Bread of Life

ディボーションタイムを助ける聖書講解

「ゼカリヤは見た」 201111第④週 ゼカリヤ書8:2

2011-11-26 19:28:46 | Weblog
【口語訳】ゼカ8:20―8:21
万軍の主は、こう仰せられる、もろもろの民および多くの町の住民、すなわち、一つの町の住民は、他の町の人々のところに行き、『われわれは、ただちに行って、主の恵みを請い、万軍の主に呼び求めよう』と言うと、『わたしも行こう』と言う

1.奇妙な光景
ゼカリヤには、過去の情景が重なって映っていたと思います。それは、エルサレム神殿再建の忘れがたい歓喜の日の事でした。80年間、北のバビロンに国の中枢が奪い去られイスラエルは滅亡の危機に瀕していました。でも、エレミヤの回復預言に励まされ、80年間、臥薪嘗胆堪え忍んだ結果、歴史の歯車が動きだしたのです。 王の恩寵を受け、エルサレムに帰還した人々により、神殿は再建されたのです。基礎が据えられた日、その夢の様な出来事にエルサレムは歓喜の渦に満ちました。ところが長老に属する老人達が、大声で泣き始めたというのです。基礎の大きさが以前より、縮小している、これは国の衰退の現れだと言うのがその理由です。その日、泣き叫ぶ声と、歓喜の声を上げる人とが入り交じって響いていたと記しています(エズラ記3:12)。なんと奇妙な光景だったでしょう。
まだ、若かったゼカリヤはそれを見て「同じ見つめるなら、再建を見つめて喜べばいいのに、何も否定的に物事を見て泣かなくても、こちらが泣きたくなる、やめてくれ」と心の中で、憤慨したと思います。
今日的に言うならば「失ったものを数えないで、残されているものを数えなさい」と言うことです。

2.新しい情景
でも長老達の指摘している理由にも一理あって、ある面事実であることには違いなかったので余計に彼は悔しい思いにさいなまれ、複雑な心境で、かなりの期間を過ごしたと思われます。彼の心は正直で、喜びと悲しみとの2側面から目をそらすことが出来なかったからです。
しかし、ある日その悲しい側面に目を向けているとき、急に今まで見ることが出来なかった光景が見えてきたのです(8:18)。それは、主がエルサレムが過去の喜びに遙かに勝る喜びで輝き、周囲の国々がその光を求めてやってくるという感動的な光景でした。(8:20-21)その中では、神殿の大小には触れられていません、むしろそこで礼拝し、そこに集う人々の生き生きとした神と人との絆から光が放たれていることに焦点が当てられていたのです。つまり過去の壮麗な神殿とは異なる、新しい価値観、新しい光、新しい集まりが見られたのです。これが神の未来の計画だというのです。
それから500年余経たとき、エルサレムで聖霊が下り、教会が生まれます。その様子(使徒2:41―46)をよく見ると、ゼカリヤ書8章で描かれている10の特色はほとんど教会の集まりの中に投影されていることを読み取ることが出来ます。ゼカリヤは、神の御計画の奥義であるキリストのお体なる教会を見せていただいていたのです。

3.悲しみも喜びも
誰にとっても喜びを見つめる事は慕わしい事です。でも悲しみを見つめる時からだけ、喜びを見つめている時には見えなかった、貴重な情景が見えて来る事もあるのです。喜びは心を励ます食べ物です。同時に、悲しみは人に深みを得させる貴重な食べ物なのです。多くの貴重な預言書は悲しみの中で生まれているのがそれを雄弁に語っています。
悲しみも喜びも、貴重な食べ物としていただける、不思議な恵みの与え主イエスキリスト様の御名を褒めて参りましょう。

苦しみにあったことは、わたしに良い事です。
これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。
【口語訳】詩 119:71

