【口語訳】ゼカ8:20―8:21
万軍の主は、こう仰せられる、もろもろの民および多くの町の住民、すなわち、一つの町の住民は、他の町の人々のところに行き、『われわれは、ただちに行って、主の恵みを請い、万軍の主に呼び求めよう』と言うと、『わたしも行こう』と言う
1.奇妙な光景
ゼカリヤには、過去の情景が重なって映っていたと思います。それは、エルサレム神殿再建の忘れがたい歓喜の日の事でした。80年間、北のバビロンに国の中枢が奪い去られイスラエルは滅亡の危機に瀕していました。でも、エレミヤの回復預言に励まされ、80年間、臥薪嘗胆堪え忍んだ結果、歴史の歯車が動きだしたのです。 王の恩寵を受け、エルサレムに帰還した人々により、神殿は再建されたのです。基礎が据えられた日、その夢の様な出来事にエルサレムは歓喜の渦に満ちました。ところが長老に属する老人達が、大声で泣き始めたというのです。基礎の大きさが以前より、縮小している、これは国の衰退の現れだと言うのがその理由です。その日、泣き叫ぶ声と、歓喜の声を上げる人とが入り交じって響いていたと記しています(エズラ記3:12)。なんと奇妙な光景だったでしょう。
まだ、若かったゼカリヤはそれを見て「同じ見つめるなら、再建を見つめて喜べばいいのに、何も否定的に物事を見て泣かなくても、こちらが泣きたくなる、やめてくれ」と心の中で、憤慨したと思います。
今日的に言うならば「失ったものを数えないで、残されているものを数えなさい」と言うことです。
2.新しい情景
でも長老達の指摘している理由にも一理あって、ある面事実であることには違いなかったので余計に彼は悔しい思いにさいなまれ、複雑な心境で、かなりの期間を過ごしたと思われます。彼の心は正直で、喜びと悲しみとの2側面から目をそらすことが出来なかったからです。
しかし、ある日その悲しい側面に目を向けているとき、急に今まで見ることが出来なかった光景が見えてきたのです(8:18)。それは、主がエルサレムが過去の喜びに遙かに勝る喜びで輝き、周囲の国々がその光を求めてやってくるという感動的な光景でした。(8:20-21)その中では、神殿の大小には触れられていません、むしろそこで礼拝し、そこに集う人々の生き生きとした神と人との絆から光が放たれていることに焦点が当てられていたのです。つまり過去の壮麗な神殿とは異なる、新しい価値観、新しい光、新しい集まりが見られたのです。これが神の未来の計画だというのです。
それから500年余経たとき、エルサレムで聖霊が下り、教会が生まれます。その様子(使徒2:41―46)をよく見ると、ゼカリヤ書8章で描かれている10の特色はほとんど教会の集まりの中に投影されていることを読み取ることが出来ます。ゼカリヤは、神の御計画の奥義であるキリストのお体なる教会を見せていただいていたのです。
3.悲しみも喜びも
誰にとっても喜びを見つめる事は慕わしい事です。でも悲しみを見つめる時からだけ、喜びを見つめている時には見えなかった、貴重な情景が見えて来る事もあるのです。喜びは心を励ます食べ物です。同時に、悲しみは人に深みを得させる貴重な食べ物なのです。多くの貴重な預言書は悲しみの中で生まれているのがそれを雄弁に語っています。
悲しみも喜びも、貴重な食べ物としていただける、不思議な恵みの与え主イエスキリスト様の御名を褒めて参りましょう。
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。
【口語訳】詩 119:71
☆☆☆
一年間お祈り有り難う御座いました。
12月はクリスマス休暇として来春までお休みをいただきます。
よいクリスマスシーズンが皆様の上にありますように。
キリストイエスの愛に在ってシャローム。
☆☆☆
万軍の主は、こう仰せられる、もろもろの民および多くの町の住民、すなわち、一つの町の住民は、他の町の人々のところに行き、『われわれは、ただちに行って、主の恵みを請い、万軍の主に呼び求めよう』と言うと、『わたしも行こう』と言う
1.奇妙な光景
ゼカリヤには、過去の情景が重なって映っていたと思います。それは、エルサレム神殿再建の忘れがたい歓喜の日の事でした。80年間、北のバビロンに国の中枢が奪い去られイスラエルは滅亡の危機に瀕していました。でも、エレミヤの回復預言に励まされ、80年間、臥薪嘗胆堪え忍んだ結果、歴史の歯車が動きだしたのです。 王の恩寵を受け、エルサレムに帰還した人々により、神殿は再建されたのです。基礎が据えられた日、その夢の様な出来事にエルサレムは歓喜の渦に満ちました。ところが長老に属する老人達が、大声で泣き始めたというのです。基礎の大きさが以前より、縮小している、これは国の衰退の現れだと言うのがその理由です。その日、泣き叫ぶ声と、歓喜の声を上げる人とが入り交じって響いていたと記しています(エズラ記3:12)。なんと奇妙な光景だったでしょう。
まだ、若かったゼカリヤはそれを見て「同じ見つめるなら、再建を見つめて喜べばいいのに、何も否定的に物事を見て泣かなくても、こちらが泣きたくなる、やめてくれ」と心の中で、憤慨したと思います。
今日的に言うならば「失ったものを数えないで、残されているものを数えなさい」と言うことです。
2.新しい情景
でも長老達の指摘している理由にも一理あって、ある面事実であることには違いなかったので余計に彼は悔しい思いにさいなまれ、複雑な心境で、かなりの期間を過ごしたと思われます。彼の心は正直で、喜びと悲しみとの2側面から目をそらすことが出来なかったからです。
しかし、ある日その悲しい側面に目を向けているとき、急に今まで見ることが出来なかった光景が見えてきたのです(8:18)。それは、主がエルサレムが過去の喜びに遙かに勝る喜びで輝き、周囲の国々がその光を求めてやってくるという感動的な光景でした。(8:20-21)その中では、神殿の大小には触れられていません、むしろそこで礼拝し、そこに集う人々の生き生きとした神と人との絆から光が放たれていることに焦点が当てられていたのです。つまり過去の壮麗な神殿とは異なる、新しい価値観、新しい光、新しい集まりが見られたのです。これが神の未来の計画だというのです。
それから500年余経たとき、エルサレムで聖霊が下り、教会が生まれます。その様子(使徒2:41―46)をよく見ると、ゼカリヤ書8章で描かれている10の特色はほとんど教会の集まりの中に投影されていることを読み取ることが出来ます。ゼカリヤは、神の御計画の奥義であるキリストのお体なる教会を見せていただいていたのです。
3.悲しみも喜びも
誰にとっても喜びを見つめる事は慕わしい事です。でも悲しみを見つめる時からだけ、喜びを見つめている時には見えなかった、貴重な情景が見えて来る事もあるのです。喜びは心を励ます食べ物です。同時に、悲しみは人に深みを得させる貴重な食べ物なのです。多くの貴重な預言書は悲しみの中で生まれているのがそれを雄弁に語っています。
悲しみも喜びも、貴重な食べ物としていただける、不思議な恵みの与え主イエスキリスト様の御名を褒めて参りましょう。
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。
【口語訳】詩 119:71
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一年間お祈り有り難う御座いました。
12月はクリスマス休暇として来春までお休みをいただきます。
よいクリスマスシーズンが皆様の上にありますように。
キリストイエスの愛に在ってシャローム。
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