Bread of Life

ディボーションタイムを助ける聖書講解

2016年3月第4週 「パンを増やす法則」 (列王下 4:42―:44)

2016-03-27 12:39:20 | Weblog
呼吸という漢字は意味深長だとあるトレーナーが教えてくれました。人は良い空気を自分に取り入れたいと吸気に心を向けます。でも彼が強調したのは精一杯はきだすことです。十分な吸気は付いてくるからです。
ストレスを解消するといわれる深呼吸にも同様の原則が当てはまります。呼気に吸気の4倍の時間をかけることがポイントです。ゆっくりと十分に吐き出す過程で副交感神経は安定を回復しストレスが解消するのです。

つまり授与が授受に先立つのです。それを実行しようとすると人間の暗黒面の心情がブレーキをかけてきます。「与えれば失う、いいえ、まず自分が十分受けてから与えたらどう」と囁くのです。
エリシャの所にパン20個と新穀1袋を持参して神の祝福を受けたいとやって来た人の反応がその代表です。

エリシャがまず持参した食べ物と食材を人々に与えるように命じた時の反応がそれです。エリシャの命令はヒューマニズムからではなく信仰的原則に基づく霊的行動だったのです。使いがそれを理解できなかった目に見えない理由がそこにありました。

感謝したいことにその使いは自分の思いに死に、エリシャの命令に従いました。彼の目の前で100人が給食され余りまで出るという驚くべき奇跡が展開したのです。

アメリカ人の年間寄付額は1人当たり25万円です。日本人はどうでしょうか。1万円を遙かに下回ります。それは日本人が特別、心が狭いというのではなく神の祝福を受ける種は捧げる事であることを学習していないからです。

日本人は寄付には慣れ親しんで来ました。でもそれはヒューマニズムの限界を出ません。
アメリカ人のそれは信仰からでた行為であるのです。アメリカは日本より遙かに多くの問題を抱えた国家です。でも試練の度毎にフエニックスのように甦り乗り越えてきた姿に神の特別の祝福を感じます。それは、彼らの与える信仰を神が覚えておられるからなのです。

クリスチャンとして、与える事は天に宝を積むことであり、さらに経済的祝福の種となるのだという信仰を証明するお互いでありたいものです。

【口語訳】箴11:24 施し散らしてなお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんでかえって貧しくなる者がある。

(4月はイースー休みです。上からの祝福が届けられますようにお祈りいたします)

2016年3月第3週 「経済の祝福を祈ってもいいのか」(列王下 4:42)

2016-03-20 12:59:54 | Weblog
心の問題は主に祈ることが出来るが経済の課題はどうだろうか?クリスチャンでもそんな疑問を抱きませんか。その回答がエリシャの奇跡です。神は食べ物を満たされるお方なのです。

クリスチャン信仰はビジネスの障害となるという考えが嘗て近江八幡の中学校に招かれた英語教師ウイリアムボーリス氏を解雇した理由でした。
ボーリス氏はそれを信仰のチャレンジと受けとめ再度来日して事業家として成功を治めることで当時の常識を覆そうとしました。

「ボーリス建築事務所」を立ち上げ、日本各地で洋風の建築物を建て上げ、見事に一矢報いたのです。その1つが大阪に一部が残存する大丸百貨店です。皇室関係の避暑別荘も手がけました。

私の父は同志社の出身ですが栄光館が作られたとき参加した工事関係者が喧嘩ひとつしない穏やかな人たちであったという噂を耳にしたと言っていました。その噂は建築事務所の信用を増幅し建築依頼の増加に貢献したことでしょう。信仰と事業は両立して余りある事が証明されました。

霊的な祝福は経済の祝福をももたらすという原則は今も生きています。チョウ・ヨンギ牧師は3ヨハネ1:2に基づき「3拍子の祝福」を主張しました。そのルーツはアメリカの大衆伝道者であったオーラル・ロバーツ師です。彼は神の経済原則に注目し、クリスチャンは健康面、経済面でも神の祝福に与れると告白し、その原則を適用することを勧めたのです。

エリシャがある人の捧げたパンを増やし100人もの空腹を満たしたのは、この神の原則の証明でした。キリスト信仰は決して精神面の充実で終わらせないのです。いやむしろ終わらせてはならない責任がクリスチャンに課せられていると言うべきでしょう。その法則を次回で学びましょう。

「愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。」三ヨハ1:2


2016年3月第2週 「アタッキングレシーブ」 (列王下4:41)