☆☆☆
一年間お祈り有り難う御座いました。
12月はクリスマス休暇として来春までお休みをいただきます。
よいクリスマスシーズンが皆様の上にありますように。
キリストイエスの愛に在ってシャローム。
☆☆☆

「私もあなた方に帰ろう」2011 11月第③週ゼカリヤ1:3

2011-11-21 17:01:30 | Weblog
●1:3 それゆえ、万軍の主は仰せられる、わたしに帰れ、そうすれば、
わたしもあなたがたに帰ろうと、万軍の主は仰せられる。

1.最大の悲劇
①「それゆえ」が示しているのは、イスラエルの乱れと外敵との戦いにおける敗北です。それを嘆く指導者たちに対し、その最大の理由が、イスラエルと共に主が居られないことだと指摘しているのです。それゆえに、主に帰れと預言者は告げています。

②創世記に出てくるヨセフの不幸は周囲の不条理な仕打ちでした。でも聖書は「主がともにおられたので、彼は獄中で幸いな者となった」と驚くべきパラドックスを伝えています。それは奇跡ともいうべき有様です。その不条理な運命の下、ヨセフの心は激しく揺さぶられたでしょう。しかし、その渦中で、復讐心に振り回されることもなく、投げやりで虚無的な生き方に流されることもなく、なおも主を仰ぎつつ歩んだ事は驚くべき事です。
そのたぐいまれなる信仰の故に、ことごとく彼の為すことを栄えさせられ、彼は成功を取り戻していくことになります。主がともに居られることは、個人的にも国家的にも繁栄の要因なのです。

③それゆえ、預言者を通し、イスラエルが、主に帰ることを強く勧めます。そうすれば、主もまた帰ってきてくださると伝えているのです。このメッセージに応答したイスラエルは、一時、神殿のリニューアルを成し遂げます。しかし、そののち主を離れ完全に国は滅亡に向かうのです。そんな、イスラエルにまだ望みは残されていたのでしょうか。そこに、クリスマスのメッセージがあります。

2.最大の恩寵
①最初のクリスマスは誰に告げられたのでしょうか。それは、荒野の羊飼い達です。羊飼い達は職業柄、安息日を厳守できない宿命にありました。彼らは信仰はあっても礼拝堂とは疎遠な人々でした。クリスマスの夜、天使たちが救い主の誕生を告げたのは礼拝堂に集っていた信者達にではなく、あの羊飼い達だったのです。それは、神が神殿の礼拝者たちを軽んじられたのではありません。 神が御自分の方から人を慕い求めて下さるという新約時代の幕開けを、人々に悟らせるためでした。旧約時代には、神を求める人と共に、主も彼らといることをよしとされたのです。でも新約の恩寵はそれをはるかに超えるものでした。
人々が神を求めたのではなく、神ご自身が人々を慕い求められたのです。そのお心を象徴的に示されたのが、羊飼い達への告知でした。
私たちもイスラエルから言えば、選びの民ではなく、異邦人です。偶像を信じ真の神から限りなく遠くに位置する人生を生きて来た者です。肉の性質と自己矛盾の弱さを背負いながら、襟を正して神に近づかなくてはならないとすれば、万分の1しか救われるチャンスはないでしょう。でも、主がご自分から私たちの様な罪人を慕い求めて下さった故に、私たちは神の子とされているのではないでしょうか。

②私たちが救われた後においても、主はその原則を変えておられません。それ故に、不信仰に陥った時でも私たちは神に戻ることができるのです。聖霊もすべての肉なる者に注ぐと約束され、それが、最初のペンテコステで証明されました。
わたしたちは、どんなに恵まれていても、主を誇るべきです。どんなに惨めに感じる事態でも、主の恩寵は変わらないと確信して主の愛を喜ぶべき根拠がそこにあります。
いま一度、主が自ら来て下さった恩寵を喜び、自ら共にいて下さることの故に深い安息を楽しみましょう。

