1.視覚のもたらすエネルギー
①ヤコブの最愛の息子ヨセフの生涯を思い巡らす時、見るという経験の重要性を痛感させられます。彼の生涯は彼の見たヴィジョン通りの姿に導かれたのを教えられます。主の弟子訓練を見ても、イエス様は複雑な哲学的言語を用いられませんでした。むしろ、貧しい人々、盲人や悪霊につかれた女性や少年を癒したりしながら、その行為とライフスタイルを弟子たちに示され、彼らが、見て学ぶように指導されました。その方法は嘗ての日本の徒弟制度と酷似しています。師匠のそばで観察して自分で学び取る弟子教育です。そこでは、詳細な説明は皆無に近いのです。
②ところが、現代教育の殆どは「説明」を重視します。
説明に始まり、説明で完結します。そして、知的理解がなされた事が教育効果の評価となります。一方、教会教育の課題である、弟子訓練では、その方法は極めて有効的でない事がわかってきました。何故なら、キリスト教教育の本質は、形成教育で知識教育ではないからです。そこでは、生き方そのものを見る事が必須です。何故なら、人は聞かされた様にはならないで、自分が見たように生きていくからです。生き方は、頭からでなく目から形成されるのです。
2.メッセージの裏打ち
①教会が15人足らずの頃、
路傍伝道も訪問伝道も教会員と共に励みました。その小さな群れから次々と献身者が生まれましたが、それは、100名以上の母教会にも勝る割合で、不思議に思えました。私の姿を見ながら育つという聖書的に理想的な弟子教育がなされていたというのがその答えだったのです。教会が成長して200名にまでなった時、開拓当時のあり方は過去のものとなり、牧師は見せる教育というより、教える教育に移行せざるを得ませんでした。その中で、「言葉で伝えるのでなく、行為で伝えなくては本当の弟子教育にならない、でもそれは以前の様には物理的に不可能だ、この矛盾をどこで解消すればいいのか」がいつも抱かされた憂いでした。
②それに応えてくれたのが
数々のクリスチャン夫婦の生き様でした。若い子弟達は、目の前の両親という最も強力な視覚教材から学ぶのです。牧師が講壇から語るメッセージを家庭で応答して生きる親の姿ほど牧師のミニストリーを助けるものはないのです。
病気で休んでいる人を率先して訪問して励ましを与える姿に、「貴方の隣人を愛しなさい」という御言葉の具現を見るのです。暗黙のメッセージほど心に残るものはありません。
家庭で色々な苦しみがあってもそれを乗り越えて礼拝に出向く姿は、信仰の忍耐がいかなるものかを強力に語ります。NHCで積まれてきた、そのような誠実な行為は枚挙にいとまがないのです。これらの、見える信仰のサポートがあつたので、講壇からのメッセージが着実に実を結ぶに至ったのです。
その意味で、霊的先輩である人の生き様、また子弟をもつ親達がクリスチャンライフをどう過ごすかには重大な責任があります。
③あなたに御言葉を届けてくださる神は、
あなたがそれに生きる力をも同時に届けてくださるお方であることを今一度、強く信じましょう。そして、こう祈りましょう。
「主よ、御言葉を聞く心を増し加えてください。またそれを、理解するものとしてください、そして自分の生活でそれを生かし、それに生きることにより、信仰のオブジェとしてのロールモデルを全うさせてください。
そして、見ることは得ることであるという信仰的文化が教会に生き続けますように。そうしてくださることを信じ、感謝して、祈ります、アーメン」
①ヤコブの最愛の息子ヨセフの生涯を思い巡らす時、見るという経験の重要性を痛感させられます。彼の生涯は彼の見たヴィジョン通りの姿に導かれたのを教えられます。主の弟子訓練を見ても、イエス様は複雑な哲学的言語を用いられませんでした。むしろ、貧しい人々、盲人や悪霊につかれた女性や少年を癒したりしながら、その行為とライフスタイルを弟子たちに示され、彼らが、見て学ぶように指導されました。その方法は嘗ての日本の徒弟制度と酷似しています。師匠のそばで観察して自分で学び取る弟子教育です。そこでは、詳細な説明は皆無に近いのです。
②ところが、現代教育の殆どは「説明」を重視します。
説明に始まり、説明で完結します。そして、知的理解がなされた事が教育効果の評価となります。一方、教会教育の課題である、弟子訓練では、その方法は極めて有効的でない事がわかってきました。何故なら、キリスト教教育の本質は、形成教育で知識教育ではないからです。そこでは、生き方そのものを見る事が必須です。何故なら、人は聞かされた様にはならないで、自分が見たように生きていくからです。生き方は、頭からでなく目から形成されるのです。
2.メッセージの裏打ち
①教会が15人足らずの頃、
路傍伝道も訪問伝道も教会員と共に励みました。その小さな群れから次々と献身者が生まれましたが、それは、100名以上の母教会にも勝る割合で、不思議に思えました。私の姿を見ながら育つという聖書的に理想的な弟子教育がなされていたというのがその答えだったのです。教会が成長して200名にまでなった時、開拓当時のあり方は過去のものとなり、牧師は見せる教育というより、教える教育に移行せざるを得ませんでした。その中で、「言葉で伝えるのでなく、行為で伝えなくては本当の弟子教育にならない、でもそれは以前の様には物理的に不可能だ、この矛盾をどこで解消すればいいのか」がいつも抱かされた憂いでした。
②それに応えてくれたのが
数々のクリスチャン夫婦の生き様でした。若い子弟達は、目の前の両親という最も強力な視覚教材から学ぶのです。牧師が講壇から語るメッセージを家庭で応答して生きる親の姿ほど牧師のミニストリーを助けるものはないのです。
病気で休んでいる人を率先して訪問して励ましを与える姿に、「貴方の隣人を愛しなさい」という御言葉の具現を見るのです。暗黙のメッセージほど心に残るものはありません。
家庭で色々な苦しみがあってもそれを乗り越えて礼拝に出向く姿は、信仰の忍耐がいかなるものかを強力に語ります。NHCで積まれてきた、そのような誠実な行為は枚挙にいとまがないのです。これらの、見える信仰のサポートがあつたので、講壇からのメッセージが着実に実を結ぶに至ったのです。
その意味で、霊的先輩である人の生き様、また子弟をもつ親達がクリスチャンライフをどう過ごすかには重大な責任があります。
③あなたに御言葉を届けてくださる神は、
あなたがそれに生きる力をも同時に届けてくださるお方であることを今一度、強く信じましょう。そして、こう祈りましょう。
「主よ、御言葉を聞く心を増し加えてください。またそれを、理解するものとしてください、そして自分の生活でそれを生かし、それに生きることにより、信仰のオブジェとしてのロールモデルを全うさせてください。
そして、見ることは得ることであるという信仰的文化が教会に生き続けますように。そうしてくださることを信じ、感謝して、祈ります、アーメン」