Bread of Life

ディボーションタイムを助ける聖書講解

2013年6月 4週 ヤコブの福音No.12 「見ることは持つこと」 Perceiving brings Possessing

2013-06-23 21:09:55 | Weblog
1.視覚のもたらすエネルギー
①ヤコブの最愛の息子ヨセフの生涯を思い巡らす時、見るという経験の重要性を痛感させられます。彼の生涯は彼の見たヴィジョン通りの姿に導かれたのを教えられます。主の弟子訓練を見ても、イエス様は複雑な哲学的言語を用いられませんでした。むしろ、貧しい人々、盲人や悪霊につかれた女性や少年を癒したりしながら、その行為とライフスタイルを弟子たちに示され、彼らが、見て学ぶように指導されました。その方法は嘗ての日本の徒弟制度と酷似しています。師匠のそばで観察して自分で学び取る弟子教育です。そこでは、詳細な説明は皆無に近いのです。

②ところが、現代教育の殆どは「説明」を重視します。
説明に始まり、説明で完結します。そして、知的理解がなされた事が教育効果の評価となります。一方、教会教育の課題である、弟子訓練では、その方法は極めて有効的でない事がわかってきました。何故なら、キリスト教教育の本質は、形成教育で知識教育ではないからです。そこでは、生き方そのものを見る事が必須です。何故なら、人は聞かされた様にはならないで、自分が見たように生きていくからです。生き方は、頭からでなく目から形成されるのです。

2.メッセージの裏打ち
①教会が15人足らずの頃、
路傍伝道も訪問伝道も教会員と共に励みました。その小さな群れから次々と献身者が生まれましたが、それは、100名以上の母教会にも勝る割合で、不思議に思えました。私の姿を見ながら育つという聖書的に理想的な弟子教育がなされていたというのがその答えだったのです。教会が成長して200名にまでなった時、開拓当時のあり方は過去のものとなり、牧師は見せる教育というより、教える教育に移行せざるを得ませんでした。その中で、「言葉で伝えるのでなく、行為で伝えなくては本当の弟子教育にならない、でもそれは以前の様には物理的に不可能だ、この矛盾をどこで解消すればいいのか」がいつも抱かされた憂いでした。

②それに応えてくれたのが
数々のクリスチャン夫婦の生き様でした。若い子弟達は、目の前の両親という最も強力な視覚教材から学ぶのです。牧師が講壇から語るメッセージを家庭で応答して生きる親の姿ほど牧師のミニストリーを助けるものはないのです。
病気で休んでいる人を率先して訪問して励ましを与える姿に、「貴方の隣人を愛しなさい」という御言葉の具現を見るのです。暗黙のメッセージほど心に残るものはありません。
家庭で色々な苦しみがあってもそれを乗り越えて礼拝に出向く姿は、信仰の忍耐がいかなるものかを強力に語ります。NHCで積まれてきた、そのような誠実な行為は枚挙にいとまがないのです。これらの、見える信仰のサポートがあつたので、講壇からのメッセージが着実に実を結ぶに至ったのです。
その意味で、霊的先輩である人の生き様、また子弟をもつ親達がクリスチャンライフをどう過ごすかには重大な責任があります。

③あなたに御言葉を届けてくださる神は、
あなたがそれに生きる力をも同時に届けてくださるお方であることを今一度、強く信じましょう。そして、こう祈りましょう。

「主よ、御言葉を聞く心を増し加えてください。またそれを、理解するものとしてください、そして自分の生活でそれを生かし、それに生きることにより、信仰のオブジェとしてのロールモデルを全うさせてください。
そして、見ることは得ることであるという信仰的文化が教会に生き続けますように。そうしてくださることを信じ、感謝して、祈ります、アーメン」