●見よ、わたしは世の終りまで、
いつもあなたがたと共にいるのである」。【口語訳】マタ28:20


「救いをもって答えられる方」 201111 第②週 詩篇65:2

2011-11-13 09:57:30 | Weblog
●われらの救の神よ、地のもろもろのはてと、遠き海の望みであるあなたは
恐るべきわざにより、救をもってわれらに答えられる。65:2-5

1.信仰の現実性
私たちの信仰が単に自己満足の精神修養でないのは「われらに救いをもって答えられる」方の存在の故で、人生を変えうる力となり、自分が無力を覚えるときにも力強い助けとなって下さる方の故です。

①ずいぶん以前のことですが、仲の良い御夫婦が教会に来られ、間もなくバプテスマを受けて信仰生活を始まられました。ところが、ご主人に対し、外部から肉欲のアタックが始まりました。夫人には何も問題はなかったのですが、悪魔は巧妙でご主人の親切心をうまく引き出し、夫婦の中を引き裂こうとしたのです。もちろん、その間、夫人は悲壮な思いで祈りを献げられ、教会としても出来る限りの援助をさせていただきました。
でも最終的には、家庭は暗礁に乗り上げ夫人は子供を連れて郷里に引き上げていかれました。幸い、新しい家庭が与えられ、子供さんも救われ、ご自身もさらに深く主を信頼する信仰に歩み続けられています。

②ただ、これらの一連の出来事を振り返るとき、「主は救いをもってわれらに答えられる」との御言葉を単純に受け止めがたい気がします。では、御言葉は割り引いて理解すべきなのでしょうか。そうではありません。

2.もう1つの救い
①蛇は水を飲んで毒を出しますが、牛は同じ水をのんで乳を与えてくれます。神がその生き物をそのような性質に造られたからです。激しい苦しみを飲まされると普通人の心からは、自分をのろい、人を責め、神様にさえつばを吐きたくなる苦々しい、言葉や思いが噴出してくるのが常です。でも、主が御手をのべて下さるなら私たちの心は溶かされ、同じ状況の中で、蛇の反応ではなく牛の反応をさせていただけるのです。それは、水を葡萄酒に替えることが出来た方だけに可能な内面の救いといえます。

②作家の松本清張氏は罪の性質がいかにおぞましい姿であるかを読者に突きつけてくる作風では、クリスチャン作家三浦綾子女史と共通したところがあります。しかし、そのおぞましい心の性(サガ)からの救いは、どんな作家でもなしえません。でもこの詩篇の作者はその方がおられる事をここで示しているのです。その側面から理解するなら、「あなたは恐るべきわざにより、救をもってわれらに答えられる。」の聖句はそのまま、上記の証においてもそのまま、真実であることが分ります。

③困難な状況を文字通り変化させて下さることも確かにあります。しかし、自分の心の反応が否定的、破壊的、虚無的に陥ることから救われるよう求める時、主が100%の確かさで、応答してくださることを知るのです。それこそが、人生の中で最も意味がある救いなのだと言うことを同時に発見します。それ故にこの詩篇のみ言葉は今も真実と言えるのです。

●遠き海の望みであるあなたは
恐るべきわざにより、救をもってわれらに答えられる。65:2-5


「主であることを知る」 201111①週 エゼキエル25:17

2011-11-05 17:53:50 | Weblog
●わたしが彼らにあだを返す時、彼らはわたしが主であることを知るようになる」。エゼキエル書25:17

1.主を知るようになる
①主を親しく知ることができるのは、信仰者にとり大きな喜びです。しかし、エゼキエル25章で述べられている例は、モアブやアンモンの人々の不義の故です。十字架で私たちの罪を担ってくださった愛なる方を裁きを通して知るということは悲しい事です。 むしろ、霊的感性によって主を知りたいものです。
そのためにカイロス信仰の感性がとても大切です。神が私たちの日常の出来事の中に、介入されるチャンスが常にあるという霊的感性です。神の備えや助けを受けていても「ああ、あれは偶然だ。自分は運がいいなあ」こんな感覚では、生活に神を感じることは困難でしょう。でも少し、カイロス感覚を研ぎ澄まして、昨日から今日への生活を振り返るだけでも、身近に輝くカイロスの宝石を見つけることが出来ます。

