に語られることから明らかです。礼拝が、麗しい音楽や装飾で魅力的なものになるよう教会が努力していることは今日の特色でそれ自体は悪いことでは無いと思います。
②でも礼拝の真の価値は礼拝者の心が神の臨在を意識し、主とコイノニヤ(親しい遣り取り)することです。それは、台所でも、職場の休憩時間でも、通勤電車の中ででも、心を天に向けて主と語りあう時間の事で、そこも立派な礼拝場と意識すべきだからです。教会での麗し礼拝のパフオーマンスにこだわる者になってはいけないのです。大切なのは、真の礼拝なので、そこに命と恵みをうける最大の鍵が有るのです。
2.ノーモアー階段
①また、祭壇は階段が必要になるほど高く造ることが禁じられました。
不平不満が心で沸騰している時は、高ぶりの心が侵入しています。高ぶりは裁きを生み出し、平和を壊し、愛を凍らせ、喜びを喪失させます。でも、神の前に静まり神の恵みの深さ高さを味わい知れば、自分がいかに小さく見えてくることでしょうか。虫にすぎないような自分を御子を給うほどに愛してくださったその愛に感涙して、ただ、頭を垂れるのみです。礼拝は、高所へ登る場所でなく、低所へ下る場所なのであり、それこそが恵みの泉に至る道と心得るべきです。なぜなら人が祝福を覚えるとき、心は必ず低くされている時だからです。
②この二つの事を心にとめていれば、神の祝福を生涯味わい知り続けるでしょう。あなたもその一人になれるのです。なぜならそれが主の約束だからです。電車の座席、台所の片隅にも貴方の礼拝の祭壇を造りませんか。
「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。」ヨハネ4:23

「悪霊追放の福音」 マルコ1章 080908→

2008-09-07 10:24:39 | Weblog
●1:39 そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教えを宣べ伝え、また悪霊を追い出された。
1.悪霊の存在
①悪霊追放の福音をリアルに受け止めるには、悪霊の働きをごく身近なこととして意識することです。例えば、心に受けた打撃が傷になり、復讐しかその解消法が無いと思いこませられる人が多くいます。また、過去の失敗を何度も後悔させ未来を暗い思いに釘付けさせられることがあります。救い主の存在を見せないで人生の問題を自分で解決する以外、道が無いと思いこむことがあります。そこに悪霊の働きが有ります。その存在を認めそこからの解放がまず必要なのだと気づくとき、あなたは人生の諸問題解決の最短距離に自分を置いたのです。
2.悪霊の追放
①具体的に悪霊の追放とは何でしょうか。ここに「主は教えを宣べ伝え、また悪霊を追い出された。」と書かれていますから、偽りの思いと主の真理の教えとを入れ替えること即、悪霊の追放なのだと理解できます。
②ですから、自分の状態を見て、何か否定的な思いに縛られているなら、主の解放の助けが必要と気づくべきです。主に正直に現状を申し上げ、祈りながら聖書の言葉を味わい考え方を変えて頂くように心を委ねていくなら、主は今も待っていて手を伸ばしてくださるのです。そして私達の思いが入れ替わるとき、束縛からも解放されていき、それが、病の癒しをもたらすことは度々起こります。むしろ病を得たときにはまずそこから来る否定的な思いをリストアップして主の手に一つずつ委ねて、清めて頂く事が体の回復に先立つのです。③ただ問題とだけ格闘するのでなく、まず背後にある悪霊を追放することが、本当の問題の解決に直結するのだと気づく時、もうあなたの手は勝利を掴む距離に来ているのです。