2013年6月 3週 ヤコブの福音NO11 「夢見る者」創世記35:16ー22

2013-06-16 20:37:34 | Weblog
1.夢を見る才能
人の脳のメカニズムが研究され、その営みをモデルにコンピューターが発明されました。今やその能力は人の脳の働きの分量を遥かに超えています。それを内蔵して、ロボットが作られ、人の歩行や動作を真似て人のように働く時代を迎えています。でも、それらは、コピー機能は有しても、創造力は保持しません。そこが、機械と人の決定的な相違です。
この機械化した現代社会では人も機械化されやすい環境にあって、人間性の喪失が問題化されています。もしそれを乗り越える道があるとするなら、夢を見る能力、想像的に未来を描くことができる能力の回復こそが、人間性回復の確かな道の一つではないでしょうか。夢見る能力こそ、神が人に与えられた最も優れた能力であり、最も人間らしい貴重な性質でしょう。

2.暗黒に向かわせる想像力
①残念ながら
アダムの堕落以来、この夢見る才能ほど悪魔が悪用してきた能力は他にないでしょう。主が荒野で悪魔の誘惑に合われた出来事の中にもそれが表されています。幾つかの誘惑が打ち破られたあと、最後の誘惑がこれでした。

●次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 マタイ4:8-4:9

イエスの想像力に訴えたのです。最初の人アダムの妻は同じ誘惑を受けて、心を捉えられたのですが、人の堕落後、夢見る性質は悪魔に悪用されることが頻繁になりました。
ダビデの生涯もそうです。一介の羊飼いの少年がイスラエルの王にまで登りつめた暁に待っていたのが、バテシバの誘惑であり、闇の想像力を働かせてしまったのです。ほんの一瞬目に入った誘惑が、想像力を通して、彼の体全身が肉欲の火で燃え上がり、家来の家庭を滅ぼしただけでなく、自分の家庭をも苛み続けることになります。それはダビデの後半生を痛みと恥の火で追い続けたのです。
否定的な思いが心に投げ込まれることを完全に避けることは罪の世に生きている限り、困難でしょう。でも、その火種が燃え上がり炎にならない内に初期消火することは可能です。勇気を鼓舞し立ち上がり、罪の火種を取り除くべきです。

②礼拝後招きの座に進み出て祈るのは、
特別悩みがあって神の助けが必要である時に限りません。むしろ、差し迫る問題がなくても、主との交流を喜び楽しむ中で、聖霊の助けにより、健全な未来を描く、夢が下ってくるからです。
救われて間もない頃は人前で自分がクリスチャンであることを告白する勇気も持ち合わせていませんでした。ところが礼拝後、祈祷室で祈っている中で、大学卒業後、高校の教室で、聖書を机において、講義をしている自分の姿が浮かび上がりました。夢中で手帳にそれを書きつけながら、祈り続けました。光に向かうピクチャーを心のキャンバスに描いていく至福の時間でした。それは、救われるまでは、あり得なかったことであり、良い想像力を働かせて未来を夢想できる楽しみの回復と言えます。
心を清めることの大切さは、誘惑から自分を守るという防御の目的もあります。でも、それ以上に良い夢を主と共に描いていける白い心のキャンバスを差し出すという遙かに積極的な意味があるのです。神の栄光を夢見るという、この上もない楽しみを経験するなら、自ずと心を清く保ちたくなるのです。

3.光に向かわせる想像力
良い夢にはなぜ、聖霊が必要なのでしょうか。それは、夢は生産的な命の裏打ちがないと具体化されないからです。聖霊の無尽蔵の命と力があってこそ、それは、実現へ向かうからです。
また、全ての良い夢は愛によって裏打ちされていなくてはなりません。人の愛は激しく燃えても尽き果てます。聖霊は使徒たちの上で炎の姿を現されたように、尽きない愛の命となられるからです。

聖霊を歓迎し聖霊に心の部屋を空け渡しましょう。礼拝の心で聖霊から来る夢を受け止めましょう。それを、信仰の手を伸ばしてつかむのです。夢こそ、クリスチャンをもっともクリスチャンらしく輝かせる、尊い神からの贈り物だからです。