2.ミステイクのカイロス
①8月の最後の日曜日、月曜からの最終講義に備えて東京の練馬に新幹線で出かけました。家を出るのが3時過ぎになったので、大急ぎで京都駅に向かいました。地下鉄の八条口の階段を駆け上がりチケット売り場に到着し、「東京まで往復をください」とお願いしカード払いでチケットを入手。自由席は1-3号車のため3号車のところまでスーツケースを引きながら急ぎました。間もなく「のぞみ」が到着し無事に自由席に座れ、ほっと一息つき20分ほど経過した時、車掌さんが、チケット検査に回ってこられました。そのため、ポケットから切符を出したとたん、驚きました。私の手にあったのは11号車の指定席つきの切符でした。だったら汗をかいて、3号車まで歩く必要はなかった。これは窓口での発券間違いの所産だから、指定席料金をもどしてもらうべきだ、けれど今更うまくいくだろうか、そんな思いが頭をかけめぐるうちに車掌さんが目の前に見えたので「だめもとだ」と事情を話し、「どうすればいいでしょうか」とチケットを渡しました。15分ほど後、戻って来て下さり意外にも「京都の窓口に確認をしましたところ、こちらの間違いであることがわかりましたので返金します」と1100円の返金、「日本のJRは世界に誇れる」とつぶやきは賛辞にかわりました。予期しない入金がこんなにも気持を変えるのかと我ながら驚きました。

②東京に着き環状線に乗り換え池袋で下車、さらに西武池袋線で江古田駅に到着、歩いて約10分、ようやく目ざす宿泊予定のウイクリーマンション江古田という長い名前のホテルに到着したのは、午後の9時過ぎでした。午後6時に事務員が引き揚げ、それ以後は暗証番号を自分でプッシュして玄関ドアーを解錠し中に入らなくてはなりません。ドアーが開きロビーに入れたので緊急電話のダイヤルをまわし、当直の職員を呼んで個人的にチェックインをお願いする旨を告げると職員が出てきてくれて受付が開始されました。ところが「事務所が閉じていますので現金払いで一週間分をおねがいします」とのこと、頭が真っ白になりました。カード払いを予定していたので、現金の用意が無かったからです。あわてて服やズボンのポケットから現金をかき集めて揃えましたが1000円だけ不足なのです。「ええ、今夜はホームレス?なんという運の悪さ?」と呆然。

③その瞬間、新幹線の中で懐に来て下さった野口英世博士の面影が浮かびました。帰りの切符をしまった袋が御停泊場である事を思い出し、指を入れると確かにご在宅。博士にお出まし頂いて帳尻を合わせ無事チェックインと相成りました。
部屋について一息入れると、さすがに空腹を覚え、隣のコンビニでおにぎりを求めましたが値段は120円、例の残り100円と小銭入れの20円で遅い目の夕食にありつきました。おにぎりを食べながらつらつら考えたのですが、過去に京都駅の切符売場で職員が間違って指定席切符を発行した記憶はありません。「神様は、私の財布の中身とホテルの支払額を承知しておられ、不足分を満たすため、あえて職員の勘違いを許された」としたら、主以外のだれにそんな事が出来るでしょうか。

④信仰がないなら、「偶然が重なる事もある、今日はついている」とニヤッとして終わりでしょう。しかし、カイロス信仰の視点からは、これは、神の御手であり、神が共におられる事のしるし以外なにものでもないでしょう。裁きでもなく、特別の奇跡でもなく、普段の生活中のカイロス(チャンス)から、主を知ることが出来るのはなんと幸いでしょうか。なぜなら主を知ることは、私たちの喜びであり力だからです。