2016-03-13 16:49:06 | Weblog
全仏オープンテニスで日本の錦織選手が勝ち進む様子を解説しておられたK氏が「彼のレシーブはアタッキングレシーブだ」とコメントされているのを聞き感動を覚えました。

普通相手のファーストサーブは強烈であるためレシーバーは打ち返すだけで精一杯です。ところが錦織選手はそれ以上のパフォーマンスを示したのです。つまりレシーブするだけでなく攻撃的な姿勢で返球するのです。すると相手は自分が勝ったと思った瞬間、負けになっているのです。

弟子が誤って毒瓜を釜に投じスープが毒性を帯びたとき、エリシャの対応がそれです。普通、毒物が混入した釜のスープは全て捨て去ります。嘗てウイルスに感染した何万羽の鶏が地中深く埋められていく映像を見て心を痛めた事を忘れられません。毒に犯された食べ物は捨て去るというのが人のなし得る最良の方法だからやむを得ないのです。死んだ鶏に粉を振りかけ鳥の唐揚げにして売り出すと言うことは考えられません。

ところがエリシャのとった方法はまさにそれでした。毒された煮物に麦粉を加え以前より量を増やした煮物に再創造したのです。これこそ霊的な意味でのアタッキングレシーブです。

新約聖書にも霊的アタッキングレシーブが描かれています。ピリピ伝道の最中パウロとシラスは濡れ衣を着せられて投獄されてしまいます。でも彼らのとった態度は悪魔が投げてきた迫害という強烈なボールに動じることなく悪魔を攻める武器として投げ返しました。状況は逆転し獄屋番一家をキリストに導いたのです。悪魔はその返球を受けとめきれず敗れ去ったのです。

貴方に飛んできた否定的、破壊的、鬱的出来事のボールを平安のミットで受けとめましょう。それだけに止まらず「全ての事を感謝します、ハレルヤ」と告白し、そのボールを悪魔と問題に向かって投げ返しませんか。それは、霊的アタッキングレシーブです。主はその信仰を喜ばれ天の窓を開いて祝福の雨を降らされるでしょう。
祈りましょう。

【口語訳】ホセ
10:12あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる。


2016年3月第1週 「鍋に死が混入」(列王下4:39)

2016-03-06 16:44:36 | Weblog
煮炊きしていた鍋にうっかり毒瓜を入れてしまったという事件はクリスチャンにも過ちはありうる事を暗示しています。どんなに注意していても間違いを犯すことがあるからです。

この物語の第1の教訓は、自分は完全であると高をくくる高慢に注意しなくてはならないことです。聖書には成功者と羨望される人物が罪を犯し、人生を踏み外す様子があからさまに描かれている箇所があります。貴方は「これは自分とは無関係」と読み飛ばしますか。むしろ「私のことかもしれない」と自分を恐れ、主を恐れ、心の中で思い巡らす営みこそ正しいのです。自己の不完全を自覚する人だけが神の完全な恵みを頂くという逆説は真理なのです。

この深刻な事件の中で心が温められるのは同輩が毒瓜の間違いをすぐ指摘してくれたことです。彼は植物の毒性に詳しい人だったようで、臭いか色の変化にすぐ気づき危機を察知できたのです。

彼がいなければ死人が何人も出たかもしないと思うとき、その役割の大きさに気づきます。「灯台もとくらし」と言う諺がありますが隣に並列させるなら互いの足下を照らし合い暗い部分は無くなります。

クリスチャン同士が仲良くなるだけで終わらないで互いに愛をもって訓戒し合うお互いにならなくてはなりません。同時にその忠告に心を開く謙遜さを失わない互いでありたいのです。

神は隣人を通して貴方の必要を届けられることが少なからずあるからです。「あの人の言葉にはとげがある、傷ついた」と被害意識に捕らわれず、むしろ「彼を通して主が私に語られたのかもしれない」と安らかな心で受けとめる人は例え毒に満ちたこの時代の中にあっても暗黒の勢力に打ち勝つのです。さらに「ありがとう、感謝します」と主に返答するなら恵みはさらに増し加わるでしょう。 
 
自分から進んで説明責任を果たすパートナーを見つけ、互いを守り合える友を持っているでしょうか。なければ作りましょう。夫婦がその役割を果たすことが出来るなら神のデザインされた結婚の目的にかなうでしょう。
それが悪魔の攻撃から貴方を守る完全な武具となるのです。下記の御言葉がクリスチャンライフの文化となりますように。

●あなたがた自身が、互に訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている。【口語訳】ロマ15:14