●どうか、望みの神が、信仰から来る
あらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、
聖霊の力によって、あなたがたを、
望みにあふれさせて下さるように。
(ロマ15:13)


2013年6月2 週 ヤコブの福音NO10 「ラケルの生涯2」創世記35:16ー22

2013-06-09 20:26:59 | Weblog
●しかし、父はこれをベニヤミンと名づけた。 創世記35:18

1.ベノミをベニヤミンへ
①旅の空で、
ラケルは出産の苦しみの中で命とひきかえに、二人目の男子を出産します。あまりの苦しみに絶えがたく、彼女は思わず「悲しみの子」ベノミと命名します。でも、そばにいた夫のヤコブはベニヤミン、つまり「幸運の子」「右手の子」と命名し直したのです。ベニヤミンのその後の歩みを追跡する時、その言葉通り「幸運の子」として展開しているのを見出して感動させられるのです。
ここに父性の役割を見出します。女性は豊かな感受性がその特質です。暖かさ細やかさを生み出すのですが、同時に事情そのものに影響されやすい弱さを持ちます。悲しい出来事が直に否定的な感情を増幅させ、その思いが悲しみを固定化してしまうのです。その時、事態よりもっと確かな神の目から見た事実を見出す事がとても重要となります。それが悲しみや落胆をそのまま固定しないでそれを乗り越え、そこに新しい希望を創造するのです。
この神の洞察力に満ちた発言は単にラケルへの愛情からではなく、アブラハム、イサクから受け継いだ信仰告白だったのです。人智を超えた神の創造的視点からの告白であり希望でした。

②東北大震災から丸2年余が経過しました。
米沢在住の保守バプテスト連盟の千田次郎先生は隣県で未曾有の被害者が出た時、その応対に日々忙殺された経験の持ち主です。彼が主の前に出て涙ながら祈られたとき、神が彼に語られたのは意外な言葉で「今までよりよくなる」でした。先生は耳を疑われましたが益々その声は確かに響き続け、「あなたはこの言葉を震災に遭われた人々に伝えなさい。」と迫って来ました。
ベノミ(苦しみが来た)と嘆く人々に、そうではなくベニヤミン(幸運の子)と宣言することになります。同師は出かけて行って親しくなった人に、そっと耳元で「神は言われます、前よりも良くなるのです」と告白し続けて来られました。そう囁かれたほとんどの人の目から涙が滴り落ち勇気を受け取られたのです。
もしこれが、人間的励ましからの言葉であればこれほど人を愚弄する行為はないでしょう。でも、ベノミをベニヤミン「幸運の子」と言い換えたヤコブの信仰のゆえに、無限の力がそこに注がれるのです。
「苦しむ」と告白したラケルは「その子たちの不運と悲しみをすべて身代わりに背負って死んだゆえに、そこには、幸運しか残されていない」と、ヤコブが受け止め直して告白したとするなら、イエスキリストの十字架の真理と重なります。
主が「全ては終了した」と宣言されて亡くなられた故に、最早のろわれるべきものは何もない、彼を信じた人々は「幸運の子」としていただいたからです。

③震災後2年が経過
しました。最近、「夢の扉」という番組で、一人の女性生物学者が、
津波で破壊されたわかめ採取業を回復すべく、以前より、成長速度が増した品種を開発して、東北に届けて、実験段階に入ったことを知りました。間もなくそれが、営業ベースに乗る事を知りました。「前よりもよくなる」の実現の一つです。
状況から感じた事を根拠に未来を信じるのでなく、信仰の目で見出した希望から将来を命名させていただきましょう。主はそれを、喜んで裏打ちしてくださるということをヤコブ物語は保証しているのです。
この信仰に立って、あなたも告白しませんか。「それはベノミではなくベニヤミンです、アーメン。」



2013年6月 1週 ヤコブの福音NO9 「ラケルの生涯1」

2013-06-02 20:00:45 | Weblog
●彼女は死にのぞみ、魂の去ろうとする時、子の名をベノミと呼んだ。
創世記35:18
1.人のスケール
ラケルは4人の妻の中で夫に最も愛された女性でした。他面、彼女の人生は運命の歯車が度々噛み合わない道のりでした。その最大の出来事は約束されている地にようやく入る旅の空で健康を害し、家族の中で一番早く地上の生涯を閉じたことです。私も社会人なりたての24才の頃、母が天に召された経験があって、愛する者に先立たれる悲哀を共感します。ヤコブや幼子のヨセフがどれ程心寂しく日々を過ごしたかは想像に余りあります。現在エルサレムにはラケルの墓の廟があり、息子たちを兵役に送り込んでいる母親たちが嘆き祈る場所として知られています。ラケルの生涯が子供を持つ母親の嘆きと重なり共感を覚えさせるからでしょう。その意味では、彼女は永遠の慰めの源となったと言えます。
ヤコブの二人目の妻はラケルの姉レアです。彼女は次々と男の子を産みます。そして、ラケルよりはるかに長寿です。ラケルの2人の子供と比べてはるかに勝ります。

2.神のスケール
①子供の数、生きた年数のどれをとっても
レアと比較すればラケルは敗者です。しかし長男ヨセフは創世記の後半の主人公です。ヨセフはエジプトの宰相となり、イスラエルを飢饉から救ったからです。浜の砂のようになると神がアブラハムに送られた約束の実現の始まりはこのヨセフの元ではじまったのです。子孫から王が出ると言われた最初の印もヨセフに見ることができます。
後年イスラエル諸族を統一国家に纏めた最初の王はサウロでラケルの次男ベニヤミン族出身の戦士でした。新約時代、書簡集の大部分の筆者サウロもまたベニヤミン族の出身です(ロマ書11:1)。これらの偉大な人物はすべてラケルの末裔です。こう考えると霊的世界史の中でラケルの果たした役割は十分偉大なのです。

②人生の価値を問う時、
量からのカウントのスケールが存在します。その対極に、価値と意味から測るスケールがあります。一人の親の愛は世界の富全体と比べるなら、けし粒ほどの量と言えるでしょう。でも、それを注がれた子供にとり地球より大きい意味を持っています。このスケールから測るとき、ラケルの生涯は極めて麗しく慕わしい生涯だったと言えるでしょう。神はこのスケールを持って、貴方の人生を見守られるのです。
時には、自分が小さく見え、大きな歴史の潮流の中では何の意味もないかに感じられる時があるかもしれません。でも、福音のために、人に与えた小さな言葉、とりなしの小さな祈り、主のためにささげる小さな時間、小さな捧げ物、これらが、主への愛を基としてなされているなら、それは、主の目には人が思うほど小さくはなく、思いを超えた意味を持っているのです。

③まだ若い頃
李一牧師にお願いして、ソウルの新星教会で宿泊研修をさせていただいた事があります。区域集会で、み言葉を語らせていただいたあと一人一人の婦人の頭に手を置いて予言的祈りで祝福を届けました。とても喜んでくださったのですが、後でその婦人たちを集めて李牧師が何か話されていました。当時、韓国人には戦争の被害意識が濃厚だった頃で、日本人の牧師に沢山の料理を出して歓迎するのにかなり抵抗があったはずです。彼らは私を主のしもべという立場のゆえに分け隔てなく歓迎してくれたことを感じていました。だから、李牧師が何を話されたのか気になり、お聞きしました。彼は、ある御言葉から、日本からきた名もなき牧師にしたことの意味を説いていたのでした。その御言葉は、それ以後の牧会生活の中でいつも大切にしてきた、心がけとして、今も生きています。この原則は豊かな喜びの実を結んでくれました。その、み言葉は小さな愛の大きな価値を教えています。小さな事を軽んじやすい私達への励ましとして、それを読んで祈りましょう。

●マタイ25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
●10:42 わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない。